2023/03/27 - 2023/03/28
122位(同エリア1489件中)
Noraさん
この旅行記のスケジュール
2023/03/28
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アルハンブラ宮殿からタクシーで移動。
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王立礼拝堂
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マドラーサ
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アロンソカーノ広場
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コーラルデルカルボン
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イサベル・ラ・カトリカ広場
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プエンテ.デル.カディ
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サクロモンテ
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サン・ファン・デ・ロス・レイエス通りの入り口アーチ
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この旅行記スケジュールを元に
3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。
蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。
11日目、アルハンブラ宮殿のあと、残りの時間でグラナダ旧市街とサクロモンテを探検します。ここはもう初夏の気配。シカゴと違って眩しいくらいの太陽、そしてカラッと乾いた風が吹き抜けていきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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アルハンブラを出たタクシーはヌエバ広場を過ぎ、大聖堂のあるディエゴ・デ・シロエ航路通り(Pasaje Diego de Siloe, グラン・ビア通りの近く)あたりで止まった。この通りは入り口ではなく出口がある方で、入り口確認に手間取ってしまった。入口はピエ・デ・ラ・トーレ通り(Calle Pie de la Torre)の正面ファザードにある。
*出入口は直接グラン・ビア通りに面していないので要注意。
で、これがグラナダ大聖堂正面である。Alonso Cano(アロンソ・カーノ)がデザインしたバロック様式。3 つの高いアーチを持つ凱旋門のように設計され、大理石のレリーフで装飾されている。中央の円形窓の内側のジグザグ装飾(オイユ・ド・ブフ窓)、装飾を施したプラークやカルトゥーシュ等からこの部分はバロック様式の範疇に入れられている。
付け焼刃で勉強したところでは、この聖堂はグラナダ最大のキリスト教建築物(グラナダ大司教座聖堂)で、正式にはカテドラル・サンタ・マリア・デ・ラ・エンカーナシオン(Catedral Santa María de la Encanación)と呼ばれ、バロック様式のファサードをもちながら内部はスペインルネサンス建築で完成された(ややこしい?)建築物といわれている。グラナダの輝くランドマークとしてその偉容を誇っているこの大聖堂は1523年にモスクの跡地に建設が開始され、181年間の長い建築期間に担当建築家が他界したり、時の権力者の好みが変わったりで度々プランが変更されている。結果として当初のゴシック様式にルネッサンス様式がミックスされ、かつバロック風のファサードをもつ非常にユニークな大聖堂となった。
正面中央のインカーネーション(托身、encarnación)のレリーフは、地元グラナダのホセ ・リスエーニョ(José Risueño)の作品。
参考:https://www.nomads-travel-guide.com/places/catedral-de-granada/グラナダ大聖堂 (カテドラル) 寺院・教会
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これが大聖堂入口。南西側のPlaza de las Pasiegas広場(パシエガス広場)側のCalle Pie de la Torre(ピエ・デ・ラ・トーレ通り)に面した場所にある(このスロープが設置されているところを上る)。タクシーで着いたグラン・ビア・デ・コロン(Calle Gran Vía de Colón.)の大通りからぐるっと回り込む感じ。で、入場料は5ユーロ。
因みに、もともとの大モスク (会衆のモスク)は11世紀にズーリィーまたはジリド王家(Zirid Dynasty)によって建設されたと考えられている。 アラビア語の歴史書には、そのミンバール(説教壇)が 1055 年に完成したと記録されているという。
グラナダ大聖堂のフロアプランは:
https://catedraldegranada.com/la-catedral/arquitectura-decoracion-2/la-planta-catedralicia/ -
翼廊部分。白いコリント式列柱、交差するゴシック風の天井のリブボールトが清冽な印象をあたえる。そして2台の巨大なパイプオルガン。このパイプオルガンの伴奏で特別ミサの時だろうか、Youtubeで聖歌隊がシューベルトのアベマリアを唱和するのを聞いたことがある。
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主祭壇(La Capilla Mayor)
スペインの’ミケランジェロ’と称されたアロンソ・カーノ(Alonso Cano)の作品が祭壇を飾る。ここにはスペインのかつての繁栄を象徴するかのようにふんだんに黄金が使われている。もちろんこれらの黄金は南米の植民地から運ばれてきたものだろう。
上部を飾るステンド・グラスは、当時の国王カルロス1世の故郷フランドルで製作されたものとのこと。 -
主祭壇中央部を飾るアロンソ・カーノ(Alonso Cano)の宗教画。
*中心に聖変化(La Encarnacio)
*その左には聖マリアのプレゼンテーション(聖別)Presentación de la Virgen en el Templo.
*右にVisitación(聖マリアの従姉妹エリザベト訪問)が見える。
絵画情報参照:https://catedraldegranada.com/la-catedral/la-capilla-mayor/ -
上記中央部の3枚の絵を囲むように配置されている両脇の絵。いづれもアロンソ・カーノ作で’無原罪の御宿り(Inmaculada Concepción)’ と聖母被昇天(Asunción dela Virgen)
絵画情報参照:https://catedraldegranada.com/la-catedral/la-capilla-mayor/ -
翼廊部分
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上記画像をやや拡大。
上段:サン・セシリオの殉教と勝利(Martirio y triunfo de San Cecilio). 画家: ペドロ・アタナシオ・ボカネグラ (Pedro Atanasio Bocanegra, 1638-1689)
下段:柱に結び付けられたキリスト(Cristo atado a la columna)。 画家: フアン・デ・セビリア・ロメロ (Juan de Sevilla Romero,1643-1695)
絵画情報参照:https://catedraldegranada.com/la-catedral/altares-del-crucero-principal/ -
カルメル会の聖母の礼拝堂(Capela de Nuestra Señora del Carmen)
*カルメル会(カルメルはCarmel) ローマ‐カトリック教会に属する戒律の厳しい修道会。 -
上記礼拝堂をやや拡大。
中央左にカルメル会の聖母(Nuestra Señora del Carmen)の彫刻: ホセ・デ・モラ(José de Mora,1642-1724)作。
右に聖エリヤ(San Elías)の彫刻: ペドロデ・デ・メーニャ(Pedro de Mena,1628-1688)作。
彫刻情報参照:https://catedraldegranada.com/la-catedral/capillas-y-altares-perimetrales/nuestra-senora-del-carmen/ -
出口は北東のディエゴ・デ・シロエ航路通り(Paseje Diego de Siloe通り側)側にある。ちょうど主祭壇の裏側を回り込んでいる感じで、この通りからぐるりと回って大聖堂の敷地内にある王室礼拝堂(Capilla Real)に向かう。黄金光線に疲れた目にオレンジの葉の緑がやさしい。
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しばらく歩くとすぐにオフィシオ通り(Calle Oficios)にでる。後期ゴシックスタイルの王室礼拝堂の側面部が登場。グラナダ大聖堂はその敷地の中に大聖堂自体、王立礼拝堂、ロンハ、サグラリオ教会を包括する複合施設である。
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王室礼拝堂(Capilla Real)が見える。プラステレコ様式のこの小さなファサードはフアン・ガルシア・デ・プラダス(Juan García de Pradas)によって1527年に完成された。観光客の入場口はここではなくロンハ(Lonja)側にある。
この反対側は下の画像にあるマドラーサ(Madorasa)である。王室礼拝堂はイザベル王妃とフェルナンド王がともに永眠する場所で、建築様式は後期ゴシックスタイルで16世紀前半にエンリケ・デ・エガス(Enrique de Egas)が担当した。大聖堂は内部撮影可能だが、こちらの王室礼拝堂は撮影禁止。入場料5ユーロを払い中に入ると内部は後陣、内陣、地下納骨堂で構成されたラテン十字の造りになっている。(ラテン十字:縦横の長さが同じ)
王室礼拝堂のフロアプランは(大聖堂と一緒になっているのだが):https://catedraldegranada.com/la-catedral/arquitectura-decoracion-2/la-planta-catedralicia/王室礼拝堂 城・宮殿
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(内部説明)中央に王家の墓所を示す黄金の鉄枠で囲まれた空間がある。この中にカラーラ大理石でできた見事な彫刻の棺が二対、堂々と安置されている。少し大きな方がイサベル女王とフェルナンド王夫妻のものでイタリア出身の彫刻家ドメニコ・ファンチェリ(Domenico Fancelli)作。一段高いところにある小さいもう一組が両王の娘夫妻、女王フアナとその夫フェリペ(フィリップ美公)のもので、こちらはスペイン人彫刻家バルトロメ・オルドニェス(Bartolomé Ordóñez)の作。実際の棺はというと、階段を下りた地下室(crypt)に5つの黒い柩が並びガラス張りの窓越しに拝観できる。
5つ目の小さい黒い柩は幼くして亡くなったカトリック両王の孫のミゲル王子(カトリック両王の長女イサベルとポルトガル王マヌエル1世の間の子)のものである。ミゲル王子が夭折していなければ、彼が両国の王となりポルトガルとスペインが一つの国家になっていたかもしれないのである。
*内部の撮影は不可なので下記サイトにてイメージを把握下さい。地下室(crypt)の画像はなくとも両王の大理石棺のイメージはあるので。
https://capillarealgranada.com/en/ -
王室礼拝堂(Capilla Real)にはこのロンハ(Lonja)側から入る。この後ろにサグラリオ教会(Church of the Sagrario)がある。
*Lonjaの名称の由来:
ロンハ・ デ ・ メルカデレス (Lonja de Mercaderes, 旧商業取引所)。
グラナダの絹織物産業の商取引所(Lonjaロンハ)として1518 年にグラナダ市議会によって建設されたもので後にグラナダ大聖堂の所有するところとなった。現在この場所は観光客の入場券販売、受付、入り口として機能している。
参考:https://capillarealgranada.com/la-lonja/ -
オフィシオ通り(Calle Oficios)を挟んでマドラーサ(Palacio de la Madraza)が立つ。バロック様式のファサード。現在はグラナダ大学が所有する。公式には1349 年にナスル朝の君主、グラナダ王国のスルタン、ユスフ 1 世によって設立されたとなっているが、2006~2007年の発掘調査ですでに11世期頃、ズーリィーまたはジリド王家(Zirid Dynasty)によってこの場所にマドラサの原型的なものが建設されていたと考えられている。また様々な建物の遺構や11世紀以前のものと思われる人骨2体も発見されている。
参考:granada_between-the-zirids-and-the-nasrids.pdf 該当記述は3/11頁。
Wikipedia:https://en.wikipedia.org/wiki/Madrasa_of_Granadaマドラサ宮殿 城・宮殿
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アロンソ・カーノ広場(Plaza Alonso Cano)の一角にある教会教皇庁の建物(Ecclesiastical Curia building)と壁龕。大聖堂の正面の横になる。
グラナダ出身の聖職者、哲学者、作家であった有名なイエズス会士、フランシスコ・ スアレス神父(Padre Francisco Suárez, 1548-1617) に捧げられた浅浮き彫りのモニュメント。 1917 年の制作。 -
アロンソ・カーノの像。スペインのミケランジェロとも呼ばれる多才な画家、彫刻家、建築家。因みにPlaza de las Pasiegas広場(パシエガス広場)はアロンソ・カーノ(Alonso Cano)通りにつながっており、どんなに方向オンチのひとでもこのカーノの像が立っているAlonso Cano(アロンソ・カーノ)広場に出る。また、この近くにはかつてのアラブ人街のアルカイセリア(Alcaiceria)がある。
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アルカイセリア(Alcaiceria)入口。調べるとカエサルの地を意味するアルカイセリア(al-Kaysar-ia = "the place of Caesar)という名前は、固有名詞ではなくスペインと中東のムーア人の領土全体の市場に使用されたようである。 この名前の由来は、6 世紀にアラブ人に絹貿易の独占的権利と管理を許可した皇帝ユスティニアヌスに謝意をこめて使用され始めたことにあるらしい。グラナダにおけるアルカイセリアの原型は11 世紀,ズーリィーまたはジリド時代(Zirid dynasty)にこの地に大モスク (現在は大聖堂に置き換えられている) が建設されると同時につくられた小さいスークのようなものだったらしい。後続の1400 年代のナスル朝時代にそれが大発展し当時のアルカイセリアの規模は現在の数倍もあり、地域の防御と安全のために10 の鉄門を備え、夜は閉鎖されていたという。
アルカイセリア 市場
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プラセタ・ デ ・ラ ・セダ(Placeta de la Seda=シルクスクエア)
シルクはグラナダ王国の主要な経済資源の 1 つであり(グラナダシルクとして知られていた)、農村部でも都市部でも人口の大部分がシルク関連産業で生計を立てていた。
シルクの製造は中国で紀元前 3000 年から紀元前 4000 年の間に始まり、その生産、製造に関わるプロセスは数千年にわたって厳重に守られてきた秘密であった。しかし西暦 522 年にはビザンツ帝国が桑の木や蚕の卵を中国から密輸入し、当時ヒスパニア、南部を含む地中海周辺に広がっていた帝国でシルクの生産を開始していた。おそらくシルクロード沿いの交易に携わった人々を通じて、8世紀頃にはその製造秘密、生産、加工を含む一連のシルク産業のノウハウがアンダルシアにも到達していたと思われる。
またグラナダ王国内に生糸の生産に最適の気候風土を提供するアルプハラ地域Alpujarra(シェラネバダの南に広がる冷涼な高原地帯、桑の木と蚕の生育に適した絶好の地)があったっことも幸いした、当時この地域は桑の木の森として知られていたという。
そしてティラーズ(tiraz)と呼ばれる最初の国営織物工房が、西暦 961 年にコルドバのモスクのそばに設立されると、シルク製造センターがグラナダ、マラガと続いて建設された。 それに関連してイスラム教徒は、高品質のシルクを工業用量で製造できるようにする水平織機を開発した。当時の技術革新と言えよう。 高度に熟練した職人によってティラーズで製造される絹は高品質のため特に珍重された。 その品質を管理していたのは、アロンディガ (alhóndigas、シルクがアルカイセリアや卸売市場で販売される前に品質を管理し、在庫管理や商品の保管をしていた実質的な倉庫) であった。グラナダシルクの品質は東洋で生産されるものを上回るほどであったという。
しかし、シルク プレイスとその周辺地域は、16 世紀から 18 世紀にかけて、徐々に縮小し経済的衰退に見舞われる。 その原因は、レコンキスタによるグラナダ包囲中の桑の木の伐採、養蚕業のノウハウを知った数千のムーア人家族の追放、そしてキリスト教君主による絹織物産業に対する法外な課税であった。 このため、打撃をうけて衰退したシルク産業関連の店舗をうずめるため、他の繊維業や食品業がアルカイセリアで許可され始めたのである。 決定的な打撃はこの地域で発生した1800 年の大火であった。8日間燃え続けたと言われるこの火災によってグラナダの絹織物貿易地区の大部分が焼失した。火災後、同地域は再建されたものの、現在のアルカイセリアの店舗数、および規模はかつての 全盛期の4 分の 1 以下になってしまったといわれる。
参考サイト:https://www.visit-andalucia.com/silk-in-andalucia/
https://piccavey.com/spanish-silk/
ナスル朝時代のシルク:
https://www.alhambra-patronato.es/en/elemento-del-mes/nasrid-silk -
商店のファサード上部は大火による再建後、エキゾチックな新アラブ風アーチで飾られている。今はたくさんの土産物屋が所狭しと並ぶ。
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ランプショップ。似たようなものがオンラインショップ’のAmazonで売っていた。産地はモロッコとなっていたが、ここの商品もやはりモロッコから輸入しているのだろうか?
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コーラル.デル.カルボン(Corral del Carbon)
直訳するとCoal House(石炭の家)。アルカイセリアからマリアナ・ピネダ通り(Calle Mariana Pineda)を挟んですぐのところにある。もともとはアル.フンドゥク.アル.ジャディーダ(al-funduq al-jadidaNew Funduq ,アラビア語で新フンドゥクの意味)と呼ばれた。
グラナダ市内に現存するイスラム時代最古の建物。14世紀にユースフ1世によって倉庫、商人の休憩所などの目的で造られた。17世紀に燃料、石炭の貯蔵所として使用されたのでコラル・デル・カルボン(Corral del Carbon)と呼ばれるようになったらしい。
*フンドゥクFunduqs は旅行商人に宿泊施設と商品や動物の保管スペースを提供した場所。キャラバンサライ、現代でいうとホステルのようなものかもしれない。 -
入口天井部分のムカルナス(ムカルバス)がアルハンブラ宮殿を彷彿とさせる。ナスル朝時代の高度な装飾性がみられる。
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1階は穀物、その他の商品の貯蔵所と動物の保管場所、2階、3階は商人の宿泊スペースであった。中庭には石でできた水場がある。現在この場所はエンターテインメントやパフォーマンスの場を提供している。
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このあと、イサベル・ラ・カトリカ広場(Plaza Isabel la Catolica)まで歩く。すると、このイサベル1世とコロンブスの像が目に入る。椅子に座るイサベル1世が膝に広げているのは1492年に両者間で取り交わされた「サンタフェ契約」と思われる。
イサベル・ラ・カトリカ広場 広場・公園
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コロンブスはカスティーリャ王国にこの大航海プロジェクトを売り込む前に、ポルトガルのジョアン2世にも援助を打診している。が、ポルトガルは独自のインド航路開拓を始めており、バルトロメウ・ディアスがすでに喜望峰まで到達していたこともあり、話がまとまることはなかった(冷たくあしらわれたという噂もある)。
それならばと、1486年にコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世(カトリック両王)に謁見し熱弁をふるうも諮問委員会がアジアまでの距離を疑問視し却下される。続く年度,再度の検討を王室に試みるが今度はカスティリャ枢機院が案を否決。度重なる拒絶にあいながらもめげないコロンブス。次なる可能性を求めてフランスに旅立つ。しかしムーア人の最後の拠点であったグラナダが1492年1月に陥落したことで、カトリック両王側の事態が急変する。レコンキスタの終了でスペイン国庫に財政上の余裕ができたのである。コロンブスという山師に賭ける余裕が出来た。それを知らせようとするも彼はすでにフランスへ向かっていた。そこでイサベル1世の承諾の知らせをもった伝令が超特急で追いかけた。そしてピノス・プエンテ村の橋の上でやっとコロンブスに追いき、それを手渡すという映画の一コマのように劇的な場面展開。それから3か月後の同年4月にサンタフェ契約が両者の間で調印の運びとなる。1492年8月3日、ついにコロンブスはボロ船を含む3隻の船を率いて西南の方向に舳先を向け大西洋の海原に漕ぎ出した。そして同年10月12日、バハマ諸島のサンサルバドル島に到達。コロンブスは、原住民が鼻につけている金の輪を見て勇気づけられ、2週間後には現在のキューバを発見した。彼は最後まで自分が到達した場所をインドだと勘違いしていた。
余談であるがコロンブスと言う人物と彼の南米での行為に対しては現在のアメリカ人の大多数が批判的である。シカゴにあった彼の銅像もかなり前に撤去された。コロンブスデーという祝日も'(アメリカ)先住民の日'と変更する州が増えている。 -
イサベル・ラ・カトリカ広場からタクシーでサクロモンテに向かう途中、この遺構が見えた。ドライバー氏にスローダウンしてもらって撮った幸運の一枚、プエンテ.デル.カディ(Puente del Cadi)=カディ橋
ダ-ロ川にかかる古い橋で、塔のような形をした橋台の 1 つだけが残っている。
1055年、ズーリィーまたはジリド王家(Zirid Dynasty)によってアルマンゾーラモスク(Almanzora mosque、現在のサンタアナ教会が立っている場所にあった)の隣に作られた橋。
プエンテ. デル .カディとして知られているが、実際にはプエルタ.デ .ロス.タベロス(タベロス橋、Puerta de los Tableros)に属し、アルバイシンとアルハンブラ宮殿を結び、ダロ川の水を貯水するダムとしても機能した。(門の開閉によって水量が調整された)。
参考:https://www.vergranada.com/puente-cadi.html
https://paseosmatematicos.fundaciondescubre.es/blog/matematicas-y-reconstruccion-en-el-puente-del-cadi/ -
サクロモンテ入口到着。カミ .デル .サクロモンテ通り(Cami del Sacromonte).
もともと、サクロモンテの柔らかいベッドストーンが掘りやすいことを発見したのはアラブ人であった。 彼らは洞窟を建設し、後にグラナダ市から追放された人々、つまりヒターノだけでなくユダヤ人やイスラム教徒も住むことようになった。サクロモンテ ホテル
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ベランダに仕事着。フラメンコダンサーの住まいのようだ。
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カミ デル サクロモンテ通り(Cami del Sacromonte)をそのまま進むと入口は白い普通の家なのだが、奥が洞窟になっている住居が続く。夏涼しく、冬は暖かいようだ。
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これらも洞窟住居。右上にブルドーザーが見えるので増築中なのかもしれない。
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崖の上から庭が見えた家の庭。右手の崖に洞窟が穿ってある。犬か猫が同居しているようだ。
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これは保管場所、倉庫?(鍵がかかっている)。
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カミ デル サクロモンテ通りをチャピス坂(Cuenta del Chapiz)に向かって戻るところ。左手前にサクラモンテ展望台がある。
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サクラモンテ展望台からみるアルハンブラ宮殿。
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サン・ファン・デ・ロス・レイエス通りの入り口アーチ(Arco de entrada a la calle San Juan de los Reyes) チャピス坂を下りてくるとこのアーチが見える。サン・ファン・デ・ロス・レイエス通りの入り口になるところ。この通りはローマ時代に作られた古代の道路でダーロ川とほぼ平行に走っている。この道をまっすぐ行けば宿舎のアパルトメントス トゥリスティコス アルハンブラにつくはずだ。
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そしてアルハンブラ宮殿の見納め。アパートの屋上から。明朝、コルドバへ向かう。
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