2023/08/24 - 2023/08/24
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gianiさん
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この旅行記のスケジュール
2023/08/24
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札幌~旭川間を移動する際に、すべての特急列車が停車する岩見沢駅。
空知総合振興局庁所在地と頭ではわかっていても、いつも素通りする街。
実は、鉄道の町でした。
この日は、全道に熱中症警戒アラートが発令(史上初)。宗谷/根室/釧路振興局で発令されるのも、史上初です。
用語
北海道庁:1886-1947年まで存在した国(内務省)の行政官庁。大日本帝国体制下の府県と異なり、北海道は内務省直轄の土地でした。したがって、適用される法律も府県とは異なることも多いです。
- 旅行の満足度
- 4.0
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岩見沢駅
初めて、途中下車します。岩見沢駅 駅
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駅舎のセブンイレブン側に地味に入居するスポット。
観光案内および土産物にありつけます。
観光前と後の両方に立ち寄れます。
※空知振興局管内の観光案内も強いです。岩見沢市観光協会 名所・史跡
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情報を仕入れて、駅の北口方面へ移動します。
凄い線路の数。これでもだいぶ整理されました。
岩見沢は、鉄道の町(12市町村)として国鉄が公称していた都市の一つ。
往時の岩見沢駅は、500名以上の職員が勤務していたそうです。 -
数分歩くと、レンガ造りの建物が。
空き地は、もともと国鉄の線路や建物で覆われていました。 -
北海道炭礦鉄道岩見沢製作所(1899年築)
北海道最初の鉄道を運営した北炭の車両工場/工機部の一棟。
手宮(小樽)工場が手狭になったために、終点寄りの岩見沢に建設。岩見沢レールセンター 名所・史跡
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ファサード
正面に五角形の星のマークが。
北炭こと北海道炭礦鉄道の社章が今も残る貴重な遺構。 -
現在もJR北海道のレール工場として稼働中の為、フェンス越しの公道から見学。
北炭は岩見沢をハブ(軸)に炭鉱(幌内/幾春別/歌志内)へ繋がる3路線と港(室蘭/小樽)へ通じる2つの路線を持ち、岩見沢を中心に石狩炭田と積出港を結びました。
※当時北海道の鉄道網/炭鉱経営は、北炭一社だけでした。 -
1906年の光景。
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もう少し歩いて幾春別川を渡ると、興味深い名前の公園が。
岩見沢は、アイヌ語の当て字ではなく、完全な日本語地名です。「湯浴み(をした)沢」が転じて岩見沢になりました。明治11年(1878年)のことでした。岩見沢発祥の地記念公園 公園・植物園
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北海道初の近代炭鉱を幌内で操業すべく、1878年に開拓使が札幌~幌内まで道路開削の際に官営休泊所を5か所設置し、現場工事従事者の必要を満たしました。此処にも休泊所が設置され、人々は湯浴みで疲れを癒したのでした。
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翌79年に炭鉱の開削が始まり、82年には小樽/札幌と鉄道で繋がり、岩見沢にも駅が設置されました。入植の基盤が整います。
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岩見沢は、1883年に岩国藩柳井の士族が移住したのを開基としています。
仮設/臨時の施設だった休泊所を恒久的な宿として請負い、この地に定住(開基)しました(※屯田兵とは違います)。
なので、界隈の住所には元町/本町という文字が含まれます。 -
旧竹野繁次郎家住宅(1913年築)
北海製材雑穀を創立した材木商の邸宅が、公園の一角に建ちます。1939年に所有権が移り、国兼家住宅として知られます。 -
L字型にして雪対策を施すのは、北東北の流儀です。
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岩見沢は、幌内炭鉱への中継点として誕生し、石炭を港へ運ぶために建設された鉄道の要所として発展しました。4方向5路線が交わる鉄道の十字路として、多くの鉄道職員を配置しました。
岩見沢発祥の地記念公園 公園・植物園
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公園の目の前を流れる幾春別川を上流へ遡ると、幌内炭鉱があります。
寄り道しながら、幌内を目指します。
岩見沢の商業の中心は南4条通りですが、シャッター店舗が多く、空き地まである始末。炭坑無き今は、かなり沈下しています。 -
国道12号線の手前にある公園。
岩見沢~室蘭港を走行した機関車。
貴婦人と呼ばれるC57は、貨物ではなく旅客列車をけん引しました。
みなみは、正しくはひらがな表記です。南公園 公園・植物園
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公園は、岩見沢中学と東高校が移転して整備されたスペースです。
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12号線を渡ると大きな神社が。
明治18年に開基の地である元町に創建。
明治30年に郊外の現在地に移転、立派な社殿です。岩見沢神社 寺・神社・教会
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神社や市役所が並ぶエリアは、河川が蛇行していた箇所。現在はショートカットされ、直線化。その名残を感じさせる緑地です。
面白い名前の緑地です。鳩が丘記念緑地 公園・植物園
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さらに南下すると、鳩ケ丘の由来となったスポットが。
アイヌが見つけたスポットで、冬でも凍結せず鳩が群がり療養に訪れた温泉。玉泉館跡地公園 公園・植物園
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1903年に、温泉料亭旅館「山鳩の湯亭」が開業。翌年には温泉旅館「玉泉閣」と改称、廃業後日本庭園が市民公園として開放されています。
進路を東に修正して、幌内駅を目指します。 -
幌内駅跡
岩見沢から幌内炭鉱へ通じる路線は、1987年に廃止されています。
同年に、北海道最初の鉄道ということを記念して、北海道の鉄道を学べる施設が建ちます。
※幌内炭鉱は、1989年に廃坑。三笠鉄道記念館 美術館・博物館
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明治4年のケプロンによる地質調査で、後の石狩炭田のエリアに石炭層が眠ることが判明します。
明治6年のライマン(写真)による調査で、幌内が有望なことが判明します。予算不足の開拓使では、輸送機関の整備は難しいと彼は判断します。そこで、炭鉱から幌向太(岩見沢駅の南西部)まで鉄道を敷き、ここで船に積み替えて石狩川を下り、日本海を航行して小樽港へ運搬することを提案。鉄道区間の測量を行います。
明治11年に開拓使は、炭鉱の資材運搬用に札幌~幌内炭鉱まで道路を開削します。 -
ジョセフ・クロフォード
明治12年に赴任して、上記の計画の問題点に気づきます。
1.鉄道から船へ積み替える幌向太は湿地で地盤が悪く、貨物の重みに耐えられない。尚且つ、劣悪な自然環境で積替作業員の生活が不可能。
2.石狩川の結氷が深刻で、実際に舟を運行できるのは年間150日に過ぎないこと。
彼の意見を開拓使は受け入れ、小樽港~幌内炭田まで鉄道を通すことにします。 -
官営幌内鉄道の開業
翌明治13年に着工し、年内に手宮(小樽)~札幌間を部分開業させます。
明治15年(1882年)には、幌内まで全線開業します。
明治14年に開拓使は廃止され、工部省が鉄道を引き継ぎます。 -
アメリカ式の鉄道
ドイツ/イギリス寄りだった中央政府とは異なり、開拓使はお抱え外国人がほとんどアメリカ人、北海道とアメリカの風土が似ていることもあり、相性が良かったようです。線路も車両もアメリカ製、システムもアメリカ式でした。例えば、フラグステーション。乗客が下車する旨を申告または旗が立っている駅には停車しますが、サインがなければ通過(路線バスのようなシステム)。沿線人口の少ない北海道では、きわめて合理的です。アメリカ製機関車はブレーキ性能が優れているのでノープロブレムです。機関車正面の過剰な突起はカウキャッチャーと呼ばれ、牛馬を跳ね返すもの。これも北海道に合うものです。 -
その後
官営幌内鉄道ですが、経営が軌道に乗らず、明治19年に鉄道と炭鉱は新設された北海道庁に移管されます。
明治21年には、幌内に次いで開坑した幾春別炭鉱へ通じる支線が開業します。
写真のように、2つの炭鉱と小樽港を結ぶのが北海道の鉄道網です。 -
官営鉄道の払い下げ
開拓使が設立した産業が民間に払い下げられたように、鉄道と炭鉱も明治22年(1889年)に北海道炭礦鉄道(北炭)に払い下げられます。ほかの鉄道会社が北海道に参入できないなど北炭は政府の保護を受けていました。
この年の大きな変化は、降雪による長期運休がなくなったことです。岩見沢は屈指の豪雪地帯で、ラッセル車は積雪が1.5mを超えると役に立たず、冬季は事実上運休していました。 -
1893年の路線網
社名のごとく、石炭ファーストの姿勢が伺えます。
1891年:岩見沢~歌志内(炭鉱)開業
1892年:砂川~滝川、岩見沢~室蘭、追分~夕張(炭鉱)開業
北炭は、これ以上の新規路線は建設しませんでした。
※ケプロンは、明治4年に幌内~室蘭まで鉄道を建設することを提言しました。1891年には東京~青森が鉄道で繋がり、青森~函館~室蘭の定期航路が就航します。 -
官設鉄道
北海道庁は、道全体に入植が進むことを目指します。そのために交通インフラは必須。ということで、当面採算が見合わない新規開拓地への鉄道建設を画策。明治29年に国会で諸法案を通し、道庁よりも予算の潤沢な中央政府が鉄道建設するようにします。内陸部開発の拠点旭川、炭鉱都市釧路に接続することが優先されました。
※当時は、北海道第2の都市となる旭川でさえ、入植がはじまったばかりの寒村でした。 -
北海道鉄道(私鉄)
財源が貧弱な明治政府にとって、市中にあふれる金(民間資本)の活用は必須でした。函館と小樽の実業家が集まって北海道鉄道株式会社を設立し1905年に着工、1907年に函館~小樽を開業させます。青函連絡船を介して、東京と札幌が鉄道で結ばれました。
※厳密には、小樽市内で北炭部分との連絡線が開通した1908年。 -
1907年の鉄道網
1898年:滝川~旭川開業
1898-1903年:旭川~名寄開業
1899-1907年:旭川~釧路開業
以上、官設鉄道。
1907年:函館~小樽開業
※札幌~函館および札幌~釧路のルートが、現在の幹線と異なることに注目。 -
国有鉄道(1907年~)
鉄道国有法により、日本全国の幹線鉄道を国が買収/国有化します。北海道の鉄道も国有化されます(建設中だった函館~小樽間は1909年に国有化)。
写真は、1920年当時の路線図。
新たに留萌/網走(十勝経由)/万字炭鉱/道北方面へ伸張しています。 -
1926年の路線図
根室まで伸張、旭川~網走は峠を避けて名寄経由、稚内へは当初地形の良い天北線経由/のちに宗谷本線経由でも開通、苫小牧と帯広をショートカットすべく富内線が開業(最終的に断念)。
1924年には、青函航路による貨物輸送も始まり、貨車がそのまま船に積載されるシステムが開始されます。
1920年に鉄道院は、鉄道省に昇格します。運輸省/国交省と違い、専ら鉄道です。
※稚内は現在ではローカルですが、当時は樺太航路が発着する重要港でした。 -
幹線の貫通
1926年の千歳線、1927年に長万部~東室蘭/旭川~遠軽全通により、函札/札網のメインルートが完成しました。1931年に釧路~網走も繋がり、現在に続く連絡路が完成します。
日中戦争以降は石炭輸送が優先され、鉄道業界は伸び悩んで終戦を迎えます。
※第一次世界大戦後および1929年の恐慌で小樽は沈下し、金融/商業は札幌、工業は胆振(室蘭~苫小牧)へシフトします。 -
国鉄(1949-87)
GHQは鉄道省を解体し、公共企業体として日本国有鉄道(国鉄)が発足します。 -
相次ぐ新線開業
沿岸部や内陸部の町村へ向けて相次いで新線を開業し、公共交通の空白を埋めようとします。高度経済成長に伴う過疎化とモータリゼーションが重なり、累積赤字と存在意義が失われます。通称国鉄再建法によって、1983年以降順次廃止されます。道内で最初に同法が適用された白糠線は、開業から20年も経っていませんでした。 -
所要時間の短縮
函館~旭川間の複線化工事による輸送力増強、1961年以降は北海道でも特急が運転されるようになりました。
1968-69年には小樽~旭川、1980年には白石(札幌)~室蘭が電化されました。 -
狩勝峠と石勝線
根室本線の狩勝峠越えは運転上の難所で、一方では車窓三景の一つに上がるほどの絶景でした。新狩勝トンネル開削やΩ型迂回路等を擁した新路線が1966年に開通しました。
帯広や釧路へは滝川経由でしたが、1981年に夕張線を延長した石勝線(千歳経由)の開業により、距離も線形も大幅に改善されました。
両者は現在も、重要なインフラ基盤として機能しています。 -
余談1;青函航路
年表を見ると、青函航路は国鉄時代には北海道(札幌総局)管轄になりました。朝鮮戦争中の1951年には、津軽海峡でソ連製の機雷が発見され、数か月運行が停止されました。
1954年には台風で1155名が犠牲になった洞爺丸事故をきっかけに、青函トンネルプロジェクトが進行しました。 -
私鉄
1906年成立以降の諸法で鉄道の国有化が促進された一方で、1920年には私設鉄道法/地方鉄道法/軽便鉄道法/軌道法/専用鉄道法なども整備されました。開業当初は馬車/軌間も国鉄の1067㎜よりも狭い762mmという感じです。 -
私設鉄道
毛細血管のような分布です。 -
森林鉄道
切り出した木材を運搬することを目的に建設されました。森林資源の豊富な北海道では、各地に存在しました。右の温根湯森林鉄道のように、営林署が運営する形が一般的です。左の王子軽便鉄道は、王子製紙の製紙原料として木材を運搬/発電所への資材運搬がメインでしたが、旅客営業も行いました。 -
観光鉄道
観光客を観光地へ輸送するのがメインで、写真左の登別温泉軌道、札幌近郊の定山渓鉄道などが挙げられます。写真右の根室軌道に至っては、ネット検索で1件もヒットしない状態。 -
殖民軌道(簡易軌道)
北海道オリジナルの根拠法令に基づく鉄道。僻地の入植者の便宜を図るもので、建設は北海道庁が行い、運営は住民が行うものでした。自前の馬とトロッコが必要で、運行ダイヤは存在せず、住民が思い思いに利用しました。後に各町村が運営し、ガソリン車が走行しました。専ら道東/道北に分布し、1972年の浜中町営軌道廃止で、歴史が終わります。 -
JR北海道(1987-)
展示は国鉄で終わりですが、JRの補足説明を。国鉄時代は本州接続を重視した函館中心ダイヤ編成でしたが、地元に寄り添った札幌中心のダイヤに組み直されます。軌道補強や振り子式車両導入等で特急の大幅スピードアップ等を実現しますが、分割民営化前から予想された通り、鉄道事業は大幅な赤字を計上します。 -
満身創痍
2011/2013年の脱線事故で問題が顕在化し、保線の予算/人材不足に伴う特急の減便/減速が続いています。除雪/耐寒の費用は北海道ならではの問題です。一方で国鉄から引き継いだ赤字ローカル線の廃止もままならず、JR各社で一番厳しい経営状態です。
※青函トンネルの維持管理もJR北海道に割り当てられています。 -
北海道の車両
キハ22(1958~)
キ=気動車、ハ=旧3等車(普通車)を意味し、キハ20は暖地、キハ21は準寒冷地、キハ22は寒冷地仕様。二重窓、温水暖房などを装備し、現場の評判が頗る良かった名車。その後の寒冷設計の基準になった車両です。普通列車用なのに、客室とデッキが分かれているのは、駅のドア開閉で客室が冷えないための配慮。
※最近の車両は暖房能力が著しく向上し、特急以外はデッキ無しです。 -
キハ22に搭載されたエンジンの実物大模型。
ボタンを押すとエンジンが数分駆動し、軸を介して車輪が回転します。
※屋内展示なので、ディーゼルエンジンではなく電気モータです。 -
幌内駅に掲示された運賃表(1958年)
東京まで1,660円です。
聖徳太子の1万円札1枚の威力を感じます。
客室が3等級に分かれています。
※現在のグリーン車は、2等車に相当します。 -
屋外展示
DD14
プレートを見ると1号機なので、1960年製造。除雪専用のディーゼル機関車。
1000馬力のエンジンは専ら除雪用ロータリーの駆動に使用され、もう1両の機関車が推進を担いました。 -
おまけ
こんな展示プレートがありました。内容は、小樽~札幌の鉄道が開通した年は鰊が不漁で、漁師は蒸気機関車を見た鰊が怖くて逃げだしたからだと唱え、トンネルを封鎖する強硬手段に出ようとしたとのこと。警察が出動して事なきを得たが、10年後も鉄道排斥運動を続けていたそうです。
鰊は音に敏感だから漁師はエンジン付きの船を嫌い、手漕ぎにこだわったという話は訊いていますが、、、 -
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