2024/03/17 - 2024/03/17
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gianiさん
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概ね現在の福岡市中央区に該当する地域は、初代福岡藩主黒田長政が造営した福岡城を核に拡がる武家町です。
城址のある赤坂の山を挟んで東が冷泉津、西が草ヶ江と、海に突き出た丘にすぎませんでしたが、1600年以降城下町として整備されます。
殆どの建物が失われてイメージし難い姿ですが、古地図等を手に城と武家町跡を追ってみます。
市制後の博多vs福岡(天神)史はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11888678
- 旅行の満足度
- 5.0
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福岡城築城(1601-08)
関ヶ原後に黒田長政は、現在の東区にあった名島城へ入府します。しかし防衛重視で城下町も手狭なために、警固村の福崎の地に現在の福岡城を築きます。 -
天神のど真ん中にある警固神社は、築城に伴い本丸から現在地へ移転しています。黒田氏の出身地に因み、福浜は福岡へ改められます。
警固神社 寺・神社・教会
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内堀
城の北側に残されています。堀の内側は本丸/二の丸/三の丸で構成され、南北700m/東西1km/面積40haに及びます。 -
防衛線
黒田長政は、秀吉の軍師黒田官兵衛の息子です。内堀は、忍者が潜るには浅すぎ、歩くには深すぎる絶妙な計算が反映された設計です。上の写真でも、一面に枯れた蓮が植わっていることから深さを確認できます。 -
北東部の上之橋を渡って、三の丸へ。
元々は木橋でしたが、土橋になっています。
写真のように道は折れ曲がり、枡形門構造の上之橋御門跡を潜ると三の丸です。 -
三の丸は、廃藩置県後に福岡県庁が設置されましたが、明治9年に移転。その後は陸軍施設を経て、戦後は平和台球場/陸上競技場が建設されます。
元々は政庁/家老屋敷などが建ち、防衛の重要ポイントです。 -
余談ですが、県庁の移転先は現在のアクロス福岡/天神中央公園部分で、1911年に竣工した旧庁舎本館の遺構が見られます。1984年に解体されて、土台と柱のみが残ります。
※現在の県庁は、1981年に東公園で開庁しています。 -
陸上競技場の横には、むかし探訪館が。
福岡城について簡単に学べます。上の資料は、こちらの展示物です。福岡城むかし探訪館 名所・史跡
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まずは、お城の模型をチェック。
内堀に面した三の丸が、とにかく広い!
カテゴリーとしては、平山城に属します。 -
東御門跡を潜ると、二の丸です。
石垣で三の丸よりも高い場所にあります。扇坂を上った先は、現在梅園になっています。
福岡城址は舞鶴公園として整備されています。舞鶴公園 (福岡城跡) 名所・史跡
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表御門跡を潜ると、本丸です。井戸の跡などが残ります。
二の丸よりも高い場所にあります。
本丸御殿は、藩主の生活空間/藩の儀式の場です。 -
本丸の更に高い所に天守台があります。
天守閣を建てる際の土台となる石垣です。
天守閣へ登るには、写真の鉄御門を上らなければなりません。 -
その先には、埋門が。現在は、手前の階段からショートカット。
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埋門は、非常時には土を装填して門を埋めてしまいました。天守閣へ通じる唯一の経路です。こうして、狭い門を何回も潜ります。
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埋門の真上の通路から撮影。
天守台は、大天守台(22m×25m)/中天守台/小天守台より成ります。 -
複雑な構造が垣間見られます。
こちらは大天守台の底部。
天守閣は権威のシンボルであると同時に、有事に最期の砦として立て籠もるスペースです。 -
城で一番高い場所は、展望台として整備されています。
西側の展望では、大濠公園が見えます。 -
東側の展望
天神の街並みが見えます。 -
大天守台を出て、本丸へ下ります。
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御武具櫓御門を下って、二の丸と同じ階層の南丸へ。
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更に下の階層の三の丸南側から見た多聞櫓
国の重文指定を受けた建物で、現在は1854年に改築されたもの。福岡城の建物で、唯一オリジナルの場所に位置します。武器庫等の役割を果たしました。
三の丸南側には、内堀を跨ぐ追廻橋が存在しました。 -
西側の三の丸部分は、城内という雰囲気がしないです。平坦で土地が広く、駐車場等のスペースになっています。三の丸スクエア横には、多くの建物が移築されています。
福岡城 鴻臚館案内処 (三の丸スクエア) 名所・史跡
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名島門
名前の通り名島城の脇門を移設。黒田二十四騎の一人である林直利に下賜され、屋敷門として使用されます。1961年に現在地へ移設。名島門 名所・史跡
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旧母里太兵衛邸長屋門
黒田二十四騎の1人である母里太兵衛の屋敷にあった長屋門。1952年に解体後、1965年に現在地へ移設。旧母里太兵衛邸長屋門 名所・史跡
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ちなみにこちらが屋敷跡で、簡単な石碑が設置されています。
現在は、明治通り沿いの天神センタービルになっています。いわゆる天神のど真ん中です。母里太兵衛屋敷跡 名所・史跡
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城の西側にあり、東側の上之橋御門とともに、城内に入るための門として使用されました。
2000年(平成12年)8月に不審火で半焼しましたが、2008年(平成20年)11月に復元されました。焼失前は一層でしたが、現在の二層の姿が本来のものと考えられています。 -
下之橋御門
城の北西に位置し、藩主の出入りや公式行事に用いられた格式高い門。櫓は明治期に一層にされましたが、2000年の焼失に伴う再建でオリジナルの姿に戻されました。 -
遠景
手前より内堀、下之橋、下之橋御門の順に並び、右には(伝)潮見門も写ります。
下之橋は内堀に架かる3つの橋の一つで、フォーマルな役割を果たした木橋でした。三の丸の西側に位置します。 -
福岡城が完成した頃の絵図
城の西側は、堀というよりも池というレベルで、水路を経て海と繋がっています。東側は、一直線の堀を通して那珂川と繋がっています。 -
城の西側は、草ヶ江と呼ばれていた干潟を活用して、池沼で防衛を図ります。
明治以降は排水路(黒門川/菰川)は暗渠化され、1929年に大濠公園として整備されます。市民の憩いの場、NHK福岡放送局の展望カメラ映像でもおなじみの光景です。大濠公園 公園・植物園
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2kmほどで一周できる大きな池です。スワンボートは名物です。
公園事務所~黒門橋交差点までは、昔の黒門川の姿が残ります。水路上には、黒門川通りが通ります。黒門川通り 名所・史跡
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菰川は、河口部から明治通りまでは面影を残し、その先は暗渠化しています。暗渠上の道路を辿ると、大濠公園沿いの埋立地の全貌が明らかになります。
城の南側の内堀も然りです。菰川 自然・景勝地
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上の古地図で菰川と黒門川に挟まれた部分は、現在の唐人町に相当します。寺町として発達し、黒田如水正室の照福院が火葬された善龍寺などが並びます。
善龍寺 寺・神社・教会
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唐人町には、火災で焼失した藩校の西学問所(1784-98)も存在しました。学館長は、金印で有名な亀井南冥。実学を重視する徂徠学派でしたが、幕府が朱子学以外の儒教学派を異端としたのに伴い再建されませんでした。
ほかには、菰川沿いのヤクルト創業の地も興味深いです。 -
商店街も健在。
唐人町商店街 市場・商店街
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ちなみに東学問所は、冒頭の上之橋付近にありました。修猷館という別名は、県立高校の名前として引き継がれています。
東学問所修猷館跡碑 名所・史跡
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福岡城の北側には、先述の照福院菩提寺もあります。
圓應寺 寺・神社・教会
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参考までに、黒田家別邸跡は重臣の下屋敷が並ぶ波打ち際にありました。当時は那の津通りよりも内側に海岸線が走っていたことが分かります。
黒田家濱町別邸跡 名所・史跡
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13世紀(弘安の役)の海岸線を見ると、福岡城のある赤坂から東方向へ砂州が伸びています。砂州(砂浜)が長く伸びる姿から、長浜と呼ばれます。長浜ラーメンでお馴染みの地名の起源です。幕末の海岸線の現住所が舞鶴なので、現在の住所表記の長浜は明治以降の埋立地だと分かります。
博多湾の古地図変遷を見ると、湾内では西から東へ沿岸流が卓越し、年々東方向へ砂州が伸びています。赤坂は、文永の役で元の部隊が上陸して本陣とした過去もあります。 -
1699年の城下町の様子
白色が武家町で、城の周りは家臣の屋敷でガードされていることが分かります。明治通りは、概ね唐津街道に相当します。
城から那珂川まで全長1.3kmの堀が伸びています。 -
堀は、現在の天神西通りを挟んで西側が中堀(紺屋町堀)、東側が肥前堀と呼ばれました。両者の間には薬院橋が架かり、薬院門に通じました。
内堀と中堀の間を渡る木橋の先には赤坂門がありました。天神西通り 市場・商店街
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中堀は大正後期に、肥前堀は1910年の共進会開催に伴い、埋められました。天神地下街の7-8街区には石積み広場があり、肥前堀(南岸)の遺構が見られます。
肥前堀と石積みの広場 名所・史跡
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肥前堀跡は、天神中央公園や市役所庁舎等になっています。薬院新川との間には橋が架かり、数馬門がありました。
鍋島勝茂は関ケ原の戦いで西軍に組しましたが、黒田長政の執り成しにより肥前佐賀藩を安堵されました。その恩に報いるために、福岡城築城の際に堀の建設に力を貸したのが、肥前堀です。 -
福岡市赤煉瓦文化館に面した昭和通りの部分は、旧唐津街道です。ここに枡形門が築かれ、武家町福岡と商人町博多を隔てました。特に博多から福岡へ向かう際の検問は厳しかったそうです。枡形門は、1888年に取り壊されました。
福岡市赤煉瓦文化館 名所・史跡
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枡形門の手前には那珂川が流れ、福岡と博多を物理的に隔てていました。那珂川には、西中島橋が架かっていました。
西中島橋 名所・史跡
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西中島橋の手前は中州で、東側には中島橋(現在の東中島橋)が架かりました。
博多方面から進むと、中島橋で博多川を渡って中州エリアへ突入、西中島橋で那珂川を渡ると枡形門の番所で検問。チェックポイントを越えると福岡の街並みです。東中島橋 名所・史跡
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冒頭の上之橋から三の丸へ入った地点へ戻ります。
1948年に第3回国民体育大会が福岡で開催されることになり、福岡国体の会場として平和台陸上競技場等が整備されました。サッカー場は1950年に市民野球場(平和台球場)に造り変えられました。1987年の改装の際に外野スタンドを掘り込むと、遺跡が見つかります。 -
7世紀に朝廷が設置した外交施設で、筑紫館/鴻臚館と呼ばれました。
遺跡の一部が保存/展示されています。 -
筑紫館/鴻臚館の位置付け
筑紫館は、663年に開設された大宰府直属の組織でした。当時朝廷は白村江の戦いで新羅に大敗し、国防の最前線として設置されたのが大宰府で「遠の朝廷」とも呼ばれます。
676年に新羅との関係が修復されると、外交面で果たす役割が重視され、大陸の外交施設を迎えたり、遣唐使を派遣する施設として港沿いに筑紫館が建設されます。 -
筑紫館(つくしのむろつみ)の設置
新羅/唐から外交施設を受け入れるにあたり、使節を上京させるか帰国させるか朝廷に判断を仰ぐ間、使節を留め置くための施設として造営されました。対外交渉の窓口的役割を果たす迎賓館です。そして、遣唐使/遣新羅使を送り出し、迎え入れる宿泊所の役割も担いました。
名称は、筑紫館/府館-客館/鴻臚館/鴻臚所/蕃客所といった順に変化します。 -
当時の官道と施設
大宰府から博多湾まで一直線に伸びる官道が2本整備されています。水城西門を出た道は鴻臚館まで真っ直ぐに伸び、外交施設が通行しました。水城東門を出た道は物流の道でした。 -
博多湾から撮影した現在の航空写真にプロットすると、こんな感じになります。
右より、鴻臚館から西門へ続く道、博多遺跡から東門へ続く道、福岡空港の滑走路です。東の道は、江戸時代の日田街道/現在の国道3号線と近似するのが興味深いです。 -
福岡平野の幅が1kmほどに狭まる地点に水城という土手状の城壁が築かれ、その奥に位置する大宰府を守りました。
この狭い谷口にJR、西鉄、国道3号、高速道路が通ります。 -
南上空からの航空写真
土塁の前には幅60mの堀が構えていました。当時の弓矢の性能を鑑みて割り出した幅です。堀は、博多部へ流れる御笠川を水源とし、水路が土塁の連続性を中断しないよう土塁地下に樋を通して給水していました。 -
水城東門跡には、官道だったことを示す標識があります。
話が脱線して、すいません。 -
鴻臚館の所在は、永らく博多遺跡付近とする説が有力でしたが、一石を投じたのは九州帝国大学医学部の教授でした。
万葉集をはじめとする古代文献に記述された光景等を整理し、福岡城址に存在したと仮定します。警備厳重な陸軍施設が一般開放した日にすかさず入り、瓦の破片等を採集して学説として発表します。
平和台球場の改修工事に伴う発掘調査で、中山平次郎医学博士の学説は裏付けられました。 -
記録の中の筑紫館
最古の記述は日本書紀で、688年に新羅の外交使節(新羅王子の金霜林を大使とする)を筑紫館でもてなしたことが記録されています。万葉集では736年に派遣された遣新羅使一行が詠んだ歌が記録されています。 -
発掘状況
上が北で、弧を描いているのは球場の外周。北館と南館の間には谷が存在しました。南館南西部は、展示館と重なっています。 -
7世紀後半(筑紫館)の姿
奥が南館、手前が北館で、両者の主軸線はズレています。北館は砂浜(海岸)に面しています。 -
屋外には、筑紫館時代の南館の東門跡が残っています。間口7.7m/奥行5.3m/高さ5.5mです。
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8世紀前半(府館/客館)の姿
谷は堀に整備され、石垣等で固められています。建物も増え、東門ができています。 -
9世紀前半(鴻臚館)
外周も建物で囲まれ、どんどん立派になっています。
これ以降の地層は破壊が激しく、何も発掘されていません。
鴻臚館は、中国の外交施設(大鴻臚/鴻臚寺)の名称に由来します。 -
内部は、こんな感じで展示されています。
建物の土台部分の土を掘り返し、突き固めた土で土台を再構築していたことが分かります。 -
遣唐使(630-894)
当初は外交色が強かったが、技術等を学ぶことへ目的が変化します。仏教を学ぶ僧、政治行政制度を学ぶ官僚、技術者(楽師/木工/鍛冶/鋳物/ガラス工)を派遣しました。奈良時代に新羅との関係が悪化すると朝鮮半島沿岸を航海できなくなり、航海の危険が増大します。当初は2隻体制だったものを4隻に増やし、かつ出発日をずらす等して一人でも多くの人が現地へ辿り着くようにしました。
そんな命懸けの使節一行は、鴻臚館から大海原へ旅立ちました。 -
昔の海岸線
埋立/堆積が進んだ現在とは、大きく異なっています。鴻臚館周辺を見ると、福岡城は陸地、大濠公園や内堀の北側は海中になっています。現在は西公園になっている荒津山は陸繋島になっています。 -
出土した木簡
府館/客館時代の地層からは、荷札として使用された多くの木簡が出土しています。荷元は九州各地に及び、品物は米/鹿の乾肉等(庸と呼ばれる税区分に該当)です。これらは、外交施設の接待に使用されました。
※大宰府が九州を統括する内政機関の性格を併せ持ち、都へ運ぶ税として徴収した物品を収容していた歴史とリンクしています。 -
鴻臚館跡では、日本最古のトイレ遺構(7世紀後半)が発見されています。
いわゆる汲み取り式便所で、寄生虫卵/ハエの幼虫等が見つかりました。当時の人々は、川魚や調理が不十分な肉を食していたことが分かりました。 -
細長い棒は籌木(ちゅうぎ)と呼ばれ、トイレットペーパー代わりに使用されました。
右中段は、虫下しに飲まれた瓜の種です。 -
交易
9世紀には外交使節に伴う交易が途絶え、代わりに唐/新羅の商人が交易を目的として来航するようになります。
鴻臚館に持ち込まれた交易品は、太宰府から派遣された貿易船到着を告げる急使の報を受けて宮中から派遣された唐物使という役人が検分し、必要なものを選別して宮中へ持ち帰ります。代金を回収した唐物使は、鴻臚館へ赴いて代金を商人に支払います。期間にして3~6ヶ月が経過しています。
この後、太宰府官を介して残りの貿易品を有力寺社や地方豪族が取引しました。 -
大陸からは、薬品/香料/毛皮/綿/綾/仏典/絵画/器物など多種多様の文物が輸入されました。鴻臚館では、磁器が多く出土しています。写真は、白磁(9世紀 唐)。
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青磁(10世紀 宋)
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美しいイスラム陶器も見つかっています。
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平和台球場が1992年に役割を終えると本格的な発掘が行われ、現在は埋め戻されています。
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おまけ
明治通り沿いには、ロシア料理の老舗かつ名店がありました。お手頃価格と、内装もロシアそのものです。残念ながら、2021年に閉店。 -
こちらは、昭和通り沿いの乙な店。
ランチではビジネスマンの行列ができますが、1000円で食事できます。
魚市場に近いことを意識させられる立地です。博多ごまさば屋 グルメ・レストラン
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気に入れば、ディナーで逸品を注文すればよいかと思います。
マサバではなく、ゴマサバなので悪しからず。
次は博多部に迫ります↓
https://4travel.jp/travelogue/11894018
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