2021/07/08 - 2021/07/08
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しにあの旅人さん
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平等院不動堂源三位頼政のお墓です。
名高い宇治の平等院の表紙にはふさわしくありませんが、今回はここに一番感動しました。
大和、出雲に並ぶ寺社の本場、山城国寺社参りの旅日記です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
この日は小雨。池の小さな雨跡がイキでありました。
コロナ騒ぎの谷間でありました。観光客は2種類、仲むつまじいカップルと、修学旅行生。静かなイチャイチャと、ワー、キャーという騒音。共通するのは、お相手と友達が大事で、平等院には興味がない。 -
おかげさまで、絵葉書のような、人の写らない写真が撮れました。
一書に曰く、
さすが!の平等院
まず美しいこと。
当然ですが、これがさすがの第一。
世界遺産に選ばれただけのことはある、日本を代表する美しさです。
二つ目は、このコロナのときに、観光客がいたこと。
たぶん、普段はこんなものではないのでしょうけれど、それでも、他とは比べものにならない数でした。
これは、やっぱりさすがでしょう。さすがの平等院、コロナでも客が来る。
三つ目は、その続きなのですが、このコロナの騒ぎ下でも、清潔に維持してある。
これは、注意書きが必要でしょうが、今回の私たちの旅は、初日が大雨で、集中豪雨になるのではないかと本気で心配する大降りでした。その後もぐずぐず悪天候が続きました。そのせいでしょう。どちらのお寺、神社でも、手入れのやりようがなかったのでしょうか、お庭の手入れは、今イチ、今二?もしかしたら、三かもという状態でした。ところが、ここ平等院は、ゴミ一つありません。パーフェクト。
普段我が庭の雑草に悩まされている私には、この清潔さがもはや不思議。そんなことを考えながらガイドさんを待っておりました。
と、ひとりの雨合羽を着た男性登場、ガイドさんを待って、たむろっていたひとびとの注目の中、お堀端に下りて行きました。そして、水に入って、飾りの水ですから浅いのですが、それでも水に入って、草を抜き始めたのです。
これは驚きました。晴れた日ならあることでしょうが、雨の降りしきる中、
水に入ってまで!
これは、さすがでしょう。
さすが平等院、ここまでやるんだ!
そのあとガイドさん登場して、鳳凰堂の説明を受け、また例の場所のそばを通りかかります。
30センチ四方程の区画が、なめるようにきれいになっておりました。
ありがとうございます。お陰様で、きれいな平等院を拝見できました。
と、感動しまして、私も見習おう。と、思ったのです。
デモ思っただけで、終わってしまった。
反省。
反省だけなら猿でも出来ますが。
By妻 -
十円玉そのものの鳳凰堂です。
平等院、鳳凰堂についてのウンチクは全てカットいたします。いまさら私が云々する必要はありません。 -
あらわれました修学旅行生。
-
中学生かな、高校生かな。
私も中学の修学旅行で京都に来たんじゃないかな・・・ でも覚えているのは、宿で枕投げをしたことだけ。新撰組の池田屋討ち入り冒頭のような階段を上った左右にある部屋でした。
平等院、食ったことないなあ、という感じだったのではないか。
By妻も中学の修学旅行は京都らしい。こちらは完全に記憶が欠如しているそうです。
私たち夫婦は、たしか「ムカシ青春があったとさ」とかいうシリーズのどっかで書いたと思いますが、高校1年の同級生です。したがって高校の修学旅行が京都であった可能性は、記憶の相互検証の結果、ない。
60年前のことです。記憶は甘酸っぱいカスミのかなたです。
結論、14,5のガキに京都は早い。 -
表門からはいり、鳳凰堂拝観受付所を経て鳳凰堂見学、鳳翔館を見学して、池を一周。さてそろそろ出ようかね、というとき、もらった平等院のパンフをチラ見したら、なに!
「源三位頼政公墓所」というのがある。 -
ちょうど不動堂の手前でした。
-
あぶなく通り過ぎるところでした。
源三位頼政の最期は平等院であるとは、なんとなく覚えていました。その墓所がこことは!
これもなにかのお引き合わせ、飛び込みました。 -
不動堂に入って左。
以下引用は「平家物語」佐藤謙三校注・角川文庫によります。
「平家物語 巻四」によれば、平家の横暴に耐えかねた源三位頼政は以仁(もちひと)親王とともに平家打倒の軍をおこします。しかし事は事前に発覚し、頼政は以仁親王を擁して南都(奈良)興福寺目指して脱出をこころみるも、以仁親王は疲労激しく平等院に入り休息をとりました。
そこに平知盛、重衛、忠度率いる「都合その勢二萬八千余騎、木幡山うち越えて、宇治橋の詰めにぞおし寄せたる。」
迎え撃つは、大将軍源三位入道頼政、頼政嫡子中綱、次男兼綱以下「都合其の勢一千五百余騎」
宇治橋を挟んで両軍の矢戦(やいくさ)が繰り広げられました。
★源三位入道頼政は、今日を最後やと思われけん、長絹(ちょうけん)の鎧直垂に、科革縅(しながはをどし)の鎧着て、わざと兜をば着給わず。★
宮方、平家方、武者の勲をかけた戦い。橋の上では宮方の五智院の但馬、筒井浄妙明秀、弱冠18才の一来法師などが勇敢に戦い、平家は橋を渡れません。
平家軍の若武者「下野国の住人、足利又太郎忠綱、生年17」が、利根川を敵前渡河した経験をもとに、三百余騎を率いて宇治川を突破しました。忠綱は将門を亡ぼした俵藤太10代の後胤でありました。
忠綱は、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声を揚げて、藤太以降の一族の名乗りをあげ、
★「かように無官無位なる者の、宮に向かい参らせて、弓を引き矢を放つ事は、天の恐れ少なからず候へども、但し、弓も矢も、茗荷の程も、平家の御上にこそ留まり候はめ。三位の入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄り合えや。見参せん。」とて、平等院の門の中へ、攻め入り攻め入り戦いけり。★
これを見た平家方、600騎が流されるも、全軍28000騎が宇治川を渡河しました。
これで合戦の帰趨は決しました。
★源三位入道は、七十に余って軍(いくさ)して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静かに自害せんとて、平等院の門の内へ引き退く・・・★
そこに平家方が襲いかかり、次男兼綱が父をかばって奮戦。しかし「立ち上がらんとするところに、平家の兵ども十四五騎落ち重なって、ついに兼綱を討ちてげり」
長男仲綱も、「さんざんに戦い、痛手あまた負うて、平等院の釣殿にて自害してげり。」
★三位の入道、渡邊長七唱(となう)を召して、「我が首討て」と宣えば、主の生首(いけくび)討たんずる事の悲しさに、「仕つとも存じ候はず。御自害候はば、その後こそ賜り候はめ」と申しければ、げにもとや思われけん、西に向かい手を合わせ、高聲(こうじょう)に十念仏唱へ給ひて、最期の詞ぞあはれなる、
うもれ木の花さくこともなかりしに身のなるはてぞ悲しかりける
これを最期の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、俯しざまに貫かってぞ失せられける。その時に歌詠むべうはなかりしかども、若うよりあながちに好いたる道なれば、最期の時も忘れたまわず。その首をば長七唱が取って、石に括り合わせ、宇治川の深き所に沈めてげり。★
源三位頼政は、当時高名な歌人でありました。 -
一書に曰く、
源三位頼政、この人は、ずいぶんと上手く生きました。
多少の不満はあったとして、うまく出世したんじゃないですか。
五位以上が殿上人の時代に、彼の人生の最後だとはいえ、三位ですから。
兄弟も従兄弟も負けて死んでいった。彼は、その中で常に勝ち組だった。
だのに、最後の最後に負けたのです。
その死に所が、宇治平等院でした。
この人は、確か鵺(ぬえ)とかいう化け物を退治したりする一方、歌人としても有名な、まさに文武両道の理想的な人物でした。
その彼が、最後の最後に我慢が切れたのか、勝負に出たのか。
武士としましては、内心はとにかく、華やかに優雅に暮らした頼政の最期の地が、ここ宇治平等院というのは、ちょっとできすぎの素晴らしい舞台ではありませんか。
渡邊唱が、頼政の首を取って石に括り合わせ、宇治川に沈めたというところで、はた!と気がつきました。
そうかあ!だから織田信長の遺骸は見つかっていないのか。
武士にとって、生きて敵将の前に引き出されることの屈辱。さらに、死しては、その敵将にいかなる恥辱を受けるか分からない訳です
それを絶対に避けさせる。
主君の誇りを守り通した渡邊唱の健気さよ!
主君は、彼ら一族郎党のために、人生をかけ奮励努力し、忍耐したのです。そして、一族の命運をかけてのこの戦いに、武運つたなく敗れて力尽きたのです。
その主君に報いることは、今となっては首を敵に渡さないことのみ。
渡邊唱の気持ちはいかばかりであったでしょうか。
平家物語は、負けた男たちの物語です。
By妻 -
説明板と、
-
新しいお花の添えられたお墓でありました。
平家物語は声に出して読めといわれます。今回やってみました。
読み上げると、不思議とだんだん声が大きくなります。
頼政父子の最期、長七唱の悲しさ、17才足利太郎のあっぱれ若武者ぶりなどに、なぜか涙が出てくるのです。
私たちはこの日、平等院の北のお土産物屋の駐車場に車を止め、あじろぎの道を宇治川にそって歩きました。7月8日でしたが、5日、6日と台風崩れの大雨で、宇治川はまだ増水しておりました。川には近寄れず、橋も通行止めでした。川辺の草は下流に向かってなぎ倒されておりました。
平家の侍大将上総守忠清によれば、宇治川は合戦の日、「をりふし五月雨のころ、水まさって候はば・・・」でした。
こんな感じだったのかもしれません。平等院 寺・神社・教会
-
平等院という、メジャー中のメジャーな観光スポットから、マイナー中のマイナーにやって来ました。
参拝客は私たちだけ。 -
宇治と奈良の中間あたりです。
-
飛鳥時代後期、7世紀末の創建だそうです。
飛鳥への縦の旅が好きな私たちとしては、何があった頃かなと、つい年表を調べます。
大津皇子事件は686年、ちょっと早いか。草壁皇子が死んだのは689年、このころでしょうか。
いずれにしても持統天皇の治下です。 -
もっと古いお寺を想像していましたが、1759年建立の本堂が2010年に全面改築されたので、古い建物は残っていないそうです。
-
一書に曰く、
むかし むか~し。という声が、この蟹満寺という名前から聞こえてくるようです。
あの市原悦子、常田富士男の声です。
お寺の境内は、蟹蟹、、、そして蟹。
想像通りの小ぶりのお寺でした。
中に入ると、隅の壁に、見学に来たご近所の小学生でしょうか、子供達のお手紙がはってありました。
ありがとうございました!だって、うふふ。かわいい!
By妻 -
本堂。
ご本尊は国宝釈迦如来像、残念ながら撮影禁止です。 -
もともとは鍍金されていたそうですが、現在はまっ黒でした。このようにまっ黒な銅像は見たことがありません。
白鳳時代の名作だそうです。8尺8寸(240cm)の座像です。仏像の座像は基準丈六(480cm)の半分ですから240cm、まったく基準どおりのサイズです。 -
境内には蟹さんがいっぱいいます。
-
なんと読むのでしょうか。
「かくのごとく、蟹類でも菩提心を発するなり」かな。 -
境内にありました。茂みに隠れて一部読めませんが、
「・・蟹だに 猶 恩を受くれば 恩を辺報(かえ)す 豈(あに) 人にして 恩を忘るべからず・・」
そうですね。肝に銘じます。
このお寺に伝わる伝説があります。
今昔物語集巻16第16話の蟹満寺縁起です。
いただいたパンフをスキャンしました。読みやすいように分割しました。 -
その1
-
その2
確かに蟹は恩を返しましたが、もとはといえば父親ができもしない約束をヘビにしたのがいけないのです。なにやら釈然としない思いがあります。
かといって娘をヘビの嫁にやるわけにはいかないし。
一書に曰く、
ところで、桜井の大神(おおみわ)の伝承では、あるお姫様の所へ、麗しい男子が夜な夜な通います。彼の素性を知りたいと思ったお姫様が男の衣のすそに、糸を通した針をさし、糸をたどってゆくと、あの麗しい男は、蛇でした。というお話がありましたね。
糸巻きに三まき残ったから、三輪山だそうです。
蟹満寺の娘は、神様のお后になり損なったって事でしょうか。
三輪の神様なんてふん!ってことでしょうか。
それにしても、へびから命を助けてもらったのは、蟹ではなく蛙でしたよね。
蛙は、命の恩人の一大事に何してたんだ?
By妻 -
手水は蟹さんから流れることになっております。
コロナで水は流れておりませんでした。
一書に曰く、
話変わって、以前お話しした、まむしを蹴っ飛ばし蹴っ飛ばし中学に通ったという町田育ちの友人は、その後、かえるで人形遊びをしていたことが判明しました。げっ
夏の夜、昔は網戸がなくて、開けっ放して、勉強していると、蛙が入ってくるのだそうです。
捕まえて、ひっくり返すと大人しくなるから、喉から腹を撫でてやると、蛙は静かに寝るそうです。紙の上に蛙を仰向けに寝せて、駆け布団に紙を一枚かけて、よしよしねんね。
だそうです。
繰り返しますが、町田という町は、今はビルが林立しております。
蟹満寺から帰るとき、来るときと道が違いました。
ぐるっと回って行くと、蟹満寺は、川の土手のすぐ側でした。
これでは、カエルだって、蟹だって、ヘビだって出ることでしょう。
のどやかな、農村風景でした。
By妻蟹満寺 寺・神社・教会
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この旅行記へのコメント (6)
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- 前日光さん 2021/11/08 23:59:49
- さすがはしにあご夫妻!
- 平等院なのに、表紙が頼政公墓所というところが、いかにもです(^^;)
こんばんは。
やはり夜型です。
調子が悪くても夜の方が文章は書ける!(実際はほぼ快復しました)
私は2017年6月に、実に半世紀ぶりに平等院を訪れました。
中学校の修学旅行以来です。
半世紀前に、平等院をバックにした記念写真が残っております。
写真を撮っただけですぐに次の見学場所「桃山城」に行ったので、あの建物を池越しに眺めただけでした。
その後も毎日のように10円玉を眺めては、ここ、行ったなぁと。。。
久しぶりに見た平等院は、期待に違わず美しかった!
王朝の夢をたたえたあの建築物!
素直に素晴らしいと思います。
後ろの方に廻ってみたら。。。私も見ました!頼政公の墓所。写真も撮りました。
最勝院では御朱印もいただき、庭に咲いていたコンロンカの白い花(実は白いのはガクで、花は黄色い小さい星形のものだそうです)に感動し、旅行記にもアップしました。
源三位頼政は、ここで最期を迎えたのですよね。
栃木県塩原温泉には「源三窟」という洞窟があります。頼政の孫に当たる源有綱が、頼朝に追われる義経一族と共に塩原に逃げ込んできて、この洞窟内で落人生活に入りました。
再起を図ろうとしたのですが、頼朝軍に発見され、無念の最期を遂げたという伝説の地です。
平家物語は、確かに音読するとその良さが伝わってくる文章ですね。
和漢混淆文、合戦場面が力強い漢文調で、中世語や擬態語が効果的に使われています。
琵琶法師がこれを語ったのも頷けます。
蟹満寺は、その名前の異様さに興味を引かれていましたが、未踏の寺です。
国宝釈迦如来像は、見てみたいです。
蟹がウジャウジャというのは、ちょっと薄気味悪いですねぇ。
蟹の姿って、なかなかグロテスクじゃないですか。
伝説を読みましたが、私もカエルはどうした!って思いました。
恩知らずのカエルめ!
恩返しは、蟹じゃなくてカエルがするべきです。
私は修学旅行でどこに行ったかというのを、けっこう覚えているんですよ。
泊まった旅館の名前まで覚えていて、40年くらい前にそこに泊まったことがあって、女将に「中学校の修学旅行でここに泊まった」と言ったら「それは先代の頃ですね」と呆れられました。
苔寺がまだ一般に公開されていたので、6月の苔寺を見ることができました。
同級生の男の子が「水無月の旅」というタイトルで作文を書いて(文章はイマイチでしたが)、なかなか良いタイトルを付けるヤツと感心しました。
あ、また果てしなくなってきました。
今回はこの辺で(^^;)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/11/09 07:40:59
- Re: さすがはしにあご夫妻!
- ご快復されたようで、何よりです。
8日の栃木のコロナ新患者は2人だそうですね。千葉は4人。これから行く九州は、福岡2人以外ゼロ。ワクチンとマスクと手の消毒の成果でしょうか。
ヨーロッパではマスクを嫌がる人が多いのですが、反ワクチンは理解できても、反マスクはわからない。マスクで済むものならすればいいのに。
女性は化粧しなくて済むし、男は髭剃らなくて済む。目元をしっかりお化粧した目元美人が町を歩いております。マスクとるとどうなるのか。
前日光さんの平等院と頼政のブログ読みました。ところがその後ブログがどこだかわからなくなってしまいました。
平等院の旅ブログは数あれど、頼政墓所まで来る人はいない、さすが前日光さん、と思いました。
頼政の最期は、表門入って左の「扇乃芝」という伝承があるようです。それほど古い伝承ではないようです。私は後で知りました、後の祭り。
いずれにしてもお墓はここでいいと思います。
平等院バックに修学旅行の記念写真、撮っていました。ただ、写真屋さん同行というのはなかった。最近はほぼ全員カメラかスマホもちなので、必要ないのでしょう。
昔って、修学旅行専門の旅館がありませんでしたか。大部屋で、1クラス分くらいまとめて寝られる。今はどうなんでしょう。普通のビジネスホテルみたいだと、枕投げの楽しみがない。あれぞ修学旅行の醍醐味でした。
蟹満寺、国宝の仏様は別にして、建物が新しすぎました。修復じゃなくて、完全な建て直しだったようです。あと何十年かすると落ち着くかもしれません。かといって古いままじゃもたないし。難しいところです。
今回、南山城6古寺のうち三つ回りました。蟹満寺は古寺という感じは無くなっていました。
-
- kummingさん 2021/11/04 17:33:41
- 源平合戦&蛇蟹合戦?
- いきなり飛鳥→平等院、記紀→平家物語、大移動に戸惑いつつ、拝見♪
メジャー中のメジャーと、いつものマニアックな地をご案内頂き、しにあさんby妻さんの、古代に留まらない日本史広範な造詣についていけません(;_;)しかも只今図書館補修の為3ヵ月絶賛休館中、なので俄か勉強もできません。(←言い訳こわけ)
高校の修学旅行が奈良京都でしたが、何処に行ったか?は記憶になく、あるのは友達とのやり取りや自由行動のあれこれ…、帰りのフェリーが沈没する!というフェイクに惑わされ、皆で電話の列に並んだ、ノストラダムス事件、とか…。携帯もスマフォもない長閑な時代でした。金閣銀閣哲学の道は訪れたようです、写真が残っている。
ゴキブリは一発で仕留められるのに、爬虫類は苦手、散歩道に蛇がとぐろっていようものなら、2度とそこは通らないコース変更、中学の理科“蛙の解剖”の日は、前日から腹痛が始まり、初めてのズル休み(笑)いわゆる、仮病?
それにしても、命の恩人の危機に際して、蛙は何をしていたんだ?
mistral さん同様に、このブログで訪れられた処は、今後の展開の伏線なのか?平家物語が必須アイテム?などと怪しんでおります。
さて、話題変わって、平城宮跡歴史公園周辺で、遠隔型自動運転の観光ロボットタクシーを運行する社会実験が実施されるそうです。平たく言えば、公園サービスとして、観光マイクロロボットタクシーの実用化を目指す、のだとか。
ブログの感想というより、勝手自分の昔話m(_ _)m 加齢により、ますますこの傾向が顕になっています(-。-;
- しにあの旅人さん からの返信 2021/11/05 05:43:18
- Re: 源平合戦&蛇蟹合戦?
- 古代史探索シリーズはちょっとお休み。目下頑張っているやつはあるのですが、一応ざっと全部書き上げてからup始めるので、最後の1編がまとまりません。その間素直な旅行記で参ります。
一気に平家物語までワープするなど、大それたことは致しません。
古代もの、まだまだ在庫豊富です。
修学旅行というのは、どうして大事なことを覚えていないんですかね。kummingさんも、記憶にないようで。
当時まだカメラは、中高生などというガキが持ち歩くものではなかったので、写真といえば、「はい、みなさん、こっち見て」というプロの写真屋さんがとる集団写真だけ。それがすでに散逸していると証拠はゼロです。
帰りのフェリー? 京都から九州に帰るのにフェリー乗りましたっけ?
「蛇蟹合戦」に座布団1枚!
蟹満寺のカエルの件は、By妻が気付きました。どうしてお寺としてもカエルを糾弾しないんだろう。今昔物語はカエルの忘恩を取り上げるべきと思うのですが。
「観光ロボットタクシー」というのは初耳。無人のトロッコみたいなのに乗って、ぐるぐる回るというのかな。「長屋王邸跡にある長屋王を祀る神社に連れて行け」とかいう細かい希望をきいて、行き先変更してくれるなら乗ってもいい。前回見つけられなかったのです。それで今書いているブログが難航しています。
図書館って、あの豪華図書館ですよね。大きな図書館があるといいなあ。
我が町の図書館が、なんとか千葉県立図書館から「奈良六大寺大観 薬師寺」を取り寄せてくれました。面白いことが書いてありました。大津皇子フィールドノートを1本追加する予定です。
-
- mistralさん 2021/11/03 21:03:12
- 次なる目的は。
- しにあの旅人さん
こんばんは。
一度この旅行記にお邪魔しましたが、途中で時間がなくなり
出直して参りました。
平等院鳳凰堂へいらっしゃったんですね。
単なる観光目的で、とは思えず、次なるターゲットはどなたでしょうか。
平家物語の世界にいきなりダイヴ?
護国神社詣り?
きっとかなり先のターゲットにねらい定めての事でしょうね。
楽しみにしております。
平等院鳳凰堂、昔ながらの端正な姿。
いつか訪問した折は、季節はいつだったか忘れてしまいましたが
前面の池の水がかなり少なめで、がっかりした記憶があります。
やはり、今回しにあさんが撮影されたような雨にけむるような
瑞々しい佇まいがピッタリきますね。
私でしたらそんな鳳凰堂に出会えただけで大喜びしそう。
鳳凰堂より、源三位頼政公の墓所に出逢われたことのお喜びが
しにあさんには勝ったご様子でしたね。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/11/04 08:56:24
- Re: 次なる目的は。
- しばらく古代史追っかけの旅をお休みして、4トラっぽい旅行記をやっております。厩戸皇子や草壁さんのときも、軽るーく現地ルポをやるつもりで始めたら、深みにハマりました。今回もそのうち何かアイデアが出てくるかもしれません。
平等院、よかったです。修学旅行はいましたが、それ以外の団体客はほぼなし。お隣2ヶ国は皆無でした。定番の観光地も、今がチャンスみたいです。人が少ないときにゆっくりと訪れると、しみじみよさがわかりました。
源三位頼政のお墓も、誰もいないからよかった。
これからしばらく山城、大和の寺社参りですが、しみじみモードで行きたいと思っています。
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