2021/11/23 - 2021/11/23
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noelさん
この旅行記のスケジュール
2021/11/23
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電車での移動
→鎌倉駅(横須賀線)
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バスでの移動
鎌倉駅→大塔宮行
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徒歩での移動
鎌倉宮→瑞泉寺
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徒歩での移動
瑞泉寺→永福寺跡
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徒歩での移動
永福寺跡→鎌倉宮
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徒歩での移動
宮前→覚園寺
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徒歩での移動
覚園寺→鬼頭天薫堂
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鬼頭天薫堂
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徒歩での移動
鬼頭天薫堂→由比ガ浜
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徒歩での移動
由比ガ浜→鎌倉駅
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この旅行記スケジュールを元に
勤労感謝の日、薄曇りながら天気に恵まれ、鎌倉の雪の下へ向かいました。
鎌倉へは年に1度くらいは行きますが、鶴岡八幡宮を中心に見て、西の方向に行くことがほとんどでした。
だからというわけではありませんが、今回は東の方向へ向かいました。
実は今まで「鎌倉宮」には行ったことがありませんでしたので、今回が初めてでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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鎌倉駅からバスで向かいました。
バスは「大塔宮」行きに乗り、終点です。下車してすぐです。
まずは、「鎌倉宮」に拝観します。
ちょうど七五三の時期でした。 -
紅葉にはまだ早いのですが、少し色付いてました。
鎌倉宮(大塔宮)は、明治天皇によって創建されました。
後醍醐天皇の皇子である護良(もりなが/もりよし)親王を祀っています。
護良親王は還俗する前は、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)、通称、大塔宮と呼ばれていました。そのため大塔の宮(おおとうのみや/だいとうのみや)とも言われます。
鎌倉幕府討幕のため、功績をあげました。建武の新政では征夷大将軍に補任されました。
ただ、足利尊氏を寵愛した父、後醍醐天皇と、足利尊氏を疎む護良親王は対立するようになります。これに皇位継承の争いも絡み、後醍醐天皇によって捕らえられ、足利に引き渡されてしまいます。
ちなみに、後醍醐天皇には8人の皇子、2人の皇女がいて、護良親王は、3番目の皇子です。 -
この時期は見られませんが、右の木は「お手植えの梅」です。
征夷大将軍護良親王の弟宮にあたる征西大将軍懐良親王。御手植えの梅から実生したもので九州八代から移植したものです。 -
手水舎
獅子頭守りが、なんとも可愛らしいです。
獅子頭は古来から、厄を食べ、福を招くと言われています。
護良親王も、戦の際に兜に「獅子頭守り」を忍ばせていたそうです。 -
手水舎の側には、「亀若丸」がいます。
この亀若丸の頭を撫でて、折鶴を1つ持ち帰ると「鶴」と「亀」が揃うので、健康が成就するそうです。 -
拝殿にお参りして、拝観料を納めたのですが、その後、社務所で先に御朱印をお願いして、その間に拝観することにしました。
社務所の前の入口から入ったのですが、実は逆向きでした(-_-;) -
宝物殿
護良親王のゆかりの品などが、展示されています。 -
かつては明治天皇の行在所でした。
明治天皇は護良親王の功績を讃えて、親王の終焉の地である東光寺跡に、鎌倉宮の造営を命じました。
武家政権から明治維新を実現した明治天皇は、護良親王と御自身を重ね合わせたことと思います。 -
樹々に囲まれて深淵な雰囲気を醸し出しています。
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教育勅語 五箇条の御誓文の碑
当時の皇太子殿下の御成婚を祝って創建されました。 -
神苑
鎮守の森のような場所です。様々な樹々が植えられています。 -
鎌倉宮碑
明治天皇が鎌倉宮を創建する際に、三条実美(太政大臣)に語った言葉が刻まれています。 -
御構廟(御首級)
足利直義に命ぜられ、護良親王を殺害し、この場所に親王の首級を置いて逃げ去りました。それもそのはず、親王の怨念がその形相に表れていたようで、恐れをなしてしまったのでしょう。
そう考えると、ここには成仏しきれない親王の念が詰まっていそうです。
そんな親王の鎮魂のためでもあるのでしょう。 -
護良親王が幽閉されていた土牢です。
足利尊氏の監視下に置かれ、当時、東光寺の土牢に幽閉されました。
なんと、このような狭苦しい所に9か月も幽閉されていたとは、胸が痛みます。 -
本殿の裏です。
この階段を上がると土牢の前の門があります。 -
拝殿・本殿を横から見た様子
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拝殿
10月には「鎌倉薪能」が催されます。
篝火を焚いた幽玄な雰囲気の中で演じられる能は、素晴らしいことでしょう。
薪能の歴史は平安時代に遡ります。
鑑賞してみたいです。 -
村上社
元弘3年(1333年)、吉野城落城の時、村上義光は護良親王の身代わりとなり、親王には城を脱出するように取り計らいました。
そして、護良親王の鎧を着て、義光は切腹しました。
このエピソードから、2004年(平成16年)、義光を境内の樹齢103年の欅の大木で彫り上げた「撫で身代わり様像」が拝殿横にできました。
鎧姿の等身大武者像で厄除け、病気平癒のご利益があるとされています。
また、参拝者が撫で回すので、全身が光沢で輝いています。 -
御朱印をいただきました。
月替わりの限定御朱印です。
11月でしたので、「霜月詣」いただきました。 -
さて、次はどちらに行こうか、ちょっと悩みます。
まずは、瑞泉寺にします。 -
永福寺の跡です。
まずは先に瑞泉寺に行ってからにします。 -
案内がありますので、このまままっすぐ行きます。
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通玄橋
本当に小さな橋です。6月中旬頃には紫陽花が見ごろになるようです。
今度は紫陽花を見に来たいと思います。 -
鎌倉山 瑞泉寺
鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた由緒ある寺院です。
山号の金屏山は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風のように美しいことから付けられたと言われています。また、境内は、四季を通じて様々な花を楽しむことができます。
開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉~南北朝期に禅宗で重きをなした僧侶です。
作庭にも才を発揮し、昭和45年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は国師の作として。国も名勝に指定されています。 -
工事中でした。
横の道を行きました。 -
瑞泉寺は四季折々の花々が咲き乱れるようです。
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うっすら紅色に染まっていました。
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小径をまっすぐ歩いて行きます。
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道が二又に別れています。
右側の道の方が整備されていて歩きやすそうです。
でも、左の道の方が苔むしていて歩きにくそうですが、趣があります。
左の道を選びました。この道を男坂と呼ぶそうです。 -
山門の手前に、吉田松陰の名前が刻まれていました。
吉田松陰は1851年(嘉永4年)6月13日に瑞泉寺を訪れます。
実は、松陰の母方の伯父である竹院和尚が、この瑞泉寺の住職をしていました。
その後も瑞泉寺を訪れています。
そしてペリーが浦賀にやってきました。
その後、海外に赴くことも打ち明けていたようです。残念ながら密航の企ては失敗に終わりましたが。
伯父の竹院和尚とどのような事を対話したのか、気になります。 -
山門です。
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国の文化財として指定されています。
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手水舎は天然の手水です。
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祝日なので国旗が掲げられてました。
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鐘楼
錦屏晩鐘の碑もありました。 -
大宅壮一氏の言葉
「男の顔は履歴書である。」が刻まれていました。
瑞泉寺には数多くの文人が来ました。
ゆかりの方々は次のとおりです。
大宅壮一、大仏次郎、梶山季之、川端康成、久保田万太郎、久米正雄、高浜虚子、立原正秋、永井龍男、山崎方予、吉野秀雄などなどです。 -
本堂です。
臨済宗円覚寺派瑞泉寺は1327年(嘉暦2年)建立されました。
山号は錦屏山(きんぺいざん)です。
これは、寺の周囲の山々の紅葉が錦の屏風のごとく美しため、名付けられました。
開山は夢窓国師(夢窓疎石)、中興開基は足利基氏です。 -
梅の見頃にも訪れてみたいものです。
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黄梅です。
鎌倉市の指定天然記念物にも指定されているようです。 -
どこも苦地蔵尊
1684-1687年頃(貞享の頃)、鶴岡八幡宮の正覚院へ移され、その後は1916年(大正5年)に瑞泉寺へ移されました。 -
・・昔むかし、お地蔵様が扇谷の辻におわせし時、堂を守る堂守貧弱逃亡を企る暁の夢に地蔵尊「どこもどこも」と宣う これ何処も苦なりとの教えと八幡宮の僧に諭され 堂守は一生地蔵尊を守らしと「どこも苦地蔵尊」の名の由来なり・・・・・
昔、地蔵堂の堂主が貧しさのあまり逃げだそうとすると、暁の夢に地蔵様が現れました。
そして「どこも、どこも」 と告げたられたそうです。
八幡宮寺の僧に諭され堂守は悟りました。
「苦しいのはどこにいっても同じだ」 と。 -
名勝瑞泉寺の庭園です。
岩庭とも呼ばれる庭園で、鎌倉石の岩盤を地質の上手に利用し、彫刻をほどこしたような手法で作った庭園です。
この庭園は、書院庭園のさきがけとなりました。
鎌倉時代唯一の庭園です。 -
天女洞
北の一隅の岩盤の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となしています。東側には坐禅のための窟(坐禅窟・葆光窟)を穿(うが)ちました。
天女洞の前には池を掘っています。
そして貯清池と名付けられました。 -
実は2つ前の写真にある橋ですが、この橋を2つ渡り、十八曲りに園路を登ると錦屏山の山頂に出るようです。
鶴ヶ岡から鎌倉周囲の山並みや、遠くには箱根の山々、富士山、そして相模湾が自然の池をなしているのだそうです。
まさにこちらを選んで作られた庭園です。
借景の大庭園の広がるこの山頂に夢窓国師は小亭を建て、「界一覧亭」と名付けたそうです。
本当に自然の演出も加わった心憎い庭園です。 -
庭園も素晴らしいのですが、境内も国指定の史跡に指定されています。
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紅葉には少し早かったのですが、そのお陰か祝日だったものの、人も少なくゆっくりと堪能できました。
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御朱印をいただきに行きましたら、寺務所にありました。
「頼朝以前」鎌倉歴史文化交流館で開催されていました。
残念ながら、既に終わってしまいましたが。
なぜ頼朝は鎌倉を選んだのか・・・・・気になる企画展でした。
「吾妻鏡」には漁師や農民以外は居を定めようという者はいなかった・・。」と本当に辺鄙な記述があるものの、実は違う側面もあったという・・・。
現在NHKで「鎌倉殿の13人」も放映されていますので、見たかったです。 -
江戸時代には、徳川家からも庇護を受けていたそうです。
現在は、鎌倉三十三観音・第六番札所、鎌倉二十四地蔵尊・第七番札所ともなっています。 -
築地塀で、5本の線が入ってます。
京都で拝見しましたが、最高の格式を表しています。
鎌倉公(鎌倉府の長)の菩提寺として鎌倉五山に次いで関東十刹に列せられるほどの由緒あるお寺です。 -
最後に山門を反対方向から
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瑞泉寺の御朱印です。
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鎌倉カトリック墓地の案内図を見て、寄ってみました。
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この先は立ち入ることができません。
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奥を覗くと墓地になっていました。
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帰りに真っ黒な猫ちゃんに遭遇しました。
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永福寺跡の案内図
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苑の池です。
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永福寺ありし頃の再現図です。
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この地は長らくすすきが生える湿地となっていました。
そのままであったら、存在自体忘れ去られてしまったことでしょう。
史跡指定翌年の1967年(昭和43年)度から土地の公有化を進められました。
そして1983年(昭和58年)度から1996年(平成8年)度まで、発掘調査を行い、その結果、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂などを中心に、壮大な伽藍や庭園の存在していたことが確認されました。 -
1405年(応永12年)焼失してしまいました。
残念ながらその後、記録から消え去り、再建されませんでした。
焼失前は源頼朝亡き後も永福寺では、様々な催しが行われていたのですが。
まずは1280年(弘安3年)の鎌倉大火と1310年(延慶3年)により二階堂が焼け落ちてしまい、最終的には1405年(応永12年)の炎上となってしまったのです。
残念です。 -
この寺院は源頼朝が建立しました。
奥州攻めで亡くなった源義経や藤原泰衡などの武将たちの鎮魂のために建立されました。
平泉の中尊寺二階大堂、大長寿院を模して建造されました。 -
苑池
南北に200m、東西に40-70mあります。
北の方から流れ込んできている谷川を水源としています。
そして遣水と呼ばれる人工の小川もあります。 -
建立された当時は、鶴岡八幡宮、勝長寿院と並んで、鎌倉の三大寺社の一つでした。
二階堂と呼ばれたのは、二階建ての仏堂であったためです。
国の史跡にも指定されています。
ただ、勝長寿院も現存しません。宅地化が進んだため、現在は史跡と供養塔があるのみです。
鎌倉幕府滅亡後、有力者の保護を失い、16世紀頃には廃寺になってしまいました。
それを思うと、永福寺は跡地が残されて良かったです。 -
永福寺に関しては、屋根瓦など約12万点の物が出土しています。
源頼朝や頼家や実朝、北条政子を始め歴代の将軍が法要に訪れていました。
格式高い大寺院でした。 -
わずかに樹々が色付いていました。
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永福寺は南北に約100mもありました。
また、鳳凰堂は約47mと、かなりの大きさだったようです。
実物を見たかったです。 -
新そば・・・・食べたいです。
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手打ちそばの「宮前」
お昼はお蕎麦に決めました。 -
自家製の手打ち蕎麦です。
席数はそれほど多くないので、最初テーブル席でしたが、途中でカウンターに移動しました。
そしたらお新香をサービスしていただきました。
これは天せいろ 1600円でした。 -
鎌倉彫のようです。
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お向かいのお店「阿寓」も気になりましたが、今回は新そばの魅力に勝てませんでした。こちらは懐石料理のようです。
誰かと一緒の時に行きたいです。 -
「弘法大師八十八箇所道」
バス停の先に、この石碑がありました。
覚園寺には四国八十八箇所を模した霊場がありました。(江戸時代から明治時代)
百八やぐら群には、八十八体の弘法大師像があったそうです。
百八やぐら群には首のない石仏を見ることができるようです。
その後、廃仏毀釈の運動で石仏などが破壊されましたが、その中で首のない石仏が、弘法大師様なのだそうです。
なんとも罰当たりな・・・。
そういえばバーミヤン遺跡の破壊、パルミラ遺跡の破壊・・・
古代エジプトのレリーフでも破壊された物がありました。古代ギリシア、古代ローマも・・・。
万国共通の残念な例です。 -
覚園寺
1218年(建保6年)に北条義時が、大倉薬師堂を建立しました。
義時は薬師如来への信仰が強く、薬師堂を建立しました。 -
山門
現在NHKで放映されている「鎌倉殿の13人」の北条義時所縁の地です。 -
薬師堂には薬師三尊坐像と十二神将像が祀られています。
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石塔です。
山門を入った所にあります。九重の石塔・・・と思ったら十重の石塔です。 -
愛染堂
山門をまっすぐ進むと目の前にあります。
元はこの近くにあった「大楽寺」のお堂でしたが、残念ながら存続不能となってしまい、こちらに移築されました。
「愛染明王」は赤く腕が6本ある仏様です。
「愛染明王」は幸せになるため、恐れや不安を打ち消し、ひたすら前に進む力」「情熱」を司る仏様です。
う~ん、情熱という言葉は仏様からは想像しにくい言葉です。なんだかまるで古代ローマかギリシアの神々のようです。 -
残念ながら有料の域内は、撮影できません。
薬師堂、旧内海池住宅、十三仏やぐら、地蔵堂、六地蔵、千躰地蔵堂などがあります。
【薬師堂】
覚園寺の中心となるお堂です。薬師如来は中央に祀られています。
心身ともに元気で、もし怪我や病気になっても、それとともに前に進む力を与えてくれる仏像です。
薬師如来の右には、日光菩薩の日の光、左には月光菩薩の月の光が祀られています。
そして薬師如来を守護し、参拝者を勇気づける十二神将像が祀られています。神将の頭の上には干支の動物がつけられていて、十二神将は干支の象徴でもあります。
【内海家】
1706年に鎌倉で作られた裕福な農家です。
当時は畳が使われた農家は少なかったようです。
この農家は1981年に解体され、この覚園寺に移築されました。
それにしても、家の中は真っ暗で、あまりよく見えませんでした。
昔はホントに真っ暗だったのでしょう。
【地蔵堂】
地蔵菩薩は大地の力を有する仏様です。
大地の象徴でもある田畑に恵みを与えると信仰されています。命を育み、子どもを育てて護る仏様でもあります。
神社の鳥居や昔の橋が朱色なのと同様に魔よけの意味で、朱色の帽子と前掛けをつけるようになりました。
そしてお地蔵様は、杖を持ち旅する仏様とも信仰されて、古来から街道沿いに祀られて旅人を守る仏様でもあります。 -
鎌倉は平地が少なく、山が多いですが、鎌倉の武士や有力者のお墓は、人を雇い山の斜面に穴を掘らせ、そこで火葬して埋葬されるようになりました。
こちらにもやぐらがありますが、このやぐらは儀式や修行のためのやぐらですが、山の上には177穴が確認されています。 -
相模守・六波羅探題 北条時房邸跡(義時の弟)
1
源頼朝の招請により摂津守小池民部太夫藤原久時は、治承4年に鎌倉に下向し、ここに住みました。
代々神楽の伝承家として鶴岡八幡宮の社官でした。そのようなことから俗に民部屋敷と言いました。
現在の当主は23代目で末孫です。(昭和63年3月時点)
2
後年数代の間、相模守連署六波羅探題 北条時房(義時、政子の弟)一族の居館となりましたが、7代の小池民部時芳以降は、民部屋敷として旧に復して今日に至ります。当時の邸地は、約千坪と推定されています。(昭和年63年3月時点) -
鎌倉幕府将軍
初代 源頼朝
二代 源頼家
三代 源実朝
四代 九條頼経
五代 九條頼嗣
六代 宗尊親王
七代 惟康親王
八代 久明新王
九代 守邦親王 -
覚園寺の御朱印
-
こちらは小町通りにある「鬼頭天薫堂」
-
お香を求める方々で、少し混んでいました。
「老松」(伽羅)
「由比ガ浜」(白檀)を購入しました。
今回は購入しませんでしたが、「雪ノ下」もお勧めです。 -
若宮大路を通って、由比ガ浜に来ました。
-
面白いわんちゃんたちを見ました。
バイクに乗っているのですが、みんなサングラスをしています。
犬用のサングラスって、あるんですね。(笑) -
陽が傾いてきました。
やっぱり海は癒されます。
オミクロン株の猛威によって、行動制限されてますが、次はどこに出かけられるでしょう。
当分は小さな旅を楽しみたいと思います。
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