2021/11/24 - 2021/11/24
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しにあの旅人さん
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安心院、「あじむ」とよみます。安心院町の妻垣山の中腹に鎮座するのが妻垣神社。
妻垣神社は古事記、日本書紀の神武天皇東征に出てくる「足一騰宮」が元宮とされる古い神社です。
「足一騰宮」これも知らなければ読めない。「あしひとつ・あがりのみや」
この変な神社、というか磐座、というかただの岩が有名なのは、松本清張の小説「陸行水行」の舞台になったからです。
妻垣神社は2回目です。前回は神武天皇巡りで行きました。今回は「陸行水行」を読んで、文学散歩の気分です。
参考資料は「豊前国1」に列挙しました。引用に際し僭越ながら敬称を省略させていただきました。
妻垣神社は大分県の旧安心院町にある古い神社です。1313年成立の「八幡宇佐宮御託宣集」に「都麻垣社」としてでてくるので、14世紀初めに存在していたことは確実だそうです。
九州の神社:大分県・妻垣神社(宇佐市)
http://kyushu-jinja.com/ohita/tsumagaki-jinja/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
県道50からこの鳥居は見えます。鳥居の手前に駐車スペースがありますが、左の坂を上がって下さい。
-
神社の鳥居です。この手前に20台くらいはとめられる駐車場があります。私は、駐車場はスポット口コミに書くことにしていますが、どういうわけか、4トラベルにはこの神社がスポット登録されていません。
追記:その後登録されました。松本清張が愛した妻垣神社、駐車場あり。 by しにあの旅人さん妻垣神社 寺・神社・教会
-
鳥居を右にまくと神社です。2回とも参拝客はほとんどいませんでした。
-
山門をくぐります。
-
拝殿。
前回はここで庭を掃除中の神主さんにお会いしました。お若い方でした。神主さんは神社に常駐していません。
一書に曰く、
ここの宮司さんは、確か妻垣さんというお名前だったように記憶しております。
全国に、神社の名前と宮司さんの名前が一致する例は沢山あります。代々その神社を斎き祀ってきた一族という場合が多いようです。
それで、そのことを伺うと、「いえいえ。」と、ちょっとはにかんだようにおっしゃいました。
まだ少年の面影の残るお若い方で、その口調のイントネーションが、母のふるさととよく似ていて、勝手に懐かしく思いました。
母は、山口県の瀬戸内海側の出身です。
山口→福岡→大分。
遠くに思えますが、船ならすぐです。
山口県と豊の国は、間違いなく同じ文化圏なのですね。
この妻垣宮司さんは、その後、何度もテレビで拝見しました。
NHKの新日本風土記で、松本清張特集をしたときは、ばっちりでていらっしゃいました。貫禄十分、ご立派でした。
嬉しくなっちゃって、パチパチパチなんてしちゃいました。
妻垣宮司さんのお人柄です。
By妻 -
本殿。
もとは茅葺きですが、メンテナンスが大変なので金属板で覆ったそうです。
前回より整備されていました。 -
ご祭神は、
比大神こと玉依姫命(神武天皇の母君)
八幡大神こと応神天皇
神功皇后(息長帯姫命)
宇佐神宮と共通の神様です。 -
今回もう一度妻垣神社に行ってみようと思ったのは、ここなのです。
-
なんという建物なのか分かりません。
-
神社に向かって左隣の古い建物です。集会場のようでした。
-
一書に曰く、
ということで、宮司さんに、もう一度お目にかかれたら。ということもありましたが、もうひとつ、ぜひ、もう一度拝見したいものがございました。
それが、この、お写真です。
by夫は、もう80年近く昔のことだし、実名、経歴を出してもいいのではないかと申しますが、やはり、御関連の方々が、何とお思いになられるか分かりませんので、そこいら辺はぼかして書きます。
神社のお隣に、まるで「二十四の瞳」の分教場みたいな建物がありました。
中は、一間で、仕切ろうと思えば仕切れるかもといった作り。床は板張りです。周囲ぐるりに、机のような台があり、いろいろなものが展示?してありました。
そして、学校なら、黒板を置くところでしょうか、そのあたりの上に、びっしりと写真が飾られていました。
一枚一枚の写真には、簡単な経歴が書いてありました。
いかにも昔の写真です。ほこりっぽく色あせております。興味を持たなかったら、通り過ぎてしまうでしょう。
ところが、一枚一枚拝見していく内に、この写真に出会いました。
By妻 -
T君で名前が紹介してありました。
その下に住所、それから、
「昭和20年3月28日 ビルマ方面に於いて戦死 陸軍少尉」
とありまして、彼の出身学校が書いてありました。
父と同じ宮崎高等農林学校でした。現在の宮崎大学農学部です。
私の父は、子供のころより世界に飛躍したかったそうで、博多の百道の浜の砂を掘って、その穴で寝たとか、武勇伝には事欠かない人だったのですが、おもしろい人でした。
そしてまた、父もビルマに行っておりました。
この方は、昭和20年に戦死なさっています。我が家は、兄が20年1月生まれですから、父は19年には帰国しておりました。
父は終戦のとき大尉だったそうで、母に言わせると、終戦のとき、みんな一階級上げたそうですが、大尉から上は佐官だから、父はすえおきだったとか。
と、考えると、この方は、父の後輩だったのでしょうね。
など、あれやこれや浮かんできます。
その瞬間、この色あせた数々の写真に、色がつき呼吸をし始めました。
近くには、御姉妹の写真もありました。看護師さんでした。戦地で病没されていました。
この山間の地から、子供ふたりに学問をさせたからには、ご実家は、資産家だったのでしょうか。そして、息子ばかりか娘まで失った親御さんは、その後どうなさったでしょう。
この写真の人々は、確かに生きていたのですね。この山辺の村で。
この人達が村を出るとき、帰ってきたとき、どんなようすだったか。
目に浮かぶではないですか。
もしも、もしも何かがどうかなっていたら、この少尉さんも、愉快で優しいお父さんになっていただろうに。
父も他界して久しくなります。
父は、子供達や孫達に、沢山思い出をくれました。
この少尉さん達を、どなたが思い出してあげるのでしょうか。
戦争は、本当にむごいです。
残念ながら、今回の目的は二つとも×でした。
もう一度拝見したかったこの写真とは会えませんでした。
分教場が閉まっていたのです。
宮司さんにも会えませんでした。
空振りがっかりの妻垣神社二回目訪問記でした。もう一度来られたらいいのだけれど。
By妻 -
「あしひとつ・あがりのみや」
妻垣神社の東南、妻垣山の中腹に鎮座します。妻垣神社の元宮とされております。
この神社は古事記と日本書紀に名が出てきます。
古事記 中巻 神武天皇 東征、
神倭伊波礼毗古命(かんやまと・いわれびこの・みこと、神武天皇)と兄の五瀬命(いつせの・みこと)は、
★途中、豊国の宇沙にお着きになった時に、その国の人で、名は宇沙都比子(うさつひこ)・宇沙都比売(うさつひめ)の二人が、足一騰宮を作ってご馳走を差し上げた。★
日本書紀 巻第三 神武天皇、
神日本磐余彦天皇(かんやまと・いわれびこの・すめらみこと)は、
★筑紫の国の宇佐に着いた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦・宇佐津姫という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か-訳注)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣の天種子命(あまの・たねの・みこと)に娶あわさせた。★
訳注は本居宣長の見解です。「古事記伝」のようです、原典参照しておりません。それによると
★宮の一方は宇佐川の岸に片かけて構へ、一方は流れの中に、大きなる柱を唯一たてるなり。★
なんだかよく分かりません。要するに宣長でさえよく分からなかったということです。桟橋のような感じです。
足一騰宮は比定地として3カ所あります。
大分県宇佐市上拝田の和尚山(かしょうざん)登山口駐車場。
宇佐神宮の南西道なり7kmくらいのところです。今回は行っておりません。 -
二つ目。宇佐神宮神域内、呉橋向かって左の丘の中腹です。
宇佐の川、寄藻川近くではあります。桟橋で川より上がって来られなくはないと思います。
三つ目。妻垣山の足一騰宮は山のほぼ頂上、川から上がってこられる位置ではありません。
いずれにしてもほぼ神話に近い古事記と日本書紀上代の話、比定地を厳密に捜しても意味はないと思います。 -
妻垣神社の近くから上り始めました。磐座まで340mという話でした。
松本清張の「水行陸行」
妻垣神社のホームページ「松本清張と妻垣神社」を参考にしました。
http://tumagakijinjya.com/seityo.html#tuduki
松本清張の「水行陸行」は昭和37年(1962年)の作品です。短編ですが、清張の代表作の一つだそうです。某大学の歴史科のさえない万年講師川田修一が、足一騰宮で在野の歴史研究者浜中浩三と出会うお話です。
一応小説ですが、清張の書きたかったのは、邪馬台国がどこにあるか。浜中浩三の自説に託して、清張の考えが、イキイキと述べられております。
清張は邪馬台国論争に華々しく参戦しております。その嚆矢になるもではないか。 -
距離は340mかもしれませんが、かなりの勾配です。
神社の参道というより、登山道。 -
やっと目的地が見えてきました。
「水行陸行」によると、
★百姓屋の前から山林の間を分け入って、胸を突くような急な坂を上った。石ころがごろごろしていてたいそう登りにくい。樹が蔽い茂って日光も射さないから、しばらくはトンネルのように薄暗かった。★
「百姓屋」はおろか、神社以外人家はありませんでした。
「西海道談綺」によれば、清張が初めて妻垣を訪れたのは昭和17年(1942年)、このころここに人家があったのかな。「胸をつくような急坂」「トンネルのように薄暗かった」は同じ。 -
★ようやく坂を途中まで登ったところで、やや広い棚地に出た。そこには粗末な木で囲った垣の中に古い石がぽつんと置かれてあった。石は苔に蔽われて暗鬱な色を呈していた。★
-
たしかにここだけ階段の踊り場みたいな平地です。
現在は木の柵ではなく、立派な石の玉垣です。 -
苔に蔽われているのは同じ。暗鬱といえば暗鬱。
これがこの神社のご神体、というか足一騰宮そのものです。 -
「かつては、1丈3尺5寸(約405cm)×1丈3寸(約309cm)の拝殿があり、昭和初期に解体された」とあります。覆屋のようなものでしょうか。
-
妻垣神社のホームページによると、
http://tumagakijinjya.com/yuisyo.html
神社の由緒は、
★今より2650年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる神武天皇(神倭伊波礼毘古命)は、この宇佐の地「妻垣」に立ち寄られました。その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメは皇軍一行を快く迎え入れ、歓待申し上げたと記紀(「古事記」「日本書紀」)に記されています。
翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をいたくお気に召され、連なる山々よりひと際輝く共鑰山(別名-妻垣山)の大石に母后玉依姫命(比大神)の御霊をお祀りするため、自ら祭主となり、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えしました。その大石は「足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)」と名付けられました。
このことより当社の歴史が始まりました。★
ここで主人公は、「古臭いぼろカメラ」で石を撮影します。
私たちも安デジカメでカチャカチャと。
アクションカメラも持ち出します。
https://youtu.be/_MuwZKwt7AY -
★木の間から見える安心院盆地は、ひろびろとした荒野にも似ていた。ここは古代人が生活地として求めそうな地形であった。★
動画のように、周りはびっしりと木立、木の間から安心院盆地は見えません。清張のころは林がまばらだった。
カラスさん、絶妙のタイミングで啼いてくれました。
★そんなことをとりとめもなく考えているとき、下の方からごそごそと人の足音が聞こえた。★
浜中浩三の登場です。
2人は意気投合して、「草の上にのんびりと腰を下ろして」話し込みます。話題は魏志倭人伝から始まり、邪馬台国の位置について。
いつしか陽が西に傾きかけました。
この話の部分は小説の大半を占めます。
★私たちは揃って起き上がり、宇佐神宮の神体である石をもう一度眺めて、急な坂道を下った。★
私とBy妻も坂を下りました。By妻の記録によると、16時30分頃。11月24日ですから、日の入りは早い。小説の舞台は「正月をすぎたばかりの午後」です。似たようなものでしょう。 -
清張のころとは違って、坂道にはコンクリートブロックの階段と手すりがありました。それでも膝はカクカク、息も絶え絶えでありました。
清張は、登りにくいとは書いても、疲れて大変だとは一言も書いていない。
清張は1909年生まれ、ここに上がってきた1942年(昭和17年)だと、33歳です。なるほど、この歳なら登り降りに苦労はしない。
「陸行水行」は推理小説です。まだ読んでいない方のために、ネタバレはよくない。どうなるかは、お読みになってからのお楽しみ。
妻垣神社山門のわきに、足一騰宮参拝用の杖が置いてありました。
33歳以上で参拝の方は、必ず杖を借りて登ることをお勧めします。 -
一書に曰く、
足一騰宮って、何だか分からない言葉です。
足一本、というか、建物が岩の上に乗っかっていて、はみ出ているところを橋脚一本で支えていたってことですかね。上総には、笠森観音という懸崖作りのお堂があります。あれだったのではないでしょうか。
磐座は、ここにもしも、宮、建物を建てるのなら、そりゃあ懸崖作りしかないでしょ。って急勾配のところにありました。
一回目の時に、宮司さんが、行かれましたか?と簡単そうにおっしゃいました。
そのつもりで、ふふんふん。と、ありさんマークのなんとかのコマーシャルのみたいなつもりで出かけたら、大違い。
登るうちに、空気は冷え冷え、冷気が肺を刺して、わたくし持病の喘息出ちゃいましたよ。
ヒーヒーハーハー登って、苔むした岩見て、降りて来ました。
杖があるところから、察しろよ、わたし。
前に杖持って登ったのは、火祭で有名な新宮の神倉神社。あれ以来です。
あれもすごかった。山登りではなく、ロッククライミング。
いい加減学習しろよってなもんですが、森はよかったです。
神気に洗われた気分でした。
ま、ありさんマークのコマーシャルでも、私は、おんぶされる方ね。
不思議なのは、妻垣神社と宇佐神宮、同じ神功皇后、応神天皇、そして比売神様でも、比売神様が違うのです。
宇佐神宮は、宗像三女神だそうです。対して妻垣神社のひめがみ様は、玉依姫です。これをどう見るか?
1,宗像女神と玉依姫は、同一人物。
2,海洋民族二派、それぞれの女神で、その勢力の交代があった。たぶん玉依姫系が古く、新興の宗像に代わられたので、宇佐神宮は宗像女神を祀る。
こうやって考えていくと、宇佐神宮って、土着信仰の上に、無理矢理新来の大陸文化、信仰を乗っけた感じじゃないですかね。
宇佐神宮はなぞだらけ。
こちら、妻垣神社は、それに比べると、政治にからんでなくてシンプルで良い感じでした。
あ~ほっとする。
By妻
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旅行記グループ
諸国寺社旧跡めぐり 豊前国
この旅行記へのコメント (10)
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- 前日光さん 2022/03/08 16:34:39
- 妻垣神社・足一騰宮、そして清張さん
- しにあさん&by妻さん こんにちは。
実は雛祭りで孫姫たちが来ており、一緒に温泉に行ったり。。。
で、やっと静かになりました。
さて、どこから手を付けたらいいのやら。
安心院って、これで「あじむ」と読むんだと認識したのは大昔、ここが出てくるミステリ(清張さんではない)を読んだためでした。
清張さんの「陸行水行」は読んでおりません。
ただ「新日本風土記」の清張さん特集は見ました。
砂の器の舞台(奥出雲)に関心が大だったので、豊前国はちょっと印象薄でして。
九州でも、佐賀だったか?を取り上げていたのは覚えているのですが。
妻垣神社の神職が登場していたのですか。
けっこう長い間、録画したのが残っていたのですが、消してしまいました!
しかし妻垣神社近くで、by妻さんが発見した写真!
この青年家族に、どんなドラマがあったのか想像出来ますね!
by妻さんの父上繋がりには、驚かされましたね。
実は私も京都の「金戒光明寺」に行った時、「会津藩墓地」の墓標を見て、全く知らない会津の人の、戦争に絡む悲壮な歴史に想いを馳せたことがあります。
次の旅行記です。
もしお時間がありましたら、ご覧になってください。
→https://4travel.jp/travelogue/11261710
とにかく、戦争はいけません(`Д´)
どんな理由があろうと、人と人が殺し合うのですから、弁解の余地はありません!
まさかと思っていたのに、あのプーチン!やっぱりラスプーチンの生まれ変わりでしょうか?
前から思っていましたが、狂気の沙汰ですよね!
ロシア対ウクライナというよりは、プーチン対ウクライナの戦争です。
ウクライナと言えば、浮かぶのは映画「ひまわり」です。
広大なひまわり畑と哀切なメロディー、それらがすべて汚されてしまった気分です。
妻垣神社及び足一騰宮ですが、あの柵で囲まれたご神体の石、あれは出雲の石宮神社や女夫岩遺跡を思い出しました。
こちらは、オオクニヌシの神話に基づく大岩ですが、やはり山中に巨大な岩が鎮座しているのです。
この遺跡を保存するために、岩の下にトンネルを通しました。
巨岩が取り除かれてしまったら、見ることは出来ない遺跡でしたが、幸いなことに今でも山中に佇む石を見ることが出来ます。
旅行記にしましたが、写真の腕が悪いのもさることながら、暑さでレンズも曇っていて写りがよくありません(>_<)
安心院のこの辺り、今でも風情がありそうですね。
山登りが大変そうですが、行ってみたいという気だけは大いにあります。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/03/09 07:26:01
- Re: 妻垣神社・足一騰宮、そして清張さん
- おはようございます。
「孫姫たち」ということは複数なのですね、ご苦労様でした。
我が家はもうすぐ7才が1人ですが、来ると盆暮れ運動会が一度にくるような、一大イベントです。あの無尽蔵のエネルギーはどこから来るのでしょう。頑張らなくちゃと、こちらも元気が出ます。
このブログは、孫姫が高校生くらいになった時、読んでもらおうと思って書いています。
「会津藩墓地」のお話、読みました。感想はそちらの方に改めてお邪魔します。
出雲の「石宮神社」のお話、URL教えてください。
そういえば、黄泉比良坂にも大きな石があったような気がします。
たしか、須佐神社の御神体も山の上の巨石だったと思います。
石見国三宮大祭天岩門彦神社も、ものすごく大きな石、というか、岩山の根元でした。
古い神社って、縄文弥生の巨石文化の跡に建てられたんでしょうね。
大分のこのあたりに、巨石文化があったのですね。足一騰宮も、佐田京石や大分の磨崖仏の系統なのでしょう。
房総には、大きな岩がないわけでないですが、巨石文化というのは聞かないですね。笠森観音みたいに、大きな岩山の上に四方懸崖作りのお寺を作るというのはありますが、石そのもじゃないし。
栃木あたりはどうでしょう。
大きな岩を拝みたくなるというのは、感覚的は共感します。私は、縄文人の系統なのかな。
By妻の先祖は、その昔ポリネシアあたりから丸木舟でやってきたと、自分でも言っています。そのせいか、石をありがたがらないみたい。
足一騰宮はよかった。妻垣神社もそうですが、4トラにも登録されていないいい神社がいっぱいありそうです。独り占めにしたいので、登録しないことにします。
- 前日光さん からの返信 2022/03/09 09:54:05
- RE: Re: 妻垣神社・足一騰宮、そして清張さん
- しにあさん、おはようございます!
とりあえず「石宮神社」のURL送ります。
タイトルは「神在月(旧暦)の出雲」です。
↓
https://4travel.jp/travelogue/11084921
です。
この他にも、女夫岩(めおといわ)遺跡もあるし、韓竈(からかま)神社もご神体が巨岩です。
ただURLを複数アップする方法が分かりませんので、徐々にアップしていきます。
「須佐神社」ではなくて、「須我神社」のご神体が山奥の巨岩だったような?
後で、黄泉比良坂と一緒にお知らせいたします。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/03/09 11:50:01
- RE: RE: Re: 妻垣神社・足一騰宮、そして清張さん
- 石宮神社の石の写真拝見しました。
猪石は、足一騰宮の岩と似た感じです。多分苔が同じようなものなのでしょう。犬石には苔がありませんね。石の種類が違うのかな。石によって生える苔が違うのかもしれない。石の専門家、タモリさんに聞いてみたいところです。
佐田京石の石にも苔がありませんでした。
巨石遺跡の石と苔の関係なんて、考えたこともなかった。
足一騰宮の苔は80年前と変わっていないので、あの石はずーっと苔むしたままなのでしょう。黄泉比良坂の石には苔があったかなあ。
「女夫岩」は古代祭祀跡ぽいです。これも近くの神社の御神体ですかね。
山奥の巨石が御神体なのは、ご指摘のとおり須我神社です。2度行ってまして、1回目は近くまで行きました。
「大祭天岩門彦神社」をあつかったブログを貼っておきます。
この巨石も見応えありました。
https://4travel.jp/travelogue/11571332
この辺りは、出雲に限らず面白いところですね。もう一度行きたいなとは思いますが、遠いですね。
-
- kummingさん 2022/03/06 20:40:28
- 古のつむぎ人♪
- 今回の九州たび、大分in→鹿児島→福岡outの行程ですか? ここまでみても恐らく分刻みのスケジュール。お時間取らせなくて良かった♪
クチコミのスポット登録されてない時、新たに登録する方法あります。画面操作なのでココでは説明出来ませんが。
宮司さんとお会いになれず残念でした。清張と親交のあった、ご長男が戦死された藤井夫妻。by妻さんの心を捉えた「24の瞳」の分教場の様な建物にびっしりとはられた写真、その中の一枚に色がつき呼吸し始めた。この写真の人は確かに生きていた、この山辺の村で。「戦争はほんとうにむごい」この思いを繋ぐ一本の糸にたぐり寄せられたかのよう。
松本清張は「砂の器」しか読んだ事ありませんが、小説は鉄道駅と時刻表代わりになる、とか?砂の器は映画のイメージが強烈で、泣かせ処でBGMが効果的にデカくなり(;_;)
「水行陸行」では邪馬台国論争が繰り広げられているのですか?邪馬台国論争に不案内ですが神功皇后と卑弥呼亡きあと王位についた「トヨ」との繋がり、日本書紀が邪馬台国隠し、という歴史改竄をしたのは、大海人皇子との関わりがあるから、とかいう説に最近遭遇しました(°_°)
ココから更に、話にまとまりがなくなりますが↓
万葉集は敗れた者たちの鎮魂歌?日本書紀が勝者が作った歴史なら、その影で非業の死を遂げた者たちの声を集めたのが万葉集、なのですか? 法を支配する不比等が律令制定さえも藤原家権力確立に利用し、歴史改竄も先導した。大伴氏は継体天皇即位の立役者とされる由緒ある家柄で、律令制で身ぐるみ剥がれた有力豪族の僅かに残る家系だった。天皇家が北部九州を追われ南部九州に逼塞して時代から大伴氏の祖は天皇家を守り、神武天皇に従い東に向かった人々で、隼人の追討将軍に選ばれたのも、隼人や南部九州に強い繋がりを持っていたからではないか。などなど、しにあさんのブログに触発されて思い出し(ーー;)
大伴氏も長屋王も橘諸兄も、みんな藤原家の謀略によって失脚させられたんですよね?
という事は、この掲示板で不比等贔屓を公言していた私って、1人アンチだった(-。-; その内変節して自説を曲げても、目をつぶってお見逃し下さいm(._.)m
とはいえ、アンチプーチン、アサド、ミャンマー国軍でございます。「あんな人たちに負ける訳にはいかない!」「ウラジミール、シンゾー♪」と蜜月を誇示していた、「あの人」にこの国を任せる訳にはまいりません!?
入国後待機期間が3日に♪ と喜ぶ間もなく、航空会社がアンカレッジ経由と南廻りを検討している、とのニュース(TT) ヨーロッパ、ますます遠くなりにけり…。
No War Please でございます。
脳内混乱状態そのままのコメントm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2022/03/07 09:13:15
- Re: 古のつむぎ人♪
- 不比等は私もヒイキです。私の場合は、女こころを知り尽くした苦労人で、その操縦に四苦八苦、というイメージ。糟糠の妻まさこはともかく、そのあと三千代でしょ。主君は持統さん、元明さん、娘は藤三娘。家では猛妻、頭はいいけれど猛烈に気の強い娘、会社では百戦錬磨の女社長、大変だったろうな。
反体制派のシンボル大来皇女と持統天皇の間に立って、夏見廃寺を作って中を取り持ったというのがワタシ説でして、両方の機嫌を損ねないように胃の痛むような思いをした、のではないかと。
お話はグッと世知辛い現代。
南回りって、カタール経由なんかですか。ということはカタール航空、エティハドなんとかなど、中東御三家が高くなるということですね。カタールの「ビジネスお二人で、二人目半額」なんていうバーゲンはもうなくなるのか。
アンカレ経由。空港の売店で食べたうどん、思い出します。日系人のおばさんがやっていた。田舎の駅みたいなターミナルだったような記憶があります。
要するに世界は40年前に戻るわけです。
そういえば、アエロフロートの欧州便、なくなったんですよね。アエロフロートも悪くないと思い始めたのに、もうどうしようもないです。
プーチンさんがひっくり帰らない限り、ロシアはのけ者でしょうね。
欧州はガス電気代が爆上げだそうです。フランスの家では、ガス電気代が月平均700ユーロでした。セントラルヒーティングの燃料がガスでした。今は二倍とか三倍とか。
お湯を石の家の建物中に配管する集中暖房って、家全部を温めるわけで、石が冷えちゃったら温め直すのが大変なんです。配管を凍らせないためにも、暖房を止めるわけにはいかないのです。
もし今もフランスだったら、どうしていたか。暖房最低限にして、白い息吐きながら家の中でオーバー手袋マフラーかな。
暖炉はあったので、暖炉前にベッド持ってきて寝ていたかも。
暖炉なんて、お客さんが来た時のおもてなしよう。薪は1週間分も持っていませんでした。
物価もガンガン上がるでしょうね。それでもヨーロッパはロシアとことを構える気なんだ、本気入っているな、と思います。
コロナとウクライナ戦争で、ヨーロッパ旅は辛いことになるでしょう。
生焼けのピザを、寒いピザリアで食べるのは、嫌だなあ。
そもそも行けるのかな。
ウクライナ産の何か、日本で売っていますかね。あれば買って少しでもお役に立ちたいのですが。
カニ鍋、元々カニが高いので滅多に食べません。カニはロシア産ですよね。今年はやめておこう。
- しにあの旅人さん からの返信 2022/03/23 12:45:38
- RE: 古のつむぎ人♪
- 口コミのスポット登録できるようになりました。
ずっと前、イタリアのイエジのB/B登録を4トラ事務局に無視されて以来、真面目にスポット登録を考えていませんでした。
スポット情報は、後続のトラベラーのための実用情報を書くためだと思っています。私は駐車場にこだわっています。いつもこれで苦労しているからです。
実用情報は、ブログ本体よりスポットの口コミの方が見つけやすいみたいです。
> クチコミのスポット登録されてない時、新たに登録する方法あります。画面操作なのでココでは説明出来ませんが。
- kummingさん からの返信 2022/03/23 16:16:01
- RE: RE: 古のつむぎ人♪
- > 口コミのスポット登録できるようになりました。
> ずっと前、イタリアのイエジのB/B登録を4トラ事務局に無視されて以来、真面目にスポット登録を考えていませんでした。
> スポット情報は、後続のトラベラーのための実用情報を書くためだと思っています。私は駐車場にこだわっています。いつもこれで苦労しているからです。
> 実用情報は、ブログ本体よりスポットの口コミの方が見つけやすいみたいです。
お役に立てて?良かったです♪
おっしゃる通り、クチコミの方が実用的ですね。色んな処に辿り着く方法、とか、入場料が別途必要、とか、とっても便利な情報満載。クチコミ見ながらよく妄想旅しております♪
欧州がますます遠ざかり、最近何処にも行かなくて、しにあさんの口コミ眺め回して、GWあたりに出かけようか?妄想しています(笑)別にGWじゃなくっても?!
-
- mistralさん 2022/03/05 20:09:11
- 妻垣神社二回目訪問記
- しにあの旅人さん
by妻さん
こんばんは。
妻垣神社への二度目のご訪問、
目的は宮司さんにお会いすることと、分教場のような建物の中にある一枚のお写真、
こんな具体的な目的を持たれて山間の神社を訪れる方がおられることを、
ここの宮司さんは想像されておられるでしょうか。
今回もし宮司さんにお会いになったら、きっとご訪問の目的などもお話しできた
ことでしょうに、目的を果たせなかったこと、残念なことでしたね。
そもそも、どうしてそこに古い数々のお写真が貼られていたのか、理由はわかりませんが
たまたま立ち寄られたしにあさんご夫妻の目に一枚の写真が留まり、よくよく見たら
by妻さんのお父さまの後輩にあたる方のようだとわかってきた、
なにやら偶然のいたずらにしては不思議な感じで、まるで引き寄せられたかのよう。
ご夫妻のご訪問を長い間待っておられたかのようでした。
セピア色のお写真が、その瞬間から色づき呼吸を始めてきた、との表現に
亡き人々の無念な想い、そしてその方たちの「生」を思いやってくださる人に出会えた
喜びを想像して、感動!でした。
次のご訪問では宮司さんにご対面できると良いですね。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2022/03/06 19:21:04
- Re: 妻垣神社二回目訪問記
- By妻が「分かっていただけた」と喜んでおりました。
分教場のような建物に貼られていた写真は数十枚、100枚あるかな。前の戦争で亡くなった、近郷の方でした。戦死だけでは無く、看護師などで病没された方のお写真もありました。したがって女性の姿も少なくありませんでした。
安心院は古い町で、教育に熱心なところでした。ここ出身で、宮崎や大分で高等教育を受けられた方が多かったのでしょう。そのため、将校や看護師として出征され、亡くなった方が多いのではないかと思います。
当時九州には大学は九州帝大だけで、宮崎高等農林は九大につぐ高等教育機関の一つでした。
父やT少尉も応召後幹部候補生教育を受け、将校として戦地に向かったのです。当時は高等教育を受けるとは、そういう義務を伴うものでした。下級将校は前線に立つので、死傷の可能性が高かったと聞いております。
妻垣神社に近く、かつて騰宮学館がありました。國學院、皇學館大学と並んで、日本に3校しかない神道の教育機関で、神主の養成学校だったそうです。
この学校には小学校教員養成コースもありました。つまり旧制中学に相当しました。当時安心院に一番近い旧制中学は県立宇佐中学校と県立四日市高等女学校の2校だけでした。
その時代に中学を作っちゃったわけで、安心院がいかにハイレベルの文化を持っていたかが分かります。
今でも山の中ですから、当時はすごい山の中でしょうね。多分全寮制。
戦後はここに騰宮女子専門学校というのが昭和38年まであったそうです。
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