2023/10/25 - 2023/10/25
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しにあの旅人さん
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私たちの旅は、村の鎮守さまレベルの神社を訪ねることが多いのですが、今回は神社どころではなく、石碑です。石の板。表を見て、裏を見て、おしまい。所要時間数分。
児玉党の党祖、児玉維行(これゆき)が別当だった官営の馬牧場、阿久原牧(あくはらまき)。
知っている?
「知らないなあ」By妻
私を含めて、フツーの人は知りません。
金鑚神社は中世児玉党の精神的シンボルだったらしい。その党祖が児玉維行。阿久原牧に、11世紀はじめ京の中央政府から別当つまり管理責任者として送られてきました。
その後土着して、児玉党を束ねることになります。
分かった?
「もっと分からん」By妻
ま、行ってみましょう。
一書に曰く、
児玉党。
わくわく。
昔、ローハイドって、西部劇があったのご存知ですか。
今や、おじいさんになっちゃったけど、いい感じのインテリのクリント・イーストウッドが、若手で出ていました。
あの感じなんだよね。
海賊の漫画かな?とも思ったけれど、やっぱりローハイド。
なんたって馬。
日本のカウボーイのお話が、児玉党のお話です。
って、言い切っちゃいました。
いいのかな?
まあ、いいや。女は度胸だ。
今回はその線で行く!
By妻
海賊って?と聞いたら「分からないのはあなただけ」とBy妻に、冷蔵庫の目で見られました。
ワンピースのことだそうです。
参考書は下記に並べました。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
「ヤマトタケル空白の旅路 金鑚神社1 華奴蘇奴国、卑弥呼登場!?」
https://4travel.jp/travelogue/11887487
投稿日:2024/03/24
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
まずどこにあるか。
目印は金鑚神社(直線約4.5km)とJR本庄駅(直線16km) -
詳しくはこんな感じ。
阿久原牧跡碑は二つありまして、牧の西端の阿久原牧址碑(駒形神社)、
北端の阿久原牧碑(駒形稲荷)の間、神流川の両岸にひろがる広大な牧場だったようです。 -
一書に曰く、
山道です。
山が迫って、川に落ち込んで行きます。
その山の際、川の縁の路を走ります。
交通量は多くはありません。
川の名前が、神流川。
神が流れるはずはない。ここは、本来は金流川だったのでしょう。
製鉄には、水と燃料が必要です。
両方ばっちり。
ここは、製鉄した名残だ!
これこそ、鉄を求めて、諸国を放浪したヤマトタケルの歩いた跡!
ヤマトタケルが、なぜ全国歩き回ったか。
それは、中央政府が、鉄ならびに銅、水銀を必要としたからで、それを手に入れるために、征服して回った。
絶対、このあたりからは、なにかがでたのですよね。
by妻大興奮。
by夫は、冷たく反対意見を言っておりましたが、聞いてないし~。
とにかく、なにか金属が採掘されたのですよ。そして、その製鉄技術を持つ民は、馬も飼育していたのですよ。
うほほほ
古代ヒッタイトの民は、はるばる、ここ武蔵の国まできていたのであった!
By妻 -
グーグルマップに載っておりました。県道289を左折して名無しのゴンベ道、でもきれいに舗装されていました。区画整理されていて、進入路も舗装。近年別荘地で開発されて、売れずに放置されたという感じ。
私たちのような変人4トラベラーが後々いないとも限らないので、詳しく。 -
やがて行く手に小さな沢があり、ガードレール付きの橋が見えました。
左の空き地に車をおかせてもらいました。 -
橋を渡ってすぐ右に山を登る道があります。ここから50mくらいです。
-
あった!
たどり着いた喜びはひとしおです。
変人トラベラーの歓喜の一瞬。
おそらく万を数える4トラベラーでも、私たちが一番乗りではないか。 -
「阿久原牧址碑」です。
-
右から
址 原 阿
牧 久
変な並び方。
石碑の題額というのはこんな書き方をするのですかね。 -
奥に小さなお社がありました。
-
これがおそらく駒形神社でありましょう。
一書に曰く、
駒形神社って、駒形橋の駒形神社を思い出しますが、そうかあ、駒だものね。
お馬の神社なのですね。
製鉄の民は、武蔵まで来て、畜産業に転職したのね。
馬が放牧されるにはいいのではないでしょうか。
阿蘇でも、結構な起伏の土地に、放牧されておりました。
この勾配を、上ったり下りたりして、馬は足腰を鍛えたのだねえ。
武蔵のクリント・イーストウッドも、共に走り回っていたのでしょうか。
足腰、強かったことでしょう。
ローレンローレンローレン!
By妻 -
舗装道路はまだ上っておりました。この上に成田山という小さなお寺があるので、そこに行くのだと思います。
-
写真を撮りまくるBy夫
お寺まで登ろうかと思ったのですが・・・ -
周りは栗やドングリ系の木々、柿もありました。
熊さんが好きなものばかり。
By妻が、パックリと半分食いちぎられた柿を見つけました。
埼玉県にも熊はいるらしい。
直近の民家まで150mだけど、近ごろの熊さんはこういうところにもおいでになるとか。
「やめとこうね」というわけで退散。
千葉県は利根川と江戸川で本州と切り離された島です。熊はいません。千葉県民は熊に慣れてないのです。
一書に曰く、
川沿いの路から離れて、ずんずん山に入って行きます。
いいのかい?
私有地では?という細い路ですが、上の方にゴルフ場があるらしくって、別に禁止ではないみたい。
山の斜面の路に車を駐車して、うっそうと茂った山に分け入ります。
最近雨がちだったせいか、小径はしっとりして、おまけに落ち葉が降り積もっていますから、足下注意です。
我々、転んだ後がこわい高齢者です。
踏みしめて、一歩一歩。
年寄りが陰気なのは、こうやって、足下注意で、下向いて歩くからかしら。思い出せば、子供の頃は、空ばっかり見て、跳ね回っていましたね。
と、柿。
ぱっくり半分 ない。
うーむ。これをなんと解釈すべきか。
若き二人が、人目を忍んでデートに来て、柿の木をみつけた。
「あら、おいしそう。とってよ。」
「おお、いいよ。」って採って、彼女一口食いついたら、これがまあ、渋柿で、ゲゲーっと、いうことになって、「あなた、わざとでしょ。」とかで、彼氏ふられちゃった。
その話より、最近話題の、熊さんでしょうかね。
と、熊出没注意説が正当に思える山道。
斜面ですから、片側は開けて明るく、遙か下に神流川が、ゆったりなのですが。
By妻 -
肝心の碑文です。
後世の変人4トラベラーのために書き起こしました。
判読できない文字、読めても難しくて変換できない文字は■になっています。
スマホなど小さい画面で見ると変なところで改行されるかもしれません。改行位置を石碑と同じにしているからです。
此阿久原牧は政事要略に承平3年四二日太政官符■■
国司應以朱雀院秩父牧為勅使牧依八月十三日定入京期事
秩父郡石田牧一箇所阿久原牧一箇所加御馬匹右大臣宣泰
勅件宣為勅許散位藤原惟條其別当と記載■あり此官
符は朱雀天皇の御宇の勅宣なり後延元年間有道宿禰武蔵
守維行別当となり子孫その職を襲き大に繁栄■遂に兒玉党
として起ち此地神流川の清流を繞らし地勢牧場に適し■
に立野住居野門野番傷馬出等牧に縁故の地名あり且其中
中央に駒形明神祀られ二つ山の岩上には駒形稲荷社秩父瀬
には兒玉党祖を祀る有氏神社を存し官牧の遺せん(木偏に青)歴々徴す
るに足る故を以て昭和十二年本県より史蹟として指定せ
らるるに至れり茲に於て村民相謀り建碑して其由来を後
葉に伝えむとし請によりて即ち其概要を識すと■■
昭和十三年五月
内務省嘱託 柴田常恵題額
埼玉県史跡名勝天然記念物調査委員金鑚宮守撰(木偏に巽かも)
例によって読める字だけ拾う適当なまとめですが、
「政事要略」(1002-1008)に「承平3年(934年)4月20日に秩父郡石田牧と阿久原牧で秩父牧をつくった。散位藤原惟條を別当に任命した」と書いてある。
後年延元年間に有道宿禰武蔵守維行が別当となり子孫その職をつぎ大いに繁栄し、遂に兒玉党として起った。地勢が牧場に適していたので現在まで地名に縁故の地名を残している。
「散位藤原惟條(これえだ?)」はウイキペディアでは「従六位有道 惟能(ありみち の これよし)」
有道氏はもともと藤原姓だったので、どちらでもいいみたい。原典「政事要略」にあたれないのでどちらが正確かわかりません。
その子有道維行が武蔵守(武蔵権介)阿久原牧別当として赴任し、そのまま土着しました。
これは「本庄市の武蔵武士」でも同じで、有道維行が児玉党の党祖であるというのは定説のようです。
石碑にある延元年間(1336-1340)では南北朝、楠木正成と同時代です。延久年間(1069-1074)の間違いですね。
したがって、有道維行の土着は11世紀半ばということです。
一書に曰く、
でたっ!ギル・フェイバー。
有道維行も、フェイバーさんみたいに、重厚な思慮深い男だったのでしょうね。
児玉七党という、命知らずの男達を束ねたのですから、生半可な坊ちゃんではないでしょうよ。
思い出せば、ローハイドの時の、クリント・イーストウッドって、若い、無分別なちゃっちー兄ちゃんでしたねえ。
あの人が、こんなに大スターになるなんて、しみじみしちゃいます。
By妻 -
とりあえず熊さんが来そうもない開けたところで振り返ると、神川町の町並。
-
谷の出口に柵でも作れば馬さんも出ないだろうし、
-
真ん中に神流川が流れて、両側はなだらかな山麓です。
-
こんな山越えて、馬さんは散歩には行かないでしょう。
-
「神流川の清流を繞(めぐ)らし地勢牧場に適し」納得です。
丹生神社に行きたい
▲▼▲▼▲▼▲▼▲
By妻は神社に呼ばれる特異体質です。こういう場合は大体行って損はない。 -
阿久原牧址碑から道なり2kmくらいです。
-
神様は、高龗神(たかお)神、水速女(みずはやめ)神、水の神様です。
「丹」ときたら水銀ですよね。
「丹生村」というのがむかし三重県にあって、水銀の産地だったそうです。
一書に曰く、
ほらほら、丹生神社。
やっぱり、あったでしょ。
そうかあ、鉄ではなくて、水銀だったのか。
丹生神社は、今は水の神様として祀られているところも多いです。
最初は水銀の神様で、後に、多分、水銀が枯渇してからは、水の神様になったのではないでしょうか。
By妻 -
神社境内由緒。
-
拝殿のすぐ向こうは神流川。
川の南側、御嶽山のなだらかな山裾で、ここが牧だったころは、馬さんがくつろいでいただろうという地形。
中世の児玉さんちは、水銀と馬を売って、さぞかし儲けていたでありましょう。
有氏神社
▲▼▲▼
阿久原牧の近くに、有道維行を祀る神社があります。
有氏は有道の転訛だそうです。 -
♪
-
♪♪
-
♪♪♪
-
一書に曰く、
ありみち→ありうじ。
??
伝言ゲームによる変化か。時の流れによるモノか。。。
変わりすぎ。
神社は、川と道路にはさまれた、道路のカーブの内側みたいな所にありました。
神社の境内に道路を通したのでしょうか。
神社をあれこれ見て回りますと、神社は、公共のモノなのだということがよく分かります。
小学校は、しばしば神社と隣接しておりますし、公民館が、境内にある神社も数多くあります。
神社の土地に学校やら公民館やらを建てたのでしょう。
日本人にとって、神社は身近な存在なのですね。
生活に溶け込んだゆるい信仰。
戦わない信仰です。
By妻 -
「児玉党祖有道維行
生誕壱千年記念碑」
というのが境内にありました。氏子一同の建立だそうです。
氏子さんには「浅見」という姓の方が多かったです。
有道氏が土着したのは古代律令制では武蔵国児玉郡、児玉姓を名乗るようになりました。児玉党です。その児玉党の主流だったのが、庄氏、さらに阿佐美氏が分かれました。氏子さんの浅見さんは、この阿佐美氏の流れでしょう。 -
境内のお社は大きくはありませんでした。
-
そのお社の紋所は、団扇(うちわ)。
児玉党の旗印です。
あれだ!
平家物語、一の谷。庄太郎家長の嫡子小太郎依家。 -
★ここに兒玉党と覚しくて、団扇の旗さしたる者どもが、十騎ばかり、鞭鐙を会わせて、おしかけ奉る。★
このお話は、いずれ、たっぷりと。
一書に曰く、
団扇、団扇と申しましても、夏、涼を求める団扇ではない。戦闘指揮を執る団扇です。
これは、親分印ってことですね。
児玉七党っていうのは、必ずしも血族ってわけではなかったらしいし、名七党のメンバーは、入れ替わっていたらしいですからね。
その時々に、自分の主義主張といえば、かっこがよすぎ、我が家にとって得か損か、利害で衆合していたのではないか。
だから、大変だったのよ~。まとめるの。
By妻
阿久原牧・駒形稲荷
▲▼▲▼▲▲▼▲▼ -
阿久原牧の西の端っこにやって来ました。
「ルート案内を終わります」というナビの無情な宣告。
石碑とお稲荷さんがあるはずですが、なし。 -
木立の中に石碑のようなものが。
-
ありました。
「埼玉県指定史跡 阿久原牧」
熊の心配はない代わりに、なんともシンプルな石碑です。
コメントのしようがありません。
近くに塚のようなものあったので登ってみました。 -
こんな階段です。
その上に、 -
これが駒形稲荷らしい。
実はこのブログを書き始めて、初めて気がついたのです。
一書に曰く、
ここも道路わき。すぐそばで、道路がT字になっており、どこから何処に行くのか、大型トラックが、砂埃を立てて通り過ぎます。
そういうトラックの運転手さんが、昼寝するのにぴったりの木陰を作る、ちいさなパーキングがありまして、その向かい側が、小公園。
そこに、小高く塚があります。
なにやら石碑が、あれこれありました。
勇んで向かいましたら、水戸黄門のナントカだそうで、私は、今は興味ないのでパス。
お稲荷さんもここにありました。
by夫は、注意力散漫ですから、わかんなかったんだって。
頂上は、畳三枚もないのにね。
By妻 -
その隣の立派な歌碑。
水戸光圀つまり黄門様の歌碑です。
摩耗してほとんど読めません。
神川町のホームページに「この地を訪れた水戸光圀(黄門様)は次のような歌を作ったと云われています。」とありました。
★阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒にいさむ武士★ -
阿久原牧の碑のすぐ近く、県道13号が神流川を横切る上武橋から阿久原牧。
このあたりが牧の西端ですから、柵でも作って「出るなよ」と馬たちに言っていたのでしょう。川をはさんで、なだらかな山裾です。
いつからここで馬が飼われていたのかな。
9世紀に京の朝廷直轄の牧場があったのは確実。馬の牧場なんて、つくれといわれてすぐできるものではないでしょう。
そのはるか前、馬の飼育の専門家、おそらく渡来人が飼育を始めたのではないでしょうか。
ここで思い出したのは、さきたま古墳郡、将軍山古墳、6世紀の復元武人像。 -
このお馬さん、ここで育ったのではないか。
ここからさきたま古墳群まで道なり約50kmです。 -
金鑚神社に戻ります。
3世紀末の魏志倭人伝から700年の時が流れて、次に「かなさな」の名が歴史に登場するのは10世紀。
二宮金鑽神社は901年(延喜1年)成立の「日本三代実録」には「金佐奈神」として出てきます。
★
日本三代実録巻の第六
貞観4年(862年)
六月戊戌の朔にして四日辛丑(6月4日)、武蔵国正六位上金佐奈神を官社に列(つら)ねき。(上巻P165)
(同じ年八月)
六日壬寅。武蔵国正六位上金佐奈神に従五位下を授けき。(同P168)
★
神社は9世紀前半には成立していたのは確実です。
6月に官社にして、8月に昇進させています。
この神様に位をつけるというのは、よく分かりません。人間の分際で生意気だと思うのですが。
9~10世紀というと、古代律令制の軍団が廃止され、無秩序状態になり、群盗が横行するようになりました。僦馬(しゅうま)の党といわれます。馬に乗った武装強盗団。一説にはこれに対抗して農場主が武装し、農園の農民も武装させたのが、武士団の起こりと言われています。
武装農民も強盗団も似たようなもので、武装農民が僦馬の党を襲ったりすることもあり、要するに強いもの勝ち。
武蔵国児玉郡では、児玉党と言われる武士集団が勢力をもちました。関東の武士団武蔵七党の一つでした。金奈佐神社はその児玉党の精神的バックボーンであり、近郷22ケ村の総鎮守でありました。
「本庄市の武蔵武士」には、
★児玉郡に割拠した児玉党一族の共通した信仰対象であった金鑽神社★
とありました。(冒頭写真ページP2)
ここで不思議なのは、9世紀862年以前に金鑚神社、ここでは金佐奈神ができているのに、有道維行が阿久原牧の別当として赴任してくるのは11世紀の初めなのです。
つまり維行が党祖として児玉党を束ねる以前に、金佐奈神は大神社だったことになります。
元祖児玉党というのがあって、それが金佐奈神を作って、盛り上げていたことになります。
軍事貴族
▲▼▲▼
維行は、いわば御神輿として元祖児玉党に担がれたと考えると分かりやすい。
中世の武士は、武装強盗団つまり僦馬の党から自衛するために荘園主が武装したものだと、私は学校で習ってきました。
でもそういう単純なものではないそうです。「武士の誕生」には「軍事貴族」という専門用語がでてきました。京の中央政府の官僚で、軍事技術を身につけた中下級貴族をいうのだそうです。かれらが地方の治安回復に専門技術をもって活躍し、やがて土着する。
単なる武装した農園の主と違うのは、軍事貴族は、武術や、洗練されたいくさの運用技術のほかに、中央政府とのコネをもっています。武装農民団としては、大将に担ぎ上げるにはこれほど便利なものはない。
有道維行が、軍事貴族だと考えると、すっきりします。
「阿久原牧址碑」には散位藤原惟條とありました。散位というのは五位か六位で、役所のポストに就いていない下級貴族だそうです。
「本庄市の武蔵武士」などによると、有道維行は六位の貴族で、関白藤原道隆・伊周(これちか)の家司(けいし)だったという系図もあるとか。
中央では六位などはしたっぱ、下級貴族ですが、武蔵国の辺境では大変なものらしい。辺境武装貴族です。
じゃあその元祖児玉党はなにかというと、やはり幻の華奴蘇奴国、乎獲居王国の末裔じゃないですかね。
だてに雄略天皇と焼きまんじゅうを食っていたわけではないのです。
「ヒッタイトだよ~~~」By妻
「光るきみへ」
▲▼▲▼▲▼▲
ここでなんとNHK大河ドラマの藤原道隆登場。道長の一番上のお兄さん、道隆です。ドラマでは時々、藤原家の家来で、人相の悪い武者が出てきます。
維行は道隆の家司だったそうで、有道維行はその一人ということになります。あれほど粗野だったかな。
埼玉県人は今からでもNHKに、藤原の家司をもっと上品にするように申し込むべきです。
国の住人
▲▼▲▼
有道維行は武蔵国の住人になったわけです。
平家物語などで合戦冒頭武士は、なんとかの国の住人と高らかに名乗りを上げます。「氏文(うじぶみ)よみ」というそうです。
私はあれを住民票を読み上げるようなものだと思っていました。
ところがこの時代、住人とは領主とほぼ同じで、大小はともかく領地を持ち、郎党を抱え、馬や武具を自前でそろえられる武士のこと。
ゆめゆめ私などは「上総国の住人」などと言ってはいけないのです。
江戸時代の博徒の「手前生国と発しますは云々」と切る仁義は、「氏文よみ」の流れを引くものだそうです。(「武士の誕生」P28)
映画「男はつらいよ」冒頭寅さんの発しまする仁義も、由緒あるものなのです。
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旅行記グループ
ヤマトタケル空白の旅路 金鑚神社
この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2024/05/17 23:40:18
- ローハイド→ヒッタイト→藤原道隆→寅さん
- さすが、しにあさん(by妻さんかな?)
人の流れが滅茶苦茶です!
ローハイドかぁ。。。懐かしいわぁ、あのテーマ曲の印象的なこと!(^^)!
小学生くらいの小さな子供でも一度聞いたら忘れられない!
同時に私は、「ララミー、ララミー♪」というのや「ラッシー、ラッシー、♪」というのも浮かんできちゃいます(>_<)
「名犬ラッシー」なんて、テーマソングに、提供している石鹸メーカーの「ミツワ、ミツワ、ミツラのラッシー♪」ですからねぇ。。。
いやぁ、良き時代だったような。。。ヽ(^。^)ノ
さて、私は藤原道隆って、意外に好きなんですよう。
なにせ「源氏」より「枕草子」の方が好きなもので。
枕を読むと道隆たち中の関白家については、とても素晴らしく描いていて、あの伊周ですら、すてきな貴公子であります。
定子に至っては、こんな美しい女性はいないと思わざるを得ません。
高階の貴子さまも教養ある方で、道長たちよりも私は中の関白家の方がひいきでございます。
清少納言は暗いことはあまり書いていませんし、書きたくない性格だったのでしょう。
私、人間で一番嫌なのが陰険な人なんです。
紫式部はどちらかというと、陰険な感じがしてしまいます。
ま、陰険でなけりゃ、あんな複雑極まりない大長編は書けないと思いますし。
「源氏物語」は、今後も頂点に輝く名作・傑作であることは確かでしょう。
おっと、こういうことを書き始めると止まりませんので、この辺にいたします。
それにしても、元祖児玉党は幻の華奴蘇奴国、乎獲居王国の末裔に繋がるのですか?
そして、ヒッタイト~(*^^)v 破壊的な妄想力に脱帽いたします。
最後は寅さんの仁義に結びつける辺りの、しにあ流あざとさ!
児玉党の詳細については、頭が痛くなってきましたが、時空を超えた縦横無尽な論説には敬服いたしました(^_-)-☆
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2024/05/18 18:14:09
- Re: ローハイド→ヒッタイト→藤原道隆→寅さん
- 変幻自在のしにあ夫婦節、お楽しみ下さい。
「光る君へ」は毎回楽しみにしています。ちこちに源氏や枕草子が見え隠れして、ワクワク。
このあと、道長が源氏の原稿を持ち出してしまうあたり、どう処理されるのか、楽しみです。
現行犯で紫式部が現場を見つけて、道長が宮廷中を逃げ回るというのはどうでしょう。中に入って間を取り持つのは清少納言、だったりして。
ドラマは史実に矛盾しっぱなしですから、このくらいのアドリブはいいんじゃないですかね、大石さん。
更科ちゃんが紫式部にサインをねだるとか。
奴蘇奴国からさきたま古墳への歴史、専門の学者が関心を持たないのが不思議です。地理的に非常に近く、時間差は200年なんですから。
前回紹介した森田悌説を掘り下げて、前日光さん地元の芳賀町と魏志倭人伝の関係など、調べている地元の古代史研究者はいませんか。
森田悌は講談社学術文庫の日本後紀、続日本後紀の現代語訳をした学者で、群馬大名誉教授。森田さんがご自分でやってくれませんかね。埼玉県出身だそうです。
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