王子・十条旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今回は、飛鳥山公園とJR京浜東北線の線路沿いにあるアジサイの名所の「飛鳥の小径」と飛鳥山周辺の散策でまわった観光スポットや名所旧跡についてリポートしたいと思います。「飛鳥の小径」の「アジサイ」の例年の見ごろは6月上旬から6月下旬まで楽しむことができますので、もしこの記事を読んだら是非訪れてみてください。私は、昨年の五月下旬に訪れましたが、結構花が咲き乱れていました。また、「飛鳥の小径」までのアクセスは、JR京浜東北線王子駅から歩いても1~2分程度の距離と非常に便利です。その他、王子駅周辺には、神社仏閣、公園、博物館、美術館など見るべきところがたくさんあります。下記のようなコースで飛鳥の小径と飛鳥山周辺を散策しました。特に、飛鳥山公園には、自然、歴史、アミュースメンと紹介するものが沢山あるので、「飛鳥山公園」詳細散策巡路と別記してあります。<br /><br />【「飛鳥の小径と飛鳥山周辺」の散策巡路等】<br />①《お札と切手の博物館》⇒②《洋紙発祥の碑》⇒③《王子稲荷神社》⇒④《「天女の笛」北村西望作》⇒⑤《王子神社》⇒⑥《音無橋》⇒⑦《北区立音無親水公園》⇒⑧《飛鳥の小径》⇒⑨《あすかパークレール》⇒⑩《飛鳥山公園》 ※「飛鳥山公園」は、名所・旧跡などたくさんあるので下記の巡路で散策しました。<br />【「飛鳥山公園」詳細散策巡路】<br />①《飛鳥山公共基準点》⇒②《明治維新百年植樹記念碑》⇒③《桜の賦の碑》⇒④《飛鳥舞台》⇒⑤《水上赤鳥の歌碑》⇒⑥《聖観音菩薩像》⇒⑦《飛鳥山碑》⇒⑧《明治三十七八年戦役記念碑》⇒⑨《都電・蒸気機関車の展示:都電6080号》⇒⑩《都電・蒸気機関車の展示:蒸気機関車D51853号機》⇒⑪《飛鳥山展望ひろば》⇒⑫《平和の女神像》<br /><br />01_《お札と切手の博物館》<br />最初に訪れたのは「お札と切手の博物館」です。「お札と切手の博物館」へのアクセスは、JR京浜東北線「王子駅」の中央口を出て、そのまま右方向に道なりに220mほど進むと「お札と切手の博物館」が右手にあります。「お札と切手の博物館」では、1Fと2Fが展示室になっています。まず、入口を入ると左手に「新日本銀行券の紹介」、「スタンホープ印刷機(重要文化財)」、「偽造防止技術の歴史―印刷・製紙技術」の順に展示コーナーがあります。そして1F中央には「Q&amp;Aコーナー・フォトスポット」があります。階段を上り2Fの展示室に進むと、「お札の移り変わり」、「世界のめずらしいお札」、「世界のお札」、「切手の移り変わり」、「世界の切手」、「旅券・官報・諸証券」、「国立印刷局の歴史」、「お札の芸術」の順で展示コーナーが設置されています。<br />最初の「新日本銀行券の紹介」コーナーは、令和6年(2024年)7月に発行予定の新日本銀行券について、デザインや偽造防止技術などを紹介するコーナーです。「渋沢栄一肖像」の日本銀行券F10000円見本券(表・裏)、「津田梅子肖像」の日本銀行券F5000円見本券(表・裏) 、「北里柴三郎肖像」の日本銀行券F1000円見本券(表・裏)が展示されていました。<br />次の「スタンホープ印刷機」は、江戸時代末期の嘉永3年(1850年)に、長崎の「オランダ商館長」から将軍「徳川家慶」に献上されたものです。当初は、「蕃書調所」で洋書の印刷に使用されていたそうで、近代印刷技術の伝来を象徴する遺物です。「スタンホープ印刷機」は、活版印刷に使用され、1時間に200~300枚の印刷が可能だったそうです。「スタンホープ印刷機」は、平成10年(1998年)6月30日に国の重要文化財に指定されました。<br />三番目の「偽造防止技術の歴史~印刷・製紙技術~」のコーナーでは、お札が作られた頃から偽造防止のために紙の製造や印刷をするうえで特殊な方法が使われていました。特に、お札を製造する過程で、原版彫刻技術として現在も使われているのが、「直刻凹版」という製法で、1ミリメートルの間に10本以上の線を彫刻できるほどの精密な技法だそうです。また、偽造防止のためにすかしが施されていますが、明治期に開発された「白黒すかし」は、光にすかすと明暗のグラデーションで絵柄を再現するそうです。これは、現在でもお札の偽造防止技術として用いられ、その精巧さは日本のお札の特徴となっています。ちなみに、この「白黒すかし」が最初に用いられたのは、明治22年(1889年) 発行の「日本銀行兌換銀券1円」です。<br />1F最後の「Q&amp;Aコーナー」コーナーでは、お札にまつわる豆知識をクイズ形式で楽しみながら学習できる展示スペースです。 「フォトスポット」は、新一万円券の肖像になった「渋沢栄一」がモデルとなっている東京都北区のキャラクター「しぶさわくん」の画像が撮影画像に現れるARフォトスポットとなっています。一人では、ちょっと撮影するのが恥ずかしい感じがしますね。<br />次に、2Fに上がるとまずは、「お札の移り変わり」コーナーです。「お札の移り変わり」コーナーでは、初期の世界のお札、江戸時代の日本のお札、そして近代から現代の日本のお札が展示されています。また、日本のお札が、明治・大正・昭和・平成と時系列順に展示されているのをみると、印刷技術の高度化や社会変化による図柄の変遷を理解することができます。ちなみに、お札が世界で初めて使われたのは中国で10世紀末のことだそうです。遅れること600年して、日本やヨーロッパでもお札が使われるようになったそうです。<br />次が、「世界のめずらしいお札」コーナーでは、製のお札、切手大のお札、ハイパーインフレーション時に発行された超高額面のお札など、めずらしいものが展示されています。特に、目を引いた珍しいお札は、お土産用の金箔製のお札ですね。このコーナーを見ると世界はつくづく広く、多種多様ですね。<br />そして、「世界のお札」コーナーでは、世界各国の全158種のお札が展示してありました。日本、アメリカ、イギリス、中国、欧州連合の通貨同盟の「主要5か国のお札」とそれ以外に大別して展示してありました。<br />そして、次の「切手の移り変わり」コーナーでは、歴代の日本切手と世界の珍しい切手が展示されていました。やはり、面積の小さな面に、精巧なデザインを美しく印刷するという技術には感服しました。私が子供の頃は、気ってブームが真っ盛りでした。学校に行く前に郵便局や切手を販売しているタバコ屋さんに並んで記念切手を買ったものです。それを考えるとSNSの発達により、手紙文化も衰退し、切手を買うために並んでいる列が見られないのは、寂しい気もします。そして、このコーナーで驚いたのは、常識では考えられないようなはがきよりも大きい世界最大の切手、におい付きの切手、紙以外で作られた切手があることでした。<br />続いても切手に関するコーナーです。「世界の切手」コーナーでは、世界の各地域や国で発行された切手が展示されています。このコーナーでは、世界地図の上に世界の国々で発行された280点もの切手が展示されています。各国の切手は、それぞれの特徴を表しているので、まるで世界一周の旅に出た気分ですね。<br />次が、「旅券・官報・諸証券」コーナーです。「旅券・官報・諸証券」コーナーでは、「国立印刷局」が製造してきた「旅券」(パスポート)、「官報」、「収入印紙」、「国債」の歴史が描かれていました。このコーナーで初めて知ったのですが、「国の公報紙」である「官報」は、土・日・祝日をのぞき毎日発行されているということです。そして、特に感激したことですが、大正12年(1923年)の関東大震災で印刷局の工場設備は全焼したのにもかかわらず、ロウソクの灯りの下で作成した手書きの官報が展示されていたことです。そのほか歴代のパスポートや今ではペーパーレス化された国債証書などが展示されていました。<br />次の「国立印刷局の歴史」コーナーでは、国立印刷局の歴史がパネルしてあります。ちなみに、「国立印刷局」は、明治4年(1871年) 7月27日に、「大蔵省紙幣司」として設立され、同年8月に「紙幣寮」と改称されました。主な業務は、紙幣の発行、交換、国立銀行(民間銀行)の認可などだったそうです。<br />そして、最後の「お札の芸術」コーナーです。「お札の芸術」コーナーは、お札の図柄の芸術的側面に焦点を当てています。近代的紙幣の製造技術を日本に伝えた「キヨッソーネ」による明治の元勲「木戸孝允」の肖像版画がありました。素晴らしい芸術性を感じました。次は、「洋紙発祥の碑」へ向かいます。<br /><br />02_《洋紙発祥の碑》<br />「お札と切手の博物館」からJR京浜東北線「王子駅」方向へ130mほど戻ると交番の手前に「リトルマーメイド王子店」があります。そこを左に曲がるとすぐ右手に「洋紙発祥の碑」があります。<br />「洋紙発祥の碑」は、「リトルマーメイド王子店」店舗脇にあり、さすが「渋沢栄一」関連の石碑だけあって立派なものでした。石碑だけかと思っていたら、ステンレス製の説明板や「洋紙発祥」の歴史のパネルも「リトルマーメイド王子店」の壁面を飾っていました。また、「洋紙発祥の碑」の台座は、「紙の歴史」の中の羊皮紙にちなみ、羊のデザインの大理石造りでした。<br />「洋紙発祥の碑」は、昭和24年(1949年)に「王子製紙」が3分割され、その年4後の昭和28年(1953年)に「十條製紙」が建立したものです。「王子製紙」の前身である「抄紙会社」は、明治5年(1872年)に「渋沢栄一」の発議により、その歴史の幕を開けることとなりました。大蔵省紙幣寮に認可を申請し、翌明治6年(1873年)に許可がおり、当時、第一国立銀行頭取であった「渋沢栄一」が社長となり本格的に始動しました。明治26年(1893年)に名称を「王子製紙株式会社」と改称しました。昭和24年(1949年)に、占領政策により「苫小牧」・「十条」・「本州」の3社に分割されました。当初、「洋紙発祥の碑」は、京浜東北線の沿線に設置されましたが、「紙の博物館」の旧館の敷地内に移転しました。そして、さらに「紙の博物館」の移転に伴い現在の地に移転しました。<br />次は、「王子稲荷神社」へ向かいます。<br /><br />03_《王子稲荷神社》<br />「洋紙発祥の碑」から「王子稲荷神社」までは、徒歩9分650mほどの距離のところにあります。「洋紙発祥の碑」から戻るとすぐ横断歩道がありますので、渡りJR京浜東北線「王子駅」北口まで戻ります。JR京浜東北線「王子駅」北口を出て右方向に高架沿いを道なりに160mほど進みます。最初の十字路の信号がありますのでそれを渡りさらに、290mほど進むと左手に、「いなり幼稚園」があります。「王子稲荷神社」に併設されている「いなり幼稚園」が開園しているウィークデーは、左手前にある急勾配の「王子稲荷の坂」を50mほど上ると右手に「王子稲荷神社」の「石鳥居」があり、そこから「王子稲荷神社」に参拝します。「いなり幼稚園」が休園している日は、「いなり幼稚園」の先に「表門」があるのでそこから参拝します。「表門」を入ると「石鳥居」があり23段の階段が待ち構えています。今回の説明は、「表門」からのルートで説明します。<br />最初に、「王子稲荷神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「王子稲荷神社」は、東京都北区岸町にある神社で、康平年中(1058年~1065年)に征夷大将軍「源頼義」により「関東稲荷総司」の称号を授かった格式ある神社です。また、「王子稲荷神社」は、関東一帯の稲荷神社のトップにあたる「関八州の稲荷の頭領」や「東国三十三国稲荷総司」と称されています。「王子稲荷神社」は、小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められ、現在の「社殿」は11代将軍「徳川家斉」により新規寄進された由緒あるものです。「王子稲荷神社」には、大晦日に稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあるそうです。そして、年末に行われる「王子狐の行列」は風物詩となっています。また、毎年2月の「午の日」に開かれる「凧市」は、たびたび大火にみまわれた江戸庶民たちが「凧は風を切る」として火事除けの縁起をかつぎ、今もなお引き継がれているそうです。そして、昭和9年(1934年)に国の認定重要美術品に指定されている「額面著色鬼女図」や「谷文晁」の板絵著色の「龍図」を所蔵しています。また、境内にある「狐の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなっています。ちなみに、「額面著色鬼女図」は、天保11年(1840年)に江戸の「住吉明徳講」(東京砂糖元売商組合の祖)が「柴田是真」に依頼して、「住吉明徳講」の守護神と崇拝するこの「王子稲荷神社」に奉納した傑作図です。<br />それでは、さっそく「王子稲荷神社」を参拝したいと思います。「表門」の左側には、昭和9年(1934年)に国の認定重要美術品に指定されている「額面著色鬼女図」の説明板があります。「表門」をくぐると正面には、「鳥居」と石段があります。その右手前には、弁天様が祀られている末社の「市杵島神社」があります。ちなみに、「市杵島神社」はもともと宗像三女神の市杵島姫神を主祭神とする神社です。「狛犬」が「市杵島神社」にありますが、300年以上前に奉納されたものだそうです。次に、23段の石段をのぼり、境内に入ります。右手に「手水舎」と「社務所」があり、もちろん正面は「拝殿」です。まず、「手水舎」でお清めの儀式を行い、いざ、「拝殿」で参拝するのですが、その時目に入ってくるのが、大きな稲紋が施されている賽銭箱で、下部中央に王子の「王」の字が書かれているのが特徴的です。また、「王子稲荷神社」は、靴を脱いで昇殿し、中でお参りすることができる珍しい神社の一つです。中に入り天井を見上げると鳳凰などさまざまな「天井絵」がありました。なんか得した気分になりました。<br />「拝殿」の右横を通り「鳥居」をくぐると、左手に「本宮」があります。実は、この小さな社が昔から続く本来の「王子稲荷」だそうです。「本宮」の右横にある赤い鳥居をくぐってさらに先に進むと、「王子稲荷神社」の末社である「三社合祭社」があります。三社とは、「北村稲荷神社」、「亀山稲荷神社」、「嬉野森稲荷神社」のことです。この末社の左横には、「願掛け石」があります。ちなみに、この「願掛け石」は、願い事を思い浮かべながら石を持ち上げて、軽々と持ち上げられたらその願いはかないやすいし、反対に意外と重いなと感じたら叶えるために努力が必要という言い伝えがあるそうです。また、子供用と思われる小さ目の「願掛け石」も鎮座していました。「願掛け石」の左側には、階段があります。階段を上ると落語「王子の狐」の舞台にもなっている「狐の穴跡」があります。昔はこの穴に狐が住んでいて、人々の信仰の対象になっていたそう。多くの御利益を授かることのできるパワースポットだそうです。そして、最後になりますが、赤坂にある「乃木神社」の境内には、「王子稲荷神社」から勧請された「赤坂王子稲荷神社」があります。「赤坂王子稲荷神社」は、昭和37年(1962年)に創建されました。何故かというと「乃木希典」将軍と静子夫人が 「王子稲荷神社」は月参りするほど「王子稲荷神社」を崇敬していたことが創建の理由だそうです。<br />「王子稲荷神社」の次は、「北区役所第五庁舎」の前にある「天女の笛」北村西望作を鑑賞します。<br /><br />04_「天女の笛」北村西望作<br />「王子稲荷神社」から「天女の笛」北村西望作までは、徒歩7分500mほどの距離にあります。「王子稲荷神社」の「王子稲荷の坂」を上り170mほど進むと「旧岩槻街道」(都道455号)にでますので、横断歩道をわたり、左方向に320mほど進むと「北区役所第五庁舎」の前に「天女の笛」北村西望作があります。「天女の笛像」のすぐ下の所に解説板があり、それには「天女の笛に題す」として次のように記載されていました。「耳を澄ますとどこからともなく、何とも言えない音がきこえること。あれは世に言う天女の笛ではあるまいか。」と書かれていました。「北村西望」は、長崎県出身の彫刻家で、大正元年(1912年)に年東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科を首席で卒業後し、北区西ヶ原のアトリエで数々の名作を製作しました。また、「北村西望」は、長崎県の「平和祈念像」制作者としても有名です。昭和56年(1981年)に北区名誉区民になりました。その関係で、北区には「北村西望」が何箇所かあります。私が今回訪れただけでも、「北とぴあ」の「平和記念像」、「飛鳥山公園」の「平和の女神」がありました。<br />「天女の笛」北村西望作の次は、道路の反対側にある東京十社のうちの一つである「王子神社」へ向かいます。<br /><br />05_《王子神社》<br />「天女の笛」北村西望作から「王子神社」までは徒歩1分90mほどの距離にあります。50mほど進むと横断歩道があり渡れば「王子神社」です。では、最初に「王子神社」の歴史を紐解いてみたいと思います。「王子神社」の創建は不詳ですが、平安時代の11世紀に「源義家」の奥州征伐のさいに、「王子神社」の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。「王子神社」は、元亨2年(1322年)に、領主「豊島氏」が「紀州熊野三社」より「王子大神」をお迎えして、改めて「若一王子宮」をまつり、熊野にならって景観を整えたといわれます。それ以来、この地は「王子」という地名となり、神社下を流れる「石神井川」もこの付近では特に「音無川」と呼ばれています。後に江戸幕府将軍「徳川家康」は社領200石を寄進し、将軍家祈願所と定め、歴代の将軍も表敬し、八代将軍「徳川吉宗」は元文2年(1737年)に、飛鳥山を寄進し、「王子権現」の名と「飛鳥山の花見」は江戸名所として知られるようになったそうです。ちなみに、「王子神社」は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。「王子神社」は、紀州(和歌山県)の「熊野三社権現」(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、世界遺産にも登録された「熊野古道」には多くの「王子神」が祀られていたといわれます。<br />では、「王子神社」の「大鳥居」を潜り境内に入ってみたいと思います。「王子神社」の「大鳥居」は都内でも有数の大きさの鳥居です。「高さ」が約8.6mあり、茨城県稲田産の御影石を使った石造りの鳥居です。「大鳥居」は、東京大空襲で焼失した新門の場所に建立され、邪気から境内神域を守っています。<br />次に、「大鳥居」を潜るとすぐ左手に、「本社神輿・神輿蔵」があります。平成29年(2017年)に「本社神輿」が奉納されました。台輪は三尺、屋根は王子神社の姿を模した唐破楓で、重量(相棒含む)約550㎏、胴には「王子神社」伝来の「田楽舞」の彫刻がされています。令和元年(2019年)の「例大祭」に天皇陛下御即位を奉祝して初の本社神輿渡御が行われました。「神輿蔵」は、令和元年(2019年)に完成し、神輿が見えるように正面と側面がガラス張りとなっています。正面から「本社神輿・神輿蔵」の全景をカメラに収めたいのですが、正面に立つとガラス張りに自分の姿が写ってしまいますので注意してください。<br />さらに、先に続く参道を進むと「拝殿」が見えてきます。「拝殿」の前には、一対の「狛犬」があります。この「狛犬」は、「阿吽」の形態とともに「子育て狛犬」として建立されています。「本殿」向かって子どもをあやす鞠を持っている右側の「狛犬」が父親で、向かって左側の狛犬が母親で子どもを守っています。ちなみに、「阿吽」は宗教的な像にも取り入れられ、口を開けた「阿形」と口を閉じた「吽形」の一対の像は、神社の狛犬などに見られます。<br />「拝殿」で参拝を済ませ、「拝殿」に向かって右側には、昭和14年(1939年)3月に東京都の「天然記念物」に指定された「大イチョウ」があります。「王子神社」の創建当時からあると考えられ、樹齢は600年とも言われています。戦災で社殿を始め、境内の殆どを焼失する中で唯一生き残った貴重な「大イチョウ」です。雄の木ですのでギンナンは生りませんが、秋の紅葉は見事です。<br />次は、「拝殿」に向かって左側に進むと末社の「関神社」があります。「関神社」は、全国でも珍しい「髪の祖神」です。「関神社」の歴史を紐解いてみると、関神社」は「関蝉丸神社」の御神徳を敬仰する人たちが「かもじ業者」を中心として、江戸時代に「王子神社」境内に祀ったことがその始まりです。「御祭神」は百人一首でも有名な「蝉丸公」で、姉「逆髪姫」のために髢・鬘を作ったという伝説により、髢、鬘や床山業界の方々の信仰厚い神社です。また「蝉丸公」は琵琶の名手でもあり「音曲諸芸道の祖神」としても崇敬されています。戦災で焼失したものを、髢、鬘、床山、舞踊、演劇などの関係業界の尽力により、昭和34年(1959年)に再建されました。境内には毛髪報恩のための「毛塚」も建立されています。「毛塚」は、毛髪報恩と供養のために昭和36年(1961年)5月24日に建立されました。<br />「王子神社」では、天然記念物の大イチョウが圧巻で、全国でも珍しい「髪の祖神」もあります。しかし、何よりも駅から至近距離にあり、人通りも多い場所ですが、木々に囲まれた境内に一歩足を踏み入れると、ホッとした気分になり、心が安らぎました。<br />その他、「王子神社」の例大祭「槍祭」も有名です。「王子神社」の例大祭は「槍祭」とも呼ばれ、祭礼に際し「御槍」という古伝の「御守護」が出るためです。後利益は、開運除災・萬願成就と言われています。本祭に行われる神輿の大集合は、宮出し行事のみですが、多くの神輿が次々に鳥居をくぐるさまは圧巻の光景だそうです。また、北区指定無形民俗文化財民俗芸能「王子田楽」を奉納する8月の祭礼や、12月の熊手市なども行われます。<br />「王子神社」の次は、「石神井川」に架かる「音無橋」へ向かいます。<br /><br />06_《音無橋》<br />「王子神社」から「音無橋」までは、大鳥居から徒歩1分90mほどです。「音無橋」は、東京都北区のJR京浜東北線「王子駅」からほど近いところにある「石神井川」に架かる長さ約50m、幅員約18m、「3径間鉄筋コンクリート固定アーチ橋」です。あたり一帯は「音無渓谷」と呼ばれ、昭和5年(1930年)に谷で分断された飛鳥山と対岸をつなぐために架けられたのが「音無橋」です。これにより王子町と滝野川町を繋ぎ、交通の便が図られました。そして、昭和5年(1930年)に架けられた「音無橋」の老朽化に伴い昭和63年(1988年)に大改修されたもので,バルコ二ーは改修時に増設されました。関東大震災後の復興事業では、都心部の橋は、景観を重視して美しい橋が多く架けられました。当時の王子町は東京市でないため復興橋梁には含まれていませんが、この付近は,「飛鳥山」の花見や滝野川の紅葉狩りで賑わう工リアなので,真下の「音無川親水公園」との調和を図りながら,その風景を見られることを意図した橋です。ちなみに、「音無川」の異名を持つ「石神井川」ですが、その名は、和歌山県を流れる「熊野川」に注ぐ一支流の「音無川」に由来しているそうです。「音無橋」の素晴らしさを体験できるのは、「音無川親水公園」から眺めることでしょう。また、サクラや紅葉の時期には、橋の上から下を眺めるとピンクや赤の絨毯で埋め尽くされる絶景でしょう。<br />次は、「音無橋」の下にある「北区立音無親水公園」へ向かいます。<br /><br />07_《北区立音無親水公園》<br />「音無橋」の北詰・西詰(王子神社寄り)に「北区立音無親水公園」へ下りる階段があります。「音無親水公園」は、JR京浜東北線・東京メトロ南北線「王子駅」に隣接する公園で、小平市の東部を源にして「隅田川」に注ぐ「石神井川」の旧流路に整備された公園です。「石神井川」は、この一帯付近では、昔から「音無川」と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜、夏の青楓と滝あび、秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。戦後の都市化で、石神井川も生活排水などで汚れた川となりました。また、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和33年(1958年)9月の「狩野川台風」で一帯の渓谷が破壊されたことを受けて始まった改修工事によって川は「飛鳥山公園」の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行なわれました。そして、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」という地域住民の要望で「音無親水公園」ができ、現在に至っています。「音無親水公園」は、全国の都市公園の模範たる公園として「日本の都市公園100選」に選ばれています。都内では、「国営昭和記念公園」、「日比谷公園」、「上野公園」、「水元公園」、「代々木公園」が選定されていて、園内には記念碑があります。「音無親水公園」施設区域を流れる水は、ろ過装置による循環水を使用し、夏は子供たちが水遊びも楽しむことができます。「権現の滝」は、神仏習合時代の「王子権現」(現在の「王子神社」)側の河岸段丘から落ちる滝で、「弁天の滝」、「不動の滝」、「稲荷の滝」、「大工の滝」、「見晴らしの滝」、「名主の滝」とともに「王子七滝」に数えられていました。しかし、現存するのは。「名主の滝公園内」の「名主の滝」のみとなってしまいました。<br />私は、「舟串橋」の脇にある階段を下りて、「王子駅」に戻るような感じで「水車」がある方向に足を進めました。川の途中には、何箇所か飛び石が設置されているので、直ぐに対岸に渡ることができます。「王子駅」の親水公園口前の橋のところまで行き、Uターンです。「舟串橋」の下を通り、アーチ型の「音無橋」へ向かいます。川のせせらぎを、滝を模した水の落ちる様子を見ると、本当にここが駅に至近距離の都会の真ん中にある公園とは信じることができませんでした。あたかもどこか山奥の渓谷にいるような感じでした。公園内には、ソメイヨシノ21本植樹されているということで、残念ながら桜は咲いていませんが、下から眺める風景を想像しただけでワクワクします。今度は、「飛鳥山公園」の桜に合わせてここへも来てみたいと思います。<br />次は、今回の散策の中でのメーンの「飛鳥の小径」へ向かいます。<br /><br />08_《飛鳥の小径》<br />「北区立音無親水公園」から「飛鳥の小径」までは、徒歩6分400mほどの距離にあります。「北区立音無親水公園」のすぐ近くにあるのですが、横断歩道がないので、「王子駅」北口までもどり歩道橋を渡り「王子駅」中央口方面へ向かうと「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」があり、その手前にJR京浜東北線沿いの細い道があります。これが「飛鳥の小径」です。<br />「飛鳥の小径」は、京浜東北線の「王子駅」から「上中里駅」を結んでいます。「飛鳥の小径」は、隠れた紫陽花の絶景スポットとして知られています。5月31日現在の開花状況は、咲き初めでした。満開の時期は混むので、あえて今日訪れてみました。「王子駅」側の「アジサイ」は、ほとんど咲いていませんでしたが、「王子駅」南口から通じる飛鳥山下跨線人道橋を境に、「上中里駅」に行くにつれて、満開にほど遠い状態ですが、徐々に色とりどりのあじさいが顔を出し始め、結構咲いて、十分アジサイの美しさを堪能することができました。「飛鳥の小径」の「アジサイ」はなんと約1,300株、50種類以上の紫陽花が群生しているそうです。「飛鳥山公園」の山裾にある「飛鳥の小径」に沿って約350メートルに渡って「アジサイ」が植えられています。「アジサイ」の例年の見ごろは6月上旬から6月下旬まで楽しむことができます。注意点ですが、「飛鳥の小径」は、大人2人分ほどの幅しかない小さな道となっており、当然のことながら、「アジサイ」の見ごろの時期には散策や撮影に訪れた人で大変にぎわっています。そのため、まっすぐ歩くと片道の所要時間はわずか10分足らずですが、撮影したり、陸橋を上ったりすると、往復で30~40分はかかってしまいます。無理してアジサイが満開の時に行くより、早めに行くことをお薦めします。<br />次は、先ほどの「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」まで戻ります。<br /><br />09_《あすかパークレール》<br />アジサイの美しさを堪能した後は、「あすかパークレール」に乗り「飛鳥山公園」の山頂へ向かいます。<br />「飛鳥山公園」への第一歩は、園内にある「あすかパークレールアスカルゴ」からスタートするのをお薦めします。「飛鳥山公園入口駅」から「飛鳥山山頂駅」まで、わずか2分の乗車時間ですが、家族連れには最適です。また、大人も童心に返って幼き日に遊園地で乗った乗り物の記憶が蘇ってくるはずです。まさに、大人から子供まで楽しむことができます。「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」へのアクセスは、JR京浜東北線「王子駅」中央口の出口を出て、左方向に70mほど直進すると目の前に「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」があります。「あすかパークレール」の山頂駅を降りると、正面には「飛鳥山公園の案内図」があります。ここでどのような巡路で「飛鳥山公園」を見て回るか順番を自分で決めます。やはり、「飛鳥山公園」の歴史を詳しく知りたいので、点在する石碑などを見て回る巡路にしてみました。<br />「アスカルゴ」は、平成21年(2009年)7月に、高齢者、障害者、ベビーカー利用者でも気軽に登れる自走式モノレール方式の斜行昇降施設として、「あすかパークレール」が誕生しました。片道2分、眺望抜群のモノレール「アスカルゴ」で山頂へ行くことができます。車両がかたつむりに似ていることから、区民の公募によって「アスカルゴ」という愛称が付けられ、子どもから大人まで人気があります。「飛鳥山公園」は、「飛鳥山」の山頂に位置しています。もちろん山頂までの高さも余りないので下から歩いて行くこともできますが、せっかくなのでこちらの「飛鳥山公園」の名物である「アスカルゴ」に乗って行くのをお薦めします。恥ずかしがらずに、是非チャレンジしてください。<br />① 運転時間…10:00から16:00まで(強風等悪天候の場合は、運転を中止することがあります。)<br />② 乗車料金…無料 ③ 運休日…12月29日から1月3日まで <br />④ 点検日…毎月第一木曜日(4月のみ第三木曜日)10:00~12:00まで運行停止<br />⑤ 乗降場…王子駅中央口を左折するとすぐにある「飛鳥山公園入口」と山頂に「飛鳥山山頂」があります。<br />《あすかパークレールの概要》<br />①形式…自走式モノレール ②延長…レール延長48メートル、傾斜角度24度<br />③定員…16名(いす席6名、立ち席10名) ④走行速度…毎分30メートル(片道約2分)<br />⑤標高差…17.4メートル<br />⑥運行方法…無人運転(押しボタン運転方式)、運転中は管理人が常駐しています。<br />⑦安心安全…防犯カメラ(車内1基、乗り場2基)、インターフォン(車内)<br />⑧バリアフリー…車いす、ベビーカーでの利用ができます。<br />《アスカルゴの乗車方法》<br />「アスカルゴ」の乗車方法、エレベーターに乗る要領なので、誰でも簡単に操作できます。運転中は管理人が常駐しているので安心です。そして、驚いたことに車内は外見よりずっと広く、定員は、16名で、しかも、車いす、ベビーカーでの利用もできます。地上との標高差17.4メートルを、分速30メートルで2分、傾斜角度24度でゆっくり登っていきます。車窓からは眼下に周辺の景色が広がり、テンションが上がります。それともう一つのポイントは、冷暖房を完備しているということです。<br />「あすかパークレール」の山頂駅を降り、次は、「飛鳥山公園」の名所・旧跡を巡ります。最初は、「飛鳥山公共基準点」です。<br /><br />10_《飛鳥山公共基準点(飛鳥山公園)》<br />「あすかパークレール」の山頂駅を降りると、徒歩で1分32mのところにあるのが、「飛鳥山公共基準点」です。「飛鳥山公園」は、東京一低い山「飛鳥山」の山頂に位置する公園です。その根拠となるのが、「飛鳥山公共基準点」です。平成18年(2006年)に、北区が実際に測量したところ、今まで、東京都で一番低い山と言われていた港区の「愛宕山(標高25.7m)」よりも低いと確認されたそうです。その標高は25.4mと30cmほど「愛宕山」よりも低くなっています。それを示すのが「飛鳥山公共基準点」で、「飛鳥山公園の案内図」のちょうど裏あたりに、「飛鳥山公共基準点」のモニュメントが設置されています。「飛鳥山」は、「愛宕山」より低いので、北区では「東京都内で一番低い山であることを確認した」として、国土地理院へ地形図への記載を申請したのですが、残念ながら今のところ承認されていません。<br /><br />11_《明治維新百年植樹記念碑(飛鳥山公園)》<br />「明治維新百年植樹記念碑」は、「飛鳥山公共基準点」のモニュメントのすぐ先にあります。近くには、「桜の賦の碑」もあります。明治維新百年を記念し、都区内のさまざまな公園で植樹が行われました。「飛鳥山公園」には、この活動の記念として「明治維新百年植樹記念碑」が、昭和43年(1968年)に建立されました。<br /><br />12_《象山先生桜賦の碑(飛鳥山公園)》<br />「明治維新百年植樹記念碑」の先の道は二又に分かれています。それを左方向に進むと「櫻の賦の碑」があります。「櫻の賦の碑」は、「佐久間象山」が50歳(万延元年:1860年)の作である「桜の賦」の遺墨をもとに門弟「勝海舟」の意により、作製されました。「櫻の賦の碑」は、「北沢正誠」の文で書は「日下部鳴鶴」です。そして、碑には、明治14年(1878年)11月15日と刻まれています。「佐久間象山」は、松代藩士の幕末の兵学者、朱子学者、思想家で、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えたのがこの「桜の賦」です。「佐久間象山」は、西洋の兵学、蘭学を学び江戸に塾を開き、「勝海舟」、「吉田松陰」、「坂本竜馬」など多くの人材を輩出した。「徳川慶喜」に公武合体と開国を説きました。残念ながら「佐久間象山」は、尊皇攘夷論者によって京都で刺され、元治元年(1864年)7月11日54歳でその生涯を閉じました。また、「櫻の賦の碑」の下には、「佐久間象山」が暗殺された時に着けていた血染めの「挿袋」(今でいうポシェット)が「挿袋石室」に埋蔵されています。ちなみに、賦とは、古代中国の韻文における文体の一つことです。<br /><br />12_《飛鳥舞台(飛鳥山公園)》<br />「櫻の賦の碑」の先に、下へ降りる階段がありますので、それをおりると「飛鳥舞台」があります。飛鳥舞台は能舞台をイメージしたヒノキ造りの野外ステージです。「飛鳥舞台」の北側のすぐそばには「多目的広場」もあります。「飛鳥舞台」は、能舞台をイメージしたヒノキ造りの野外ステージです。観客席は階段状になっていて、見やすく、座りやすく工夫されています。「飛鳥舞台」の中央には、一本松が植えられ、いかにも能舞台らしい雰囲気を醸し出しています。そして、「飛鳥舞台」は、北区に申請すれば、誰でも利用することができます。<br /><br />13_《水上赤鳥の歌碑(飛鳥山公園)》<br />「飛鳥舞台」の前にある階段をのぼり再び上に上がります。「水上赤鳥の歌碑」は、「水上赤鳥」が、「飛鳥山公園」について詠んだ歌の碑で、昭和54年(1979年)11月に「ぬはり社友」によって建立されました。「水上赤鳥の歌碑」には、「そのかみの山をおほひし花ふぶきまぼりしにしてあがる噴水 赤鳥」と刻まれています。<br /><br />14_《聖観音菩薩像(飛鳥山公園)》<br />「水上赤鳥の歌碑」のさきにある「聖観音菩薩像」は、彫刻家「赤堀信平」の作で、世界平和と人類の幸福を願って製作され、昭和51年(1976年)6年に北区に寄贈されました。彫刻家「赤堀信平」は、明治32年(1899年)に福島県で生まれ、東京美術学校(現東京芸大)を卒業後に「朝倉文夫」に師事し、木彫、ブロンズを制作、肖像彫刻などにすぐれた作品を残しました。<br /><br />15_《飛鳥山碑(飛鳥山公園)》<br />「聖観音菩薩像」を進むとすぐ左手に、江戸時代には飛鳥山のランドマークとなった「飛鳥山碑」があります。「飛鳥山碑」は、八代将軍「徳川吉宗」による飛鳥山における事績を顕彰するため、元文2年(1737年)に、王子権現社別当金輪寺の住職の「宥衛」によって建立された碑です。享保5年(1720年)から享保6年(1721年)にかけて、「飛鳥山」に桜が植えられ、享保18年(1733年)には桜が根付いて花を開かせるようになり、水茶屋が10ヶ所建てられ、江戸市民の行楽の場となりました。大正8年(大正9年)3月に、「東京都指定有形文化財」になりました。ちなみに、「飛鳥山碑」は、「高さ」が218.5cm、「幅」が215cm、「厚さ」が34.5cmで、元享年間に豊島氏が王子権現を勧請したことが記されています。続いて、王子、飛鳥山、音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されています。そして、最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記されています。<br /><br />16_《明治三十七八年戦役記念碑(飛鳥山公園)》<br />「飛鳥山碑」の次は、「明治三十七八年戦役記念碑」です。「明治三十七八年戦役記念碑」は、「飛鳥山碑」のすぐ先の左手にあります。「明治三十七八年戦役記念碑」は、明治37年(1904年)から明治38年(1905年)の日露戦争の戦役に当時の北豊島郡内から出征した約2000人の軍人に対し、明治39年(1906年)に建立された記念碑です。ちなみに、「日露戦争」は通称で、当時の政府は公式には「明治三十七八年戦役」という言葉を使っていました。そして、北区は、陸軍の後方支援施設が集中していたそうです。<br /><br />17_《都電・蒸気機関車の展示:都電6080号(飛鳥山公園)》<br />次は、「都電・蒸気機関車の展示」です。「都電・蒸気機関車の展示」は「明治三十七八年戦役記念碑」を少し行ったところに「飛鳥山公園児童エリア」が広がっていて、「児童エリア」入口前に、引退した「都電」や「蒸気機関車」設置され、展示車両にも乗ることができます。「都電6080号」は昭和53年(1978年)4月まで「飛鳥山公園」横の「荒川線」(都電さくらトラム)を走っていた車両で、木造の車内がノスタルジックな車両です。令和2年(2020年)11月に再塗装を施し、リニューアルしました。そして、きれいに保存された車内は、木造の床や椅子に温かみがあって、まるで当時にタイムスリップしたよう錯覚にとらわれます。車両の先頭と後方には運転台があり、ハンドルを触って遊ぶことができます。<br /><br />18_《都電・蒸気機関車の展示:蒸気機関車D51853号機(飛鳥山公園)》<br />「都電6080号」の隣にあるのが、「蒸気機関車D51853号機」で存在感があり、ひときわ目立っていました。「蒸気機関車D51853号機」は、昭和18年(1943年)に製造され、昭和48年(1972年)6月まで煙を吹き出し、走っていた車両です。操縦席には、たくさんの機器があり、本物の機関車の運転士になった気分にもなります。窓から顔を出し、下を見下ろすと驚くほどの高さがあり、蒸気機関車のスケールの大きさを体感できます。動輪や主連棒、空気圧縮機など、蒸気機関車の仕組みを間近で見ることができます。<br /><br />19_《飛鳥山展望ひろば(飛鳥山公園)》<br />「都電・蒸気機関車の展示」から「飛鳥山展望ひろば」へ向かいます。飛鳥山公園の「展望ひろば」の「さくら亭」横の展望デッキより新幹線(東北新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、上越新幹線、北陸新幹線)を見ることができます。新幹線や在来線、貨物列車などの列車が見えるスポットもあり、鉄道ファンにもたまらない公園です。私も訪れた当日に、運よく二種類の新幹線の走る姿を見ることができました。そして、「あすかパークレール:アスカルゴ」の反対側にある王子の街の風景も堪能できました。<br /><br />20_《「平和の女神」北村西望作(飛鳥山公園)》<br />「北区飛鳥山博物館」と「渋沢資料館」の中間あたり右手に「平和の女神」北村西望作があります。「平和の女神像」は、長崎市「平和記念像」の作者として有名な北村西望氏の作品です。この像は、日本と中国の国交正常化を記念し、人類の理想である平和と幸福を願って、北区民有志を中心とした「日中友好・世界平和祈念“平和の女神像”建立の会」と北区、北区議会、北区自治会連合会、区内企業、関係団体等によって 昭和49年(1974年)に建立されました。ちなみに、彫刻家「北村西望」は、明治17年(1884年)に長崎県生まれました。大正元年(1912年)に年東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科を首席で卒業後し、北区西ヶ原のアトリエで数々の名作を製作しました。昭和56年(1981年)に「飛鳥山公園」のある北区名誉区民になりました。<br /><br />結構いろいろと回りました。普段見過ごしがちな石碑などもその背景を調べてみると勉強になりますね。次回は、飛鳥山公園の3つの博物館と渋沢栄一の足跡を求めて、再度飛鳥山公園を散策してみたいと思います。<br />

王子から駒込へのプロムナード:【第一回目】アジサイの咲き誇る飛鳥の小径と飛鳥山周辺を巡って

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2023/05/31 - 2023/05/31

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2023/05/31

  • 北千住駅(09:00発:東京メトロ千代田線)⇒西日暮里駅(JR京浜東北線乗換)⇒王子駅

この旅行記スケジュールを元に

今回は、飛鳥山公園とJR京浜東北線の線路沿いにあるアジサイの名所の「飛鳥の小径」と飛鳥山周辺の散策でまわった観光スポットや名所旧跡についてリポートしたいと思います。「飛鳥の小径」の「アジサイ」の例年の見ごろは6月上旬から6月下旬まで楽しむことができますので、もしこの記事を読んだら是非訪れてみてください。私は、昨年の五月下旬に訪れましたが、結構花が咲き乱れていました。また、「飛鳥の小径」までのアクセスは、JR京浜東北線王子駅から歩いても1~2分程度の距離と非常に便利です。その他、王子駅周辺には、神社仏閣、公園、博物館、美術館など見るべきところがたくさんあります。下記のようなコースで飛鳥の小径と飛鳥山周辺を散策しました。特に、飛鳥山公園には、自然、歴史、アミュースメンと紹介するものが沢山あるので、「飛鳥山公園」詳細散策巡路と別記してあります。

【「飛鳥の小径と飛鳥山周辺」の散策巡路等】
①《お札と切手の博物館》⇒②《洋紙発祥の碑》⇒③《王子稲荷神社》⇒④《「天女の笛」北村西望作》⇒⑤《王子神社》⇒⑥《音無橋》⇒⑦《北区立音無親水公園》⇒⑧《飛鳥の小径》⇒⑨《あすかパークレール》⇒⑩《飛鳥山公園》 ※「飛鳥山公園」は、名所・旧跡などたくさんあるので下記の巡路で散策しました。
【「飛鳥山公園」詳細散策巡路】
①《飛鳥山公共基準点》⇒②《明治維新百年植樹記念碑》⇒③《桜の賦の碑》⇒④《飛鳥舞台》⇒⑤《水上赤鳥の歌碑》⇒⑥《聖観音菩薩像》⇒⑦《飛鳥山碑》⇒⑧《明治三十七八年戦役記念碑》⇒⑨《都電・蒸気機関車の展示:都電6080号》⇒⑩《都電・蒸気機関車の展示:蒸気機関車D51853号機》⇒⑪《飛鳥山展望ひろば》⇒⑫《平和の女神像》

01_《お札と切手の博物館》
最初に訪れたのは「お札と切手の博物館」です。「お札と切手の博物館」へのアクセスは、JR京浜東北線「王子駅」の中央口を出て、そのまま右方向に道なりに220mほど進むと「お札と切手の博物館」が右手にあります。「お札と切手の博物館」では、1Fと2Fが展示室になっています。まず、入口を入ると左手に「新日本銀行券の紹介」、「スタンホープ印刷機(重要文化財)」、「偽造防止技術の歴史―印刷・製紙技術」の順に展示コーナーがあります。そして1F中央には「Q&Aコーナー・フォトスポット」があります。階段を上り2Fの展示室に進むと、「お札の移り変わり」、「世界のめずらしいお札」、「世界のお札」、「切手の移り変わり」、「世界の切手」、「旅券・官報・諸証券」、「国立印刷局の歴史」、「お札の芸術」の順で展示コーナーが設置されています。
最初の「新日本銀行券の紹介」コーナーは、令和6年(2024年)7月に発行予定の新日本銀行券について、デザインや偽造防止技術などを紹介するコーナーです。「渋沢栄一肖像」の日本銀行券F10000円見本券(表・裏)、「津田梅子肖像」の日本銀行券F5000円見本券(表・裏) 、「北里柴三郎肖像」の日本銀行券F1000円見本券(表・裏)が展示されていました。
次の「スタンホープ印刷機」は、江戸時代末期の嘉永3年(1850年)に、長崎の「オランダ商館長」から将軍「徳川家慶」に献上されたものです。当初は、「蕃書調所」で洋書の印刷に使用されていたそうで、近代印刷技術の伝来を象徴する遺物です。「スタンホープ印刷機」は、活版印刷に使用され、1時間に200~300枚の印刷が可能だったそうです。「スタンホープ印刷機」は、平成10年(1998年)6月30日に国の重要文化財に指定されました。
三番目の「偽造防止技術の歴史~印刷・製紙技術~」のコーナーでは、お札が作られた頃から偽造防止のために紙の製造や印刷をするうえで特殊な方法が使われていました。特に、お札を製造する過程で、原版彫刻技術として現在も使われているのが、「直刻凹版」という製法で、1ミリメートルの間に10本以上の線を彫刻できるほどの精密な技法だそうです。また、偽造防止のためにすかしが施されていますが、明治期に開発された「白黒すかし」は、光にすかすと明暗のグラデーションで絵柄を再現するそうです。これは、現在でもお札の偽造防止技術として用いられ、その精巧さは日本のお札の特徴となっています。ちなみに、この「白黒すかし」が最初に用いられたのは、明治22年(1889年) 発行の「日本銀行兌換銀券1円」です。
1F最後の「Q&Aコーナー」コーナーでは、お札にまつわる豆知識をクイズ形式で楽しみながら学習できる展示スペースです。 「フォトスポット」は、新一万円券の肖像になった「渋沢栄一」がモデルとなっている東京都北区のキャラクター「しぶさわくん」の画像が撮影画像に現れるARフォトスポットとなっています。一人では、ちょっと撮影するのが恥ずかしい感じがしますね。
次に、2Fに上がるとまずは、「お札の移り変わり」コーナーです。「お札の移り変わり」コーナーでは、初期の世界のお札、江戸時代の日本のお札、そして近代から現代の日本のお札が展示されています。また、日本のお札が、明治・大正・昭和・平成と時系列順に展示されているのをみると、印刷技術の高度化や社会変化による図柄の変遷を理解することができます。ちなみに、お札が世界で初めて使われたのは中国で10世紀末のことだそうです。遅れること600年して、日本やヨーロッパでもお札が使われるようになったそうです。
次が、「世界のめずらしいお札」コーナーでは、製のお札、切手大のお札、ハイパーインフレーション時に発行された超高額面のお札など、めずらしいものが展示されています。特に、目を引いた珍しいお札は、お土産用の金箔製のお札ですね。このコーナーを見ると世界はつくづく広く、多種多様ですね。
そして、「世界のお札」コーナーでは、世界各国の全158種のお札が展示してありました。日本、アメリカ、イギリス、中国、欧州連合の通貨同盟の「主要5か国のお札」とそれ以外に大別して展示してありました。
そして、次の「切手の移り変わり」コーナーでは、歴代の日本切手と世界の珍しい切手が展示されていました。やはり、面積の小さな面に、精巧なデザインを美しく印刷するという技術には感服しました。私が子供の頃は、気ってブームが真っ盛りでした。学校に行く前に郵便局や切手を販売しているタバコ屋さんに並んで記念切手を買ったものです。それを考えるとSNSの発達により、手紙文化も衰退し、切手を買うために並んでいる列が見られないのは、寂しい気もします。そして、このコーナーで驚いたのは、常識では考えられないようなはがきよりも大きい世界最大の切手、におい付きの切手、紙以外で作られた切手があることでした。
続いても切手に関するコーナーです。「世界の切手」コーナーでは、世界の各地域や国で発行された切手が展示されています。このコーナーでは、世界地図の上に世界の国々で発行された280点もの切手が展示されています。各国の切手は、それぞれの特徴を表しているので、まるで世界一周の旅に出た気分ですね。
次が、「旅券・官報・諸証券」コーナーです。「旅券・官報・諸証券」コーナーでは、「国立印刷局」が製造してきた「旅券」(パスポート)、「官報」、「収入印紙」、「国債」の歴史が描かれていました。このコーナーで初めて知ったのですが、「国の公報紙」である「官報」は、土・日・祝日をのぞき毎日発行されているということです。そして、特に感激したことですが、大正12年(1923年)の関東大震災で印刷局の工場設備は全焼したのにもかかわらず、ロウソクの灯りの下で作成した手書きの官報が展示されていたことです。そのほか歴代のパスポートや今ではペーパーレス化された国債証書などが展示されていました。
次の「国立印刷局の歴史」コーナーでは、国立印刷局の歴史がパネルしてあります。ちなみに、「国立印刷局」は、明治4年(1871年) 7月27日に、「大蔵省紙幣司」として設立され、同年8月に「紙幣寮」と改称されました。主な業務は、紙幣の発行、交換、国立銀行(民間銀行)の認可などだったそうです。
そして、最後の「お札の芸術」コーナーです。「お札の芸術」コーナーは、お札の図柄の芸術的側面に焦点を当てています。近代的紙幣の製造技術を日本に伝えた「キヨッソーネ」による明治の元勲「木戸孝允」の肖像版画がありました。素晴らしい芸術性を感じました。次は、「洋紙発祥の碑」へ向かいます。

02_《洋紙発祥の碑》
「お札と切手の博物館」からJR京浜東北線「王子駅」方向へ130mほど戻ると交番の手前に「リトルマーメイド王子店」があります。そこを左に曲がるとすぐ右手に「洋紙発祥の碑」があります。
「洋紙発祥の碑」は、「リトルマーメイド王子店」店舗脇にあり、さすが「渋沢栄一」関連の石碑だけあって立派なものでした。石碑だけかと思っていたら、ステンレス製の説明板や「洋紙発祥」の歴史のパネルも「リトルマーメイド王子店」の壁面を飾っていました。また、「洋紙発祥の碑」の台座は、「紙の歴史」の中の羊皮紙にちなみ、羊のデザインの大理石造りでした。
「洋紙発祥の碑」は、昭和24年(1949年)に「王子製紙」が3分割され、その年4後の昭和28年(1953年)に「十條製紙」が建立したものです。「王子製紙」の前身である「抄紙会社」は、明治5年(1872年)に「渋沢栄一」の発議により、その歴史の幕を開けることとなりました。大蔵省紙幣寮に認可を申請し、翌明治6年(1873年)に許可がおり、当時、第一国立銀行頭取であった「渋沢栄一」が社長となり本格的に始動しました。明治26年(1893年)に名称を「王子製紙株式会社」と改称しました。昭和24年(1949年)に、占領政策により「苫小牧」・「十条」・「本州」の3社に分割されました。当初、「洋紙発祥の碑」は、京浜東北線の沿線に設置されましたが、「紙の博物館」の旧館の敷地内に移転しました。そして、さらに「紙の博物館」の移転に伴い現在の地に移転しました。
次は、「王子稲荷神社」へ向かいます。

03_《王子稲荷神社》
「洋紙発祥の碑」から「王子稲荷神社」までは、徒歩9分650mほどの距離のところにあります。「洋紙発祥の碑」から戻るとすぐ横断歩道がありますので、渡りJR京浜東北線「王子駅」北口まで戻ります。JR京浜東北線「王子駅」北口を出て右方向に高架沿いを道なりに160mほど進みます。最初の十字路の信号がありますのでそれを渡りさらに、290mほど進むと左手に、「いなり幼稚園」があります。「王子稲荷神社」に併設されている「いなり幼稚園」が開園しているウィークデーは、左手前にある急勾配の「王子稲荷の坂」を50mほど上ると右手に「王子稲荷神社」の「石鳥居」があり、そこから「王子稲荷神社」に参拝します。「いなり幼稚園」が休園している日は、「いなり幼稚園」の先に「表門」があるのでそこから参拝します。「表門」を入ると「石鳥居」があり23段の階段が待ち構えています。今回の説明は、「表門」からのルートで説明します。
最初に、「王子稲荷神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「王子稲荷神社」は、東京都北区岸町にある神社で、康平年中(1058年~1065年)に征夷大将軍「源頼義」により「関東稲荷総司」の称号を授かった格式ある神社です。また、「王子稲荷神社」は、関東一帯の稲荷神社のトップにあたる「関八州の稲荷の頭領」や「東国三十三国稲荷総司」と称されています。「王子稲荷神社」は、小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められ、現在の「社殿」は11代将軍「徳川家斉」により新規寄進された由緒あるものです。「王子稲荷神社」には、大晦日に稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあるそうです。そして、年末に行われる「王子狐の行列」は風物詩となっています。また、毎年2月の「午の日」に開かれる「凧市」は、たびたび大火にみまわれた江戸庶民たちが「凧は風を切る」として火事除けの縁起をかつぎ、今もなお引き継がれているそうです。そして、昭和9年(1934年)に国の認定重要美術品に指定されている「額面著色鬼女図」や「谷文晁」の板絵著色の「龍図」を所蔵しています。また、境内にある「狐の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなっています。ちなみに、「額面著色鬼女図」は、天保11年(1840年)に江戸の「住吉明徳講」(東京砂糖元売商組合の祖)が「柴田是真」に依頼して、「住吉明徳講」の守護神と崇拝するこの「王子稲荷神社」に奉納した傑作図です。
それでは、さっそく「王子稲荷神社」を参拝したいと思います。「表門」の左側には、昭和9年(1934年)に国の認定重要美術品に指定されている「額面著色鬼女図」の説明板があります。「表門」をくぐると正面には、「鳥居」と石段があります。その右手前には、弁天様が祀られている末社の「市杵島神社」があります。ちなみに、「市杵島神社」はもともと宗像三女神の市杵島姫神を主祭神とする神社です。「狛犬」が「市杵島神社」にありますが、300年以上前に奉納されたものだそうです。次に、23段の石段をのぼり、境内に入ります。右手に「手水舎」と「社務所」があり、もちろん正面は「拝殿」です。まず、「手水舎」でお清めの儀式を行い、いざ、「拝殿」で参拝するのですが、その時目に入ってくるのが、大きな稲紋が施されている賽銭箱で、下部中央に王子の「王」の字が書かれているのが特徴的です。また、「王子稲荷神社」は、靴を脱いで昇殿し、中でお参りすることができる珍しい神社の一つです。中に入り天井を見上げると鳳凰などさまざまな「天井絵」がありました。なんか得した気分になりました。
「拝殿」の右横を通り「鳥居」をくぐると、左手に「本宮」があります。実は、この小さな社が昔から続く本来の「王子稲荷」だそうです。「本宮」の右横にある赤い鳥居をくぐってさらに先に進むと、「王子稲荷神社」の末社である「三社合祭社」があります。三社とは、「北村稲荷神社」、「亀山稲荷神社」、「嬉野森稲荷神社」のことです。この末社の左横には、「願掛け石」があります。ちなみに、この「願掛け石」は、願い事を思い浮かべながら石を持ち上げて、軽々と持ち上げられたらその願いはかないやすいし、反対に意外と重いなと感じたら叶えるために努力が必要という言い伝えがあるそうです。また、子供用と思われる小さ目の「願掛け石」も鎮座していました。「願掛け石」の左側には、階段があります。階段を上ると落語「王子の狐」の舞台にもなっている「狐の穴跡」があります。昔はこの穴に狐が住んでいて、人々の信仰の対象になっていたそう。多くの御利益を授かることのできるパワースポットだそうです。そして、最後になりますが、赤坂にある「乃木神社」の境内には、「王子稲荷神社」から勧請された「赤坂王子稲荷神社」があります。「赤坂王子稲荷神社」は、昭和37年(1962年)に創建されました。何故かというと「乃木希典」将軍と静子夫人が 「王子稲荷神社」は月参りするほど「王子稲荷神社」を崇敬していたことが創建の理由だそうです。
「王子稲荷神社」の次は、「北区役所第五庁舎」の前にある「天女の笛」北村西望作を鑑賞します。

04_「天女の笛」北村西望作
「王子稲荷神社」から「天女の笛」北村西望作までは、徒歩7分500mほどの距離にあります。「王子稲荷神社」の「王子稲荷の坂」を上り170mほど進むと「旧岩槻街道」(都道455号)にでますので、横断歩道をわたり、左方向に320mほど進むと「北区役所第五庁舎」の前に「天女の笛」北村西望作があります。「天女の笛像」のすぐ下の所に解説板があり、それには「天女の笛に題す」として次のように記載されていました。「耳を澄ますとどこからともなく、何とも言えない音がきこえること。あれは世に言う天女の笛ではあるまいか。」と書かれていました。「北村西望」は、長崎県出身の彫刻家で、大正元年(1912年)に年東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科を首席で卒業後し、北区西ヶ原のアトリエで数々の名作を製作しました。また、「北村西望」は、長崎県の「平和祈念像」制作者としても有名です。昭和56年(1981年)に北区名誉区民になりました。その関係で、北区には「北村西望」が何箇所かあります。私が今回訪れただけでも、「北とぴあ」の「平和記念像」、「飛鳥山公園」の「平和の女神」がありました。
「天女の笛」北村西望作の次は、道路の反対側にある東京十社のうちの一つである「王子神社」へ向かいます。

05_《王子神社》
「天女の笛」北村西望作から「王子神社」までは徒歩1分90mほどの距離にあります。50mほど進むと横断歩道があり渡れば「王子神社」です。では、最初に「王子神社」の歴史を紐解いてみたいと思います。「王子神社」の創建は不詳ですが、平安時代の11世紀に「源義家」の奥州征伐のさいに、「王子神社」の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。「王子神社」は、元亨2年(1322年)に、領主「豊島氏」が「紀州熊野三社」より「王子大神」をお迎えして、改めて「若一王子宮」をまつり、熊野にならって景観を整えたといわれます。それ以来、この地は「王子」という地名となり、神社下を流れる「石神井川」もこの付近では特に「音無川」と呼ばれています。後に江戸幕府将軍「徳川家康」は社領200石を寄進し、将軍家祈願所と定め、歴代の将軍も表敬し、八代将軍「徳川吉宗」は元文2年(1737年)に、飛鳥山を寄進し、「王子権現」の名と「飛鳥山の花見」は江戸名所として知られるようになったそうです。ちなみに、「王子神社」は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。「王子神社」は、紀州(和歌山県)の「熊野三社権現」(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、世界遺産にも登録された「熊野古道」には多くの「王子神」が祀られていたといわれます。
では、「王子神社」の「大鳥居」を潜り境内に入ってみたいと思います。「王子神社」の「大鳥居」は都内でも有数の大きさの鳥居です。「高さ」が約8.6mあり、茨城県稲田産の御影石を使った石造りの鳥居です。「大鳥居」は、東京大空襲で焼失した新門の場所に建立され、邪気から境内神域を守っています。
次に、「大鳥居」を潜るとすぐ左手に、「本社神輿・神輿蔵」があります。平成29年(2017年)に「本社神輿」が奉納されました。台輪は三尺、屋根は王子神社の姿を模した唐破楓で、重量(相棒含む)約550㎏、胴には「王子神社」伝来の「田楽舞」の彫刻がされています。令和元年(2019年)の「例大祭」に天皇陛下御即位を奉祝して初の本社神輿渡御が行われました。「神輿蔵」は、令和元年(2019年)に完成し、神輿が見えるように正面と側面がガラス張りとなっています。正面から「本社神輿・神輿蔵」の全景をカメラに収めたいのですが、正面に立つとガラス張りに自分の姿が写ってしまいますので注意してください。
さらに、先に続く参道を進むと「拝殿」が見えてきます。「拝殿」の前には、一対の「狛犬」があります。この「狛犬」は、「阿吽」の形態とともに「子育て狛犬」として建立されています。「本殿」向かって子どもをあやす鞠を持っている右側の「狛犬」が父親で、向かって左側の狛犬が母親で子どもを守っています。ちなみに、「阿吽」は宗教的な像にも取り入れられ、口を開けた「阿形」と口を閉じた「吽形」の一対の像は、神社の狛犬などに見られます。
「拝殿」で参拝を済ませ、「拝殿」に向かって右側には、昭和14年(1939年)3月に東京都の「天然記念物」に指定された「大イチョウ」があります。「王子神社」の創建当時からあると考えられ、樹齢は600年とも言われています。戦災で社殿を始め、境内の殆どを焼失する中で唯一生き残った貴重な「大イチョウ」です。雄の木ですのでギンナンは生りませんが、秋の紅葉は見事です。
次は、「拝殿」に向かって左側に進むと末社の「関神社」があります。「関神社」は、全国でも珍しい「髪の祖神」です。「関神社」の歴史を紐解いてみると、関神社」は「関蝉丸神社」の御神徳を敬仰する人たちが「かもじ業者」を中心として、江戸時代に「王子神社」境内に祀ったことがその始まりです。「御祭神」は百人一首でも有名な「蝉丸公」で、姉「逆髪姫」のために髢・鬘を作ったという伝説により、髢、鬘や床山業界の方々の信仰厚い神社です。また「蝉丸公」は琵琶の名手でもあり「音曲諸芸道の祖神」としても崇敬されています。戦災で焼失したものを、髢、鬘、床山、舞踊、演劇などの関係業界の尽力により、昭和34年(1959年)に再建されました。境内には毛髪報恩のための「毛塚」も建立されています。「毛塚」は、毛髪報恩と供養のために昭和36年(1961年)5月24日に建立されました。
「王子神社」では、天然記念物の大イチョウが圧巻で、全国でも珍しい「髪の祖神」もあります。しかし、何よりも駅から至近距離にあり、人通りも多い場所ですが、木々に囲まれた境内に一歩足を踏み入れると、ホッとした気分になり、心が安らぎました。
その他、「王子神社」の例大祭「槍祭」も有名です。「王子神社」の例大祭は「槍祭」とも呼ばれ、祭礼に際し「御槍」という古伝の「御守護」が出るためです。後利益は、開運除災・萬願成就と言われています。本祭に行われる神輿の大集合は、宮出し行事のみですが、多くの神輿が次々に鳥居をくぐるさまは圧巻の光景だそうです。また、北区指定無形民俗文化財民俗芸能「王子田楽」を奉納する8月の祭礼や、12月の熊手市なども行われます。
「王子神社」の次は、「石神井川」に架かる「音無橋」へ向かいます。

06_《音無橋》
「王子神社」から「音無橋」までは、大鳥居から徒歩1分90mほどです。「音無橋」は、東京都北区のJR京浜東北線「王子駅」からほど近いところにある「石神井川」に架かる長さ約50m、幅員約18m、「3径間鉄筋コンクリート固定アーチ橋」です。あたり一帯は「音無渓谷」と呼ばれ、昭和5年(1930年)に谷で分断された飛鳥山と対岸をつなぐために架けられたのが「音無橋」です。これにより王子町と滝野川町を繋ぎ、交通の便が図られました。そして、昭和5年(1930年)に架けられた「音無橋」の老朽化に伴い昭和63年(1988年)に大改修されたもので,バルコ二ーは改修時に増設されました。関東大震災後の復興事業では、都心部の橋は、景観を重視して美しい橋が多く架けられました。当時の王子町は東京市でないため復興橋梁には含まれていませんが、この付近は,「飛鳥山」の花見や滝野川の紅葉狩りで賑わう工リアなので,真下の「音無川親水公園」との調和を図りながら,その風景を見られることを意図した橋です。ちなみに、「音無川」の異名を持つ「石神井川」ですが、その名は、和歌山県を流れる「熊野川」に注ぐ一支流の「音無川」に由来しているそうです。「音無橋」の素晴らしさを体験できるのは、「音無川親水公園」から眺めることでしょう。また、サクラや紅葉の時期には、橋の上から下を眺めるとピンクや赤の絨毯で埋め尽くされる絶景でしょう。
次は、「音無橋」の下にある「北区立音無親水公園」へ向かいます。

07_《北区立音無親水公園》
「音無橋」の北詰・西詰(王子神社寄り)に「北区立音無親水公園」へ下りる階段があります。「音無親水公園」は、JR京浜東北線・東京メトロ南北線「王子駅」に隣接する公園で、小平市の東部を源にして「隅田川」に注ぐ「石神井川」の旧流路に整備された公園です。「石神井川」は、この一帯付近では、昔から「音無川」と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜、夏の青楓と滝あび、秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。戦後の都市化で、石神井川も生活排水などで汚れた川となりました。また、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和33年(1958年)9月の「狩野川台風」で一帯の渓谷が破壊されたことを受けて始まった改修工事によって川は「飛鳥山公園」の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行なわれました。そして、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」という地域住民の要望で「音無親水公園」ができ、現在に至っています。「音無親水公園」は、全国の都市公園の模範たる公園として「日本の都市公園100選」に選ばれています。都内では、「国営昭和記念公園」、「日比谷公園」、「上野公園」、「水元公園」、「代々木公園」が選定されていて、園内には記念碑があります。「音無親水公園」施設区域を流れる水は、ろ過装置による循環水を使用し、夏は子供たちが水遊びも楽しむことができます。「権現の滝」は、神仏習合時代の「王子権現」(現在の「王子神社」)側の河岸段丘から落ちる滝で、「弁天の滝」、「不動の滝」、「稲荷の滝」、「大工の滝」、「見晴らしの滝」、「名主の滝」とともに「王子七滝」に数えられていました。しかし、現存するのは。「名主の滝公園内」の「名主の滝」のみとなってしまいました。
私は、「舟串橋」の脇にある階段を下りて、「王子駅」に戻るような感じで「水車」がある方向に足を進めました。川の途中には、何箇所か飛び石が設置されているので、直ぐに対岸に渡ることができます。「王子駅」の親水公園口前の橋のところまで行き、Uターンです。「舟串橋」の下を通り、アーチ型の「音無橋」へ向かいます。川のせせらぎを、滝を模した水の落ちる様子を見ると、本当にここが駅に至近距離の都会の真ん中にある公園とは信じることができませんでした。あたかもどこか山奥の渓谷にいるような感じでした。公園内には、ソメイヨシノ21本植樹されているということで、残念ながら桜は咲いていませんが、下から眺める風景を想像しただけでワクワクします。今度は、「飛鳥山公園」の桜に合わせてここへも来てみたいと思います。
次は、今回の散策の中でのメーンの「飛鳥の小径」へ向かいます。

08_《飛鳥の小径》
「北区立音無親水公園」から「飛鳥の小径」までは、徒歩6分400mほどの距離にあります。「北区立音無親水公園」のすぐ近くにあるのですが、横断歩道がないので、「王子駅」北口までもどり歩道橋を渡り「王子駅」中央口方面へ向かうと「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」があり、その手前にJR京浜東北線沿いの細い道があります。これが「飛鳥の小径」です。
「飛鳥の小径」は、京浜東北線の「王子駅」から「上中里駅」を結んでいます。「飛鳥の小径」は、隠れた紫陽花の絶景スポットとして知られています。5月31日現在の開花状況は、咲き初めでした。満開の時期は混むので、あえて今日訪れてみました。「王子駅」側の「アジサイ」は、ほとんど咲いていませんでしたが、「王子駅」南口から通じる飛鳥山下跨線人道橋を境に、「上中里駅」に行くにつれて、満開にほど遠い状態ですが、徐々に色とりどりのあじさいが顔を出し始め、結構咲いて、十分アジサイの美しさを堪能することができました。「飛鳥の小径」の「アジサイ」はなんと約1,300株、50種類以上の紫陽花が群生しているそうです。「飛鳥山公園」の山裾にある「飛鳥の小径」に沿って約350メートルに渡って「アジサイ」が植えられています。「アジサイ」の例年の見ごろは6月上旬から6月下旬まで楽しむことができます。注意点ですが、「飛鳥の小径」は、大人2人分ほどの幅しかない小さな道となっており、当然のことながら、「アジサイ」の見ごろの時期には散策や撮影に訪れた人で大変にぎわっています。そのため、まっすぐ歩くと片道の所要時間はわずか10分足らずですが、撮影したり、陸橋を上ったりすると、往復で30~40分はかかってしまいます。無理してアジサイが満開の時に行くより、早めに行くことをお薦めします。
次は、先ほどの「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」まで戻ります。

09_《あすかパークレール》
アジサイの美しさを堪能した後は、「あすかパークレール」に乗り「飛鳥山公園」の山頂へ向かいます。
「飛鳥山公園」への第一歩は、園内にある「あすかパークレールアスカルゴ」からスタートするのをお薦めします。「飛鳥山公園入口駅」から「飛鳥山山頂駅」まで、わずか2分の乗車時間ですが、家族連れには最適です。また、大人も童心に返って幼き日に遊園地で乗った乗り物の記憶が蘇ってくるはずです。まさに、大人から子供まで楽しむことができます。「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」へのアクセスは、JR京浜東北線「王子駅」中央口の出口を出て、左方向に70mほど直進すると目の前に「アスカルゴ」の「飛鳥山公園入口駅」があります。「あすかパークレール」の山頂駅を降りると、正面には「飛鳥山公園の案内図」があります。ここでどのような巡路で「飛鳥山公園」を見て回るか順番を自分で決めます。やはり、「飛鳥山公園」の歴史を詳しく知りたいので、点在する石碑などを見て回る巡路にしてみました。
「アスカルゴ」は、平成21年(2009年)7月に、高齢者、障害者、ベビーカー利用者でも気軽に登れる自走式モノレール方式の斜行昇降施設として、「あすかパークレール」が誕生しました。片道2分、眺望抜群のモノレール「アスカルゴ」で山頂へ行くことができます。車両がかたつむりに似ていることから、区民の公募によって「アスカルゴ」という愛称が付けられ、子どもから大人まで人気があります。「飛鳥山公園」は、「飛鳥山」の山頂に位置しています。もちろん山頂までの高さも余りないので下から歩いて行くこともできますが、せっかくなのでこちらの「飛鳥山公園」の名物である「アスカルゴ」に乗って行くのをお薦めします。恥ずかしがらずに、是非チャレンジしてください。
① 運転時間…10:00から16:00まで(強風等悪天候の場合は、運転を中止することがあります。)
② 乗車料金…無料 ③ 運休日…12月29日から1月3日まで 
④ 点検日…毎月第一木曜日(4月のみ第三木曜日)10:00~12:00まで運行停止
⑤ 乗降場…王子駅中央口を左折するとすぐにある「飛鳥山公園入口」と山頂に「飛鳥山山頂」があります。
《あすかパークレールの概要》
①形式…自走式モノレール ②延長…レール延長48メートル、傾斜角度24度
③定員…16名(いす席6名、立ち席10名) ④走行速度…毎分30メートル(片道約2分)
⑤標高差…17.4メートル
⑥運行方法…無人運転(押しボタン運転方式)、運転中は管理人が常駐しています。
⑦安心安全…防犯カメラ(車内1基、乗り場2基)、インターフォン(車内)
⑧バリアフリー…車いす、ベビーカーでの利用ができます。
《アスカルゴの乗車方法》
「アスカルゴ」の乗車方法、エレベーターに乗る要領なので、誰でも簡単に操作できます。運転中は管理人が常駐しているので安心です。そして、驚いたことに車内は外見よりずっと広く、定員は、16名で、しかも、車いす、ベビーカーでの利用もできます。地上との標高差17.4メートルを、分速30メートルで2分、傾斜角度24度でゆっくり登っていきます。車窓からは眼下に周辺の景色が広がり、テンションが上がります。それともう一つのポイントは、冷暖房を完備しているということです。
「あすかパークレール」の山頂駅を降り、次は、「飛鳥山公園」の名所・旧跡を巡ります。最初は、「飛鳥山公共基準点」です。

10_《飛鳥山公共基準点(飛鳥山公園)》
「あすかパークレール」の山頂駅を降りると、徒歩で1分32mのところにあるのが、「飛鳥山公共基準点」です。「飛鳥山公園」は、東京一低い山「飛鳥山」の山頂に位置する公園です。その根拠となるのが、「飛鳥山公共基準点」です。平成18年(2006年)に、北区が実際に測量したところ、今まで、東京都で一番低い山と言われていた港区の「愛宕山(標高25.7m)」よりも低いと確認されたそうです。その標高は25.4mと30cmほど「愛宕山」よりも低くなっています。それを示すのが「飛鳥山公共基準点」で、「飛鳥山公園の案内図」のちょうど裏あたりに、「飛鳥山公共基準点」のモニュメントが設置されています。「飛鳥山」は、「愛宕山」より低いので、北区では「東京都内で一番低い山であることを確認した」として、国土地理院へ地形図への記載を申請したのですが、残念ながら今のところ承認されていません。

11_《明治維新百年植樹記念碑(飛鳥山公園)》
「明治維新百年植樹記念碑」は、「飛鳥山公共基準点」のモニュメントのすぐ先にあります。近くには、「桜の賦の碑」もあります。明治維新百年を記念し、都区内のさまざまな公園で植樹が行われました。「飛鳥山公園」には、この活動の記念として「明治維新百年植樹記念碑」が、昭和43年(1968年)に建立されました。

12_《象山先生桜賦の碑(飛鳥山公園)》
「明治維新百年植樹記念碑」の先の道は二又に分かれています。それを左方向に進むと「櫻の賦の碑」があります。「櫻の賦の碑」は、「佐久間象山」が50歳(万延元年:1860年)の作である「桜の賦」の遺墨をもとに門弟「勝海舟」の意により、作製されました。「櫻の賦の碑」は、「北沢正誠」の文で書は「日下部鳴鶴」です。そして、碑には、明治14年(1878年)11月15日と刻まれています。「佐久間象山」は、松代藩士の幕末の兵学者、朱子学者、思想家で、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えたのがこの「桜の賦」です。「佐久間象山」は、西洋の兵学、蘭学を学び江戸に塾を開き、「勝海舟」、「吉田松陰」、「坂本竜馬」など多くの人材を輩出した。「徳川慶喜」に公武合体と開国を説きました。残念ながら「佐久間象山」は、尊皇攘夷論者によって京都で刺され、元治元年(1864年)7月11日54歳でその生涯を閉じました。また、「櫻の賦の碑」の下には、「佐久間象山」が暗殺された時に着けていた血染めの「挿袋」(今でいうポシェット)が「挿袋石室」に埋蔵されています。ちなみに、賦とは、古代中国の韻文における文体の一つことです。

12_《飛鳥舞台(飛鳥山公園)》
「櫻の賦の碑」の先に、下へ降りる階段がありますので、それをおりると「飛鳥舞台」があります。飛鳥舞台は能舞台をイメージしたヒノキ造りの野外ステージです。「飛鳥舞台」の北側のすぐそばには「多目的広場」もあります。「飛鳥舞台」は、能舞台をイメージしたヒノキ造りの野外ステージです。観客席は階段状になっていて、見やすく、座りやすく工夫されています。「飛鳥舞台」の中央には、一本松が植えられ、いかにも能舞台らしい雰囲気を醸し出しています。そして、「飛鳥舞台」は、北区に申請すれば、誰でも利用することができます。

13_《水上赤鳥の歌碑(飛鳥山公園)》
「飛鳥舞台」の前にある階段をのぼり再び上に上がります。「水上赤鳥の歌碑」は、「水上赤鳥」が、「飛鳥山公園」について詠んだ歌の碑で、昭和54年(1979年)11月に「ぬはり社友」によって建立されました。「水上赤鳥の歌碑」には、「そのかみの山をおほひし花ふぶきまぼりしにしてあがる噴水 赤鳥」と刻まれています。

14_《聖観音菩薩像(飛鳥山公園)》
「水上赤鳥の歌碑」のさきにある「聖観音菩薩像」は、彫刻家「赤堀信平」の作で、世界平和と人類の幸福を願って製作され、昭和51年(1976年)6年に北区に寄贈されました。彫刻家「赤堀信平」は、明治32年(1899年)に福島県で生まれ、東京美術学校(現東京芸大)を卒業後に「朝倉文夫」に師事し、木彫、ブロンズを制作、肖像彫刻などにすぐれた作品を残しました。

15_《飛鳥山碑(飛鳥山公園)》
「聖観音菩薩像」を進むとすぐ左手に、江戸時代には飛鳥山のランドマークとなった「飛鳥山碑」があります。「飛鳥山碑」は、八代将軍「徳川吉宗」による飛鳥山における事績を顕彰するため、元文2年(1737年)に、王子権現社別当金輪寺の住職の「宥衛」によって建立された碑です。享保5年(1720年)から享保6年(1721年)にかけて、「飛鳥山」に桜が植えられ、享保18年(1733年)には桜が根付いて花を開かせるようになり、水茶屋が10ヶ所建てられ、江戸市民の行楽の場となりました。大正8年(大正9年)3月に、「東京都指定有形文化財」になりました。ちなみに、「飛鳥山碑」は、「高さ」が218.5cm、「幅」が215cm、「厚さ」が34.5cmで、元享年間に豊島氏が王子権現を勧請したことが記されています。続いて、王子、飛鳥山、音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されています。そして、最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記されています。

16_《明治三十七八年戦役記念碑(飛鳥山公園)》
「飛鳥山碑」の次は、「明治三十七八年戦役記念碑」です。「明治三十七八年戦役記念碑」は、「飛鳥山碑」のすぐ先の左手にあります。「明治三十七八年戦役記念碑」は、明治37年(1904年)から明治38年(1905年)の日露戦争の戦役に当時の北豊島郡内から出征した約2000人の軍人に対し、明治39年(1906年)に建立された記念碑です。ちなみに、「日露戦争」は通称で、当時の政府は公式には「明治三十七八年戦役」という言葉を使っていました。そして、北区は、陸軍の後方支援施設が集中していたそうです。

17_《都電・蒸気機関車の展示:都電6080号(飛鳥山公園)》
次は、「都電・蒸気機関車の展示」です。「都電・蒸気機関車の展示」は「明治三十七八年戦役記念碑」を少し行ったところに「飛鳥山公園児童エリア」が広がっていて、「児童エリア」入口前に、引退した「都電」や「蒸気機関車」設置され、展示車両にも乗ることができます。「都電6080号」は昭和53年(1978年)4月まで「飛鳥山公園」横の「荒川線」(都電さくらトラム)を走っていた車両で、木造の車内がノスタルジックな車両です。令和2年(2020年)11月に再塗装を施し、リニューアルしました。そして、きれいに保存された車内は、木造の床や椅子に温かみがあって、まるで当時にタイムスリップしたよう錯覚にとらわれます。車両の先頭と後方には運転台があり、ハンドルを触って遊ぶことができます。

18_《都電・蒸気機関車の展示:蒸気機関車D51853号機(飛鳥山公園)》
「都電6080号」の隣にあるのが、「蒸気機関車D51853号機」で存在感があり、ひときわ目立っていました。「蒸気機関車D51853号機」は、昭和18年(1943年)に製造され、昭和48年(1972年)6月まで煙を吹き出し、走っていた車両です。操縦席には、たくさんの機器があり、本物の機関車の運転士になった気分にもなります。窓から顔を出し、下を見下ろすと驚くほどの高さがあり、蒸気機関車のスケールの大きさを体感できます。動輪や主連棒、空気圧縮機など、蒸気機関車の仕組みを間近で見ることができます。

19_《飛鳥山展望ひろば(飛鳥山公園)》
「都電・蒸気機関車の展示」から「飛鳥山展望ひろば」へ向かいます。飛鳥山公園の「展望ひろば」の「さくら亭」横の展望デッキより新幹線(東北新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、上越新幹線、北陸新幹線)を見ることができます。新幹線や在来線、貨物列車などの列車が見えるスポットもあり、鉄道ファンにもたまらない公園です。私も訪れた当日に、運よく二種類の新幹線の走る姿を見ることができました。そして、「あすかパークレール:アスカルゴ」の反対側にある王子の街の風景も堪能できました。

20_《「平和の女神」北村西望作(飛鳥山公園)》
「北区飛鳥山博物館」と「渋沢資料館」の中間あたり右手に「平和の女神」北村西望作があります。「平和の女神像」は、長崎市「平和記念像」の作者として有名な北村西望氏の作品です。この像は、日本と中国の国交正常化を記念し、人類の理想である平和と幸福を願って、北区民有志を中心とした「日中友好・世界平和祈念“平和の女神像”建立の会」と北区、北区議会、北区自治会連合会、区内企業、関係団体等によって 昭和49年(1974年)に建立されました。ちなみに、彫刻家「北村西望」は、明治17年(1884年)に長崎県生まれました。大正元年(1912年)に年東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科を首席で卒業後し、北区西ヶ原のアトリエで数々の名作を製作しました。昭和56年(1981年)に「飛鳥山公園」のある北区名誉区民になりました。

結構いろいろと回りました。普段見過ごしがちな石碑などもその背景を調べてみると勉強になりますね。次回は、飛鳥山公園の3つの博物館と渋沢栄一の足跡を求めて、再度飛鳥山公園を散策してみたいと思います。

同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 徒歩

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