2023/10/09 - 2023/10/24
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kawausoimokoさん
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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりして、何より歴史を再認識する旅となりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2023年10月13日(金)(Day5-3)
今回はゲメルデギャラリー「ドイツ・ルネサンス」時代のハンス・ホルバイン(子)
ハンス・ホルバイン(子)(Hans Holbein d.J.)は、1497年頃にアウクスブルクの画家ハンス・ホルバイン(父)(Hans Holbein d.A.)の子として生まれ、父親の工房で修行した後、当時の画家や職人の常であった修行の旅に出ました。
1515年頃からホルバイン(子)は、スイスの大学都市バーゼルで宗教画や肖像画を多数描き、市長や裕福な市民から評価されるようになりました。
一方、デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus)は、1469年頃にロッテルダムで生まれ、神学博士号の取得を目指してパリ大学に入学した後、1499年にイングランドへ渡り、政治家トマス・モアやヘンリー王子(後のヘンリー8世)らの上流階級の知己を得ました。
1516年にはバーゼルの書店から「校訂版 新約聖書」 と「ヒエロニムス著作集」を出版しました。
ホルバイン(子)とエラスムスは、バーゼルで親交を結び、ホルバイン(子)はエラスムスの肖像画を複数描き、「痴愚神礼讃」の挿絵も描いています。 -
ゲオルク・ギーゼの肖像:ハンス・ホルバイン(子), 1532年
1517年にマルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会に掲出した「95ヶ条の論題」に端を発して宗教改革が起こり、イコンや聖遺物などの偶像崇拝を禁じたプロテスタント勢力が拡大するにつれ、宗教画の需要は大きく減少しました。
特にスイスと神聖ローマ帝国、ネーデルラントの一部の地域では、暴徒化したプロテスタントの群衆によって、カトリック教会の祭壇画や装飾が破壊されることさえありました。
その影響でバーゼルで仕事が無くなったホルバイン(子)は、1526年にエラスムスからトーマス・モアに宛てた紹介状を携えてロンドンへ渡り、トーマス・モアから便宜を図る約束を取り付けて、以後、度々ロンドンを訪れました。
この作品は、ホルバイン(子)が2度目のロンドン滞在中に描いたもので、ハンザ同盟のロンドン支店(スティールヤード)に駐在していたゲオルク・ギーゼを描いています。
当時の新興富裕層を代表するハンザ同盟の商人たちは、自身の肖像画を所有することが慣例化し、画家たちにとっては宗教画の需要が減少する中、商人たちの肖像画は貴重な収入源となりました。 -
ヘルマン・ブランド・ウェテヒの肖像:ハンス・ホルバイン(子), 1533年
ケルンの著名な家族の一員で、スティールヤードに駐在していたハンザ同盟の一人だったとみられています。
ホルバイン(子)は、2度目のロンドン滞在時に、少なくとも7人の肖像画を描いており、その内の一つとみられます。 -
ロエロフ・デ・ファン・ステーンウェイクの肖像:ハンス・ホルバイン , 1541年
ネーデルラントの貴族出身の政治家で、プロテスタント運動の推進者でした。 -
ロレーヌ善良公アントワーヌの肖像:ハンス・ホルバイン , 1543年
ロレーヌ公国の君主でプロテスタント運動の推進者でした。 -
ジャン・ド・ダントヴィルとジョルジュ・ド・セルヴの肖像(大使たち):ハンス・ホルバイン(子), 1533年
(2022年11月にロンドン ナショナルギャラリーで撮影)
ハンス・ホルバイン(子)が描いた肖像画の中で最も有名なこの作品は、フランス大使ジャン・ド・ダントヴィル(左)とラヴォール司教ジョルジュ・ド・セルヴ(右)が描かれており、二人の人物の高い教養と知性を表現するために、数々の事物が描かれています。
二人が立っているウェストミンスター寺院のモザイクを模した床には、アナモルフォーシスで頭蓋骨が描かれており、「若く前途あるこの二人にも死はいつ訪れるかわからない『メメント・モリの警告』」と解釈されています。
ホルバイン(子)は、ヘンリー8世の庇護を得たいと強く望み、王の求めに応じて、卓越した人物描写だけでなく、質感まで描き出した衣装と背景、知的に工夫した様々な事物を配置して、宮廷人たちの肖像画を描きました。
これにより、ホルバイン(子)はへンリー8世のお気に入りとなり、1536年には遂に宮廷画家に任命されました。
ヘンリー8世は、最初のお妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚問題が引き金となってローマ・カトリック教会から分離したイングランド国教会を1534年に設立し、これに反対したトマス・モアを1535年に反逆罪で処刑しました。
生涯で6度結婚し、その内の二人のお妃を処刑するなど、歴史上では残忍で非情な人物として知られています。
ヘンリー8世の3番目のお妃ジェーン・シーモアがエドワード王子を出産して亡くなると、ホルバイン(子)は、次のお妃候補の肖像画「アンナ・フォン・クレーフェの肖像」と「デンマーク王女クリスティーナの肖像」を描きました。
ヘンリー8世は、肖像画とイングランド国教会の設立を推進したトマス・クロムウェルの進言により、アンナを4度目のお妃に選びましたが、その結婚生活はわずか6か月で終わりました。
ヘンリー8世はホルバイン(子)が描いたアンナの肖像が実際の本人とは違っていたと激怒し、ホルバイン(子)は宮廷から追われました。
トマス・モアを排して権力を握っていたクロムウェルは1540年に処刑され、その後、ホルバイン(子)は1543年にロンドンで大流行したペストで亡くなりました。
一方、エラスムスは、マルティン・ルターが掲出した「95ヶ条の論題」と「聖書中心主義」を支持していましたが、キリスト教会の分裂を望んではいませんでした。
プロテスタント運動は次第に当時の政治情勢と絡んで過激化・複雑化し、エラスムスとルターとの思想の隔たりは大きくなり、エラスムスは反ルター派と目されるようになります。
更には、1511年に初版が発刊されていた「痴愚神礼賛」は、後にエラスムスの意図に反してカトリック批判とみなされるようになり、エラスムスはプロテスタントとカトリックの両派から疎まれるようになって、失意のうちに1536年にバーゼルで亡くなりました。 -
Maria als Schmerzensmutter:ハンス・ホルバイン(父), 1495年
こちらは、父親のハンス・ホルバインが描いた「悲しみの聖母」です。
ハンス・ホルバイン(父)は1460年頃に皮なめし職人の子として生まれ、アウグスブルクで兄のジークムントと共に工房を営んで、アウグスブルク大聖堂を始めとする多くの教会の祭壇画を描きました。
二人の息子のアンブロジウスとハンスは共に画家となり、後にハンスがハンス・ホルバイン(子)として名を残しました。
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