2024/03/03 - 2024/03/03
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Reiseさん
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和歌山城公園は広いです。
天守閣の見学のあとは、紅葉渓庭園、御橋廊下の見学へ。
二の丸跡も広く、かつては大奥があった場所です。
わかやま歴史館もお城の敷地内にあります。
お城の歴史、和歌山にゆかりのある人々の資料の展示があり、興味深かったです。
陸奥宗光夫人の写真、高校生の頃初めてみました。
美しい女性です。
しかも、陸奥宗光が捕らえられ、不在の際も家を守っていた強い人。
彼女が表紙の本も持っていました、、、いまはもうありませんが。
懐かしい思い出がこみ上げてきました。
1階は観光案内所、おみやげ物のコーナーもあり、近くでイベントもあったせいか、とてもにぎわっていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
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紅葉渓庭園にやってきました。
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沿革。
江戸初期に藩主徳川頼宣により西の丸御殿に造られたお庭。 -
広い池もあります。
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イチオシ
鳶魚閣(えんぎょかく)の風景と御橋廊下の風景もきれい。
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イチオシ
瀧のようなところも見えて、船石もあります。
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橋を渡り、
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緑の藻がとてもきれいでした!!
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鯉もいます。
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イチオシ
名前の通り、紅葉の季節は格別美しいそうです。
11月下旬から~。 -
茶室もあります。
紅松庵。 -
静かな大名庭園でした。
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そして、御橋廊下へ向かいます。
こちらの石は橋の柱を支えていた礎石。 -
説明があります。
こちらの場所はもともと徳川頼宣の隠居の場所として建てられた西の丸があったところです。
隠居所として、能や茶道、自然を楽しんだところと、ありました。
そして、御橋廊下とは、藩主と付き添いの人だけが通れる橋。
二の丸と西之丸を行き来するために造られた、斜めになった橋です。
屋根が取り付けられて、外からは見えない仕組みになっています。
斜めの橋はとても珍しいそうです。
1999年から2000年に発掘調査も行われ、礎石や瓦などが出土しています。 -
入口。
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入口付近に大きな石燈籠がありました。
高燈籠。
文政八年と書かれています。 -
ちょっと読みにくいのですが、説明板。
1825年に徳川治宝が船の安全を祈願して、紀淡海峡の見える水軒御用地の中に1対の石燈籠を置いたそうです。
その後、1基が徳川家より村戸長へ寄贈され、裏山に建てられたそうですが、新たに灯台ができるなどして、長く埋もれていたところ、昭和62年に移築復元されたといわれています。 -
土足は厳禁。
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斜めの橋。
窓があり、明るいです。
当時は草履だったでしょうから、歩きやすいためか、小さな段が造られています。
靴を脱いで歩くとちょっと歩きにくい、、、 -
イチオシ
お殿様とお付きの人だけが通れるなんて、、、なんて、贅沢な。。
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窓から外はちらりと見えますが、外からは見えない、、
安全のための工夫なのでしょう。
屋根もあるし。 -
あっという間に二の丸のほうへ。
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イチオシ
こう見ると、傾斜のある橋がはっきり。
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この御橋廊下があった石垣の上には南北5棟の多聞楼があったといいます。
多聞楼はお城を守るためのもの、平和なときには武器などを保管するための建物ですけれど、それにしても、5棟も。
大きなお城ですね~、つくづく。 -
イチオシ
ここから観る御橋廊下もきれい。
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天守閣もみえますよ。
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こんな説明板がありました。
穴蔵状の遺構の説明。
写真にもありますが、何か特別なものを収納するための穴のような蔵みたいです。
江戸城にも大奥の近くにあり、非常用の調度品などを納めていたといいます。
ここもそうだったのでしょか~こちらも二ノ丸というお城の大奥に当たる場所の近く。
御橋廊下のころには使われていなかったこともわかっています。
下の写真は化石の石が石垣に使われていたという説明。 -
こちらがその石。和泉砂岩です。
友ヶ島から運ばれてきた石のようです。
穴蔵状遺構の付近の石垣。 -
はっきりわかります。
古代アマモの化石で約7000万年前のもの。 -
まわりは、近代的なビル群がそびえたつ。
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発掘された遺構の説明と、二ノ丸の説明があります。
表と中奥、大奥に分かれています。
表は藩主の謁見、儀式、役人の政務が行われていたところ。
中奥は藩主の居間があり、家老や側近の居場所。
大奥は側室や奥女中の場所、藩主のみが入れることができる場所でもあります。
この説明板のあたりが大奥にあたると、ありました。 -
かつては華やかなお城の生活や政務の場所で、にぎわっていた場所です。
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紅松庵のお茶室の説明がありました。
こちらで休みたかったなぁ~。 -
こちらからも庭園の見学に入れます。
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西の丸と大奥の詳しい説明板もありました。
広いですね~。 -
中奥のあったあたり。
藩主の居間や家老、側近の居場所。 -
こちらも広場に。
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西ノ丸の表は藩主の謁見、儀式が行われていたところ。
政庁であり、役人が政務を執っていた場所です。
昔の写真がありました。 -
このあたり、鳥のさえずりが激しいです。
自然が豊かなんですねぇ~。 -
こんなに沢山の野鳥が。
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自動販売機も忍者風です。
そういえば、城内の公園のなか、ときどき、忍者の格好をした人を見かけました。
道案内もしてくれるようでしたが、、 -
イチオシ
虎伏像をアップで。
なんだか猫みたいで、可愛いです。 -
マンホールも手鞠模様。
てんてんてんまり、てんてまり~♪ -
岡口門のほうへ行ってみます。
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岡口門。
かつてはこちらが正門でした。 -
説明があります。
豊臣秀吉の命で弟の秀長が築城し、桑山重晴が城代であったころにはこちらの門が正門。
1600年の浅野幸長の城主の時代には、大手門は一の橋の門のところになりました。
そのあとも重要な役割の門だったようで、蔵や櫓もあったとのことですが
今はありません。
空襲にも焼けずに残り、貴重な門の一つです。 -
外側からみたところ。
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こちらにもお城の石碑。
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こちらにもお城の説明板や
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城内の案内図もあります。
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大木もありました。
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公園内にあるわかやま歴史館にも来ました。
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1階は観光案内所やおみやげ物のコーナーもあります。
イベントが近く出会ったのか、日曜日だったためか、人も多かったです。 -
上の階へ。
歴史館があります。
お城についての歴史、和歌山にゆかりのある人物の紹介の展示があります。
天守閣のチケットを見せると、割引がありました。 -
お城の歴史のコーナーから。
まず入ってすぐに目に入るのが、金色の印。 -
獅子紐印というのだそうです。
黄金色の金属印。
親獅子と子獅子、8か所の印の面を持ちます。
10代城主 徳川治宝が使用したものか、また11代城主の徳川斉順が使用したものか、不明だそう。 -
お城の歴史ですが、
雑賀衆と呼ばれる地縁的な共同体の人々と織田信長との関わりなど。
本格的なお城の築城までの歴史。 -
豊臣秀吉が雑賀のお城の太田城を水攻めにして、滅ぼし、
弟の秀長に築城を命じます。
その後1600年には浅野幸長が城主に。 -
雑賀衆に関しての資料の展示。
雑賀衆は鉄砲をよく使ったそうです。 -
1600年には浅野幸長が城主に。
その後、徳川家康の10番目の息子 徳川頼宣が城主に。
紀州藩として徳川御三家のひとつに。 -
瓦にもそれぞれ城主の家紋があり、発見されています。
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お城の詳しい図。
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城下町も整備。
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紀州徳川家の武家文化について。
能楽や茶の湯など、武家文化が発達します。 -
茶の湯はとくに、発達しており、
徳川頼宣が表千家の茶道頭を召し抱えるなどしています。
徳川治宝の時代になると養翠園の大名庭園を造りますが、和歌山県最古の茶室実際庵も造られています。
お庭焼きといわれる焼き物もつくり、茶道を愉しんでいたようすがわかります。 -
実寸大の茶室 実際庵の模型がありました。
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端正なつくりです。
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実際庵のある養翠園にも行ってみたいです。藩主の別荘だったところ。
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紀州藩では、茶の湯の文化が根付いていたのですね。
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出世を祈る吉祥画です。
和歌山城の杉戸だそうです。 -
和歌山、、歴史の街ですね~。
雑賀衆という時代ゆかりの場所も訪ねてみたいです。 -
ビデオでの紹介や
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触ってみることができるお城。
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お城の模型など。
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近現代の和歌山の歴史の展示室へ。
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和歌山ゆかりの人物たちの紹介。
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まず、明治期の外交官、陸奥宗光。
もともと海援隊に属し、坂本龍馬などと行動を共にしています。
新政府になってから、藩閥政治を批判し、投獄され、その後外遊を経て
外務大臣に。
1894年の日英通商航海条約を締結し、不平等条約を結んでいた国々
アメリカ、フランス、ドイツなどとも、不平等条約を撤廃しています。
日清戦争にも全権として伊藤博文と出席、調印。
陸奥外交といわれるほど、活躍した外交手腕でした。
そういえば、坂本龍馬を暗殺したであろう首謀者を襲撃しているのも思い出しました。 -
陸奥宗光に関しての展示。
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イチオシ
写真、、
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イチオシ
陸奥亮子、陸奥宗光の二番目の奥さんです。
とても美しい人だったそうです。
アーネストサトウも絶賛したという。
こちらの写真は良く見かけます。
懐かしいです、、というのも、
高校時代に日本の女性史という本を買いに本屋に行く、、と話しましたら、日本史の先生に、私にも買ってきて~と頼まれたことがあり、その表紙が陸奥亮子でした。
先生は今病と闘っています。早く良くなりますように!!
当時はアマゾンもない時代、本屋に行って本を買う、、というのが一般的でした。懐かしいです。
美しく気品ある女性です。
陸奥宗光が投獄されてからも、家を守っていた強い人でもあります。 -
イチオシ
海援隊時代の写真もありましたよ。
坂本龍馬と一緒に映っています。
こちらの写真もよく見かけます。 -
下関での日清戦争後の様子や陸奥宗光の書簡など。
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下関条約締結の様子。
伊藤博文とともに全権大使でした。 -
南方熊楠も和歌山出身の人なのですね。
「知の巨人」とも称されるように、幼いころから記憶力にも優れ、その後
生物学、民俗学、博物学、、様々な分野で才能を発揮した人物。
昭和天皇に生物学を進講したことでも有名です。
自然保護の運動も行い、熊野古道が世界遺産になったことも南方熊楠の運動がつながっているそうです。
エコロジーの先駆者といわれています。 -
和歌山城の埋め立て、鎮守の森の伐採などに反対し、自然保護を訴えます。
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昭和天皇に進講したときの写真や、細かい細かい字の書き物、、
几帳面な書き物の数々。
エピソードの多い人だったようです。 -
日本画家の川端龍子。
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川端龍子の資料。
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松下幸之助も和歌山出身。
経営の神様。 -
ご夫婦のレリーフもありましたよ。
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松下幸之助に関しての展示。
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有吉佐和子も和歌山出身。
あとで、記念館にも行きましたよ。 -
鶴の門跡あたり。
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鶴を飼っていた時期の名前のなごりなんでしょうか、、
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赤い門もありました。
追廻門。櫓もなく、石垣に囲まれた門。 -
獄神社も近く。
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陸奥宗光の像を観に来ました。
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公園のようです。
可愛い電車。 -
機関車も見えました。
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和歌山出身の陸奥宗光。
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公園の駐車場の片隅にあります。
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カミナリ外交と呼ばれていたそうで、どこか厳しい風貌、、
威厳の有る様子です。 -
碑の中の文が心に残りました。
息子さんにあてた手紙の一節らしいですが、
「堪忍のできることは堪忍し、堪忍のできないことは堪忍しない」
忍耐を説きつつも、そうでないときには許容しない、、、
堪忍のできないことは堪忍しない、、という最後の言葉に、陸奥宗光の正しいと思う道を突き進むという強い気質を感じました。
正義感の強い人でもあったのでしょう~。 -
年表もあって、詳しく説明がありました。
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陸奥宗光が今の日本を観たら、どう思うでしょう~。
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お城のそばの岡公園、広くていろんな史蹟もあります。
時間があったら、散策も面白いです。 -
このような顕彰碑もありました。
李眞栄。
儒学者。
徳川頼宣に侍講していた人物。藩政にも関わり、韓国との交易に尽力しました。
李梅渓はその子。
徳川光貞に侍講し、同じく韓国交易に尽くしています。
李梅渓の教は藩校などでも用いられました。
その教えが碑にあります。
「父母状」、孝行を説いています。
教育の方針ともなったようです。 -
陸奥宗光像の近くに、長屋門がありました。
長屋門は従者や使用人の住む長屋と門が一体になったもの。
和歌山市内に唯一残る武家屋敷の長屋門。 -
大村弥兵衛家のものだそうです。
大村弥兵衛は中級武士。
城主徳川治宝に用いられ、最終的には800石になった家だそうです。 -
とても重厚な造りでした。
城下町、以前は沢山こんな建物があったことでしょう~。
実際に住まいとして使われ、2017年に岡公園に移築されたそうです。
つぎに、有吉佐和子記念館や博物館をまわります。
最後までお読みいただいてありがとうございます。^^
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