奄美大島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「奄美紬村」の見学が終わるとちょうどお昼になり、バスは「ひさ倉」という鶏飯の専門店に向かいます。車で入るには国道58号線沿いなので利用しやすいようで、待っている人もたくさん並んでいます。こういう時はツアーは便利で、奥に用意された席にすぐに座ることが出来ます。テーブルにはお櫃に入ったご飯と鉄鍋には熱々のお出汁が用意されています。丼にご飯を盛って、鶏飯の具材を乗せてお出しを注ぎます。お茶漬け感覚でいただく鶏飯はさっぱりしたお味で、お腹がホッとするのが分かります。こんなに食べられるかなと思いましたが、大きな丼におかわりして2杯食べてしまいました。ここで食事された上皇ご夫婦は美味しかったので「今一度。」とおかわりされたそうです。最終日のお昼にはもってこいの料理だと思いました。食事の後は最後の立ち寄り先の「奄美パーク」に向かいます。ほとんど奄美空港の近くというか、以前空港だった跡地に建てられた施設です。最初にシャコガイをイメージした巨大なドームに案内されて施設の説明を受けました。ここでも目的は「田中一村記念美術館」だったので、まずはこちらに向かいます。10数年程前にここへ行った方に絵葉書を送ってもらい、それ以来いつか来たいと思っていた場所に来ることが出来ました。妻も興味のあった作家なので一緒に鑑賞できて良かったです。有名な作品も素晴らしいですが、子供の頃の非凡な才能を感じさせる作品や、鉄斎風の南画の作品にも惹かれました。美術館の見学の後は妻と別れて、奄美の植物が並ぶ「一村の杜」を歩きました。作品の中に描かれた植物が並び、ここも楽しく見学出来ました。一番奥にある展望台からの景色も素晴らしかったですが、隣接する空港が見えてしまうと旅も終わりだと感じます。バスに戻る前に妻が係りの人と何か話していて、何やらあきらめた様子でした。バスに乗り込んでシートベルトをしているとその係員の方が本を1冊持って走ってきました。それは非売品の本で、先ほど買い求めたティディベアの物語が写真集になったものでした。最後の1冊が事務所にあったと届けてくれたのでした。この本は良く出来ていて、最後の思い出になりました。空港で最後の絵葉書を書いていると妻とはぐれてしまいました。先に2階に上がったのかとエスカレーターに乗ると、奄美パールの広告があり、1階の到着ロビーにお店があると書かれてあります。果たして行ってみるとすでに商談中でした。若い頃にお世話になった方がマベパールの美しい指輪をされていていつかは欲しいと思っていたそうです。結局気に入ったものが無くて買い求めませんでしたが、ハート形のペンダントがいいなと思いました。羽田行きの機内でいただいた本をティディベアの本を見ていると、まさにそのパールのネックレスをティディベアがしていました。ここだけが後の祭りでしたが、短いながら奄美の人との出会いもあり楽しい旅でした。

クラブツーリズムいも~れ奄美大島3日間(5)「ひさ倉」で鶏飯を”今一度”いただき、奄美パークの「田中一村記念美術館」で念願の作品と対峙する。

18いいね!

2022/10/26 - 2022/10/26

651位(同エリア1515件中)

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100

kojikoji

kojikojiさん

「奄美紬村」の見学が終わるとちょうどお昼になり、バスは「ひさ倉」という鶏飯の専門店に向かいます。車で入るには国道58号線沿いなので利用しやすいようで、待っている人もたくさん並んでいます。こういう時はツアーは便利で、奥に用意された席にすぐに座ることが出来ます。テーブルにはお櫃に入ったご飯と鉄鍋には熱々のお出汁が用意されています。丼にご飯を盛って、鶏飯の具材を乗せてお出しを注ぎます。お茶漬け感覚でいただく鶏飯はさっぱりしたお味で、お腹がホッとするのが分かります。こんなに食べられるかなと思いましたが、大きな丼におかわりして2杯食べてしまいました。ここで食事された上皇ご夫婦は美味しかったので「今一度。」とおかわりされたそうです。最終日のお昼にはもってこいの料理だと思いました。食事の後は最後の立ち寄り先の「奄美パーク」に向かいます。ほとんど奄美空港の近くというか、以前空港だった跡地に建てられた施設です。最初にシャコガイをイメージした巨大なドームに案内されて施設の説明を受けました。ここでも目的は「田中一村記念美術館」だったので、まずはこちらに向かいます。10数年程前にここへ行った方に絵葉書を送ってもらい、それ以来いつか来たいと思っていた場所に来ることが出来ました。妻も興味のあった作家なので一緒に鑑賞できて良かったです。有名な作品も素晴らしいですが、子供の頃の非凡な才能を感じさせる作品や、鉄斎風の南画の作品にも惹かれました。美術館の見学の後は妻と別れて、奄美の植物が並ぶ「一村の杜」を歩きました。作品の中に描かれた植物が並び、ここも楽しく見学出来ました。一番奥にある展望台からの景色も素晴らしかったですが、隣接する空港が見えてしまうと旅も終わりだと感じます。バスに戻る前に妻が係りの人と何か話していて、何やらあきらめた様子でした。バスに乗り込んでシートベルトをしているとその係員の方が本を1冊持って走ってきました。それは非売品の本で、先ほど買い求めたティディベアの物語が写真集になったものでした。最後の1冊が事務所にあったと届けてくれたのでした。この本は良く出来ていて、最後の思い出になりました。空港で最後の絵葉書を書いていると妻とはぐれてしまいました。先に2階に上がったのかとエスカレーターに乗ると、奄美パールの広告があり、1階の到着ロビーにお店があると書かれてあります。果たして行ってみるとすでに商談中でした。若い頃にお世話になった方がマベパールの美しい指輪をされていていつかは欲しいと思っていたそうです。結局気に入ったものが無くて買い求めませんでしたが、ハート形のペンダントがいいなと思いました。羽田行きの機内でいただいた本をティディベアの本を見ていると、まさにそのパールのネックレスをティディベアがしていました。ここだけが後の祭りでしたが、短いながら奄美の人との出会いもあり楽しい旅でした。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
近畿日本ツーリスト

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  • 最後の昼食は名瀬市の方向へ少し戻った鶏飯の専門店の「ひさ倉」という店でした。ちょうどお昼時なので表まで並んでいる人がいました。

    最後の昼食は名瀬市の方向へ少し戻った鶏飯の専門店の「ひさ倉」という店でした。ちょうどお昼時なので表まで並んでいる人がいました。

    ひさ倉 グルメ・レストラン

    国道58号線沿いにある鶏飯専門のレストラン。いつもお客が並んでいる人気店。 by kojikojiさん
  • こういったときはツアーは便利で、客席の奥にツアー用の席が用意してあります。この店は昭和43年の1968年に上皇ご夫婦が皇太子時代に来島の際に御賞味され、大変喜ばれておかわりされたそうです。バスガイドさんの話しでは「おかわり」という言葉ではなく「今一度。」と言うそうです。

    こういったときはツアーは便利で、客席の奥にツアー用の席が用意してあります。この店は昭和43年の1968年に上皇ご夫婦が皇太子時代に来島の際に御賞味され、大変喜ばれておかわりされたそうです。バスガイドさんの話しでは「おかわり」という言葉ではなく「今一度。」と言うそうです。

  • すでに料理は席に置かれてありました。熱々のご飯をお櫃から丼によそいます。鶏飯(けいはん)は奄美群島で作られる郷土料理のことです。日本各地に郷土料理として存在する「とりめし」と同字異読なので混同されやすいですが、「とりめし」が炊き込みご飯や丼ものの形式に近いのに対し、「けいはん」はだし茶漬けに近い食べ物です。

    すでに料理は席に置かれてありました。熱々のご飯をお櫃から丼によそいます。鶏飯(けいはん)は奄美群島で作られる郷土料理のことです。日本各地に郷土料理として存在する「とりめし」と同字異読なので混同されやすいですが、「とりめし」が炊き込みご飯や丼ものの形式に近いのに対し、「けいはん」はだし茶漬けに近い食べ物です。

  • ほぐした鶏肉、錦糸卵、椎茸、パパイヤ漬けなどの具材と葱、きざみ海苔、、白胡麻などの薬味をのせ、鶏がらではなく丸鶏を煮て取ったスープをかけて食べます。

    ほぐした鶏肉、錦糸卵、椎茸、パパイヤ漬けなどの具材と葱、きざみ海苔、、白胡麻などの薬味をのせ、鶏がらではなく丸鶏を煮て取ったスープをかけて食べます。

  • 具材を丼のご飯に適宜盛り付けて、テーブルの中欧に置かれた鉄鍋の中の熱々のスープを掛けます。

    具材を丼のご飯に適宜盛り付けて、テーブルの中欧に置かれた鉄鍋の中の熱々のスープを掛けます。

  • スープは大目にかけた方が良いというか、途中でも足していただきました

    スープは大目にかけた方が良いというか、途中でも足していただきました

  • 最後はやっぱりビールだよねということで、遅れて注文しました。旅先での疲れた胃腸には優しい食べ物でした。最終日のお昼ご飯にはもってこいの料理です。とは言いながら丼2杯おかわりして食べてしまいました。ちなみにご飯とお出汁はおかわり自由で追加できます。

    最後はやっぱりビールだよねということで、遅れて注文しました。旅先での疲れた胃腸には優しい食べ物でした。最終日のお昼ご飯にはもってこいの料理です。とは言いながら丼2杯おかわりして食べてしまいました。ちなみにご飯とお出汁はおかわり自由で追加できます。

  • 厨房では大きな寸胴で丸鶏が煮込まれています。これでは美味しいなと思ってしまいます。

    厨房では大きな寸胴で丸鶏が煮込まれています。これでは美味しいなと思ってしまいます。

  • お客さんがどんどん入って来るので厨房では注文を捌いていて手が止まることはありません。

    お客さんがどんどん入って来るので厨房では注文を捌いていて手が止まることはありません。

  • ここでは50分の食事時間がありましたが、食べ終わるとすることも無いので出発時間が少し早まりました。

    ここでは50分の食事時間がありましたが、食べ終わるとすることも無いので出発時間が少し早まりました。

  • 大河ドラマ「せごどん」は面白かったです。昨年遅れに鹿児島を旅した時は知覧の武家屋敷や鹿児島市内の仙厳園などロケで使われたところを何か所か訪ねました。奄美大島ではロケ地を直接訪ねることはありませんでしたが、ドラマのことを思い出しました。

    大河ドラマ「せごどん」は面白かったです。昨年遅れに鹿児島を旅した時は知覧の武家屋敷や鹿児島市内の仙厳園などロケで使われたところを何か所か訪ねました。奄美大島ではロケ地を直接訪ねることはありませんでしたが、ドラマのことを思い出しました。

  • 安政5年の1858年の安政の大獄で幕府から追われた西郷は攘夷派の僧の月照と錦江湾に飛び込みますが一命をとりとめます。その時西郷を助けた方の子孫の方とは何年か一緒に仕事をさせていただいたことがありました。西郷は島流しに合いますが、罪人としての「遠島」ではなく幕府の目を逃れる「潜居」でした。名前を菊池源吾と変えて藩から禄を貰ってこの龍郷で借家暮らしをはじめます。

    安政5年の1858年の安政の大獄で幕府から追われた西郷は攘夷派の僧の月照と錦江湾に飛び込みますが一命をとりとめます。その時西郷を助けた方の子孫の方とは何年か一緒に仕事をさせていただいたことがありました。西郷は島流しに合いますが、罪人としての「遠島」ではなく幕府の目を逃れる「潜居」でした。名前を菊池源吾と変えて藩から禄を貰ってこの龍郷で借家暮らしをはじめます。

  • 愛加那とは安政6年の1859年に結婚して島妻とします。愛加那の父は龍郷の名家「龍」家の一族の龍佐恵志(りゅうさえし)で、母は枝加那といいました。幼名は於戸間金(おとまがね)といいました。「於」は尊称で「戸間」が名前で「金」は加那の古称で「子」に当たる意味です。西郷と結婚した際に「愛」の名を与えられ、愛加那となります。「加那」は「かわいい」とか「いとおしい」の意味です。

    愛加那とは安政6年の1859年に結婚して島妻とします。愛加那の父は龍郷の名家「龍」家の一族の龍佐恵志(りゅうさえし)で、母は枝加那といいました。幼名は於戸間金(おとまがね)といいました。「於」は尊称で「戸間」が名前で「金」は加那の古称で「子」に当たる意味です。西郷と結婚した際に「愛」の名を与えられ、愛加那となります。「加那」は「かわいい」とか「いとおしい」の意味です。

  • バスは行ったり来たりなので「大島紬村」の前を通り抜けて「奄美パーク」に向かいます。

    バスは行ったり来たりなので「大島紬村」の前を通り抜けて「奄美パーク」に向かいます。

  • 今回のツアーの最後の立ち寄り先「奄美パーク」に到着しました。入り口には高倉が再現されています。

    今回のツアーの最後の立ち寄り先「奄美パーク」に到着しました。入り口には高倉が再現されています。

    鹿児島県奄美パーク テーマパーク

  • バスはシャコガイをイメージした「奄美の郷」というドームの前に停まりました。まずは全員でドームに入って、係員の方から説明を受けます。

    バスはシャコガイをイメージした「奄美の郷」というドームの前に停まりました。まずは全員でドームに入って、係員の方から説明を受けます。

  • リュウキュウマツを使った美しいトラス組の天井です。説明を聞きながらも滞在時間が1時間30分しかないので早くこの場を去りたい気分です。

    リュウキュウマツを使った美しいトラス組の天井です。説明を聞きながらも滞在時間が1時間30分しかないので早くこの場を去りたい気分です。

  • 説明が終わったのでまずは「田中一村記念美術館」に向かいます。この美術館を観るために2人やってきたと言っても過言ではありません。

    説明が終わったのでまずは「田中一村記念美術館」に向かいます。この美術館を観るために2人やってきたと言っても過言ではありません。

  • 右手には巨大な展望台が見えますが、まずは一番の目的である美術館へ急ぎます。

    右手には巨大な展望台が見えますが、まずは一番の目的である美術館へ急ぎます。

  • 念願の「田中一村記念博物館」に入場します。館内は驚くほどガラガラで、個人で来られている観光客が数名いらっしゃるくらいです。我々のツアーの方でも数名しか見学に来られなかったようです。

    念願の「田中一村記念博物館」に入場します。館内は驚くほどガラガラで、個人で来られている観光客が数名いらっしゃるくらいです。我々のツアーの方でも数名しか見学に来られなかったようです。

    田中一村記念美術館 美術館・博物館

  • 館内は写真撮影禁止なので手持ちの古い本や絵葉書を写真に撮り直しました。田中一村については以前より気になっていましたが、実際に描かれた作品を観るのは初めてのことです。有名な作品は記憶に残っていますが、子供の頃から絵が上手かったのには驚きました。この「蛤図」は9歳の時に描かれています。

    館内は写真撮影禁止なので手持ちの古い本や絵葉書を写真に撮り直しました。田中一村については以前より気になっていましたが、実際に描かれた作品を観るのは初めてのことです。有名な作品は記憶に残っていますが、子供の頃から絵が上手かったのには驚きました。この「蛤図」は9歳の時に描かれています。

  • 「僊桃(せんとう)」は16歳の頃に描かれています。清朝末期の書家趙之謙(ちょうしけん)の「花卉屏聯(かきびょうれん)」の「仙桃」を倣っています。画面の「延喜萬歳」は長寿を意味し、書体も趙之謙風に書かれています。

    「僊桃(せんとう)」は16歳の頃に描かれています。清朝末期の書家趙之謙(ちょうしけん)の「花卉屏聯(かきびょうれん)」の「仙桃」を倣っています。画面の「延喜萬歳」は長寿を意味し、書体も趙之謙風に書かれています。

  • 「艶鞠図」は19歳の作品です。賛には中国清代の花鳥画家の惲寿平(うんじゅへい)に詩が書かれていました。現代のようにネットやカラー写真の書物など無い時代にどうやって知識を得たのかと思ってしまいます。<br />

    「艶鞠図」は19歳の作品です。賛には中国清代の花鳥画家の惲寿平(うんじゅへい)に詩が書かれていました。現代のようにネットやカラー写真の書物など無い時代にどうやって知識を得たのかと思ってしまいます。

  • 23歳の頃に南画とは決別して新たな道を模索しますが、今回初めて一村の南画のすばらしさに驚きました。独学で学んだ南画の世界は、富岡鐵斎風であったり、趙之謙、呉昌碩風とその画風は自由自在でした。<br />「秋色」は千葉に移り住んだ頃に自宅周辺の景観を描いたもので、山芋の葉を見ると蔓を目で追って芋がどこに埋まっているのだろうかと考えてしまいます。

    23歳の頃に南画とは決別して新たな道を模索しますが、今回初めて一村の南画のすばらしさに驚きました。独学で学んだ南画の世界は、富岡鐵斎風であったり、趙之謙、呉昌碩風とその画風は自由自在でした。
    「秋色」は千葉に移り住んだ頃に自宅周辺の景観を描いたもので、山芋の葉を見ると蔓を目で追って芋がどこに埋まっているのだろうかと考えてしまいます。

  • 「大熊風景」現在の名瀬大熊町の風景です。ここには一村が染色工として働いていた紡工場がありました。こんな風景画を描いていたのかと新鮮な驚きとともに、これは与謝蕪村の「夜色楼台図」へのオマージュに思えました。それとエゴン・シーレの描いた母の出身地であるチェスキー・クロムロフを描いた風景も想像させました。

    「大熊風景」現在の名瀬大熊町の風景です。ここには一村が染色工として働いていた紡工場がありました。こんな風景画を描いていたのかと新鮮な驚きとともに、これは与謝蕪村の「夜色楼台図」へのオマージュに思えました。それとエゴン・シーレの描いた母の出身地であるチェスキー・クロムロフを描いた風景も想像させました。

  • 「奄美の海に蘇鉄とアダン」は奄美に移住した後の52歳の作品です。3日間と短い奄美の旅でしたが、その道中で見てきた風景が凝縮されているように思えます。海の中には「神岩」がそびえていますが、この構図などは奄美に来ていなければ何とも思わなかったと思います。中世の宗教画の様な空気遠近法で描かれた背景のような、ダリの描くシュールレアリズム絵画のようにも見えます。

    「奄美の海に蘇鉄とアダン」は奄美に移住した後の52歳の作品です。3日間と短い奄美の旅でしたが、その道中で見てきた風景が凝縮されているように思えます。海の中には「神岩」がそびえていますが、この構図などは奄美に来ていなければ何とも思わなかったと思います。中世の宗教画の様な空気遠近法で描かれた背景のような、ダリの描くシュールレアリズム絵画のようにも見えます。

  • 「奄美の海に蘇鉄とアダン」の蘇鉄の雌花も今回の旅で知って、初めて目にしたものでした。雌しべを構成するたくさんの大胞子葉(だいほうしよう)の柔らかな感じがよく表されています。

    「奄美の海に蘇鉄とアダン」の蘇鉄の雌花も今回の旅で知って、初めて目にしたものでした。雌しべを構成するたくさんの大胞子葉(だいほうしよう)の柔らかな感じがよく表されています。

  • 「アダンと小舟」アダンの実を初めて知ったのは23歳の長期の沖縄出張の時で、思い出のある実です。今は食べることは無いですが、その時に知り合った職人さんに「太平洋戦争中は食べるものが無くて、この実をアク抜きして食べたんですよ。」と教えていただきました。

    「アダンと小舟」アダンの実を初めて知ったのは23歳の長期の沖縄出張の時で、思い出のある実です。今は食べることは無いですが、その時に知り合った職人さんに「太平洋戦争中は食べるものが無くて、この実をアク抜きして食べたんですよ。」と教えていただきました。

  • 「草花と岩上の赤髭」垂らし込みの技法で描かれた岩の上にとまる赤髭に視線が向かいます。今回の旅ではほとんど鳥の姿を見るとこはありませんでした。赤髭は夏場に奄美大島や徳之島、男女群島とトカラ列島で繁殖し、冬季になると先島諸島へ移動します。<br />

    「草花と岩上の赤髭」垂らし込みの技法で描かれた岩の上にとまる赤髭に視線が向かいます。今回の旅ではほとんど鳥の姿を見るとこはありませんでした。赤髭は夏場に奄美大島や徳之島、男女群島とトカラ列島で繁殖し、冬季になると先島諸島へ移動します。

  • 「初夏の海に赤翡翠」一村は赤翡翠(あかしょうびん)がよほど好きだったようで、数々の作品に描かれています。美術館のガラスケースにはスケッチしたものも展示されていました。足元に咲くハマユウの花にも思い出があります。カンボジアのシェムリアップにあるアンコール・ビレッジというホテルの池にはこの花がいつも咲いていました。ずっと名前が分からなかったのですが、マレーシア周遊の旅で一緒だった宮崎県のおばさんが「あら、ハマユウ。」とおっしゃって名前が分かりました。ハマユウは宮崎県の県花でしたが、グーグルレンズの無かった頃はいろいろ苦労しました。

    「初夏の海に赤翡翠」一村は赤翡翠(あかしょうびん)がよほど好きだったようで、数々の作品に描かれています。美術館のガラスケースにはスケッチしたものも展示されていました。足元に咲くハマユウの花にも思い出があります。カンボジアのシェムリアップにあるアンコール・ビレッジというホテルの池にはこの花がいつも咲いていました。ずっと名前が分からなかったのですが、マレーシア周遊の旅で一緒だった宮崎県のおばさんが「あら、ハマユウ。」とおっしゃって名前が分かりました。ハマユウは宮崎県の県花でしたが、グーグルレンズの無かった頃はいろいろ苦労しました。

  • 森林に生息するカワセミの仲間で、燃えるような赤いくちばしと体全体が赤色を持つことから、火の鳥の異名を持っています。奄美大島の地方名ではクッカルといい、漢字の「翡翠」は本来青いカワセミを指しますが、色の異なるショウビンにも熟字訓として用いられます。

    森林に生息するカワセミの仲間で、燃えるような赤いくちばしと体全体が赤色を持つことから、火の鳥の異名を持っています。奄美大島の地方名ではクッカルといい、漢字の「翡翠」は本来青いカワセミを指しますが、色の異なるショウビンにも熟字訓として用いられます。

  • 「蘇鐡残照図」この時期の一村は画家として生涯最後の絵を描くために奄美大島にいることを実感していたようです。そして作品を携えて東京で勝負を付けようと考えていました。

    「蘇鐡残照図」この時期の一村は画家として生涯最後の絵を描くために奄美大島にいることを実感していたようです。そして作品を携えて東京で勝負を付けようと考えていました。

  • 「岩上赤翡翠」この作品のリアルな赤翡翠(あかしょうびん)と不思議な赤い岩肌を見ているとシュルレアリズム絵画のように見えてきます。頭に浮かんだのはダリの「ダリ「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」でした。

    「岩上赤翡翠」この作品のリアルな赤翡翠(あかしょうびん)と不思議な赤い岩肌を見ているとシュルレアリズム絵画のように見えてきます。頭に浮かんだのはダリの「ダリ「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」でした。

  • 赤翡翠(あかしょうびん)は体長は約27センチメートルで、翼開長は約40センチメートルと比較的大きなカワセミです。森林に生息するのが特徴でもっぱら石や枝の上から獲物を狙うそうです。渓流に飛び込んで魚やカエル、サワガニ、水生昆虫などをとらえますが、一村の画中の赤翡翠は精神世界の中に身を置いているかのような視線をしています。

    赤翡翠(あかしょうびん)は体長は約27センチメートルで、翼開長は約40センチメートルと比較的大きなカワセミです。森林に生息するのが特徴でもっぱら石や枝の上から獲物を狙うそうです。渓流に飛び込んで魚やカエル、サワガニ、水生昆虫などをとらえますが、一村の画中の赤翡翠は精神世界の中に身を置いているかのような視線をしています。

  • 「奄美の郷に褄紅蝶」ビロウの葉の間から延びたヒシバデイゴの赤い花に遊ぶ雌雄の褄紅蝶が目に止まります。ブーゲンビリアやリュウゼツランの葉も見て取れます。何気ない景色の中に絶妙な調和を感じます。

    「奄美の郷に褄紅蝶」ビロウの葉の間から延びたヒシバデイゴの赤い花に遊ぶ雌雄の褄紅蝶が目に止まります。ブーゲンビリアやリュウゼツランの葉も見て取れます。何気ない景色の中に絶妙な調和を感じます。

  • 「枇榔樹の森に崑崙花」ビロウは平安時代の王朝や天皇制においては松竹梅よりも神聖視された植物で、公卿に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材にも用いられました。天皇の代替わり式である大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられます。

    「枇榔樹の森に崑崙花」ビロウは平安時代の王朝や天皇制においては松竹梅よりも神聖視された植物で、公卿に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材にも用いられました。天皇の代替わり式である大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられます。

  • 崑崙花という名前の由来は、白い苞が神々の住むところとされた崑崙山に積もる雪のようだというところから名付けられたそうです。

    崑崙花という名前の由来は、白い苞が神々の住むところとされた崑崙山に積もる雪のようだというところから名付けられたそうです。

  • 「枇榔と浜木綿」上下左右に広がるビロウの葉は風にそよいでいるように見えます。ビロウに扇の原型で、その扇は風に関する呪具であったと考えられています。民俗学的には奄美や沖縄の御嶽には広くビロウ(クバ)が植えられており、ビロウの木の下が拝所になっています。

    「枇榔と浜木綿」上下左右に広がるビロウの葉は風にそよいでいるように見えます。ビロウに扇の原型で、その扇は風に関する呪具であったと考えられています。民俗学的には奄美や沖縄の御嶽には広くビロウ(クバ)が植えられており、ビロウの木の下が拝所になっています。

  • 「アダンの浜辺」を描く数年前に大きな転機となったのが一村の恩人と姉の喜美子死だったそうです。戻る場所を失った一村は自ら「画業10年計画」を立案し実行します。その内容は5年働き、3年描き2年働いて個展の費用を作るというものだったそうです。

    「アダンの浜辺」を描く数年前に大きな転機となったのが一村の恩人と姉の喜美子死だったそうです。戻る場所を失った一村は自ら「画業10年計画」を立案し実行します。その内容は5年働き、3年描き2年働いて個展の費用を作るというものだったそうです。

  • 「閻魔大王への土産品」と一村が手紙に書き残したように、晩年の一村が納得いくまで、とことん取り組み執念を実らせた作品だったそうです。この作品を気に入ってはいたようですが、浜辺の小石は気に入ってなかったようです。

    「閻魔大王への土産品」と一村が手紙に書き残したように、晩年の一村が納得いくまで、とことん取り組み執念を実らせた作品だったそうです。この作品を気に入ってはいたようですが、浜辺の小石は気に入ってなかったようです。

  • 「榕樹に虎みゝずく」榕樹はガジュマルのことで、「アランガチの滝」からの移動で見たガジュマルとケンムンの話しを思い出しました。ガジュマルの気根(きこん)はこの絵のように定規で線を引いたようにまっすぐ伸びます。カンボジアの森の中の遺跡でその正確さに驚いたことがあります。

    「榕樹に虎みゝずく」榕樹はガジュマルのことで、「アランガチの滝」からの移動で見たガジュマルとケンムンの話しを思い出しました。ガジュマルの気根(きこん)はこの絵のように定規で線を引いたようにまっすぐ伸びます。カンボジアの森の中の遺跡でその正確さに驚いたことがあります。

  • 「不喰芋と蘇鐡」も大好きな作品です。息が詰まりそうな画面構成ですが、今回の旅で見た蘇鉄の雄花と雌花が美しく描かれています。大きな葉のクワズイモのみずみずしさも伝わって来るようです。そして遠景の神岩。<br />

    「不喰芋と蘇鐡」も大好きな作品です。息が詰まりそうな画面構成ですが、今回の旅で見た蘇鉄の雄花と雌花が美しく描かれています。大きな葉のクワズイモのみずみずしさも伝わって来るようです。そして遠景の神岩。

  • 田中一村はよくアンリ・ルソーと比較されますが、確かにオルセー美術館で観た「蛇使いの女」や「赤道上のジャングル」などの作品が目に浮かびます。ルソーは19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家ですが、キュビスムやシュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界が魅力的です。

    田中一村はよくアンリ・ルソーと比較されますが、確かにオルセー美術館で観た「蛇使いの女」や「赤道上のジャングル」などの作品が目に浮かびます。ルソーは19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家ですが、キュビスムやシュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界が魅力的です。

  • 「海老と熱帯魚」今回の旅では最初の晩にアオブダイやコショウダイ、翌日にはイセエビもいただきました。一村の見た奄美の風景を追体験しただけではなく、味覚も追体験できたのだろうかと考えてしまいます。

    「海老と熱帯魚」今回の旅では最初の晩にアオブダイやコショウダイ、翌日にはイセエビもいただきました。一村の見た奄美の風景を追体験しただけではなく、味覚も追体験できたのだろうかと考えてしまいます。

  • 「田中一村記念美術館」の建築は高倉が集合した奄美独特の集落の姿を再現して高床になっています。奄美の素材をふんだんに使用した建築の中で、展示室の中も高倉をイメージした木組みの天井になっています。トップライトからの強い光を一旦和紙で受け取り、館内に拡散しているのを見て妻と共通の知人である和紙作家の堀木えり子さんを思い出しました東京に帰ってから調べてみるとご本人の作品でした。和紙には地元のサトウキビ繊維や大島紬糸などが漉き込まれているそうです。

    「田中一村記念美術館」の建築は高倉が集合した奄美独特の集落の姿を再現して高床になっています。奄美の素材をふんだんに使用した建築の中で、展示室の中も高倉をイメージした木組みの天井になっています。トップライトからの強い光を一旦和紙で受け取り、館内に拡散しているのを見て妻と共通の知人である和紙作家の堀木えり子さんを思い出しました東京に帰ってから調べてみるとご本人の作品でした。和紙には地元のサトウキビ繊維や大島紬糸などが漉き込まれているそうです。

  • 館内では唯一「田中一村像」だけが撮影が可能でした。奄美大島に入って約2年後の昭和35年の1960年に描いたとみられる風景画などの色紙9点が昨年奄美市名瀬の大島寺で見つかったというニュースがありました。一村と親交があった先代住職の故恵照さんの書斎を整理した際に封筒に入った状態で、「昭和35年頃画ノベンキョウシナサイト見本ヲ書イテクレタ 田中一村(孝)ノ画」と記した覚書が貼られていたそうです。山水画風の風景画7点と花や月を描いた2点で、それぞれ南宋の画家の夏珪や蕪村などを倣ったものでした。その色紙も美術館に展示してありました。<br />https://www.youtube.com/watch?v=TN2tr5ICXME

    館内では唯一「田中一村像」だけが撮影が可能でした。奄美大島に入って約2年後の昭和35年の1960年に描いたとみられる風景画などの色紙9点が昨年奄美市名瀬の大島寺で見つかったというニュースがありました。一村と親交があった先代住職の故恵照さんの書斎を整理した際に封筒に入った状態で、「昭和35年頃画ノベンキョウシナサイト見本ヲ書イテクレタ 田中一村(孝)ノ画」と記した覚書が貼られていたそうです。山水画風の風景画7点と花や月を描いた2点で、それぞれ南宋の画家の夏珪や蕪村などを倣ったものでした。その色紙も美術館に展示してありました。
    https://www.youtube.com/watch?v=TN2tr5ICXME

  • 美術館の入り口の脇にアクリルケースに入った赤翡翠の剥製が置かれてありました。実際にその姿を見るのは初めてでしたし、その大きさも実感できました受付の方の「それは写真を撮っても大丈夫ですか?」と尋ねると「カバーを外しましょう。」と取り外してくださいました。

    美術館の入り口の脇にアクリルケースに入った赤翡翠の剥製が置かれてありました。実際にその姿を見るのは初めてでしたし、その大きさも実感できました受付の方の「それは写真を撮っても大丈夫ですか?」と尋ねると「カバーを外しましょう。」と取り外してくださいました。

  • 美術館を出ると一村が魅了された奄美大島の植物が植えられた「一村の杜」という庭園がありました。そちらを少し歩いてみることにします。まずは「月桃」の葉が生い茂っています。前の晩に行った「なつかしゃ屋」の惠上さんのことを思い出してしまいます。料理を乗せる大きな笊に敷かれた月桃の葉が美しかったです。

    美術館を出ると一村が魅了された奄美大島の植物が植えられた「一村の杜」という庭園がありました。そちらを少し歩いてみることにします。まずは「月桃」の葉が生い茂っています。前の晩に行った「なつかしゃ屋」の惠上さんのことを思い出してしまいます。料理を乗せる大きな笊に敷かれた月桃の葉が美しかったです。

  • 「サンタンカ(三弾花)」はここでは「イクソラ」と紹介されていました。基本的には同じ仲間ですが、属名のイクソラはヒンズー教のシヴァを意味するサンスクリット語の言葉をポルトガル語に訳したものと、カンボジアのプノンペンで教えてもらった情報より詳しいことを知ることが出来ました。

    「サンタンカ(三弾花)」はここでは「イクソラ」と紹介されていました。基本的には同じ仲間ですが、属名のイクソラはヒンズー教のシヴァを意味するサンスクリット語の言葉をポルトガル語に訳したものと、カンボジアのプノンペンで教えてもらった情報より詳しいことを知ることが出来ました。

  • 「シャリンバイ」は「大島紬村」にも植えてあった植物で、チップ状に幹を切って大島紬の染色に使われます。

    「シャリンバイ」は「大島紬村」にも植えてあった植物で、チップ状に幹を切って大島紬の染色に使われます。

  • 大きなガジュマルの木もありましたが、この施設が出来てまだ20年ほどなので森の中に生えているような迫力はまだ感じられません。

    大きなガジュマルの木もありましたが、この施設が出来てまだ20年ほどなので森の中に生えているような迫力はまだ感じられません。

  • 「ランタナ」がきれいな花をつけ、小さな実もなっています。和名はシチヘンゲ(七変化)で、鮮やかな色の花が次第に変化することに由来するそうです。世界の侵略的外来種ワースト100に選定されているので、ここに植えられているのではないかもしれません。

    「ランタナ」がきれいな花をつけ、小さな実もなっています。和名はシチヘンゲ(七変化)で、鮮やかな色の花が次第に変化することに由来するそうです。世界の侵略的外来種ワースト100に選定されているので、ここに植えられているのではないかもしれません。

  • 一村の絵の中から抜け出たような「クロツグ」という羽状複葉をつけるヤシの木です。

    一村の絵の中から抜け出たような「クロツグ」という羽状複葉をつけるヤシの木です。

  • 「クロトン」は「奄美の郷に褄紅蝶」の画中にも描かれています。

    「クロトン」は「奄美の郷に褄紅蝶」の画中にも描かれています。

  • 「蘇鉄」も美しい羽状複葉が輝いています。一村の絵画にもたくさん描かれていますが、琉球王国時代には琉球の王が救荒食としてソテツの栽培を奨励したと言われます。正しい加工処理をせずに食べたことで食中毒により死亡する者も多く、大正末期から昭和初期にかけての農業や経済的状況、戦争関連恐慌、干魃や不作などにより一部地方や島では重度の貧困と食糧不足に見舞われました。沖縄や奄美地域ではソテツ食中毒で死者を出すほどの悲惨な状況にまで陥り、これを指して「ソテツ地獄」と呼ばれたそうです。

    「蘇鉄」も美しい羽状複葉が輝いています。一村の絵画にもたくさん描かれていますが、琉球王国時代には琉球の王が救荒食としてソテツの栽培を奨励したと言われます。正しい加工処理をせずに食べたことで食中毒により死亡する者も多く、大正末期から昭和初期にかけての農業や経済的状況、戦争関連恐慌、干魃や不作などにより一部地方や島では重度の貧困と食糧不足に見舞われました。沖縄や奄美地域ではソテツ食中毒で死者を出すほどの悲惨な状況にまで陥り、これを指して「ソテツ地獄」と呼ばれたそうです。

  • 日本三大蘇鉄と言われる妙国寺の大蘇鉄は評判を聞いた織田信長は安土城に移し替えますが、夜になると蘇鉄から「妙国寺に帰ろう」という声がしたそうです。怒った信長は人足に蘇鉄を伐るよう命じましたが、伐ろうとする者は皆倒れてしまいます。信長はこの蘇鉄が霊木であることを悟り、妙国寺に返したといわれます。島津家は蘇鉄の木を諸藩の大名家や公家にも贈っています。高松の栗林公園にも立派な蘇鉄がありましたし、岡山の後楽園には広大な蘇鉄畑までありました。昨年の11月に京都の桂離宮に行った際には菰を巻いている作業を見ることが出来ました。<br />

    日本三大蘇鉄と言われる妙国寺の大蘇鉄は評判を聞いた織田信長は安土城に移し替えますが、夜になると蘇鉄から「妙国寺に帰ろう」という声がしたそうです。怒った信長は人足に蘇鉄を伐るよう命じましたが、伐ろうとする者は皆倒れてしまいます。信長はこの蘇鉄が霊木であることを悟り、妙国寺に返したといわれます。島津家は蘇鉄の木を諸藩の大名家や公家にも贈っています。高松の栗林公園にも立派な蘇鉄がありましたし、岡山の後楽園には広大な蘇鉄畑までありました。昨年の11月に京都の桂離宮に行った際には菰を巻いている作業を見ることが出来ました。

  • 「リュウキュウコクタン」リュウキュウコクタンの分布は沖縄本島と宮古島、八重山列島で奄美大島には分布していません。材は三線(サンシン)の棹として利用されます。奄美大島をバスで走っていると街路樹として植えられたこの木を見ることが出来ます。

    「リュウキュウコクタン」リュウキュウコクタンの分布は沖縄本島と宮古島、八重山列島で奄美大島には分布していません。材は三線(サンシン)の棹として利用されます。奄美大島をバスで走っていると街路樹として植えられたこの木を見ることが出来ます。

  • 大きな「アレカヤシ」も植えられています。ヤシは種類が多いので詳しくは分かりませんが、この木はマダガスカルが原産のようです。この辺りで歩き疲れた妻は「奄美の郷」のドームの方に戻ってしまいました。

    大きな「アレカヤシ」も植えられています。ヤシは種類が多いので詳しくは分かりませんが、この木はマダガスカルが原産のようです。この辺りで歩き疲れた妻は「奄美の郷」のドームの方に戻ってしまいました。

  • 「ミフクラギ」が実を付けていました。沖縄夾竹桃とも呼ばれる植物です。夾竹桃に毒があるのは有名ですが、この実にも毒素があってその樹液が目につくと腫れることからミフクラギ(目脹ら木)という名前になったそうです。

    「ミフクラギ」が実を付けていました。沖縄夾竹桃とも呼ばれる植物です。夾竹桃に毒があるのは有名ですが、この実にも毒素があってその樹液が目につくと腫れることからミフクラギ(目脹ら木)という名前になったそうです。

  • 夾竹桃は日本では西南戦争のときに官軍の兵が折った枝を箸代わりに利用して中毒したという話しが残っていますし、古くはアレクサンダー大王の兵士やフランス兵がバーベキューの串に使って中毒死した例があるほどの毒性があります。あまり良い印象の無い樹木ですが、広島市は原爆投下で75年間は草木も生えないといわれましたが、被爆焼土にいち早く咲いた花として原爆からの復興のシンボルとなり、広島市の花に指定されています。

    夾竹桃は日本では西南戦争のときに官軍の兵が折った枝を箸代わりに利用して中毒したという話しが残っていますし、古くはアレクサンダー大王の兵士やフランス兵がバーベキューの串に使って中毒死した例があるほどの毒性があります。あまり良い印象の無い樹木ですが、広島市は原爆投下で75年間は草木も生えないといわれましたが、被爆焼土にいち早く咲いた花として原爆からの復興のシンボルとなり、広島市の花に指定されています。

  • 敷地の一番奥には展望台の建物がありました。ここは海岸に近い場所なのできっと美しい海が見えると思い向かってみることにします。

    敷地の一番奥には展望台の建物がありました。ここは海岸に近い場所なのできっと美しい海が見えると思い向かってみることにします。

  • 途中に生えているタコノキには白くて大きな蕾が出来ていました。11月くらいまでが花の季節だそうです。

    途中に生えているタコノキには白くて大きな蕾が出来ていました。11月くらいまでが花の季節だそうです。

  • 花と言ってもこのような状態が少し進むと満開のようです。花の房はヘチマのあかすりのような姿をしています。

    花と言ってもこのような状態が少し進むと満開のようです。花の房はヘチマのあかすりのような姿をしています。

  • こんな感じでしたが、花が咲いた姿は初めて見ることが出来ました。田中一村はこの花を描いたのだろうかと考えながらも先を急ぎます。

    こんな感じでしたが、花が咲いた姿は初めて見ることが出来ました。田中一村はこの花を描いたのだろうかと考えながらも先を急ぎます。

  • 展望台のエレベーターには1階と2階のボタンしかありませんが、かなり時間のかかります。想像した通り景色は最高に美しかったです。3日間で走ってきた奄美大島の南部までが見渡せます。

    展望台のエレベーターには1階と2階のボタンしかありませんが、かなり時間のかかります。想像した通り景色は最高に美しかったです。3日間で走ってきた奄美大島の南部までが見渡せます。

  • ポカポカ陽気で美しい風景でしたが、翌日からは雨が続いたそうです。

    ポカポカ陽気で美しい風景でしたが、翌日からは雨が続いたそうです。

  • 手前には奄美大島が流されないように配置された「節田立神岩」らしき岩が見えます。今回の旅で初めて知った奄美大島の開闢神話の女神「阿摩弥姑(アマミコ)と男神「志仁礼久(シニレク)」など学ぶことはまだまだたくさんあります。

    手前には奄美大島が流されないように配置された「節田立神岩」らしき岩が見えます。今回の旅で初めて知った奄美大島の開闢神話の女神「阿摩弥姑(アマミコ)と男神「志仁礼久(シニレク)」など学ぶことはまだまだたくさんあります。

  • 展望台は4面がガラス張りになっていて、北側には以前使われていた滑走路が見えました。この古い空港は1964年から使われていましたが、滑走路延長の用地確保が進まず、現在位置に新空港を建設し1988年から海上を埋め立てた現在の空港が使われています。

    展望台は4面がガラス張りになっていて、北側には以前使われていた滑走路が見えました。この古い空港は1964年から使われていましたが、滑走路延長の用地確保が進まず、現在位置に新空港を建設し1988年から海上を埋め立てた現在の空港が使われています。

  • 海上には離着陸時に飛行機を誘導する飛行場灯火が並んでいます。沖合には喜界島が初日よりも美しい姿を見せてくれました。

    海上には離着陸時に飛行機を誘導する飛行場灯火が並んでいます。沖合には喜界島が初日よりも美しい姿を見せてくれました。

  • 沖合を巨大な貨物船が通過していきました。

    沖合を巨大な貨物船が通過していきました。

  • 奄美空港の管制塔も見えました。ここの見学が終わると後は空港へ向かうだけです。今回も充実した旅をすることが出来ましたが旅の終わりはいつも少し寂しい気分になります。

    奄美空港の管制塔も見えました。ここの見学が終わると後は空港へ向かうだけです。今回も充実した旅をすることが出来ましたが旅の終わりはいつも少し寂しい気分になります。

  • 「田中一村記念美術館」は外観の改修工事なのか足場で覆われていました。展望台の上に建つことで初めて高倉の様な外観を見ることが出来ました。

    「田中一村記念美術館」は外観の改修工事なのか足場で覆われていました。展望台の上に建つことで初めて高倉の様な外観を見ることが出来ました。

  • そろそろ妻のいるドームに戻ることにします。ここでの自由時間は90分でしたが、少し短かったので最後は駆け足になってしまいます。

    そろそろ妻のいるドームに戻ることにします。ここでの自由時間は90分でしたが、少し短かったので最後は駆け足になってしまいます。

  • アダンの実も一村の絵を観た後では今までと違って見えてきます。

    アダンの実も一村の絵を観た後では今までと違って見えてきます。

  • 「アオノリュウゼツラン」は別名センチュリープランツとも呼ばれており、100年に1回開花するという意味があります。実際には数十年で開花することが多いようで、開花した株は枯れてしまいます。

    「アオノリュウゼツラン」は別名センチュリープランツとも呼ばれており、100年に1回開花するという意味があります。実際には数十年で開花することが多いようで、開花した株は枯れてしまいます。

  • ドーム内にも総合展示ホールがあるのですが、残り10分の自由時間では見学出来そうもないので諦めます。一番奥にある「茅葺きのあまじいのヤー(家)」だけ外観を見ることにします。実際は中に入って見学することが出来ます。

    ドーム内にも総合展示ホールがあるのですが、残り10分の自由時間では見学出来そうもないので諦めます。一番奥にある「茅葺きのあまじいのヤー(家)」だけ外観を見ることにします。実際は中に入って見学することが出来ます。

  • 奄美大島南部の瀬戸内町の古志集落から移築した民家に、昔懐かしい遊び道具が揃っているそうです。このおじいさんは「あまじい」と呼ばれています。

    奄美大島南部の瀬戸内町の古志集落から移築した民家に、昔懐かしい遊び道具が揃っているそうです。このおじいさんは「あまじい」と呼ばれています。

  • 少し上がって昼寝でもしたい気分ですが、もう時間はありません。

    少し上がって昼寝でもしたい気分ですが、もう時間はありません。

  • 入り口わきにあったポストに昨日と今日の分の絵葉書を投函します。妻はここで「あまみっけ」という奄美観光物産協会が発行した絵本を貰おうとしましたが、近くにいたおばさんたちが貰った3冊で終わりだと言われガッカリしていました。バスに乗ってドアが閉まったところで、係りのお姉さんが走って出てきました。手には絵本を1冊持っています。「事務所に最後の1冊がありました。」と息を切らせて届けてくれました。

    入り口わきにあったポストに昨日と今日の分の絵葉書を投函します。妻はここで「あまみっけ」という奄美観光物産協会が発行した絵本を貰おうとしましたが、近くにいたおばさんたちが貰った3冊で終わりだと言われガッカリしていました。バスに乗ってドアが閉まったところで、係りのお姉さんが走って出てきました。手には絵本を1冊持っています。「事務所に最後の1冊がありました。」と息を切らせて届けてくれました。

  • 「あまみっけ」という奄美観光物産協会が発行した絵本は非売品だということでいただけました。そういえば「大島紬村」にも置いてあったような気がしましたが、何も教えてもらえませんでした。

    「あまみっけ」という奄美観光物産協会が発行した絵本は非売品だということでいただけました。そういえば「大島紬村」にも置いてあったような気がしましたが、何も教えてもらえませんでした。

  • 姿は少しやせていますが、泥染めの黒いボディに耳と手足の裏側が大島の伝統柄になっています。もちろんプリントではなくて本物です。ここで絵本とティディベアが繋がりました。

    姿は少しやせていますが、泥染めの黒いボディに耳と手足の裏側が大島の伝統柄になっています。もちろんプリントではなくて本物です。ここで絵本とティディベアが繋がりました。

  • 空港にも郵便ポストがあるのは到着時に確認していたので、旅の最後は一村の絵葉書を選び投函しました。最後に空港の建物も写真に撮っておきます。

    空港にも郵便ポストがあるのは到着時に確認していたので、旅の最後は一村の絵葉書を選び投函しました。最後に空港の建物も写真に撮っておきます。

    奄美空港 空港

  • ターミナルの1階のお土産物屋さんいいるはずの妻の姿が見えないのでエスカレーターで2階に上がって探してみようと思いました。その降り口にはこんなバナーが置かれてありました。絶対ここだと思い階段を下りました。

    ターミナルの1階のお土産物屋さんいいるはずの妻の姿が見えないのでエスカレーターで2階に上がって探してみようと思いました。その降り口にはこんなバナーが置かれてありました。絶対ここだと思い階段を下りました。

  • やっぱり思った通りでした。昔お世話になった方がしていた指輪がマベ真珠という奄美大島にしかないもので、40年近く欲しかったようです。気に入ったデザインのものが無くて諦めたようでした。後で「やっぱり買っておけばよかった。」とうのもかわいそうなので、ハート形とか四角いデザインを勧めましたがダメでした。

    やっぱり思った通りでした。昔お世話になった方がしていた指輪がマベ真珠という奄美大島にしかないもので、40年近く欲しかったようです。気に入ったデザインのものが無くて諦めたようでした。後で「やっぱり買っておけばよかった。」とうのもかわいそうなので、ハート形とか四角いデザインを勧めましたがダメでした。

  • 羽田行きの直行便は定刻に登場の案内がありました。空港で添乗員さんからいただいた航空券は右側の窓側からの2席でした。最後に空の上から美しい海と空を見ることが出来ます。

    羽田行きの直行便は定刻に登場の案内がありました。空港で添乗員さんからいただいた航空券は右側の窓側からの2席でした。最後に空の上から美しい海と空を見ることが出来ます。

  • ツアーとしても充実したものでしたが、夕食が付いていないことで外食することで地元の方とも知り合えて楽しさが倍増した気がします。

    ツアーとしても充実したものでしたが、夕食が付いていないことで外食することで地元の方とも知り合えて楽しさが倍増した気がします。

  • 妻は機内で「あまみっけ」の本を見始めました。そして気が付きました。主人公の「みっけ」というティディベアはマべ真珠のハート形のネックレスをしていることを。

    妻は機内で「あまみっけ」の本を見始めました。そして気が付きました。主人公の「みっけ」というティディベアはマべ真珠のハート形のネックレスをしていることを。

  • マベ真珠を買うことも出来ずにJAL便は離陸しました。青い海もこれが見納めです。

    マベ真珠を買うことも出来ずにJAL便は離陸しました。青い海もこれが見納めです。

  • 奄美大島に隣接する喜界島の脇をあっという間に通り過ぎました。

    奄美大島に隣接する喜界島の脇をあっという間に通り過ぎました。

  • その後はしばらく島影も無い海の上です。

    その後はしばらく島影も無い海の上です。

  • 東に向かうので日が暮れて来るのは普段よりも早いです。

    東に向かうので日が暮れて来るのは普段よりも早いです。

  • 次に島が見えたのは神津島でした。続いて新島や利島が見えると思ったのですが、見つけることは出来ませんでした。

    次に島が見えたのは神津島でした。続いて新島や利島が見えると思ったのですが、見つけることは出来ませんでした。

  • 1カ月前に友人たちと行った伊豆大島の姿は見ることが出来ました。伊豆大島の旅の次が偶然ですが奄美大島でした。

    1カ月前に友人たちと行った伊豆大島の姿は見ることが出来ました。伊豆大島の旅の次が偶然ですが奄美大島でした。

  • 翌週に伊豆大島に行く方がいたので、機内からLINEで写真を送ってあげました。JALもANAも国内線は無料wifiが使えるのがありがたいです。

    翌週に伊豆大島に行く方がいたので、機内からLINEで写真を送ってあげました。JALもANAも国内線は無料wifiが使えるのがありがたいです。

  • 羽田空港は混雑しているのか、房総半島のかなり東側まで出て、白子の辺りから半島を横断して木更津辺りから東京湾に入りました。

    羽田空港は混雑しているのか、房総半島のかなり東側まで出て、白子の辺りから半島を横断して木更津辺りから東京湾に入りました。

  • 何となくシルエットで海ほたると分かる写真が撮れました。

    何となくシルエットで海ほたると分かる写真が撮れました。

  • 着陸前に横を見ると同時に着陸する飛行機が見えました。明るい機内からだとうまく写真は撮れませんでした。

    着陸前に横を見ると同時に着陸する飛行機が見えました。明るい機内からだとうまく写真は撮れませんでした。

  • 無事に羽田に着陸しました。夕焼けの写真を撮ったらシルエットになった富士山も写っていました。宵の明星と呼ばれる金星も明るく輝いています。

    無事に羽田に着陸しました。夕焼けの写真を撮ったらシルエットになった富士山も写っていました。宵の明星と呼ばれる金星も明るく輝いています。

  • ゴルフ帰りの友人が迎えに来てくれると連絡を貰いましたが、午後7時からの4回目のワクチン接種に間に合いそうもないのでお気持ちだけいただきました。実際首都高が混んでいたので、迎えに来てもらっていたら迷惑をかけるところでした。

    ゴルフ帰りの友人が迎えに来てくれると連絡を貰いましたが、午後7時からの4回目のワクチン接種に間に合いそうもないのでお気持ちだけいただきました。実際首都高が混んでいたので、迎えに来てもらっていたら迷惑をかけるところでした。

  • 第1回目の全国旅行支援の旅が終わりました。これから年末に向けて6回の旅の予定が入っています。

    第1回目の全国旅行支援の旅が終わりました。これから年末に向けて6回の旅の予定が入っています。

    羽田空港 第1旅客ターミナル 空港

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この旅行記へのコメント (2)

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  • kakotyanさん 2022/11/04 17:21:25
    写真もコメントも素晴らしい。
    奄美の植物を見事に写真に切り取って見せて下さり,ずいぶん昔に行った旅をおもい起こされました。
    一村の絵を見たくひとりで出かけました。絵を見る前に彼の生涯などを調べて行きましたが、死後に絵が正しく評価されるというのも悲しい話です。
    又その絵を見たくなりました。来年計画しようかと・・

    kojikoji

    kojikojiさん からの返信 2022/11/04 21:23:21
    Re: 写真もコメントも素晴らしい。
    kakotyanさん
    旅行記にお立ち寄りいただきありがとうございます。細かすぎるのか人気の無い旅行記ばかりですが、こうやってお便りいただけると励みになります。今回初めての奄美でしたが、自然だけではなく文化も素晴らしく食べるものは美味しいし、人は親切だし良いところと思えました。目的の1つでもあった田中一村の絵画も素晴らしかったです。奄美の植物を見た後ではなおさらだったと思います。またお時間がありましたら旅行記にお立ち寄りください。馬鹿みたいに細かいロシアの旅行記もありますので、流し読みしていただければ幸いです。ありがとうございました。

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