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久しぶりに京田辺市内の話。結構無名なところまで行ったので、新しいところって云うのがなかなか難しくなった。京田辺市に関しては、過去以下の記で簡単に説明した。<br />https://4travel.jp/travelogue/11625033<br /><br />ただ、ここでは市とその前身の田辺町の成り立ちと名前の由来についてのみ触れたので、改めて補足する。京都府南部、南山城地域の中心部に位置する。東側の木津川と西側の生駒山系に挟まれ、京都市・大阪市のベッドタウンとしての性格が強い市。<br /><br />なお、南山城地域は山城地区とも呼ばれ、宇治市以南の12市町村を指すが、桂川右岸の乙訓地区の3市町を加えて山城地域とも呼ばれることもあり、ややこしい。さらに南山城地域は京田辺・井出以北の山城北と木津川市と相楽郡3町1村の山城南にも分けられ、さらにややこしい。京田辺市は山城地域の南山城地域(山城地区)の山城北に位置する。<br /><br />山城は昔の行政区分である令制国であった山城国(やましろのくに)から来ており、古くは山背や山代と記され、平城京から見て「奈良山のうしろ(背)」にあたる地域であることから来ていると云われる。794年に桓武天皇が平安京を命名した際に、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から山城国に改称した。現在の京都市と南山城地域に当たる。<br /><br />京田辺市は人口約7万5千人は京都府の26市町村中の8位。1960年頃からずっと増加しており、1997年の市制移行時より約2万人増え、近年八幡市、城陽市を追い抜いた。面積約43平方㎞は17番目で半分より下。府内の八幡市・城陽市・井手町・精華町と大阪府の枚方市、奈良県の生駒市と接する三府県の三角地帯の中央部に位置している。<br /><br />田辺は以前の旅行記で説明したようにはえ抜きの土豪である国人衆の田辺氏から来ており、田辺町からの市制移行時に和歌山県田辺市との重複を避け「京」を付けた。市制町村制の施行で田辺村が置かれたのが1889年(明治22年)、町制移行が1906年(明治39年)で、1997年に市制移行。<br /><br />旧石器時代から人々が暮らしていた地域で、古墳時代の511年には継体天皇が京都最初の都である筒城宮を置く。この時代の古墳が多く残っている。中世には山城国一揆の舞台となり、明治には自由民権運動が盛り上がった。<br /><br />1986年に同志社大学が京田辺キャンパスを開校した。近鉄京都線とJR学研都市線に第二京阪、京奈和道、新名神の高速道路が通る。新田辺駅周辺が市街地中心部だが、北部の松井山手駅に北陸新幹線の新駅が検討されている。<br /><br />ハンドボールが盛んで1999年以降は全国小学生ハンドボール大会の開催地になっており、2022年の大会では市内のチームが2回目の男女アベック優勝を果たしている。市内に本社を置く金型製造業のニチダイの野球部は全国大会に何度も出場している。元カープの西原圭大投手(2014年~16年に16回登板)はOBで現在もコーチを務めている。<br /><br />ジャイアンツの戸根投手は田辺中学の出身。また、先日ライオンズで現役引退した内海哲也投手は城陽出身で高校は敦賀気比に野球留学だが、中学時代はジュニアの京都田辺ボーイズに所属。毎年京田辺の木津川河川敷グランドで初投げをしてると云う記事を読んだことがあるし、お母さんと弟さんがやってるらしいお好み(鉄板)焼き屋さんはうちの近所にある。ただし、行ったことはない。また、サッカーの徳島ヴォルティスなどで活躍した六車拓也選手は大住中学校出身。<br /><br />ABCテレビのおはよう朝日ですなどに出演しているやのぱんは府立田辺高校卒業。同志社に関してはそれぞれ以下の旅行記参照のこと。ただし、大学卒業生の多くは京田辺キャンパスでなく今出川キャンパス出身。<br />同志社大学卒業生<br />https://4travel.jp/travelogue/11715493<br />同志社女子大学、同志社国際中学校・高等学校卒業生<br />https://4travel.jp/travelogue/11716736<br /><br />さて、本題に戻る。2021年11月25日(木)2時半、ちょうどその1年前の同じ日にも行った一休寺の門前の紅葉を見に行く前に甘南備寺に寄った。甘南備寺は酬恩庵(一休寺)の東、山手幹線の反対側を少し南に入ったところにある。<br /><br />黄檗宗万福寺派の寺院で山号を医王山と称する。「薬師さん」とも呼ばれている。元々は甘南備山の東側中腹にあったが、江戸初期の1668年に現在の地に移された。<br /><br />かんなびという名前は弥生時代にすでに使われていた。日本各地にかんなび山があり、神南備とも神奈備とも書かれ、神が宿る山として古代から信仰されていた。現在の甘南備寺の西にも甘南備山があり、かつて平安京が定められるとき、この山を南の基点として、北の船岡山と結ぶ直線を都の中心軸に、大極殿、朱雀門、朱雀大路、羅生門などを建設したと云われている。<br /><br />この山頂近くに今も神南備神社があるが、甘南備寺はその神宮寺だった。創建は奈良時代で、東大寺の四聖の一人に数えられる行基による創建だと伝えられている。<br /><br />一時は大きな堂塔伽藍を備え、平安時代末の今昔物語集にこの寺の薬師如来像の物語「みみず伝説」が登場する古刹だった。しかし、中世に至って寺運は衰微し、創立以来久しく風雪に耐えた堂舎も荒廃し、自然腐朽していった。<br /><br />江戸時代前期の1689年、田辺の薪(たきぎ)地区の庄屋だった吉川政信らが黄檗山万福寺第二代住持の木庵師の教えを受け継いだ木庵下(もくあんか)十鉄の一人の鉄堂融和尚を請じて中興開山とし、元々の場所は交通不便で維持困難なため、現在地に復興させた。その際に、真言宗から黄檗宗に変わった。<br /><br />鉄堂が没した1702年には、弟子の南嶺元勲が5代住持となったが、南嶺は「甘南備南嶺百八道歌」を編んだことで知られる。また9歳でこの寺で得度し、南嶺の法嗣(ほうし:師匠の教えを受け継ぐ人)となった終南浄寿は、著名な江戸の書家、伊藤華岡の弟で、池大雅をはじめ多くの文人との交流が知られている。昭和初期の11代住持だった大雄弘法和尚は万福寺の46代管長となられた。<br /><br />北側の道から小道を南に進むと竜宮門がある。1階部分が漆喰塗籠めの袴腰になっている門で、浦島太郎で竜宮城の城門として描かれてることから竜宮門と呼ばれる。中国・明朝の建築様式を取り入れたもので、黄檗宗の寺院から広がったと云われる。<br /><br />門の手前に「不許葷酒(くんしゅ)入山門」と彫られた石碑が建っているが、これは「臭い野菜と酒は修行の妨げだから寺内へ入れてはいけない」と云う意味で、多くの禅宗の門前に建っているもの。<br /><br />正面の瓦葺き宝形造の本堂には、平安初期の天台僧慈覚大師の作と伝えるご本尊の薬師瑠璃光如来坐像や日光・月光菩薩他多くの仏像が祀られており、本堂正面の窓から拝観することが出来る。<br /><br />薬師如来坐像は、高さ86㎝、一木造り、重厚味のある藤原時代前期の優像。十三仏を配した舟形光背と裳懸座(台座)は後補。上述した今昔物語集に登場する像。両脇侍像は、鎌倉時代後半から南北朝時代の作とみなされる。共に旧甘南備寺から移設された尊像で、京田辺市の指定文化財となっている。<br /><br />ご本尊は「耳の仏」と称され、難聴者の信仰篤く、山号の由来になっている。「耳石」と云われる穴のあいた石を本堂の壁に掛けて、病魔を退散させる風習があるそうだ。<br /><br />境内にはなぜか鮒を飼育している池州が並んでいるが、多分奥の霊園に薪騒動の三村五郎の墓があるそうだ。薪騒動は1871年(明治4年)に元久留米藩士と称する三村五郎他数名が酬恩庵(一休寺)で、地元の郷士吉川信近や酬恩庵和尚宗珪、吉川家と関係のある京都清水寺観音堂管長である僧都らと謀議していたところを京都政府が包囲、捕縛した騒動で、三村五郎は切腹した。これにより、吉川家は酬恩庵の檀家を離れこの寺に移ったそうで、その関係で墓が建てられたと思われる。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8438384956231454&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />この後、酬恩庵(一休寺)に歩き見頃の紅葉を堪能した。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6725097767560190&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />一休寺にはちょうど1年前の2020年11月にも訪れている(下記の旅行記参照)。<br />https://4travel.jp/travelogue/11696472<br /><br /><br />以上

京都 京田辺 甘南備寺(Kannabi-ji Temple,Kyotanabe,Kyoto,Japan)

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2021/11/25 - 2021/11/25

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ちふゆ

ちふゆさん

久しぶりに京田辺市内の話。結構無名なところまで行ったので、新しいところって云うのがなかなか難しくなった。京田辺市に関しては、過去以下の記で簡単に説明した。
https://4travel.jp/travelogue/11625033

ただ、ここでは市とその前身の田辺町の成り立ちと名前の由来についてのみ触れたので、改めて補足する。京都府南部、南山城地域の中心部に位置する。東側の木津川と西側の生駒山系に挟まれ、京都市・大阪市のベッドタウンとしての性格が強い市。

なお、南山城地域は山城地区とも呼ばれ、宇治市以南の12市町村を指すが、桂川右岸の乙訓地区の3市町を加えて山城地域とも呼ばれることもあり、ややこしい。さらに南山城地域は京田辺・井出以北の山城北と木津川市と相楽郡3町1村の山城南にも分けられ、さらにややこしい。京田辺市は山城地域の南山城地域(山城地区)の山城北に位置する。

山城は昔の行政区分である令制国であった山城国(やましろのくに)から来ており、古くは山背や山代と記され、平城京から見て「奈良山のうしろ(背)」にあたる地域であることから来ていると云われる。794年に桓武天皇が平安京を命名した際に、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から山城国に改称した。現在の京都市と南山城地域に当たる。

京田辺市は人口約7万5千人は京都府の26市町村中の8位。1960年頃からずっと増加しており、1997年の市制移行時より約2万人増え、近年八幡市、城陽市を追い抜いた。面積約43平方㎞は17番目で半分より下。府内の八幡市・城陽市・井手町・精華町と大阪府の枚方市、奈良県の生駒市と接する三府県の三角地帯の中央部に位置している。

田辺は以前の旅行記で説明したようにはえ抜きの土豪である国人衆の田辺氏から来ており、田辺町からの市制移行時に和歌山県田辺市との重複を避け「京」を付けた。市制町村制の施行で田辺村が置かれたのが1889年(明治22年)、町制移行が1906年(明治39年)で、1997年に市制移行。

旧石器時代から人々が暮らしていた地域で、古墳時代の511年には継体天皇が京都最初の都である筒城宮を置く。この時代の古墳が多く残っている。中世には山城国一揆の舞台となり、明治には自由民権運動が盛り上がった。

1986年に同志社大学が京田辺キャンパスを開校した。近鉄京都線とJR学研都市線に第二京阪、京奈和道、新名神の高速道路が通る。新田辺駅周辺が市街地中心部だが、北部の松井山手駅に北陸新幹線の新駅が検討されている。

ハンドボールが盛んで1999年以降は全国小学生ハンドボール大会の開催地になっており、2022年の大会では市内のチームが2回目の男女アベック優勝を果たしている。市内に本社を置く金型製造業のニチダイの野球部は全国大会に何度も出場している。元カープの西原圭大投手(2014年~16年に16回登板)はOBで現在もコーチを務めている。

ジャイアンツの戸根投手は田辺中学の出身。また、先日ライオンズで現役引退した内海哲也投手は城陽出身で高校は敦賀気比に野球留学だが、中学時代はジュニアの京都田辺ボーイズに所属。毎年京田辺の木津川河川敷グランドで初投げをしてると云う記事を読んだことがあるし、お母さんと弟さんがやってるらしいお好み(鉄板)焼き屋さんはうちの近所にある。ただし、行ったことはない。また、サッカーの徳島ヴォルティスなどで活躍した六車拓也選手は大住中学校出身。

ABCテレビのおはよう朝日ですなどに出演しているやのぱんは府立田辺高校卒業。同志社に関してはそれぞれ以下の旅行記参照のこと。ただし、大学卒業生の多くは京田辺キャンパスでなく今出川キャンパス出身。
同志社大学卒業生
https://4travel.jp/travelogue/11715493
同志社女子大学、同志社国際中学校・高等学校卒業生
https://4travel.jp/travelogue/11716736

さて、本題に戻る。2021年11月25日(木)2時半、ちょうどその1年前の同じ日にも行った一休寺の門前の紅葉を見に行く前に甘南備寺に寄った。甘南備寺は酬恩庵(一休寺)の東、山手幹線の反対側を少し南に入ったところにある。

黄檗宗万福寺派の寺院で山号を医王山と称する。「薬師さん」とも呼ばれている。元々は甘南備山の東側中腹にあったが、江戸初期の1668年に現在の地に移された。

かんなびという名前は弥生時代にすでに使われていた。日本各地にかんなび山があり、神南備とも神奈備とも書かれ、神が宿る山として古代から信仰されていた。現在の甘南備寺の西にも甘南備山があり、かつて平安京が定められるとき、この山を南の基点として、北の船岡山と結ぶ直線を都の中心軸に、大極殿、朱雀門、朱雀大路、羅生門などを建設したと云われている。

この山頂近くに今も神南備神社があるが、甘南備寺はその神宮寺だった。創建は奈良時代で、東大寺の四聖の一人に数えられる行基による創建だと伝えられている。

一時は大きな堂塔伽藍を備え、平安時代末の今昔物語集にこの寺の薬師如来像の物語「みみず伝説」が登場する古刹だった。しかし、中世に至って寺運は衰微し、創立以来久しく風雪に耐えた堂舎も荒廃し、自然腐朽していった。

江戸時代前期の1689年、田辺の薪(たきぎ)地区の庄屋だった吉川政信らが黄檗山万福寺第二代住持の木庵師の教えを受け継いだ木庵下(もくあんか)十鉄の一人の鉄堂融和尚を請じて中興開山とし、元々の場所は交通不便で維持困難なため、現在地に復興させた。その際に、真言宗から黄檗宗に変わった。

鉄堂が没した1702年には、弟子の南嶺元勲が5代住持となったが、南嶺は「甘南備南嶺百八道歌」を編んだことで知られる。また9歳でこの寺で得度し、南嶺の法嗣(ほうし:師匠の教えを受け継ぐ人)となった終南浄寿は、著名な江戸の書家、伊藤華岡の弟で、池大雅をはじめ多くの文人との交流が知られている。昭和初期の11代住持だった大雄弘法和尚は万福寺の46代管長となられた。

北側の道から小道を南に進むと竜宮門がある。1階部分が漆喰塗籠めの袴腰になっている門で、浦島太郎で竜宮城の城門として描かれてることから竜宮門と呼ばれる。中国・明朝の建築様式を取り入れたもので、黄檗宗の寺院から広がったと云われる。

門の手前に「不許葷酒(くんしゅ)入山門」と彫られた石碑が建っているが、これは「臭い野菜と酒は修行の妨げだから寺内へ入れてはいけない」と云う意味で、多くの禅宗の門前に建っているもの。

正面の瓦葺き宝形造の本堂には、平安初期の天台僧慈覚大師の作と伝えるご本尊の薬師瑠璃光如来坐像や日光・月光菩薩他多くの仏像が祀られており、本堂正面の窓から拝観することが出来る。

薬師如来坐像は、高さ86㎝、一木造り、重厚味のある藤原時代前期の優像。十三仏を配した舟形光背と裳懸座(台座)は後補。上述した今昔物語集に登場する像。両脇侍像は、鎌倉時代後半から南北朝時代の作とみなされる。共に旧甘南備寺から移設された尊像で、京田辺市の指定文化財となっている。

ご本尊は「耳の仏」と称され、難聴者の信仰篤く、山号の由来になっている。「耳石」と云われる穴のあいた石を本堂の壁に掛けて、病魔を退散させる風習があるそうだ。

境内にはなぜか鮒を飼育している池州が並んでいるが、多分奥の霊園に薪騒動の三村五郎の墓があるそうだ。薪騒動は1871年(明治4年)に元久留米藩士と称する三村五郎他数名が酬恩庵(一休寺)で、地元の郷士吉川信近や酬恩庵和尚宗珪、吉川家と関係のある京都清水寺観音堂管長である僧都らと謀議していたところを京都政府が包囲、捕縛した騒動で、三村五郎は切腹した。これにより、吉川家は酬恩庵の檀家を離れこの寺に移ったそうで、その関係で墓が建てられたと思われる。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8438384956231454&type=1&l=223fe1adec

この後、酬恩庵(一休寺)に歩き見頃の紅葉を堪能した。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6725097767560190&type=1&l=223fe1adec

一休寺にはちょうど1年前の2020年11月にも訪れている(下記の旅行記参照)。
https://4travel.jp/travelogue/11696472


以上

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