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更新記録<br />2024/04/11:参考書追加。<br /><br />埼玉県中央部、児玉郡神川町、児玉町、本庄市に、「かなさな」という神社が11社あります。長辺13km短辺4kmくらいの長方形に収まる狭い範囲にかたまっております。<br />漢字は「金鑚」貝の上の字が夫夫と「金鑽」先先の2種類あります。どちらでもいいようです。「金佐奈」と書く神社も2社あります。<br />そのうち8社がヤマトタケルに縁のある神社です。<br /><br />酒折宮から雁坂峠を越えて、関東平野に出る出口です。<br />これもまた「甲斐から北方の武蔵・上野をめぐって」という書紀の空白の旅路にぴったりです。<br /><br />さらになお、なんとなんと、卑弥呼の時代、このあたりには「華奴蘇奴国」があって、それが現在の「かなさな」だという説があるのです。「かなそな」と読みます。<br /><br />しにあ得意の妄説じゃないですよ。ちゃんとした学説です。<br />行ってきました。<br />わくわく!<br /><br />以下延々とタケル君に関係のないお話が続きます。最後には帰ってきて、つじつまを合わせる予定です。<br />帰ってこなくてもいいという声もありますが、見すてないで下さい。<br /><br />参考書は以下の通りです。<br />引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。<br />「倭国伝」より魏志倭人伝/講談社学術文庫/藤堂明保他全訳注/2010年<br />「考古学雑誌」12巻10号P610~621/「狗那国考(三)古代東国文化の中心」 1922年(大正11年)/国会図書館デジタルコレクション<br />「武蔵の古代史」森田悌/さきたま出版会/2013年<br />「埼玉の考古学入門」藤野龍宏/さきたま出版会/2016年<br />「日本三代実録上・下」武田祐吉・佐藤謙三/戎光祥(えびすこうしょう)出版/2009年復刻版<br />「本庄市の武蔵武士-武蔵七党の活躍とその後」本庄市教育委員会/2017年<br />「新編武蔵風土記稿を読む」重田正夫・白井哲哉/さきたま出版会/2015年<br />「さきたま文庫61・金鑽神社」岡本一雄/さきたま出版会/2003年<br />「新編武蔵風土記稿」徳川幕府昌平黌地誌調所/1830年/雄山閣活字版/1929年/国会図書館デジタルコレクション<br />「埼玉の神社」埼玉県神社庁神社調査団編/埼玉県神社庁/1986-1998年/国会図書館デジタルコレクション<br /><br /><br />投稿日:2024/02/26<br />

ヤマトタケル空白の旅路 金鑚神社1 華奴蘇奴国、卑弥呼登場!?

40いいね!

2023/10/24 - 2023/10/24

23位(同エリア128件中)

しにあの旅人

しにあの旅人さん

更新記録
2024/04/11:参考書追加。

埼玉県中央部、児玉郡神川町、児玉町、本庄市に、「かなさな」という神社が11社あります。長辺13km短辺4kmくらいの長方形に収まる狭い範囲にかたまっております。
漢字は「金鑚」貝の上の字が夫夫と「金鑽」先先の2種類あります。どちらでもいいようです。「金佐奈」と書く神社も2社あります。
そのうち8社がヤマトタケルに縁のある神社です。

酒折宮から雁坂峠を越えて、関東平野に出る出口です。
これもまた「甲斐から北方の武蔵・上野をめぐって」という書紀の空白の旅路にぴったりです。

さらになお、なんとなんと、卑弥呼の時代、このあたりには「華奴蘇奴国」があって、それが現在の「かなさな」だという説があるのです。「かなそな」と読みます。

しにあ得意の妄説じゃないですよ。ちゃんとした学説です。
行ってきました。
わくわく!

以下延々とタケル君に関係のないお話が続きます。最後には帰ってきて、つじつまを合わせる予定です。
帰ってこなくてもいいという声もありますが、見すてないで下さい。

参考書は以下の通りです。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
「倭国伝」より魏志倭人伝/講談社学術文庫/藤堂明保他全訳注/2010年
「考古学雑誌」12巻10号P610~621/「狗那国考(三)古代東国文化の中心」 1922年(大正11年)/国会図書館デジタルコレクション
「武蔵の古代史」森田悌/さきたま出版会/2013年
「埼玉の考古学入門」藤野龍宏/さきたま出版会/2016年
「日本三代実録上・下」武田祐吉・佐藤謙三/戎光祥(えびすこうしょう)出版/2009年復刻版
「本庄市の武蔵武士-武蔵七党の活躍とその後」本庄市教育委員会/2017年
「新編武蔵風土記稿を読む」重田正夫・白井哲哉/さきたま出版会/2015年
「さきたま文庫61・金鑽神社」岡本一雄/さきたま出版会/2003年
「新編武蔵風土記稿」徳川幕府昌平黌地誌調所/1830年/雄山閣活字版/1929年/国会図書館デジタルコレクション
「埼玉の神社」埼玉県神社庁神社調査団編/埼玉県神社庁/1986-1998年/国会図書館デジタルコレクション


投稿日:2024/02/26

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車

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  • 酒折宮から一番端っこの二宮金鑚神社まで。

    酒折宮から一番端っこの二宮金鑚神社まで。

  • 目印は本庄駅と深谷駅。ごちゃっと固まっています。

    目印は本庄駅と深谷駅。ごちゃっと固まっています。

  • 武蔵二宮金鑚神社拝殿。金鑚神社の本宮です。「鑽」は貝の上に夫夫です。最近老眼がひどく拡大しないと区別できません。このあと間違えるかもしれませんが、気にしないで下さい。どっちでもいいみたいです。<br /><br />一書に曰く、<br />かなさな国?<br />まんず字から来ましたか。<br />斉藤さんの斉の字は、実に様々あります。<br />吉田の吉も、うちは武士だったから士なのよ。という人と、大百姓だったので&#134071;田。という人がいまして、その時初めて、吉田の吉は、二つあることにビックリしましたが、斉藤さんは、もっと大変らしい。<br />そのいわれを書いても面白いだろうけれど、我が家は斉藤さんではないので、それについては、本物の斉藤さんにおまかせいたします。<br />と、金鑚神社。<br />どんな違いがあるのかしら?<br />ご当人というか、ご当神社にとっては、大事な大事な歴史があるのですよ。どっちでもよくはないと思う。<br />夫が雑だと、妻は、フォローに苦労します<br />By妻<br />

    武蔵二宮金鑚神社拝殿。金鑚神社の本宮です。「鑽」は貝の上に夫夫です。最近老眼がひどく拡大しないと区別できません。このあと間違えるかもしれませんが、気にしないで下さい。どっちでもいいみたいです。

    一書に曰く、
    かなさな国?
    まんず字から来ましたか。
    斉藤さんの斉の字は、実に様々あります。
    吉田の吉も、うちは武士だったから士なのよ。という人と、大百姓だったので𠮷田。という人がいまして、その時初めて、吉田の吉は、二つあることにビックリしましたが、斉藤さんは、もっと大変らしい。
    そのいわれを書いても面白いだろうけれど、我が家は斉藤さんではないので、それについては、本物の斉藤さんにおまかせいたします。
    と、金鑚神社。
    どんな違いがあるのかしら?
    ご当人というか、ご当神社にとっては、大事な大事な歴史があるのですよ。どっちでもよくはないと思う。
    夫が雑だと、妻は、フォローに苦労します
    By妻

    武蔵二宮 金鑚神社(児玉郡) 寺・神社・教会

    二宮金鑚神社、駐車場2カ所 by しにあの旅人さん
  • 拝殿の先は中門だけ。ご神体は背後の山、御室山そのものです。

    拝殿の先は中門だけ。ご神体は背後の山、御室山そのものです。

  • これが神社のもっとも古いかたちです。今にのこる大きな神社では、この形式を引き継ぐのは長根県の諏訪大社、奈良県の大神神社だけだそうです。<br />二宮金鑚神社の歴史文献初出は「日本三代実録」(901年/延喜1年)です。8世紀までには成立していたことは間違いありません。<br /><br />一書に曰く、<br />二宮金鑚神社は、本当に素晴らしい神社でした。<br />初めてお参りしたときは、感激しました。<br />しつこいですが、関東近県というのは、なんというか、東京のベッドタウン、埼玉「都民」みたいで、文化的、観光的には軽んずる風潮がありますね。<br />ねって、思わず同意を求めてしまいましたけど、みなさんだってそうでしょ?私だけではないよね。って気分です。<br />すみません。私だけかもですが、<br />そういう、「都下」埼玉にも、こんな素晴らしい神社があったのか!!<br /><br />埼玉県人って、ほんとーに謙虚。<br />こんな、大神神社に匹敵する、日本の古代信仰を今に残す神社ですよ。それを、宣伝もせず。<br />諏訪大社も大神神社も、超、スーパー有名。<br />両方とも、参拝客が押すな押すな。<br />なのに、ここ金鑚神社は、いつだって、さっぱりしていました。<br />本当に素晴らしいから、ご存じなかった方は、ぜひぜひ。<br />大好きな神社です。<br />それとですね。<br />初めてお参りしたときの社務所の女性が、品のいい方で、丁寧に質問にお答え下さって、本当にだいすきになりました。<br />By妻<br />

    これが神社のもっとも古いかたちです。今にのこる大きな神社では、この形式を引き継ぐのは長根県の諏訪大社、奈良県の大神神社だけだそうです。
    二宮金鑚神社の歴史文献初出は「日本三代実録」(901年/延喜1年)です。8世紀までには成立していたことは間違いありません。

    一書に曰く、
    二宮金鑚神社は、本当に素晴らしい神社でした。
    初めてお参りしたときは、感激しました。
    しつこいですが、関東近県というのは、なんというか、東京のベッドタウン、埼玉「都民」みたいで、文化的、観光的には軽んずる風潮がありますね。
    ねって、思わず同意を求めてしまいましたけど、みなさんだってそうでしょ?私だけではないよね。って気分です。
    すみません。私だけかもですが、
    そういう、「都下」埼玉にも、こんな素晴らしい神社があったのか!!

    埼玉県人って、ほんとーに謙虚。
    こんな、大神神社に匹敵する、日本の古代信仰を今に残す神社ですよ。それを、宣伝もせず。
    諏訪大社も大神神社も、超、スーパー有名。
    両方とも、参拝客が押すな押すな。
    なのに、ここ金鑚神社は、いつだって、さっぱりしていました。
    本当に素晴らしいから、ご存じなかった方は、ぜひぜひ。
    大好きな神社です。
    それとですね。
    初めてお参りしたときの社務所の女性が、品のいい方で、丁寧に質問にお答え下さって、本当にだいすきになりました。
    By妻

  • 二宮金鑚神社の歴史を古い順にたどります。<br />題名の「卑弥呼登場」に飛びついた方も多いと思います。<br /><br />山田孝雄説<br />▲▼▲▼▲<br /><br />3世紀くらいのこと。<br />「魏志倭人伝」に、女王が治める邪馬台国の北に、遠すぎて詳しく分からないが、次の国がある、として20の国名が並んでいます。<br /><br />★次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次に都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に【 華奴蘇奴国 】有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。★<br />(倭国伝より魏志倭人伝P95、【 】は筆者)<br /><br />この「華奴蘇奴国」について、山田孝雄が下記のように述べました。<br />(考古学雑誌12巻10号P610~621)<br /><br />★華奴蘇奴(かなそな)國は武蔵國なる金鑽神社の名稱と何等の縁故あるべしと思はる。★<br /><br />山田孝雄(よしお、1843-1958)は国語学者、歴史学者、東北大学教授、1957年文化勲章受賞。<br />ね、文化勲章ですよ、しにあだって、いつも妄説をたれているわけではないのです。<br /><br />金鑚神社のホームページの「社名」の項に、次のようにあります。<br /><br />★児玉郡は 埼玉県の平成6年度(1994)の調査報告において 1,380基の古墳が確認されており、この地域を 「魏志倭人伝」にある2~3世紀頃の倭人のクニの1つ「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」に比定する説がある。★<br /><br />山田孝雄説が根拠です。<br /><br />森田悌説<br />▲▼▲▼<br /><br />この説は邪馬台国は畿内にあったという前提に立ちます。畿内から見ても華奴蘇奴國は十分遠い。北九州説では遠すぎます。<br /><br />「武蔵の古代史」によれば、国名はグループごとに並んでおり、華奴蘇奴国の後の鬼国(き)は筑波県(あがた)の古名紀、鬼奴(きぬ)は毛野(けぬ、群馬県と栃木県)、邪馬国(やま)は邪麻(福島県)に対応し、<br /><br />★常陸から毛野、さらには会津地方が邪馬台国が束ねる小国家連合に加わっていたことになるので、武蔵地域もこの連合に入っていたことが確実視されることになるのである。★<br /><br />ただし金鑽神社が華奴蘇奴国に対応するかは疑問だとしたうえで、<br /><br />★三世紀半ばとなればそろそろ大型古墳が造られる時代であり、そのような時代環境を考慮すれば、武蔵地域が邪馬台国配下に組み込まれていても不思議ではないであろう。★<br />(以上P18-19)<br /><br />このあたりに「かなそな」国というのがあって、その名が後年金鑽神社に引き継がれたと考えると、森田説に矛盾しない。<br />私としてはなにがなんでも華奴蘇奴国を二宮金鑚神社にしたいわけです。<br /><br />うば郵船<br />▲▼▲▼<br /><br />毛野は鬼怒川の鬼怒にしたほうがいいかも。鬼怒川は古代からきぬ、「毛野川」「衣川」「絹川」と呼ばれていたそうです。現在の宇都宮のあたりに古代鬼怒川に沿って「きぬ」国があったとすると、武蔵から会津盆地に細々と線がつながります。<br />当時の関東平野なんて大森林で、熊が人間より多かった。クニたって人口は千戸もいれば多いはず。大森林を熊におびえながら古代人が往き来していたのであります。<br /><br />群馬県渋川市の吾妻川沿いに祖母島という地名があります。「うばしま」と読みます。古墳があるところなので、旧い地名でしょう。<br />4トラベラー前日光さんから教えていただいたのですが、栃木県芳賀町にも「祖母井」という地名があります。「うばがい」と読みます。室町時代までは確実に遡れる旧い地名だそうです。<br />つまりこのあたりはもっとまえから「うばがい」<br />祖母島から吾妻川→利根川→鬼怒川とたどれば祖母井です。古代関東のハイウエイじゃないですかね。船の方が早いし楽だし、熊は出ない。<br />うば郵船という船会社の始発港と終着港、ということです。<br />華奴蘇奴国は現在の本庄市あたりで利根川に面していたのです。<br /><br />一書に曰く、<br />古代日本は、女系だったそうですから、祖母というのは、その族長ってことだったのではないか。<br />通い婚ですから、男は、あくまで通り過ぎる人。<br />例えば、ヤマトタケルの弟橘姫は、「弟」だから、兄橘姫がいた。<br />兄橘姫は、兄だから、皇位継承権というか、族長継承権があるので、土地から動けない。<br />対して、弟の方は、その土地の霊魂の分社として、ヤマトタケルを護った。<br />そのときのヤマトタケルというのは、その土地の男だったり、異国の偉大なる男だったりするのではないですかね。<br />妹の力。<br />必ずしも恋人ではありませんよ。母の力は偉大なり。<br />大谷翔平、藤井聡太は、母の力。<br />、、、と、ファンとしては思いたい。<br /><br />それで、男はどうしたか。その土地には、居場所がない    <br />だから、出ていくのですよ。放浪する。開拓する。<br />新しい土地へ。新世界へ。<br />ということで、男は全て、ヤマトタケル。<br />By妻<br /><br />金鑽神社古墳<br />▲▼▲▼▲▼<br />

    二宮金鑚神社の歴史を古い順にたどります。
    題名の「卑弥呼登場」に飛びついた方も多いと思います。

    山田孝雄説
    ▲▼▲▼▲

    3世紀くらいのこと。
    「魏志倭人伝」に、女王が治める邪馬台国の北に、遠すぎて詳しく分からないが、次の国がある、として20の国名が並んでいます。

    ★次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次に都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に【 華奴蘇奴国 】有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。★
    (倭国伝より魏志倭人伝P95、【 】は筆者)

    この「華奴蘇奴国」について、山田孝雄が下記のように述べました。
    (考古学雑誌12巻10号P610~621)

    ★華奴蘇奴(かなそな)國は武蔵國なる金鑽神社の名稱と何等の縁故あるべしと思はる。★

    山田孝雄(よしお、1843-1958)は国語学者、歴史学者、東北大学教授、1957年文化勲章受賞。
    ね、文化勲章ですよ、しにあだって、いつも妄説をたれているわけではないのです。

    金鑚神社のホームページの「社名」の項に、次のようにあります。

    ★児玉郡は 埼玉県の平成6年度(1994)の調査報告において 1,380基の古墳が確認されており、この地域を 「魏志倭人伝」にある2~3世紀頃の倭人のクニの1つ「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」に比定する説がある。★

    山田孝雄説が根拠です。

    森田悌説
    ▲▼▲▼

    この説は邪馬台国は畿内にあったという前提に立ちます。畿内から見ても華奴蘇奴國は十分遠い。北九州説では遠すぎます。

    「武蔵の古代史」によれば、国名はグループごとに並んでおり、華奴蘇奴国の後の鬼国(き)は筑波県(あがた)の古名紀、鬼奴(きぬ)は毛野(けぬ、群馬県と栃木県)、邪馬国(やま)は邪麻(福島県)に対応し、

    ★常陸から毛野、さらには会津地方が邪馬台国が束ねる小国家連合に加わっていたことになるので、武蔵地域もこの連合に入っていたことが確実視されることになるのである。★

    ただし金鑽神社が華奴蘇奴国に対応するかは疑問だとしたうえで、

    ★三世紀半ばとなればそろそろ大型古墳が造られる時代であり、そのような時代環境を考慮すれば、武蔵地域が邪馬台国配下に組み込まれていても不思議ではないであろう。★
    (以上P18-19)

    このあたりに「かなそな」国というのがあって、その名が後年金鑽神社に引き継がれたと考えると、森田説に矛盾しない。
    私としてはなにがなんでも華奴蘇奴国を二宮金鑚神社にしたいわけです。

    うば郵船
    ▲▼▲▼

    毛野は鬼怒川の鬼怒にしたほうがいいかも。鬼怒川は古代からきぬ、「毛野川」「衣川」「絹川」と呼ばれていたそうです。現在の宇都宮のあたりに古代鬼怒川に沿って「きぬ」国があったとすると、武蔵から会津盆地に細々と線がつながります。
    当時の関東平野なんて大森林で、熊が人間より多かった。クニたって人口は千戸もいれば多いはず。大森林を熊におびえながら古代人が往き来していたのであります。

    群馬県渋川市の吾妻川沿いに祖母島という地名があります。「うばしま」と読みます。古墳があるところなので、旧い地名でしょう。
    4トラベラー前日光さんから教えていただいたのですが、栃木県芳賀町にも「祖母井」という地名があります。「うばがい」と読みます。室町時代までは確実に遡れる旧い地名だそうです。
    つまりこのあたりはもっとまえから「うばがい」
    祖母島から吾妻川→利根川→鬼怒川とたどれば祖母井です。古代関東のハイウエイじゃないですかね。船の方が早いし楽だし、熊は出ない。
    うば郵船という船会社の始発港と終着港、ということです。
    華奴蘇奴国は現在の本庄市あたりで利根川に面していたのです。

    一書に曰く、
    古代日本は、女系だったそうですから、祖母というのは、その族長ってことだったのではないか。
    通い婚ですから、男は、あくまで通り過ぎる人。
    例えば、ヤマトタケルの弟橘姫は、「弟」だから、兄橘姫がいた。
    兄橘姫は、兄だから、皇位継承権というか、族長継承権があるので、土地から動けない。
    対して、弟の方は、その土地の霊魂の分社として、ヤマトタケルを護った。
    そのときのヤマトタケルというのは、その土地の男だったり、異国の偉大なる男だったりするのではないですかね。
    妹の力。
    必ずしも恋人ではありませんよ。母の力は偉大なり。
    大谷翔平、藤井聡太は、母の力。
    、、、と、ファンとしては思いたい。

    それで、男はどうしたか。その土地には、居場所がない    
    だから、出ていくのですよ。放浪する。開拓する。
    新しい土地へ。新世界へ。
    ということで、男は全て、ヤマトタケル。
    By妻

    金鑽神社古墳
    ▲▼▲▼▲▼

  • このあたりの古墳に行ってきました。卑弥呼とのとっかかりが何かないか。<br />彼女は福岡生まれですので、邪馬台国は九州だと言い張ります。まあそのへんは緩めに見てください。<br /><br />一書に曰く、<br />邪馬台国は、九州にきまってますよ。<br />だって、本人が言ってるではないですか。やまたい国って。<br />これが、大和なら山どす国。東北なら山だべ国、千葉なら山だっぺ国。<br />By妻<br />

    このあたりの古墳に行ってきました。卑弥呼とのとっかかりが何かないか。
    彼女は福岡生まれですので、邪馬台国は九州だと言い張ります。まあそのへんは緩めに見てください。

    一書に曰く、
    邪馬台国は、九州にきまってますよ。
    だって、本人が言ってるではないですか。やまたい国って。
    これが、大和なら山どす国。東北なら山だべ国、千葉なら山だっぺ国。
    By妻

  • やってきました。その名も金鑽神社古墳。先先の金鑽です。

    やってきました。その名も金鑽神社古墳。先先の金鑽です。

  • 二宮金鑚神社から徒歩8.4kmです。古墳上に金鑚神社の一つが鎮座しております。目印は八高線児玉駅。<br />埼玉県本庄市児玉町入浅見<br />

    二宮金鑚神社から徒歩8.4kmです。古墳上に金鑚神社の一つが鎮座しております。目印は八高線児玉駅。
    埼玉県本庄市児玉町入浅見

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  • 円墳で直径67.6m、高さ9.75m。<br />造られたのは・・・残念、5世紀前半だそうです。卑弥呼の時代より1世紀あとです。(埼玉の考古学入門P108)<br /><br />このあたりには武蔵七党児玉氏の支族阿佐美氏の城館がありました。<br />「神社は天正4年(1576年)に古墳の裾に建立されましたが、昭和5年(1930年)に古墳の南側を平らに崩し、現在のように古墳の頂を背にする形で祀るように改めたという。」(神社前「金鑽神社御由緒」より)<br />

    円墳で直径67.6m、高さ9.75m。
    造られたのは・・・残念、5世紀前半だそうです。卑弥呼の時代より1世紀あとです。(埼玉の考古学入門P108)

    このあたりには武蔵七党児玉氏の支族阿佐美氏の城館がありました。
    「神社は天正4年(1576年)に古墳の裾に建立されましたが、昭和5年(1930年)に古墳の南側を平らに崩し、現在のように古墳の頂を背にする形で祀るように改めたという。」(神社前「金鑽神社御由緒」より)

  • 児玉郡で一番古い古墳は「南志渡川遺跡4号墓」3世紀末です。(埼玉の考古学入門P103)<br />昭和55年に発掘調査がされました。現在は消滅したそうで、行っても何もないのでパス。残念。<br />美里町立美里中学校北側だそうです。<br />二宮金鑚神社から直線9.2km、徒歩11kmです。<br /><br />3世紀末というとぎりぎり邪馬台国の時代です。周溝墓で25mあったそうです。古墳一歩手前のお墓を造れる首長はいたことになります。<br /><br />長坂聖塚古墳<br />▲▼▲▼▲▼<br />

    児玉郡で一番古い古墳は「南志渡川遺跡4号墓」3世紀末です。(埼玉の考古学入門P103)
    昭和55年に発掘調査がされました。現在は消滅したそうで、行っても何もないのでパス。残念。
    美里町立美里中学校北側だそうです。
    二宮金鑚神社から直線9.2km、徒歩11kmです。

    3世紀末というとぎりぎり邪馬台国の時代です。周溝墓で25mあったそうです。古墳一歩手前のお墓を造れる首長はいたことになります。

    長坂聖塚古墳
    ▲▼▲▼▲▼

  • 長坂聖塚古墳は4世紀末-5世紀初頭、直径50m、高さ4.5mの円墳です。

    長坂聖塚古墳は4世紀末-5世紀初頭、直径50m、高さ4.5mの円墳です。

  • 二宮金鑚神社から徒歩12.6km、直線11.5km<br />埼玉県児玉郡美里町関2040-3<br />

    二宮金鑚神社から徒歩12.6km、直線11.5km
    埼玉県児玉郡美里町関2040-3

  • 「鏡をはじめとする優秀な副葬品は、この古墳の被葬者が志戸川流域を支配した権力者であったことを推定させる。」と説明板にありました。

    「鏡をはじめとする優秀な副葬品は、この古墳の被葬者が志戸川流域を支配した権力者であったことを推定させる。」と説明板にありました。

  • ♪

  • きれいに草刈りされた古墳で、蛇の心配なく見学できました。<br /><br />鷺山古墳<br />▲▼▲▼<br />

    きれいに草刈りされた古墳で、蛇の心配なく見学できました。

    鷺山古墳
    ▲▼▲▼

  • 児玉郡で古い古墳で有名なのは鷺山古墳。<br />4世紀前半の前方後方墳。<br />

    児玉郡で古い古墳で有名なのは鷺山古墳。
    4世紀前半の前方後方墳。

  • 埼玉県本庄市児玉町下浅見822。<br />二宮金鑚神社から徒歩9km、直線8.3kmです。南志渡川遺跡4号墓は南に直線約4km。<br />

    埼玉県本庄市児玉町下浅見822。
    二宮金鑚神社から徒歩9km、直線8.3kmです。南志渡川遺跡4号墓は南に直線約4km。

  • 後ろの壊れた耕運機は残念。<br />古墳標の左には「四世紀前半の築造と推定される埼玉県内最古の古墳と考えることができる。」とありました。<br />卑弥呼の時代になんとか重なるか。<br />

    後ろの壊れた耕運機は残念。
    古墳標の左には「四世紀前半の築造と推定される埼玉県内最古の古墳と考えることができる。」とありました。
    卑弥呼の時代になんとか重なるか。

  • 写真下の三角形が「前方」上が「後方」だそうです。(「本庄市の遺跡と出土文化財」P12、13。下記も同じ)<br />前三角後方というのはないらしい。<br />

    写真下の三角形が「前方」上が「後方」だそうです。(「本庄市の遺跡と出土文化財」P12、13。下記も同じ)
    前三角後方というのはないらしい。

  • くびれの部分から出土した土器。<br />1が二重口縁壺形土器、2が椀型土器。両方とも焼く前に底に穴が開けられていました。つまり最初から実用目的ではなく、古墳に備えるための専用の「儀器」として造られました。<br />

    くびれの部分から出土した土器。
    1が二重口縁壺形土器、2が椀型土器。両方とも焼く前に底に穴が開けられていました。つまり最初から実用目的ではなく、古墳に備えるための専用の「儀器」として造られました。

  • 23年10月もう一度行って、360度のパノラマ写真を撮ってきました。<br />だいたい北東方向、以下逆時計回りです。ちゃんとつなげてあります。<br />

    23年10月もう一度行って、360度のパノラマ写真を撮ってきました。
    だいたい北東方向、以下逆時計回りです。ちゃんとつなげてあります。

  • どこが見えているのか分かりませんが、とにかく広い北関東です。<br />北から西です。写真左、遠くの山並みは秩父山地じゃないかな。写真右は上越国境の山々のはず。関東平野の北の端っこ渋川市まで30kmくらい。<br />

    どこが見えているのか分かりませんが、とにかく広い北関東です。
    北から西です。写真左、遠くの山並みは秩父山地じゃないかな。写真右は上越国境の山々のはず。関東平野の北の端っこ渋川市まで30kmくらい。

  • 北関東をドライブ中見たことあるような山です。遠すぎて分からない。

    北関東をドライブ中見たことあるような山です。遠すぎて分からない。

  • 日本は狭いと言いますが、関東平野に関するかぎりそうでもない。<br />高圧線の鉄塔と家を取っ払えれば、4世紀も今もそんなに変わらないのではないか。<br />

    日本は狭いと言いますが、関東平野に関するかぎりそうでもない。
    高圧線の鉄塔と家を取っ払えれば、4世紀も今もそんなに変わらないのではないか。

  • 一周!

    一周!

  • 高崎駅の北、かみつけの里博物館に展示されていた、5世紀、古墳時代の水田のジオラマです。爆発した榛名山の火山灰の下から発掘された遺跡を復元したもの。

    高崎駅の北、かみつけの里博物館に展示されていた、5世紀、古墳時代の水田のジオラマです。爆発した榛名山の火山灰の下から発掘された遺跡を復元したもの。

  • この時代の水田は現代のような大きなものではなく、畳一畳か二畳くらいの小さいのが、網の目のようにつながったものでした。<br />水田は水の深さが一定でないと稲がうまく育たないのは、古墳時代も現代も同じ。現代のような30m×100mのような大きな水田より、小さな田んぼの方が底を平らにしやすいし、水の量を調節しやすいのです。<br />

    この時代の水田は現代のような大きなものではなく、畳一畳か二畳くらいの小さいのが、網の目のようにつながったものでした。
    水田は水の深さが一定でないと稲がうまく育たないのは、古墳時代も現代も同じ。現代のような30m×100mのような大きな水田より、小さな田んぼの方が底を平らにしやすいし、水の量を調節しやすいのです。

  • この遺跡群が発掘されたのは高崎市の北です。鷺山古墳から約20km北。<br />鷺山古墳のあたりでもおそらく同じような田んぼの作りだったでしょう。精密な土木工事技術のない時代には、こういう田んぼの方が造りやすいはず。<br /><br />卑弥呼の時代から1世紀後、現在鷺山古墳といわれる、この高台から、このあたりを治める部族の族長は、このような水田を満足げに見下ろしていたのであります。<br />楽しい想像です。<br /><br />一書に曰く、<br />その人こそ、祖母様と呼ばれる人。又の名は、かなさな兄姫という名前の女首長であった。<br />どうですか。<br />つじつまがあうでしょう?<br />かなさな浪漫は、これらの古墳の研究と共に、いつの日か、私たちの目の前に姿をあらわすことでありましょう。<br />By妻<br />

    この遺跡群が発掘されたのは高崎市の北です。鷺山古墳から約20km北。
    鷺山古墳のあたりでもおそらく同じような田んぼの作りだったでしょう。精密な土木工事技術のない時代には、こういう田んぼの方が造りやすいはず。

    卑弥呼の時代から1世紀後、現在鷺山古墳といわれる、この高台から、このあたりを治める部族の族長は、このような水田を満足げに見下ろしていたのであります。
    楽しい想像です。

    一書に曰く、
    その人こそ、祖母様と呼ばれる人。又の名は、かなさな兄姫という名前の女首長であった。
    どうですか。
    つじつまがあうでしょう?
    かなさな浪漫は、これらの古墳の研究と共に、いつの日か、私たちの目の前に姿をあらわすことでありましょう。
    By妻

  • 四つの古い古墳を地図上にマークしてみました。<br />4km × 3kmくらいの長方形に収まります。<br />3世紀末からこの地域には、大型の古墳を造れる有力なクニがあったということです。<br />いずれも二宮金鑽神社から10kmちょっとくらいのところです。<br />秩父山地から関東平野に出た、現在の八高線児玉駅の東に華奴蘇奴国はあったと考えるとどうでしょう。この地域には、二宮金鑽神社から分かれたとされる小さな神社がいっぱいあります。<br />逆に考えて、そのうちの一つが国名を背負った華奴蘇奴神社であり、それが何らかの理由で、9世紀までのあいだに西に移った。それが現在の二宮金鑽神社。<br />こう考えると、魏志倭人伝の華奴蘇奴国をなんとか金鑚神社に結びつけられるのですが。<br />

    四つの古い古墳を地図上にマークしてみました。
    4km × 3kmくらいの長方形に収まります。
    3世紀末からこの地域には、大型の古墳を造れる有力なクニがあったということです。
    いずれも二宮金鑽神社から10kmちょっとくらいのところです。
    秩父山地から関東平野に出た、現在の八高線児玉駅の東に華奴蘇奴国はあったと考えるとどうでしょう。この地域には、二宮金鑽神社から分かれたとされる小さな神社がいっぱいあります。
    逆に考えて、そのうちの一つが国名を背負った華奴蘇奴神社であり、それが何らかの理由で、9世紀までのあいだに西に移った。それが現在の二宮金鑽神社。
    こう考えると、魏志倭人伝の華奴蘇奴国をなんとか金鑚神社に結びつけられるのですが。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 前日光さん 2024/04/27 14:10:01
    新説(珍説!爆(>_<)
    私もかなりの古代妄想人ですが、しにあさんには敵いません!

    祖母井からの新説、いや珍説には参りましたよ。
    調子が良くなくて、この旅行記から長いことご無沙汰していたのですが、わが故郷「祖母井」が、こんな風に解釈されていたとは(@_@)、いやはや恐れ入りました!

    渋川の吾妻川沿い祖母島から始まって、利根川、鬼怒川を経ての「うば郵船」の終着駅祖母井、芳賀町祖母井の役場の人に聞かせたいです。無理やりの珍説に涙を流して喜ぶことでしょう( ̄▽ ̄)
    それにしても愛媛県大洲の「祖母井さん」(こちらは人間の苗字です)は、どうなってしまうのでしょう?
    愛媛と大分には宇都宮さんはじめ、栃木と繋がりのある方々がいらっしゃるようですが。
    ヤマトタケルが、天翔けて伊予の国と豊後の国にも行ったことにしましょうか?

    金鑽神社、初めて聞きました!
    「魏志倭人伝の華奴蘇奴国」との関連、山田孝雄博士も言及されているらしいですし、
    この際、その説を全面的に受け入れて卑弥呼の時代に遡ることにいたしましょう!(^^)!

    それからかねてよりの疑問、参考文献に挙げられている文献は、どの程度読まれたのでしょうか?
    私などは視力が富に衰えてきておりまして、文字を読むことが最近ツライので、お聞きした次第です(^_^;)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2024/04/27 17:44:14
    Re: 新説(珍説!爆(>_<)
    参考文献ですが、国会図書館のデジタルコレクションはPDFですので読みにくいことはなはだしく、とても通読する気になりません。必要なところのつまみ読みです。

    「三代実録」も同じ。訓み下しですから、気楽に読むというわけにはいきません。それでも「文徳天皇実録」よりはまし。訓み下しもないみたいです。
    六国史はこの2冊以外現代語訳が講談社学術文庫で出ています。
    どなたか早く現代語訳出してください。

    講談社学術文庫からは道長の「御堂関白記」や行成「権記」の現代語訳が出ていまして、買い込みました。
    いずれこれを使って「京都源氏物語の旅」のようなものをでっち上げようと思っています。

    それ以外の本はざっと目を通しています。
    「倭国伝」なんか面白いですよ。日本以外の朝鮮諸国、まっかつ(漢字出ません)など、ファンタスティック!という感じ。

    うば郵船の話は、前日光さんにうけるだろうなと思っていました。
    華奴蘇奴国を森田説で押さえていくと、宇都宮あたりに魏志倭人伝に出てきそうな古代都市国家があってもおかしくない勘定です。
    芳賀町が町おこしでなぜ飛びつかないんだろう。

    華奴蘇奴国は本庄市あたりがもっと大々的にとりあげて、町おこしにつかってもいいと思うのですが、聞きませんねえ。
    古代北関東というのはとんでもなく面白いところだったと思います。
    これからゆるゆるとつついていきたいですね。

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