2022/10/25 - 2022/10/25
226位(同エリア675件中)
hiroさん
この旅行記のスケジュール
2022/10/25
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今回は、東京23区の北部に位置する北区内の中央部分となるJR・京浜東北線および東京メトロ・南北線さらに都電・荒川線(東京さくらトラム)の公共交通機関が通る王子エリアを久しぶりに訪れる機会があり、自分が子供ころの真夏の季節に水遊び場所として親が連れてきてくれた「名主の滝公園」のかすかな記憶がふとよみがえり、京浜東北線の西側に位置する「名主の滝公園」(岸町1丁目)をはじめ「王子稲荷神社」(岸町1丁目)および「王子神社(王子権現)」(王子本町1丁目)さらに「音無親水公園」(王子本町1丁目)から京浜東北線の東側に位置する「国立印刷局お札と切手の博物館」(王子1丁目)の王子駅周辺を平日の午後にひとりで散策して廻りました。
この王子エリアは、武蔵野台地の突端(崖線)に位置する高台部分から低地部分まで高低差のある特徴的な地形で構成されており、東京湾に注ぐ一級水系で荒川水系の本流である現在の荒川が暴れ川として河川流域が広かった時代に河川岸に位置していたことから平安時代以前から岸村と呼ばれていたといわれています。
その歴史については、平安時代末期に河内国(現:大阪府の一部)を拠点としていた武家の棟梁・河内源氏の2代目でのちの鎌倉幕府・初代将軍「源 頼朝」の祖先にあたる「源 頼義」が陸奥国(現:福島県、宮城県、岩手県、青森県)の豪族「安倍頼時」一族が起こした反乱を朝廷の命により陸奥守(国司)として陸奥国を平定するまでの1051年(永承6年)から1062年(康平5年)の12年間におよぶ戦乱「前九年の役」の折に「岸稲荷(現:王子稲荷神社)」を信仰し「関東稲荷総司」と崇めたと伝えられています。
さらに1180年(治承4年)になると「源 頼朝」が「源 頼義」の子供であり「八幡太郎」の愛称でも知られる「源 義家」の鎧(腹巻)および薙刀などを「岸稲荷」に奉納したとも伝えられており、「岸稲荷」が源氏ゆかりの稲荷神社となっています。
また平安時代から室町時代にわたり岸村を拠点としていた豪族「豊島氏」一族が「熊野信仰」のもと鎌倉時代末期の1322年(元亨2年)に紀伊国(現:和歌山県)の「熊野権現」と称する「熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)」に祀られる祭神を勧請(神仏の分霊を迎え祀ること)し、もともと岸村に鎮座していた神社を「若一王子宮(現:王子神社)」として奉斎したことがきっかけとなり地名が岸村から王子村に改められるとともに源氏ゆかりの「岸稲荷」も「王子稲荷社」に改められています。
戦国時代になるとこの地の領主になっていた「小田原北条氏」からも「若一王子宮」は崇敬されていますが、「豊臣秀吉」により1590年(天正18年)に「小田原北条氏」の本拠地「小田原攻め」が実施され「小田原北条氏」が滅亡、さらに領地替えで江戸に入府した「徳川家康」より1591年(天正19年)に200万石の広大な社領が「若一王子宮」に寄進されています。
その後も「若一王子宮」が江戸府内の北方守護を担う神社として「王子権現社」と称されるとともに「王子稲荷社」および「王子権現社」が「王子両社」として徳川将軍家の祈願所となり、1609年(慶長14年)には第2代将軍「徳川秀忠」が「王子両社」の別当時となる「金輪寺」を再興、1634年(寛永11年)に第3代将軍「徳川家光」が「王子両社」の社殿を造営したほか縁起絵巻「若一王子縁起」(3巻)を徳川幕府に仕えていた朱子学派の儒学者「林羅山」に命じて作成し「王子権現社」に寄進、また1703年(元禄16年)には第5代将軍「徳川綱吉」も「王子権現社」の社殿を造営および「王子稲荷社」を修繕しています。
さらに1737年(元文2年)になると第8代将軍「徳川吉宗」が桜を植樹し整備したことでお花見文化が定着するきっかけとなった「飛鳥山」を「王子権現社」に寄進したほか1782年(天明2年)に第10代将軍「徳川家治」が「王子両社」の社殿を修繕、その後の1820年(文政3年)に第11代将軍「徳川家斉」も「王子権現社」の社殿を修繕したほか1822年(文政5年)に「王子稲荷社」を造営しており徳川将軍家からも代々にわたり「王子両社」が篤く崇敬されています。
そのほか江戸時代末期の徳川幕府・第13代将軍「徳川家定」の時代から第14代将軍「徳川家茂」の時代となる「安政年間」(1854年から1860年)には、当時の王子村・名主「畑野孫八」が自邸の敷地内に湧き水を利用した現在の「名主の滝公園」の原型とされる滝を築き屋敷内で栽培したお茶を提供するなど江戸庶民に一般公開しています。
この「名主の滝」をはじめこのエリアの武蔵野台地の突端(崖線)部分における各所から豊富な湧き水が「王子七滝」として滝浴みなど夏場の涼を求める避暑地および春先の「飛鳥山」での花見とあわせて王子エリアが江戸庶民に親しまれる行楽地となっています。
その後の明治期を迎えると”近代日本経済の父”または”日本資本主義の父”などと称される多種多様な企業・団体の設立などに関与した大実業家「渋沢栄一」が設立に尽力した「抄紙会社(現:王子ホールディング)」の工場およびその工場を眼下に見守ることができる「飛鳥山」の一画に「渋沢栄一」の自宅が設けられるなど日本の近代化を支えるエリアとなっています。
王子駅周辺は、このような歴史を感じさせるスポットが点在しており街歩きにお薦めできるエリアです。
機会があれば、今回立ち寄ることのできなかった「飛鳥山」などを廻り「渋沢栄一」にまつわる近代日本の歴史散策をしてみたいと思います・・・
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
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写真:名主の滝公園・薬医門
「名主の滝公園」は、江戸時代末期に当時の王子村の名主「畑野孫八」が自邸の敷地内に湧き水を利用した滝を築き屋敷内で栽培したお茶を提供するなど江戸庶民に一般公開したことが始まりとされ公園名称の由来となっています。
その後の明治中期になると敷地所有者になっていた貿易商「垣内徳三郎」が、高低差のある敷地の形状を活かして栃木県塩原の風景を模した渓流を再現するなど庭園としての要素を加えた整備をおこない一般公開しています。
さらに1938年(昭和13年)には老舗西洋料理店「精養軒」が敷地所有者となり、食堂施設を兼ね備えたレジャー施設として競技用屋外プール施設「名主水泳場」などが建設されましたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により焼失、1960年(昭和35年)に新たな都立公園として開園したのち1975年(昭和50年)に北区に移管されています。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・公園内案内板
現在の「名主の滝公園」は、敷地面積が約20,790平方メートルの北区が管理する公園施設であり、JR京浜東北線・王子駅から東十条駅区間の沿線に沿って西側エリアに広がる武蔵野台地の崖線の一画にその高低差のある地形を活かした滝のある樹木に覆われひっそりとした回遊式の庭園となっています。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・敷地内
寺院の山門のような雰囲気のある薬医門から「名主の滝公園」敷地内に入ると樹木に覆われた池があり、都会の雑音が消えて鳥のさえずりが響きわたる山林の中に瞬間移動したかのような雰囲気が漂う癒しの空間が広がります。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・敷地内
現在の「名主の滝公園」敷地内には、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝と呼ばれる大小さまざまな4つの滝が整備され、滝から流れでた水が木製の橋などが架かる樹木の中を流れる渓流となり池に注がれ、その池の水を再びポンプで汲みあげて循環させる回遊式の庭園となっていますが、立ち寄った際はメインの滝である男滝のみが稼働していました。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・男滝(落差およそ8メートル)
「名主の滝公園」の滝は、江戸時代に滝浴みで涼を求める江戸庶民の避暑地として人気を集めた”王子七滝”(不動の滝・弁天の滝・権現の滝・稲荷の滝・大工の滝・見晴らしの滝・名主の滝)の中で唯一現存する滝です。
江戸庶民が王子エリアで滝浴みをする様子については、浮世絵師「歌川広重」が江戸時代末期の1856年(安政3年)から約2年半の歳月をかけて制作した全119枚の錦絵「名所江戸百景」の中で「王子不動之滝」として描かれています。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・男滝(落差およそ8メートル)
「名主の滝公園」のシンボルでもある男滝は、都内有数の落差およそ8メートルの人工滝ですが幻想的でフォトスポットとしてお勧めできます。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・男滝(落差およそ8メートル)
「名主の滝公園」に立ち寄ったのが平日の午後でしたが、フォトカルチャー倶楽部と思われる方達がグループで男滝を写真撮影していました。 -
写真:名主の滝公園・男滝(落差およそ8メートル)
「名主の滝公園」のシンボルでもある落差およそ8メートルの男滝は、公園・正門から園内に入って直ぐの正門正面に位置します。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・公園内案内板
「名主の滝公園」の正門から園内に入って直ぐの場所に設置されている案内板です。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:名主の滝公園・正門
「名主の滝公園」の正門から園内に入って直ぐの左手側に鉄筋コンクリート造施設の公園事務所・名主の滝老人いこいの家があります。
そのほか公園敷地内の男滝付近に木造施設(有料貸し施設)の茶室・集会室(緑蔭亭・洗心亭)があります。名主の滝公園 公園・植物園
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写真:王子稲荷神社・脇参道(平日の参拝用)
「王子稲荷神社」の創建については不詳とされていますが、その歴史は古く「源 頼義」が平安時代末期の1051年(永承6年)から1062年(康平5年)に陸奥国を平定するまでの戦乱「前九年の役」の折に「関東稲荷総司」と崇めたと伝えられている稲荷神社です。
当時の関東に関する位置付けが現在と異なり陸奥国までを含む東日本全体の稲荷総本社とする解釈のもと「関東稲荷総司」が「東国三十三国稲荷総司」と伝承され江戸時代中期まで境内に「東国三十三国」と記した扁額および幟などが掲げられてとされていますが、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代に幕政改革(寛政の改革)により「東国三十三国稲荷総司」から「関東八州稲荷総司」に改められています。
そのほか1180年(治承4年)には、のちの鎌倉幕府・初代将軍「源 頼朝」が祖先となる「源 頼義」の子供であり「八幡太郎」の愛称でも知られる「源 義家」の鎧(腹巻)および薙刀などを奉納したとも伝えられており源氏ゆかりの稲荷神社ともなっています。
また江戸時代になると徳川将軍家からも代々にわたり厚く崇敬されており、江戸府内の稲荷神社の総本宮として徳川将軍家の祈願所に定められています。
現在では境内の一画に附属幼稚園が併設され、薬医門形式の神門から社殿に通じる表参道が幼稚園の園庭として、また神門が幼稚園の出入口を兼ねているため幼稚園が開園している平日の「王子稲荷神社」参拝者は脇参道を通り参拝となります。王子稲荷神社 寺・神社・教会
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写真:王子稲荷神社・社殿
「王子稲荷神社」はコンパクトな境内ですが、現在の極彩色による装飾彫刻などが各所に施された権現造りの社殿は、1822年(文政5年)に徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」が造営した江戸時代の貴重な建築物です。王子稲荷神社 寺・神社・教会
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写真:王子稲荷神社・本宮社
「王子稲荷神社」の社殿に向って右手奥に本宮社が鎮座しており、さらにその奥へと進むと狐が住んでいたとされる狐穴があります。
「王子稲荷神社」は、民話「王子の狐火」および落語の演目「王子の狐」にも登場する稲荷神社であり、浮世絵師「歌川広重」が「名所江戸百景」の中で「王子稲荷乃社」さらに民話「王子の狐火」を題材とした「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」を描いているほかにも「王子稲荷神社」にまつわる浮世絵が複数あり、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」などの地誌においても「王子稲荷神社」が記載されるなど江戸庶民からも厚い信仰を集めていたことが伺えます。
機会があれば、1993年(平成5年)から開催されている民話「王子の狐火」を再現したイベント「王子狐の行列」が開催される大晦日にも参拝してみたいと思います・・・王子稲荷神社 寺・神社・教会
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写真:王子神社・参道大鳥居
「王子神社」の創建については不詳とされていますが、平安時代から室町時代にわたり、この地の領主であった「豊島氏」一族が鎌倉時代末期となる1322年(元亨2年)に紀伊国(現:和歌山県)の「熊野権現」を勧請し、現在地にもともと鎮座していた神社を「若一王子宮」として奉斎したことが「王子神社」のはじまりとされています。
その後に「徳川家康」が領地替えで江戸に入府すると翌年の1591年(天正19年)に社領として200万石を「若一王子宮」に寄進し、徳川将軍家の祈願所として「王子権現社」と呼ばれるようになり徳川将軍家からも代々にわたり篤く崇敬されています。
また明治時代になると東京遷都に伴い東京の鎮護と万民の安泰を祈るため東京近郊の主だった神社として「王子神社」を含む12社が「准勅祭社」に指定されており、この「准勅祭社」12社のうち東京23区内の神社が「昭和天皇即位50年」を奉祝して1975年(昭和50年)に企画した”東京十社巡り”が現在でも都内神社巡りの定番として「東京十社」の名称が定着しています。王子神社(王子権現) 寺・神社・教会
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写真:王子神社・社殿
現在の「王子神社」は樹木に覆われた緑豊かな境内ではありますが、太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により境内のほぼすべてが焼失しており、1939年(昭和14年)に天然記念物として「東京都指定文化財」となった大イチョウ」のみ奇跡的に戦災を免れています。
現在の社殿は1964年(昭和39年)および1982年(昭和57年)の2回の造営を経て再建されたもので、参拝した際は境内には七五三詣りのご家族を含む数名の参拝者のみでひっそりとした地元に根付いた神社であると感じました。王子神社(王子権現) 寺・神社・教会
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写真:王子神社・由緒板
参道の大鳥居をくぐって直ぐの左側に設置されている由緒板です。王子神社(王子権現) 寺・神社・教会
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写真:音無橋・歩道部分
「音無橋」は、武蔵野台地の突端(崖線)高台に位置する北区王子本町1丁目エリア(北西側)および北区滝野川2丁目エリア(南東側)の境界を蛇行しながら渓谷のように分断して南西方向から北東方向に流れていた石神井川の旧流路上空を自動車で横断できるように現在の本郷赤羽線(都道455号)が明治通り(国道122号)と合流する部分に架けられた橋長:約50メートル・幅員:約18メートルの3径間連続鉄筋コンクリート固定アーチ橋として1930年(昭和5年)に竣工しています。
その後に「音無橋」の下部を流れていた石神井川は、水害を解消するため蛇行していた流路を直線となるように西方向から東方向に飛鳥山の下部を2本のトンネルで流す延長:約380メートルの分水路が1968年(昭和43年)および1983年(昭和58年)の2期に分けて整備されています。
ちなみに「音無橋」の由来は、江戸時代に王子エリアを流れていた石神井川が音無川と呼ばれていたことによるもので、一説によると徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」が故郷である紀州・音無川の渓谷にちなんで命名したと伝えられています。建設にあたり渋沢栄一も支援していた橋梁です! by hiroさん音無橋 名所・史跡
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写真:音無橋から望む音無親水公園
「音無橋」は、老朽化にともない1988年(昭和63年)に大改修(鋼繊維コンクリー卜・補強鉄筋による床版増し厚など)が実施されています。
また石神井川(通称:音無川)の旧流路エリアも「音無橋」の大改修と同時期に樹木に覆われた渓谷風の期間限定で水遊びができる「音無親水公園」として整備されています。建設にあたり渋沢栄一も支援していた橋梁です! by hiroさん音無橋 名所・史跡
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写真:音無橋・記念碑
石神井川(通称:音無川)旧流路の左岸側となる「音無橋」の袂に設置されている記念碑です。建設にあたり渋沢栄一も支援していた橋梁です! by hiroさん音無橋 名所・史跡
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写真:音無親水公園
「音無親水公園」は、JR京浜東北線・王子駅の北口改札西側から現在の石神井川護岸までとなる敷地面積:5,461平方メートルにおよぶ石神井川・旧流路をかつての清流が流れていた時代の情緒ある樹木に囲まれ渓谷の雰囲気が漂う夏場の期間限定で水遊びができる区立公園として1988年(昭和63年)に整備され、翌年の1989年(平成元年)に日本公園緑地協会が企画した「日本の都市公園100選」に選定されています。音無親水公園 花見
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写真:音無親水公園・舟串橋(木製)
「音無親水公園」の舟串橋は、かつての石神井川(通称:音無川)旧流路に架けられていた木製橋を復元したものです。
舟串橋については、1958年(昭和33年)に神奈川県に上陸した狩野川台風により流され廃橋となっていました。音無親水公園 花見
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写真:音無親水公園
王子周辺エリアを流れる石神井川は、江戸時代に音無川と呼ばれており、江戸時代後期の1836年(天保7年)に刊行された地誌である「江戸名所図会・5巻(15冊)」の中でも音無川として景観図が紹介されているほか、浮世絵師「歌川広重」が江戸時代末期の1856年(安政3年)から約2年半の歳月をかけて制作した全119枚の錦絵「名所江戸百景」においても「王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」として錦絵が描かれているなど人気の行楽地となっていたことが伺えます。
そのほか「音無親水公園」の名称となっている音無川は、紀州熊野権現本宮付近を流れる音無川に由来するものとされ現在も通称として音無川と呼ばれることもあり、かつての清流が流れていたころの情緒ある樹木に囲まれた渓谷の面影をとり戻したいといった要望が高まり現在の「音無親水公園」の整備計画が浮上し現在に至っています。音無親水公園 花見
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写真:音無親水公園
樹木に囲まれ渓谷の雰囲気が漂う「音無親水公園」内は、フォトスポットも多く点在しており、さまざまな角度から写真撮影をして楽しむことができました。音無親水公園 花見
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写真:音無親水公園
「音無親水公園」は、JR京浜東北線・王子駅の北口改札をでてすぐの西側エリアに位置する観光スポットとしてお勧めできます。音無親水公園 花見
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写真:音無親水公園
「音無親水公園」内の遊歩道には、サクラ・モミジなどの樹木も整備されているので、機会があればサクラの咲く春先、水の流れる夏場、紅葉の秋口などの四季折々の園内を写真撮影をしてみたいと思います。音無親水公園 花見
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写真:独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館・外観
「お札と切手の博物館」は、国内の日本銀行券(紙幣)・郵便切手・収入印紙・旅券(パスポート)・郵便貯金通帳・証券類の製造および政府刊行物(官報・法令全書・白書など)の編集と製造さらに偽造防止技術などの研究開発を行う現在の独立行政法人である「国立印刷局」が所蔵する”お札と切手”などに関するさまざまな展示資料を基に”お札と切手”の史および製造技術の変遷などに関する基礎知識とあわせて”お札と切手”などの社会的・文化的意義についてを気軽に学べる施設です。独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館 美術館・博物館
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写真:独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館・外観
「国立印刷局」については、明治維新後の近代的な紙幣・切手などを製造する政府の機関「大蔵省 紙幣司」として1871年(明治4年)に創設されてから一貫して紙幣・切手などの製造に携わっており、創設から100年目となる1971年(昭和46年)の節目の年に当時の「大蔵省 印刷局」創立100周年記念事業として新宿区市谷本村町に建設された「印刷局記念館」館内の一部施設として「お札と切手の博物館」が開設されています。
その後の2003年(平成15年)になると行政改革にともなう中央省庁再編などにより独立行政法人「国立印刷局」が設立されるとともに組織再編により「印刷局記念館」の名称が「印刷局市ヶ谷センター」に変更となり、『お札と切手の博物館』の役割についても文化事業とあわせて「国立印刷局」の広報的な要素を担うようになっています。
さらに「国立印刷局」の事業に関する抜本的な検討のもと不要資産などの見直しにより「印刷局市ヶ谷センター」を国に返納することが決定し、2011年(平成23年)になると「お札と切手の博物館」が規模を縮小して「国立印刷局」で一番古い工場である現在の北区王子1丁目にある「国立印刷局 王子工場」敷地内の「国立印刷局 王子展示室」に移転し、新たな「お札と切手の博物館」としてリニューアルオープンしています。独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館 美術館・博物館
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写真:独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館・内観
2階建ての「お札と切手の博物館」館内展示室はコンパクトですが、立ち寄った際に開催されていた特別展「加藤倉吉 飽くなき版画表現の追求」において大正期から昭和期に印刷局・彫刻部門の工芸官(専門職員)トップとして数多くの原版彫刻に携わっていた「加藤倉吉」氏を中心とする工芸官の緻密で繊細な画線で構成された凹版彫刻による肖像画などのほかに「加藤倉吉」氏が印刷局を退職したのちに凹版彫刻者として制作した肖像画や風景画なども含めた展示は偽造防止技術の歴史とともに細密画線を複雑な模様に彫り込む凹版彫刻に関する職人技の凄さを改めて実感し楽しむことができました。独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館 美術館・博物館
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写真:独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館・内観
「お札と切手の博物館」館内展示室には、国内の紙幣などのほかにも諸外国の珍しい紙幣なども展示されています。独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館 美術館・博物館
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写真:独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館・内観
「お札と切手の博物館」は、入館無料で誰でも気軽に立ち寄れる施設としてお勧めできます。独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館 美術館・博物館
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写真:独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館・内観
「お札と切手の博物館」へのアクセスは、JR・京浜東北線「王子駅」中央口改札または東京メトロ・南北線「王子駅」1番出口さらに都電・荒川線(東京さくらトラム)「王子駅前」停留場からそれぞれ徒歩3分程度です。独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館 美術館・博物館
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