2023/03/02 - 2023/03/02
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gianiさん
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にかほ市の金浦・象潟地区を回ります。
元陸軍士官の白瀬矗は鋼のような強靭な精神力を持つ人物でしたが、
日露戦争以降精神主義へ傾いた陸軍とは一線を画し、部下とその家族の命を預かる士官・ダメ上司の下で全滅の危機に面した過去の経験を大いに活かしました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、旧金浦(このうら)町。北前船の寄港地でもありました。
金浦の探検家白瀬矗について学びます。
ミュージアムブームが始まる数十年前から続く施設です。白瀬南極探険隊記念館 美術館・博物館
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白瀬矗の生涯
1861年に真宗浄蓮寺の跡取り息子として誕生。冒険好きの腕白少年だった。寺子屋では探検の話も学び、11歳の時に北極のことを知り、極地探検家を志す。寺子屋の教師佐々木節斎は、冒険と探検の違いを諭し5つの戒めを与える。すなわち、酒・煙草・茶・湯・暖房を断つことである。そして初志を貫くよう諭した。 -
陸軍入隊
18歳の時に実家の寺を継ぐべく、浅草の真宗本願寺に入門。しかし探検の志を捨てられず2か月で飛び出し、陸軍学校(下士官養成課程)に入校。名前も矗に改める。20歳で卒業し、仙台へ赴任。この年に結婚し、翌年には後に陸軍大将になる児玉源太郎と出会う。
※矗:直という字を3つ重ねていることからわかるように、真っ直ぐ・そびえたつというニュアンスがある。 -
千島探検(1893-95)
29歳の時に児玉源太郎と再会。北極探検への熱い想いを伝えると、まずは千島樺太探検から始めることをアドバイスする。
3年後の1893年に、郡司成忠(幸田露伴の実兄)大尉率いる千島探検隊に参加する。植民を前提とした探検で、千島列島最北端の占守島での越冬生活が任務だった。ロシアと結んだ千島樺太交換条約によりカムチャツカ半島の手前までが日本の領土だったが、厳しい自然条件ゆえに、江戸時代に進出していた南側しか植民(実効支配)が及んでいなかった。 -
郡司は知識不足で、国境を守るという情熱だけで動き、写真のような手漕ぎカッター船(いわゆるボート)5艘で航海し、八戸沖で2隻と乗組員を損失。函館で体勢を立て直し、現地へは民間船や軍船をはしごして向かう羽目に。
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途中の島に留守居隊を残して占守島で最初の冬を越した後、日清戦争の勃発に伴い、郡司以下に召集がかかり、白瀬ら6人が現地に残ります。準備不足が災いして、途中の島に残した隊員は越冬できずに全滅したことを郡司は知ります。白瀬らも2度目の越冬は壊血病に苦しみ、3人死亡、一人ノイローゼ状態、白瀬も瀕死の状態で翌夏に民間船で救出されます。結局、日清戦争には従軍できませんでした。
※探検は国益にかなっていたとはいえ、軍や国家の任務ではありませんでした。日清戦争に参加できなかったことは、退役軍人としてのキャリアに大きな穴を開けてしまいました。 -
ナンセンの北極探検(1893-96)
白瀬が千島探検に参加していた当時、北極探検をリードしていたのはお膝元のノルウェーでした。1893年にナンセンが船底が半円型をした(流氷に押しつぶされない)フラム号に乗って北極点を目指します。船を降りてスキーで北極点を目指すも断念。この後も、ノルウェーは偉人を輩出しますが、いずれも十分な準備と無謀なことは決してしない。そんな人たちでした。 -
日露戦争(1904-05)
当時43歳と高齢(もちろん予備役)だったにもかかわらず召集・参戦。1905年1月の黒溝台の会戦では、名誉の負傷。中尉に昇進する。 -
こちらが叙位辞令。
総理大臣桂太郎の名前と印も。前線ではなく、戦士を支える兵站(輸送部隊)だったとわかります。日清戦争では郡司の父親の代行で現地に残りましたが、日本が苦戦した日露戦争での従軍履歴は後に大いに役立ちます。 -
南極探検の準備
帰国後、北極探検の準備を進めますが、1909年にアメリカ人のピアリーが北極点に到達し、白瀬ら探検家は目標を南極点に(文字通りの180度)切り替えます。
1910年1月に帝国議会に10万円の援助を求めますが、引き出せたのは貴族院議員の寄付(ポケットマネー)3万円だけでした。ただ衆議院で大隈重信の賛同を得たことは、大きな収穫でした。 -
メディアの協力
スコットやアムンセンがそうだったように、白瀬は個人事業として探検に取り組みました。毎日・朝日といった新聞社に営業をかけ、世論に発信しました。5月に成功雑誌社の村上俊蔵は、『探検世界』に大隈の寄稿を掲載(写真)。その後は白瀬の寄稿を掲載しました。彼は後述の後援会の専務理事を務め、終始援助します。 -
隊員募集
スコットやアムンセンが国の援助をそれなりに受けたのとは対照的に、白瀬は個人事業として取り組みました。毎日・朝日といった新聞社に営業をかけ、世論に発信しました。
早くも、英国スコット隊は5月に出港します。その時白瀬は、隊員のリクルートを始めました。書記長の多田恵一、船長の野村直吉を採用。野村は、白瀬一族の出身地能登の出身で、地元金浦湊で北前船を操船する命がけの航海で経験を積んだ歴戦の猛者です。一般隊員は7月3日より募集し、身体強健にして係累なき者が応募条件。暗にハイリスクを強調。8/7に隊員はそろいます。 -
企画展では、資金や資材調達などの苦労をクローズアップしています。
満を期して7月5日に大隈重信が演説を行い、南極探検後援会が組織されました。国民に義援金を募集します。会長の大隈は国民の人気が高く、首相経験者かつ伯爵でもあり、彼の登場は大きな効果を出します。メディアでは12日に朝日新聞社との契約が結ばれ、5千円の出資と様々な宣伝記事を掲載しました。日露戦争の英雄で、国民の人気絶大な乃木大将も賛同の意を表明します。 -
諸問題(用船取得・スポンサー撤退)
出港は8/15予定でしたが、肝心の船を調達できませんでした。海軍へ軍船の払い下げを申請していましたが、9/17に却下。探検に参加するはずだった学術調査員が辞退。10/20には、不足額を大隈と折半する約束だった朝日新聞社がスポンサーの撤退表明。アムンセン隊も、8月に出港していました。 -
開南丸(写真)で出港
白瀬は千島探検の郡司を頼り、25000円で新造船を調達(探検後には2万円で売却)。補強工事や蒸気機関を設置するなどの改造を施したとはいえ、前述の軍船は改装費10万円だったので、大きな資金圧縮です。日露戦争の英雄統合元帥に「開南丸」と命名してもらいます。全長30m、排水量200t、出力18PS。
11/28に出港します。翌1911年2月8日にニュージーランドに寄港し南極を目指すも、3/14に南緯74度の地点で氷海に阻まれ、シドニーへ撤退します。
※スコット隊は1/3,アムンセン隊は1/14に南極ロス海に到着。 -
こちらは世界最強イギリス。スコット隊の用船。
格式を重んじ、ラテン語でテラノバ(新しい大地)号と命名された。全長50m、排水量750t、蒸気機関の出力不明。スポンサー契約上、豪州まで随行する客船でパトロン対応(サービス)に追われ、テラノバ号にはほとんどいなかったそうです。
1911年1月に南極上陸。 -
こちらは、ノルウェー・アムンセン隊のフラム(前進)号。
全長39m、排水量402t、石油機関付き。極地探検用に作られた船。北極探検でスポンサーを募ったので、北極へ航海するするふりをし、騙されたスポンサーが追いかけられない遠洋で進路変更しました。白瀬に限らず、皆苦労しています。
1911年1月に南極上陸。 -
こちらは開南丸船尾部分の実物大模型。
スペックを比較してわかるように、本当に小さくてシンプルな船です。
現地でアムンセンが目にした際に、よくもこんな船で乗り付けたものだと驚いています。 -
断面を見ても、小さいです。
船体は肋骨を挟んだ二重構造、表面は鋼板で覆われています。 -
船長のスペース。上が寝床。本当に狭いです。彼は帰国後も、一流の航海士として活躍しました。
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暴風圏
白瀬隊は2月にニュージーランドに寄港し、「吠える(南緯)40度、狂う50度、絶叫する60度」と呼ばれる暴風圏を突破し、3/14には南緯74度まで到達しますが、氷に阻まれ、一旦シドニーへ戻ります。
一方のスコット隊やアムンセン隊はキャンプを張って、入念にルート調査を続けます。 -
白瀬は、5/1-11/19までの(南半球の)冬季をシドニーで過ごします。寄生虫が原因で全滅したカラフト犬の調達、不足資金の用立て、詳細を報告するために多田書記長と野村船長を日本へ派遣します。シドニーからの電報(写真)を受け取った大隈は、探検の目的を南極点一番乗りではなく、学術調査に変えるよう指示します。素晴らしい政治判断です。
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8月号の探検世界では、2月11日にNZウェリントンに寄港した開南丸の写真が掲載されました。多田が一時帰国に際して持参したものかと思われます。電報以外にリアルタイムで交信できなかった、当時の通信事情を物語ります。証拠写真としても重要な意味を持ちました。
※南極点到達の証拠として、アムンセンはノルウェー国王宛の親書を現地に残し、スコットが持ち帰るよう取り決めています。白瀬隊の南極到達は、帰路のアムンセンが現地で遭遇したというコメントを寄港地ニュージーランドで発することで証明されました。 -
白豪主義政策真っ只中のオーストラリアでは、パスポートを持参していたにもかかわらずスパイ容疑をかけられることから始まり、人種差別に苦しみます。そんな白瀬隊を新聞紙上で擁護し援助したのが、シドニー大学地質学科教授のデービッド博士でした。学術調査や探検に有用な助言を受けた白瀬は、恩人との餞別に武人軍人の魂である日本刀を贈っています。
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いざ南極へ
11/16に多田らが援助物資を持って帰還、11/19にシドニーを出港して、夏の南極を目指します。翌1912年1/16南極に到着し、前年12/14に南極点到達を果たしたアムンセン隊と遭遇します。
南極点を目指す突進隊は白瀬ら5名で構成され、28頭のカラフト犬が引く橇で1/20に出発。 -
1/28午前11時、これ以上の前進は無理と判断し、武田学術部長が緯度を計測。南緯80度5分でした。日章旗を立て、大和雪原と命名、領有を宣言しました。開南丸は6/20に横浜港へ帰港しました。急な天候変化で、カラフト犬20頭を現地へ残す苦渋の決断も伴いましたが、全員無事帰還というのは快挙と絶賛されました。
※スコット隊は1/17に南極点に到達するも生還できず、救助隊を含めて多くの隊員が犠牲になります。ただ、1年間の学術調査の功績は、偉大です。アムンセン隊は、全員無事帰国を果たしています。 -
学術調査
南極点を目指す突進隊、鯨湾の本拠地を守る本隊、そのほかに専ら学術調査を行う沿岸調査隊9名が組織され、多くの調査が行われました。日本へ持ち帰られたものには、実物以外にも写真、動画も含まれています。 -
波乱の帰国後
英雄として名声と、さらなる探検を実行したアムンセン。白瀬はというと、探検後1913年に資金管理団体だった後援会が清算すると、大幅な支出超過。しかも、後援会が4万5千円を遊興費に流用していたと判明。白瀬は責任を取り、現在で2億円相当の借金を背負います。家財一式を売り払い、妻と次女を伴い、全国で南極で撮影したフィルム映画を上映して、返済生活を送ります。 -
1921年に白瀬は、農務省から千島列島での養狐事業の一環を託されます。現地での3年間は、温泉や海の幸、アイヌとの交流を通して、初めて妻への孝行を果たします。写真右は、1922年の辞令。左は、1915年7月の講演スケジュール。秋田県北部の地名が並びます。
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1935年、74歳の時に自力で借金を完済します。矗は1946年、妻のやすは1951年に死去します。写真は、晩年のツーショット。臨終の間際に白瀬はマッカーサーに手紙を送り、大和雪原の領土の確認を取っています。最後まで軍人として国益を忘れない生涯でした。そして南極へ残したカラフト犬の供養も欠かしませんでした。
※のちに、洋上であり、そもそも領有権が発生しなかったことが判明。 -
白瀬の遺志は、1956年以降の南極観測参入で引き継がれます。1957年には、カラフト犬15頭を南極に残す悲劇が発生しましたが、2年後にタロとジロが生存しており、映画にもなりました。
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左上:昭和基地。皆が知っている南極観測の拠点、1957年に東オングル島に開設。
右上:みずほ基地。1970年開設。1986年以降は無人で、山小屋的ポジション。
左下:あすか基地。1986年開設、1992年閉鎖、バブルの産物。気象観測地点。
右下:ドームふじ基地。厚さ3000mの氷の上に立つ。夏期のみ稼働。-79.7℃を記録。1995年開設。 -
南極の地図
日本の基地はケープタウン沖にあることがわかります。一方のシドニー沖には、白瀬隊の大和雪原などが位置します。南極点には、アメリカのアムンセン・スコット基地があります。 -
観測船
日本と昭和基地を往復する船舶で海自所属。初代は宗谷、2代目はふじですが、氷に閉じ込められてソ連船に救助してもらうことも。3,4代目はしらせで、砕氷船です。海軍からの伝統で名所旧跡を艦名にするので、人名ではなく南極の白瀬氷河に因んでいるというのが建前。 -
日本も調印している南極条約によって、学術調査を主とする平和利用、領有権主張の無効が原則です。5億年前は、超大陸ゴンドワナの一部で、約2億年前に現在の形へ分離し始めた。南極大陸では、温暖な環境で生息する生物の化石が見つかっている。
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南極と人のかかわり
1773年にイギリス海軍のジェームズ・クックが南極を一周する。領土的魅力はないが、海獣が多く生息しているとの報告を受け、1775年以降、海獣ハンターが毛皮・ 肉・脂を求めて慌ただしくなる。大陸自体はほぼ未開だった。 -
南極点調査(1968-69)
9月に昭和基地を発ち、3か月かけて南極点のアムンセン・スコット基地に到着。帰路は2か月。村山隊は、アムンセンから数えて陸路で南極点に到達した9番目の部隊だった。写真は、当時の雪上車。 -
冒険と探検は、意味が全然違うという認識が重要。
いすゞ自動車ボディを小松製作所がアレンジで、万全の体制。4t積の橇をけん引しました。4台で進みました。 -
内部はこんな感じ。空軍の輸送機に準ずる感じです。壁が薄いのにびっくりしました。4人乗りです。
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企画展で、白瀬隊とペンギンを特集していました。
こちらは書記長の多田恵一氏が、帰国した年に出版した書籍。
片吟(ぺんぎん)鳥の初捕獲(1911.2.17)
補給で立ち寄ったニュージーランドの博物館で、剥製を既に見ていたそうです。
捕獲時の感想:人間が雨具を着て歩くような風采と描写。写真は、清水光太郎機関長とペンギン。 -
片吟7羽と記念撮影(1912.1.5)
シドニーを発って南極へ向かう途中。ペンギンの滑稽極まる態度に心を奪われたそうです。アデリーペンギンです。 -
帝王片吟(コウテイペンギン)初見参(1912.1.18)
鯨湾に着いて、上陸地点を探しているときの出来事。ちなみに、2人ではとても運べず(体長100㎝以上)、橇が必要とのこと。 -
エントランスには、昭和基地のライブカメラ。
白瀬は、現在満160歳。 -
JR金浦駅の近くに、白瀬の実家があります。
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白瀬矗の墓
実家の浄蓮寺の墓地の丘の上にありました。西尾市で絶命して埋葬されましたが、のちに分骨されています。岸信介の揮毫。 -
路線バスで、象潟へ。
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道の駅で下車。いざ6階の展望台へ。
道の駅象潟「ねむの丘」 道の駅
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九十九島の景観を堪能します。無料です。右前には、鳥海山。
天然記念物「象潟」九十九島 自然・景勝地
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BC466年(2500年前)の鳥海山の噴火で、25km離れた象潟まで火砕流が到達。日本海を覆いました。
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奥の細道の象潟
火砕流と沿岸流が湾の出入り口をふさぎ、水深の浅い潟湖(象潟湖)となっています。象潟という地名通り、芭蕉が訪れた際は、水面に無数の島が浮かぶ松島のような景観でした。 -
ところが、文化元年7月4日(1804年)にマグニチュード7以上の象潟大地震が発生し、地面が平均2m隆起し、象潟湖は消滅、陸地化しました。隆起部分は新田と呼ばれ、特性を生かして水田となりました。
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5月に田植えを迎えると、こんな景観。潟湖を彷彿とさせる景観です。
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道の駅に隣接するにかほっとには、無料の足湯もあります。
にかほっと 名所・史跡
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芭蕉が観光の基点にした古刹。
蚶満寺 寺・神社・教会
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弁天島等の名前が付けられています。
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こちらは、駒留島。
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お昼は、静かなお店で。
といっても、夏の岩ガキのシーズンには予約でいっぱいになるお店です。新よし グルメ・レストラン
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ゴールは象潟駅。
酒田まで1時間です。象潟駅 駅
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おまけ
白瀬の犬ぞり部隊を任されたのは、山辺安之助(写真左。アイヌ名:ヨマネクフッ)と花守信吉(写真右。アイヌ名:シシラトカ)でした。地元金浦で廻船業を営んでいた佐々木平次郎が樺太で漁場を経営していた縁で、採用されました。
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https://4travel.jp/travelogue/11815261
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