2021/12/13 - 2021/12/13
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ドクターキムルさん
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先日発売された「史伝北条義時」 山本なみ著 (小学館)を読んで驚いた。
国指定史跡「法華堂跡」の源頼朝墓と北条義時墓について、「幕府の創設者である頼朝と、将軍の臣下である義時の法華堂が並んで山の中腹に設けられたのである。」(p.294)とある。鎌倉時代の始めに、将軍とその臣下の法華堂が「並んで」設けられることなどない。江戸時代にもなれば、浅野内匠頭の墓前に赤穂浪士の墓々が建ち並んでいるが、それは時代が下ってのことだ。
そのことは、ここ鎌倉の「法華堂跡」でも江戸時代後期以降にもなれば、臣下である島津忠久墓と大江広元墓が頼朝墓よりも高い場所に設けられている。これは、この地に多く残っている古墳時代末期に造られた横穴墓を再利用したからである。
頼朝法華堂周辺には横穴墓が多く残っている。その中で、三浦一族の墓とされる横穴は見たところ、横穴墓なのかやぐらののかは判断が難しい。しかし、やぐらの墓制は頼朝後のことであり、三浦一族の墓はやぐらではなく、横穴墓と考えるべきであろう。
大江広元墓参道の石段上には広元と毛利季光の名がある石灯籠がそれぞれ1基づつ建てられているが、その(頼朝墓側)の季光の石灯籠横の欅の木の根元には横穴墓が残されている。このこと(季光の石灯籠と横穴墓)は参道角のおばあさん(https://4travel.jp/travelogue/11728708)も知っていた。
他にも北条政子墓と北条義時墓と伝承されてきた横穴墓が残っている。
こうした状況から、三浦一族の墓も横穴墓を後世に再利用し、手を加えたものであろう。
唯一、頼朝の後家である政子が許した弟の墓(法華堂)だけが、頼朝墓から横穴墓がある法面分の高さを下げて設けられたのであろう。あるいは、大江広元の法華堂も並んであったのかも知れない。
なお、二階堂字獅子舞から奥の谷沿いに2つの切通が残っているが、頼朝存命中に頼朝の命で掘削されたためにやぐらを伴わない。やはり、御家人には鎌倉殿(頼朝)に直接関係する場所にやぐらを設けて自分の遺骸を埋葬することなど、畏れ多くてはばかられたのであろう。
(表紙写真は大江広元墓参道の稲荷社)、
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