2023/10/09 - 2023/10/25
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kawausoimokoさん
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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりして、何より歴史を再認識する旅となりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2023年10月13日(金)(Day5-2)
今回はゲメルデギャラリー「ドイツ・ルネサンス」時代のルーカス・クラーナハ
ルーカス・クラーナハ(Lucas Cranach der Ältere)は、アルブレヒト・デューラー(1471-1528)より1年遅れた1472年にドイツの小さな村クローナハで生まれ、イタリア ルネサンス盛期のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)、ミケランジェロ(1475‐1564)、ラファエロ(1483-1520)とほぼ同時代人でした。 -
エジプトへの逃避途上での休息:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1504年
クラーナハは画家であった父親の工房で修行した後、ウィーンへ移り、ウィーン大学の人文学者サークルに入って知識人たちと交流し、主に宗教画と人物画で画家として認められました。 -
最期の審判:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1524年頃
この作品は、ヒエロニムス・ボスが描いた祭壇画「最期の審判」の複製であり、経緯は不明となっています。
ゲメルデギャラリーの説明では、ウィーン美術アカデミー絵画ギャラリーに展示されている祭壇画の複製とされています。
1505年にクラーナハはザクセン選帝侯フリードリヒ3世の宮廷画家となり、ザクセンの首都ヴィッテンベルクへ移住しました。
複製が制作された1524年頃には、クラーナハはヴィッテンベルクで工房を持って多くの絵画を制作していたので、工房で複製されたものと推測されています。 -
最期の審判:ヒエロニムス・ボス ,1504-1508年頃
こちらは、ウィーン美術アカデミー絵画ギャラリーに展示されているものです。
(2023年10月19日撮影)
ボス(ボスの工房)が制作したとされる「最後の審判」は、複数(祭壇画2点と中央パネル1点)残っています。
その内の一つである、ウィーン美術アカデミー絵画ギャラリーに展示されているこの祭壇画は、1524年頃にどこにあったのかは不明となっています。
そのため、文書に残っている「ボスが1504年にブルゴーニュ公フィリップ4世(スペイン フェリペ1世)から依頼され、ボスが描いたオリジナルの祭壇画」は、展示されているこの作品ではなく、失われてしまった可能性もあるそうです。 -
ブランデンブルグのアルブレヒト枢機卿:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1527年
クラーナハは、1505年にザクセン選帝侯フリードリッヒ3世の時代にヴィッテンベルグの宮廷画家となって以来、およそ50年間、三代のザクセン選帝侯に仕え、宮廷人たちの肖像を描きました。
クラーナハが描く肖像画は高く評価され、ザクセンのみならず神聖ローマ帝国の各地から注文があり、ルターの最大の敵とみなされていたブランデンブルグのアルブレヒト枢機卿の肖像画も描いています。 -
ダヴィデとバテシバ:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1526年
沐浴する(足を洗っている)バテシバと周りの侍女たちに、クラーナハのトレードマークである「冷たく妖艶な表情」の作風が伺えます。
1508年にクラーナハは、既に数多くのイタリア ルネサンス絵画が渡っていたネーデルランドを訪れてこれらを目にし、以降、作風はルネサンスの影響が強まり、神話を画題とした裸婦像を描き始めたとされています。
更に1520年以降になると、マニエリスムを思わせるクラーナハ独特の官能的なヌードが目立つようになります。 -
ヴィーナスとキューピッド:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1530年頃
15世紀のイタリア ルネサンス時代に「神話世界を題材にして人ならざるものを描く場合は、ヌードは許される」という暗黙の了解が成立して以降、貴族や富裕層の間では「愛の女神ヴィーナスのヌード」が、富と子孫繁栄の象徴として好まれました。
クラーナハが描く裸婦像の特徴である、金髪・すらりと手足が長く・胸の位置が高く、乳房が小さく・下腹部がふくらんで・陰毛がなく(薄く)・陶器のような滑らかな白い肌、そして、冷たく妖艶な表情等が余すところなく描かれおり、美しく官能的です。
この作品にはラテン語で「愛の誘惑に注意しなさい」と書かれているそうですが・・・?
クラーナハはルターを熱心に支援したプロテスタントでしたが、ヌードとプロテスタントとしてのモラルの融和を図る苦肉の策でしょうか? -
森の中に佇むアポロとディアナ:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1530年
アダムとイヴ、ヴィーナスとキューピッド、神話の神々、ルクレチア、パリスの審判といった画題は、当時人気だったそうです。
即ち、ヌードを描く絵画の題材として好まれたということでしょう。 -
楽園のアダムとイヴ:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1531年
「アダムとイブ」はクラーナハが多く描いた画題であり、30点以上が残っているそうです。 -
ルクレツィア:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1533年
話が少し脇道へ外れますが、16世紀のエロティック・アートとして最も有名なのは、ローマの画家ジュリオ・ロマーノが描いたスケッチ「I Modi」(別名「16の愉しみ」)でした。
ジュリオ・ロマーノはラファエロのアシスタントをしていた画家で、1520年にラファエロが亡くなるとバチカンの壁画を完成させ、ラファエロの工房を引き継ぎました。
1524年にロマーノはマントヴァのゴンザーガ家の夏の離宮の設計・建築、装飾を任され、古典的彫像からヒントを得て、神話や歴史上の有名なカップルの性描写をスケッチで描きました。
このスケッチは版画家マルカントニオ・ライモンディに渡り、ライモンディはこれを16枚の版画集「I Modi」にして1524年に出版しました。
この版画は一般市民の間でたちまち人気となって市中に流通し、これに対して教皇クレメンス7世は「I Modi」の破棄を命じ、ライモンディは逮捕されました。
ライモンディは、1527年にも絵画と詩が一緒になった2度目の「I Modi」を出版し、この時は逮捕を免れましたが、「I Modi」は押収されました。
「I Modi」のオリジナルは失われましたが、その後、複製が何度も作られてヨーロッパ中に流布していったそうで、現在、大英博物館を始めとする複数の美術館で所持しているそうです。
クラーナハがいたヴィッテンベルクには、1502年にザクセン選帝侯フリードリヒ3世が設立したヴィッテンベルク大学があり、クラーナハはこの大学の知識サークルに加入し、神学部教授であったマルティン・ルターを始めとする多くの文化人・知識人と交流していました。
ヨーロッパ各地からやって来たインテリ達がもたらした「I Modi」をクラーナハが知っていた可能性は大いにありますね。
ちなみに、このライモンディさんは、ローマではラファエロと共同で版画を制作していましたが、ローマへ来る前にはヴェネチアでデューラーのモノグラム入りの複製版画を制作してデューラーに訴えられ、裁判後もデューラーのモノグラムだけを外した複製版画を制作し続けた「懲りない人」でした。 -
ヴィーナスとミツバチ泥棒のキューピッド:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1537年以降
「ヴィーナスとキューピッド」は人気のあった題材であり、クラナーハの工房で職人たちによる分業で描かれて、現在40枚以上が残っているそうです。
そのお蔭で、現在多くの美術館がクラーナハの絵画を所持しているんですね。 -
若返りの泉:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1546年
水の浄化力への信仰である「若返りの泉」の伝説は、クラーナハの時代には誰もが知っているもので、ドイツの詩人達が「若返りの泉」を題材とする詩も書いているそうです。
この作品は、古いテーマである「若返りの泉」を再解釈し、女性が若さを取り戻す力は「愛の女神ヴィーナスとキューピッド」が支配する「愛の泉」にあるとして描かれています。 -
若返りの泉:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1546年
荷車や荷馬車、担架、背に負われて、老いた女性達が続々とやってきます。 -
若返りの泉:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1546年
泉の水に浸かると、病は癒え若返ります。 -
若返りの泉:ルーカス・クラーナハ D.A. ,1546年
若返った女性たちは、美しく装い、踊り、ごちそうを食べて歓談、そして、愛を交わして、再び人生の喜びを取り戻します。
「愛の泉」で若返るのは女性だけで、男性は描かれていません。
その理由は、1532年に出版されたフランソワ・ラブレーの「パンタグリュエル」の影響とされ、同書に書かれている「老いた女性を溶かして再び15歳や16歳の女性する方法」と「老いた男性は溶かすことができないので、若い女性と過ごすことで若返る方法」に基づくとされています。
フランス語で書かれた「パンタグリュエル」をクラーナハにもたらしたのはヴィッテンベルク大学のサークルと思われ、サークルでの知識人たちとの交流はクラーナハの作品に多くの影響を与えたようです。 -
聖カタリナ:ルーカス・クラーナハ D.A. の工房
クラーナハ は、ヴィッテンベルグで多くの職人を抱えた工房を持ち、全部で5000点とも謂われる膨大な作品を制作しました。
1507年にクラーナハは、フリードリヒ3世から「冠をつけた翼のはえたヘビが輪をくわえた盾形紋章」を賜り、以後、工房で制作された作品には、この盾形紋章がクラーナハブランドの印としてとして描かれました。
この作品には盾形紋章がないことから、それ以前に描かれたものと思われます。
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