2022/08/02 - 2022/08/02
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ちふゆさん
2022年8月2日(火)お昼過ぎ、JR越美北線(九頭竜線)を九頭竜湖駅で折り返して、一乗谷駅で下車する(下の写真1)。一乗谷駅は1960年に九頭竜線が勝原まで開通したと同時に開業した。一乗谷朝倉氏遺跡への最寄駅。当初から無人駅。
九頭竜湖方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅。2004年7月の豪雨災害で全線運休した後、約2ヶ月後に福井からこの駅までの運転が再開された際には、暫定的に出発信号が設置され、折り返し運転を行っていた。約3年後の全線運行再開時に出発信号は撤去された。
この辺りは現在は福井市だが、1971年までは足羽(あすわ)町だった。足羽は福井市周辺の川や山などにも使われている名前で、阿須波(安須波)が転じたものと考えられている。足羽神社の御祭神の一柱に阿須波神がおられ、地域の土着の神と推測されている。
足羽町は1960年に足羽村が町制施行した町で、1955年に6村が合併したのが足羽村。その村の一つが1889年に発足した一乗谷村だった。降り立った一乗谷駅周辺から南方にかけての区域。九頭竜線の開通は1960年なので一乗谷村時代にはまだ駅はなかったが…
一乗谷は戦国時代の大大名朝倉氏が本拠を置いた地として有名。足羽川の支流の一乗谷川が造った谷に城下町と朝倉氏および家臣の居館が置かれ、谷を望む標高473mの一乗城山に山城が築かれていた。
一乗谷は谷幅約500m、奥行き約3kmと狭小だが、福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、数km先に北陸道や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道、北陸道と連絡した朝倉街道などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置だった。
古くは単に一乗と呼ばれていた。一乗は仏教、とりわけ大乗仏教で、仏と成ることのできる唯一の教えを示す言葉。寺名に由来すると云う説もあるが、詳細は不明。室町時代に越前下向の公家や僧侶らが一乗谷と呼ぶようになり、その名が定着した。
鎌倉時代までは特に歴史に登場することもなかった場所だが、南北朝時代(1337-92年)に朝倉氏が本拠を置いたことから発展する。応仁の乱(1467-77年)により荒廃した京から多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難して来、飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉出身の豪族で、南北朝時代に主人の斯波(しば)氏に従って越前に入国し、15世紀前半に一乗谷から東郷にかけての福井平野の東南端部に勢力基盤を築く。その後、斯波氏や守護代であった甲斐氏を追放して越前国を平定し、前述のように栄華を誇った。しかし、天下統一の戦いの中で1573年に織田信長に敗れ、一乗谷を焼かれ、戦国5代朝倉義景は自刃。戦国大名としての朝倉氏は滅んだ。
その後、前波吉継(後に桂田長俊と改名)が新たな守護代職として一乗谷に館を構え、越前を統治したが、2年後の越前一向一揆で討ち取られた。信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄(後の福井市)に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
以後、唐門や庭石の一部を除いてほとんどの遺構は堆積する土砂に埋もれたが、1967年から発掘が開始され、地下から見事な庭園が発掘された。1971年には山城跡を含めた約278haが国の特別史跡に指定された。1991年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園が国の特別名勝の指定を受けた。1995年に発掘調査に基づき、当時の町並が約200mに渡り復元された。
一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7kmの城戸ノ内に、朝倉館をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群だった。
一乗城山の一乗谷城は15世紀前半には築かれていたと考えられている。一度も戦闘に使用されることなく廃城となった。現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っている。
北西の低い場所には小見放城という出城が築かれ、馬出しなどが設けられていた。なお、一乗谷の周辺の山峰にも、東に東郷槙山城、北に成願寺城、南に三峰城などの出城が築かれていた。
一乗谷駅から足羽川沿いに出て、北(上流)に進む。乗って来た九頭竜線の踏切から第1足羽川橋梁が見える(下の写真3)。2004年7月の福井豪雨でプレートガーダー橋の桁が流され、その後復旧されたトラス橋。
駅から10分ほど歩くと「特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡」の石碑が見えて来る。ここが下城戸跡。城戸とは谷を防御するため、城下町の南北に土塁を築いて城門を配したところで、京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれる。この間の約1.7kmの城戸ノ内に朝倉館や侍屋敷などがつくられ城下町の主要部を形成していた。
下城戸は東西の山が狭まった谷の入口に設けられた。幅18m、高さ5m、長さ20mの土塁が残っている。また、枡形虎口である門跡には重さ10トンを超える石が積み上げられており、中には40トンを超す巨石もある。また、城戸の外側には幅10m、深さ3mの堀があり、かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている。
下城戸から南に進むと、朝倉景鏡館跡。朝倉景鏡は朝倉最後の当主義景の従兄弟で、義景の家臣団の中でも筆頭の位置にいた。しかし、1573年の朝倉氏の滅亡につながる近江出陣には不参で、義景が刀禰坂の戦いで大敗して一乗谷に帰ると、大野に逃れ最後の決戦を勧めながら、最後は義景を裏切って自害に追い込んだ。
義景の首と妻子らを織田信長に際出、降伏が認められ自領安堵されたが、翌年、越前に侵攻した一向一揆衆と対立し、平泉寺白山神社での戦いで討ち死にした。
景鏡館は、当主義景についで立派なもので、外濠を構え、5000平方mの広さを誇っていた。その後の一乗谷川の氾濫で削られ遺構はほとんど残っていないが、多くの礎石や地鎮具、茶碗、一節切などが出土している。写真の左手に見える道路(県道18号線)が、敷地の真ん中を横切っている。
先に進み、左手の一乗谷史跡公園センターを過ぎる。このセンターには一乗谷レストラントがあり、ここでお昼にしたかったのだが、前から分かっていたが火曜定休。勘弁してくれよ~
センターを過ぎると右手に広がるのが平面復原(復元)地区。ここは計画的に区画された戦国城下町の跡で、幹線道路が南北に走り、西の山際には多くの寺院跡が発見されている。道路沿いには、武家屋敷の他、軒を接して紺屋や数珠屋、鋳物師、檜物師、刀研ぎ師など職人の家や坪庭のある医者の家が建ち並び、町屋を形成していた。一乗谷の中でも最も活気あふれる一画と思われる。
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復原町並に進むが、続く
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