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浅草名所七福神めぐりは浅草寺、浅草神社、待乳山聖天、今戸神社、橋場不動院、i石浜神社、吉原神社、鷲神社、矢先稲荷神社の順に参拝しました。<br />矢先稲荷神社(福禄寿)は寛永19年(1642年)に創建された。江戸幕府第3代将軍徳川家光は京都の三十三間堂に倣って、江戸版ともいえる「浅草三十三間堂」を創建しましたが火災で焼失してしまいました。<br />

浅草名所七福神めぐり - 矢先稲荷神社 -

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2022/01/24 - 2022/01/24

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旅行記グループ 浅草名所七福神めぐり

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アルプ・グリュム

アルプ・グリュムさん

浅草名所七福神めぐりは浅草寺、浅草神社、待乳山聖天、今戸神社、橋場不動院、i石浜神社、吉原神社、鷲神社、矢先稲荷神社の順に参拝しました。
矢先稲荷神社(福禄寿)は寛永19年(1642年)に創建された。江戸幕府第3代将軍徳川家光は京都の三十三間堂に倣って、江戸版ともいえる「浅草三十三間堂」を創建しましたが火災で焼失してしまいました。

同行者
一人旅
旅行の手配内容
個別手配
  • 浅草名所七福神めぐりの矢先稲荷神社は他の神社との距離が多少あるのが難ですが吉原神社から歩いて到着しました。

    浅草名所七福神めぐりの矢先稲荷神社は他の神社との距離が多少あるのが難ですが吉原神社から歩いて到着しました。

  • 下町の鎮守様として親しまれています。<br />鳥居の先には大きな三十三間堂絵図が掲示されています。

    下町の鎮守様として親しまれています。
    鳥居の先には大きな三十三間堂絵図が掲示されています。

  • 三十三間堂絵図が<br />東京にも京都の様な三十三間堂が現存していたのであればと思いました。

    三十三間堂絵図が
    東京にも京都の様な三十三間堂が現存していたのであればと思いました。

  • 手水舎<br />柄杓はコロナ対策で撤去されているのが普通ですが置いてありました。<br />

    手水舎
    柄杓はコロナ対策で撤去されているのが普通ですが置いてありました。

  • 手水舎横の井戸には何故か紙垂が?

    手水舎横の井戸には何故か紙垂が?

  • 社務所もあり御朱印等も用意されています。

    社務所もあり御朱印等も用意されています。

  • 拝殿

    拝殿

  • 拝殿の天井絵馬は必見との事ですがコロナ渦に於いて参拝は多くの方が訪れるため覗くのは止めました。<br />注意書きでは靴を脱げば天井画を見られるのですが!

    拝殿の天井絵馬は必見との事ですがコロナ渦に於いて参拝は多くの方が訪れるため覗くのは止めました。
    注意書きでは靴を脱げば天井画を見られるのですが!

  • 元禄元年版の地図です。

    元禄元年版の地図です。

  • 1960(昭和35)年の鉄筋コンクリート製なので味気ない本殿<br />度重なる火災の教訓を考えると致しかないのだと思います。<br />

    1960(昭和35)年の鉄筋コンクリート製なので味気ない本殿
    度重なる火災の教訓を考えると致しかないのだと思います。

  • 旧町名由来案内<br />本町は、明治二年(1869)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。<br />寛永十九年(1642)、この地域に「通し矢」で有名な京都東山の三十三間堂になたって浅草三十三間堂が建てられた。元禄十一年(1698)に勅額火事といわれる大火に見舞われお堂は焼失したが、深川で再建されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに友経って、新寺町と呼ばれるようになった。浅留町と浅草坂本町ができたのもこの頃である。<br />矢先稲荷神社は、三十三間堂の鎮守として稲荷神を祭るのに始まった。そして、社名は弓術練習のために造られた三十三間堂稽古場的先に奉祭されたことから、このように呼ばれた。

    旧町名由来案内
    本町は、明治二年(1869)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
    寛永十九年(1642)、この地域に「通し矢」で有名な京都東山の三十三間堂になたって浅草三十三間堂が建てられた。元禄十一年(1698)に勅額火事といわれる大火に見舞われお堂は焼失したが、深川で再建されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに友経って、新寺町と呼ばれるようになった。浅留町と浅草坂本町ができたのもこの頃である。
    矢先稲荷神社は、三十三間堂の鎮守として稲荷神を祭るのに始まった。そして、社名は弓術練習のために造られた三十三間堂稽古場的先に奉祭されたことから、このように呼ばれた。

  • 三十三間堂絵図が掲示されています。<br />相当な広さがあったようです。

    三十三間堂絵図が掲示されています。
    相当な広さがあったようです。

  • 浅草三十三間堂跡<br />外国人観光客用でしょうか英文です。<br />設置してある案内板も英語が併記されています。

    浅草三十三間堂跡
    外国人観光客用でしょうか英文です。
    設置してある案内板も英語が併記されています。

  • 浅草三十三間堂跡<br />『文政町方書上』によると、寛永十九年(一六四二)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。<br /> 堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。<br /> 元禄十一年(一六九八)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失、跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。<br /> 矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。<br />  平成七年三月  台東区教育委員会 」

    浅草三十三間堂跡
    『文政町方書上』によると、寛永十九年(一六四二)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。
     堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。
     元禄十一年(一六九八)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失、跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。
     矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。
      平成七年三月  台東区教育委員会 」

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