2024/02/27 - 2024/02/27
1534位(同エリア7080件中)
ペコちゃんさん
- ペコちゃんさんTOP
- 旅行記407冊
- クチコミ106件
- Q&A回答1件
- 621,631アクセス
- フォロワー21人
山歩き仲間7名で、久し振りの鎌倉散策を楽しみました。
2月下旬のこの時期は、境内を歩くと梅の香が漂い、鎌倉観光のベストシーズンの一つと言えます。
最初は鎌倉五山めぐりを、と思いましたが、寿福寺は拝観不可で浄妙寺は離れた所にあるため、< 円覚寺 ⇒ 東慶寺 ⇒ 浄智寺 ⇒ 建長寺 ⇒ 亀ヶ谷坂切通 ⇒ 浄光明寺 ⇒ (江ノ電) ⇒ 高徳院 ⇒ 長谷寺 >と回る約2万歩の街歩きとなりました。
写真は、鎌倉のシンボル・高徳院の鎌倉大仏。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
PR
-
今回は、北鎌倉の寺院を中心に鎌倉駅まで歩き、江ノ電の長谷駅から鎌倉大仏・長谷観音へと回るコース。
-
横浜で横須賀線に乗り換えて、9時43分に北鎌倉駅に到着。
昭和2年に北鎌倉仮停車場として開業し、昭和5年に現在の駅舎が造られて北鎌倉駅がスタート・・・古都・鎌倉に相応しい静かで素朴な駅です。 -
駅周辺の閑静な住宅地・・・美しい紅梅が見頃を迎えています。
-
<1>円覚寺(えんがくじ)
円覚寺は、二度の元寇(文永・弘安の役)で亡くなった両軍の兵士を弔うために、1282年に鎌倉幕府第8代執権・北条時宗(1251~1284)が中国(宋)の高僧・無学祖元を迎えて創建した臨済宗の寺院です。
無学祖元(1226~86)は1279年に時宗に招かれて来日し、建長寺の住職となりましたが、時宗が円覚寺を建てたのは、帰国しようとしていた無学祖元を引き止めるためであったとも言われます。
総門 ⇒ 桂昌庵 ⇒ 山門 ⇒ 仏殿 ⇒ 選仏場 ⇒ 唐門 ⇒ 方丈 ⇒ 鐘楼と回ります。 -
北鎌倉駅のすぐそばにある円覚寺・・・鎌倉五山の第二位に列する大寺で、正式名称は「瑞鹿山 円覚興聖禅寺」。
「総門」に架かる「瑞鹿山」の山号は、仏殿開堂落慶の時に無学祖元禅師の法話を聞こうと白い鹿が集まったため、という言い伝えからきています。 -
総門から進むと、左側にある「桂昌庵(けいしょうあん)」・・・円覚寺には19の塔頭が残っていますが、ここは1400年頃に開創された第49世・承先道欽の塔所。
-
庵の前に咲く、美しい河津桜。
-
庵内には、1717年頃に作られた木造十王像が祀られていることから「十王堂」「閻魔堂」とも呼ばれます。
閻魔大王像の背後には数本の矢が立てられており、前には「的」が・・・庵の裏には弓道場があり、弓道の聖地と言われます。 -
1785年に再建された、円覚寺を象徴する「山門(三門)」・・・三門とは三解脱門(空・無相・無願)を象徴し、煩悩を捨てて悟りの境地に至る門。
夏目漱石の小説『門』では、主人公が鎌倉の禅寺を訪ね、数日、坐禅をするくだりがあり、その描写は若き日の漱石が円覚寺で坐禅をした経験を踏まえたものです。
その他、島崎藤村(『春』)、有島武郎(『或る女』)らも執筆のために訪れるなど、円覚寺は多くの文士の創作の舞台・活動の場となりました。 -
大正12年の関東大震災で倒壊し、昭和39年に再建された「仏殿」・・・堂内には本尊が祀られています。
-
仏殿に鎮座する巨大な本尊・宝冠釈迦如来坐像・・・宝冠と胸飾りを纏う厳かな姿は圧巻です。
1282年の仏殿開堂の時に安座された像ですが、1563年の大火で頭部だけが救出され、1625年の仏殿再建時に体部が作られました。 -
仏殿の左の奥にある無学祖元(右側)と達磨大師(左側)の坐像・・・円覚寺開山の無学祖元禅師が、とても優しい慈悲深い表情をしておられるのが印象的です。
-
仏殿の天井に描かれた、迫力満点の「白龍図」・・・日本画家の前田青邨が監修して守屋多々志が描いた三爪の龍図です。
-
修行僧の坐禅道場である「選仏場」・・・1563年の大火で焼失し、1699年に再建されました。
ドッシリとした落ち着きのある茅葺き屋根・・・風情がありますね。 -
中央は南北朝時代の作品と言われる薬師如来。
-
1839年に建立された唐破風門の「唐門」・・・「方丈」の正門で、梁の蟇股や木鼻には松と鳥、獅子と象など見事な彫り物が施されています。
-
左右の扉には、上に雲、下に波濤、中央に躍動感あふれる龍の透彫りが施されています。
-
方丈の前にある大きな木は、無学祖元禅師が植えたと伝わる、樹齢約700年のビャクシン。
-
方丈の前庭園には、明治時代に整備された百観音霊場。
-
鎌倉の寺院でよく見かける三角形のマークは「三つ鱗」・・・鎌倉幕府の執権・北条家の家紋です。
-
昭和4年に建てられた「方丈」・・・住職が居住する所でしたが、現在は各種行事の中心的な場所になっています。
-
創建当時から存在する「妙香池」・・・この時期は水がありませんが、四季を通じて美しい庭園で、向こう岸の岩は虎の頭のように見えることから「虎頭岩(ことうがん)」と呼ばれています。
-
お釈迦様の歯牙を祀る「舎利殿(国宝)」・・・修行に使われるため、正月など特別の時以外は拝観出来ません。
-
山門の東には、長い急な石段が・・・140段もあります。
-
階段を登りつめたところにあるのが「弁天堂」・・・江ノ島弁財天と関係が深いお堂で、北条貞時が左側の洪鐘(おおがね)とあわせて弁天堂を建立し、円覚寺の鎮守としました。
-
関東で一番大きな国宝の洪鐘は、1301年に鋳造された鎌倉時代の代表的な名鐘の一つです。
高さ:2.6m、口径:1.4mで、余りに大き過ぎて作る時に2度も失敗したとか。 -
弁天堂からの展望も見どころの一つ・・・美しい富士山が目の前に見え、140段を登った甲斐がありました。
-
<2>東慶寺
東慶寺は、鎌倉幕府第八代執権・北条時宗の妻である覚山志道尼が1285年に開創した、臨済宗円覚寺派の寺院です。 -
女性から離婚できなかった封建時代に、当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治に至るまでの600年間、縁切りの寺法を引き継いできましたが、明治4年の廃仏毀釈の影響で縁切りの寺法は廃止となり、明治35年に尼寺の歴史も幕を閉じました。
-
明治38年に建長寺・円覚寺両派の管長だった釈宗演禅師が入寺し、荒廃した当寺を復興し、中興開山となりました。
師の高徳のため、門下には政財界人・哲学者・文化人が多く、禅を世界に広めた鈴木大拙もその一人です。
かつては鎌倉街道沿いに総門も構えていましたが、現在は茅葺き屋根の「山門」を残すのみとなっています。 -
大正5年に建立された茅葺屋根の「鐘楼」・・・1332年に作られた当初の梵鐘は韮山の本立寺にあり、現在の梵鐘は1350年に作られた材木座の補陀落寺にあったもの。
-
かつては男子禁制の寺でしたが、戦後は花の寺として境内を整備し、現在では多くの参拝客を迎え入れるようになっています。
-
参道には見頃を迎えた梅の花・・・自然豊かな光景が広がっています。
-
本堂の門の先にある青銅製の「金仏」。
-
関東大震災で倒壊した後、昭和10年に建てられた現在の本堂。
-
本堂中央に鎮座する本尊の「釈迦如来坐像」・・・1515年の火災で伽藍は焼失しましたが、かろうじてこの本尊は取出されました。
-
東慶寺伝来の寺宝を展示する宝物館の「松岡宝蔵」。
-
中にある重要文化財の「木造聖観音立像」・・・制作年代は鎌倉時代後期から南北朝時代の頃(14世紀)で、もとは鎌倉尼五山一位・太平寺(廃寺)の本尊でした。
-
<3>浄智寺
臨済宗円覚寺派の浄智寺は鎌倉五山の第四位の由緒あるお寺で、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の三男・宗政が29歳で亡くなった折、その菩提を弔うために1281年頃に創建されました。
当時は中国(宋)からの渡来僧も多く、鐘楼門や本堂には「宋風」という当時の中国の様式が窺えます。 -
山門の手前には、苔むした石の反り橋「太鼓橋」が架かっていますが、この橋は渡れません。
-
山門の扁額は、円覚寺開山の無学祖元の筆とされる『寶所在近(ほうしょざいきん)』・・・「大切なもの(悟り)は近くにあるので、仏を信じて修行を積めば、心の平穏が得られる」という仏の教えを意味しています。
-
2007年に再建された唐様の「鐘楼門」・・・2階の花頭窓の奥には1649年鋳造の梵鐘が吊るされています。
扁額には『山居幽勝(さんきょゆうしょう)』・・・「山の住まいは深く静かでいい所だ」という意味で、まさに浄智寺のことを指しています。 -
仏殿(本堂)の「曇華殿(どんげでん)」・・・3千年に1度、仏の出現した時にだけ咲くという伝説の花「優曇華」に因むもので、滅多にない珍しい花であることから、貴重な仏堂という意味が込められているのだとか。
屋根瓦には北条家の「三つ鱗」。 -
曇華殿内に安置されている本尊は、室町期作の「三世仏坐像」・・・左から阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の各如来で、それぞれ過去・現在・未来を表しています。
今を大事に生きなさい、ということでしょうね。 -
本堂の先にある「平和塔」・・・球形の石塔の周りには、美しい梅の花が。
-
仏殿の裏手にあるのは、大正13年に建てられた茅葺屋根の「書院」・・・お寺の建物というより、古民家のような素朴な風情が感じられる建物です。
-
曇華殿裏側の格子の中に安置されている「観世音菩薩立像」・・・鎌倉三十三観音の一つで、南北朝時代のものです。
-
竹アートが飾られた竹林の小径を抜けた先にあるのは、鎌倉石を掘った「やぐら」・・・平地が少ない鎌倉のお寺は、多くが山の谷などにあるため「やぐら」をよく見かけます。
やぐらは当時の僧侶の修行に使われたり、地位の高い人の墓や石仏などが安置される場所にもなりました。 -
墓所の先にある「横井戸」・・・かつて山の水をためて用水に使ったそうですが、30数年前まではコウモリの棲み家だったとか。
-
横井戸から来た道を戻り、トンネルをくぐると、墓地の先に布袋尊の像があります。
鎌倉七福神の一つで、お腹を撫でると元気が貰えるとのこと。 -
寄棟の屋根が印象的な浄智寺の庫裏(くり)・・・昭和を代表する和風建築家・白井晟一(1905~1983)の遺作で、住職家族の住まいであるため内部は見学できませんが、御朱印の受付があります。
-
18世紀後期に造られた、境内右側にある「棟門」・・・扉に葵の紋がついていることから葵門と呼ばれ、扁額には「梅花樹下」・・・この時期にピッタリの言葉です。
-
浄智寺から建長寺へ向かいます。
昼前なので、建長寺門前の「かまくら五山別館」で昼食。 -
「けんちん汁」は建長寺の修行僧が作っていた精進料理「建長汁」が訛ったという説がありますが、折角なので「けんちんそばセット(1,300円)」をオーダー・・・味はマアマアかな(?)。
-
<4>建長寺
鎌倉幕府の5代執権・北条時頼(1227~1263)が禅によって国の興隆を図るため、宋の禅僧・蘭溪道隆(大覚禅師)を開山として建長5年(1253)に創建した日本最古の禅寺で、鎌倉五山第一位の臨済宗建長寺派の大本山・・・正式名称は「巨福山建長興国禅寺」で、「建長」は創建時の元号を採ったものです。
宋の五山である万寿寺を手本に、三門・仏殿・法堂など主要な建物が一直線に並ぶ、中国式の伽藍配置が特徴。 -
1984年に再建された「西外門」・・・扁額に「天下禅林」とあるので「天下門」と呼ばれます。
「天下禅林」とは、「人材を広く天下に求め育成する禅寺」という意味。 -
1783年に京都・般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)で建立されたものを、1940年に移築した「総門」・・・建長寺の山号「巨福山(こふくさん)」が掲げられていることから巨福門とも呼ばれます。
扁額は、元の渡来僧で建長寺10世住持・ 一山一寧(いっさんいちねい・1247~1317)の名筆ですが、よく見ると「巨」の文字に「点」が・・・勢い余って「点」を余分に付けてしまったと伝えられ、点を打ったことにより文字が引き締まって見えることから、百貫の価値があるとされ「百貫点」と呼ばれます。 -
国歌「君が代」に歌われる「さざれ石(細石)」・・・岐阜県の信徒から寄進されたものです。
-
総門の先にあるのは、建長寺のシンボル「三門」・・・現在の三門は1775年に建立された二重門で、関東大震災で倒壊後、修復されました。
「建長興国禅寺」と書かれた扁額は深草天皇の宸筆とされ、「禅宗で国を興す」という方針が記されています。
上層には釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢が安置されており(非公開)、この門をくぐるだけで心が清らかになると言われます。 -
三門の下に置かれている賓頭盧(びんづる)尊者は、釈迦の弟子で十六羅漢の一人・・・おびんずるさまは、自分の痛い所と同じ所を撫でると、治してくれるそうですよ。
-
三門の前に咲き誇る「オカメザクラ」。
-
三門の右手にある「鐘楼」・・・重さ2.7トンの梵鐘は円覚寺・常楽寺の鐘と並ぶ鎌倉三名鐘の一つで、北条時頼の発願により関東の鋳物師の筆頭・物部重光が1255年に鋳造した、創建当時から残る数少ない寺宝であり、国宝にも指定されています。
明治28年に夏目漱石が詠んだ「鐘撞けば 銀杏ちるなり 建長寺」・・・親友の正岡子規は、この句を参考に「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」と詠みました。
漱石に俳句を指南していた子規ですが、「金之助、俳句はこう詠むんだ」としてやったりの表情が浮かぶようです。 -
三門から仏殿に続く参道に広がる「柏槇(ビャクシン)の庭」・・・建長寺を開創した大覚禅師が手植えしたものと伝わる、樹齢760年のビャクシンは、創建当時から幾度かの火災を生き抜いた貴重な古木であると共に、北条氏の栄華や鎌倉幕府の滅亡、足利氏の台頭を見守ってきました。
-
現在の仏殿は四代目で、この建物は徳川秀忠の正室・崇源院(お江の方)を供養するために芝の増上寺に建てられていたものですが、1647年に増上寺が霊屋を建て替える際に譲り受け、ここに遷されました。
そのため、一般的な禅宗の仏殿とは趣が異なり、屋根は入母屋造でなく寄棟造で、禅宗仏殿では平板の「鏡天井」に雲龍図を絵を描くことが多いのですが、和様の格天井になっています。 -
仏殿の手前中央には「建長興國禪寺」と刻まれた「常香炉」・・・常香炉の屋根には龍、脚には鬼が。
-
堂内には建長寺の本尊「地蔵菩薩坐像」・・・室町時代の作とされ、像高は約2.4m、台座を含めると5m程もあります。
釈迦仏が多い禅寺の本尊としては珍しい例で、天井には丹頂鶴が舞い、内部には華麗な彫刻が施されています。 -
欄間には、羽衣を纏った「迦陵頻迦(かりょうびんが=天女)」の彫刻。
迦陵頻迦とは、上半身が人(天女)で下半身が鳥の姿をした想像上の生物で、極楽浄土に住む美しい声の生き物だそうです。 -
手前から仏殿・法堂・大庫裏と一直線に連なる、勇壮な伽藍。
-
1825年に再建された「法堂(はっとう)」・・・扁額の「海東法窟 」とは「中国・宋から海を渡って仏法が伝えられた寺」という意味で、西外門に掲げられている「天下禅林」の額と同じく、明の竹西によって書かれたものです。
-
法堂の天井にはインパクトのある「雲龍図」が描かれ、この真下は住職が仏教の教えを説く場所・・・雲を呼び雨を降らすと言われる龍の図は「住職の説法を聞く人々に「法」の雨が降りそそぎ、染み渡るように」と願いが込められています。
日本では爪が3~4本の龍の図を良く見かけますが、ここは5本ある「五爪(ごそう)の龍」・・・建長寺創建750年記念事業の一環として、小泉淳作画伯が3年を費やして2003年に完成させた力作です。 -
法堂は法を説くための堂宇で仏像は安置しないのが一般的ですが、ここには「千手観音坐像」と「釈迦苦行像」が安置されています。
手前の痩せ細った釈迦苦行像は、パキスタン北西部地方のガンダーラ文明の遺産で、ラホール中央博物館に安置されている像を模して制作され、2005年の愛知万博に展示された後、建長寺に寄贈されました。
釈迦は29歳で出家し、6年間に亘って断食と坐禅の日々を送り、35歳の時に菩提樹の下で悟りを開きましたが、鬚を生やした釈迦像は極めて稀です。 -
堂内右側には、2009年に完成した華厳小宝塔が置かれ、内部には塔の御本尊として毘盧遮那仏が安置されています。
建長寺の創建当初には七重の大華厳塔が建っていました。 -
法堂の先には、きらびやかな装飾がされた唐破風の「唐門」・・・芝・増上寺の御霊屋の中門として1628年に建立されましたが、1647年に仏殿と共に移築され、方丈の正門として使用されています。
黒漆塗に金色の飾り金具は、桃山建築様式の名残りを感じさせますが、鬼瓦や門から繋がる瓦塀の軒瓦には北条氏の家紋「三つ鱗」が刻まれ、ここが北条氏所縁の寺であることを実感させてくれます。 -
唐門の右側から「龍王殿(方丈)」へ・・・方丈は本来、住職が居住する場所ですが、現在は法要や坐禅などが行われています。
1732年に建立された現在の建物は、総門と同じく1940年に京都・般舟三昧院から移築されました。 -
方丈の北側には、蘸碧池(さんぺきち:緑の木々の色が青い水に浸って輝いていること)と呼ばれる、東西に細長い池泉を中心とした池泉庭園があります。
大覚禅師の作庭と伝わる庭園ですが、後世の災害や改修により何度も姿を変え、現在の庭園は、江戸初期・延宝年間に描かれた絵図に基づいて、平成15年に復元整備されたものです。 -
日本有数の観光地・鎌倉なので、多くの外国人も訪れています。
このグループはフランスの若者たち。 -
「柏槇の庭」の西側にある「震災追憶供養塔」・・・関東大震災の被災者を追悼するために、昭和5年に建立された相輪塔で、塔の前には「曙観音」が鎮座します。
-
<5>亀ヶ谷坂(かめがやつざか)切通
三方を山に囲まれた鎌倉には、物資運搬などのために山などを切り開いて造った道「切通(きりとおし)」が幾つも残っており、建長寺から北鎌倉駅に少し戻った所にある亀ヶ谷坂切通は1240年に北条泰時が造ったといわれています。 -
急な坂のため、亀も引き返したという別名「亀返坂」・・・現在も生活道として、また北鎌倉へ通じる裏道として使われています。
次の浄光明寺に向かうために歩きましたが、結構な急坂でした。 -
<6>浄光明寺
真言宗泉涌寺派の浄光明寺・・・1251年の創建で、開基は第6代執権・北条長時、開山は真阿。
北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝えられます。 -
山門は元々は英勝寺の総門で、英勝寺が創建された寛永年間のものと推定されますが、一時民間に売却され、大正15年に寄進されました。
-
2003年に寄進された「楊貴妃観音像」・・・世界三大美女の一人・楊貴妃は唐の玄宗皇帝の妃でしたが、「安史の乱」で殺害され、玄宗皇帝は妃の姿を観音像に刻ませました。
500年後、湛海律師がそれを日本に持ち帰って京都の泉涌寺に納め、「楊貴妃観音」として広く信仰されていますが、2001年に石像が作られ、泉涌寺の末寺である当寺に送られました。 -
「客殿」。
-
客殿の軒下には龍の彫刻、屋根には左右に鐙瓦の唐獅子。
-
「不動堂」。
-
可愛らしい仏像の先には、満開の梅。
-
「鐘楼」。
-
浄光明寺からJR横須賀線沿いの道を歩き、鎌倉駅へ。
左側のJRは1889年の開業で1984年に現在の駅舎に改築、右側の江ノ電は小町駅が1910年に開業(1949年に現在地に移転)し、現在の駅舎は1981年に竣工。 -
1916年に建てられた旧駅舎の象徴だった時計台・・・長い間、「とんがり帽子の時計台」として親しまれ、建て替えの際に「せめて時計台だけでも残して」という市民の願いにより、 駅前広場に時計塔として残されました。
-
13時46分の江ノ電で「長谷駅」に向かい、高徳院・鎌倉大仏 ⇒ 長谷寺と回ります。
-
<7>高徳院・鎌倉大仏
「鎌倉大仏」として知られる阿弥陀如来坐像を本尊に祀る高徳院・・・創建時期および開基(創立者)・開山(初代住職)共に不詳で、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い浄土宗の寺院です。 -
『吾妻鏡』には、1252年からこの地で金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたと書かれています。
「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と思われ、この大仏が現在の鎌倉大仏だとするのが定説になっています。
門前にある石柱には「聖武帝草創 東三十三箇国 総国分寺」と刻まれています。 -
八脚門・切妻造・銅板葺の門構えの「仁王門」・・・現在の仁王門は1768年頃に再建されたものです。
-
仁王門の左右には、3.77mもある2体の寄木造の「仁王像」・・・1700年代前半に他所から移設されたものと伝わります。
高徳院がほぼ全壊した関東大震災の際、この仁王門と仁王像は被災せずにその形を留めました。 -
高徳院の本尊・阿弥陀如来像の「鎌倉大仏」・・・当初は巨大な大仏殿の中に安置されていましたが、鎌倉時代や室町時代の台風、地震、津波により建物は倒壊し、1369年以降は再建されず、露座の大仏様となっています。
-
高さ11.4m(台座を含めると13.4m)、重量は121トン・・・その大きさはまさに「大仏」と呼ぶに相応しく、見る者を圧倒します。
奈良の大仏と違い、ほぼ造像当初の姿を残している点も貴重で、鎌倉の仏像で唯一国宝に指定されています。
この大仏は、国の発願によって造られたものではなく、民衆から集められた寄付金で造られた仏とされますが、鎌倉の民衆の極楽浄土への信仰や阿弥陀如来への信仰が篤かったことが窺えます。 -
大仏の前の大香炉には、阿弥陀三尊像の定石に倣って脇侍の観音菩薩(左)と勢至菩薩(右)が描かれています。
阿弥陀如来は西方極楽浄土で説法をする仏で、平安時代より臨終の際に阿弥陀如来が来迎し、極楽浄土へ魂が導かれるように願う阿弥陀信仰が流行したことで、阿弥陀如来を中尊とした阿弥陀三尊来迎像がこの頃から多く制作されるようになりました。 -
奈良大仏には金メッキが施されていましたが、鎌倉大仏には金箔が貼られました。
その理由は銅の純度が低かったため、鋳造された大仏の継ぎ目が汚く、それを隠すために金箔の手法が採られたそうです。 -
大仏の回廊の裏側にひっそりと佇む「観月堂」・・・かつては朝鮮李王朝の景福宮にあった観月台の一屋ですが、王宮の借金の担保として朝鮮拓殖銀行に譲渡され、山一合資会社(山一証券の前身)の創業者・杉野喜精によって寄大正13年に贈されました。
内部には、江戸幕府二代将・徳川秀忠が所有していたと伝わる「聖観音像」を安置しています。 -
与謝野晶子が鎌倉大仏を詠んだ歌碑は、晶子直筆の筆跡で刻まれています。
『かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな 』・・・大仏を「美男におはす」と女性的な独特の観点で表現した歌ですが、鎌倉大仏は「釈迦牟尼」でなく「阿弥陀如来」です。 -
皆さん、何十年振りかの鎌倉大仏に満足!
-
<7>長谷寺
奈良・大和の長谷寺を開山した徳道上人を開山に招き、大化改新で知られる中臣鎌足の孫・藤原房前が736年に開基したと伝わる浄土宗の寺院です。
江戸時代には徳川家康などの支援もあり、庶民の信仰の場として関東三十三ヶ所観音霊場廻りの霊場として栄えました。 -
大きな赤提灯と見事な「門かぶりの松」の松木が印象的な「山門」。
-
境内は、池泉回遊式の庭園のある下境内と、山の中腹にある上境内の上下に別れています。
下境内左側の妙智池には綺麗な紅梅が。 -
その隣には、満開の河津桜。
-
境内の中段にある「地蔵堂」・・・信徒の発願により建立され、2003年に現在の地蔵堂が再建されました。
-
堂内には福寿地蔵が祀られ、子授け・安産の開運スポットとして知られています。
-
地蔵堂の裏には、奉納された千体地蔵・・・あたりを埋め尽くすその数に圧倒されます。
-
鐘楼と梵鐘・・・ここに吊るされている梵鐘は、1984年に鋳造されたレプリカ。
長谷寺の梵鐘は常楽寺・建長寺に次ぐ古さを誇る鎌倉四大古鐘のひとつに数えられ、鎌倉時代を代表するものとして重文に指定されており、本物は観音ミュージアムに収蔵されています、 -
観音堂の右手前にある「阿弥陀堂」・・・扁額には「厄除阿弥陀如来」と書かれています。
-
堂内には、金箔を施した坐高2.8mの「阿弥陀如来坐像」・・・源頼朝が42歳の厄除けのために建立した像で、厄除阿弥陀とも言われます。
かつて鎌倉市内にあった誓願寺の本尊で、1688年頃に長谷寺に遷されました。 -
長谷寺の本堂に当たる「観音堂」・・・創建以来、何度も修復されましたが関東大震災で倒壊し、昭和61年に再建されました。
-
本尊の「十一面観音像」・・・木造仏としては日本最大級の高さで9.18m、台座を含めると12mにもなります。
寺伝によると、721年に開山の徳道上人が大和国の山中で見つけた楠の巨大な霊木から、2体の観音像が造られ、1体は大和長谷寺の本尊となり、もう1体は衆生済度願いを込めて海中へ奉じられました。
その16年後、観音像は現在の横須賀市長井の浜の沖合に忽然と姿を現し、観音像は鎌倉へと遷座され、鎌倉長谷寺開創の礎となったとされます。 -
頭上には11の顔が四方八方を向いて外界を見守っており、右手に数珠と錫杖、左手に蓮華を活けた水瓶を持ち、左小指を立てているのも特徴です。
当初は木造の地肌だったそうですが、1342年に足利尊氏が金箔を施し、1392年には足利義満が光背を付け足しています。 -
一切経を収める建物の「経蔵」・・・「輪蔵」と呼ばれる回転式の書架を時計回りに一回転することで、一切経を全て読んだのと同じ功徳があると言われています。
-
回転させることができるのは、観音様の縁日である毎月18日に限られています。
-
ひととおり拝観し、見晴台で海を見ながら休憩・・・手前に由比ヶ浜や材木座の町並み、その奥に相模湾と三浦半島。
梅の香が漂う、早春の鎌倉散策の一日でした。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
117