2024/04/26 - 2024/04/26
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Reiseさん
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安土城跡に行きました。
石段が続く上りが結構きつかったです。^^;
夫はチケット売り場にあった、杖を借りて登っていました。
往復でおよそ1時間かかりました。
ここにかつて、絢爛豪華な安土城があったことが、信じられないくらい静かな山の中という雰囲気でした。
天守台は礎石が残っていますが、天守台が激しく燃えたであろう痕跡の
礎石が盛り上がっているところなどが、こんなに時間が経過していますが、
そのなまなましさを伝えているようでした。
石垣も所々黒くなっているものもありました。
本丸御殿あとも御所の清涼殿と造りが似ているところも興味深いです。
信長が天皇の行幸を望んでいたとといわれていますが。。
そこから豪華絢爛な天守台を見上げることができたはず。
總見寺は織田信長が招きいれたお寺といわれていますが、
周囲のお寺から移築してきた建物、いまは、二王門と三重の塔が残っているのみですが、当時の登城してくる人々はこの門をくぐってきたそうで、
信長も観たであろう建物が寂しく感じられました。
築城に3年かかり、わずか3年の居城でした。
当時は湖がお城の周りまであり、まるで水に浮かぶお城といわれていたみたいです。
観た人たちは、その豪華絢爛さに驚いたことだろうとおもいます。
ルイス・フロイスも絶賛し、その残した記録から、天守の様子やお城全体の様子がわかり、また発掘調査でお城の実態がわかってきています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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-
近江八幡から安土城跡へ来ました。
-
1576年から築城が始まり、3年後に天守が完成しています。
織田信長がその権威を示すかのように、絢爛豪華なお城であったといわれています。
しかし、その3年後には本能寺の変が起こり、明智光秀が敗れると天守と本丸は焼失しています。 -
駐車場に車を停めて、チケット売り場へ。
下のあたりから、もう史蹟がありました。 -
石塁と大手三門跡です。
発掘の様子が詳しく写真で説明されていました。 -
少し上にいくと、さらに石塁やお城の出入り口である虎口の跡がありました。
発掘調査で、どんな建物が建っていたかが分かってきています。
ここには門があり賓客を迎え入れたらしいです。 -
大きな石が等間隔に並んでいるのも特徴のようです。
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お城の入り口あたり。
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道を隔てて反対側のほうにも史蹟が残っています。
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井戸やカマドの跡も残っています。
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井戸のあと?
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カマドがあったあたり。
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小さな掃除機?草刈り機?が働いていました。
可愛いです。
草だけを刈っているのかな、、、 -
整備された道を上っていくと、
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ペット入山禁止の看板。
安土城主、、とかいてありました。笑 -
上りの石段が405段とあります。。
往復の所要時間はおよそ1時間。
これは覚悟せねばなりません。。。^^; -
ここからまっすぐに続く道が大手道。
メインの道です。 -
チケットを購入。
右に見えるのは、貸してもらえる杖。
夫は早速借りていました。
かなり助けになったようです。 -
イチオシ
杖に、家紋もありましたよ。
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すぐに石段が始まります。
見上げる限り、石段が続きます。 -
古い石垣が残っています。
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途中、石仏があります。
墓石もあったようで、石を集めたのですね~。
当時のまま、保存されていました。 -
天守の下のほうから、、家臣の屋敷も数々ありました。
まず、織田信長の家臣、前田利家の邸宅と伝わるところ。 -
写真もあるので、わかりやすいのですが、前田邸は虎口も見つかっていますが、防御が極めて高かったようです。
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イチオシ
そしてさらに上に登って、
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苔むした石垣に囲まれていました。
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さらに石垣がありますが、その下に平らな土地が繰り返されます。
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羽柴秀吉の屋敷跡といわれているところ。
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ここも大きなお屋敷だったよう。
ちなみに、帰り道は、この奥の林の中の道から出てきました。 -
お城の下から家臣の館が並んでいたのですね~。
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その上にも羽柴秀吉の主殿、生活の場であったところが発掘されています。
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主にこちらで生活していたようです。
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こちらは礎石が残っていました。
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地図によると、このあたりが、徳川家康の屋敷があった場所となっていますが、、、、
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大分、上のほうへ上がってきましたよ~。
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行き止まりになってましたが、ここは城郭内にあった總見寺が江戸時代に焼失して
いまはこちらがお寺になっているようでした。 -
イチオシ
鐘楼があり、天下布武。
ちょっとひと休みしたいところですが、上を目指します。 -
苔むした石垣を観つつ、上に。
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右、天守、本丸跡とあります。
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石仏。もう、これで三体ありました。
よほど、石が足らなかったのでしょうか。
墓石も使われていたようですし。 -
イチオシ
果てしなく続く、、、かなり疲れています。
杖を持った夫は、なんだか足どりが軽く見えてました。←悔しい。 -
武井夕庵邸跡とありました。
武井夕庵、、よく知らなかったので調べてみましたら、織田信長の秘書役の文官の「右筆(ゆうひつ)」という役割の人物だったようですね~。 -
帰路の看板。
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天守、本丸跡があります。
もう樹々が茂っている場所。 -
織田信澄、森蘭丸邸跡の石碑。
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黒金門跡。
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説明板にもありますが、ここからは中枢部へ入っていきます。
石垣もいきなり、大きなものが多くなってきます。 -
大きな石の石垣が増えてきます。
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室町時代中期の仏足石がありました。
貴重なもの。
こちらも石垣に使われていたようです。 -
石という石を集めてきたことがわかります。
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このあたりの石段も登りにくかった。。。足も疲れて。
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二の丸跡、信長の廟へと続きます。
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こちらに織田信長の廟があります。
豊臣秀吉が造ったといわれています。
とても神聖な雰囲気でした。 -
美しく整備されていました。
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中の様子。
ここからは入れません。 -
さらに上に。
天守台のあったところへ。 -
途中、このような場所も。
まだまだ発掘の途中なんですね。 -
天守台へは道が更に狭く。
-
イチオシ
そこには礎石が残っていました。
-
説明にもありますが、
地上6階、地下1階の高層の天守台。
それ以降の天守台の原点になっています。 -
階段があって、上に上がってみることができました。
-
イチオシ
眺望よいです。
当時は琵琶湖も近くまであり、水に浮かんだお城のようだったと聞きましたが。 -
信長廟も見えます。
-
イチオシ
私は、この礎石が平ではなく、なぜ、こんなに持ち上がっているような形なのか、、とても疑問でしたが、
その後、博物館でs、焼失する際に柱が焼け落ちるときに一緒に持ち上がったため、、という説明を聞いて、やっとわかりました。 -
ここからは、城下が一望できたはず。
今は樹々が茂っていますが。 -
八角平太湖〜とあって、
行き止まり?
湖が見えるのかな、、、
お城へはいろんなルートで登れるようになっていたようですが。 -
大きな火災で焼失しても、石垣が崩れなかったのは、相当の技術があってのことですよね~。
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天守台から下におりて、
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礎石がぽつりぽつりと、残っているところ。
本丸御殿跡です。
千畳敷とも呼ばれたそうで、その豪華さが想像できます。 -
説明によると、
御所の清涼殿の造りと似ているそうで、天皇の行幸を想定して、つくられたのではないか、、とのことでした。 -
ここから、キラキラの天守台を見上げることができたのですね~。
-
天守台や本丸は焼失してしまっていますが、石垣はこのあたりも崩れることなく、残っています。
黒くなっているところは、その火事の激しさを物語っているそうですが。。 -
石垣に使われている石、切り出した跡も残っています。
黒くなっているのは、燃えたあとだろうか、、、、、? -
イチオシ
このあたりの黒い石も焼け焦げたあとなのでしょうか~。
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青もみじが、すごく、綺麗でした。
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この上あたりにそびえたっていたであろう天守台、、もういまはすっかり樹々におわれています。
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大きな石を切ったあとの石も。
-
下ります。
楽チン〜と思ってましたら、また登りの石段もあって、最後まで気が抜けない。笑
もう足が笑っています。。←明日は筋肉痛、使い物にならない、、、 -
下って、また少し登ると、、
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總見寺の跡があります。
總見寺は安土城築城の際に城郭内に織田信長が招きいれたお寺。
安土城天守や本丸が焼失したあとも、残っていましたが、江戸時代に焼失あり、いまは、二王門と三重の塔を残すのみで、
本堂は、さきほど登ってくる途中にあった、徳川家康の館跡のあたりにお堂があり現在に続いているとのことでした。 -
このあたりからの眺めも素晴らしく、
琵琶湖かな、、と思ってましたら、疎水のようでした。
当時は琵琶湖はお城の周りにも迫っていたので、お城は水の上に浮かぶように見えたと聞きました。 -
その總見寺の三重の塔が残っています。
-
イチオシ
1454年に建立されたもの。
その後、織田信長により、甲賀郡の長寿寺より移築したものです。
立ち入りができなくなっていました。 -
總見寺は1573年から1591年の間に創建されているそうですから、
織田信長ももちろん観ていたであろう建物の光景。
美しい塔でした。 -
こちらは上から観た二王門。
とても古く感じます。 -
イチオシ
築城当時、こちらの門をくぐり、登城したそうです。
1571年の建立。
こちらも甲賀郡柏木神社より移築したもの。 -
金剛力士像も室町時代のもの。
-
力強い仁王でした。
-
説明板があります。
-
ひたすら山の中の道を降りていく。
途中、足場の悪いところもあり、注意です。 -
羽柴秀吉の館跡あたりに降りてきました。
ふう。 -
入口に戻ってきました。
約1時間かかりました。 -
おみやげ物屋さん&小さな資料館がありました。
-
マンホールの模様もこちら。
このあと、安土城考古博物館と信長の館へ向かいます。
最後までお読みいただいて、ありがとうございます。!(^^)!
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この旅行記へのコメント (4)
-
- Decoさん 2024/05/17 21:06:22
- 405段
- Reiseさん、こんばんは。
安土城、私も以前訪れたことがあるのですが…405段の表示は見ていなかったような気がしますが、確かに長い石段でした。ああいった段数は、初めに見ると気持ちが萎える(笑)ので、表示しない方が良いようにも思いますが…。
安土城は、天守を備えた最初期のお城ですが、後世から見ても、屈指の巨大な天守だったのですよね。琵琶湖湖畔の小山の上に築かれた巨大天守。見る人には物凄い衝撃を与えたことと思います。平山城であるとともに、水城でもあって、水運にも適していて、信長という人物の構想力と実行力はやはり尋常ではなかったことと思います。
次の旅行記で取り上げられる信長の館(だったと思います)で、天守の最上部が再現されていたと思いますが、その設計やデザインの凄いこと。後に秀吉や家康は、規模だけなら安土城を凌ぐ城郭を築きますが、アイデアの豊かさ鋭さでは安土城は際立っていたと思います。
信長がもっと長く生きていたら、その後の日本も随分変わっていたかも知れないと思う反面、あの性格ではやっぱり難しかったかも…と思ったりもします。
次の旅行記も楽しみにしています。
Deco
- Reiseさん からの返信 2024/05/18 05:32:14
- 405段、、甘く考えてました。^^;
- Decoさん
おはようございます。
Decoさんも行かれたことがあるのですね!
おっしゃる通り、405段と書いてあると、登る前からテンションが下がりそうです。笑
上る前に、「けっこう、きついですよー」と聞いていたので、覚悟していましたが、石段と石段の間が高かったり、コンパスの短い私には、やはりきつくて、
頂上はまだか、まだか、、と愚痴ってばかりでした。笑
そうですよね、
安土城がはじめての天守をつくり、以降のお城のモデルみたいなったみたいですけれど、
相当、個性的で奇抜なお城だったように思えました。
信長という人は、人を驚かせたりするのが好きだったのかなぁ〜とも思ったりします。
琵琶湖も、当時は現在よりも、もっとお城に迫ったところにあって、
まるで、水に浮かぶお城のようだったといわれていますが、
おっしゃるとおり、水城でもあったのですよね〜。
私も信長という人は、それまでにない独特の価値観、世界観を持った人物だったのだと感じました。
自己顕示欲も強く、また激しい性格のゆえに、敵も多く、最期もあっけなく終わってしまいますが、わたしも、もし、信長がそのまま天下統一を経て、日本を掌握したら、どう変わっていたのだろう、、、と妄想してしまいました。
非道とも呼ばれることも行い、今ならパワハラといわれるようなこともしていたのかな、、とも思う信長ですが、私はなぜか、あの時代の家康や秀吉といわれる後の天下人の中で、「信長おし」なんです。笑
岐阜城下も安土城下でも経済を発展させる現実的な政策や、世界に目を向けた視野の広さ、決して「うつけ者」ではなかった信長の能力、、、
見抜いた斎藤道三もすごいと思いますが、信長をとりまく人々の関係も面白いです。
次に行った「信長の館」は天守の上の部分二層を復元したものですが、
館内は写真撮影したものをインターネットにアップするのを禁止してして、
旅行記にはその写真を載せることができませんでした。
残念です。
あの、キラキラの奇抜で、見たこともない装飾の天守、当時の人も驚いたでしょうけれど、いま、復元をみても現代の私達も驚く世界でした。
Reise
-
- sukecoさん 2024/05/15 12:04:32
- 安土城!
- Reiseさん、こんにちは♪
安土城、上りの石段405段、覚悟を決めて登らなければですねー(笑)。
足が笑っちゃう、わかりますー。
ガタガタの石段だと尚更です!!。
安土城、想像しながらの見学ですね。
復元を映像で見たことがありますが、さすが織田信長!!。
初めて見たときは、めちゃくちゃ個性的~って思いました♪。
まだまだ発掘中ですが、実像解明に向けて、いつか復元が見られる?!っと期待してわくわくしています!!!。
sukeco
- Reiseさん からの返信 2024/05/16 05:03:41
- 安土城跡、、いまは静かな山でした。
- sukecoさん
いつもお便りをありがとうございます。
そうそう、そうなんです。
405段の石段。
入口に書いてあって、その数字を観たら、なんということはないな、、と軽く
思ってましたら、行けども行けども、頂上にたどりつけない^^;
途中の石段も段が高かったり、足場が悪かったり、405段よりももっと多く石段があるように感じました。
しかも、帰り路も、てっきり下りと思ってましたら、また登ったり。
日頃の運動不足、怠け癖が、こんなところに露呈するなんて。汗
杖を借りた夫をちょっと羨ましく、憎らしく(笑)
築城も、のぼるだけで、こんなにハードなのに、大きな石を運んだり、建物を造ったりする重労働があったことが信じられません。
このあと、博物館や天守の上部分を復元した資料館へ行って、
おっしゃるとおり、信長の個性的なお城が理解できました。
皆を驚かせることが好きな人なんですね、信長って。
当時、このお城を見上げた人々は、さぞかし、驚嘆したとおもいます。
こちらの資料館と博物館に先に行っておくべきでした。
お城跡は、静かな山となって、キラキラのお城を想像することは難しかったです。
今も発掘の調査も行われていて、さらにさらに新たな発見もあるかもですね。
Reise
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