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秋の散策として牧野公園から枚方宿を散策。<br />11月27日(金)京阪本線牧野駅に集合。駅から牧野公園へ行き、阿弖流為の碑、片埜神社、車塚公園で牧野車塚古墳を見学、牧野駅の戻って、京阪本線で枚方公園駅に行く。駅前の常夜灯から明治十八季淀川洪水碑、郵便屋の渡し跡の碑を回る。西見附から枚方宿に入り、市立枚方宿鍵屋資料館を見学。木南邸、浄念寺、願生坊を巡って、万年寺山に行き意賀美神社、御茶屋御殿展望広場で昼食、万年寺山を下りて三矢公園の枚方宿本陣跡を見て、淀川資料館を見学。東見附から宗左の辻を巡り、枚方市駅で解散。

2020年の秋の散策、伏見と大坂を結ぶ枚方宿を巡る 牧野公園の阿弖流為の首塚と鍵屋から歴史を考える

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2020/11/27 - 2020/11/27

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35

旅四郎さん

秋の散策として牧野公園から枚方宿を散策。
11月27日(金)京阪本線牧野駅に集合。駅から牧野公園へ行き、阿弖流為の碑、片埜神社、車塚公園で牧野車塚古墳を見学、牧野駅の戻って、京阪本線で枚方公園駅に行く。駅前の常夜灯から明治十八季淀川洪水碑、郵便屋の渡し跡の碑を回る。西見附から枚方宿に入り、市立枚方宿鍵屋資料館を見学。木南邸、浄念寺、願生坊を巡って、万年寺山に行き意賀美神社、御茶屋御殿展望広場で昼食、万年寺山を下りて三矢公園の枚方宿本陣跡を見て、淀川資料館を見学。東見附から宗左の辻を巡り、枚方市駅で解散。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 11月27日(金)京阪本線牧野駅に午前10時集合。駅から歩いて5分ほどの牧野公園に行く。桓武天皇の征夷に抵抗した阿弖流為たちは802(延暦21)年に征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏した。平安京に連れてこられ、河内国で処刑されたと『日本後紀』に記され、場所は特定されていない。枚方市内在住の女性がこの公園に勝手に写真の阿弖流為の墓として祀ったのが始まり。

    11月27日(金)京阪本線牧野駅に午前10時集合。駅から歩いて5分ほどの牧野公園に行く。桓武天皇の征夷に抵抗した阿弖流為たちは802(延暦21)年に征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏した。平安京に連れてこられ、河内国で処刑されたと『日本後紀』に記され、場所は特定されていない。枚方市内在住の女性がこの公園に勝手に写真の阿弖流為の墓として祀ったのが始まり。

    牧野公園 公園・植物園

  • 当時の中司宏枚方市長が1998(平成10)年に町おこしとして写真の「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑を建て、処刑地である首塚とした。造成直前の牧野公園の1952(昭和27)年の写真には塚は確認できない。この場所は朝廷が狩りをする禁野であり、神聖な場所だったので処刑をしたとは考えられないと研究者は語っている。

    当時の中司宏枚方市長が1998(平成10)年に町おこしとして写真の「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑を建て、処刑地である首塚とした。造成直前の牧野公園の1952(昭和27)年の写真には塚は確認できない。この場所は朝廷が狩りをする禁野であり、神聖な場所だったので処刑をしたとは考えられないと研究者は語っている。

    伝 阿弖流為 母禮之塚 名所・史跡

  • 牧野公園の隣には片埜神社がある。第11代垂仁天皇の頃、出雲の豪族の野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞としてこの地を拝領し、建速須佐之男命を祀ったのがはじまりといわれる。野見宿禰の後裔である菅原道真も天神として祀られた。

    牧野公園の隣には片埜神社がある。第11代垂仁天皇の頃、出雲の豪族の野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞としてこの地を拝領し、建速須佐之男命を祀ったのがはじまりといわれる。野見宿禰の後裔である菅原道真も天神として祀られた。

    片埜神社(かたの神社) 寺・神社

  • 境内に入ると、写真の拝殿が見える。戦国の争乱で兵火に見舞われ荒廃した。大坂城の鬼門の方角にあり、鬼門鎮護の神社として豊臣秀吉が庇護したことから、河内北部における鬼門方除け・家相方位の守り神として信仰されている。

    境内に入ると、写真の拝殿が見える。戦国の争乱で兵火に見舞われ荒廃した。大坂城の鬼門の方角にあり、鬼門鎮護の神社として豊臣秀吉が庇護したことから、河内北部における鬼門方除け・家相方位の守り神として信仰されている。

    片埜神社(かたの神社) 寺・神社

  • 写真は片埜神社の本殿で、1602(慶長7)年に豊臣秀頼により本殿、拝殿が大造営されたが、本殿と南門が現存している。本殿は三間社流造、檜皮葺で国の重要文化財に指定されている。

    写真は片埜神社の本殿で、1602(慶長7)年に豊臣秀頼により本殿、拝殿が大造営されたが、本殿と南門が現存している。本殿は三間社流造、檜皮葺で国の重要文化財に指定されている。

    片埜神社(かたの神社) 寺・神社

  • 片埜神社から歩いて15分ほどで車塚公園に到着。公園の南に写真の牧野車塚古墳がある。墳形は前方後円形で、墳丘長は107.5m、墳丘は2段築成。墳丘表面の葺石は板石を使った特異なもので、徳島県・兵庫県産の石材が使用されている。古墳時代前期中葉の4世紀後半頃の築造と推定されている。公園を散策して、京阪本線牧野駅に戻る。

    片埜神社から歩いて15分ほどで車塚公園に到着。公園の南に写真の牧野車塚古墳がある。墳形は前方後円形で、墳丘長は107.5m、墳丘は2段築成。墳丘表面の葺石は板石を使った特異なもので、徳島県・兵庫県産の石材が使用されている。古墳時代前期中葉の4世紀後半頃の築造と推定されている。公園を散策して、京阪本線牧野駅に戻る。

    車塚公園 公園・植物園

  • 牧野駅から京阪本線で枚方公園駅に行く。駅の西出口には常夜灯があり、写真の枚方宿案内図もある。枚方宿は東海道五十三次の延長である京街道にあり、東海道で数えると56番目の宿場となる。駅から歩いて淀川の河川敷に向かう。

    牧野駅から京阪本線で枚方公園駅に行く。駅の西出口には常夜灯があり、写真の枚方宿案内図もある。枚方宿は東海道五十三次の延長である京街道にあり、東海道で数えると56番目の宿場となる。駅から歩いて淀川の河川敷に向かう。

    枚方公園駅

  • 河川敷の手前に写真の「明治18季洪水碑」がある。1885(明治18)年6月には梅雨の長雨が続き、堤防が決壊し洪水で淀川左岸一帯が水没した。さらに、7月にも豪雨に見舞われ復旧中の堤防が再び決壊し、濁流は寝屋川流域にも広がり大阪府下で7万戸余が浸水するという未曾有の大洪水となった。碑は洪水の翌年に建立された。

    河川敷の手前に写真の「明治18季洪水碑」がある。1885(明治18)年6月には梅雨の長雨が続き、堤防が決壊し洪水で淀川左岸一帯が水没した。さらに、7月にも豪雨に見舞われ復旧中の堤防が再び決壊し、濁流は寝屋川流域にも広がり大阪府下で7万戸余が浸水するという未曾有の大洪水となった。碑は洪水の翌年に建立された。

    明治十八季淀川洪水碑 名所・史跡

  • 洪水碑から少し歩くと、写真の「郵便屋の渡し跡」碑がある。昔、淀川には橋がなく 枚方から対岸に行く唯一の交通機関は枚方の渡しと呼ばれる渡し舟だった。 1877(明治10)年、対岸に東海道線が開通したので、淀川左岸一帯の郵便物は枚方の逓送夫が渡しを利用して高槻駅まで運んだ。

    洪水碑から少し歩くと、写真の「郵便屋の渡し跡」碑がある。昔、淀川には橋がなく 枚方から対岸に行く唯一の交通機関は枚方の渡しと呼ばれる渡し舟だった。 1877(明治10)年、対岸に東海道線が開通したので、淀川左岸一帯の郵便物は枚方の逓送夫が渡しを利用して高槻駅まで運んだ。

    郵便屋の渡し跡の碑 名所・史跡

  • 枚方宿の西端に西見附がある。見附とは、もともと見張りの番兵を置いた軍事施設のことだった。宿場の入り口の見附は土手や柵を設けた簡易な防御施設であり、同時に宿場の範囲を示す役割を持っていた。ケンペル、申維翰、ツンベルク、アーネスト・サトウなどの外国人旅行者が枚方宿のことを記録に残している。

    枚方宿の西端に西見附がある。見附とは、もともと見張りの番兵を置いた軍事施設のことだった。宿場の入り口の見附は土手や柵を設けた簡易な防御施設であり、同時に宿場の範囲を示す役割を持っていた。ケンペル、申維翰、ツンベルク、アーネスト・サトウなどの外国人旅行者が枚方宿のことを記録に残している。

    枚方宿西見附跡 名所・史跡

  • 枚方宿に入ると、鍵屋の建物が見える。江戸時代の枚方は宿場町であり、伏見と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港でもあった。江戸時代「蔵の鍵」は富の象徴であり、商売繁盛を願って鍵屋という屋号がつけられたと言われている。写真のうだつには鍵屋のシンボルである鍵マークが見える。鍵屋は上方落語「三十石」にも登場する。

    枚方宿に入ると、鍵屋の建物が見える。江戸時代の枚方は宿場町であり、伏見と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港でもあった。江戸時代「蔵の鍵」は富の象徴であり、商売繁盛を願って鍵屋という屋号がつけられたと言われている。写真のうだつには鍵屋のシンボルである鍵マークが見える。鍵屋は上方落語「三十石」にも登場する。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 市立枚方宿鍵屋資料館は、1997(平成9)年まで料理旅館であった「鍵屋」の建物を利用している。京街道に面していた鍵屋は、江戸時代には宿屋を営み、また、幕末頃になると淀川 三十石船の「船待ち宿」としても繁盛した。近代以降は、枚方きっての料理旅館として、枚方周辺の人々に宴席の場を提供してきた。

    市立枚方宿鍵屋資料館は、1997(平成9)年まで料理旅館であった「鍵屋」の建物を利用している。京街道に面していた鍵屋は、江戸時代には宿屋を営み、また、幕末頃になると淀川 三十石船の「船待ち宿」としても繁盛した。近代以降は、枚方きっての料理旅館として、枚方周辺の人々に宴席の場を提供してきた。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 敷地内には、「主屋」と「別棟」の2つの建物がある。主屋は1811(文久8)年の建築で枚方宿を代表するの町家で、枚方市有形文化財。表玄関は京街道に、裏玄関は淀川に面し船の乗降に最適の構造になっていた。写真は船待合だったスペース。主屋は天井が高く、竈や駕籠、火鉢、お膳、箪笥、当時の旅人の服装などが展示されている。

    敷地内には、「主屋」と「別棟」の2つの建物がある。主屋は1811(文久8)年の建築で枚方宿を代表するの町家で、枚方市有形文化財。表玄関は京街道に、裏玄関は淀川に面し船の乗降に最適の構造になっていた。写真は船待合だったスペース。主屋は天井が高く、竈や駕籠、火鉢、お膳、箪笥、当時の旅人の服装などが展示されている。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 別棟は昭和初期に建築されたもので、東西の2棟をつないだ構造になっている。東側棟は主屋と同時期頃の部材を再使用した2階建て。1階には枚方宿関係の歴史資料や発掘遺物、民俗資料が展示され、模型で当時の様子が再現されている。枚方宿の歴史を学べる展示施設であり、往時の旅の雰囲気を体感できる。鍵屋が登場する古文書や鍵屋旧蔵資料なども展示されている。

    別棟は昭和初期に建築されたもので、東西の2棟をつないだ構造になっている。東側棟は主屋と同時期頃の部材を再使用した2階建て。1階には枚方宿関係の歴史資料や発掘遺物、民俗資料が展示され、模型で当時の様子が再現されている。枚方宿の歴史を学べる展示施設であり、往時の旅の雰囲気を体感できる。鍵屋が登場する古文書や鍵屋旧蔵資料なども展示されている。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 淀川交通について紹介、三十石船や煮売茶舟に関係する絵画資料などを展示されている。また、くらわんか舟での掛け合いを再現した立体映像もある。写真は枚方付近を往来する乗合船の三十石船に漕ぎ寄せ、餅やごんぼ汁などを売る「くらわんか舟」の復元模型をである。船上に火床を置き、煮炊きができる小舟であった。

    淀川交通について紹介、三十石船や煮売茶舟に関係する絵画資料などを展示されている。また、くらわんか舟での掛け合いを再現した立体映像もある。写真は枚方付近を往来する乗合船の三十石船に漕ぎ寄せ、餅やごんぼ汁などを売る「くらわんか舟」の復元模型をである。船上に火床を置き、煮炊きができる小舟であった。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 田んぼが多くを占めている明治期の枚方の様子を描いた大絵馬。意賀美神社が1901(明治34)年に奉納したもの。枚方は屈指の宿場町で、北河内を代表する商業地だが、農地も多く伏見のような大都市ではなかった。淀川を航行する蒸気船が描かれていて、明治期の文明開化の雰囲気を感じさせるの絵馬である。

    田んぼが多くを占めている明治期の枚方の様子を描いた大絵馬。意賀美神社が1901(明治34)年に奉納したもの。枚方は屈指の宿場町で、北河内を代表する商業地だが、農地も多く伏見のような大都市ではなかった。淀川を航行する蒸気船が描かれていて、明治期の文明開化の雰囲気を感じさせるの絵馬である。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 西側棟は1928(昭和3)年に新築された。2階は63畳の豪壮な和風建築の大広間がある。大広間は格式の高い部屋に用いる折り上げ格天井や北山杉の床柱など、豪華な仕様になっている。大きな窓からはゆったりと淀川がのぞめ、大広間には中井吟香の枚方宿をバックにした「三十石船」と「くらわんか舟」を描いた絵が飾ってある。

    西側棟は1928(昭和3)年に新築された。2階は63畳の豪壮な和風建築の大広間がある。大広間は格式の高い部屋に用いる折り上げ格天井や北山杉の床柱など、豪華な仕様になっている。大きな窓からはゆったりと淀川がのぞめ、大広間には中井吟香の枚方宿をバックにした「三十石船」と「くらわんか舟」を描いた絵が飾ってある。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 中庭に出ると漆喰仕上げの蔵が美しい。別棟の床の一部がくりぬかれトンネル状となっている。かつて淀川から入った船が別棟を抜けて入館できるようになっているのである。

    中庭に出ると漆喰仕上げの蔵が美しい。別棟の床の一部がくりぬかれトンネル状となっている。かつて淀川から入った船が別棟を抜けて入館できるようになっているのである。

    枚方宿鍵屋資料館 美術館・博物館

  • 鍵屋から2分ほど歩くと、写真の旧枚方宿問屋役人木南喜右衛門家が見える。建物は明治期の2棟形式の町家。二階には京町家でよく見られる特徴的な虫籠窓がある。低い二階の通風や採光のために設けられたもの。屋号は田葉粉屋で、 江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、幕末期には農業経営を発展させ金融業も営んでいた。

    鍵屋から2分ほど歩くと、写真の旧枚方宿問屋役人木南喜右衛門家が見える。建物は明治期の2棟形式の町家。二階には京町家でよく見られる特徴的な虫籠窓がある。低い二階の通風や採光のために設けられたもの。屋号は田葉粉屋で、 江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、幕末期には農業経営を発展させ金融業も営んでいた。

    木南邸 名所・史跡

  • 木南邸から歩いて2分ほどで浄念寺に着く。浄土真宗本願寺派で、1500年頃に岩見入道浄念が開創。西本願寺の門跡御坊。京街道が通る浄念寺前の道路は直角に曲げられた枡形道路になっている。本陣が近いことから隊列を組んでの敵の進入や槍などを持って進撃することを難しくするため、直進できない道路をつくって防御手段にした。

    木南邸から歩いて2分ほどで浄念寺に着く。浄土真宗本願寺派で、1500年頃に岩見入道浄念が開創。西本願寺の門跡御坊。京街道が通る浄念寺前の道路は直角に曲げられた枡形道路になっている。本陣が近いことから隊列を組んでの敵の進入や槍などを持って進撃することを難しくするため、直進できない道路をつくって防御手段にした。

    浄念寺 寺・神社

  • 浄念寺から歩いて3分で願生坊に着く。浄土真宗の中興の祖、蓮如の5男の実如が願生坊の前身である順興寺を建立した。枚方は順興寺の寺内町として栄え、天正年間に織田信長に焼かれた。

    浄念寺から歩いて3分で願生坊に着く。浄土真宗の中興の祖、蓮如の5男の実如が願生坊の前身である順興寺を建立した。枚方は順興寺の寺内町として栄え、天正年間に織田信長に焼かれた。

    願生坊 名所・史跡

  • 慶長年間に東本願寺の教如が順興寺を再建し、寺名を1682(天和2)年に願生坊と改称した。江戸時代には宿場町として発展した。願生坊の境内には写真の親鸞上人像がある。

    慶長年間に東本願寺の教如が順興寺を再建し、寺名を1682(天和2)年に願生坊と改称した。江戸時代には宿場町として発展した。願生坊の境内には写真の親鸞上人像がある。

    願生坊 名所・史跡

  • 願生坊の向かいに大隆寺がある。写真は大隆寺の本堂前にある石碑で、右に伏見宮日承王御旧跡の標柱があり、左に法華宗興隆学林校舎跡の碑が立てられている。大隆寺は、1575(天正3)年京都本能寺・尼崎本興寺第12世日承上人によって開創された法華宗の寺院である。日承上人は、後伏見天皇第7世の皇孫である。

    願生坊の向かいに大隆寺がある。写真は大隆寺の本堂前にある石碑で、右に伏見宮日承王御旧跡の標柱があり、左に法華宗興隆学林校舎跡の碑が立てられている。大隆寺は、1575(天正3)年京都本能寺・尼崎本興寺第12世日承上人によって開創された法華宗の寺院である。日承上人は、後伏見天皇第7世の皇孫である。

  • 大隆寺から歩いて2分で意賀美神社に到着。写真の意賀美神社鳥居をくぐって急な参道の石段を上って行くと境内に到着する。意賀美神社は現在地の約100m南の旧伊加賀村字宮山にあった。淀川の鎮守として創建されたとみられる。万年寺山には須賀神社と万年寺があったが、明治の神仏分離令で万年寺は廃寺となり、仏像等は浄念寺に移された。

    大隆寺から歩いて2分で意賀美神社に到着。写真の意賀美神社鳥居をくぐって急な参道の石段を上って行くと境内に到着する。意賀美神社は現在地の約100m南の旧伊加賀村字宮山にあった。淀川の鎮守として創建されたとみられる。万年寺山には須賀神社と万年寺があったが、明治の神仏分離令で万年寺は廃寺となり、仏像等は浄念寺に移された。

    意賀美神社(おがみ神社 枚方市) 寺・神社

  • 1909(明治42)年、須賀神社と日吉神社は意賀美神社に合祀され、万年寺山の現在地に遷座された。写真は意賀美神社の本殿。境内には梅林があり、100本の梅の木が植えられ、梅の名所となった。「万年寺山の緑陰」は枚方八景に選ばれている。

    1909(明治42)年、須賀神社と日吉神社は意賀美神社に合祀され、万年寺山の現在地に遷座された。写真は意賀美神社の本殿。境内には梅林があり、100本の梅の木が植えられ、梅の名所となった。「万年寺山の緑陰」は枚方八景に選ばれている。

    意賀美神社(おがみ神社 枚方市) 寺・神社

  • 意賀美神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土している。この場所は枚方丘陵の最北端にあり、標高は31mある。写真は万年寺山遺跡1号石棺で組合式箱形石棺と呼ばれ、この石棺から出土品がないので時期を決定することは難しい。

    意賀美神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土している。この場所は枚方丘陵の最北端にあり、標高は31mある。写真は万年寺山遺跡1号石棺で組合式箱形石棺と呼ばれ、この石棺から出土品がないので時期を決定することは難しい。

    万年寺山 自然・景勝地

  • 意賀美神社から2分で御茶屋御殿跡に出る。御茶屋御殿は1595(文禄4)年に秀吉が、茶会を催すために建てた。秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたと言われている。江戸時代には御茶屋御殿は幕府公用の施設となった。1623(元和9)年に2代将軍徳川秀忠、1626(寛永3)年に3代将軍徳川家光が逗留した記録が残されている。

    意賀美神社から2分で御茶屋御殿跡に出る。御茶屋御殿は1595(文禄4)年に秀吉が、茶会を催すために建てた。秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたと言われている。江戸時代には御茶屋御殿は幕府公用の施設となった。1623(元和9)年に2代将軍徳川秀忠、1626(寛永3)年に3代将軍徳川家光が逗留した記録が残されている。

    御茶屋御殿跡展望公園 公園・植物園

  • 御茶屋御殿跡は展望広場として整備され、写真のように京街道を見下ろす位置にあり、眺望も素晴らしい。枚方城の南に位置し、枚方丘陵の最突端にあり、淀川の対岸にある西国街道も眺めることができることから軍事的にも重要な位置にあったと考えられる。<br />

    御茶屋御殿跡は展望広場として整備され、写真のように京街道を見下ろす位置にあり、眺望も素晴らしい。枚方城の南に位置し、枚方丘陵の最突端にあり、淀川の対岸にある西国街道も眺めることができることから軍事的にも重要な位置にあったと考えられる。

    御茶屋御殿跡展望公園 公園・植物園

  • 御茶屋御殿広場から写真の式内意賀美神社北坂を下りて行くと、三杉大神や亀石地蔵堂がある。ここから京阪本線のガードをくぐって三矢公園に向かう。<br /> 

    御茶屋御殿広場から写真の式内意賀美神社北坂を下りて行くと、三杉大神や亀石地蔵堂がある。ここから京阪本線のガードをくぐって三矢公園に向かう。
     

    万年寺山 自然・景勝地

  • 式内意賀美神社北坂から3分ほど歩くと三矢公園に出る。公園の入口に写真の「東海道枚方宿本陣跡」の石碑と案内板が設置されている。本陣とは公家、大名などが休憩・宿泊する施設で、一般の旅人は利用できなかった。三矢村のこの場所に枚方宿本陣が建っていて、池尻善兵衛家が代々本陣職を務めてきた。

    式内意賀美神社北坂から3分ほど歩くと三矢公園に出る。公園の入口に写真の「東海道枚方宿本陣跡」の石碑と案内板が設置されている。本陣とは公家、大名などが休憩・宿泊する施設で、一般の旅人は利用できなかった。三矢村のこの場所に枚方宿本陣が建っていて、池尻善兵衛家が代々本陣職を務めてきた。

    本陣跡 名所・史跡

  • 三矢公園から淀川に向かって2分ほど歩いて府道139号を渡ると、写真の淀川資料館に着く。入館は無料。1977(昭和52)年に開館した日本で最初の河川博物館である。淀川の治水、利水、環境、防災といった内容について興味をもてるよう工夫して、資料を展示している。

    三矢公園から淀川に向かって2分ほど歩いて府道139号を渡ると、写真の淀川資料館に着く。入館は無料。1977(昭和52)年に開館した日本で最初の河川博物館である。淀川の治水、利水、環境、防災といった内容について興味をもてるよう工夫して、資料を展示している。

    淀川資料館 美術館・博物館

  • 館内には3つのコーナーがある。写真は「くらしと淀川」コーナーで、江戸時代に使われた三十石船やくらわんか船の模型、発掘された「くらわんか茶碗」などを展示。「淀川の環境」コーナーでは淀川に住むナマズやニホンウナギ、フナなどを飼育して展示しいる。

    館内には3つのコーナーがある。写真は「くらしと淀川」コーナーで、江戸時代に使われた三十石船やくらわんか船の模型、発掘された「くらわんか茶碗」などを展示。「淀川の環境」コーナーでは淀川に住むナマズやニホンウナギ、フナなどを飼育して展示しいる。

    淀川資料館 美術館・博物館

  • 「淀川の歴史」コーナーでは明治から昭和初期にかけての貴重な工事図面や写真等を展示。写真中央の人物は淀川の治水工事実現に貢献した大橋房太郎。大阪市鶴見区に生まれ、1885(明治18)年の淀川の大洪水で大きな被害が出たことを知り、31歳で大阪府会議員となった。淀川改修の必要性を国に訴え1896(明治29)年、淀川を含む河川改修法案が国会で可決された。

    「淀川の歴史」コーナーでは明治から昭和初期にかけての貴重な工事図面や写真等を展示。写真中央の人物は淀川の治水工事実現に貢献した大橋房太郎。大阪市鶴見区に生まれ、1885(明治18)年の淀川の大洪水で大きな被害が出たことを知り、31歳で大阪府会議員となった。淀川改修の必要性を国に訴え1896(明治29)年、淀川を含む河川改修法案が国会で可決された。

    淀川資料館 美術館・博物館

  • 淀川資料館の前の府道13号を10分歩くと天野川の手前にある東見附に着く。枚方宿の東端にあり、道の両側に柵で囲われた松が植えられていた。『河内名所図会』には淀・伏見方面に向かう大名行列が天野川の橋に差しかかり、見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれている。紀伊徳川家は参勤交代の際、天野川には専用の仮橋が架けられた。

    淀川資料館の前の府道13号を10分歩くと天野川の手前にある東見附に着く。枚方宿の東端にあり、道の両側に柵で囲われた松が植えられていた。『河内名所図会』には淀・伏見方面に向かう大名行列が天野川の橋に差しかかり、見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれている。紀伊徳川家は参勤交代の際、天野川には専用の仮橋が架けられた。

    枚方宿東見附跡 名所・史跡

  • 東見附から京阪本線枚方市駅に向かって5分ほど歩くと写真の宗佐の辻がある。「右 大坂みち」と書かれている。京街道と磐船街道の合流点で、かつて製油業を営んでいた商人・角野宗佐の屋敷があったことから、宗佐の辻と呼ばれている。枚方宿の遊郭から客が帰るときに遊女が宗佐の辻まで見送ったそうだ。宗佐の辻の道標は、市の登録文化財になっている。ここから枚方市駅に行き、散策は解散。

    東見附から京阪本線枚方市駅に向かって5分ほど歩くと写真の宗佐の辻がある。「右 大坂みち」と書かれている。京街道と磐船街道の合流点で、かつて製油業を営んでいた商人・角野宗佐の屋敷があったことから、宗佐の辻と呼ばれている。枚方宿の遊郭から客が帰るときに遊女が宗佐の辻まで見送ったそうだ。宗佐の辻の道標は、市の登録文化財になっている。ここから枚方市駅に行き、散策は解散。

    宗佐の辻 名所・史跡

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