2023/04/17 - 2023/04/17
268位(同エリア573件中)
髭のび太さん
2023年は桜の満開も早く、春になると一斉に花が咲き始めた。ネモフィラがひたち海浜公園まで行かなくても、都内で満開になっている場所があると知り、その近くにも牡丹、フジが見頃だとの情報を得て鑑賞しに出掛けた。
それにしても、新型コロナの感染数が減少し始めて、有名な観光スポットには多くの外国人が訪れている様だった。観光立国と言うのは、外国人御用達になると言う事なのかな?
嘗て谷根千に住んで居た文豪達の旧居付近を散策した。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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池袋駅東口バス停6番乗り場から
都営バス「王40甲・西新井駅前行に乗車した 区間同一料金で \210 だった
途中には、豊島五丁目団地や、車椅子乗車で時間が掛かったり、江北一丁目にある 東京女子医科大学附属足立医療センターもあり、高齢者の利用者が多い様だ
写真は、下車した 西新井大師前/都営バスのバス停 -
西新井大師前バス停傍の建物の内側にあった蛙の蛇口の様だ?
何か謂れが有りそうだが? -
バス停を少し戻ると、西新井大師の表参道があった
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参道を歩いて行くと、西新井大師の山門に出た
西新井大師(五智山遍照院總持寺) 寺・神社・教会
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山門の中には金剛力士像(吽)がいらっしゃいました
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山門の中のもう一方の金剛力士像(阿)
どちらの像も中々迫力があります -
山門を潜り抜けると右手に第二牡丹園があった
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和傘と牡丹の組み合わせが目に留まった
牡丹の花の日除けに見えたが、本来は雨除けらしい。 -
後を振り返ると、鐘楼堂があった
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日米親善の梵鐘だそうです。
説明文 -
西新井大師の東門を抜けた先に、牡丹園の入口があった
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牡丹園の入口には注意書きが列記されていた
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沢山の種類の牡丹の花が咲いていた
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黄冠という種類の花
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牡丹の花を見終えて、再び東門を経て、西新井大師へ
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西新井大師の藤棚では藤の花が咲いていた
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藤棚の傍には池があった
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藤棚の下には、延命水洗地蔵尊が祀られていた
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延命水洗地蔵尊 案内板には、以下の記述があった
地蔵菩薩は釈尊の滅後、仏がいなくなったこの世界の衆生を、弥勒佛が出現するまでの間、教化する菩薩であります。この延命水洗地蔵尊を信仰すると十種の福徳が授かり特に寿命長遠の功徳があります。
弘法大師様御降誕1200年の記念として建立いたしました -
藤棚からの花穂の枝垂れが美しい
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山門を入って左側には大日如来尊像が有り、その周りに第三牡丹園があった
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四国八十八箇所霊場同行二人お砂踏み巡礼所とその案内板には以下の記述があった
厄徐弘法大師のご利益と観音慈悲の功徳を一時に与えて下さる礼拝所。
基壇の周囲、石板の下には、四国霊場と高野山の霊砂が順に敷かれております
<礼拝の心得>
心穏やかに保ち願いを込め南側正面より入場。
正面にて合掌礼拝「南無大師遍照金剛」を
お唱えしながら左側から順に一周して下さい。
前の方とは間隔をあけ一列にてお歩き下さい。
最後に正面で合掌礼拝して退場 -
弘法大師が四国を行脚された時のお姿だそうです。
立像の周りの花壇では、色とりどりの花が咲いていた -
心字池と呼ばれる池があった
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弁天堂 弁財天が祀られているお堂
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可愛いお地蔵さんが祀られていた
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小さな滝があった
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権現堂とその案内板には、以下の記述があった
権現堂の由来は、遠く当山建立の砌り、山内の地鎮のために権現像をまつることに始まる。その後数度の修復を経て今日に至る。権現とは、衆生済度の為に仏が神に化身して、我が国に現れた御影を申し上げる。 -
如意輪堂(女人堂)とその案内板には、以下の記述があった
本尊如意輪観音は法輪を転じて苦しみを受ける一切有情に宝財を施し、あるいは如意珠より福智二徳を出生し衆生の苦を除き楽を与える観音菩薩である。
當山では何時の頃からか特に女人の諸願成就に霊験ありとされ、その功徳多き故に女人堂と伝えられ衆生の帰依と共に今日に至る。 -
奥の院とその案内板には、以下の記述があった
今にまします弘法大師様高野山奥の院を関東に奉迎して当地にまつりました。かつてこの御堂の前に御霊屋影見の井戸あり、かかるところから当山は関東の高野と称され高野山の代拝所として江戸の昔より今日まで善男、善女の参ずる者が多い。 -
西新井大師の境内の散策(出世稲荷明神の参拝を忘れて終った)を終えて、大師北参道を舎人公園に向かって北上していると、下戸諏訪神社の鳥居と社殿が目に留まった
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下戸諏訪神社境内社
御札が納められているのかな? -
西新井大師からは歩いて30分程で辿り着いた。
舎人公園の第3駐車場には、車は殆ど駐車して無かった -
舎人公園第3駐車場入口付近から見た舎人公園第2駐車場
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舎人公園の東口方面の風景
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舎人公園の大池
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ソリゲレンデ
子供の遊び場、雪が無くても滑れて楽しそうだ -
舎人公園内を歩いていても、ネモフィラに関する案内を見掛けなかった 。
少々不安になったが、何とかネモフィラ園に辿り着いた -
撮り方にも因るが充分ネモフィラの絨毯に見える
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ほぼ満開といっても過言ではない
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接写して見てもネモフィラは奇麗だ
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直ぐ近くに、公園内の売店(休みだった)と休憩所があり、木のテーブルとベンチで休憩している花見客も大勢いた
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グルっと半周ほど回って反対側から撮影した
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花見客の中には、ひたち海浜公園まで行かなくてもこれで十分だと言う声も聞こえた
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2023年の桜の開花は早かったが、何とかまだ一部の桜は咲いていた
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桜並木がまだ一部残っていて頑張っていた
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公園から舎人ライナーの高架下沿いの道に出た。
舎人公園駅の入口が道路沿いに見えた -
舎人公園駅のホームに上がると、見沼代親水公園行の舎人ライナーが丁度出発した。
舎人ライナーは初乗車、高架下から見た感じではモノレールの様に見えたが、車輪で動いていて(案内軌条式鉄道)、運転手を含めて乗務員もおらず、ゆりかもめ線と同様に自動運転だった。舎人公園駅 駅
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舎人公園駅から見た舎人公園東口、真ん中にあるのは噴水の様だった
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目線を日暮里方面に代えると、東京スカイツリーが見えた
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舎人公園駅から舎人ライナーに乗り、西日暮里駅で地下鉄千代田線各停代々木上原行に乗換え根津駅で下車
西日暮里駅 駅
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根津神社に着くと、多くの外国人観光客がいるのが目を惹いた
根津神社 寺・神社・教会
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つつじ苑前では、平日にも関わらず多くの観光客がいて、写真撮影をしていた
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根津神社 楼門前ではコスプレを楽しむ外国人観光客も目に付いた
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根津神社 唐門を過ぎて、拝殿前には多くの参拝者の行列が出来ていた
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根津神社の境内の西門にある透塀と西参道に並ぶ露店と参拝客
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つつじ苑側にあった 乙女稲荷神社の案内を見て、階段を上った
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階段を上がった先には、乙女稲荷神社 千本鳥居があった
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千本鳥居の中から撮影した
根津神社のホームページには、境内の撮影について、以下の記述があった
千本鳥居の柱には奉納した方のお名前や願意が書かれております
撮影の際には反対側からの撮影、もしくは掲載の際のぼかし処理などご配慮願います -
千本鳥居を抜けると、参拝者で賑わう立派な乙女稲荷神社 社殿に出た
乙女稲荷神社 寺・神社・教会
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乙女稲荷神社社殿からの池と西参道の露店の眺め
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何と、お狐様のお供え物は蕪の様だ
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庚申塔と賽の大神(さえ(い)のおおかみ)碑
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詳しくは、ドクターキムルさん の旅行記「庚申塚と力石、賽の大神碑(根津神社)(東京都文京区根津)」 https://4travel.jp/travelogue/10727913 に紹介があった
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庚申塚、賽の大神碑の先に駒込稲荷神社の社殿があった
駒込稲荷神社 寺・神社・教会
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駒込稲荷神社の狐塚
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駒込稲荷神社の狐塚の裏側に回ると大小様々なお狐様が鎮座されていた
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微笑ましい姿に癒されて根津神社を後にした。
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根津神社の西口鳥居を出ると根津裏門坂で道路の向かい側に日本医科大学が見えるので左側に進む。「日本医大前」の信号交差点を右折し、日本医科大学同窓会 橘桜会館を過ぎた辺りに、夏目漱石旧居跡(猫の家)の碑が建っていた
夏目漱石旧居跡 (猫の家) 名所・史跡
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路地の先の塀の上にも猫のオブジェがあった
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ちょっと戻って解剖坂を下りて行けば良かったのに、そのまま道なりに進んで袋小路みたいな感じの道を迷いながら歩いて、どうにか薮下道に出た。
写真左側に進むと藪下通り、真ん中付近の木の下が文豪・森鴎外の旧居「観潮楼」正門跡入口で、薮下道から崖沿いに南北に走る根津神社裏門近くに続く道があって、観潮楼では歌会が催されていたので、その参加者だった啄木や茂吉ら多くの文豪も通っていたらしい。文京区立森鴎外記念館 美術館・博物館
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旧居「観潮楼」正門跡入口の壁にある観潮楼址 案内板 文京区立森鴎外記念館のプレート
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観潮楼の門柱跡を潜って入ると大きな大銀杏の木や石畳のある庭があった
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観潮楼跡 永井荷風筆鴎外詩「沙羅の木」碑
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森鴎外記念館のフロアマップが表示されていた
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建物に沿って歩いて行くと、文京区立森鴎外記念館の正面に出た
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「観潮楼」と呼ばれていたのは、2階の書斎から東京湾が望めたからだそうだが、現在はビルばかりが目立ち海の面影は無いが、谷底を見下ろせる様に細い階段があった。この坂はおばけ階段又はしろへび坂、へび坂、へび道と呼ばれているそうだ。
第19回文の京(ふみのみやこ)都市景観賞 ふるさと景観賞で表彰されていたことを表示するプレートが手摺の足元にあった -
観潮楼址を出て、しろへび坂を右に見ながら進むと、団子坂上の交差点に出た。
団子坂上信号機を通り過ぎて団子坂に入ってから交差点を撮影した
夏目漱石の「三四郎」、二葉亭四迷の「浮雲」、江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」等に登場する有名な坂 -
団子坂上から見た千駄木駅方面を下って行き、次の角を左折した
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講談社団子坂社宅があった
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講談社団子坂社宅の正面に「講談社発祥の地」の碑があった
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講談社発祥の地 以下の記述があった
1909年(明治42年)11月、青年・学生の弁論と精神修養のための雑誌『雄辨』発行を志した30歳の野間清治は、東京団子坂下の借家(旧・本郷区駒込坂下町48番地。現・文京区千駄木3丁目)の門柱に「大日本雄辨會」の看板をかかげた――講談社の創業である。
創業時よりこの地にある伊予青石に刻まれた文字は、第6代社長野間佐和子の揮毫になる。 -
文京区立須藤公園 命名 への河童碑
カッパの伝説があるのかな? -
文京区立須藤公園 案内板
江戸時代、この地は、江戸の郊外にあたり、加賀金沢藩の支藩である大聖寺藩の下屋敷でした。
屋敷は、閑静で敷地も広く、後に弥生岡をひかえ、前には遠く東京湾を隔てて房総半島の山々が望まれるなどの景勝の地でした。
庭園の規模はさほど大きくありません、起伏に富んだ地形を巧みに活かした回遊式の大名庭園が造られ、今日でも当時の大名の気風を偲ぶことができます。
池泉内には、約30坪(約100㎡)の中ノ島があり、古くから弁財天の祠堂が祀られ、燈篭と玉石敷きの州浜が風趣をそえています。
明治維新後、長州(現在の山口県)出身の政治家、品川弥二郎(一八四三~一九〇〇)の邸宅となり、その後、明治二十二年(一八八九)実業家の須藤吉右衛門に買い取られ、庭園は、須藤家屋敷の一部として、大名庭園の旧態を損なわないよう保存されました。
昭和八年(一九三三)須藤家から公園用地として、東京市に寄付され、市は山水の補修と公園として必要な施設等の整備を行いました。
昭和十八年(一九四三)東京市は東京都となり、昭和二十五年(一九五〇)公園は、文京区に移管されました。
区は、池や滝などの改修を行い、区民に親しまれ活用される公園とするために造園を行いました。
公園名は、須藤家の厚意を伝えるため、名づけられたものです。
平成十五年三月 文京区 -
須藤公園を見て、千駄木駅の北にある路地から不忍通りに出た。
不忍通りからよみせ通りを経て谷中銀座に出た。
角打ちの店越後屋本店が目に付いた越後屋酒店 グルメ・レストラン
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何故なら、越後屋本店の屋根の上には猫かと思ったら、オブジェだった
谷中銀座商店街 市場・商店街
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谷中銀座 肉のサトー
肉のサトー グルメ・レストラン
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谷中銀座 のなかストアー前
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谷中銀座 金吉園
金吉園 専門店
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谷中銀座 鮮魚店 冨じ家(ふじや)
冨じ家 グルメ・レストラン
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日乃本帆布 谷中銀座商店街
日乃本帆布 (谷中店) 専門店
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布風船の向いにあったパンジーショップ谷中銀座店は靴屋さん
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谷中銀座 夕やけだんだん方面
猫雑貨のお店 布風船 や ちょんまげいも たまる布風船 専門店
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谷中銀座の商店街を抜けると、通称「夕やけだんだん」で有名な階段に出た
夕やけだんだん 名所・史跡
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階段手前に有った「レストランザクロ」
中央アジア~中東系の雑貨屋に見えたが、料理も提供している風変わりな店だったレストラン ザクロ グルメ・レストラン
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夕日が人気の階段を登って振り返って景色を眺めた
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御殿坂から夕やけだんだんを振り返った
御殿坂 名所・史跡
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由緒が有りそうだったので寄って見たら、慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けたお寺だった。
大黒天経王寺の拝殿経王寺 (西日暮里) 寺・神社・教会
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大黒堂
日蓮上人作と伝えられる「大黒天」が祀られているそうだ -
長久山 本行寺の山門を入って行った
月見寺とも呼ばれている本行寺 寺・神社・教会
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本行寺の山門を入ると、墓石で猫が気持ち良さそうに寛いでいた
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猫の供養塔
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種田山頭火の句碑 「ほっと月がある 東京に来てゐる」 本行寺
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小林一茶の句石 「陽炎や道灌どのの物見塚」
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道灌丘碑
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道灌丘碑
戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったらしいが、現在はこの道灌丘碑のみがその事を残している様だ。 -
本行寺 拝殿
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本行寺の山門御殿坂の横にあった御殿坂の案内板
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御殿坂を日暮里駅に進むと跨線橋「下御隠殿橋」があって、橋の側面に山の手線を走っていた205系のプレートが掲示されていた
下御隠殿橋(トレインミュージアム) 名所・史跡
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下御隠殿橋から見える車両一覧
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北斗星(EF81型電気機関車)のプレート
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スーパーひたち(常磐線の特急651系)のプレート
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下御隠殿橋 展望用バルコニーは、JRの車両が行き来する撮影スポットになっていた
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下御隠殿橋完成にあたっての碑
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東北新幹線最初の車両200系のプレート
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下御隠殿橋を渡らずに引き返し、日暮里駅手前の階段を登った
日暮里駅 駅
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階段を登りきると、日暮里駅ホームとその奥に東京スカイツリーが見えた
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一風変わった日暮里駅南改札口のとんがり屋根と東京スカイツリーを一緒に撮った
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谷中霊園 霊園内の猫の撮影をする方へ
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谷中霊園内注意事項
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谷中霊園 甲14号
谷中霊園 寺・神社・教会
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谷中霊園を進んでいると大仏さんが見えたので寄って見た
天王寺の銅造釈迦如来坐像 -
山門の傍にあった庚申塔
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庚申塔 案内板
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霊園を進み、天王寺五重塔跡付近を左折し、芋坂を進んだ
地図を見ると、霊園には多くの要人、著名人が眠る歴史的な都会の霊園で、朝ドラ人気の牧野富太郎氏の墓も記載されていた
写真は、芋坂跨線橋からの眺め 日暮里駅方面 -
芋坂跨線橋からの眺め 鶯谷駅方面
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渡り終えた芋坂跨線橋
芋坂跨線橋 名所・史跡
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芋坂跨線橋の階段を下りた。バリアフリーではない。
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子規歌集から
句碑 芋坂も団子も月のゆかりかな
上野戦争で官軍に敗れた彰義隊が日光へ逃れるため、谷中墓地から善性寺の門前へ駆け下りた坂を芋坂と言うらしい。 -
団子の由来 案内板
江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は、音無川のせゝらぎと小粋な根岸の三味もきこえる塵外の小天地でありました。
文政二年、小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。
この団子がきめが細かくて羽二重のようだと称され、そのまゝ菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を受け継いでおります。 -
羽二重団子本店 ランチメニュー
此の坂と王子街道との交差点にあるのが文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋、土地の名物今の『羽二重団子』羽二重団子 本店 グルメ・レストラン
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芋坂を登り切って王子街道に出ると、将軍橋と芋坂(善性寺)の案内板があった
善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(一四八七)の開創と伝える。寛文四年(一六六四)六代将軍徳川家宣の生母、長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
宝永年間(一七〇四~一七一一)家宣の弟の松平清武がここに隠楼し家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
善性寺の向い、芋坂下には文政二年(一八一九)開かれたという藤の木茶屋(今の羽二重団子)がある
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規 -
善性寺境内の駐車場
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不二大黒天 善性寺のHPには、以下の通り記述があった
大黒天梵名を摩訶迦羅天といいます。摩訶は大、迦羅は暗黒を意味するところから大黒天とよばれるようになりました。
インド・中国では古くから寺院の守護・豊饒をつかさどる神として祀られていましたが、仏教にとり入れられ、甲子待ちの主尊として、また福神信仰の代表として、近世以降は庶民になじみの深いものとなりました。
像容は、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌をもって米俵の上に立つ形が一般的ですが、善性寺境内の大黒天像は、脚を投げだして坐り、右肩に小槌をのせ、左手に持った小判を人びとに分け与えようとしている珍しい姿態の尊像で、安土桃山時代(1568~600)の作と伝えられています。 -
善性寺境内
善性寺 寺・神社・教会
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御隠殿跡の案内板
渡って来た跨線橋やトレインミュージアムと呼ばれるバルコニーが設置されていた下御隠殿橋に名付けられていた「御隠殿」に関する記述があった。
輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山管領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所である。
御隠殿の創建年代は明らかではないが、幕府編纂の絵図『御府内沿革図書』には、宝暦三年(一七五三)七月に「百姓地四反一畝」を買い上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。
敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。また、谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。慶応四年(一八六八)五月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。根岸薬師寺 寺・神社・教会
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御隠殿跡を奥に入って見ると、根岸薬師寺の表示があった
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細い路地を進んで行くと、路地には似つかない洋風の建物があった
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門扉の奥には。書道博物館の文字が
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区立の書道博物館だった
島崎藤村や夏目漱石らの作品の挿絵や雑誌『ホトトギス』の表紙を描いた事で知られる画家・中村不折の旧宅台東区立書道博物館 美術館・博物館
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中村不折旧宅(書道博物館) 案内板
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書道博物館とは通りを面して子規庵の住居があった
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子規庵の中庭を覗いて見た
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子規庵の塀に案内板があった
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子規庵の玄関
コロナ禍の期間閉鎖されていたが、HPに再開のお知らせがあった
2023年04月21日 子規庵再開のお知らせ https://shikian.or.jp/子規庵 名所・史跡
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子規庵の居室と庭の花の写真が掲示してあった
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小さな住居と正岡子規が毎日眺めていただろう庭が見れた。
糸瓜の黄色い花が咲いていた -
子規庵と書道博物館がある細い路地を後にした
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細い路地を道なりに進むと線路沿いの道に出て鶯谷駅に行けた。
鶯谷駅からは線路沿いに進み、細い路地に入り進むと、この子規庵の表示が見える -
牡丹、藤、ネモフィラ及びツツジ等の花を愛で、文豪の住んで居た場所からの風景は埋め立てられビル群へと変わりはしていたが、下町情緒の残る商店街や由緒ある史跡・名所を見て回れて、有意義な一日を過ごせた。
鶯谷駅のホームにあった観光案内を見ながら帰途に就いた鶯谷駅 駅
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