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翌日は台風が夜に来るので慌てて有福温泉を撤収したが、昼までは大丈夫なので金城の島村抱月の墓や浜田城、外ノ浦を回った。印象に残ったのは浜田城だ。最後の城主の松平武聴は、1866年の第二次長州征伐における石州口の戦いで長州藩に敗れた。そのため「自焼退城」という道を選び浜田城は喪失したのだそうだ。今考えると実に惜しい話でもある。 

石見の国、益田と浜田、有福を巡る:7浜田城と外ノ浦海岸を散策

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2022/09/17 - 2022/09/18

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旅行記グループ 石見の旅

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worldspan

worldspanさん

翌日は台風が夜に来るので慌てて有福温泉を撤収したが、昼までは大丈夫なので金城の島村抱月の墓や浜田城、外ノ浦を回った。印象に残ったのは浜田城だ。最後の城主の松平武聴は、1866年の第二次長州征伐における石州口の戦いで長州藩に敗れた。そのため「自焼退城」という道を選び浜田城は喪失したのだそうだ。今考えると実に惜しい話でもある。 

  • 有福温泉を出発したあとに向かったのが浜田市街ではなく、山間部へと車を向けた。訪れたのは浄光寺だ。

    有福温泉を出発したあとに向かったのが浜田市街ではなく、山間部へと車を向けた。訪れたのは浄光寺だ。

  • 島村抱月はこの周辺で生まれ育った。個人的には「作家」としての印象が強い人物。

    島村抱月はこの周辺で生まれ育った。個人的には「作家」としての印象が強い人物。

    島村抱月の墓(浄光寺) 名所・史跡

  • 1918年に47歳で亡くなり、その後雑司が谷の墓地とこちらの浄光寺に分骨されたが、現在はこちらに集約され、家族とともに眠っている。

    1918年に47歳で亡くなり、その後雑司が谷の墓地とこちらの浄光寺に分骨されたが、現在はこちらに集約され、家族とともに眠っている。

  • 観光客は誰もいないのでゆっくり見ることができた。

    観光客は誰もいないのでゆっくり見ることができた。

  • 浄光寺の本堂の扉は閉まっており残念ながら拝観することはできなかった。

    浄光寺の本堂の扉は閉まっており残念ながら拝観することはできなかった。

  • 浄光寺からの眺めはのどかだ。

    浄光寺からの眺めはのどかだ。

  • 浄光寺の楓

    浄光寺の楓

  • 金城には田んぼアートがあるが、この田んぼだけだ。

    金城には田んぼアートがあるが、この田んぼだけだ。

  • 田んぼアートのすぐ近くにある光超寺。この寺院を目指して田んぼアートに訪れると良い。台風が近づいているので浜田市の山間部のエクスカーションはこのぐらいにして、浜田市内に向けた。

    田んぼアートのすぐ近くにある光超寺。この寺院を目指して田んぼアートに訪れると良い。台風が近づいているので浜田市の山間部のエクスカーションはこのぐらいにして、浜田市内に向けた。

  • 台風が近づいているので昼までしか時間がないので大急ぎで見て回ったわけだが、訪れたのは外ノ浦

    台風が近づいているので昼までしか時間がないので大急ぎで見て回ったわけだが、訪れたのは外ノ浦

    外ノ浦海岸 自然・景勝地

  • 海へ岬のように突き出た場所に一つの記念碑が建てられている。それは会津屋八右衛門の碑だ。<br />

    海へ岬のように突き出た場所に一つの記念碑が建てられている。それは会津屋八右衛門の碑だ。

  • 八右衛門の父は浜田藩の貿易を担っていたが、彼の船が積荷を載せたまま難破し全てを失うこととなった。

    八右衛門の父は浜田藩の貿易を担っていたが、彼の船が積荷を載せたまま難破し全てを失うこととなった。

    会津屋八右衛門頌徳碑 名所・史跡

  • しかし八右衛門は家の復興と、当時の困窮した財政を立て直すべく家老らと密談し竹島を拠点に東南アジアへの密航による密貿易で幕府と八右衛門は富を得、名を会津屋に改めた。

    しかし八右衛門は家の復興と、当時の困窮した財政を立て直すべく家老らと密談し竹島を拠点に東南アジアへの密航による密貿易で幕府と八右衛門は富を得、名を会津屋に改めた。

  • しかし間宮林蔵が密偵の命を受け、抜け荷を暴き、八右衛門は江戸で死罪、家老は自刃となった。<br />しかし地元では海の男と崇められ、こうして碑ができた。

    しかし間宮林蔵が密偵の命を受け、抜け荷を暴き、八右衛門は江戸で死罪、家老は自刃となった。
    しかし地元では海の男と崇められ、こうして碑ができた。

  • これだけ波が穏やかなのだから北前船の寄港地というのも納得だ。

    これだけ波が穏やかなのだから北前船の寄港地というのも納得だ。

  • 天然の要害<br />日本海は特に冬になると波が高く荒れることがあるが、外ノ浦は荒波どころか波すら立っていない。まるで池のようだ。

    天然の要害
    日本海は特に冬になると波が高く荒れることがあるが、外ノ浦は荒波どころか波すら立っていない。まるで池のようだ。

  • 外ノ浦に横を向いた神社がある

    外ノ浦に横を向いた神社がある

  • それは1711年に松原浦心覚院の二世隆禅和尚により外ノ浦に、海上の安全を祈念して創建された金毘羅神社だ。

    それは1711年に松原浦心覚院の二世隆禅和尚により外ノ浦に、海上の安全を祈念して創建された金毘羅神社だ。

    金毘羅神社(外ノ浦) 寺・神社・教会

    金毘羅神社(外ノ浦) by worldspanさん
  • 鳥居をくぐると拝殿がある。

    鳥居をくぐると拝殿がある。

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿は斜めになった岩の上に作られており、拝観するこちら側が心配になるほど不安定な場所に作られている。

    本殿は斜めになった岩の上に作られており、拝観するこちら側が心配になるほど不安定な場所に作られている。

  • 金毘羅神社も外ノ浦のかな奥にあるが、海は更に内陸の方へと続いていく

    金毘羅神社も外ノ浦のかな奥にあるが、海は更に内陸の方へと続いていく

  • この付近になると民家もある

    この付近になると民家もある

  • 山の中の池のように見えるが、実はこれも日本海。外ノ浦はかなり入り組んだ場所まで海が入ってきており、まるでリアス式海岸のようだ

    山の中の池のように見えるが、実はこれも日本海。外ノ浦はかなり入り組んだ場所まで海が入ってきており、まるでリアス式海岸のようだ

  • 浜田城資料館にある駅すずモニュメント。12代藩主松平康定が松阪の本居宣長に送ったと言われる駅鈴をもして作られた。

    浜田城資料館にある駅すずモニュメント。12代藩主松平康定が松阪の本居宣長に送ったと言われる駅鈴をもして作られた。

  • 浜田城資料館の建物は「御便殿」と呼ばれ、時の東宮殿下(後の大正天皇)が明治40年(1907)に山陰に行かれた際、浜田に立ち寄られ、その際に宿泊施設として、建築されたものだ。現在は資料館として使われているが、それにふさわしい建築物でもある

    浜田城資料館の建物は「御便殿」と呼ばれ、時の東宮殿下(後の大正天皇)が明治40年(1907)に山陰に行かれた際、浜田に立ち寄られ、その際に宿泊施設として、建築されたものだ。現在は資料館として使われているが、それにふさわしい建築物でもある

    浜田城資料館 美術館・博物館

  • 資料館横には無料駐車場があり、そこから浜田城に登ることができる。

    資料館横には無料駐車場があり、そこから浜田城に登ることができる。

    浜田城跡 名所・史跡

  • 登り坂は結構急で攻めての戦意を喪失させる

    登り坂は結構急で攻めての戦意を喪失させる

  • 中腹、おそらく二の丸付近になるだろうか、立派な護國神社がある。護國神社としてはこじんまりとしているが、さすがに、「護國神社」だけあって、威厳と風格がある神社だ。建立されたのは昭和13年(1939)年と比較的新しい部類になるのではないだろうか。

    中腹、おそらく二の丸付近になるだろうか、立派な護國神社がある。護國神社としてはこじんまりとしているが、さすがに、「護國神社」だけあって、威厳と風格がある神社だ。建立されたのは昭和13年(1939)年と比較的新しい部類になるのではないだろうか。

  • その近くには浜田藩追懐の碑がある。

    その近くには浜田藩追懐の碑がある。

  • 本丸へと二の丸から登っていく途中にある立派な門が浜田県庁の門と呼ばれるもの。そもそもこの城門は津和野城のものだったが、それを津和野県庁に移設され、更に浜田県庁に移設されたという経緯がある。浜田県庁の城門は浜田城の一番の見所だろう

    本丸へと二の丸から登っていく途中にある立派な門が浜田県庁の門と呼ばれるもの。そもそもこの城門は津和野城のものだったが、それを津和野県庁に移設され、更に浜田県庁に移設されたという経緯がある。浜田県庁の城門は浜田城の一番の見所だろう

    浜田城山公園 公園・植物園

  • まだ登らなければならないのか、というほど階段を上がっていく。敵兵ならもう諦めの境地だ。

    まだ登らなければならないのか、というほど階段を上がっていく。敵兵ならもう諦めの境地だ。

  • 平山城なのでここまで敵方が攻めてくるのにもかなりくせんするだろう。ここを抜けるとやっと本丸に手が届く。しかし。。。

    平山城なのでここまで敵方が攻めてくるのにもかなりくせんするだろう。ここを抜けるとやっと本丸に手が届く。しかし。。。

  • そこに待ち構えるのはなんと桝形虎口。<br />本丸の手前にある桝形虎口は悲惨だ。ここに敵が入ると、四方を城壁や建物に囲まれているため銃弾や矢を雨のように降らせ敵を殺しまくる場所だ。

    そこに待ち構えるのはなんと桝形虎口。
    本丸の手前にある桝形虎口は悲惨だ。ここに敵が入ると、四方を城壁や建物に囲まれているため銃弾や矢を雨のように降らせ敵を殺しまくる場所だ。

    浜田城跡 名所・史跡

  • 浜田城から外ノ浦に入港する船を見下ろせるので、北前船の監視が可能だ。

    浜田城から外ノ浦に入港する船を見下ろせるので、北前船の監視が可能だ。

  • 浜田城の本丸があった場所

    浜田城の本丸があった場所

  • 港だけでなく、周辺の船の様子も監視できる。浜田城は素晴らしい立地に作られている。

    港だけでなく、周辺の船の様子も監視できる。浜田城は素晴らしい立地に作られている。

  • 現在の浜田港を望む

    現在の浜田港を望む

  • 浜田城には戦争に関わる記念碑が多く建てられている

    浜田城には戦争に関わる記念碑が多く建てられている

  • こちらもだ。

    こちらもだ。

  • 陸軍歩兵二等卒喇叭手、日清戦争で戦死を遂げた木口小平の銅像。突撃のラッパを吹いているときに狙撃を受け銃弾が命中し落命した。<br /><br />銃撃を受けてもなおも立ち上がり突撃の合図を送り続けたその勇姿は当時の国民の中でも英雄となったのだそうだ。

    陸軍歩兵二等卒喇叭手、日清戦争で戦死を遂げた木口小平の銅像。突撃のラッパを吹いているときに狙撃を受け銃弾が命中し落命した。

    銃撃を受けてもなおも立ち上がり突撃の合図を送り続けたその勇姿は当時の国民の中でも英雄となったのだそうだ。

  • 護國神社の手水舎

    護國神社の手水舎

  • 浜田城を降りて、浜田市内へ。

    浜田城を降りて、浜田市内へ。

  • レンタカーを元の駐車場に戻し駅前で昼食をとった。昼食は豆狸(まめだ)にて。こちらは板わさ。

    レンタカーを元の駐車場に戻し駅前で昼食をとった。昼食は豆狸(まめだ)にて。こちらは板わさ。

    豆狸 グルメ・レストラン

  • 浜田と言えば新鮮な魚が有名。

    浜田と言えば新鮮な魚が有名。

  • そのため刺身定食を食べたが、アジやブリ(ハマチ?)などどの魚も美味しく食べるべることができた。中とろの入っておりこれはおすすめだ

    そのため刺身定食を食べたが、アジやブリ(ハマチ?)などどの魚も美味しく食べるべることができた。中とろの入っておりこれはおすすめだ

  • 浜田駅から徒歩数分の場所にあるもち吉の浜田店。ここのお店の看板商品と言えばやはりせんべいだが、あえてフィナンシェを選んだ。このフィナンシェは米粉をメインに使われたスイーツでバターと砂糖で味付けをしている。米粉のせいか意外とあっさりした感じだ。

    浜田駅から徒歩数分の場所にあるもち吉の浜田店。ここのお店の看板商品と言えばやはりせんべいだが、あえてフィナンシェを選んだ。このフィナンシェは米粉をメインに使われたスイーツでバターと砂糖で味付けをしている。米粉のせいか意外とあっさりした感じだ。

    もち吉 浜田店 グルメ・レストラン

  • 浜田駅まで戻ってきた。こちらは広島・浜田間の高速バスを走らせる石見交通の切符売り場と待合室が一緒になった場所

    浜田駅まで戻ってきた。こちらは広島・浜田間の高速バスを走らせる石見交通の切符売り場と待合室が一緒になった場所

    石見交通(路線バス) 乗り物

  • こちらが石見交通のバス

    こちらが石見交通のバス

    浜田駅

  • 広島方面のバスは一番のりばから出発する

    広島方面のバスは一番のりばから出発する

  • いさりび号は広島と浜田間を結ぶ高速バスで広電バス、石見交通・中国ジェイアールバスの三社共同運航便で走っている。今回復路は中国JRバスに乗車した

    いさりび号は広島と浜田間を結ぶ高速バスで広電バス、石見交通・中国ジェイアールバスの三社共同運航便で走っている。今回復路は中国JRバスに乗車した

    いさりび号 乗り物

  • 約2時間で結んでいるためトイレの設備はなかった。3社で一番お勧めなのが中国ジェイアールバス。シートピッチが広く乗り心地が良い。 <br />

    約2時間で結んでいるためトイレの設備はなかった。3社で一番お勧めなのが中国ジェイアールバス。シートピッチが広く乗り心地が良い。

  • 広電バスには机やフットレストがついてなかったが中国JRバスには装備されている

    広電バスには机やフットレストがついてなかったが中国JRバスには装備されている

  • 広島県まで戻ってきたが何とか雨がふるまでに戻ることができた

    広島県まで戻ってきたが何とか雨がふるまでに戻ることができた

  • 大塚駅につく頃には流石に雨が降り始めたが大雨にならぬ間に戻れてよかった。

    大塚駅につく頃には流石に雨が降り始めたが大雨にならぬ間に戻れてよかった。

    アストラムライン (電車) 乗り物

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