2023/10/09 - 2023/10/24
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kawausoimokoさん
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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に滑り込みで行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
しかし、その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりして、新たな発見や気づきがありました。
出発直前の10月7日、ハマスがイスラエルへの攻撃を開始し、以降、ガザ地区の状況は悪化の一途を辿りました。
空港や駅、街中では、中東系の男性が検問される光景が散見され、10月18日にオーストリアはテロ警戒レベルをレベル4(テロの危険が高まっており、具体的に危険な事態)に引き上げました。
ドレスデンでは中東系市民による抗議集会のため一時的に外出できない状況になり、ウクライナだけでなく中東問題をも身を持って感じる旅でもありました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2023年10月10日(火)(Day2-2)
初日の午後は、初めて訪れるゲメルデガレリーで、期待が高まります。
初回はGoogle Mapやcity mapperに表示される通りに、ホテル近くのベルリン中央駅バス停からM41番バスでS+U Potsdamer Platzまで乗車し、そこから15分位歩いてゲメルデガレリーがあるKulturforumまで行きました。
帰り道で、ベルリン中央駅とKulturforumやベルリン・フィルハーモニーを往復するには、M85番のバスでバス停Kulturforum まで乗車すれば歩く距離は半分以下ということが分かり、以後このルートを利用しました。
ただ、ベルリンに限ったことではなく、どこの都市でも工事中の場所があり、その影響でバス停の位置や走行ルートが変更されていることがあります。(今回のM85番のバスもそうでした)
そのため、実際にバス停で路線図と時刻表を確認する必要があります。
昨年のパリでも同様でしたが、Google Mapやcity mapperはバスに関しては他の交通手段に比べて情報が正しく反映されていないケースが多いように感じます。 -
Potsdamer Platz
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Kulturforum
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Kulturforum
正面左が入口です。 -
0F 右手にMuseum Shopがあります。
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0F 左手にチケットカウンターがあります。
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1F カフェがあります。
-1F クロークとロッカーがあります。 -
ゲメルデガレリー (Gemäldegalerie)
ゲメルデガレリー(Gemäldegalerie)は、美術の世界ではベルリンの絵画館を指す用語として知られているそうです。
この美術館は、17世紀以降のプロイセン王国・ドイツの歴史を象徴しており、非常に興味深いものです。
この美術館の前身は、17世紀ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと18世紀プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代に収集された王室コレクションでした。
その後、ポーランド分割時に略奪した美術品やポーランド・リトアニア王室から購入したコレクションが次々に加えられてゆきました。
(略奪は歴史的に多くの美術館で見られる問題で、大英博物館やルーブル美術館も同様です)。
1797年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の芸術顧問であったアロイズ・ハートは、ベルリンに美術史に即した芸術性の高い公立美術館を設立することを提唱し、王室コレクションの調査、整理、分類が開始されました。
この計画は承認され、後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時代に継続されました。
計画はナポレオン侵攻により大幅に遅れましたが、1815年にはハートの美術史理論に基づき、イタリアンバロック部門にカラバッジョを含むコレクションが追加購入され、その後も、戦争の賠償や略奪でいくつものコレクションが加えられてゆきました。
1830年、これらのコレクションは絵画館(Gemäldegalerie)として、現在の博物館島内にある旧博物館 (Altes Museum)にオープンしました。
1890年、ヴィルヘルム・フォン・ボーデが絵画館(Gemäldegalerie)の館長となり、1904年にはルネサンス部門の多くのコレクションがボーデが創設したカイザー・フリードリヒ博物館(現在の博物館島内にあるボーデ博物館)へ移されました。
第一次世界大戦後、ヤン・ファン・エイクを含む一部のコレクションはベルギーに賠償として返還されました。
第二次世界大戦中、カイザー・フリードリヒ博物館は甚大な被害を受けましたが、多くの収蔵品はチューリンゲンの岩塩坑を始めとする各地に分散して保管されていたため、400点以上の美術品が失われたものの、その他は被災を免れました。
また、戦争末期には数百点の絵画がアメリカとソビエト連邦に押収されましたが、アメリカは戦後間もなくほとんどを返還し、ソビエト連邦が押収した390点の美術品も1958年までに東ベルリンのボーデ美術館に戻ったとされています。
第二次世界大戦戦後、コレクションは東西ドイツで分割され、西ベルリンではダーレムの西ベルリン美術館に、東ベルリンではボーデ博物館に収蔵されました。
1990年のドイツ統一後、コレクションはボーデ博物館に統合されるものとみられていましたが、当時ベルリン国立プロイセン文化遺産財団の総局長を務めていたヴォルフ・ディーター・ドゥーベらによってコレクションはモダニズムの複合施設であるKulturforumに移され、1998年に現在のゲメルデガレリーが開館しました。 -
パンフレットでは、この美術館の歴史について、次のように簡潔に紹介されています。
「1830年の開館以来、この美術館のコレクションは波乱万丈の歴史を持ち、現在では1300点の絵画が展示されています。」 -
そして、またもや、なんと言うことでしょう!
ヤン・ファン・エイクは10月20日から開催される企画展の準備のため、展示されていなかったのです!! ( ノД`)シクシク… -
10月20日から開催される「ZOOM auf van Eyck」の会場入り口
旅行の日程を変更して、20日以降にウィーンから戻って来ることも考えましたが、今回は断念しました。
気力の衰えを実感します(~_~;) -
その代わりに、10月15日まで開催が延長されていた企画展でアルブレヒト・デューラーの銅版画が見られるようです( ^)o(^ )
-
フロアープランを眺めながら見学コースを検討します。
コレクションは13世紀から18世紀までのヨーロッパ絵画で、展示室の装飾は簡素で地味な印象を受けますが、その展示内容は驚くべきものです。
美術史理論に基づいた美術館らしく基本的には年代・地域別に分類されており、コレクション全体を通じて、ヨーロッパの芸術様式の変遷がまるで教科書のように理解できるようになっています。
深夜便のロングフライトで疲れてしまい、いつもに増してぼーっとしているので、今日は親しみのあるイタリア絵画から始めて、後日、再訪することにします。 -
Café und Restaurant im Kulturforum
時刻は既に午後2時半を過ぎており、空いています。 -
本日のスープとパストラミサンド
レンズ豆のスープは美味しかったです。
齧りかけのサンドイッチですいませんm(__)m
腹ごしらえも済んで、ではでは、イタリア絵画から始めましょう。(^^♪
それにしても、空いています。
ほぼ貸し切り状態で、至福の時を過ごします。 -
St. Jerome : Jacopo Bellini , 1430-1435の間
ベッリーニは、1400年頃にヴェネツィアの金属細工職人の息子に生まれ、フィレンツェで、有名な祭壇画「東方三博士の礼拝」を描いたジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの工房に弟子入りしました。
フィレンツェでは、フィリッポ・ブルネレスキやドナテッロ、マソリーノの作品を見て影響を受けたとされます。
イタリア絵画は都市ごとに発達し、シエナ派、ヴェネツィア派などと都市の名を付けて分類されますが、ベッリーニは独立後の1424年にヴェネツィアに工房を開き、有名な二人の息子、ジェンティーレ・ベッリーニとジョヴァンニ・ベッリーニとともに、15世紀「ヴェネツィア派」の中心的画家と称されています。 -
Portrait of Cardinal Lodovico Trevisan : Andrea Mantegna , 1455年頃
マンテーニャはパドヴァ近郊に生まれ、10歳でスクァルチョーネの養子となりましたが、折り合いが悪かったそうです。
彼は独立後、スクァルチョーネのライバルであったベッリーニに出会って親交を結び、ベッリーニの娘ニッコローザと結婚しました。
その後、マントヴァのゴンザーガ家の宮廷画家となり、ゴンザーガ家の求めに応じて「カーメラ・デッリ・スポージの天井画」や「聖セバスティアヌス」に代表される宮廷画や祭壇画を描きました。
この肖像画はロドヴィコ・ トレヴィザンで、教皇庁の枢機卿であると同時に、1440年のアンギアーリの戦いで教皇軍の指揮官として軍事的才能を発揮した人だそうです。
マンテーニャの特徴である、この時代としては正確な遠近法と彫刻のように立体的な人物表現は、養子時代に工房でスクァルチョーネが集めた古代彫刻の石膏模型を見て勉強したとされています。 -
The Resurrection of Christ : Giovanni Bellini , 1475-1479の間
父ヤーコポ・ベッリーニの二人の息子は、それぞれヴェネチア派の有名な画家となりました。
ベッリーニ兄弟の初期の作品は、義兄弟にあたる画家マンテーニャの硬質な画風から多くの影響を受けているとされています。
弟ジョヴァンニ・ベッリーニが描いたこの作品は、柔和な表現と華麗な色彩が特徴のヴェネツィア派風への移行期とされています。 -
Annunciation : Piero del Pollaiolo , 1450-1490年の間
ポッライオーロ兄弟の、弟のピエロ作とされています。
ヴァザーリはピエロをアンドレア・デル・カスターニョの弟子だと記しましたが、兄アントニオが弟ピエロを指導したという説もあります。
背景のヴェッキオ宮殿の上の青い山々の地平線上に遠近法の消失点があり、奥行きがほぼ正しく描かれています。
この兄弟は、レオナルド・ダ・ヴィンチに先んじて人体解剖を行い、人体の構造を詳細に観察していたと言われており、この時代としてはリアルな人体表現だと思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチが14歳でヴェロッキオの下に弟子入りしたのは1466年とされており、ダ・ヴィンチは1489年頃から解剖した人体の詳細な素描を描き始めたとされています。
恐らく、ダ・ヴィンチはこの絵を観ており、影響を受けたのではないかと勝手に妄想しています。 -
The Holy Family with Young St. John : Fra Filippo Lippi , 1459年
フィリッポ・リッピは幼くして孤児となり、カルメル会の修道院で育てられ、マサッチオが描いたフレスコ画を観て大きな影響を受けたとされます。
絵を描く修道士となったフィリッポ・リッピは、1452年にプラート大聖堂から壁画制作の依頼を受け、壁画制作中の1456年にはサンタ・マルゲリータ修道院の礼拝堂付き司祭に任命されました。
ところが、同年、フィリッポ・リッピはサンタ・マルゲリータ修道院の23歳の修道女、ルクレツィア・ブティを祭礼の混雑に紛れて誘い出し、自宅に連れ帰りました。
1457年、二人の間に息子フィリッピーノ・リッピが生まれ、リッピは告発されましたが、当時のメディチ家当主コジモ・デ・メディチの取りなしによって教皇から還俗を許され、二人は正式な夫婦となりました。
フィリッポ・リッピは、敬虔な修道士であったフラ・アンジェリコとは全く対照的ですが、だからこそ、ルクレツィアがモデルとされる優美なマリアや可愛い幼子キリストが描けたとされています。
フィリッポ・リッピの弟子にはサンドロ・ボッティチェッリがいました。
「森の礼拝」と呼ばれるこの作品は、フィリッポ・リッピが還俗後、メディチ家からの依頼でフィレンツェの宮殿にある私設礼拝堂の祭壇画として描かれたそうです。 -
The Virgin and Child : Andrea del Verrocchio , 1465-1470年の間
ヴェロッキオは彫刻家として有名ですが、1469 年にメディチ家がヴェロッキオに絵画を制作依頼したことが文書で残っていることから、その頃までには画家としても有名になっていたと考えられています。
現在、ヴェロッキオが単独で描いたと特定されている作品は僅か2点で、その内の1点がこの作品だそうです。
ヴェロッキオは元々は金細工師であり、ヴェロッキオの師匠は特定されていませんが、アントニオ・デル・ポッライオーロと同様にヴィットリオ・ギベルティに学んだ可能性が高いとされています。
同世代のヴェロッキオとポッライオーロは、生涯、ライバル関係にありました。
また、ヴェロッキオは一時期フィリッポ・リッピの弟子として修行していたという説もあります。
ヴェロッキオは、コジモ、ピエロ、ロレンツォの3代に亘ってメディチ家の強力な支援を受けており、1472年にはロレンツォ・デ・メディチのお抱えとなり、フィレンツェに大規模な工房を構えました。 -
The Virgin and Child : Andrea del Verrocchio , 1473年
この作品はヴェロッキオ作とされていますが、ピエトロ・ペルジーノ、または、ドメニコ・ギルランダイオが描いたという説もあります。
ヴェロッキオの工房に限らず、当時の工房はどこも親方・助手・徒弟からなる家族的な共同体で、美術品を制作するのと同時に教育の場でもありました。
1470年代のヴェロッキオの工房では、絵画、彫刻、板絵、フレスコ画、銅版画だけでなく、建築設計、モザイク、寄木工芸、半貴石細工、象嵌細工、エナメル細工品、金属加工、ブロンズ鋳造など、ありとあらゆる美術・工芸品を手がけていたそうです。
ヴェロッキオの工房は、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ピエトロ・ペルジーノ、ドメニコ・ギルランダイオ、ロレンツォ・ディ・クレディなどの著名な画家を輩出しています。
工房ではヴェロッキオ指導の下に共同制作されることが多く、このため、「ヴェロッキオ単独作品」、「弟子単独作品」、「ヴェロッキオと弟子の合作」、「弟子同士の合作」を判別することが極めて困難となっているそうです。
その一例が「キリストの洗礼」です。
1472年から1475年にかけて工房で描かれた「キリストの洗礼」では、レオナルド・ダ・ヴィンチが天使や背景などを描き、洗礼者聖ヨハネの部分は当時工房に出入りしていたボッティチェッリが描いたとされる説があります。
ヴェロッキオはレオナルドが描いた天使を見て、その卓越した才能に驚嘆し、以降ヴェロッキオは自らの絵筆を折ったとする伝説がありますが、工房ではヴェロッキオは絵画制作は弟子たちに任せて、ヴェロッキオ自身は彫刻に専念していたというのが多くの見方となっています。
また、レオナルドのデビュー作品として有名な「受胎告知」は、1479年頃に工房がピストイア大聖堂祭壇画として受注したもので、ギルランダイオがテンペラで描いた後に、レオナルドがロレンツォ・ディ・クレディを指導しつつ制作した合作だという見方があります。 -
San Sebastiano : Alessandro Botticelli , 1474年
サンドロ・ボッティチェッリは、フィレンツェで皮なめし職人の子として生まれ、1464年から3年間フィリッポ・リッピの工房で修業し、この間にリッピの繊細で優美な画風を吸収しました。
リッピの工房を出た後、ボッティチェリはアントニオ・デル・ポッライオーロやアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房で仕事をし、彼らからも影響を受けました。
1470年に師匠のフィリッポ・リッピが亡くなると、ボッティチェリは自らの工房を構え、メディチ家のお気に入りとなりました。
この絵はボッティチェリがフィレンツェのサンタ マリア マッジョーレ教会のために描いたものです。
「聖セバスティアヌス」はマンテーニャを始めとして多くの画家達が描いており、現代に至っても、エゴン・シーレや三島由紀夫など多くの芸術家を魅了する題材のようです。 -
Profile Portrait of a Young Woman: Alessandro Botticelli ,1475-1480年間
ジュリアーノ・デ・メディチの愛人で、当代一の美女と賞賛されたシモネッタ・ヴェスプッチの肖像画です。
シモネッタは15歳で、マルコ・ヴェスプッチ(探検家アメリゴ・ヴェスプッチの遠縁にあたる)と結婚しました。
1475年4月にフィレンツェのサンタ・クローチェ広場で、ジュリアーノ・デ・メディチは、騎士がその名誉のために戦うジオストラ(騎芸競技会)で、イナモラータ(永遠に愛する人)にシモネッタを選び、ボッティチェッリに描かせた彼女がモデルの女神の旗印を掲げて入場したそうです。
メディチ家にシモネッタを売り込んだのは、彼女の夫のマルコ・ヴェスプッチであったとされ、一躍有名となった彼女の許へはピエロ・ディ・コジモを始めとする多くの芸術家が訪れて、彼女を描き、彼女に触発された詩を創作したそうです。
しかし、この出来事から僅か1年後の1476年にシモネッタは23歳で肺結核により亡くなってしまい、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」は彼女が亡くなった7年後に完成されました。 -
Giuliano de'Medici : Alessandro Botticelli ,1468-1478年の間
こちらが、長身のイケメン( il Bello)で有名だったジュリアーノ・デ・メディチの肖像です。
ジュリアーノ・デ・メディチと兄のロレンツォ・デ・メディチは、シモネッタが亡くなった2年後の1478年にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でパッツィ家の陰謀に会い、弟ジュリアーノは命を落としました。 -
Lorenzo de' Medici : Giorgio Vasari , 1570-1572年
(2018年11月にウフィツィ美術館で撮影)
こちらは、ヴァザーリが描いた、豪華王と呼ばれた兄のロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo il Magnifico)の肖像です。
つい、並べてみたくなりました。m(__)m -
Venus : Alessandro Botticelli ,1480年代
ウフィツィ美術館の「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスだけを切り出したような絵ですが、このような絵があることを今回初めて知りました。
ヴァザーリによると、ボッティチェッリはフィレンツェの多くの貴族に求められて裸のヴィーナスを描いたと伝えられています。
この作品以外に、トリノのサバウダ美術館とスイスの個人コレクションに2つの裸のヴィーナスが残されているそうです。
1483年の「ヴィーナスの誕生」以降、裸のヴィーナスは当時貴族の間で大人気となり、ボッティチェッリは何度も彼の工房でプロトタイプを制作しました。
(ルーカス・クラーナハのヴィーナスシリーズと同様ですね。)
この絵画では、金色のペイント(シエナゴールド)で髪に輝きを与え官能的な魅力が強調されています。
繊細で効果的な手法であることから、ボッティチェッリ自身がこの作品の制作に深く関わったと推測されているそうです。 -
The Virgin and Child Enthroned, with the Two Johns: Alessandro Botticelli ,1484-1485年
この絵が描かれた頃のフィレンツェでは、1482年にジローラモ・サヴォナローラがサン・マルコ修道院に赴任し、教会の説教壇でフィレンツェの腐敗とメディチ家による独裁を非難し、次第に民衆の支持を集めるようになります。
彼はルネサンス芸術の中心地であったフィレンツェにおいて、異教である古代ギリシャ文化を美化する風潮とメディチ家が後援していたプラトン・アカデミーを厳しく批判し、これらが享楽的な生活を促して腐敗を招き、キリスト教の道徳に反していると主張し、人々にキリスト教の信仰に回帰するよう訴えました。
サヴォナローラの支持者達は異教撲滅運動を展開し、不道徳と見なされた芸術作品や書籍、物品などを焚書(虚栄の焼却)しました。
「ヴィーナスの誕生」はメディチ家が所有していたため、サヴォナローラの焚書から逃れたとされています。
ボッティチェッリと彼の工房はそれまで裸のヴィーナスをいくつも制作していましたが、サヴォナローラの影響を受けて、この絵に見られるようなマリアや禁欲的な洗礼者のみを描くようになりました。
また、複数あった裸のヴィーナスのパネルの一部をボッティチェリ自身が燃やしたとも言われています。
1494年にメディチ家はフィレンツェを追放され、サヴォナローラがフィレンツェ共和国の政治顧問となり、厳格な神権政治を確立しました。
しかし、この行き過ぎた政策に対する民衆の不満が高まり、僅か4年後の1498年にサヴォナローラはローマ教皇の命令により殉教し、神権政治は終わりました。
1501年以降、ボッティチェリは絵画制作を止めてしまいましたが、何が、彼の意欲を喪失させたのか・・・?
政治と文化・芸術は切り離せないものであり、それらの密接な結びつきを改めて考えます。 -
The Virgin and Child with singing Angelsl : Aessandro Botticelli ,1480年代
ペルジーノが採用していた丸い形のトンド形式が用いられており、この作品はフィリッポ・リッピの影響を強く感じます。 -
The Virgin and the Child : Filippino Lippi , 1475-1480の間
フィリッピーノ・リッピが生まれたのは父フィリッポ・リッピが51歳の時でした。
息子フィリッピーノ・リッピは、父親の工房で、父親の弟子のサンドロ・ボッティチェッリらに学びました。
彼が12歳の時には父フィリッポ・リッピは亡くなり、以降、父親の弟子であったフラ・ディアマンテに養育されました。
この作品は、父フィリッポ・リッピの影響が色濃いと感じます。 -
Allegory of Music : Filippino Lippi , 1500年頃
成人したフィリッピーノ・リッピは、マサッチオが未完のまま残したフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂の壁画を完成させて高い評価を得ましたた。
コジモ・デ・メディチに気に入られた父フィリッポ・リッピと同様に、息子フィリッピーノ・リッピはコジモの息子のロレンツォ・デ・メディチに気に入られて、メディチ家お抱えになりました。
息子フィリッピーノ・リッピは先輩であるボッティチェリの友人であり協力者になったそうですが、この絵ではボッティチェリに寄せているように感じます。 -
La Madonna Solly : Raffaello Sanzio da Urbino , 1500-1502年頃
ラファエロは、ウルビーノの宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの子として生まれ、父母が早くに亡くなって孤児となったため、11歳で画家ピエトロ・ペルジーノの工房へ弟子入りしました。
1501年には独立してフィレンツに自身の工房を構え、その後、若く美しい聖母と愛らしい幼児としてのキリストを描くようになり、その親しみやすく分かり易いスタイルから人気を博すようになりました。
ラファエロが生涯で最も多く描いたのは聖母子像で、50点以上がラファエロ作として残されているそうです。
ゲメルデガレリーは、ラファエロの初期作品を5点も所持しています(*_*;
「ソリーの聖母」と呼ばれるこの作品は、ゲメルデガレリーが所蔵するラファエロの聖母子像の中では最も初期の作品とされています。
ラファエロがペルジーノ工房から独立した前後に制作されており、ペルジーノの影響が色濃いと感じます。 -
Mary with the Blessing Child and Saints Jerome and Francis :
Raffaello Sanzio da Urbino , 1502年頃
「フォン・デア・ロップの聖母」と呼ばれるこの作品は、尖った横顔が特徴で、ペルジーノの助手であったピントリッキオの影響が色濃いとされています。 -
Madonna Diotallevi : Raffaello Sanzio da Urbino , 1500-1505年
「ディオタッレーヴィの聖母」と呼ばれるこの作品は、「ソリーの聖母」より前に描かれたものである可能性も指摘されています。
確かに、未熟でピントリッキオチックですね。
ラファエロだって、先輩の「いいとこどり」しながら、段々上手くなっていったことが伺い知れるように思え、大変興味深いです。
芸術家たちは、突然閃いて新たな独自スタイルを創出するのではなく、やはり、その前に面々と連なる先達が存在するからこそ、それが可能だと思えます。 -
Terranuova Madonna : Raffaello Sanzio da Urbino , 1505年頃
「テッラヌオーヴァの聖母」と呼ばれるこの作品は、1505年頃の制作とされています。
ペルジーノが採用していた丸い形のトンド形式が用いられ、更に、柔らかなスフマート、聖母子のポーズなどは、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響が顕著であるとされています。 -
Madonna Colonna : Raffaello Sanzio da Urbino ,1507-1508年頃
「コロンナの聖母」と呼ばれるこの作品では、マリアの髪は明るいブロンドで顔立ちは優美、幼子キリストは可愛らしく描かれて、両者ともに柔らかでエレガントです。
更に、 背景の地平線は低くなってスッキリし、木々は軽やかに茂っています。
全体的に明るく親しみやすくなり、ラファエロ独自の画風が確立され始めたと感じます。 -
Vertumnus and Pomona : Francesco Melzi , 1518-1522年の間
フランチェスコ・メルツィはロンバルディアのミラノ貴族の家庭に生まれ、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子となりました。
レオナルドに生涯付き従ってミラノ、ローマ、フランスへと旅をし、1519年にフランスのクロ・リュセ城でレオナルドを看取った唯一の弟子でした。
メルツィは、レオナルドの死後、彼が残したすべての手稿の法的執行者となり、それらを編集して『絵画論』として出版したそうです。
この作品は、以前はレオナルドが描いたものとされていました。
1905年にヴィルヘルム・フォン・ボーデがこの作品とエルミタージュ美術館の「フローラ」の作者をメルツィと確定しましたが、以降も諸説あるようです。 -
Venus,Mars and Cupid : Pietro di Cosimo , 1505年頃
サヴォナローラの抑圧から解放されたフィレンツェでは、もはやヌードは当たり前のものとなりました。
夏の牧歌的な風景の中で、ローマの軍神マルスは鎧を脱ぎ捨てて腰布だけを身に着け、優雅なポーズで眠っています。
向かいには、愛の女神ヴィーナスが息子のアモールを腰に引き寄せています。
この種のパネルはルネッサンス時代のイタリアで結婚のお祝いとして制作され、「ヴィーナスとマルス」は人気の題材でした。
パネルは花嫁が持参金の一部として持参し、新婚の夫婦の寝室に飾られたそうです。
この題材を描いた多くの画家達は、単に「愛とエロスの賛歌」を描いただけではなく、様々なアトリビュートやアレゴリーを付加することで、それぞれの個性を発揮しているようです。
この絵の場合には、軍神の鎧で遊ぶプッティを描くことで、「アレクサンダー大王とロクサナの結婚の夜」を暗喩し、依頼主への敬意を表したとされています。
この画家は「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」も描いています。
今回はここまでといたします。
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