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2021年3月26日(金)12時過ぎ、西の丸の鶴之渓から西側の砂の丸に入る。砂の丸は徳川頼宣が入国後に拡張した郭で乗馬調練場として使われた。江戸後期には、北部に藩の財政を司る勘定所等が配置され、南部には松林が広がっていた。御薬園や同心居御長屋などが設けられていた時期もあったようだ。<br /><br />鶴之渓の西端、元は鶴の門のあったところの西が砂の丸広場になっているが、この広場の東側から南を回り込んで行くと追廻門がある。姫路城などに見られる旧型の高麗門。この門の南に位置する石垣沿いに扇の芝と呼ばれる広場があり、その広場に続く馬場と砂の丸の乗馬調練場との間で、馬を追い回したことからそう呼ばれた(他の説もあり)。<br /><br />江戸時代には朱が塗られていたが、理由には諸説ある。一つはこの門が藩主の居所である二の丸の裏鬼門になるので、魔除けのために赤く塗られたとと云うもの。もう一つは将軍家からの輿入れがあったので赤く塗ったと云うもの。<br /><br />追廻門を入ると立派な石垣が続くが、砂の丸広場の南に当たるところは石垣が切れている。ここは現在は和歌山県護国神社の入口になる。砂の丸は城の西側、西の丸から南の丸まで続いており、この入口辺りが丁度南北の中間点になる。<br /><br />和歌山県護国神社はその砂の丸の南側部分に建てられている。1937年(昭和12年)に招魂社として創建され、2年後に現社号となった。和歌山県出身の戦没者を奉慰するための招魂祭が1880年(明治13年)から行われており、1896年(明治29年)からはこの場所で行われていたようだ。<br /><br />1937年に社務所が創建されたが、1945年7月の空襲で焼失。1947年に再建されたが、老朽化に伴い1974年に撤去された。1987年には不審火により社殿が全焼し、1992年に再建された。<br /><br />入口を入ると道が2方向に分かれるが、右手の道に石造の二ノ鳥居が建つ。1938年(昭和13年)に寄進されたもの。左手の道を進むと本丸曲輪の裏(西側)に上がる新裏坂の登り口に通じる(下の写真1)。<br /><br />行かなかったのだが、砂の丸の一番北側、わかやま歴史館の裏、砂の丸の一番北の石垣が切れている吹上口の手前(北側)にやはり石造の一ノ鳥居がある。こちらは招魂社創建前の1935年(昭和10年)に寄進されたもの。<br /><br />二ノ鳥居から本殿域の間には沢山の碑が建てられている。境内改修三十周年記念碑は和歌山市傷痍軍人会が戦没者の慰霊顕彰などのために1986年に建立したもの。<br /><br />歩兵第六十一聯隊 鎮魂は戦友会が1980年に建てたもの。歩兵第61連隊は1905年(明治38年)、日露戦争時に創設され、1909年(明治42年)から第二次世界大戦終戦に至るまで和歌山市砂山南(和歌山城の西南約1.5㎞で、現在県和歌商や西和中が固まっている一帯)を拠点にした部隊で、満州から華中、フィリピン、スマトラ島、ビルマ(ミャンマー)と転戦し、最後はタイ北部で終戦を迎えた。近くには連隊酒保の藤棚の下にあった円卓子が移設されている(下の写真2)。<br /><br />歩兵第二百十八聯隊 礎碑は第61連隊留守隊を主力に、第8連隊留守隊第3大隊を合流して1939年(昭和14年)に和歌山で編成された第218連隊の戦友が慰霊のために1978年に建てたもの。第218連隊は中支戦線に参加し、そのまま終戦を迎えた。<br /><br />歩兵第二百三十聯隊 魂碑は1939年(昭和14年)に静岡、岐阜で編成された第230連隊の戦没者の慰霊顕彰のために戦友が1977年に建てたもの。南支派遣軍として参加し、1941年の香港島攻略で大きな損耗を負い、翌年和歌山の歩兵161連隊から約1000名が補充された。その後インドシナに転戦し、現在のパプアニューギニアで終戦を迎えた。<br /><br />あゝ予科練の碑は予科練和歌山県人会が出身戦友戦没者の慰霊顕彰のために1969年に建立したもの。満蒙開拓青少年義勇軍碑は和歌山に復員した拓友会が1963年に建立したもので、1979年に改修されている。和歌山からも15歳前後の若者が約1500人が送出された。陸軍少年飛行兵碑も和歌山出身者の復員者の少飛会が1968年に建てたもの。<br /><br />1992年に再建された社殿は、本殿、祝詞殿、拝殿、神饌所、祭器庫が一体となった鉄筋コンクリートの流れ造。前に建つ合金製の三ノ鳥居は社殿再建直後に建立されたもの。社殿に向かって右側には1962年の昭和天皇・皇后両陛下の親拝を記念した碑が建つ。<br /><br />次は護国神社の南東部の南の丸櫓跡へ。ここからは三年坂を見下ろせ、向かいの和歌山県立近代美術館や奥山稲荷社から市の南側だけでなく、東も西も見通すことが出来る。高櫓台とも呼ばれ、砂ノ丸の東から南に続く高石垣(下の写真3)の東端で高さ16mある。<br /><br />隙間なく積み上げられた切込接ぎという工法で、天頂部へ行くほど勾配が急になる反りのある構造になっており、忍者も登れない急峻な構造から、忍び返しとか武者返しとか呼ばれる。<br /><br />ここで、石垣は切れるが、ここから西側には元々、南内堀が岡口門の南まで三年坂通りに沿ってあった。1924年(大正13年)に埋め立てられたが、建物等は建っていない(下の写真4)。<br /><br />高櫓台を降りて、新裏坂登り口から高櫓台の下を回り込んで来ると、駐車場の先(南)が今は駐車場のゲートしかないが、ここに不明門(あかずのもん)があった。南内堀と南の丸櫓の間にあった門で、通常は閉じられたままだった。万が一の落城の際の退き口だったが、幸いに使われることはなかった。その頃の三年坂は現在のように掘り下げられておらず、かなりの急坂だったとのこと。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6549424038460898&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />一旦城外に出て、城の南側を歩くが、続く

和歌山城 砂の丸(Sunanomaru wing of the Wakayama Castle, Wakayama, Japan)

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2021/03/26 - 2021/03/26

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年3月26日(金)12時過ぎ、西の丸の鶴之渓から西側の砂の丸に入る。砂の丸は徳川頼宣が入国後に拡張した郭で乗馬調練場として使われた。江戸後期には、北部に藩の財政を司る勘定所等が配置され、南部には松林が広がっていた。御薬園や同心居御長屋などが設けられていた時期もあったようだ。

鶴之渓の西端、元は鶴の門のあったところの西が砂の丸広場になっているが、この広場の東側から南を回り込んで行くと追廻門がある。姫路城などに見られる旧型の高麗門。この門の南に位置する石垣沿いに扇の芝と呼ばれる広場があり、その広場に続く馬場と砂の丸の乗馬調練場との間で、馬を追い回したことからそう呼ばれた(他の説もあり)。

江戸時代には朱が塗られていたが、理由には諸説ある。一つはこの門が藩主の居所である二の丸の裏鬼門になるので、魔除けのために赤く塗られたとと云うもの。もう一つは将軍家からの輿入れがあったので赤く塗ったと云うもの。

追廻門を入ると立派な石垣が続くが、砂の丸広場の南に当たるところは石垣が切れている。ここは現在は和歌山県護国神社の入口になる。砂の丸は城の西側、西の丸から南の丸まで続いており、この入口辺りが丁度南北の中間点になる。

和歌山県護国神社はその砂の丸の南側部分に建てられている。1937年(昭和12年)に招魂社として創建され、2年後に現社号となった。和歌山県出身の戦没者を奉慰するための招魂祭が1880年(明治13年)から行われており、1896年(明治29年)からはこの場所で行われていたようだ。

1937年に社務所が創建されたが、1945年7月の空襲で焼失。1947年に再建されたが、老朽化に伴い1974年に撤去された。1987年には不審火により社殿が全焼し、1992年に再建された。

入口を入ると道が2方向に分かれるが、右手の道に石造の二ノ鳥居が建つ。1938年(昭和13年)に寄進されたもの。左手の道を進むと本丸曲輪の裏(西側)に上がる新裏坂の登り口に通じる(下の写真1)。

行かなかったのだが、砂の丸の一番北側、わかやま歴史館の裏、砂の丸の一番北の石垣が切れている吹上口の手前(北側)にやはり石造の一ノ鳥居がある。こちらは招魂社創建前の1935年(昭和10年)に寄進されたもの。

二ノ鳥居から本殿域の間には沢山の碑が建てられている。境内改修三十周年記念碑は和歌山市傷痍軍人会が戦没者の慰霊顕彰などのために1986年に建立したもの。

歩兵第六十一聯隊 鎮魂は戦友会が1980年に建てたもの。歩兵第61連隊は1905年(明治38年)、日露戦争時に創設され、1909年(明治42年)から第二次世界大戦終戦に至るまで和歌山市砂山南(和歌山城の西南約1.5㎞で、現在県和歌商や西和中が固まっている一帯)を拠点にした部隊で、満州から華中、フィリピン、スマトラ島、ビルマ(ミャンマー)と転戦し、最後はタイ北部で終戦を迎えた。近くには連隊酒保の藤棚の下にあった円卓子が移設されている(下の写真2)。

歩兵第二百十八聯隊 礎碑は第61連隊留守隊を主力に、第8連隊留守隊第3大隊を合流して1939年(昭和14年)に和歌山で編成された第218連隊の戦友が慰霊のために1978年に建てたもの。第218連隊は中支戦線に参加し、そのまま終戦を迎えた。

歩兵第二百三十聯隊 魂碑は1939年(昭和14年)に静岡、岐阜で編成された第230連隊の戦没者の慰霊顕彰のために戦友が1977年に建てたもの。南支派遣軍として参加し、1941年の香港島攻略で大きな損耗を負い、翌年和歌山の歩兵161連隊から約1000名が補充された。その後インドシナに転戦し、現在のパプアニューギニアで終戦を迎えた。

あゝ予科練の碑は予科練和歌山県人会が出身戦友戦没者の慰霊顕彰のために1969年に建立したもの。満蒙開拓青少年義勇軍碑は和歌山に復員した拓友会が1963年に建立したもので、1979年に改修されている。和歌山からも15歳前後の若者が約1500人が送出された。陸軍少年飛行兵碑も和歌山出身者の復員者の少飛会が1968年に建てたもの。

1992年に再建された社殿は、本殿、祝詞殿、拝殿、神饌所、祭器庫が一体となった鉄筋コンクリートの流れ造。前に建つ合金製の三ノ鳥居は社殿再建直後に建立されたもの。社殿に向かって右側には1962年の昭和天皇・皇后両陛下の親拝を記念した碑が建つ。

次は護国神社の南東部の南の丸櫓跡へ。ここからは三年坂を見下ろせ、向かいの和歌山県立近代美術館や奥山稲荷社から市の南側だけでなく、東も西も見通すことが出来る。高櫓台とも呼ばれ、砂ノ丸の東から南に続く高石垣(下の写真3)の東端で高さ16mある。

隙間なく積み上げられた切込接ぎという工法で、天頂部へ行くほど勾配が急になる反りのある構造になっており、忍者も登れない急峻な構造から、忍び返しとか武者返しとか呼ばれる。

ここで、石垣は切れるが、ここから西側には元々、南内堀が岡口門の南まで三年坂通りに沿ってあった。1924年(大正13年)に埋め立てられたが、建物等は建っていない(下の写真4)。

高櫓台を降りて、新裏坂登り口から高櫓台の下を回り込んで来ると、駐車場の先(南)が今は駐車場のゲートしかないが、ここに不明門(あかずのもん)があった。南内堀と南の丸櫓の間にあった門で、通常は閉じられたままだった。万が一の落城の際の退き口だったが、幸いに使われることはなかった。その頃の三年坂は現在のように掘り下げられておらず、かなりの急坂だったとのこと。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6549424038460898&type=1&l=223fe1adec


一旦城外に出て、城の南側を歩くが、続く

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  • 写真1 和歌山城 新裏坂登り口

    写真1 和歌山城 新裏坂登り口

  • 写真2 歩兵第61連隊円卓子

    写真2 歩兵第61連隊円卓子

  • 写真3 砂ノ丸高石垣南東角

    写真3 砂ノ丸高石垣南東角

  • 写真4 南の丸櫓跡から東側の三年坂通り。左手が南内堀跡

    写真4 南の丸櫓跡から東側の三年坂通り。左手が南内堀跡

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