2021/12/10 - 2021/12/13
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かるあみるくさん
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この旅行記スケジュールを元に
旅行二日目の前半旅行記です。どこかにマイルで山形空港へのチケットが決まったのが直前だった事、この日と翌日の山形の天気が雪でとても寒かった為太平洋側に出る事を決めましたがどこに行こうか迷っていた時に震災遺構を見る旅をしようという事でした。宮城県中部・北部は頻繁に訪れているので石巻・女川を巡った事もありますが、宮城県南部・福島県浜通りはほとんど訪れたことがない場所でいわき以外は震災以来初めての訪問になります。
この日は朝方に宿泊していたグリーンホテル大河原の近くを散歩した後車で角田市にある道の駅かくだと角田中央公園を訪れた後、宮城県山元町にある震災遺構中浜小学校を訪れました。このページはほとんど震災遺構中浜小学校についてのページになっていますが、正直これでも写真を押さえた感じにはなっています。私自身が海岸線に近いところに住んでいて東日本大震災の際には避難所へ移動した経験があるからかもしれないですが、ここで学んだことはとても多かったです。
またこんな事を言ってはいけないのかもしれないですが、中浜地区は犠牲者が出ているもののこの中浜小学校は様々な要因が重なり奇跡的に犠牲者を出さずに良く朝全員が救出されました。その為少しは楽な気持ちで見学できるとは感じました。それでも結構重いのは事実です。
今回の旅行記はこのパート以降とても重い内容が続きます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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2日目の朝6:30頃、東の空をみると山の向こうに朝焼けが見えました。とは言えこの上空は厚い雲ですしこの日の天気は一日こんな感じという予報が出ています。山形は雪でこの予報があったので太平洋側を回る事にしたのもあるのですが、太平洋側も天気は良くはないです。さすがに雪の予報ではないですが・・・。
ちなみに山の向こうに海がありますが、大河原からは直接海を見る事は出来ないです。グリーンホテル大河原 宿・ホテル
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ホテル一階に朝食会場がありバイキング式の朝食です。メニュー数はそれなりにあります。ちょっと覚めているものも多かったですけどね。この時点では会場はガラガラだったんですが、10分もすると満員に近い状況になっていました。
グリーンホテル大河原 宿・ホテル
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いろいろとってみてこんな感じの盛り付けになりました。豪華ではないけどおふくろの味みたいな感じで美味しかったです。ロールキャベツが結構おいしかったですね。
ゆかりを大量にぶちまけてしまったのは失敗(´・ω・`)。グリーンホテル大河原 宿・ホテル
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本日訪れたい目的地まで割と距離が短く迷わなければ30分程で着くのですが、開館時間を考えるとまだ出るのはかなり早いのでホテル近辺を散歩することにしました。寒い時期なので散歩も楽で助かります(笑。
白石川の方へ歩いてくると大河原公園という公園がありました。野球場やスケートボード場を有する公園で観光地ではないですが、桜が多く植えられていて満開の時期はなかなか良いスポットになりそうです。まあもっとも近隣には白石川の一目千本桜があるのでそちらに皆さん向かうと思いますが・・・。大河原公園 公園・植物園
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白石川までやってきました。こちらも河川公園として整備されているみたいです。冬季は白鳥が飛来することもあり写真家が集まるそうですが、この日は見る事が出来ませんでした。全然詳しくないので探せばいたのかもしれないですが・・・。
昔酒田の最上川で見た白鳥はすごい数でそんな感じだとわかるんですけどね。いつか旅行記をあっぷできるかなあ。古すぎて記憶もあいまいですけどね。白石川河川公園 公園・植物園
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住宅街を歩いていると仙台市に本社を置くアイリスオーヤマの大河原工場もありました。最近は家電に地彼を入れていて私の職場もアイリスオーヤマのモニターを利用しています。自分で探して購入しているのですが正直かなり良いものだなと思っています。他にもエアコンなども販売していて伸びている会社の様ですね。
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散歩を終えて帰ってきたらだいぶ晴れていました。でもこの日綺麗に晴れたのはこの時くらいでした。
思ったより時間がかかってしまったけどここでチェックアウトしてレンタカーで移動開始です。短い時間で決めたホテルですけど大浴場もあり食事も美味しくホテル自体も安かったので少し古いけど満足のホテルでした。
今日は宮城県南部から福島県の浜通り地方へと向かっていきます。グリーンホテル大河原 宿・ホテル
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最初の目的地はここ、角田中央公園です。道の駅かくだに隣接する公園で観光地というよりは地元の方々向けの公園で、交通公園や運動公園として利用されています。
まだ朝早いという事もあって混雑もなく長閑な雰囲気です。 -
交通公園にはこんな信号が・・・。
今も残っているのかわかりませんが昔仙山線の国見駅近くにこの信号機がありました。なんか独特で面白い反面大雪食らったらすぐに折れそうな感じの信号機だなと思います。 -
交通公園内にはDE10 88と車掌車が保存されています。まあこれ目当てで来たんですけどね。汽車製造で造られた入替専用機で会津若松で活躍したそうです。国鉄民営化直前に廃車になっているので、その頃からここで展示されているのですかね。後ろの車掌車も含めて保存状態は良さそうでした。
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隣接する道の駅かくだにもやってきました。2019年オープンの新しい道の駅だけあって施設はとても綺麗です。朝早かったのでお店はあまりやっていなかったですが農作物の直売やカフェなどで日中は賑わうようです。
道の駅かくだ 道の駅
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日本中に点在するポケモンマンホール。道の駅かくだにはラティアスとラプラスの2体がデザインされているものがありました。
かろうじてルビー・サファイアまでしているのでだいたいこれくらいまではわかります。それ以降は全然わからない(笑。なんとなくポケモンGOで覚えたのもいますけど・・・。道の駅かくだ 道の駅
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道の駅かくだを出て目的地は福島県との県境にある町、山元町だったんですが国道6号を走っていたら福島県新地町に入ってしまいました。一応目標物を覚えていたのですが通り過ごしてしまったようです。Uターンするのもどうかなと思ってそのまま左折して海岸線沿いに向かう事にします。
ちょっと車から降りて撮影した新地町の農地です。 -
その後海に向かって走っているとしばらくして突如現れる津波浸水域の立て看板。海岸線ははるか遠くですが東日本大震災ではここまで浸水したそうです。
あまりにも遠くて実感がイマイチわきません。 -
海から500mほどの位置に幹線級の県道が走っているのでそこに合流して北上し目的地に向かおうとしていますが、この県道がかさ上げされていて元々の高さの道からでは合流地点が見つからずにさまよっている時に見つけた碑です。新しそうに見えたので東日本大震災に関連するものかと思いきや、山元町磯地区の土地改良事業が困難を乗り越え様々な人の協力を得て完成したことを記念したものでした。
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同じ場所で正面を見てみるとこんな感じ。一見すると右手が堤防の様に見えますが、堤防ではなくて道路です。だいたい海まで500m強ある位置です。
今立っている場所が元々の高さで隣の道路は震災復旧の際にここまでかさ上げされています。そしてこの道路は元々はJR常磐線の線路だった場所です。常磐線は復旧の際に内陸移転、高架化したためにその跡地を道路化したそうです。 -
なんとか県道に合流し北上、本日の最初の目的地にやってきました。震災遺構中浜小学校。東日本大震災で津波を被災、地域も壊滅的な被害を受けた為廃校になった小学校を保存し震災学習と後世に遺す為に展示館となって2020年に開館しました。
校庭だった場所に建てられた管理棟でお金を払い中に入る形です。たまたまなのかもしれませんが語り部の方がとてもよく解説してくれたので大変勉強になりました。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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管理棟で代金の支払いをし説明を受けた後小学校入口に向かうと入口には根元から折れた時計台が・・・。鉄筋が相当数入っていますが津波の前では完全な無力。
到着してすぐにあまりにもすごいものを見てしまう形でした。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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こちらは旗を掲揚するポールと石碑です。実は上の時計台も同じ向きに倒れているのですが、海は写真奥です。つまり津波の第一波は海側からではなく、写真右手の南側から来たことになります。
この時点で「?」となったのですが、後で語り部の方から聞くと南側にある河口から川を遡上して越堤したものが第一波となり南側から津波が押し寄せたそうです。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校舎入口では流されたため基礎から上が破壊されたコンクリートがありました。津波の力はものすごいものだと感じます。
ただこれってなんだったんだろ?奥の下駄箱があったのかと思いましたけど、下駄箱なら鉄筋入れたコンクリート製ではないでしょうし・・・。壁でもあったんでしょうか。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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中浜小学校の構造は入口から入ると正面にホールがありここで行事や発表なども行われていたそうです。津波によって運ばれたものはここに堆積したようで、今でもいろいろなものが残っていますが、写真で見た被災直後の映像はここにものが山積みになっていました。
入口となっていた倒れた赤い門が悲しいです。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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中浜小学校は2階建ての校舎が横に伸びた「ロ」の字の様になっていて、中央には中庭(でいいのかな)がある構造でした。一度校舎外壁に直撃して勢いはある程度軽減されたはずの津波ですが、こうやってみると一階どころか二階の中庭側の窓も破壊されているところがあります。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校舎内は破壊された校舎の上に金属製の通路が通っていてそこから出る事は出来ないですが、通路からだいたいすべての範囲は見る事が出来ます。そんなわけで見えた光景ですが壁がありえない形になってしまっています。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校舎内一階はこの様な被災後公開前に造られた金属製の廊下を通りながら見学していきます。都心に比べれば規模が小さい小学校の中ですから、一階は簡単に見るだけなら5~10分程で見て回る事が出来ますし、津波の威力はその見方でもよくわかります。ただここで児童が過ごしていた痕跡や細部の津波の被害なども見ていた、というか威力の大きさにある意味見入ってしまい一階だけで30分近く見学していた様です。様です、というのはタイムスタンプを見て初めて気づいた形で現地ではそこまで長く見ているつもりはありませんでした。
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コンクリートの躯体は頑丈なのでほとんど傷ついていないですが、内装等はほとんど破壊されてしまっています。この左側から津波が来たようなので一番最初に衝撃を受けた個所になるのでダメージが大きかった場所だとは思いますが・・・。少し見える外の光景と言いなんだか現実味を感じないです。実際に見てきた身でもそう思ってしまいます。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校舎内の造りとしてはコンクリートの躯体にボードを貼り壁や天井を造っていた形で、天井も含めボードは大きく損傷していますが、躯体そのものには大きな被害はなさそうに見えます。さすがに鉄筋コンクリートはある程度耐える事が出来たみたいです。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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ふと見ると女子トイレ周囲は他の部屋に比べ割と原型をとどめているんですよね。
考えてみると津波が侵入してきたのは写真向かって奥になりますが、トイレという事で窓の開口部が教室に比べ少なく、壁の部分はコンクリートで頑丈な為津波とともに瓦礫などが入ってくることが少なく衝撃が緩和されたのかなと思いました。とは言え水没しているので中にいたらまず助かりませんが・・・。
良く見ると個室の壁もほぼ原形を留めているように見えますし、児童が書いたと思われる電源スイッチ下の注意書きも残っていました。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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こちらは反対側、写真にはマークが写っていないですが恐らく男子トイレ入り口だと思います。こちらは側面のボードが大破しています。
ちょっとした流れや漂流した瓦礫があったかなどの影響だと思うのですが、左右対称のこちらはここまで大破しているというのもなかなか推察が難しいんだなと思いました。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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よく学校で見るガラスブロックを積み上げた壁もこの様な状態になってしまっていました。なんか現実味がなくて、「ああ、あれの中身はこうなっているんだ」なんて考えていたのを覚えています。
繰り返しですが津波の力というの本当にすごいというのを感じます。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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天井からパイプが落ちて釣り下がってしまっている以外は割と原型をとどめているのかなと思ったんですが、蛇口が全部ないんですよね・・・。綺麗にもぎ取られてしまっているのが驚きです。タイルなんかはそんなに傷んでないんですよね。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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ボランティアの語り部の人に上を見てくださいと言われ眺めました。天板が外れていてコンクリートの躯体や配管が丸出しと思いましたが、少し眺めているとある事に気づきました。
中央に竹馬が引っかかっているんですよね。普通竹馬はあんなところにあるわけがないので・・・。衝撃がわかります。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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2階の音楽室は中浜小学校の校舎の中で一番被害が少ない場所だったそうで、改装当日の様子などのビデオを流すフロアになっていました。ビデオそのものは撮影禁止ですが上映前後には音楽室の撮影もできました。中浜小学校は2013年3月末を持って近隣校区の坂元小学校と統合しましたが、その際に描かれた児童による横断幕の様です。
ちなみにこの状態の校舎では授業は出来ないので、学校が再開した当初から統合までも坂元小学校で授業が行われていたそうです。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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音楽室の脇に展示されていたものは津波の衝撃か音盤の大半が外れてしまった木琴でした。比較的被害が少なかった音楽室にあったと思いますが、それでもこの状況です。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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音楽室でビデオを見た後は隣接する資料室に展示されている震災関連物を見る事が出来ます。右手に映っている時計は3時19分を指していて、これは震災後も津波の被害を受け配電盤が損傷し停電するまでは電気が供給されていた事を示しています。
その他にも中浜小学校に関するものも多く展示されていて、被災までここが小学校として活動していた歴史を示しています。
そしてこの資料室の奥には屋上へ上がる階段があります。震災当日はここを利用して児童や近隣住民90人が屋上へと避難しています。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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ボランティアの方に先導されて屋上にやってきました。遠くに見えるのは海岸線。今では周囲に何もないですが震災前までは集落があり、海岸線には松が生えていて海岸線はしっかりとは見えなかったという事でした。あの日逃げる場所が無くなった小学生と地元住民90人は垂直避難としてこの屋上にやってきました。第1波、第2波は屋上まで来ることはなくしのぎましたが、海岸線沿いに見えた第3波、第4波はどうみても校舎屋上より高い波。教師や大人たちは祈りながら覚悟を決めざるを得ない状態でしたが第2波の引き並みと衝突し波が崩れた結果かろうじて屋上は冠水しないで済んだそうです。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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語り部の人がいうにはこの屋上の構造も児童には良い事だったということです。基本的に外部が見えず、凄惨な光景(津波や街中の遺体)を見せずに済んだこと。屋上には何もない校舎が多い中で雪と風を防ぐことが出来た事。
屋根の中で子供たちは防災用の毛布や学芸会の衣装などに包まり極寒の一夜を明かし翌日自衛隊のヘリコプターがグラウンドに着陸。全員が無事に救助されたそうです。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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屋上から見ると見渡す限りの更地が続く中浜小学校付近・・・。
震災前は更地でもなんでもなく集落で賑わった地区でした。今はこの状態・・・。中浜小学校に避難された方は全員生還しましたが、地区では多くの犠牲者も出たと言います。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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先ほど校舎に入ってまず見えたホールに貯まった残骸・・・。上から見るといかに巨大な力で変形したかがわかります。屋上に全児童が避難している間にその下ではこんなものが津波に巻き込まれながら押し寄せていたと思うと心が痛みます。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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図書室には被災前の中浜小学校のジオラマもありました。奥には被災前の中浜地区の様子もあります。
現在管理棟のある位置には体育館があったそうですがこれは津波で完全に破壊されたそうです。他にもプールなどもあり被災前がどのような状況だったかが一目でわかります。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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二階も全ての区域に入れるわけではないですが、柵越しに立ち入れない区域もだいたい見る事が出来ます。二階は高学年教室などがあったそうですが、この通り廊下と教室を区切る壁等はほぼ崩壊しています。それでも一階より原型をとどめている様に見えるのは高さがある分津波の威力がいくらか軽減したということでしょうかね。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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二階の西側は窓もあるためか痛みもなく、ふとこの写真だけを見ると現役の小学校校舎の休みの日という感じです。
音楽室や図書室は再利用されていますし暖房も入っているので暖かかったです。逆に一階や屋上は吹き曝しなので寒がりの人は防寒着あった方が良いですね。私も受付でそれを言われたのですがそもそもパーカーしか持ってきていないのでパーカー着用。でも個人的には大丈夫な寒さでした。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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二階からは外階段を下りて校舎入口付近へと戻るルートになっています。このルートを取っているのは、震災翌日自衛隊ヘリが正面のグラウンドに着陸した際に児童や地区住民がこの階段を下りてグラウンドに向かったから同じルートをという事だそうです。校舎内は1階が壊滅して歩ける状態ではなかったそうです。あの朝ここから脱出する子供たちはどのような心境だったのか、そんな事を考えてしまいます。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校舎南側は通路として開放されていて被災したままの状態で外から校舎を眺める事が出来ます。窓のフレームなども曲がったままなので少し注意が必要かもしれないですが、外側からの方がネットはあるものの光もあって見やすいかもしれないなと思いました。
写真だと暖かい感じに写っていますが、かなり風が強く周囲の建物はすべてなくなっているのでそれが直接校舎に吹き付けられるので屋外もめちゃくちゃ寒いです。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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上にも書いた通りネット越しですが外通路からも建物の中を覗けます。とは言えほとんど壊れている状態ですので中の通路からも見た光景を反対側から見る形ですが・・・。唯一ほぼ原形を留めていたのがトイレ。個室の壁になっているボードなんて正直大した強度はないと思うのですが、ほとんど形が残っていて少し壊れているだけ。自分なりの考察は中で撮影した写真の所で書いてはいますがなかなか気になります。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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少し離れたところから見た校舎跡。フォートラベルの編集画面に写る写真は公開時に比べ大きくないのもあり、このサイズで見ると割と原型をとどめているなあと思うところもあります。
火事などがなかったこともあり遠くから見ると割ときれいです。この10年、震災遺構として保存することが決まってから多くの方が丁寧に保存をしていたのだと思います。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校庭跡も歩けるので少し離れて付近も写るように撮影してみると本当にこの建物だけ遺っているんですよね。図書室の模型によればこの辺りには以前プールがあったのだと思います。この中浜小学校は1964年の開校後1989年に校舎が建て替えられているのですが、その際に海岸線から近い事もあり地元要望で校地を2mかさ上げして建築しました。この2mのかさ上げが22年後に多くの児童を守った事を考えると素晴らしい決断でした。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校舎の端には遊具の跡などが被災した状況のまま保存されていました。完全に根元から破壊されています。
奥は被災前は街並みが広がっていた中浜地区です。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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肉眼だとはっきりとかさ上げがわかったんですが写真だとわかりにくいですかね。中央にあるフェンスが中浜小学校の校地と外を隔てるものになります。2mのかさ上げはここを境にされているわけです。
高さにしてたった2mの盛り土でしたが、この2mが多くの人の命を救う事になりました。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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上の写真の左側に写っている外階段も登れて、中に入れるわけではないのですが二階の海側を見る事が出来ました。こちらもかなりぐちゃぐちゃになっていますが、床が崩れているのは津波で壊れたというわけではなく、津波に窓や壁が壊れた結果風雨が吹き曝しになり、10年間の月日が流れるのとともにこの様に床がなってしまったと聞きました。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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校舎の西側には多くのクロマツが植樹されていたそうですが、この一本以外すべて津波で倒れるか枯れてしまったそうです。この一本も県道の工事の際に伐採される予定だったそうですが、「奇跡の一本松」として移植・保存されることになり校舎の近くに残って中浜小学校を見守っています。
山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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敷地内を出て校舎裏側に回ってみました。校舎は行ってすぐの所にあったホールを外側から見てみました。こちら側は北側になるので少しでも陽を取り入れる為にガラス窓を多くした構造だったんでしょうね。
ほとんどの窓ガラスが割れてしまい痛々しい姿になっています。山元町震災遺構 中浜小学校 名所・史跡
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少し離れたところから見た中浜小学校校舎。震災が無ければ中浜集落の建物に囲まれながらこの校舎やグラウンドで子供たちの声が聞こえたのだと思います。
今のこの近辺は本当に無音。海の音と道路を走る車の音がかろうじて聞こえるくらいの地域になっています。
私自身海から2キロ弱の位置に住んでいて川に近い事もあり東日本大震災の際には避難指示が出た地区に今でも住んでいます。今日ここで見た事は結局津波対策というのは多少の意味はあったとしてもまず第一にやるべきことは高台に逃げる事。わかってはいるのですが、実際に見て感じるというのはとても良かったと思います。
閖上には何回も行っているのですがまた違った場所を見るのは良かったと思います。 -
この地区は中浜小学校跡以外本当に何も残っていない場所になっています。唯一あるのはこの慰霊碑のみ。それ以外は中浜地区はここに集落があったことなんてまったく感じられないくらい悲しいまでの野原になっています。
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この地区でも犠牲になった人は少なくないです。
そんな中で一人の犠牲者も出さず耐える事が出来た中浜小学校。よく「奇跡的」とか「偶然が重なった」と言いますが、日ごろから避難方法を考えていた事、津波到達時刻を知り山まで逃げる事が不可能と判断し咄嗟に垂直避難に切り替えた事、2日前の前震の際に避難方法を検討していた事、校舎改築の際に2m校地をかさ上げしていた事、様々な事を踏まえていたからこそだと思います。もちろんすぐに停電しなかった為津波の情報を把握しやすかった事、引き波で巨大な第3・4波を相殺した結果屋上は被災しなかった事、運が良かったこともあるのはわかったうえでですが・・・。
関連した方々の努力と決断には本当に敬意を示したいと思います。もっともうまくできなかった結果大勢の方が亡くなった地域もあり、そのことが私はその方々が悪いとは思えないです。ただ逆にそれを糾弾するご家族・親族の気持ちもわかると言ったら当事者に怒られると思いますがでも実際自分がその立場だったらそうしてしまうでしょう。
多くの方が亡くなられた震災。10年過ぎてこの地を訪問して無力感というか自然の驚異とその時どうすべきか。いろいろな事を考えました。
ここで2日目前半部分旅行記を終わりにし、後半は別パートに続けます。正直に言いますが、後半もそして3日目も明るい話題は少ない旅行記になります。
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