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3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。<br />蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。<br />9日目、この旅も後半に入りました。昨夜ポルトガルのリスボンを夜行バスで出発しスペインのセビリアに今朝到着。初めてのスペイン、初めてのアンダルシアです。何が待ち受けているでしょうか?

大西洋横断~イスタンブール~イベリア半島横断⑨3/27, 9日目#1、セビリア大聖堂とヒラルダの塔

52いいね!

2023/03/27 - 2023/03/28

50位(同エリア988件中)

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Nora

Noraさん

この旅行記のスケジュール

2023/03/27

この旅行記スケジュールを元に

3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。
蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。
9日目、この旅も後半に入りました。昨夜ポルトガルのリスボンを夜行バスで出発しスペインのセビリアに今朝到着。初めてのスペイン、初めてのアンダルシアです。何が待ち受けているでしょうか?

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス タクシー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • Petit Palace Vargas Hotel 到着。フロントデスクのスタッフに荷物の一時保管を依頼すると、’お部屋はもう用意出来てるから、今チェックインしてもいいですよ。’とのこと。え~、なんて親切なんだろう!!! もちろんアーリーチェックインのエクストラチャージなんてなくて。。。<br />お部屋からはバスターミナルが真向いに見える。明日もこのターミナルからグラナダに向かうのでとっても利便性のいいホテル。<br />

    Petit Palace Vargas Hotel 到着。フロントデスクのスタッフに荷物の一時保管を依頼すると、’お部屋はもう用意出来てるから、今チェックインしてもいいですよ。’とのこと。え~、なんて親切なんだろう!!! もちろんアーリーチェックインのエクストラチャージなんてなくて。。。
    お部屋からはバスターミナルが真向いに見える。明日もこのターミナルからグラナダに向かうのでとっても利便性のいいホテル。

  • シンプルで機能的なビジネスホテルの感!ゆったりのベッドルーム。

    シンプルで機能的なビジネスホテルの感!ゆったりのベッドルーム。

  • 洗面台。バスタブなし、シャワールームのみ。<br />簡単にアンパックしシャワーを浴びてフロントスタッフにタクシーを呼んでもらう。セビリアでの第1番目の訪問先は何と言ってもセビリア大聖堂だ。<br />

    洗面台。バスタブなし、シャワールームのみ。
    簡単にアンパックしシャワーを浴びてフロントスタッフにタクシーを呼んでもらう。セビリアでの第1番目の訪問先は何と言ってもセビリア大聖堂だ。

  • ホテルの前の通りでタクシーを待つ。セビリアの朝が始まっている。<br />さて、これから回ろうとしているセビーリャはその起源が紀元前8,9世紀に遡る古い街である。古代ローマ植民地時代には「ヒスパリス」と呼ばれていた。8~13世紀まではイスラム教徒の支配下にあり、セビリアの建築物、インフラのみでなく文物面でも多大な影響を与えている。<br />海には面していないが、中世にグアダルキビル川を通じて港湾都市として交易の拠点となり、大航海時代以降は新大陸との貿易を独占、大いに繁栄した。またここで忘れてはならなのはユダヤ人街である。かつてスペイン最大規模の(トレドにつぐ?)ユダヤ人居住区だったサンタクルス街がある。歴史が詰まったセビリアの街にいざ出向かん!!<br />

    ホテルの前の通りでタクシーを待つ。セビリアの朝が始まっている。
    さて、これから回ろうとしているセビーリャはその起源が紀元前8,9世紀に遡る古い街である。古代ローマ植民地時代には「ヒスパリス」と呼ばれていた。8~13世紀まではイスラム教徒の支配下にあり、セビリアの建築物、インフラのみでなく文物面でも多大な影響を与えている。
    海には面していないが、中世にグアダルキビル川を通じて港湾都市として交易の拠点となり、大航海時代以降は新大陸との貿易を独占、大いに繁栄した。またここで忘れてはならなのはユダヤ人街である。かつてスペイン最大規模の(トレドにつぐ?)ユダヤ人居住区だったサンタクルス街がある。歴史が詰まったセビリアの街にいざ出向かん!!

  • タクシーで15分くらいでセビリア大聖堂に到着。トリウンフォ広場 [Plaza del Triunfo] より大聖堂をのぞむの図。<br />この大聖堂の正式名称はセビリア聖マリア大聖堂 [Catedral de Santa Maria de la Sede de Sevilla]。レコンキスタにより、この地にあったイスラム・モスクを取り壊した後に、1402年から建築を開始し、約100年後の1519年に完成した大聖堂とのこと。

    タクシーで15分くらいでセビリア大聖堂に到着。トリウンフォ広場 [Plaza del Triunfo] より大聖堂をのぞむの図。
    この大聖堂の正式名称はセビリア聖マリア大聖堂 [Catedral de Santa Maria de la Sede de Sevilla]。レコンキスタにより、この地にあったイスラム・モスクを取り壊した後に、1402年から建築を開始し、約100年後の1519年に完成した大聖堂とのこと。

    セビリア大聖堂 (カテドラル) とヒラルダの塔 寺院・教会

  • 入口の行列は午前中のせいかさほど長くはない。並んでいるのはせいぜい100人くらい。<br />カテドラル入口はトリウンフォ広場のある南側、ゴシック様式のこのサンクリストバル門のそばに目立たないようにある(この門の横に入場券売り場と入場口がある。)<br />サンクリストバルの扉前に建つ天候旗と椰子の葉を持つヒラルダ。これはヒラルダの塔のてっぺんに建つ像のコピー。<br />*この扉(門?)は別名Door of the Princeと呼ばれるように、かつてはアルカサル宮殿に住む王達専用の門であった。いつも閉じられていると書いたブログがあったところをみると、庶民には用のない扉なのかもしれない。

    入口の行列は午前中のせいかさほど長くはない。並んでいるのはせいぜい100人くらい。
    カテドラル入口はトリウンフォ広場のある南側、ゴシック様式のこのサンクリストバル門のそばに目立たないようにある(この門の横に入場券売り場と入場口がある。)
    サンクリストバルの扉前に建つ天候旗と椰子の葉を持つヒラルダ。これはヒラルダの塔のてっぺんに建つ像のコピー。
    *この扉(門?)は別名Door of the Princeと呼ばれるように、かつてはアルカサル宮殿に住む王達専用の門であった。いつも閉じられていると書いたブログがあったところをみると、庶民には用のない扉なのかもしれない。

  • 入場料のサインボード。大人1名12ユーロ。<br />

    入場料のサインボード。大人1名12ユーロ。

  • 入場券。

    入場券。

  • 下のフロアプランの赤い矢印部分を進行。入場券のQRコードをカードリーダーにかざして入場する。

    下のフロアプランの赤い矢印部分を進行。入場券のQRコードをカードリーダーにかざして入場する。

  • 入口近くに提示されているセビリア大聖堂のフロアプラン、配置図。

    入口近くに提示されているセビリア大聖堂のフロアプラン、配置図。

  • まず北側の礼拝堂から。配置図10番, 聖アントニオの礼拝堂(Capilla de San Antonio)。 Capilla de Bautisterio(Batistery Chapel, 洗礼堂とも呼ばれる)。大理石の洗礼盤が見える。その奥に この教会の至宝の一つとも呼ばれるセビリア生まれの画家、ムリーリョの1656年制作の「聖アントニウスの幻視」がある。

    まず北側の礼拝堂から。配置図10番, 聖アントニオの礼拝堂(Capilla de San Antonio)。 Capilla de Bautisterio(Batistery Chapel, 洗礼堂とも呼ばれる)。大理石の洗礼盤が見える。その奥に この教会の至宝の一つとも呼ばれるセビリア生まれの画家、ムリーリョの1656年制作の「聖アントニウスの幻視」がある。

  • スペインのラファエロと呼ばれたムリーリョの「キリストの洗礼」(トップ)と「聖アントニウスの幻視」。幼児のイエスと若い聖母を描かせたら,この人の右に出る者はないと言われるほどの画家だけれども、光に包まれたこの幼子イエスは私の目にはちょっと肥満児に描きすぎのようにも見える。しかし微妙な筆使い、何層にも重ねた絵具から生まれる深みや空気感は他の誰にも真似のできないものだ。’スペインのラファエロ′ と呼ぶ人もいるけれど、やはりムリーリョはラファエロではなくあくまでもムリーリョだと思う。<br /><br />

    スペインのラファエロと呼ばれたムリーリョの「キリストの洗礼」(トップ)と「聖アントニウスの幻視」。幼児のイエスと若い聖母を描かせたら,この人の右に出る者はないと言われるほどの画家だけれども、光に包まれたこの幼子イエスは私の目にはちょっと肥満児に描きすぎのようにも見える。しかし微妙な筆使い、何層にも重ねた絵具から生まれる深みや空気感は他の誰にも真似のできないものだ。’スペインのラファエロ′ と呼ぶ人もいるけれど、やはりムリーリョはラファエロではなくあくまでもムリーリョだと思う。

  • ここに描かれているのは,ポルトガルのリスボンで貴族の家に生まれ、アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ会に入会した聖アントニオである。イタリアや南仏で精力的に活動するも30代にしてパドヴァで病没。幼児イエスを幻視した聖人と言われており,通常、幼児を抱えて百合を持っている修道士姿で描かれることが多い。聖アントニオのattribute(属性)である本と小さいユリの花がテーブル上にちゃんと描かれている。<br />*赤丸で囲った部分に修復の傷跡が見えるが詳細は下記に。

    ここに描かれているのは,ポルトガルのリスボンで貴族の家に生まれ、アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ会に入会した聖アントニオである。イタリアや南仏で精力的に活動するも30代にしてパドヴァで病没。幼児イエスを幻視した聖人と言われており,通常、幼児を抱えて百合を持っている修道士姿で描かれることが多い。聖アントニオのattribute(属性)である本と小さいユリの花がテーブル上にちゃんと描かれている。
    *赤丸で囲った部分に修復の傷跡が見えるが詳細は下記に。

  • 補足として:<br />これはLa Ilustración Española y Americanaの1874年11月15日の記事で(Wikipediaより)で、この作品右下部が何者かに切り取られ盗まれたことを報告している。<br />画像はWikipedia, Public domain. copyright free. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cuadro_de_san_antonio_despu%C3%A9s_de_la_sacr%C3%ADlega_mutilaci%C3%B3n.jpg より。<br />被害箇所を暫定的に衝立でカバーしている写真である。この事件のあと約1年後、1875年、切り取られた部分がニューヨーク州の美術関係オークションに出された。出展者はスペイン系移民で正真正銘のムリーリョの聖アントニオの一部分だという触れ込みであった。たまたまそのオークションに居合わせたた画商の一人が新聞に載ったセビリア大聖堂の当該事件を記憶しており、それを$250で落札。直ちにスペイン大使館に経緯を連絡した。驚いたスペイン大使館はセビリア大聖堂に連絡し問題の切り取られた箇所をハバナ経由で送付した。受領した大聖堂は専門の絵画修復家に依頼し彼の手によって問題個所が修復されたのである。ただし非常に困難な作業のため、ベストを尽くしたにも拘わらず今でも切り取られた部分の継ぎ目は肉眼でもわかる。修復家の名前はサルバドール.マルチニッツ.キュベール(Salvador Martínez Cubells)。彼自身も画家であると同時に一流の絵画専門修復家でエルグレコの作品なども修復している。<br />その泥棒について名前やその後の経過を知りたいと思うもオンラインで資料が見つからないのである。<br /><br />サルバドール.マルチニッツ.キュベール(Salvador Martínez Cubells, 1845 ?~1914 )についての詳細はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Salvador_Mart%C3%ADnez_Cubellsを。

    補足として:
    これはLa Ilustración Española y Americanaの1874年11月15日の記事で(Wikipediaより)で、この作品右下部が何者かに切り取られ盗まれたことを報告している。
    画像はWikipedia, Public domain. copyright free. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cuadro_de_san_antonio_despu%C3%A9s_de_la_sacr%C3%ADlega_mutilaci%C3%B3n.jpg より。
    被害箇所を暫定的に衝立でカバーしている写真である。この事件のあと約1年後、1875年、切り取られた部分がニューヨーク州の美術関係オークションに出された。出展者はスペイン系移民で正真正銘のムリーリョの聖アントニオの一部分だという触れ込みであった。たまたまそのオークションに居合わせたた画商の一人が新聞に載ったセビリア大聖堂の当該事件を記憶しており、それを$250で落札。直ちにスペイン大使館に経緯を連絡した。驚いたスペイン大使館はセビリア大聖堂に連絡し問題の切り取られた箇所をハバナ経由で送付した。受領した大聖堂は専門の絵画修復家に依頼し彼の手によって問題個所が修復されたのである。ただし非常に困難な作業のため、ベストを尽くしたにも拘わらず今でも切り取られた部分の継ぎ目は肉眼でもわかる。修復家の名前はサルバドール.マルチニッツ.キュベール(Salvador Martínez Cubells)。彼自身も画家であると同時に一流の絵画専門修復家でエルグレコの作品なども修復している。
    その泥棒について名前やその後の経過を知りたいと思うもオンラインで資料が見つからないのである。

    サルバドール.マルチニッツ.キュベール(Salvador Martínez Cubells, 1845 ?~1914 )についての詳細はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Salvador_Mart%C3%ADnez_Cubellsを。

  • Vidriera de la capilla de San Antonio. 1685 por Juan Bautista de León.聖アントニオの洗礼堂にあるステンドグラス。聖フスタと聖ラフィーナがヒラルダの塔を支え持っている。これは1504年に同地で起こった大地震の際に突如現れ、倒壊しかかったヒラルダの塔を救ったという伝説に基づいて作成されたもの。

    Vidriera de la capilla de San Antonio. 1685 por Juan Bautista de León.聖アントニオの洗礼堂にあるステンドグラス。聖フスタと聖ラフィーナがヒラルダの塔を支え持っている。これは1504年に同地で起こった大地震の際に突如現れ、倒壊しかかったヒラルダの塔を救ったという伝説に基づいて作成されたもの。

  • 配置図22番。聖堂内入口近くの翼廊下にコロンブス(1506没)の棺の彫刻がある。コロンブスが新航路探索にむけて出発した地はここセビリアであり、彼の新大陸到達により貿易の独占港としておおいに繁栄していく。このモニュメントはアルトゥーロ・メリダ・イ・アリナリの1891年の作品。コロンブスの死後セビリアで作成され当時彼の遺体が埋葬されていたハバナに送られた。その後、スペイン植民地の喪失、戦争等により1898年にやっとセビリアに帰還しているのである。<br />この方は生前のみでなく死後も安住の地を求めて大航海を続行したスーパートラベラーなので、ちょっと整理してみたい。まず、コロンブスは1506年にスペイン北部バリャドリードで亡くなり、遺体はセビリアのカルトゥーハ修道院に埋葬された。その後、遺族の手で中米ドミニカ共和国のサントドミンゴ大聖堂に移される。(本人の遺言または遺族の希望等、諸説あり)。<br />しかしドミニカは1795年バーゼルの和約によってフランス領になり、スペインは遺骨をキューバのハバナへ移した。ところがさらに米西戦争の敗北によって1898年キューバは実質的に米国の支配下になったため遺骨をセビリアに戻している。とまあ、なんとも忙しい死後の旅なのである。というよりも彼の死後の旅はスペイン植民地帝国主義の崩壊と密接に結びついているように思える。<br />棺の話に戻ろう。棺のキャリアーは、当時スペインを構成していたレオン、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴン王国の4人の王の寓話像。(国章のついた巨大な涎掛け風なトップに注目)。<br />レオン王国     - ライオン<br />カスティーリャ王国 - 城<br />ナバラ王国     - 鎖<br />アラゴン王国    - 縞<br />材料は顔の部分はアラバスター、その他はブロンズが使われている。<br />その横の左壁には旅行者の守護聖人といわれるサン.クリストバル(聖クリストフォロス)のフレスコがある。<br />

    配置図22番。聖堂内入口近くの翼廊下にコロンブス(1506没)の棺の彫刻がある。コロンブスが新航路探索にむけて出発した地はここセビリアであり、彼の新大陸到達により貿易の独占港としておおいに繁栄していく。このモニュメントはアルトゥーロ・メリダ・イ・アリナリの1891年の作品。コロンブスの死後セビリアで作成され当時彼の遺体が埋葬されていたハバナに送られた。その後、スペイン植民地の喪失、戦争等により1898年にやっとセビリアに帰還しているのである。
    この方は生前のみでなく死後も安住の地を求めて大航海を続行したスーパートラベラーなので、ちょっと整理してみたい。まず、コロンブスは1506年にスペイン北部バリャドリードで亡くなり、遺体はセビリアのカルトゥーハ修道院に埋葬された。その後、遺族の手で中米ドミニカ共和国のサントドミンゴ大聖堂に移される。(本人の遺言または遺族の希望等、諸説あり)。
    しかしドミニカは1795年バーゼルの和約によってフランス領になり、スペインは遺骨をキューバのハバナへ移した。ところがさらに米西戦争の敗北によって1898年キューバは実質的に米国の支配下になったため遺骨をセビリアに戻している。とまあ、なんとも忙しい死後の旅なのである。というよりも彼の死後の旅はスペイン植民地帝国主義の崩壊と密接に結びついているように思える。
    棺の話に戻ろう。棺のキャリアーは、当時スペインを構成していたレオン、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴン王国の4人の王の寓話像。(国章のついた巨大な涎掛け風なトップに注目)。
    レオン王国     - ライオン
    カスティーリャ王国 - 城
    ナバラ王国     - 鎖
    アラゴン王国    - 縞
    材料は顔の部分はアラバスター、その他はブロンズが使われている。
    その横の左壁には旅行者の守護聖人といわれるサン.クリストバル(聖クリストフォロス)のフレスコがある。

  • サン・クリストバル(左の壁、ピンクの矢印があるフレスコ画)<br />https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fresco_de_San_Crist%C3%B3bal_%28Catedral_de_Sevilla%29.JPG<br />マッテオ・ペレス・アレッシオ(Mateo Perez de Alesio)作のフレスコ画。マッテオ・ペレスはミケランジェロと共にシステナ礼拝堂の天井画の制作に携わった画家で、天使の画の一部に彼の描いたものがある。<br />因みに「サン・クリストバル」とは聖人クリストフォロス(クリストファー)のこと。もとは違う名前だったのだが、キリストを背負って川を渡ったことからギリシャ語で「キリストを背負うもの」を意味する「クリストフォロス」と名乗るようになったのだとか。川の渡しとして旅人を助けていたことから、彼は旅行者の守護聖人とされている。

    サン・クリストバル(左の壁、ピンクの矢印があるフレスコ画)
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fresco_de_San_Crist%C3%B3bal_%28Catedral_de_Sevilla%29.JPG
    マッテオ・ペレス・アレッシオ(Mateo Perez de Alesio)作のフレスコ画。マッテオ・ペレスはミケランジェロと共にシステナ礼拝堂の天井画の制作に携わった画家で、天使の画の一部に彼の描いたものがある。
    因みに「サン・クリストバル」とは聖人クリストフォロス(クリストファー)のこと。もとは違う名前だったのだが、キリストを背負って川を渡ったことからギリシャ語で「キリストを背負うもの」を意味する「クリストフォロス」と名乗るようになったのだとか。川の渡しとして旅人を助けていたことから、彼は旅行者の守護聖人とされている。

  • 前列右側の王(レオン王国)は、十字架の付いた槍でザクロを突き刺しているがザクロはスペイン語でグラナダのこと。これはグラナダの陥落でレコンキスタが完了したことを表している。ちなみに棺の中にはコロンブスの本物の骨(灰?)が納められているのだが(DNA鑑定済)、量はたったの125gしか入っていないそうだ。<br />

    前列右側の王(レオン王国)は、十字架の付いた槍でザクロを突き刺しているがザクロはスペイン語でグラナダのこと。これはグラナダの陥落でレコンキスタが完了したことを表している。ちなみに棺の中にはコロンブスの本物の骨(灰?)が納められているのだが(DNA鑑定済)、量はたったの125gしか入っていないそうだ。

  • クリストファー・コロンブス(Christpher Columbus、1451~1506) は、イタリアのジェノバ生まれと言われるが不明な点が多い。スペイン名はクリストバル・コロン(Cristobal Colón)。若い頃は船乗りとして10年以上のキャリアを持ち、その豊かな航海経験から地球が球体であることを確信するようになっていた。(当時の知識階級や学識ある人々の間では地球球体説は最早常識となっていた。)ポルトガルに移住後、地理学者トスカネリの説に触発され、西回り航路でインドに到達する計画を立て、イサベル1世の後援を得て1492年8月、3隻の船(イサベル女王はスポンサーにはなるが最低限の投資しかしたくないとの考えを持っており、ボロ船しか出さなかったの噂あり)でパロス港を出発。10月12日、現在のバハマ諸島の一つ、グアナハニ島に到着しサンサルバドル島と名付けた。その後の航海でドミニカやトリニダードにも到達したが、統治能力に問題ありとされ、晩年は富も名誉も失い不遇のまま54歳で没した。死ぬまで発見地をインドの一部であると信じていた。<br />

    クリストファー・コロンブス(Christpher Columbus、1451~1506) は、イタリアのジェノバ生まれと言われるが不明な点が多い。スペイン名はクリストバル・コロン(Cristobal Colón)。若い頃は船乗りとして10年以上のキャリアを持ち、その豊かな航海経験から地球が球体であることを確信するようになっていた。(当時の知識階級や学識ある人々の間では地球球体説は最早常識となっていた。)ポルトガルに移住後、地理学者トスカネリの説に触発され、西回り航路でインドに到達する計画を立て、イサベル1世の後援を得て1492年8月、3隻の船(イサベル女王はスポンサーにはなるが最低限の投資しかしたくないとの考えを持っており、ボロ船しか出さなかったの噂あり)でパロス港を出発。10月12日、現在のバハマ諸島の一つ、グアナハニ島に到着しサンサルバドル島と名付けた。その後の航海でドミニカやトリニダードにも到達したが、統治能力に問題ありとされ、晩年は富も名誉も失い不遇のまま54歳で没した。死ぬまで発見地をインドの一部であると信じていた。

  • コロンブスの棺の裏の拡大図ー>1492年以降のカトリック両王の紋章が彫刻されている。<br />より鮮明なトラスタマラ家の国章はhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Coat_of_Arms_of_Queen_Isabella_of_Castile_(1492-1504).svgを。<br />*盾の左上と右下はカスティーリャとレオンの国章を組み合わせたもの。<br />*右上と左下はアラゴンとシチリアの国章を組み合わせたもの。<br />*盾の上には王冠が載せられ、ヨハネの鷲の胸の位置に置かれている。<br />*盾の下部のザクロは、1492年のグラナダ奪還後に付け加えられた。ーwikipedia<br />と盛沢山な内容のデザイン。<br />

    コロンブスの棺の裏の拡大図ー>1492年以降のカトリック両王の紋章が彫刻されている。
    より鮮明なトラスタマラ家の国章はhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Coat_of_Arms_of_Queen_Isabella_of_Castile_(1492-1504).svgを。
    *盾の左上と右下はカスティーリャとレオンの国章を組み合わせたもの。
    *右上と左下はアラゴンとシチリアの国章を組み合わせたもの。
    *盾の上には王冠が載せられ、ヨハネの鷲の胸の位置に置かれている。
    *盾の下部のザクロは、1492年のグラナダ奪還後に付け加えられた。ーwikipedia
    と盛沢山な内容のデザイン。

  • 配置図23番。Coro(聖歌隊席)の背後の障壁。<br />この向こう側の聖歌隊席の最奥上部に、黄金でカバーされた木製祭壇衝立の頂点に建つ「キリストの礫刑」像が見える。奥のシルバー色に輝く部分がクロッシング*部分である。<br />*身廊と翼廊 (袖廊) が交差する部分 。

    配置図23番。Coro(聖歌隊席)の背後の障壁。
    この向こう側の聖歌隊席の最奥上部に、黄金でカバーされた木製祭壇衝立の頂点に建つ「キリストの礫刑」像が見える。奥のシルバー色に輝く部分がクロッシング*部分である。
    *身廊と翼廊 (袖廊) が交差する部分 。

  • 配置図25番。まず、南側の礼拝堂の主だったものからスタート。これは悲しみの聖母礼拝堂(Capilla de los Dolores)。南側礼拝堂のなかで真ん中あたり、コロンブスの棺のお隣にある礼拝堂。<br />バロック様式の祭壇の中程には木製の「キリスト磔刑像」(Crucified)。<br />ホアン.バティスタ.バスケス(Juan Bautista Vázquez, the Elder)の工房にて16世紀に作成。<br /><br /><br /><br />

    配置図25番。まず、南側の礼拝堂の主だったものからスタート。これは悲しみの聖母礼拝堂(Capilla de los Dolores)。南側礼拝堂のなかで真ん中あたり、コロンブスの棺のお隣にある礼拝堂。
    バロック様式の祭壇の中程には木製の「キリスト磔刑像」(Crucified)。
    ホアン.バティスタ.バスケス(Juan Bautista Vázquez, the Elder)の工房にて16世紀に作成。



  • その下にはガラスケースに納められた’悲しみの聖母像’がある ペドロ.デ.メーナ(Pedro de Mena)による涙を流し悲痛な表情の聖母マリアで1680年頃の作。悲しみの聖母像はそのいづれもが聖母マリアの人生において起こった7つの悲痛な出来事、エピソードの一つを描いている。すべてイエスキリストの生涯と関わりあっているのだが、それらは以下の通りである。<br />1.シメオンの予言 (ルカ 2:34-35)<br />2.エジプトへの逃避 (マタイ 2:13)<br />3.幼子イエスをエルサレム神殿で見失う (ルカ 2:43-45)<br />4.十字架の道行きでのイエスとの出会い<br />5. ゴルゴタの丘でのイエスの磔刑 (ヨハネ 19:25)<br />6.イエスが脇腹を槍で突かれ、十字架から降ろされる(en:Descent from the Cross) (ヨハネ 19:34, 19-38)<br />7.アリマタヤのヨセフによるイエスの埋葬(英語版) (ヨハネ 19:40)<br />-Wikipediaより。<br />

    その下にはガラスケースに納められた’悲しみの聖母像’がある ペドロ.デ.メーナ(Pedro de Mena)による涙を流し悲痛な表情の聖母マリアで1680年頃の作。悲しみの聖母像はそのいづれもが聖母マリアの人生において起こった7つの悲痛な出来事、エピソードの一つを描いている。すべてイエスキリストの生涯と関わりあっているのだが、それらは以下の通りである。
    1.シメオンの予言 (ルカ 2:34-35)
    2.エジプトへの逃避 (マタイ 2:13)
    3.幼子イエスをエルサレム神殿で見失う (ルカ 2:43-45)
    4.十字架の道行きでのイエスとの出会い
    5. ゴルゴタの丘でのイエスの磔刑 (ヨハネ 19:25)
    6.イエスが脇腹を槍で突かれ、十字架から降ろされる(en:Descent from the Cross) (ヨハネ 19:34, 19-38)
    7.アリマタヤのヨセフによるイエスの埋葬(英語版) (ヨハネ 19:40)
    -Wikipediaより。

  • 同じ礼拝堂内にあるセビリアのマルチェロ.スピノラ枢機卿の墓所。彫刻はホアキン.ビルバオ(Joaquín Bilbao)で1906 ~1912の間に作成されたもの。この横にある(わずかにしか写っていないが)入り口が聖杯室に通じている。<br />

    同じ礼拝堂内にあるセビリアのマルチェロ.スピノラ枢機卿の墓所。彫刻はホアキン.ビルバオ(Joaquín Bilbao)で1906 ~1912の間に作成されたもの。この横にある(わずかにしか写っていないが)入り口が聖杯室に通じている。

  • 配置図26番, 聖杯の礼拝堂(Cap. de los Calice またはThe Sacristy of the Chalices)。ガラスケースの中の黄金の聖杯。つくられた年代を見ると南米の植民地から盗掘もしくは略奪した黄金で作られたものなのだろうか-0-$#*不届きにもそんなことを考えてしまった。

    配置図26番, 聖杯の礼拝堂(Cap. de los Calice またはThe Sacristy of the Chalices)。ガラスケースの中の黄金の聖杯。つくられた年代を見ると南米の植民地から盗掘もしくは略奪した黄金で作られたものなのだろうか-0-$#*不届きにもそんなことを考えてしまった。

  • ここにあるのは天才フランシスコ.デ.ゴヤの名作、「聖フスタと聖ラフィーナ」1817年。セビーリャ大聖堂から制作依頼を受けて祭壇画として描かれたもの。<br />二人はセビリア出身の陶工姉妹で、ローマ神殿の高官の命令である異教礼拝用の供物(陶器)製作を拒んだことから同地で拷問の末、殉教した聖人といわれる。<br />*ゴヤは存命中、宮廷画家として重きをなしたので宗教画は極めて少ない。これは彼のそうした作品中、希少な宗教画の一つである。

    ここにあるのは天才フランシスコ.デ.ゴヤの名作、「聖フスタと聖ラフィーナ」1817年。セビーリャ大聖堂から制作依頼を受けて祭壇画として描かれたもの。
    二人はセビリア出身の陶工姉妹で、ローマ神殿の高官の命令である異教礼拝用の供物(陶器)製作を拒んだことから同地で拷問の末、殉教した聖人といわれる。
    *ゴヤは存命中、宮廷画家として重きをなしたので宗教画は極めて少ない。これは彼のそうした作品中、希少な宗教画の一つである。

  • 拡大図。それぞれが陶器と殉教を象徴する棕櫚(しゅろ)の葉を持っている。また聖フスタの足元には異教への抵抗を象徴する壊れた古代ローマの女神像(ヴィーナス?)が、聖ルフィーナの足元にはスペインの寓意像である獅子(ライオン)が従順に足を舐める姿で描き込まれている。また背景には二人が16世紀の大地震で倒れかかったヒラルダの塔を救ったという伝承に基づいてそのヒラルダの塔が描かれている(スフマート技法を用いて奥行きと柔らかさを出している)。<br />

    拡大図。それぞれが陶器と殉教を象徴する棕櫚(しゅろ)の葉を持っている。また聖フスタの足元には異教への抵抗を象徴する壊れた古代ローマの女神像(ヴィーナス?)が、聖ルフィーナの足元にはスペインの寓意像である獅子(ライオン)が従順に足を舐める姿で描き込まれている。また背景には二人が16世紀の大地震で倒れかかったヒラルダの塔を救ったという伝承に基づいてそのヒラルダの塔が描かれている(スフマート技法を用いて奥行きと柔らかさを出している)。

  • 入口天井部にはキリスト磔刑図。見るものに非常に痛々しいと思わせるのはサルバランの写実的な筆の冴えによるものだろう。17世紀頃フランシスコ.サルバランの工房(workshop of Francisco Zurbarán)にて作成。

    入口天井部にはキリスト磔刑図。見るものに非常に痛々しいと思わせるのはサルバランの写実的な筆の冴えによるものだろう。17世紀頃フランシスコ.サルバランの工房(workshop of Francisco Zurbarán)にて作成。

  • 配置図27番, 聖アンドレの礼拝堂(Capilla de San Andrés)ー>Capilla de los Dolores (悲しみの聖母礼拝堂)の隣。

    配置図27番, 聖アンドレの礼拝堂(Capilla de San Andrés)ー>Capilla de los Dolores (悲しみの聖母礼拝堂)の隣。

  • ここにはフアン・マルティネス・モンタニェースの傑作、「慈悲のキリスト」(Cristo de la Clemencía)がある。トップの垂れ幕にMiserere Mei Deus(主よ、哀れみ給え)の文字が見える。<br />El Dios de la Madera(木の神)と呼ばれたフアン・マルティネス・モンタニェース(Juan Martínez Montañés)。肉がそげてあばら骨や筋肉が浮き出したキリストの体の表現がリアルである。これはマルティネス・モンタニェースの木彫りの上にフランシスコ・パチェーコ(絵画芸術論の著者。画家でもありベラスケスの義父でもある)が彩色した作例である。<br />*フアン・マルティネス・モンタニェースはスペインを代表する画家、彫刻家の一人。マドリードでフェリペ4世の胸像を作成中にディエゴ・ベラスケスと親しくなり、ベラスケスは彼の肖像画を描いている。https://www.museodelprado.es/coleccion/obra-de-arte/juan-martinez-montaes/47a2e3d9-3487-4d53-b428-697d757ff8bd<br /><br />

    ここにはフアン・マルティネス・モンタニェースの傑作、「慈悲のキリスト」(Cristo de la Clemencía)がある。トップの垂れ幕にMiserere Mei Deus(主よ、哀れみ給え)の文字が見える。
    El Dios de la Madera(木の神)と呼ばれたフアン・マルティネス・モンタニェース(Juan Martínez Montañés)。肉がそげてあばら骨や筋肉が浮き出したキリストの体の表現がリアルである。これはマルティネス・モンタニェースの木彫りの上にフランシスコ・パチェーコ(絵画芸術論の著者。画家でもありベラスケスの義父でもある)が彩色した作例である。
    *フアン・マルティネス・モンタニェースはスペインを代表する画家、彫刻家の一人。マドリードでフェリペ4世の胸像を作成中にディエゴ・ベラスケスと親しくなり、ベラスケスは彼の肖像画を描いている。https://www.museodelprado.es/coleccion/obra-de-arte/juan-martinez-montaes/47a2e3d9-3487-4d53-b428-697d757ff8bd

  • 配置図28番、主聖具納室(Sacristia Mayor)。典礼用のアイテムを収納する部屋である。ディエゴ.デ.リアノ(Diego de Rian?o 、16th C.)が設計デザインし、彼の死後を引き継いだマーティン.デ.ガインザ(Marti?n de Gai?nza)が完成した。<br />スタイルは円形ドーム構造に半円形のアーチ型天井を組みあわせたルネッサンス様式。壁面、天井の表面はプラテレスコ様式装飾で埋め尽くされている。正面の半ドーム部分に見えるのは「最後の審判」の浮彫。<br />*プラテレスコ様式(Plateresco; Plateresque):スペイン初期ルネサンス建築の装飾様式. 銀細工 (プラテリア) のように繊細で豊富な浮彫装飾が特徴。ーコトバンクより。<br />

    配置図28番、主聖具納室(Sacristia Mayor)。典礼用のアイテムを収納する部屋である。ディエゴ.デ.リアノ(Diego de Rian?o 、16th C.)が設計デザインし、彼の死後を引き継いだマーティン.デ.ガインザ(Marti?n de Gai?nza)が完成した。
    スタイルは円形ドーム構造に半円形のアーチ型天井を組みあわせたルネッサンス様式。壁面、天井の表面はプラテレスコ様式装飾で埋め尽くされている。正面の半ドーム部分に見えるのは「最後の審判」の浮彫。
    *プラテレスコ様式(Plateresco; Plateresque):スペイン初期ルネサンス建築の装飾様式. 銀細工 (プラテリア) のように繊細で豊富な浮彫装飾が特徴。ーコトバンクより。

  • 銀製の聖体顕示台。

    銀製の聖体顕示台。

  • 天井ドーム部分が見えるように親切鏡が設置されている。

    天井ドーム部分が見えるように親切鏡が設置されている。

  • 主聖具納室にあるフランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán)のサンタテレサ(Santa Teresa). 1650年作。油彩。<br />スルバランの作品には、カラヴァッジオ(イタリア・バロック期の巨匠)のように明暗の劇的な対比を見せたものが多く、「スペインのカラヴァッジョ」の呼称もある。しかし、スルバランの作風はカラヴァッジョのように革新的なものではなく、構図は単純で静的であり、題材も伝統的な宗教画や静物画などに限定されている。個性の表出よりは注文主の意向に忠実に描いた画家と言え、この点が17世紀の後半になって彼の絵が急速に時代遅れと見なされた一因と思われる。革新性やダイナミックな躍動感には欠けるが、キリスト教を題材にした作品には深い宗教的感情が表現されている。また、静物画はごく少数が現存するのみであるが、迫真の描写力を発揮し、独自の世界をつくっている-Wikipediaより。100%同感!!

    主聖具納室にあるフランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán)のサンタテレサ(Santa Teresa). 1650年作。油彩。
    スルバランの作品には、カラヴァッジオ(イタリア・バロック期の巨匠)のように明暗の劇的な対比を見せたものが多く、「スペインのカラヴァッジョ」の呼称もある。しかし、スルバランの作風はカラヴァッジョのように革新的なものではなく、構図は単純で静的であり、題材も伝統的な宗教画や静物画などに限定されている。個性の表出よりは注文主の意向に忠実に描いた画家と言え、この点が17世紀の後半になって彼の絵が急速に時代遅れと見なされた一因と思われる。革新性やダイナミックな躍動感には欠けるが、キリスト教を題材にした作品には深い宗教的感情が表現されている。また、静物画はごく少数が現存するのみであるが、迫真の描写力を発揮し、独自の世界をつくっている-Wikipediaより。100%同感!!

  • これも主聖具納室にある「十字架降下」(Descent from the Cross) ペドロ.デ.カンパーニャ(Pedro de Campana)による1547年の作品。油彩。<br />ペドロ.デ.カンパーニャはブラッセル生まれのフランドル人画家でイタリアで絵画を勉強後、スペインで活躍した宗教画家。この「十字架降下」は彼のベストな作品と言われている。

    これも主聖具納室にある「十字架降下」(Descent from the Cross) ペドロ.デ.カンパーニャ(Pedro de Campana)による1547年の作品。油彩。
    ペドロ.デ.カンパーニャはブラッセル生まれのフランドル人画家でイタリアで絵画を勉強後、スペインで活躍した宗教画家。この「十字架降下」は彼のベストな作品と言われている。

  • 配置図29番, 参事会室中庭(Patio del Cabildo, またはPatio de Mariscal)。ルネッサンス様式のこの中庭はエルナン・ルイス2世(Hernán Ruiz II)によって1562年に完成したもの。<br />Antecabildo (参事会控室)、Sala Capitular(参事会室)、Sacristia Mayor(主聖具納室)をつなぐ位置にある。<br /><br />

    配置図29番, 参事会室中庭(Patio del Cabildo, またはPatio de Mariscal)。ルネッサンス様式のこの中庭はエルナン・ルイス2世(Hernán Ruiz II)によって1562年に完成したもの。
    Antecabildo (参事会控室)、Sala Capitular(参事会室)、Sacristia Mayor(主聖具納室)をつなぐ位置にある。

  • 配置図30番, 参事会控室(Antecabildo)。主聖具納室の隣にあり参事会室に接続している。<br />ルネッサンス様式のアーチ型天井は16世紀にアセンシオ.デ.マエダ(Asensio de Maeda,1578-1575)及び(Hernán Ruiz II, 1558-1569)によって完成された。壁面は聖書の場面が描かれたレリーフで埋め尽くされている。天窓と縦壁上部に取り付けた間接照明が柔らかい光を投げかける。

    配置図30番, 参事会控室(Antecabildo)。主聖具納室の隣にあり参事会室に接続している。
    ルネッサンス様式のアーチ型天井は16世紀にアセンシオ.デ.マエダ(Asensio de Maeda,1578-1575)及び(Hernán Ruiz II, 1558-1569)によって完成された。壁面は聖書の場面が描かれたレリーフで埋め尽くされている。天窓と縦壁上部に取り付けた間接照明が柔らかい光を投げかける。

  • 配置図31番。次の部屋は参事会室(Sala Capitular)。スペインで最初の楕円形のドームをもつルネサンス様式の部屋で、クーポラ部分の中央にムリーリョ作の「無原罪の御宿り」が飾られている。この絵の周りを囲むように配置された8枚のトンド(tondo,イタリア語で円形フレームの意味)の聖人画も彼の筆になるものである。<br />参事会について調べてみたら下記のように出てきた。現代でいうと教会のボードオブディレクタース(?)のような機関と思われる。詳細は下記に。<br />*参事会とは個々の聖堂に属する聖職者canoniciで構成される合議体的組織。教会の聖務および世俗的諸任務の遂行責任がある。司教ないし教院長praepositusを補佐すべき義務を負うほか,評議・同意権をもって司教等の行政権力を統御する。https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E5%A0%82%E5%8F%82%E4%BA%8B%E4%BC%9A-1179009より抜粋。

    配置図31番。次の部屋は参事会室(Sala Capitular)。スペインで最初の楕円形のドームをもつルネサンス様式の部屋で、クーポラ部分の中央にムリーリョ作の「無原罪の御宿り」が飾られている。この絵の周りを囲むように配置された8枚のトンド(tondo,イタリア語で円形フレームの意味)の聖人画も彼の筆になるものである。
    参事会について調べてみたら下記のように出てきた。現代でいうと教会のボードオブディレクタース(?)のような機関と思われる。詳細は下記に。
    *参事会とは個々の聖堂に属する聖職者canoniciで構成される合議体的組織。教会の聖務および世俗的諸任務の遂行責任がある。司教ないし教院長praepositusを補佐すべき義務を負うほか,評議・同意権をもって司教等の行政権力を統御する。https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E5%A0%82%E5%8F%82%E4%BA%8B%E4%BC%9A-1179009より抜粋。

  • 参事会室のサインボードより。クーポラ部分のトンドに描かれた8人の聖人のうち、聖フェルナンド(フェルナンド3世)、聖フスタ、聖ルフィーナ、もう一人の聖人は不明。

    参事会室のサインボードより。クーポラ部分のトンドに描かれた8人の聖人のうち、聖フェルナンド(フェルナンド3世)、聖フスタ、聖ルフィーナ、もう一人の聖人は不明。

  • 中央の椅子は大司教用のものでマホガニー製。作成者はDiego de Valasco, 1592年。この大司教用椅子の座を中心に参事会会員(canonカノンと呼ばれる)が楕円形の壁にそっておかれたベンチに着席した。また音響効果を高めるドームや楕円形構造によって各発言者の声がよく通るような設計になっている。<br />このアーチ型天井は聖堂参事会会員であったフランシスコパチェーコ(Francisco Pacheco)によってデザインされた。彼は上記の「悲しみの礼拝堂」にあるフアン・マルティネス・モンタニェースの木製キリスト磔刑像に彩色を施したその人である。<br />因みにこの部屋の床のパターンのもとになっているのはローマのカンピドリオ広場Piazza del Campidoglioである。ルネッサンス時代の天才、ミケランジェロが設計した広場として知られている。<br />Piazza del Campidogliniの情報はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Piazza_del_Campidoglio<br /><br />

    中央の椅子は大司教用のものでマホガニー製。作成者はDiego de Valasco, 1592年。この大司教用椅子の座を中心に参事会会員(canonカノンと呼ばれる)が楕円形の壁にそっておかれたベンチに着席した。また音響効果を高めるドームや楕円形構造によって各発言者の声がよく通るような設計になっている。
    このアーチ型天井は聖堂参事会会員であったフランシスコパチェーコ(Francisco Pacheco)によってデザインされた。彼は上記の「悲しみの礼拝堂」にあるフアン・マルティネス・モンタニェースの木製キリスト磔刑像に彩色を施したその人である。
    因みにこの部屋の床のパターンのもとになっているのはローマのカンピドリオ広場Piazza del Campidoglioである。ルネッサンス時代の天才、ミケランジェロが設計した広場として知られている。
    Piazza del Campidogliniの情報はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Piazza_del_Campidoglio

  • 配置図24番の内陣領域(Capilla Mayor)と同図36番の主祭壇(Alter Mayor)。主祭壇の後ろには高さ20mの木製衝立(Retablo Mayor)がある。金箔張りでキリストと聖母マリアの生涯が45の場面にわけて描かれている。<br />制作はフランドル人彫刻家、ピエーレダンカート作。1482 年に制作を開始し1564年に完成したという。所要年数82年。殆どソロワークだが、完成間際の金箔張りや全体のアッセンブリー工程等は他のアーティストが手を貸したようである。<br />この巨大な衝立の下部部分には13世紀に作られたセビリア大聖堂の守護聖人、「幼子を抱く聖マリア」の像がある(木製の像を銀箔で覆ったもの)。<br />これらの黄金(3~4トンが使用されているとも言う)はかつてのインカ帝国にあった太陽の神殿から黄金を引っ剥がしたものが使われているというが。。。

    配置図24番の内陣領域(Capilla Mayor)と同図36番の主祭壇(Alter Mayor)。主祭壇の後ろには高さ20mの木製衝立(Retablo Mayor)がある。金箔張りでキリストと聖母マリアの生涯が45の場面にわけて描かれている。
    制作はフランドル人彫刻家、ピエーレダンカート作。1482 年に制作を開始し1564年に完成したという。所要年数82年。殆どソロワークだが、完成間際の金箔張りや全体のアッセンブリー工程等は他のアーティストが手を貸したようである。
    この巨大な衝立の下部部分には13世紀に作られたセビリア大聖堂の守護聖人、「幼子を抱く聖マリア」の像がある(木製の像を銀箔で覆ったもの)。
    これらの黄金(3~4トンが使用されているとも言う)はかつてのインカ帝国にあった太陽の神殿から黄金を引っ剥がしたものが使われているというが。。。

  • 配置図37番。サンペドロ礼拝堂(Capilla de San Pedro)。Puerta De Palos(棒の門)の近く。<br />*Puerta De Palos(棒の門)とは奇妙な名前だが、教会を建設中に、この門の傍に建材の棒を沢山置いていたために棒の門と便宜上呼んでんでいたのが固定したものらしい。しかし真偽は定かではない。

    配置図37番。サンペドロ礼拝堂(Capilla de San Pedro)。Puerta De Palos(棒の門)の近く。
    *Puerta De Palos(棒の門)とは奇妙な名前だが、教会を建設中に、この門の傍に建材の棒を沢山置いていたために棒の門と便宜上呼んでんでいたのが固定したものらしい。しかし真偽は定かではない。

  • 中央祭壇にはスルバランと彼の工房で描かれた聖ペテロに因む10点の絵画が見られる。中央上部に見えるのが言うまでもなく「無原罪の御宿り」である。上から順番に見ていくと。。<br />最上段トップは「永遠の御父」=オリジナルのスルバラン作ではなく18世紀のコピー。<br />2段目左側はSaint Peter freed by an angel.「天使によって(牢獄から)解放される聖ペテロ」<br />2段目中央はImmaculate「無原罪の御宿り」<br />2段目右側はQuo vadis, Domine?「クオ.バディス.ドミネ?(主よ、いずこに行かれるのですか)」<br />3段目左側はThe vision of San Pedro「聖ペテロの幻視」<br />3段目中央はSaint Peter, Pope「教皇, 聖ペテロ」<br />3段目右側はRepentant Saint Peter「悔悛する聖ペテロ」<br />4段目左側はChrist and Saint Peter on the waters.「水上のキリストと聖ペテロ」<br />4段目中央はChrist handing over the keys of Heaven to Saint Peter.「天国の鍵をペテロに渡すキリスト」<br />4段目右側はSaint Peter healing the paralytic「足萎えの人を癒す聖ペテロ」<br />参考:http://leyendasdesevilla.blogspot.com/2015/01/visitando-la-catedral-xiii-capilla-de.html<br />*注:教皇, 聖ペテロについて。キリストより天国の鍵を与えられ、また〈汝はペテロなり。われこの岩(いわお)の上にわが教会を建てん〉(《マタイによる福音書》16:18)との言葉をうけたペトロ(=岩)はキリスト教の初代教皇とみなされている。<br />

    中央祭壇にはスルバランと彼の工房で描かれた聖ペテロに因む10点の絵画が見られる。中央上部に見えるのが言うまでもなく「無原罪の御宿り」である。上から順番に見ていくと。。
    最上段トップは「永遠の御父」=オリジナルのスルバラン作ではなく18世紀のコピー。
    2段目左側はSaint Peter freed by an angel.「天使によって(牢獄から)解放される聖ペテロ」
    2段目中央はImmaculate「無原罪の御宿り」
    2段目右側はQuo vadis, Domine?「クオ.バディス.ドミネ?(主よ、いずこに行かれるのですか)」
    3段目左側はThe vision of San Pedro「聖ペテロの幻視」
    3段目中央はSaint Peter, Pope「教皇, 聖ペテロ」
    3段目右側はRepentant Saint Peter「悔悛する聖ペテロ」
    4段目左側はChrist and Saint Peter on the waters.「水上のキリストと聖ペテロ」
    4段目中央はChrist handing over the keys of Heaven to Saint Peter.「天国の鍵をペテロに渡すキリスト」
    4段目右側はSaint Peter healing the paralytic「足萎えの人を癒す聖ペテロ」
    参考:http://leyendasdesevilla.blogspot.com/2015/01/visitando-la-catedral-xiii-capilla-de.html
    *注:教皇, 聖ペテロについて。キリストより天国の鍵を与えられ、また〈汝はペテロなり。われこの岩(いわお)の上にわが教会を建てん〉(《マタイによる福音書》16:18)との言葉をうけたペトロ(=岩)はキリスト教の初代教皇とみなされている。

  • 配置図42番。(Silver Alter)。翼廊 (袖廊) の左側にあり、オレンジの中庭に通じる聖母受胎の門(Puerta de la Concepción)の後ろ側にあたる祭壇。<br />(注)このPuerta de la Concepciónはフェスティバル以外の時は閉鎖されている。

    配置図42番。(Silver Alter)。翼廊 (袖廊) の左側にあり、オレンジの中庭に通じる聖母受胎の門(Puerta de la Concepción)の後ろ側にあたる祭壇。
    (注)このPuerta de la Concepciónはフェスティバル以外の時は閉鎖されている。

  • 大聖堂の中は美術品の宝庫という人々もいるようだが、私にとっては見たくないものもあった。例えば金銀財宝や黄金の衝立、コロンブスの棺等。。旅行記のために写真をとったのだが、出所や背景を考えると見るのは正直疲れたし、複雑な思いにとらわれた。では気分転換にそろそろ高いところに登ってみよう。ヒラルダの塔(高さ97m)の入り口はサンペドロ礼拝堂のすぐ近くにある。皆が固まているところを目指せばいいようだ。階段ではなくスロープになっているのは馬、またはロバで上り下りする時のためだとか。アザーンのために1日5往復もさせられるのでは馬やロバだってたまったものではなかったろうに。

    大聖堂の中は美術品の宝庫という人々もいるようだが、私にとっては見たくないものもあった。例えば金銀財宝や黄金の衝立、コロンブスの棺等。。旅行記のために写真をとったのだが、出所や背景を考えると見るのは正直疲れたし、複雑な思いにとらわれた。では気分転換にそろそろ高いところに登ってみよう。ヒラルダの塔(高さ97m)の入り口はサンペドロ礼拝堂のすぐ近くにある。皆が固まているところを目指せばいいようだ。階段ではなくスロープになっているのは馬、またはロバで上り下りする時のためだとか。アザーンのために1日5往復もさせられるのでは馬やロバだってたまったものではなかったろうに。

  • ヒラルダの塔の高さは約97.5m、塔のトップに乗っているシンボルのヒラルディージョを含めると104.1m。 彼女の体重は1.5トンだそうだ。ヒラルダの正式な名称は‘Triumph of the Victorious Faithといい、1568年にブロンズで作成された。重量は約1.5トン。<br />「ヒラルダの塔(La Giralda)」の名は、スペイン語の風見を意味するヒラルダ(giralda)に由来しているが、もともとはイタリア語のgirar(回転する)の借用語である。<br /><br />

    ヒラルダの塔の高さは約97.5m、塔のトップに乗っているシンボルのヒラルディージョを含めると104.1m。 彼女の体重は1.5トンだそうだ。ヒラルダの正式な名称は‘Triumph of the Victorious Faithといい、1568年にブロンズで作成された。重量は約1.5トン。
    「ヒラルダの塔(La Giralda)」の名は、スペイン語の風見を意味するヒラルダ(giralda)に由来しているが、もともとはイタリア語のgirar(回転する)の借用語である。

  • 各スロープには番号が振ってあり、自分の位置が確認できる。これは多分23番目のスロープの窓から撮ったと記憶している。ゴシック様式の聖堂の屋根とオレンジの庭の木々が遠慮がちに写っている。!!-o‐!!

    各スロープには番号が振ってあり、自分の位置が確認できる。これは多分23番目のスロープの窓から撮ったと記憶している。ゴシック様式の聖堂の屋根とオレンジの庭の木々が遠慮がちに写っている。!!-o‐!!

  • やっと34番目の傾斜路に到達。

    やっと34番目の傾斜路に到達。

  • 34番目のスロープを過ぎるとこの階段を上る。すると地上約70mの高さの鐘楼部分および展望台へ到達する。

    34番目のスロープを過ぎるとこの階段を上る。すると地上約70mの高さの鐘楼部分および展望台へ到達する。

  • 電子的にプログラムされた大小さまざまの24個の鐘が自動的に時を告げるようになっている。<br />それにしてもこの展望台の混みよう!!!。ステップ状になっていて、一番高いところが写真をとるのに最適なのだがそこに行きつくまでが大変なのだ。そういう場所をあまりにも長時間独り占めにしている人は、’失礼!替わって頂戴!’などと言われている。言われる前に気がつけばいいのに。

    電子的にプログラムされた大小さまざまの24個の鐘が自動的に時を告げるようになっている。
    それにしてもこの展望台の混みよう!!!。ステップ状になっていて、一番高いところが写真をとるのに最適なのだがそこに行きつくまでが大変なのだ。そういう場所をあまりにも長時間独り占めにしている人は、’失礼!替わって頂戴!’などと言われている。言われる前に気がつけばいいのに。

  • 遠くにアラミージョ橋, その手前にメトロポールパラソル(後で行くからまっててネ)、左手にセビリア市庁舎が見える。(北方向)右手の中ほどの黄色い建物は18世紀に造られたサンタクルス教会。

    遠くにアラミージョ橋, その手前にメトロポールパラソル(後で行くからまっててネ)、左手にセビリア市庁舎が見える。(北方向)右手の中ほどの黄色い建物は18世紀に造られたサンタクルス教会。

  • 中ほど右手に18世紀に造られた黄色い塔のあるサンタクルス教会が見える。グーグルマップでチェックするとここから歩いて3分とでてくる。(東方向)

    中ほど右手に18世紀に造られた黄色い塔のあるサンタクルス教会が見える。グーグルマップでチェックするとここから歩いて3分とでてくる。(東方向)

  • 遠くに見えるのっぽビルはセビリア・タワー(トーレ・セビリア)。2015年に完成した40階建て、180メートルの高さでセビリア市の事務所や各種のビジネスオフィスが入ったコンプレックスビル。(北西方向)

    遠くに見えるのっぽビルはセビリア・タワー(トーレ・セビリア)。2015年に完成した40階建て、180メートルの高さでセビリア市の事務所や各種のビジネスオフィスが入ったコンプレックスビル。(北西方向)

  • これは塔から降りてきたあとでオレンジの中庭から撮ったヒラルダの塔。。。<br />その背景:セビリア大聖堂付属の鐘楼で高さは 105m。もともとイスラム教徒の統治下(モロッコのベルベル人の王朝、アルモハド朝)12世紀につくられたモスクのミナレットで、モロッコのマラケシュにあるクトゥビア モスクのミナレットに似せて建てられた。レコンキスタの後、16 世紀に建築家エルナン ルイス 2 世によってかつてのミナレットの上にルネサンス様式の鐘楼部分が増築された。頂上に立つ「 ヒラルディージョ」はキリスト教の勝利のシンボルとして 1568 年に設置されたもの。<br />(注)この塔は昔々この地を納めたローマ人が築いた土台の上にイスラム教徒がミナレットを建設したものである。なので礎石の一部にローマ時代の石をつかったものがある。<br />オレンジの中庭:イスラム寺院(モスク)には礼拝前に身を浄めるための中庭があり、そのためにパティオが造られ、大聖堂となった後もそれがそのまま残っている。

    これは塔から降りてきたあとでオレンジの中庭から撮ったヒラルダの塔。。。
    その背景:セビリア大聖堂付属の鐘楼で高さは 105m。もともとイスラム教徒の統治下(モロッコのベルベル人の王朝、アルモハド朝)12世紀につくられたモスクのミナレットで、モロッコのマラケシュにあるクトゥビア モスクのミナレットに似せて建てられた。レコンキスタの後、16 世紀に建築家エルナン ルイス 2 世によってかつてのミナレットの上にルネサンス様式の鐘楼部分が増築された。頂上に立つ「 ヒラルディージョ」はキリスト教の勝利のシンボルとして 1568 年に設置されたもの。
    (注)この塔は昔々この地を納めたローマ人が築いた土台の上にイスラム教徒がミナレットを建設したものである。なので礎石の一部にローマ時代の石をつかったものがある。
    オレンジの中庭:イスラム寺院(モスク)には礼拝前に身を浄めるための中庭があり、そのためにパティオが造られ、大聖堂となった後もそれがそのまま残っている。

  • あとで調べるとこのヒラルダの塔の建築学的な美しさは多くの人々を魅了するようで、スペイン国内のみでなく海外でもいくつかの「レプリカ」が作られていることがわかった。その一つは何と米国カンザスシティのカントリークラブプラザにあり、このヒラルダの塔の1/2のサイズだとか。<br />(注)カンザスシティとセビリアは姉妹都市である。<br />

    あとで調べるとこのヒラルダの塔の建築学的な美しさは多くの人々を魅了するようで、スペイン国内のみでなく海外でもいくつかの「レプリカ」が作られていることがわかった。その一つは何と米国カンザスシティのカントリークラブプラザにあり、このヒラルダの塔の1/2のサイズだとか。
    (注)カンザスシティとセビリアは姉妹都市である。

  • そしてモスク時代の名残である馬蹄形アーチの免罪の門(Puerta del Perdon)。

    そしてモスク時代の名残である馬蹄形アーチの免罪の門(Puerta del Perdon)。

  • 歯間ブラシのような屋根の小塔たち、そしてゴシック様式の教会建築にみられる飛控え(Flying Buttress)。

    歯間ブラシのような屋根の小塔たち、そしてゴシック様式の教会建築にみられる飛控え(Flying Buttress)。

  • 門を出て大聖堂の外を歩く。すると歩道と車道の境界にチェーンで等間隔につながれた保護柱があるのに気付く。馬車の侵入を防ぐ防御目的のみでなく、16世紀に聖俗の境界線を示すものとして設置されたようだ(民事法が及ばない宗教的聖域と考えられた)。あとで調べるとこれらの柱はローマ時代の遺構らしい。全体数は157本。セビリア郊外にイタリカ遺跡があるのだがそこから16世紀に転用されたという。なので石材も長さも統一はなく大理石、石灰岩、斑岩等の柱が混在している。これはこれで変化があって面白いと思うのだけど、遺跡保護の点から見たらどうだろう?<br />イタリカ:セビリアから北西11kmくらいのサンティポンセにある古代ローマの遺跡。(名前はイタリアに由来している。)イタリカ遺跡については https://www.spain.info/ja/meisho/itatika-iseki/<br />ちなみにローマ帝国の五賢帝に列記されるトラヤヌス帝、ハドリアヌス帝は、このイタリカの出身である。

    門を出て大聖堂の外を歩く。すると歩道と車道の境界にチェーンで等間隔につながれた保護柱があるのに気付く。馬車の侵入を防ぐ防御目的のみでなく、16世紀に聖俗の境界線を示すものとして設置されたようだ(民事法が及ばない宗教的聖域と考えられた)。あとで調べるとこれらの柱はローマ時代の遺構らしい。全体数は157本。セビリア郊外にイタリカ遺跡があるのだがそこから16世紀に転用されたという。なので石材も長さも統一はなく大理石、石灰岩、斑岩等の柱が混在している。これはこれで変化があって面白いと思うのだけど、遺跡保護の点から見たらどうだろう?
    イタリカ:セビリアから北西11kmくらいのサンティポンセにある古代ローマの遺跡。(名前はイタリアに由来している。)イタリカ遺跡については https://www.spain.info/ja/meisho/itatika-iseki/
    ちなみにローマ帝国の五賢帝に列記されるトラヤヌス帝、ハドリアヌス帝は、このイタリカの出身である。

  • 涼しい木陰を作ってくれる街路樹のオレンジの木。

    涼しい木陰を作ってくれる街路樹のオレンジの木。

  • このピザ屋さん、客さばきがうまい。ここでランチタイムとしよう。

    このピザ屋さん、客さばきがうまい。ここでランチタイムとしよう。

  • 免罪の門の前の石段に座ってスライスオブピザ。アンダルシアの風がここちよい。<br /><br />このあと、9日目#2に続く。

    免罪の門の前の石段に座ってスライスオブピザ。アンダルシアの風がここちよい。

    このあと、9日目#2に続く。

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