2022/04/25 - 2022/04/30
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ばねおさん
2019年4月15日の火災から3年が過ぎたノートルダム大聖堂は、2024年4月16日の再開に向けて、ほぼ計画通りに再建作業が進められているようだ。
修復工事期間中に出火した大聖堂は、尖塔や屋根が焼失しただけでなく、尖塔を取り囲んでいた大量の作業用足場材が溶解し、焼け落ちた石材などと複雑に入り組んだ瓦礫となった。大聖堂の屋根には鉛板が用いられていたため、この汚染被害も深刻なものであった。
さらなる崩壊を招きかねない危うい状態の中で、慎重に時間をかけて瓦礫を撤去し、多量の鉛の汚染除去を終え、いよいよこれからが本当の修復再建作業となる。
焼失後に大統領が表明した、現代的なフォルムで新たなる聖堂を建てるとした案は、おそらく世界中の多くの有名建築家たちの気持ちを駆り立てたに違いないが、火災前の姿に復元することが正式に決定された。
折に触れ、立ち寄っては作業の様子を眺めている大聖堂だが、具体的な状況は外部からはなかなか窺えない。
そうした中、火災時の消火活動や再建に向けた作業の歩みを公開し、同時に創建から850年の歴史も学べる展示がパリ5区のコレージュ・デ・ベルナルダン Le Collège des Bernardins で催されている。
題して「ノートルダム・ド・パリ (NOTRE-DAME DE PARIS, L’EXPOSITION AUGMENTÉE)」。4月から7月にかけての期間限定であることが惜しいが、4月25日と28日の2回にわたって鑑賞をしてきた。
コレージュ・デ・ベルナルダンはノートルダム大聖堂と同時代の中世の神学校で、大がかりな改修工事のあと2008年に神学教育施設兼文化センターとして再発足している。
ノートルダムにも近く、こうした展示を開くにはまことにふさわしい場所だ。
観覧方法もAR(拡張現実)の手法を取り入れた斬新なもので、フランスではすでにシャンポール城などいくつかの見学施設で取り入れられているという。
入場者ひとりづつにHistovery(ヒスカバリー)というタブレット端末が手渡され、操作しているうちに展示内容と一体感が生まれ、いつしかその世界に没入しているというもので、なかなか面白い。自分も初めての体験ですっかり魅了された。
美術館でよくある音声ガイドとは異なり、ちょっとタイムスリップしたかのような体験感に老若男女問わず引きずり込まれている様子を見ると、これからの展覧会の有り様をを示している気もする。
最新の研究成果のチェックを受けた展示内容はとても濃厚で、今までほとんど知られることのなかった興味深い数多くの事柄も明らかにされている。
こうしたすぐれた展覧会にもかかわらず一切が無料であることも驚きだ。
化粧品大手のロレアル L'Orealがスポンサーとなっている所以だろうか。
ロレアルはロシアの事業の一部を閉鎖したものの、なお依然として批判を浴びている企業のひとつなので、少々複雑な思いがあるが、フランスの多くの大企業が文化活動に援助を惜しまないという伝統はここでも生きている。
この展示では触れられていなかったが、この3月には大聖堂の内陣下で驚くべき発見があった。
尖塔再建作業の足場を組み立てる前に、内陣の考古学的予備調査が行われたのだが、ここで人型鉛棺が発見されたのだ。
内陣の下に埋葬されているのだから、よほど高位の人物に違いないとあれこれ憶測を呼んでいるが、さらに4月にもうひとつの鉛棺も発見されたと報じられている。
しかもこの大聖堂の最も神聖な位置に埋葬されているという。
髪や衣服の繊維等も棺内に残存しているようで、今後のDNA鑑定等の結果が待ち遠しい。
手元にちょうど読みかけのアリス・ロバーツの本があり、最新の遺伝学、解剖学、人類学の驚異的な発展を知ったばかりなのだが、おそらくしっかりとした「身元調査」結果が出てくるに違いない。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ラテン地区にあるコレージュ・デ・ベルナルダン Le Collège des Bernardins の周辺には、道標がいくつも設置されていて、同所への道案内をしてくれる。
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周囲の建物群とは明らかに趣の異なる、中世の神学校、修道士たちの寄宿舎らしい佇まいが現れるパリ第5区ポワシー通りRue de Poissy。
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2022年4月から7月17日までの期間限定で「ノートルダム・ド・パリ展 NOTRE-DAME DE PARIS, L’EXPOSITION AUGMENTÉE 」が開催中。
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建物に通じる外階段には、ノートルダムのバラ窓が転写されていた。
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会場の入り口では、火災で尖塔や屋根が崩れ落ちる真下にありながら、奇跡的に無傷であった有名な聖母子像のレプリカが迎えてくれた。
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コレージュ・デ・ベルナルダンが大幅な改修工事を終えて、一般に公開されたのが2008年。
その10周年にあたる3年半前の2018年9月に訪れた当時のコレージュ・デ・ベルナルダンの内部の様子がこちらの写真。
長さが約70m、幅約14m、高さが約6mという身廊の大きさは、パリで最大規模であるという。 -
当時はほとんど何もなかった身廊だったが、今では書店コーナーや喫茶スペースが設けられている。
修復された中世の神学校の建物の中で、のんびりとお茶を飲みながらひとときを過ごすのも悪くない雰囲気だ。簡単な食事メニューも用意されている。 -
入館は無料。催しの入場も無料。
但し、展覧会はWebでの予約も可能なので、1日目は予約なしで行ったため次の空き時間帯までコーヒーを飲みながら1時間ほど入場を待つこととなった。 -
さて、無料チケットを発券してもらって指定された時間に入場。
これはまだ会場の入り口近くなのだが、タブレットの使い方を習得するや否や、大人も子供も完全に没我状態。
その場に座り込んだり、宙にかざしてみたり、もう夢中。
いやいや展示に進む前に、こちらの光景がはるかに興味をそそる。 -
タブレットは言語が選べるようになっていて、日本語もしっかり用意されている。
展示のコーナーごとに設定されているテーマを、タブレットをかざしてスキャンするとたちまちそのテーマの世界が展開する。 -
まずは火災の記録から。
2019年4月15日午後6時20分に火災警報器が発報。
大聖堂のセキュリティマップには「身廊聖具室」と表示されており、この曖昧な言葉が出火場所の確認を手間取らせたという。
実際の火元は尖塔の下の骨組みの位置で、午後6時50分に消防に通報をするまでの貴重な時間がここで失われてしまった。 -
駆けつけた消防隊の最初の数本の消火ホースは、階段を使って尖塔の最上部まで運ばれた。
しかし火災用配水管のひとつがこの高さの水圧に耐えられなかったため、大聖堂正面壁に水圧を確保できるホースが設置されて水を供給し、屈折はしご付き消防車からの放水も同時に行われた。 -
消防隊の懸命の放水作業によっても火勢は衰えず、午後8時には尖塔が崩壊した。
この場面は多くの人がニュースで目にしているはずだ。
尖塔と屋根が崩落したことで大聖堂内に外気が流れ込み、火炎は建物全体にさらに拡大する勢いを見せた。 -
午後9時15分頃、北塔(鐘楼)を救うために30人の消防隊を送り込むことが決定された。志願した隊員たちは「鐘楼特別隊」と呼ばれる決死隊チームを組んで現場に向かった。
高さ60mでの狭い場所での消化活動は困難を極め、隊員の命も危険にさらされたが、消防隊は午後10時頃に塔内に広がる火の手を食い止めることに成功した。
落下物や熱から保護する消防隊の強靭なヘルメットも、高熱によって変色してしまったものもあったほどであった。 -
午後10時45分過ぎに、消防隊と文化省の職員たちが、大聖堂の宝物の中でも最も重要な5点を短時間で搬出した。
対象となった宝物は、事前に策定されていた緊急時ルールに基づいて選ばれていた品々で、消防隊がすでに救出していた56点の貴重な調度品と共にパリ市庁舎に運ばれ、厳重に保管されることになった。
ここで最も重要な宝物とは、ルイ9世が国家予算の半分を費やして入手したとされるキリストのイバラの冠や磔刑の木片や釘などの聖遺物を意味しているのだろう。 -
鎮火が確認されたのは、翌午前2時であった。
火災の後、次に心配されたのが雨水の侵入だ。
尖塔も屋根も崩落した無蓋の建物内部に雨水が浸透しないように、5日間かけて最初の防水シートがかけられ、作業は降雨の前に終了することができた。 -
また、火災により骨組みが焼失したため、翼廊の北側と南側の切妻壁を支えるものがなくなり極めて不安定な状態になってしまっていた。
頂上部には数百キロの彫像が残されていたため、これを取り外して木製の支柱を用いて全体を強化する作業を加えた。 -
200トンもの焼けた残物がヴォールトにのしかかり常に崩壊の危険があった。
最も厄介なのは火災発生当時 尖塔を囲んで組まれていた足場が溶解し、もつれあって複雑な瓦礫になってしまったことだ。
4万点にも及ぶ部材を、バランスを崩して崩落する危険を避けながら根気よく解体し撤去する作業は2020年11月まで続いた。 -
翼廊の交叉部に飾られていた有名な聖母子像は、崩落した屋根の真下にあったにもかかわらず奇跡的に無事であった。
像の周囲には焼失して落下してきた木材や石材が散乱して積み重なっている様子が見て取れる。
信者ならずとも奇跡的だと思うのだから、信者であればこれはまさしく奇跡だと言うに違いない。 -
火災から10日後に聖母子像は慎重に取り外された。
今回の火災でさらに有名な存在になったので、再開のあかつきには崇める人びとが像の下に押し寄せてくるでは、とさえ思えてくる。
偶然とはいえ、奇跡的なことはもう一つある。
尖塔を取り囲むように配置されていた12使徒を含む16体の銅像が修復のために火災発生の数日前に外されていたというのだ。
そのままであったならば、当然焼け落ちていたはずだ。 -
高さ12m、8000本のパイプが使われている欧州最大のパイプオルガンは、火炎や消火の放水の直接的な被害は受けなかったものの、屋根の崩壊による鉛の埃汚染の影響を受けていることが明らかであった。
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このため2020年8月から12月にかけて、全国からやってきたオルガン製造者が修復のためにパイプを取り外す作業を行なった。
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取り外されたパイプは、清掃と修復作業を施した後に大聖堂に再び設置され、その後は半年かけて整音・調律されることになっている。
2024年の再開後には再びその荘厳な音色が聞けるはずだ。 -
2019年12月に設置された欧州最大の80mのタワークレーンが足場の解体と残存物の撤去に活躍してきた。
他にもクレーンが導入されているため、相互の衝突を回避するためのGPSが稼働しているという。 -
2020年7月にノートルダム大聖堂を訪れた際の作業と現場風景の一コマ。
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大聖堂の作業フェンスには、瓦礫となった残存物のひとつひとつにラベルが貼られて分類されている様子が展示されていた。考えただけでも気の遠くなるような作業だ。
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聖堂内の複数のステンドグラスも取り外された。
特にフライング・バットレスの工事作業時にステンドグラスに破損等が生じないようにするとともに、清掃と状態の確認が行われ、必要に応じて修復が施されることになった。
ステンドグラスが外された開口部は資材の搬入にも利用されている。 -
コレージュ・デ・ベルナルダンの一隅に投射された、ノートルダム大聖堂のバラ窓。
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大聖堂の3つのバラ窓のうち、1220年に制作された西側のバラ窓は、最も古く最も小さい(直径9.6m)。
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円の中央部には、マリアがこどものキリストを腕に抱いている聖母子像が描かれている。
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中央部を囲む一つ目の円では、旧約聖書の十二人の預言者の姿が描かれている。
預言者を象徴する護符を手にして、中央のキリストを示しており、人間を罪と死から救うためにキリストが地上に降臨したことを意味している。
そして、さらに外円の上半分には内側に12の悪徳、外側には悪徳と戦う12の美徳が対峙している。
下半分には内側に12星座の星座があり、外側にはその月に対応する農作業が示されている。 -
火災前の状態に復元するには、フォルムだけでなく建物を構成している木材や石材の素材選びから始められている。
大聖堂の屋根と尖塔の骨組みには、2,000本のコナラの木が使われ、「森」と呼ばれている。今回の再建にあたっては、フランスの林業組合の協力を得てコナラの木が調達された
1,000本は大屋根組み、すなわち身廊と内陣の骨組みに用いられ、1,000本は尖塔と隣接の柱間、翼廊に使われる。 -
すでに250ヶ所以上の森で伐採された1,000本が、2022年1月までに45ヶ所の製材所で製材されている。それらを18ヶ月かけて乾燥させた後、5月半ばには工房に送られてさらに精密に加工され、2023年には現地で組み立て作業が始まる。
但し、大屋根用の骨組みになるコナラの木は、2022年から2023年にかけての冬に伐採されるという。尖塔の木材と異なり、大屋根組み用は中世のように「若い」ままで用いられるためであるという。
1,000m3近くの量が必要とされている石材も、同様に中世の大聖堂建設に用いられた石に最も近い石灰岩が各地で切り出されている。 -
ノートルダム大聖堂の歴史は、1163年頃、パリのモーリス・ド・シュリー司教が提案した新たな大聖堂の建設という構想から発している。
シテ島にはサンテティエンヌ大聖堂があったものの、高まる信仰心と増え続ける信者を迎え入れるには狭くなりすぎていた。
司教の提案を議論する会議は、サンテティエンヌ大聖堂の前で行われ、同聖堂の取り壊しと新たな大聖堂の建設がここで決められた。
長期にわたって要する莫大な建設費用はパリ司教区の収入だけでなく、フランス国王、貴族、ブルジョワ階級、職人や商人の組合など、王国内の数多くの寄付にも頼ることになった。 -
取り壊しが決まったサンテティエンヌ大聖堂は、ミサや礼拝が同所で継続して行われるように少しづつ解体された。
サンテティエンヌ大聖堂と周辺の建物の取り外された石材は、ノートルダム大聖堂の基礎部分に再利用されている。 -
シテ島の河岸では、工事現場に必要な何トンもの石や木材が平底船で運ばれ、毎日荷下ろしがされていた。また、先端部では、工事に従事する数百人の様々な種類の職人たちのための食材が運び込まれていた。
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巨大な建物を支えられるだけの安定した地盤に達するために、地面は6~10mの深さまで掘り下げられた。
掘削して出た大量の土は、河岸を強固にし、土手を広げ、周辺の畑を肥やすために利用された。 -
モーリス・ド・シュリー司教が求める大聖堂は、パリ司教の権威を反映するような偉大な存在として、他に比類なき美しさと壮大な規模でなければならなかった。
それに応える石造りのヴォールトの高さは35mもあり、12世紀当時は圧倒的な高さで、建物は全体的な安定性の確保が極めて重要であった。
高さの実現と光を取り込むために、ゴシック建築における2つの重要な革新的技術が用いられた。
一つ目はリブ・ヴォールトで、加重が壁ではなく柱に分散されるため、壁を薄くして高くするだけでなく、開口することが可能になった。
二つ目は外側のフライング・バットレス(飛梁)で、ヴォールトが壁にかける横加重を受け止める役割を果たした。 -
上部の骨組みは、「小屋組み」と呼ばれる三角形のモジュールで構成された。
主小屋組みと二次小屋組み(垂木)を交互に組み合わせることによって、屋根は尖塔を聳え立たせるだけの強度を確保することができた。
主小屋組みは、35m以上の高さにある仮板の上で組み立てられ、梁は、地上で事前につけられた目印の切り込みを使って正確に組み込まれた。 -
建設資材は巻き上げ装置を使ってから地上から引き上げられていた。
屋根板の材料には、高価ではあったが耐水性と展性にすぐれ、長持ちがする鉛が採用された。
2019年4月の火災前には、1,326枚の鉛板が使われていたという。 -
鉛板は長さが約3m、幅が約1mでサイズを揃えられ、ロール状にして引き上げられた。これを屋根葺き職人が骨組みの上で広げて固定していくのだが、重さは何と約180kgもある。
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大聖堂の最も神聖な場所である内陣ができたのは1180年頃とされている。
内陣は、ミサをあげたり、時祷書の聖務を執り行う司教や司教座聖堂参事会員だけが入ることが許された。
一般の信者は周歩廊から、格子のある石の仕切りを通して、わずかに内陣の様子をうかがうことができるだけであった。 -
内陣の石製の仕切りは、1630年に金箔の木製の覆いが施された。
その70年後の1699年のルイ14世による内陣の改装工事では、鉄製の仕切りに置き換えられ、同時にゴシック様式の柱は嫌われて大理石の化粧板で覆われた。
このため、信者たちは内陣の様子を以前よりもはっきりと見ることができるようなった。
しかしその約1世紀後には、鉄製の仕切りはノートルダム大聖堂に中世の様相を取り戻すためにヴィオレ・ル・デユックによって取り壊された。 -
ノートルダム大聖堂850年の歴史は数々の重要な出来事の舞台でもあった。
主だったものだけでも、1572年の宗教戦争の結婚式、1638年のルイ13世の誓い、1789年の大革命、1804年のナポレオンの戴冠と憲法の宣誓、1830年の7月革命等々と時代による浮き沈みも激しかった。
聖職者の特権に対して民衆の信仰心は次第に変化し、革命によって宗教と君主制の象徴的存在であった大聖堂は破壊や略奪の対象となった。
大聖堂の正面や外廊からは、ほとんど全ての彫像は撤去されあるいは粉々に破壊された。
1795年になって大聖堂が聖職者の手に戻された時には、彫像はほとんど無い悲惨な状態になっていた。 -
1831年にヴィクトル・ユーゴが書いた『ノートルダム・ド・パリ(邦題は、ノートルダムのせむし男)』が大ヒットすると、作品の舞台である大聖堂に国民の関心が向けられ、この国家資産を保全しようとする好意的な流れが生まれてきた。
やがて、大聖堂を救う必要性が国民全体に強く認識されてくると、コンペを実施して修復プロジェクトを始めることが決められた。 -
1842年に始まった大聖堂の修復プロジェクトコンペに優勝したのは、当時の有名な建築家ジャン・バチスト・ラッシュ(1807~1857)と、わずか28歳のパートナー、ヴィオレ・ル・デユック(1814~1879)だった。
ジャン・バチスト・ラッシュは修復工事半ばで亡くなったため、ヴィオレ・ル・デユックにプロジェクトの裁量が委ねられた。
彼には、大聖堂を単に修復するだけでなく、これまでにない完璧な状態を完成させるという壮大な考えがあった。そして、その考えを実行できるだけの幅広い知識と想像力を持ち、現実認識力と豊かな人間性も具備していた。
1250年に建てられた元の尖塔は、老朽化のために1786年~1797年に解体されてすでに存在していなかったが、ヴィオレ・ル・デユックが新たに設計した尖塔は、元の形よりもスラリとして装飾が施され、さらに立派なものになった。 -
ガーゴイルという、中世の建築家が考案した排水システムは現在でも受け継がれている。
軒樋の水はまずは上部のガーゴイルを使って排水される。
ガーゴイルは屋根の水をフライング・バットレスの頂上部に掘られた水路に吐き出し、フライング・バレットの端にあるガーゴイルから地面に向けて排水される。 -
こうして外壁から遠くに排水することで、雨水は基礎部に影響を与えることがなくなり、建物を守ることができる。
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最初のガーゴイルは1225年、つまり建設が始まってから60年近く経ってから設置されたもので大聖堂の軒樋を飾っていたが、傷みがひどく、ヴィオレ・ル・デユックはこれらガーゴイルを丁寧に修復した。
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一方、ガーゴイルと並んで大聖堂を特徴づけるキマイラ(ギリシャ神話に登場する怪物)だが、中世には存在していなかった。キマイラの彫像はヴィオレ・ル・デユックが考案したもので、装飾のためだけに追加されたものだ。
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中世の架空動物誌からインスピレーションを受けた想像上の生き物を使って、ヴィオレ・ル・デユックが生み出した作品のなかで最も知られているのが、このストリゲスの彫像。
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革命期に損壊されてしまっていた、聖堂の正面や側廊に飾られていた聖人たちの彫像は、ヴィオレ・ル・デユックによって新たに設置された。
かって大聖堂を飾っていた彫像たちの行方が判明したものもある。
1838年には頭部や手足が切断された15体の彫像が、サンテ通りの境界標として埋められているのが発見された。
また、1977年には21体の頭部が、おそらくはかっての王党派でカトリック教徒であったであろう個人の邸宅から発見された。
いずれも今では中世美術館で保管されている。 -
ヴィオレ・ル・デユックの遺した9巻の中世フランス建築の百科事典。
彼自身の記したクロッキーやデッサンも大量に掲載されている。
あるいはノートルダム大聖堂の復元とは、ヴィオレ・ル・デユックという19世紀の天才建築家が修復し、その想像力によって「完璧な状態」にした形に戻すことだといえるかもしれない。
ヴィオレ・ル・デユックはパリのノートルダム大聖堂の他にも、アミアン大聖堂、トウルーズのサン・セルナン大聖堂、カルカッソンヌの中世都市、ピエールフォン城の修復も指揮している。 -
溶解し崩壊した瓦礫を撤去し、清掃を終えた大聖堂は、尖塔再建のための足場を組み立てる前に、内陣下の考古学的予備調査が行われることになった。
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すると内陣の下から人型の鉛棺が発見された。
これが3月のことで、さらに4月にも発見が報じられている。
墓所なので棺が埋葬されていること自体は不思議ではないが、石棺ではなく鉛製であること、埋葬場所が大聖堂の最も神聖な位置にあたることなどから相当な高位者であることはわかるが、それが誰なのか?
内視鏡カメラによって、棺内の様子の一部は確認されていて毛髪や繊維、木片等もあるという。
遺体はトウルーズの法医学研究所で解析されることになり、やがてその「身元」は判明するだろう。
ただ、こうした学問的興味に対しての異論もあるようだ。
埋葬された遺体は考古学の対象物ではない、さらには開棺は不幸を招く云々..
聞いたところでは、遺体は法に則って尊重され、必要な学問的調査の後は元の場所に再び埋葬されることにはなっている。
今年は、シャンンポリオンがエジプトの象形文字を解明して200周年、そしてツタンカーメンの墓が発見されて100周年にあたる。
生きている者は死者から学ぶという言葉に従えば、多くの学びがもたらされることを期待したい。
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この旅行記へのコメント (6)
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- yunさん 2022/05/13 02:06:12
- あと2年待てば
- こんばんは
あの火災からもう3年。
COVIDの猛威が大聖堂の不在を狙ったかの様な年月でした。
修復に向けて多くの人々が尽力されている日々ですね。2024年のパリは、大聖堂復活とオリンピックで手が届かなくなりそう。
奇跡の聖母子像の位置を記憶の中でたどりました。火災同時の現場写真からも無傷に見てとれますが、本当に何らかの力が働いたとしか思えませんね。
鉛製人型棺のニュースは全く知りませんでした。調査のためにほんの少しだけお目覚めをいただき、また元にお戻りいただく、これ位なら許してくださるかな。誰なのかなー。
Le Collège des Bernardinsの場所を確かめました。会期中にパリに戻れる筈なのですが…。
パリで観光客が狙われる頻度増加。COVIDの影響で悪さに走る輩も増えたのかもしれませんね。気をつけなくては。
yun
- ばねおさん からの返信 2022/05/13 05:18:40
- Re: あと2年待てば
- こんばんは
今日はメトロのサン・ジャックの駅前を通りましたことをご報告いたします。一応、パリの巡礼路沿いにありますが、ピレネー近くの道とは比較になりませんね。
大聖堂の尖塔は、火災前と同じに復元するという意味では、再建した姿を見て嬉しさはあっても、驚きは起きないかも知れません。
それに対して鉛製人型棺は、未知への興味があってワクワクします。今ところ、棺にネームプレートがなかったことと、年代的に「ノートルダムのせむし男」さんでないことだけははっきりしています。
ー パリで観光客が狙われる頻度増加。COVIDの影響で悪さに走る輩も増えたのかもしれませんね。気をつけなくては。
COVIDはスリの営業にも甚大な影響を与えましたので、業績回復に寄与しないようにする必要があります。
数日前にはウクライナ難民を騙る物乞いに出会いました。
あの手この手で、知恵を絞った様子。
努力賞と言いたいところですが、ウクライナをだしにするとは許せません。御用心ご用心。
ばねお
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- mistralさん 2022/05/09 17:04:51
- その後のノートルダム大聖堂
- ばねおさん
こんにちは。
いつもパリ便りを楽しみにお待ちしています。
あれから3年ですか。
思えば火災で焼け落ちることになったノートルダム大聖堂の塔に上がったのが、その前年の秋の事でした。
長い間会いたいと思っていたキマイラたちとも対面できたことは貴重な思い出となっています。
ニュースで大聖堂が炎に包まれているとのニュースを、信じられない想いで見ていました。
その後3年の年月の経過。
現在近くの神学校で展示会が開かれているというばねおさんからのお知らせは、充分ワクワクするものでした。
タブレットの日本語版を借りて、実際の修復作業がどんなかしらと見てみたいと思ったり
更にはyunさんが今、ル・ピュイの道を歩かれているという旅行記も着々とアップされていますので、羨ましく思ったりしています。
以前焼け落ちた大聖堂への追悼?の想いから、旅行記を一編書きましたが
調べているあいだに、不思議なことに、守られていた大聖堂だった、ということがわかってきたのです。
焼けることのなかった聖母子像
火災にあう数日前に、改修工事に備えて下ろされていた十ニ使徒像
助け出された聖遺物などなど、わかってきて、
もちろん関係者の方々の文化財に対する日頃の姿勢の成果があったのでしょうが、何か大いなるちからのはたらきがあったのやも、なども思ったことでした。
今回、ばねおさんもその事に触れておられましたので、確かな事だったということがわかり、安心もしています。
更には、今回の内陣下、鉛製の棺に眠っておられる方の発見は、素晴らしいニュースですね。
その後研究が進んでいけば、おっしゃいますように多くの学びがもたらされることと想います。
mistral
- ばねおさん からの返信 2022/05/10 05:54:22
- RE: その後のノートルダム大聖堂
- mistralさん
こんにちは
大聖堂の火災の前年秋に行かれて、しっかりと塔にも登ってこられたとは、たしかに今では貴重な思い出ですね。
2024年の再開のあかつきには、世界中から人が押し寄せてくるだろうと思うのですが、どうやって整理するのだろうか、塔に登るなど夢のような話になるのではないかとさえ考えてしまいます。
旧神学校ベルナルダンでの催しは、小規模ながらもかなり充実した内容で、同時期に常に数多くの展覧会が開催されているパリでも指折りに入るものでした。
もともとの知識が乏しいこともあって、2回足を運んで、盛りだくさんの事柄をすくいとってきましたが、もしかしたらもう一回行くかもしれません。
あの助かった聖母子像の運命も興味深いでものです。
聖堂内のあの位置に移動させたのは、ヴィオレ・ル・デユックであったことを知りましたが、まるで何かを予見していたかのようにさえ思えてしまいます。
内陣下で発見された鉛棺の人物が誰なのか、自分としては○△さんではなかろうかと、勝手に想像していますが、果たしてどうなるでしょうか。
その周辺には彩色の施されたキリスト像の頭部や、多量の織物類も見つかっているということですので、今後の解明が楽しみです。
> 更にはyunさんが今、ル・ピュイの道を歩かれているという旅行記も着々とアップされていますので、羨ましく思ったりしています。
欧州ー日本の渡航は、今度はロシアによる侵攻問題によって再び難度が高くなってしまいましたね。
パリでは中心部で多くの観光客を目にするようになりましたが、アジアからはまだ極めて少ないように見えます。それだけに観光客を狙ったスリたちも、手ぐすね引いて待ち構えているようです。(特にパリでは)
先日、ある日本人観光客がスリの一味に取り囲まれて現金やカードを盗まれ、助けを求められたという人の話を聞きました。フランス人でも被害に遭うことは稀ではないので、よほどの注意がこれまで以上に必要かも知れません。
それはともかく、誰もが世界中を自由に往来できる日が待ち遠しいですね。
ばねお
- mistralさん からの返信 2022/05/10 22:42:19
- Re: その後のノートルダム大聖堂
- ばねおさん
ヴィオレ・ル・デュックさんが改修工事にあたり聖母子像をあの位置に移していたんですね。
鎮火した大聖堂内部を移すカメラが、かすかに聖母子像を捉えていた記憶がありますが、まるで奇跡が起こったかのようでした。
塔に上がった当時は、すでにただひたすら並んで待つという従来の方式ではなくなっていました。
アプリを携帯に入れて、そこから申し込みをする、、、
順番が近づいてくると携帯にお知らせがきて、列に加わるという方式でしたから昔のような長蛇の列ではなくなっていました。
それでも2024年再開の時には、世界中から入場希望の方が殺到することでしょうね。
鉛の棺の情報も興味深いことです。
また展示会に行かれたりして新しい情報がおわかりになりましたら、旅行記でのお知らせをお待ちしております。
mistral
- ばねおさん からの返信 2022/05/13 04:34:07
- Re: その後のノートルダム大聖堂
- 大聖堂の塔へのアプローチは、長い行列のイメージを持ち続けていましたが、すでに電子化された管理になっていたんですね。
発見された人型の鉛棺の解明はだいぶ先になるでしょうが、結果が発表されるのをワクワクして待っています。
鉛棺だけでなく、周囲で見つかったさまざまな品々は何を語るのかも、楽しみです。
ただこれらは、尖塔再建のための工事足場を内陣に設置するにあたり、事前の限られた時間で許された調査なので、今は現場での調査は中断しているとのことです。
考古学的調査よりも、再建の作業の進捗を優先するのは止むを得ないのでしょうが、将来的に調査が再開したとしても、大聖堂の公開開始までという期限つきであることが、好奇心優先の自分としてはやや懸念のあるところです。
ばねお
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