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2022年4月6日(水)12時前、山手幹線の手前(東)を緑池から南に進むと三山木地区から宮津地区に入る。宮津については下記に記した。<br />https://4travel.jp/travelogue/11654786<br /><br />緑池から400mほど先で、遠藤川の南の山を回り込むように西に曲がり、山裾を下っていくと、また400mほどで白山神社に到着。京田辺市内最古の神社建築物。毎月第1日曜日と10月の秋祭り(17日に近い日曜日)と正月三が日の早朝に朔日講の神楽が行われることで有名。<br /><br />社伝によれば、継体天皇が筒城宮を皇居としていた頃(6世紀前半)に兵庫の西宮神社から勧請したと伝えられているが、実際にはエビス信仰が広がった平安時代後期以降の勧請と考えられる。ただし、白山神社の御祭神は事代主命でエビス信仰の神ではあるが、西宮神社の御祭神の蛭子神とは系統が異なる。<br /><br />また、かつて夷社とか蛭子社と呼ばれていたのを現在は白山神社と名乗っているが、白山信仰に関連する神は一切祀られてないのも不思議。白山神社を名乗りながら、エビス信仰の神社である謎多き神社。<br /><br />境内に入ると手水舎の奥に鳥居が南向きに建つ。朱塗りの両部鳥居で稚児柱は石製。扁額にはかつての呼称である「蛭子大神宮」と揮毫されている。鳥居の右側に建つ石灯籠は永享五年(1433年)の銘があり国指定重要美術品となっている。この頃に廃寺となったかつての神宮寺の法雲寺にあったものと云われている。<br /><br />鳥居の先には石段があり、その上に社殿が南向きに建っている。素人では分からないが、石段耳石には永禄二年(1559年)の刻銘があるそうだ。社殿には拝殿はなく、覆屋と拝所、瑞垣が一体化した建物となっている。桟瓦葺の平入切妻造。<br /><br />覆屋の内部には左右に二棟の社殿があり、右側が本殿。前述のように事代主命を祀っている。板葺の流見世棚造で朱塗りの施されたもので、小規模かつ簡素な建築ながら向拝蟇股や木鼻などに室町時代の建築様式がみられる。石段と同時期の建築と考えられ、貴重なものとして国の重要文化財に指定されている。<br /><br />左側は境内社で、こちらは大国主命を祀っている。社殿は板葺の流見世棚造に朱塗りを施したもので、本社本殿よりも小規模なものとなっている。<br /><br />鳥居の左側にも若干の境内社が鎮座するが、社名・祭神など不明。反対側、鳥居の右手の先、手水舎も越えた先の崖に2基の小さな石製の覆屋があり、左側の内部に幣が、右側の内部に石祠が置かれているが、これも何かは不明。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24262001890109840&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />白山神社から山裾を北に回り込んでいくと左手に法雲寺への階段がある(下の写真1)。2015年に本堂が建て替えられるまでは西念寺と名乗っていた(下の写真2)。江戸時代初期に檀家制度が敷かれた時に開創された寺。明治時代に入った際の神仏分離の政策により、村の氏神・白山神社の神宮寺・法雲寺の仏像が西念寺に移座されたことから法雲寺に名を改めた。<br /><br />石段を登っていくと、正面に本堂が建つ(下の写真3)。この本堂に以前は京都国立博物館に寄託していた府指定の十一面観音像がご本尊の不動明王像と共に祀られている。十一面観音立像は定朝風の様式を持ち、白洲次郎の妻の随筆家、白洲正子の著作にも著されている。<br /><br />この法雲寺の北側にある集落はかつての宮口(みやのくち)村。この辺りの字となっている宮津は1888年(明治21年)に三山木村に吸収された宮津村から来ているが、その宮津村は1876年(明治9年)に宮口村と江津村が合併して誕生した村で、その宮口村があったのがここ。<br /><br />宮口は文字通りお宮の入口のことで、そのお宮とは白川神社を示すともいうが、別説<br />では西側の生駒山地の中腹にある天王地区にある朱智神社だと云う説もある。朱智神社については以下の記参照。<br />https://4travel.jp/travelogue/11676966<br /><br />宮口から北に進むともう一つの旧江津村エリアへ進む。上述した佐牙神社がある辺り。江津は「えっつ」と読むが、これは開化天皇の第三皇子の妃であった山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)の荏名津(えなつ)に由来しているらしい(あるいは逆)。<br /><br />山代之荏名津比売は当時の山代県主祖の長溝命の四女。山代県は山背や山城とも書かれ、現在の京都府南部一帯を示し、主祖は国造(くにのみやつこ)とも呼ばれるヤマト王権の行政区分の1つである国の長。ただし、大化の改新・律令制開始以降は、支配権を持たずに主に祭祀を司る世襲制の名誉職になった。<br /><br />なお、開化天皇は第9代の神話時代の天皇。孝元天皇7年(紀元前208年)生まれで、開化天皇60年(紀元前98年)と伝えられており、享年115歳。いや、神話やわ。都は春日率川宮(かすがのいざかわのみや)とされ、現在のJR奈良駅と近鉄奈良駅の間にある率川(いさがわ)神社付近とのこと。まあ、いずれにせよ歴史ある地名だわ。<br /><br />12時半前、その江津地区の佐牙神社の表参道が府道22号八幡木津線に出たところの少し北にあるインド料理のチェーン店の本格インド料理「ミラン」で850円のランチへ。ちなみに「ミラン」はイタリアの都市とは無関係で、ヒンディー語で出会いという意味だそうです。知らなかったけどこのチェーン店あちこちにあるのね・・・<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7481518688584757&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上で、遠藤川おんごろどん・神楽ルート散策終了

京都 京田辺 宮津 白山神社(Hakusan Shrine,Miyazu,Kyotanabe,Kyoto,Japan)

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2022/04/06 - 2022/04/06

214位(同エリア241件中)

ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月6日(水)12時前、山手幹線の手前(東)を緑池から南に進むと三山木地区から宮津地区に入る。宮津については下記に記した。
https://4travel.jp/travelogue/11654786

緑池から400mほど先で、遠藤川の南の山を回り込むように西に曲がり、山裾を下っていくと、また400mほどで白山神社に到着。京田辺市内最古の神社建築物。毎月第1日曜日と10月の秋祭り(17日に近い日曜日)と正月三が日の早朝に朔日講の神楽が行われることで有名。

社伝によれば、継体天皇が筒城宮を皇居としていた頃(6世紀前半)に兵庫の西宮神社から勧請したと伝えられているが、実際にはエビス信仰が広がった平安時代後期以降の勧請と考えられる。ただし、白山神社の御祭神は事代主命でエビス信仰の神ではあるが、西宮神社の御祭神の蛭子神とは系統が異なる。

また、かつて夷社とか蛭子社と呼ばれていたのを現在は白山神社と名乗っているが、白山信仰に関連する神は一切祀られてないのも不思議。白山神社を名乗りながら、エビス信仰の神社である謎多き神社。

境内に入ると手水舎の奥に鳥居が南向きに建つ。朱塗りの両部鳥居で稚児柱は石製。扁額にはかつての呼称である「蛭子大神宮」と揮毫されている。鳥居の右側に建つ石灯籠は永享五年(1433年)の銘があり国指定重要美術品となっている。この頃に廃寺となったかつての神宮寺の法雲寺にあったものと云われている。

鳥居の先には石段があり、その上に社殿が南向きに建っている。素人では分からないが、石段耳石には永禄二年(1559年)の刻銘があるそうだ。社殿には拝殿はなく、覆屋と拝所、瑞垣が一体化した建物となっている。桟瓦葺の平入切妻造。

覆屋の内部には左右に二棟の社殿があり、右側が本殿。前述のように事代主命を祀っている。板葺の流見世棚造で朱塗りの施されたもので、小規模かつ簡素な建築ながら向拝蟇股や木鼻などに室町時代の建築様式がみられる。石段と同時期の建築と考えられ、貴重なものとして国の重要文化財に指定されている。

左側は境内社で、こちらは大国主命を祀っている。社殿は板葺の流見世棚造に朱塗りを施したもので、本社本殿よりも小規模なものとなっている。

鳥居の左側にも若干の境内社が鎮座するが、社名・祭神など不明。反対側、鳥居の右手の先、手水舎も越えた先の崖に2基の小さな石製の覆屋があり、左側の内部に幣が、右側の内部に石祠が置かれているが、これも何かは不明。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24262001890109840&type=1&l=223fe1adec

白山神社から山裾を北に回り込んでいくと左手に法雲寺への階段がある(下の写真1)。2015年に本堂が建て替えられるまでは西念寺と名乗っていた(下の写真2)。江戸時代初期に檀家制度が敷かれた時に開創された寺。明治時代に入った際の神仏分離の政策により、村の氏神・白山神社の神宮寺・法雲寺の仏像が西念寺に移座されたことから法雲寺に名を改めた。

石段を登っていくと、正面に本堂が建つ(下の写真3)。この本堂に以前は京都国立博物館に寄託していた府指定の十一面観音像がご本尊の不動明王像と共に祀られている。十一面観音立像は定朝風の様式を持ち、白洲次郎の妻の随筆家、白洲正子の著作にも著されている。

この法雲寺の北側にある集落はかつての宮口(みやのくち)村。この辺りの字となっている宮津は1888年(明治21年)に三山木村に吸収された宮津村から来ているが、その宮津村は1876年(明治9年)に宮口村と江津村が合併して誕生した村で、その宮口村があったのがここ。

宮口は文字通りお宮の入口のことで、そのお宮とは白川神社を示すともいうが、別説
では西側の生駒山地の中腹にある天王地区にある朱智神社だと云う説もある。朱智神社については以下の記参照。
https://4travel.jp/travelogue/11676966

宮口から北に進むともう一つの旧江津村エリアへ進む。上述した佐牙神社がある辺り。江津は「えっつ」と読むが、これは開化天皇の第三皇子の妃であった山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)の荏名津(えなつ)に由来しているらしい(あるいは逆)。

山代之荏名津比売は当時の山代県主祖の長溝命の四女。山代県は山背や山城とも書かれ、現在の京都府南部一帯を示し、主祖は国造(くにのみやつこ)とも呼ばれるヤマト王権の行政区分の1つである国の長。ただし、大化の改新・律令制開始以降は、支配権を持たずに主に祭祀を司る世襲制の名誉職になった。

なお、開化天皇は第9代の神話時代の天皇。孝元天皇7年(紀元前208年)生まれで、開化天皇60年(紀元前98年)と伝えられており、享年115歳。いや、神話やわ。都は春日率川宮(かすがのいざかわのみや)とされ、現在のJR奈良駅と近鉄奈良駅の間にある率川(いさがわ)神社付近とのこと。まあ、いずれにせよ歴史ある地名だわ。

12時半前、その江津地区の佐牙神社の表参道が府道22号八幡木津線に出たところの少し北にあるインド料理のチェーン店の本格インド料理「ミラン」で850円のランチへ。ちなみに「ミラン」はイタリアの都市とは無関係で、ヒンディー語で出会いという意味だそうです。知らなかったけどこのチェーン店あちこちにあるのね・・・
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7481518688584757&type=1&l=223fe1adec


以上で、遠藤川おんごろどん・神楽ルート散策終了

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  • 写真1 法雲寺階段

    写真1 法雲寺階段

  • 写真2 西念寺の碑

    写真2 西念寺の碑

  • 写真3 法雲寺 本堂

    写真3 法雲寺 本堂

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