2024/02/02 - 2024/02/02
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たびたびさん
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今回は、昨年に続いての京都の節分と京の冬の旅、パートⅡの五日間。京都でも一番寒い時期だし、あんまり無理はできないのですが、逆に寒い時期だと歩くには悪くない。また、日程的には京の冬の旅を詰め込むこともできるのですが、そういうことをすると何が何だったかあとで記憶が混乱して訳が分からなくなることもありますからね。そんなことを考えて、京の冬の旅はほどほどにして、いくつか京都でまだもやもやが残っているエリアの街歩きを組み合わせてみました。
初日は、そのもやもやエリアのひとつ、長岡京の周辺です。長岡京は長岡天神駅が茨木市駅や高槻市駅とならんで阪急線の特急が停まる駅ということもあるし、メジャーなイメージもありますね。 キリシマツツジの長岡天満宮、牡丹の乙訓寺、紅葉の名所、光明寺とかシンプルで分かりやすいし、タケノコ料理の錦水亭もかなり有名です。たぶん、そんなことでそれ以上何があるの?という感じなんですが、やっぱりベースは桓武天皇が平城京から遷都した長岡京のことでしょう。天応元年(781年)即位した桓武天皇が主導し、延暦3年(784年)から延暦13年(794年)に平安京に遷都されるまでの10年の間、ここに都があったのですが、それは京都の都としての歴史が始まるルーツに関係すること。そんなに軽い話ではないはずなんですね。これまで遺跡をざっとは見ていますが、それ以上、その辺りに突っ込んだ記憶がないということは、やっぱり、いろんなことを見逃してしまっていたということでしょう。今回、もう一度丁寧にあちこち散策して、その辺りの大事な場所を見つけなければ。。そんな思いで出会ったのは、長岡京市立中山修一記念館ほか、旧上田家住宅、向日市文化資料館、桓武天皇皇后陵。
長岡京がここにあったなんて昔から周知の事実だと思っていましたが、さにあらず。中山修一という地元の方がトロイア遺跡を発見したシュリーマンのごとく、大いなる情熱で長岡京がここにあったことを解き明かしていったというのです。中山修一記念館でそのことを初めて知って驚きましたが、ちょっと残念なのは、桓武天皇の周辺については切り込みがほとんどなかったこと。むしろ、旧上田家住宅の簡単なパネル説明が非常にポイントを突いていて感心しました。また、向日市文化資料館の展示も本格的。長岡京の活き活きとした日常の暮らしまで伝わってくるような内容でした。
さて、以下は旧上田家住宅のパネル説明を参考にして。
・桓武天皇は第50代天皇。父は第49代光仁天皇ですが、聖武天皇の第一皇女、井上内親王を妻としていて、井上内親王の産んだ皇子、他戸親王が立太子していました。当時、天皇は天武系の天皇に限定されて継承されていましたが、天武系の天皇に継承者がおらず、光仁天皇はやむを得ずワンポイントで立てられた天智系の天皇。しかし、他戸親王が天皇になれば、天武系の天皇が復活するという見立てだったのですね。ところが、井上内親王が大逆の罪で皇后を廃されると、他戸親王も皇太子を廃される。代わって、立太子したのが桓武天皇です。とても、陰謀めいた動きなのですが、桓武天皇を巡るごたごたはそれだけではなく、弟、早良親王や第一皇子、平城天皇との確執も大きな問題。桓武天皇には、最後まで、身内の争いに苦しめられるという印象がありますね。
・それでも、光仁天皇、桓武天皇はともに、消去法のようにして天皇となったのですが、その背景には、藤原式家の強い思惑もありました。聖武天皇の下、藤原式家は一族の藤原広嗣の乱で衰退。この藤原広嗣の乱は聖武天皇にとってはかなりの衝撃だったようで、その後、恭仁京、難波京、紫香楽京と遷都を繰り返したのはその混乱を収めるためだったとも言われています。そのため、光明皇后の庇護もあって藤原南家が厚遇されることになりますが、広嗣の弟、良継、百川らは復権を執拗に狙っていて、それが光仁天皇、桓武天皇を誕生させる原動力となったのです。そうした功績から、式家の良継の娘、乙牟漏、百川の娘、旅子は桓武天皇の后となってそれぞれ平城天皇、嵯峨天皇や淳和天皇を生み、天皇の外戚という地位を得るまでになっていくのです。
・つまり、母の身分も低く、立脚の基盤が弱かった桓武天皇ですが、藤原式家のバックアップがあっての長岡京遷都という大事業だったのですね。長岡京の遷都には、①淀川の水運や山陰山陽道の便利さから、副都であった難波京が廃止できること。②平城京の仏教勢力や天武天皇系の勢力から逃れることができること。③秦氏の援助といった理由があるようですが、なによりもそれを実現できる力としての藤原式家のバックアップ。なるほどなという感じです。
・その後、長岡京は天然痘の流行や水害の発生などもあって、10年ほどで平安京に遷都されましたが、桓武天皇の新しい都造りへの思いは貫徹されたということ。平安京の遺産がその後の日本にとって、いかに大きなものだったかを思うと桓武天皇の重要性はいくら力説しても足りないくらいなのですが、一方でそこまでの評価があるかというと正直そこまでではないような。ただ、私なりに考えると、それはもしかしたら嵯峨天皇との関係にもあるのかも。桓武天皇とぎくしゃくした平城天皇ですが、平城天皇を最終的に敗北させたのは薬子の乱で勝利した嵯峨天皇。薬子は藤原式家の一族ですから、必然的に藤原式家は衰退。代わって嵯峨天皇が厚遇したのは藤原北家。後の藤原道長も北家ですし、平安期の絶頂は北家の時代と重なります。また、唐から帰ってきた空海や最澄との関係でも、空海が東寺を賜ったり、最澄の延暦寺が悲願だった戒壇を認められたのは嵯峨天皇であり、桓武天皇より嵯峨天皇の方が目立っていますからね。そういう意味でも桓武天皇は式家にバックアップされたことも含めて、過渡的な政権だった感じになってしまうのも止むを得ないのかな。しかし、鎮護国家の平城京の仏教から脱却したいという願いはあくまでも桓武天皇のパーソナリティに起因するもの。最澄も空海も桓武天皇の意を汲んでの渡唐です。
(この辺りは、参考まで https://4travel.jp/travelogue/11008018)
ちなみに、平安の仏教は、インド哲学的な整理だと唯識論から唯名論への転換と知と行のバランスへの道を開いたことが大きな革新性になると思うのですが、どこかの機会で触れてみたいと思います。
・いずれにしても、天皇を中心とする権力争いは、律令国家の社会制度や仏教その他、芸術文化の多岐に渡って影響を及ぼすのが面白いところ。どろどろとした背景も歴史や文化を理解する一助となるというのは、桓武天皇に関しても同じだと思います。
なお、細川氏と明智氏ゆかりの勝竜寺城も味わい深いものがありましたが、それは別途、本編で。
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長岡京の街歩きは、JR長岡京駅からスタートです。
長岡京市観光情報センターは、JR長岡京駅前のバンビオ1号館の二階。何で二階にあるのかなあ。分かりにくいなあと感じたのですが、二階は駅とデッキでつながっているので、ここの方がアクセスしやすいという判断のようですね。ただ、やっぱり微妙かな。観光案内のパンフレットとかはありましたが、長岡天神や大山崎の方は阪急線からの方が圧倒的に近いし、そういう面でもここではちょっと実感は湧きにくいかもしれません。 -
JR長岡京駅を出て。。
神足石仏群は、神足小学校の交差点から南に進んですぐ。共同墓地の一角に、6体の地蔵菩薩像や釈迦如来像、阿弥陀如来像、閻魔大王といった石仏が並んでいます。 -
江戸時代末期のものでさほど古いものではないと思いますが、苔が付いたりしてそれなりの迫力です。
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旧西国街道の方に入って、長岡京市立神足ふれあい町家は、その通り沿いに建つ国登録有形文化財の町家建物。江戸時代末期に建てられたようですが、2か所の虫籠窓があったりして、間口が広く、奥に深い京の町家とは違って、ゆったりとした構え。
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落ち着いた日本間から
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お庭の方も眺められて、ちょっと休憩するにも最適です。
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イチオシ
室内では、ちょうど西国街道ひな人形めぐりの準備中。今年で13回目なのだそうですが、この134才という紹介のあるひな人形は、箱に入ったシンプルなタイプ。
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しかし、切れ長の目の顔つきが何とも上品。
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やっぱり、古くから人や物が行きかった町。さすがいいものがあるなあという感じです。
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神足神社は、山裾のようなちょっと寂しげな場所にあるのですが、延喜式にも記載されている式内社。
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「桓武天皇の夢」が紹介されていて、桓武天皇の夢が神社の創建に関わっているということ。境内の続きには勝竜寺城の土塁や空堀もありました。
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勝竜寺城跡は勝竜寺城公園として整備されていて、石垣やお堀、櫓もきれいに復元。
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けっこう見栄えがする眺めになっています。
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イチオシ
この城は、三好三人衆のひとり、岩成友通が守る城でしたが、永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の前に降伏。城は足利義昭の幕臣で、義昭の擁立に奔走、明智光秀を通じて信長に助力を求めていた細川藤孝に与えられ、天正9年(1581年)、丹後南半国を平定、宮津城に移るまで、細川氏の居城でした。
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この間、元亀4年(1573年)、反信長が鮮明となった義昭は京都を追放されますが、細川藤孝は信長に従い、明智光秀の与力として各地を転戦。丹後南半国の平定も明智光秀とタッグを組んでのもの。明智光秀も丹波国を攻略し、丹波亀山城主の地位にありました。
こうして、細川氏と明智氏は盟友関係にあったように見えますが、室町幕府においては同じ幕臣でも細川氏が圧倒的に名門。信長の下では、明智氏の方が早くから家臣となって出世していたので、細川氏は明智氏の与力という立場だったというだけ。元々の関係は違います。本能寺の変の後、明智氏につくと見られていた細川氏がそうしなかったのは、こうした微妙な関係もあったと言われています。一方で、丹後北半国の領主で明智光秀の配下にあった一色氏は、本能寺の変後、明智光秀に味方しています。ただ、光秀が敗れると一色氏は細川氏によって滅ぼされ、ここで丹後国は一国が細川氏のものとなるという経緯です。
この辺りでも、足利義昭擁立のために奔走して以降、既に多くの経験を重ねてきた細川藤孝の方に先見の明があったと評価すべきかなと思います。 -
その他、信長の命により、細川藤孝の嫡男、忠興と明智光秀の娘、後の細川ガラシャが結婚式を挙げたという場所であり、山崎の戦いで敗れた明智光秀はここに逃げ込みますが、坂本城へ落ち延びて行く途中、あえなく最期を遂げるとか。物語は満載です。
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展示室には、細川藤孝、明智光秀、忠興とガラシャに視点を置いた
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物語風のパネル説明があって、
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とても分かりやすい説明でした。
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永禄8年(1565年)5月
室町幕府13代将軍足利義輝暗殺と弟義昭の救出 -
永禄8年(1565年)8月
足利義昭、織田信長を頼る -
永禄11年(1568年)9月
織田信長、足利義昭を奉じて上洛 -
元亀4年(1573年)7月
細川藤孝、勝龍寺城で領主に -
天正6年(1578年)8月
細川藤孝の嫡男、忠興と明智光秀の娘 玉との結婚 -
天正7年(1579年)8月
明智光秀、丹波を攻略 -
天正10年(1582年)6月
本能寺の変 -
天正10年(1582年)6月
山崎・勝龍寺城の戦い -
慶長5年(1600年)7月
関ヶ原合戦前夜、ガラシャ自害
なお、ガラシャ夫人の墓は大阪市東淀川区東中島の崇禅寺の中。
焼け落ちた細川屋敷の焼け跡から、ザビエルの弟子オルガンチノが遺骨を拾い、細川家ゆかりの崇禅寺に埋葬したと伝わります。 -
慶長5年(1600年)7月
細川藤孝(幽斎)、田辺城で2ヵ月に及ぶ籠城戦 -
慶長5年(1600年)9月
細川忠興、関ヶ原の戦いで大活躍
その功により、豊前一国ほか39万9千石を与えられ、中津城に入城。次の忠利の代になって、寛永9年(1632年)、加藤家の改易に伴い、熊本藩54万石に移封。忠利は、忠興とガラシャ夫人の子どもです。乱世を見事に泳ぎ切った藤孝・忠興親子。しかし、明智光秀との関係も意外に味わい深いものがあると思います。 -
勝龍寺城から、今度はお寺の勝龍寺へ。ここは、弘法大師が、長安で修業した青龍寺の名をとって創建したと伝わる寺。その青龍寺が途中で変じて勝龍寺です。
勝運とぼけ封じで、国の重要文化財に指定された鎌倉時代作の十一面観音が本尊。しかし、境内はとても静か。あまり目立たないお寺かなと思います。 -
もう少し近くを散策。
与市兵衛の墓となっていますが、どうもそうではなくて、清誉浄佐なる人物が両親の供養のために、高野聖1000人を寄宿させた記念に寛文8年(1668年)以降に建てられた碑のよう。
ちなみに、与市兵衛は仮名手本忠臣蔵に登場する人物。娘婿の早野勘平を討ち入りに参加させる費用捻出のため、娘を身売りさせるのですが、山崎に戻る途中、山賊に襲われ命を落としたというもの。碑には南無阿弥陀仏と彫られていて、墓とする方が納得感があったのではないかと思います。 -
イチオシ
恵解山古墳は、5世紀の前半の築造と推定される全長約128mの乙訓地域最大の前方後円墳。開けた場所にあって、全景が確認できるし、周囲の円筒埴輪も復元されているので、とても見応えがありますね。
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なお、山崎の戦いで、光秀の本陣が置かれたという説がありますが、明智光秀本陣跡の碑は別途、少し離れた場所に建っています。
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そして、長岡京市立中山修一記念館へ。
冒頭に触れたとおり、長岡京がこの地にあったことを証明する発掘調査に一生涯を捧げた中山修一の足跡を紹介する施設です。 -
地元の出身だったことで特別な情熱があったようですが、JR長岡京の駅名はじめ、今では何の疑いもなくここにかつて長岡京があったと理解しているわけで。それを思うと、かなりすごい貢献ですよね。
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ただ、一方で、資料館としては、長岡京の歴史的な意義や桓武天皇の背景など、基本的な事柄についての説明をしてもいいのかな。中山修一の足跡だけでは物足りなく感じるのは否めないかもしれません。
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この辺りでサントリーと言えば、ウイスキーの山崎蒸溜所が頭に浮かびますが、これは天然水のビール工場。敷地内には大きなタンクも建っていて、想像していたよりずっと大きな工場です。
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見学コースがありましたが、時間が決まっているので今回はパス。入り口入ってすぐのショップとかロビー周りを確認して、おしまいにしました。
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サントリー〈天然水のビール工場〉の裏手に回ると、明智光秀本陣跡の碑。
けっこうしっかりとした碑です。 -
長岡天神駅の方に移動して。これは、長岡京市観光案内所。街並に隠れるように建っているので、ちょっと分かりにくいかもしれません。
ランチの時間だったので、地元の名物店みたいなところをいくつか教えてもらいました。 -
紹介してもらった中から、とんぼさんへ。ここは、長岡天神駅と長岡京駅の中間辺り。アゼリア通りから少し入ったところです。
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夜は居酒屋さんだと思いますが、昼間は手軽な大衆食堂。地元の常連さんで賑わっていました。カウンターで日替わりの焼肉定食をいただきましたが、なるほど人気店のような味わい。おいしくいただきました。
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では、アゼリア通りからずっと北の方。郊外エリアに向かいます。
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走田神社、寂照院を目指していましたが、長岡京市立埋蔵文化財調査センターは、その途中。この辺りまで来ると、長岡京の市街からはかなり外れといった感じですね。
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展示室に入ると
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奥の方に見事な筒状埴輪が展示されていましたが、これはさっきの恵解山古墳からの出土品。
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ほか同じ恵解山古墳からの出土品で精巧な加工を施した矢じりとかもちょっと新鮮。実践的なもののように感じました。
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埋蔵文化財調査センターからほどなく、寂照院へ。
弘仁10年(819年)、空海の十大弟子のひとり、道雄僧都の創建。永禄11(1568年)、織田信長を従えて上洛した足利義昭がここに陣を置いたとも。また、見どころのひとつ、仁王門の仁王像は南北朝時代の康永3(1344年)の作。流々とした筋肉の表現が見事です。寺は全体的に整った構え。古びたところもあまり感じません。 -
走田神社は、延喜式に記載されていた式内社のひとつ。春日の四柱神を祀り、かつては寂照院の鎮守社。
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寂照院の裏手をどんどん上った
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山の上にあって、
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本殿を覆う建物がしっかり。
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境内からは山崎の戦いの古戦場を一望するというなかなかいい眺め。令和になって、乙訓景観十景に選定されたとありました。
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長岡京市域からしばらく歩いて向日市に入ります。
旧上田家住宅は、史跡長岡宮内裏内郭築地回廊跡の上に位置する旧家という紹介で、玄関に向かう進入路に桓武天皇や長岡京関係のパネルが並んでいました。とてもポイントを突いていてグッドですね。これを踏まえて、整理したのが冒頭の内容です。 -
桓武天皇
(736~806年)第50代天皇 -
都の変遷
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平安京に遷都した理由
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長岡京遷都
その他の理由 -
桓武天皇と藤原百川
なお、百川の兄の良継のことは、冒頭触れましたが、長岡京の造営の責任者だった藤原種継は、良継のさらに上の兄弟、藤原清成の息子。造宮監督中に矢で射られるという藤原種継暗殺事件が起きるのですが、これが桓武天皇の弟、早良親王の廃太子、憤死にまで発展する大事件に。そして、薬子の乱の薬子は、藤原種継の娘。娘が宮女となって宮仕えしていた立場でありながら、自らが平城天皇との深い仲になった薬子に怒り心頭の桓武天皇ですが、藤原式家に恩義のある立場から遠慮があったのではとも言われていて、この辺りは本当にドロドロした世界です。 -
イチオシ
ここが正面入り口。
国登録有形文化財となった都市近郊の農家住宅の建物は、上品だし格調の高さも感じるもの。 -
入ってすぐの間の襖絵は、長岡京。多くの下級の役人が出仕する早朝の風景です。
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玄関から上がって
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奥の日本間。
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農家住宅と言っても、なかなか趣きがありますね。
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蔵の方は、展示室になっていて
ここは、地域の交流の場としても使われているようでした。 -
そして、向日市文化資料館では、常設展「長岡京の歴史と文化」。
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常設展示室の立派な入り口を入りますと
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中は広々。
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長岡宮大極殿や朝堂院の復元模型や遺跡の出土品だけでなく、
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宮都の変遷、
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都つくりの道具類、
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役所の機構図、
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貴族の食膳、
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イチオシ
桓武天皇の初恋の女性、百済王明信、
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各地から都に届けられる特産物など。当時の様子がリアルに想像できる展示が豊富にあって、なかなか良いと思います。
ただ、それにしても長岡京に関する博物館が長岡京市ではなく向日町にあるなんて、だれが想像できるでしょうか。危ない危ない。こういうのに出会えるのも、とにかく丹念に街歩きをした結果。事前に絞り込みをすると、なかなかこうはいきません。 -
今度は、竹の径を目指しつつ。。
五塚原古墳は、古墳時代最初期の3世紀中葉から後半頃の築造と推定される墳丘長91.2m、竪穴式石室を有する大型前方後円墳。国史跡、乙訓古墳群を構成する古墳のひとつです。公園の裏山みたいな感じ。全景はあんまりはっきりは見えません。 -
寿恵更紗ミュージアムは、手描きの更紗芸術家、青木寿恵が生涯をかけて描き続けた作品を収蔵する美術館。
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青木寿恵は、まあ、主婦に毛の生えたくらいの人だと思うのですが、ここまでくると立派なもの。
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イチオシ
ちなみに、更紗というのは、インドが起源の木綿地に多色で文様を染めた布製品のこと。
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これまでもどこかで目にしたことがあるような気もしますが、やっぱりこれが青木寿恵の世界なのかな。
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素朴でさりげないデザインですが、そんな中にも一生懸命さというかひたむきな気持ちがこもっているように感じました。
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寿恵更紗ミュージアムから桓武天皇皇后陵もすぐですね。
長岡京を築いた桓武天皇の皇后、乙牟漏(おとむろ)の墓。乙牟漏は、冒頭触れましたが、藤原式家、藤原良継の娘で、平城天皇、嵯峨天皇の母。例の宮内庁の掲示板が建っていて、よく整備されています。
ただ、直径は65m、高さ7mの円墳ということですが、こんもりした森のような感じしか分かりませんね。桓武天皇の陵は伏見にあるのでけっこう離れています。 -
竹林の道は、嵯峨野の竹林の小径が有名ですが、京都市が開発した洛西ニュータウンにある京都市洛西竹林公園の中にも”竹の径”があります。
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竹で編んだ塀が延々と続く遊歩道をひたすら進むという感じなのですが、
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イチオシ
竹で編んだ塀がいろんな種類があって、その趣の違いを楽しんだりするのも面白いですね。嵯峨野の竹林の小径と比べるとこちらはさらにスケール感があるように思います。
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寺戸大塚古墳は、竹の径の途中。これも、国史跡、乙訓古墳群を構成する向日丘陵古墳群中のひとつ。古墳時代前期中葉に造られた全長98mの前方後円墳。竪穴式石室を有し、三角縁神獣鏡も出土。ただ、崩れかけたはげ山的な景観で、見た目はあまりよくないです。
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竹の径が延々と続く途中に視界が開ける場所があって、そこが芝生の公園となっていました。京都市洛西竹林公園は、竹の径まで含めるとスケールが大きな公園です。
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もう少し遺跡をあれこれ。
物集女城跡は、中世の城跡で、乙訓の土豪のリーダーであったという物集女氏の居城。約70m四方の主郭もあったようですが、天正3年(1575年)、城主である物集女忠重入道宗入は、織田信長の配下にあった細川藤孝に謀殺されたとも。平地にある土豪の城跡として貴重な史跡。ただ、遺跡は私有地にあるので離れた場所から眺めます。 -
淳和天皇火葬塚は、桓武天皇の第三皇子、淳和天皇の遺体を遺言により火葬にした場所。淳和天皇は、藤原百川の娘、旅子が母。嵯峨天皇から嵯峨天皇の皇子、仁明天皇に移る間のワンポイントで天皇となる。承和7年(西暦840年)に55歳で死去。火葬の後、西山に散骨されたということですが、その山の辺りまで残されたのかどうか。ちょっとした陵のような感じの山が残されています。
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物集女車塚古墳緑地公園は、公園というより物集女車塚古墳そのもの。街中にあって、かなり目立ちます。古墳は、6世紀中頃の築造。横穴式石室を有し、前方部二段、後円部二段の前方後円墳の形状がそのままよく残っているので、けっこう見応えもあると思います。
では、これで長岡京を終えて、京都市内へ。 -
洛西口駅から大宮駅に到着です。
壬生寺の壬生狂言が目当てなのですが、手前にある元祇園 梛神社でも節分祭のようですから、ちょっと寄ってみましょう。 -
境内はこちらも賑わっていて、
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これはお神楽の奉納。
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イチオシ
巫女さんが舞っているのをちょいと拝見できました。
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では、改めて壬生寺へ。
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露店の並ぶ参道から
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本堂の方へ。
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大勢のお参りがあって、さすがですね~
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お守りもありますけど、
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目立っていたのは厄除けほうらく。
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イチオシ
素焼きの焙烙(ほうらく)に家内の名などを書いて奉納すると4月の壬生狂言「焙烙割」の際、この焙烙を舞台から落として割ることによって厄払いとするのだそう。
なるほど、それは面白そうですね~ -
ではでは、壬生狂言の方へ。
壬生狂言というのは、一般的な狂言と違って、無言劇。演じ手も檀家の方とか素人が行うもの。仏事に近いもののようですね。
で、年に3回行われるのですが、節分の狂言は1種類の「節分」だけということもあって無料です。 -
会場はこんな感じ。
狂言は、節分の日に夫を亡くした女主人が、厄を払うまじないをかけてもらうのですが、打ち出の小槌を使って人間の姿に化けた赤鬼が女主人へ近づく。赤鬼が打ち出の小槌で美しい着物を次々と出すと、女主人は喜んで宴を開いて鬼に酒をすすめるのですが。。
寝入った男が鬼であることに気が付くと慌てて豆で退散させ、一難を逃れるというもの。厄除けのほか、ものでつられるような甘い誘惑には負けるなという戒めでもあるようです。 -
イチオシ
なお、狂言自体は撮影禁止。ネットでも写真を見ないのはそういうことなんですね。
清凉寺の嵯峨大念仏狂言は普通の屋外なので撮影可なんですが、ここは限られたスペースですから、やむを得ないかもしれません。 -
会場を出ると境内ではまだまだ賑わいが続いていました。
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では、近くで晩飯。
ふと目に入った千龍は、四条大宮の四条通沿い。大通りに面しているので、逆に目立たないかもしれませんが、雰囲気としては老舗感がある店構えの中華屋さん。 -
てっとり早く天津飯をいただきましたが、あっさりというかやさしくて爽やかな味わい。京都だとマルシン飯店がめちゃめちゃ有名ですが、どうかするとここのも負けていないような。意外な名店ではないかと思います。
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今夜の宿はリーガプレイス京都 四条烏丸。烏丸駅からもう少し近いかなと思いましたが、感覚的には少し歩きます。
名前の通り、リーガロイヤルの系列のようで、ビジネスホテルクラスのホテルにしてはスタッフの対応がちょっと違いますね。なにか依頼をするとスタッフ全員がそれを共有して、対応に抜かりがありません。気持ちよく利用させてもらいました。
明日は、京都の中心部。節分の本番です。
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この旅行記へのコメント (3)
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- うふふ♪♪さん 2024/12/01 21:19:15
- お久しぶりです、たびたびさん。うふふ♪♪です♪
- たびたびさんへ☆☆
たびたびさん、随分ご無沙汰して、失礼しました。
うふふ♪♪です♪
例によって、3ヶ月ほど寝込んでいましたが、
去年、4ヶ月半寝込んだ後も、
たびたびさんのページへお伺い出来ていなかったんですね。
長い間のご無沙汰、本当に失礼しました。
~・~・~・~・~・~・~
長岡京市には友人が2人住んでいました。
1人は高槻に引っ越し、もう1人は地元に帰ってしまいました。
が、そんな訳で、阪急の長岡天神は、度々利用したこともあり、
多少の土地勘はあるので、読んでいて、楽しかったです♪
そんなうふふ♪♪でも、長岡京市に古墳があるとか、
光秀本陣跡(あんな所にあるとは!)とか、勝龍寺・勝龍寺城とか、
全く知りませんでした。
恐らく、長年長岡京市で育った友人も、
たびたびさんの旅行記に出て来たかなりの部分を全く知らないのではと思います。
それとも、小学生時なんかに社会見学だけして忘れているとか(笑)・・
一番驚いたのは、やはり長岡京があったと長年知られていなかったことでしょうか。
しかし、中山氏はどんなきっかけで、地元に都があったと知ったのか。
それが一番不思議です。
そして、もっと不思議なのは、地元の人でも知らないような場所を、
なぜ、たびたびさんはよくご存知なのか。
いつも、とても驚かされます。
次に驚いたのは、藤原氏はずっと北家が中心だった訳では無いのだな。
ということでしょうか。
なにせ、大正天皇の皇后・貞明皇后は、自身が藤原北家出身であることを、
大変誇りにしていたらしく、
それを読んだとき、(え~・・、北家って、大正までも優勢だったの?)
と、心底驚いたからです。
式家や南家が優勢だった頃もあったのですね。
ってことは、京家が優勢だったことは無かったのでしょうか?
もっと不思議なのは、ふつうは長男が後を継いだら、
余程のことが無い限り、次男以下は放り出される時代に、
なんで、4人とも有力なままだったのか。
また一斉に4人が亡くなったのに、四家ともその後も有力だったのはなぜなのか?
そして、藤原不比等は壬申の乱で近江方だったため、
1度失脚しているのに、なんで、息子4人が有力貴族に、
娘2人が天皇の后(1人は初の皇室以外の皇后。皇后でない方も国母。)
になっているの??
ということでしょうか。
(こんなことはわざわざ書くまでもなく、たびたびさんはご存知でしょうが。)
まだ書きたいことあるのですが、
もう凄く長くなってしまったので、この辺で(笑)・・
「空海」という映画で、薬子を小川真由美さんが演じており、
めちゃくちゃ怖かったのをよく覚えています。いや、ナイスキャスティング!!
あの映画で、”藤原薬子”という人物は頭に焼き付きました(笑)☆
※今、調べたのですが、
他にもかなり有名な俳優さんが多数出演されていて、驚きました。
丹波哲郎さんの桓武天皇は今見て思い出しました。似合わない・・
真言宗、お金持ちだなぁ・・と当時も今もしみじみ思いました。
<箕面編>
勝尾寺って、むかしはあんなだるまありませんでしたよ。1つも。
観光業の一環でしょう。
箕面の滝は、小学生の遠足で行きました。
子供の頃に行くと、本当は全然よくわかっていないのに、
(もう、行ったしなぁ~・・)と思っちゃって、全然足を運びません。
いいのか、悪いのか。
※銀閣寺・金閣寺・二条城・清水寺もそうです。
”もみじの天麩羅”、もうなかったですか?
油っこいもの苦手なのに、あれは好きなんです。
子供の頃、食べたっきりですけど。
いつものことですが、長々失礼しました💦💦
うふふ♪♪
- うふふ♪♪さん からの返信 2024/12/01 21:37:27
- 忘れてました!!
- たびたびさん!
忘れてました!
うふふ♪♪の旅行記にご訪問下さって、ありがとうございます!
そして、最近は旅行記をUp.されていないようですが、
何かご事情でも?
ご病気などでは無いと良いのですが。
師走に入り、寒さもぐんと厳しくなりましたし、
どうぞお大事になさって下さい。
うふふ♪♪
- たびたびさん からの返信 2024/12/05 17:41:44
- RE: 忘れてました!!
- 昨日まで旅をしていたのでご返事が遅れましたが、特に変わりはないので、ご心配なく。
旅行記は一年前のものなので、投稿のブランクが開いているように見えるかもしれませんが、それは原稿がたまり過ぎているから。月に5本ベースでアップしているんですが、1年分ほど溜まっている状況をなかなか解消できません。口コミも同じような感じですね。
旅の方をセーブするのもありなのかもしれませんが、たぶんそれは本末転倒だし、悩ましいところです。
うふふ♪♪さんの方は体調が戻られたようでなによりですね。コメントにはいつも元気をもらっています。ありがとうございます。
たびたび
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