2023/02/05 - 2023/02/05
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gianiさん
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2023/02/05
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大分を大友氏が代々整備したなら、
宗麟は臼杵に本拠地を移し、30年かけて街の礎を据えました。
大友宗麟ストーカー紀行の最終回です。
江戸時代は一貫して稲葉氏が統治し、美しい町並み(景観)今日に残しました。
小室哲哉元夫人KEIKOの出身地です。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
1556年、26歳の大友宗麟は、
府内(大分市)から臼杵へ移動しました。
臼杵湾に浮かぶ丹生島に城を築きます。 -
画面は1580年頃の陸地です。中央の丹生島に臼杵城が浮かんでいます。
左側は臼杵川の河口で、中州が存在します。 -
現在の臼杵城
上の画面ではライトで潰れている地点(城の左端)からの景観。
丹生島は海に浮かぶ岩山で、天然の要塞でした。 -
1580年の画面で、臼杵川河口部分(一番左のライトで潰れている部分)には松島、その南に森島が浮かんでいます。写真は現在の姿。橋の先は旧松島、右奥の建物が旧森島。
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宗麟は東大寺の高僧を招聘して、森島に寺を建てます。本土との間に大きな橋を架けたので、大橋寺と呼ばれます。
大橋寺 寺・神社・教会
-
境内には、宗麟夫人の墓があります。
西南戦争時には、警視隊の本陣にもなりました。 -
臼杵には、南蛮船も寄港します。
唐人町も隣接し、中国との貿易でも栄えました。 -
松島の対岸には、教会を始めとするキリスト教施設が並び、
日本初の修道士養成機関もありました。 -
島津配下の日向攻略も見据えて臼杵入りした宗麟でしたが、日向侵攻は失敗に終わり、基盤が揺らぎ始めます。
1586年には島津勢に臼杵を包囲され、籠城するまでに。その際、日本で初めて大砲を実戦に登用し、効果を上げました。国崩しと呼ばれ、怖れられた兵器です。
島津氏から逃れるために秀吉の軍門に下り、翌年に亡くなります。
1593年に大友氏は改易され、福原直高が臼杵入りします。 -
リーフデ号漂着(1600)
臼杵の黒島にオランダ船リーデフ号が漂着。乗組員には、ヤン・ヨーステン、ウイリアム・アダムス(三浦按針)らがいました。
写真は、船首を飾ったレリーフ(複製)。
オランダが生んだ偉人、エラスムスです。黒島キャンプ場 キャンプ場
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稲葉貞通入府
関ヶ原後、春日局と親戚関係にある稲葉貞通(離婚した夫とは別人物)が臼杵藩5万石へ移封され、明治まで代々支配します。稲葉氏は、現在見られるような城下町を整備しました。 -
美濃郡上八幡から臼杵入府に先立ち、貞通は家臣を商人(醸造職)に化けさせ、臼杵で一年程探索を命じます。副産物として、臼杵が酒造りに適していることが分かり、入府後には酒造業が栄えました。
カニ醤油は、蟹ではなく、美濃の可児です。 -
1640年の地図。
だいぶ埋立が進み、大橋寺のある森島も陸続きになっています。
お城の前を堀川(堀)が走り、城と陸続きは2本の線に限定されています。 -
殆どの寺社は、稲葉家統治時代に創建されました。
福良天満宮もそのひとつ。福良天満宮 寺・神社・教会
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臼杵の町並みを紹介する際に用いられる代表的構図。
左の建物は、お寺の跡です。旧真光寺 名所・史跡
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向かいは、旧片桐家屋敷。
剣豪片桐八三郎の宅でしたが、西南戦争臼杵の戦いで戦死しました。 -
洋館(?)もすてき。
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稲葉氏の入府後、臼杵城の本丸・および天守閣は標高が低くなだらかな斜面の西側が選ばれた。防衛よりも利便重視の選択は、世相が平和へ進んでいることの裏返しだった。
臼杵城跡(臼杵公園) 名所・史跡
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小藩林立の豊後国で5万石は破格。稲葉氏は外様ながら春日局の親戚という事もあり、将軍の娘が輿入りするなど譜代扱いされた。
写真は大分郡の地図。黄色い部分が臼杵藩の領地。臼杵周辺の土地では足りず、大野川右岸を中心に4つの飛び地が存在する。一つの村が複数の藩に分割されることもザラでだった。キリシタン大名大友宗麟の旧領という事もあり、事務的取り締まりは厳しかった。幕府から、いずれかの寺院の檀家になることが義務付けられたが、養子縁組・婚姻で他藩へ移動しても旧領の檀家でも構わなかった。でも、豊後はローカルルールで、藩を跨いで移動する際は、移動先の寺院の檀家になることが要求され、キリシタン監視体制を万全にした。 -
1887年(M.20)の臼杵。
だいぶ埋立も進み、現在の様子に近づいています。
この画面は、臼杵市観光交流プラザのディスプレイで観られます。臼杵市観光交流プラザ 名所・史跡
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稲葉家下屋敷(1902年築)
明治政府は旧大名家を華族にカテゴライズし、東京に居住することを義務付けました。とはいえ、旧領との繋がりは健在で、帰省する必要も生じます。その際の別宅として建設されたものです。旧臼杵藩主稲葉家下屋敷 名所・史跡
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屋敷前の水路には、鯉が泳いでいます。
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典型的な武家屋敷の間取りです。
右の表玄関は客を通す入口で、控室・座敷(写真)などのフォーマルな用を足します。
表玄関の左隣は日常使用する内玄関で、居間、台所、使用人室、仏間、当主座敷などが配置されます。 -
邸内には、寛永4年(1627)の地図が飾られていました。
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サーラ・デ・うすきの隣りにある鑰屋カニ醤油。
店舗を移動せず、400年以上醸造業を営む、県下最古の味噌醤油店です。
白壁が黒ずむ部分があるのは麹菌ではなく、空襲対策で墨で黒く塗った跡です。
先ほども触れましたが、カニ醤油合資会社 専門店
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稲葉貞通が臼杵へ移封される1年前に、臼杵が安全な地域かどうかを確認すべく、家臣の可児孫右衛門に偵察を命じました。現地で醸造職に姿を変えたのが始まりで、子息の可児伝蔵が商売を続け、今に至ります。
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小手川酒造
1855年(安政2年)創業の酒蔵。生産量は多くありませんが、伝統的製法を守り続けます。作家の野上(旧姓小手川)弥生子は、創業者の姪に当たります。小手川酒造 名所・史跡
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向かいには、小手川商店が。
小手川酒造が閑期に造っていた味噌醤油部門が独立しました。
実は九州最大手、フンドーキン醤油の創業地です。
ここのランチはオススメデス。
ちなみにKEIKOも親戚筋です。小手川商店 グルメ・レストラン
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分銅と創業者金次郎の1字を採ったフンドーキン醤油。
臼杵川の中州に世界最大の熟成用木樽があります。
松島の先に伸びた中州です。 -
2014年の地図。
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おまけ
旧市街の床屋さんの看板。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11817835
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