2024/03/24 - 2024/03/24
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gianiさん
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福岡は、関ケ原後に入府した黒田長政の命名で誕生した地名で、それまでは博多湾周辺を広義で博多と呼んでいました。
一般に博多というと、東西は御笠川と那珂川に挟まれた部分、南北は博多湾と房州堀跡に挟まれた部分です。江戸時代以降は、福岡部と博多部という双子都市として顕著に発展しました。
今回は、博多部の歴史を歩いて追ってみます。
ヤマト政権以降、博多は大陸への窓口として、常に国内第一の貿易港でしたが、江戸幕府の鎖国政策で辛酸を舐めます。
大陸から最新の仏教が伝来し、日本らしい食習慣の多くが伝来した土地でもあります。
要衝である博多は、藤原純友の乱(941)~福岡大空襲(1945)まで度重なる戦乱で街が焼けましたが、その度に建て直されたタフな街でもあります。
福岡部の歴史はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11890789
- 旅行の満足度
- 5.0
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前史
博多湾を囲む地域全体を博多津と呼んでいました。
現時点で稲作が行われた痕跡としては最古とされる板付遺跡は、福岡空港の南端に接する位置にあります。
南方の春日市には、金印でお馴染奴(な)国の中心地がありました。 -
ヤマト政権
博多地区は、博多遺跡/博多遺跡群と呼ばれる土地の上に展開されました。
当時と現在では、海岸線の位置が大きく異なりました。現在の観光エリアは、まだ海の底です。御笠川は、現在の流路ではなく、博多駅付近で西へ向いて那珂川に合流していました。旧流路は、比恵川と呼ばれます。 -
住吉神社
住吉三神/神功皇后を祀る神社で、大社は大阪です。最も古いのは福岡とされ、1800年の歴史があります。大阪/下関/福岡が三大住吉と呼ばれます。
航海・海上の守護神として、大阪~瀬戸内海~玄界灘というヤマト政権と大陸を結ぶ航路沿いに広く分布します。住吉神社 寺・神社・教会
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今は内陸部ですが、昔は比恵川を挟んで博多湾の冷泉津を見下ろす場所に位置し、ぴったりのロケーションでした。社記では、住吉三神が誕生した阿波岐原が当地とされます。
※津は、港(湊)を意味します。 -
住吉三神
伊弉諾(イザナギ)尊が禊を行った際に生まれた底筒男神/中筒男神/表筒男神のことで、筒男三神とも呼ばれます。
神功皇后
住吉三神の神託に従って三韓征伐を成し遂げ、帰路でも下関に自分を祀るようにという神託に従いました。 -
相撲の神
住吉三神は、相撲三神の一角も占めます。大相撲九州場所は毎年11月に開催されますが、本場所の前にここで横綱の土俵入りが行われます。写真は、境内の古代力士像。 -
那津官家
官家(みやけ)とはヤマト政権の直轄領のことで、日本書紀では536年の部分に那津官家についての言及が見られます。比恵遺跡群に該当するという説が有力です。
奴(な)→那と当て字が変更されたとされます。官家は米蔵/田地/耕作民が揃い、政権の経済的基盤でした。同時に政治/軍事的拠点であったとみられ、那津官家は大宰府の起源とされます。 -
大宰府の外港
7世紀には大宰府が設置され、九州の統括と国防/外交の前線を担いました。大宰府の外港として博多は機能し、大宰府と博多津の間には2本の古代官道が整備されます。水城東門からは博多遺跡へ、西門からは鴻臚館跡(現在の福岡城址)へ通じました。 -
櫛田神社
757年創建にして、博多総鎮守(氏神)の神社です。
拝殿奥の本殿は、中央に櫛田宮、右に祇園宮、左に大神宮という配置です。 -
主祭神の大幡主大神は越国等を平定し、外国侵略からの守護神です。大陸との窓口だった博多津らしいチョイスです。
櫛田神社 寺・神社・教会
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須佐之男命は京都祇園社の祭神で、藤原純友の乱を鎮圧にあたった小野好古が941年に勧請したものです。
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天照大神は天皇家の神で、太古の昔から祀られています。
正面には拝殿があり、奥に正殿(大神宮/櫛田宮/祇園宮)が並びます。 -
商売繁盛/不老長寿を願って、多くの人が訪れます。
写真は、拝殿の手前にある霊泉鶴の井戸で、無料息災をもたらす霊水とされます。 -
博多どんたく/博多おくんち/博多祇園山笠といった例大祭を抱える神社です。博多どんたくは、街の発展に寄与した平重盛への感謝が起源ともされます。
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楼門内には干支恵方盤が吊り下げられ、大みそかに翌年の恵方へチューニングします。
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遣唐使(7‐9c)
都を出発した遣唐使は、博多津に面した鴻臚館(外交公館)から外洋へ船出しました。8世紀には外交的意義は薄れ、先進国の政治/仏教/技術を取り入れることが重視されました。 -
最先端の仏教
遣唐使として帰国した空海が初めて開いた寺が、博多の東長寺(806年)でした。唐で密教を極め、博多で密教東漸を祈願して名前を東長寺としました。密教が東方(唐/日本,博多/国内)へ広く浸透するようにという願いを込めました。留学僧の成果が真っ先に反映されるのが、博多でした。 -
ホテルオークラ南西角に面した博多川沿いには、冷泉津と小さく書かれた港跡が。ここから唐へ向けて船が出たと思うと感慨深いです。
鏡天満宮 寺・神社・教会
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上の石碑は鏡天満宮にあります。901年に菅原道真が大宰府へ流される途上に博多へ上陸した際に、鏡を見て自身のやつれた姿を嘆いたとされるスポットです。
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鴻臚館貿易
鴻臚館は外交公館でしたが、使節滞在中には官貿易も伴いました。唐や新羅の衰退に伴い外交使節は途絶えますが、宋の商人との鴻臚館貿易は活発になります。鴻臚館は1047年に焼失し、二度と再建されることはありませんでした。都は国風文化を謳歌していた時代です。 -
国際貿易都市博多
宋との民間貿易は薩摩~越前に及びますが、最大の貿易都市は博多でした。宋の商人が船団を組んで往来し、筥崎宮/住吉神社/宗像大社といった有力神社がスポンサーとなって彼らを援助しました。彼らは博多綱首(こうしゅ)と呼ばれ、日本初の中華街(博多津唐房/大唐街)を本拠地に華僑として活動します。
※綱は組/団体、首はリーダーを意味します。 -
陶磁器
中国は窯業の最先端を行っており、唐三彩/白磁/青磁等が多く輸入されました。写真は、博多遺跡/箱崎遺跡で出土したもの。
陶磁器を積んだ船は、バラストとして船底に宋銭を敷きました。結果的に宋銭は、日本で貨幣経済化する重要アイコンとなりました。 -
聖福寺/禅宗伝来
空海/最澄が帰唐後に真言/天台宗を開いたように、栄西も博多から貿易船に乗って渡宋し、臨済宗を開きました。栄西は茶を日本へ伝えたことでも有名です。
1195年に源頼朝は、栄西に博多の百堂跡(900m四方の土地)を与え、日本初の禅寺となりました。1204年には、後鳥羽上皇から「扶桑最初禅窟(日本初の禅寺)」という額を賜りました。聖福寺 寺・神社・教会
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勅使門
きちんと天皇家の紋が入っています。勅使を迎える時以外は開かずの門で、普段は脇の総門から出入りします。 -
勅使門の先には山門が建ちます。
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その先は仏殿。
釈迦/弥勒/弥陀が鎮座します。
その奥には方丈があり、これらが一直線に並びます。
※その後、栄西は京都五山の一つ建仁寺を開山し、住職として入滅します。 -
12世紀の博多
現在の那珂川/博多川のラインが海岸線で、中洲や天神は海です。御笠川は博多駅付近で西進し、現在の春吉橋付近で海へ注いでいます。呉服町の辺りが海岸線です。中華街は旧キャナルシティイースト辺り、港(冷泉津)は冷泉公園付近です。聖福寺周辺は宋人墓地でした。 -
旧冷泉津等では、碇石が見つかっています。写真のような木製錨の上に設置されました。
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現在の冷泉津跡。上川端商店街アーケードの東側に位置します。
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謝国明(?-1253)
杭州出身の著名な博多綱首。筥崎宮/宗像大社をバックに事業を展開し、鎌倉幕府の地頭職も拝領し、小呂島を治めていました。 -
小呂島は元々は宗像大社の社領でした。このことからも謝国明は大陸航路の要所を押さえていた事が分かります。
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在日中国人は、葬儀を行う寺(仏僧)が必要で、自ら信仰する禅宗の僧職者は大切な存在でした。謝国明の支援を受けた円爾は、円覚寺に身を寄せて入宋しました。
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承天寺(1242)
帰国後に、帰依していた謝国明の援助で承天寺を開山し、謝国明も境内に埋葬されます。承天寺 寺・神社・教会
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その後、京都五山の一つ東福寺を開山し、死後は聖一国師の号を賜ります。
臨済宗をはじめとする禅宗は武士の価値観とマッチしたために、鎌倉/室町時代に庇護されます。 -
境内には、円爾が宋から製法をもたらした饂飩/そば発祥の地碑および饅頭発祥の地の碑があります。茶といい、極めて日本的と思えるものは禅僧がもたらしました。
※うどんは空海という説も。うどん食うかい?(空海)というダジャレも存在します。
※円爾直筆の「御饅頭所」看板は、現在東京の虎屋が所有しています。 -
博多祇園山笠(1241‐)
博多祇園山笠振興会によれば、円爾が1241年に疫病退散のため施餓鬼棚に乗って祈祷水を撒いたのが祭りの始まりとされます。櫛田神社を出発した山車が承天寺(1242年)に立ち寄るのは、そのためです。博多祇園山笠 祭り・イベント
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承天寺勅使門の横には、山笠発祥之地碑があります。
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元寇
南宋を滅ぼした元は、1274年10月に博多湾から上陸し、赤坂(後の福岡城付近)に布陣し、博多も被害を受けました。幕府は全長20kmに及ぶ防塁を築き、弘安の役では博多湾上陸を阻止しました。防塁は当時の海岸線の位置を把握する上で良い資料なので、図を上げておきます。 -
今更ですが、図中の赤坂と博多の間が冷泉津、鳥飼の汐干潟と赤坂の間が草ヶ江です。
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政治都市
元寇後、大宰府に代わって博多が九州政治の中心に躍進しました。鎮西奉行に始まる幕府機関が博多に移転しました。鎮西特殊合議訴訟機関(1284)/鎮西談義所(1286)/鎮西惣奉行所(1293)を経て1296年に鎮西探題が櫛田神社付近に設置されました。 -
鎮西探題跡地
発掘物から、現在の博多祇園M-SQUARE付近が鎮西探題跡地と推定されます。九州における軍事指揮権、および訴訟の解決等に当たりました。室町時代には、九州探題に引き継がれます。ビルの壁面には、発掘時の様子を撮った写真が貼られています。
位置情報には、隣の建物を入力しておきます。ダイワロイネットホテル博多冷泉 PREMIER 宿・ホテル
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博多商人の台頭
元寇後、対外貿易は博多綱主から博多商人の手に移りました。元/明/朝鮮/琉球などと交易し、大半は商人間の私貿易でした。
時には鎌倉/室町幕府の請負、琉球王国の外交使節の渡航を請け負ったりと、博多商人のノウハウは重宝されました。
室町時代には、三津七湊の筆頭(=日本一)に博多津が挙げられています。 -
妙楽寺
1316年に北浜で開基、歴代住職は大陸古刹での修行経験を持ちます。渡航経験者が多いことから、聖福寺/承天寺と並ぶ外交使節の宿舎を兼ねていました。 -
ういろう伝来の地
第4代住職の陳外郎(ういろう)が伝えた菓子は足利義満も絶賛し、後に彼の名を取って商品化されました。 -
12世紀の博多
比恵川の左岸に住吉神社、右岸に博多の街が広がります。
橙:宋人居留地
黄:日本人地区
黄緑:宋人墓地(現聖福寺)
紫:墓域
墓域のある沖の浜と町を繋ぐ橋のようなに部分は、現在明治通が横断しています。
かつてこの入り江は、平清盛が整備した袖の湊跡と推定されていましたが、福岡市博物館によると袖の湊は空想の港とされます。 -
14世紀の博多
水色:大乗寺(現冷泉公園)
濃紫:櫛田神社
紫:承天寺
黄:寺
黄緑:聖福寺
緑:妙楽寺(後に移転)
黒線:元寇防塁(現博多小学校等) -
応仁の乱後は大内氏が博多商人を庇護し、中世における自治都市としての特権を謳歌しました。1550年代に大内氏は滅亡し、代わりに大友宗麟影響下に入ります。
1559年に博多は、旧大内家臣筑紫惟門に襲撃されて焼き討ちに遭います。宗麟は御笠川の流路を現在のように北進させ、旧流路(比恵川)を房州堀に造り変えて、防備を固めました。 -
博多は、幕府九州探題を兼任する大友宗麟の下で最盛期を迎えます。アジアを股に活躍する博多商人は、その名を世界で広く知られ、西洋で出版された世界地図にも博多の名前が記されています。
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末次興善/末次平蔵(1546-1630)
博多から新天地へ移住した親子です。1571年に長崎の町の建設に私財を投じて参加し、貿易で成功します。現在の長崎市立図書館周辺は、興善町と名付けられました。住民の出身地や職業が町名になる中、人名が付いた珍しい地名です。墓所は、妙楽寺です。
次男の政直は、1618-30年まで幕府の長崎代官を務めます。彼以降、孫の代に至るまで平蔵の名を世襲します。長崎代官として、西国大名の貿易を代行しました。兄(長男の宗徳)は博多の店を継ぎ、福岡藩の豪商として生き残りました。
※長崎奉行とは別の職です。 -
16世紀の博多
一言でいうと、博多は九州本土から切り離された環濠都市となっています。
大友宗麟配下の臼杵鎮続は、御笠川の流路を現行ルートに変更します。付替部分は、石堂川と呼ばれます。旧流路の比恵川は房州堀として、石垣等で武装し櫓も設置します。臼杵鎮続の官職が安房(房州)守だったことに由来します。
承天寺~聖福寺敷地に並行する道の一本西側の道は、現在の福博通りに相当します。 -
石堂川
新たに開削された御笠川河口部の別名。写真は、南側に西門橋が写っています。 -
房州堀跡(旧比恵川)
現在の御笠橋(出来町通り)~出来町公園~博多区役所~キャナルシティ劇場(那珂川)のラインが博多の南端(房州堀)でした。承天寺通りと出来町通りが交わる出来町公園に外界(九州本土)と繋がる辻堂口門が存在しました。 -
辻堂門口
環濠に架かる唯一の橋を渡るルート。辻堂口門跡のすぐ近くには、2014年に辻堂門口が復元されました。通称は博多千年門です。承天寺通りは、大宰府まで延びる古代官道と重なります。 -
博多焼き討ちと太閤町割(1580‐87)
大友宗麟の求心力低下に伴い、肥前龍造寺/薩摩島津氏が九州覇権を巡り争います。1580年には龍造寺隆信/1586年には島津義久によって博多の街は焼失します。大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、博多は豊臣政権下に入ります。
30年で3回、7年で2回も焼失した博多の復興のために、秀吉は腹心の石田三成/黒田官兵衛を任命させ本気度を見せます。太閤町割と呼ばれる都市計画で、博多は復活します。楽市楽座および武士の立入(居住)を禁止して、商人を保護しました。沖の浜と博多浜を隔てる入り江も埋立てました。 -
朝鮮出兵(1592-98)
博多湾は水深3m程度なので大型船が出入りできず、本拠地は肥前唐津郊外の名護屋城でした。とはいえ、20万人を賄う兵站は博多と博多商人が請負い、博多は大いに潤います。 -
太閤町割は、京都に倣いました。短冊状に道路を通し、住所割は路地に沿ったもので欧米の方法と同じです。写真は1818年の地図(南北が逆)です。博多を縦断する一小路(いちしょうじ)を起点に区割りされました。
寺院の移動が伴い、妙楽寺は臨海部から現在地に移ります。聖福寺は一辺が半分に削られ、敷地面積は1/4に減少します。 -
朱印船貿易(1604-35)
徳川政権下では黒田長政が藩主として赴任し、博多西側の未開発地に城と城下町を築き、福岡と命名します。博多は武士の居住を禁じられ、商人が特権を維持します。
貿易は、家康の朱印状(=許可証)が発給された者に限定されました。朱印状は、大名/武士/商人/外国人に発給されます。博多では大賀宗九が朱印状を発給され、福岡藩主の手先として活動します。 -
朱印船の着発は長崎の一択、朝鮮との貿易は対馬藩限定、明は私貿易を禁止(海禁政策)等の内外制約が伴いますが、東南アジアに日本人町が自然発生して日本人はかつてなくグローバルに活動します。朱印状を持たない博多商人も、間接的に関与して潤います。
※日本人町は海外支店、もしくは本店の海外移転に相当し、山田長政のようにいわば外資企業(シャム王国)トップに上り詰めるような人物まで現れます。 -
鎖国(1639-)
キリスト教を警戒する徳川家光は1635年に海外渡航者の帰国を禁じ、朱印船貿易は終焉します。1636年にはポルトガルとの貿易を出島内に限定、天草島原の乱の鎮圧を挟んで1639年にはポルトガル船来航を禁止し、鎖国が完成します。それ以降、博多及び博多商人の活動領域は国内に限定されます。
続いて、安土桃山~江戸時代の著名な博多商人を紹介します。まずは博多三傑から。 -
島井宗室(1539-1615)
対馬の宗氏、大友宗麟に資金援助して、貿易を拡大します。島津氏が台頭すると、千利休を介して1582年に織田信長の庇護を得ます。本能寺の変に巻き込まれるも無事に帰還し、豊臣政権下でピークを迎えます。家康には疎まれ、意向をくみ取った黒田家にも冷遇されます。呉服町に屋敷跡を示す石碑があります。島井宗室屋敷跡 名所・史跡
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博多塀
秀吉による博多復興のシンボルです。朝鮮伝来のスタイルで、戦火の瓦礫(石/瓦片)を塗り込んだ歴史の生き証人です。各所に残っていたものの、空襲で焼失。宗室屋敷の塀が戦火を免れたために、現在は櫛田神社に移設して展示されます。 -
屋敷跡近くの本興寺には、本能寺滞在時に霊夢で宗室に危険を告げた大黒天が祀られています。
本興寺 寺・神社・教会
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神屋宗湛(1551-1635)
宗室と一緒に信長に謁見し、庇護されます。秀吉お気に入りの商人で、博多復興/九州平定で資金援助し、朝鮮出兵時の兵站を担当。博多焼き討ちの際に唐津へ避難した経緯から、郊外の名護屋が良港であることをアドバイスしたのも宗湛です。
※曽祖父の神屋寿禎は大内政権下で石見銀山を開発し、灰吹法を明から導入して、精錬法に革命をもたらした人物です。神屋宗湛屋敷跡(豊国神社) 寺・神社・教会
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豊臣政権下で重用されたことから家康には疎まれ、福岡藩でも疎まれます。秀吉に深い恩を感じていた宗湛は、奈良屋町の屋敷内で秀吉を祀っていました。1886年に、屋敷跡に豊国神社が建てられました。死後は、妙楽寺に埋葬されます。
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大賀宗九(1561-1630)
豊臣政権下で中津藩主だった黒田長政の福岡移封に同行した商人、かつ豊臣カラーに染まっていないことから福岡藩で重用されます。福岡城/城下町造営の資金援助も行います。
1605年には長政の意向で朱印状を取得し、藩内で唯一対外貿易を行いました。 -
屋敷は呉服町に構え、大賀家は幕末まで博多商人筆頭を務めました。商人の最高位は、大賀並という価格でした。死後は、聖福寺の幻住庵に埋葬されます。
以上が博多三傑です。 -
伊藤小左衛門吉次/伊藤小左衛門義直
小左衛門は世襲名で、黒田長政移封に伴い1600年に木屋瀬から吉次が博多へ移転しました。長崎にも店を構えて、貿易で財を成します。幕府の認可で通貨(伊藤小判)を発行するほど、財力と信用力の裏付けがありました。
義直は鎖国後も藩の御用商人として、歴代ナンバーワンの財力(豪商の基準を満たす財力の7倍)を誇ります。 -
1667年に朝鮮との密貿易が発覚し、一族70余名が連座して処刑されます。その中には、幼少の小四郎と萬之助も含まれ、彼らを祀った萬四郎神社が屋敷跡に建ちます。
豪商の粛清は衝撃的で、事件は近松門左衛門の戯曲を通して現代に伝わります。万四郎神社 寺・神社・教会
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黒田忠之
第2代藩主で、黒田騒動で有能な家臣を大勢粛清した愚君の代表格。一方で真言宗に帰依し、博多焼き討ちで荒廃していた東長寺を復興し、菩提寺にしています。境内の石塔は日本有数の大きさです。3代光之/8代治高の菩提寺でもあります。
※ほとんどの藩主は崇福寺(臨済宗)を菩提寺にしています。 -
江戸中後期
貿易等の特権を謳歌した商家は総じて凋落し、18世紀以降は問屋系の商人が台頭します。彼らは多角経営を特徴としました。油問屋の太田清蔵が良い例です。5代目は東邦生命初代社長等生命保険畑を歩みました。 -
統治機構
藩は博多を2名の町奉行によって統治します。とはいえ商人による自治機能も大きく機能しました。12名の行司が輪番で年ごとにトップに立ちました。太閤町割に基づき、10ほどの町がまとまって流という行政単位を作り、博多は9つの流で構成されました。祭りも流ごとに組織されます。江戸中期には行司を務めた商家が次々と没落し、年行司は機能しなくなります。 -
中洲地区
関ヶ原後筑前に入府した黒田長政は、博多西方の福崎に築城し、名前も福岡に改めました。福岡部(城/城下町)建設に伴い、福岡部と博多部を結ぶために那珂川の中州を介して橋で結びます。中州を四角形に整備して、下流側に舟入(船着場)を建設しました。中州は中の島と呼ばれ、中洲地区が誕生します。現在の中州中島町域です。西中島橋 名所・史跡
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博多と中の島は、博多川に架かる中嶌(なかじま)橋で結ばれます。現在は、昭和通りに架かる東中島橋となっています。写真では、右側が中洲地区です。
東中島橋 名所・史跡
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中の島から那珂川に架かる中嶌(なかじま)橋を渡ると、武家町福岡部です。
現在は、昭和通りに架かる西中島橋になっています。 -
中嶌橋を渡ると番所(関所の藩バージョン)があり、武士以外は厳重な審査を受けて通過しました。上の写真でも小さく写っていた洋館は、番所の枡形門跡です。
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中洲の歓楽街化(1834-)
1834年に福岡藩は、中の島と埋め立てられた旧舟入部分を中島浜新地として整備して、財政立て直しのために芝居/相撲/富くじ等の興行を開催しました。周囲には茶屋が立ち並びます。舟入跡の中島公園には、7代目市川團十郎公演の碑があります。日本三大歓楽街中洲の幕明けです。 -
上記の経緯が、國廣稲荷神社の由来に記されています。もともとは中洲稲荷神社といいましたが、1834年に國廣稲荷神社と改名されます。
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中島浜新地より南側は耕地として利用され、1751年に農夫が自前で橋を架けます(現在の博多橋)。とはいえ1888年に市制が施行されるまでは、博多ではなく那珂郡春吉村に属しました。
写真は中洲地区の南端で、南新地と呼ばれます。現在の中洲1丁目は、戦後いわゆるソープ街に成長し、現在に至ります。 -
明治維新後(1868-)
博多と福岡は行政上別個の自治体として扱われていましたが、1876年に両者は一つにまとめられ、現在に至ります。福博(ふくはく)という呼称が誕生します。福岡は政庁、博多は商業という性格を維持します。
博多町家ふるさと館は、19世紀に建てられた町家を移設展示しています。 -
明治維新後は、中洲にも文明開化の波が押し寄せ、西洋料理店なども開店しました。中洲地区は、東中洲と呼ばれます。那珂川西岸部(地理的/行政上は福岡部)は西中洲と呼ばれます。博多側目線の地名なのも、興味深いです。
※那珂川西岸部は、今も住所表記は西中洲です。 -
中洲南部の耕地部分は、一時期県立の農学校が存在しました。写真は1887年の様子で、中洲は九州8県共催の博覧会会場になっています。白い建物は、九州帝大の前身となる福岡病院です。
余談ですが、右手前には中嶌橋が架かり、福岡部の番所跡には数年後に取り壊される枡形門が残っています。 -
市制と鉄道開通(1888/89)
福岡市は、日本で初めて市制が施行された都市の一つです。市の名称を決める際に、福岡とするか博多にするかで揉めますが、最終的に福岡となります。一方、翌年に開業した鉄道の駅名は博多となり、博多市街に立地しました。。現在の出来町公園が、九州鉄道発祥の地(九州鉄道本社跡)となっています。 -
道路整備/路面電車
1910年には、博多を十字に貫く大通りが整備されました。上下に縦断する大博通りは、太閤町割の際に基準となった中央線(一小路)を拡張したものです。左右に横断する明治通りは市内を横断し、呉服町で大博通りと交差します。両者とも路面電車も走行する通りでした。 -
貿易港の復活(1899-)
江戸時代以降、博多港は内航限定でしたが、1899年に近代港として開港した時点で貿易が復活します。1908年には博多築港が完成し、大きめの船も乗入できるようになりました。道路整備の地図の上端に、築港の様子が写っています。 -
港湾の伸延
1940年頃には、大型の中央埠頭/博多湾航路の浚渫が行われ、大きく飛躍します。現在博多港は博多湾全体に広がり、22万t級船舶も係留できる国内有数の貿易港です。 -
博多部に位置する博多築港(写真)は、現在の博多ふ頭第一ターミナル(写真手前:市営渡船が使用)~クイーンビートル桟橋(築港の外側壁)までに相当します。昭和10年代には埋め立てが進み築港の第二T/国際T部分まで到達、現在はクルーズセンターまで進んでいます。
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余談
博多築港(現住所:築港本町~沖浜町)は太閤町割から19世紀に埋立てられた部分で、西端は対馬下町/上町に接します。舟入場跡という小さな石碑が現在の博多中学校沿いに立っています。
元々は中洲中島町の北側にあった藩の御舟入が、那珂川の砂の堆積で用をなさなくなったために1791年にここへ移転した経緯があります。 -
須崎橋から見た北側光景
那珂川右岸に博多中学校が見えます。左岸は博多部、構図の反対側(枠外)は中洲です。須崎橋には、1979年まで西鉄福岡市内線(循環線)が走っていました。 -
対馬小路と須崎橋の間は、対馬上町/下町です。博多山笠の山車が折り返す地点で、テレビ中継でもお馴染みの画角です。ここは銘菓鶴乃子でお馴染み石村萬盛堂の本店があります。写真では改築中ですが、現在は完成しています。
こうしたエリアは息浜と呼ばれ、太閤町割前は沖の浜と呼ばれた地区でした。 -
商都博多
博多部は商都としての集客力を維持しましたが、大規模小売店舗が登場します。1925年には、福岡市初のデパート玉屋福岡店が中洲にオープンします。
現在は建替えられて(写真右奥)、ドン・キホーテなどのテナントが入る商業施設(ゲイツ)になっています。 -
博多大橋を挟んで玉屋跡の手前には、川端商店街のアーケードがあります。博多らしいお店が多い、おすすめ商店街です。
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博多三傑や伊藤伝衛門屋敷が林立した呉服町は、博多商業の中心でした。唐津街道と町割り基線道路が交わり、交通上の要衝でした。1953年に先述の五代目太田清蔵は、呉服町に博多大丸を開業(1975年に天神へ移転)しています。
写真は、呉服町の西側に当たる西町/土居町付近で、明治通り沿いに銀行が立ち並ぶ経済エリアです。
昭和に入ると現在の西鉄大牟田線のターミナル天神エリアに松屋百貨店が開業する等、商業の中心は天神地区へシフトします。 -
博多駅移転(1963)
1889年の開業時、用地取得費もあって博多駅は郊外に設置予定でしたが、博多住民は地価を下げてまで市街に誘致しました。時代と共に九州一の駅へ成長しますが、用地不足に陥り容量が限界に達します。南東方向へ500mほど移転して、駅を作り直すことになります。上下に真っ直ぐの線が1963年に付け替えられた新路線で、左端の「く」の字の線が開業時のルートです。 -
1960年の空中写真
大博通りに直角に交わる旧駅の南東方向に、四角い新駅予定地が写っています。東側の筑紫口は耕地でしたが、新駅開業に伴い博多市街に編入されます。移転に伴い博多市街は拡張します。駅には地下街を含む複合商業施設が入り、博多商業の中心となります。 -
旧路線は、若八幡宮や承天寺境内に接する場所を走行し、先述の出来町公園を横断して、現在の祇園大通り部分を走行します。
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線路跡を道路にした祇園大通り沿いの萬行寺の境内横を走行し、
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現在解体中のキャナルシティイーストビルに面したところでくの字にカーブして、
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旧駅付近には、1242年建立の承天寺境内を分断する承天寺通りが建設されます。実は、大宰府へ通じる7世紀の古代官道の復刻ルートです。時代を錯綜する不思議な町が出来上がります。
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線路跡のこくてつ通りを進みました。
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博多部の再開発
南新地と住吉神社の間の河岸(向島地区)は、1900年に向島遊園地が開園し、桜の名所でした。その後鐘紡の工場ができますが閉鎖、広大な跡地には世紀末に巨大商業施設キャナルシティがオープンします。 -
川端中洲
世紀末の再開発で、博多大橋右岸の川端中洲にはリバレイン博多がオープンします。元々は対岸の福岡玉屋が入居予定でしたが叶わず、劇場やミュージアムといった文化的な施設が多く入ります。博多座は、川上音二郎が1908年にオープンした劇場の名前を引き継ぎ、当時犬猿の仲だった歌舞伎公演も行われます。建物横には、彼の銅像が建ちます。 -
中洲
大正期以降、南部の耕地部分も開発が進み、西日本最大の歓楽街となります。天神/中洲/川端は境界線がなくなり、連続する商業エリアとして現在に至ります。 -
2011年の九州新幹線乗り入れに伴い、博多駅ビルは巨大商業施設として、福岡部と互角に争える商業地区に成長しています。
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一方で、寺町には古き良き博多風情が残ります。こちらは、角打ちでも有名な酒屋さん。
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こんな年代物の看板も健在です。
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おまけ
呉服町下町には、ミシュランでもべた褒めの豚骨ラーメン屋さんがあります。気楽に入れるお店です。 -
入口は、こんな感じ。
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長浜をはじめとするご当地ラーメンは、全国区にするために博多ラーメンと称されますが、福岡部に名店が多いです。こちらは、元祖長浜屋の至福の一杯。250円時代が懐かしいです。
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