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2021年3月26日(金)12時15分過ぎ、和歌山城の不明門跡から一旦城外に出る。現在は駐車場の出入口となっているところだが、城の南側を走る三年坂通りに面している。<br /><br />三年坂は和歌山城とその南側に続く岡山砂丘の間を通る切り通しの坂で、紀州初代藩主徳川頼宣の時代の1621年に城を拡張する際に、掘り割って造られた。当時は今よりずっと狭く急な坂だったが、1924年(大正13)年に約2メートル切り下げられ拡幅され県道となった。三年坂の名前の由来は「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」という江戸時代の俗信によると伝わる。<br /><br />江戸後期の1796年に書かれた「紀街の詠(ながめ)」と云う本の中に以下のような話がある。昔、ある女癖の悪い男が、夜ごと、この坂で女の人に声をかけていたが、ある時急用が出来、急いだところ提灯の火が消え、暗闇の中で転んでしまう。これを「坂てころんて(転んで)、これはさんねん(残念)」と表している。<br /><br />当時の三年坂は今より急で、夜は灯りが全くなく、歩くのはとても危険だったため、人々はそれを伝えるため、「あの坂で転ぶと死んでしまう」と大げさに伝えていたが、文章の最後の「さんねん」が「残念」ではなく「三年」と読まれ、「あの坂で転ぶと三年で死ぬ」と変化したのではないかと云う事。ホンマかしら?<br /><br />三年坂通りに出て西に進むと県庁前の交差点があるが、この交差点の南東側に徳川吉宗公之像がある。享保年間に吉宗が西洋より馬を輸入したことから、西洋馬に跨った姿とし、台座は大きな視野で物事を考えた将軍にちなみ、後ろ側の丸い部分は地球をイメージしている。<br /><br />1994年に和歌山虎伏ライオンズクラブがチャーター・ナイト30周年記念事業として寄贈したもの。チャーター・ナイトとは新しいライオンズクラブの始まりを祝う式典のことなので、創設30周年記念ってことかな?<br /><br />徳川吉宗は暴れん坊将軍で有名な徳川幕府8代将軍だが、紀州徳川家の出身。1684年に3代将軍家光の従弟の2代藩主徳川光貞の四男として和歌山に生まれる。幼名は源六、新之助で、5歳からは江戸の紀州藩邸で育つ。12歳で元服し松平頼久と名乗る。14歳の時、現在の福井県の一部の葛野藩の藩主となり、名前を松平頼方と改めるが、葛野藩ではなく和歌山城下に住んでいたと云われる。<br /><br />1705年に父の跡を継いでいた3代目藩主の長兄の綱教(つなのり)、さらにその跡を継いだ4代目藩主の三兄頼職(よりもと)が相次いで病死し、22歳で紀州徳川家を相続し第5代藩主に就任し、徳川吉宗に名を改める。<br /><br />紀州藩主となった後は、藩政改革に着手して藩財政の再建に手腕を発揮した他、風紀改革も行った。そして1716年、32歳の時に7代将軍家継が8歳で早世し、家康、秀忠の男系子孫が絶えたのを受け、第8代将軍に就任。以後、30年近く将軍職にあり、享保の改革を成し遂げ、徳川中興の祖と呼ばれる。1745年に将軍職を長男の家重に譲り隠居するが、1751年に再発性脳卒中で死去するまで大御所として実権を握り続けた。享年68歳(満66歳)。<br /><br />吉宗像から三年坂通りを東に戻ると南側に和歌山県立近代美術館。1994年に開館した黒川紀章による意匠を凝らした大型施設。バブル期にたてられた予算で建設されたもので、分かるわ。同時期に竣工した南側に繋がる和歌山県立博物館と共に公共建築百選に選ばれている。<br /><br />そのまま東に進むとちょうど不明門跡の向かいの小山に建つのが奥山稲荷社。紀州の藩祖となる頼宜卿が駿河国より国入りした際、和歌山城の守り神として勧請した。広く大衆の生命の根源である衣食住はもとより、家業繁栄の守り神として崇めている。稲蒼魂(うかのみたま)命、照川大明神、葛葉大明神、幾田大明神、吉田大明神の五柱が合わせ祀られている。<br /><br />境内にある岡山の時鐘堂は江戸中期の1712年、徳川吉宗の5代藩主時代に設置された。2人の番人によって一刻毎につき鳴らされたが、それ以外にも火災・洪水・異国船の出没などの非常事態を伝える役目も持っていた。明治以降も1921年(大正10年)まで鐘はならされたいた。なお、ここ以外にも本町五丁目に1600年建造の時鐘屋敷もあったそうだが残っていない。<br /><br />扉が閉まっているので見えないが、2階の大梁に吊り下げられている梵鐘は、1615年の大阪夏の陣で豊臣方が使用した青銅製の大砲を徳川方が捕獲し、紀州藩に保管していたものを吉宗の父、2代藩主光貞の命で粉河の鋳物師により改鋳したものと伝わる。<br /><br />境内には他にも大龍王大神の石碑(下の写真1)、豊作大神の石碑や身代り地蔵尊(下の写真2)、さらに詳細は不明だが摂社・末社もあった。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6571289976274304&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />岡公園に向かうが、続く

和歌山 三年坂(Sanen-zaka Slope, Wakayama, Japan)

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2021/03/26 - 2021/03/26

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旅行記グループ 和歌山城

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年3月26日(金)12時15分過ぎ、和歌山城の不明門跡から一旦城外に出る。現在は駐車場の出入口となっているところだが、城の南側を走る三年坂通りに面している。

三年坂は和歌山城とその南側に続く岡山砂丘の間を通る切り通しの坂で、紀州初代藩主徳川頼宣の時代の1621年に城を拡張する際に、掘り割って造られた。当時は今よりずっと狭く急な坂だったが、1924年(大正13)年に約2メートル切り下げられ拡幅され県道となった。三年坂の名前の由来は「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」という江戸時代の俗信によると伝わる。

江戸後期の1796年に書かれた「紀街の詠(ながめ)」と云う本の中に以下のような話がある。昔、ある女癖の悪い男が、夜ごと、この坂で女の人に声をかけていたが、ある時急用が出来、急いだところ提灯の火が消え、暗闇の中で転んでしまう。これを「坂てころんて(転んで)、これはさんねん(残念)」と表している。

当時の三年坂は今より急で、夜は灯りが全くなく、歩くのはとても危険だったため、人々はそれを伝えるため、「あの坂で転ぶと死んでしまう」と大げさに伝えていたが、文章の最後の「さんねん」が「残念」ではなく「三年」と読まれ、「あの坂で転ぶと三年で死ぬ」と変化したのではないかと云う事。ホンマかしら?

三年坂通りに出て西に進むと県庁前の交差点があるが、この交差点の南東側に徳川吉宗公之像がある。享保年間に吉宗が西洋より馬を輸入したことから、西洋馬に跨った姿とし、台座は大きな視野で物事を考えた将軍にちなみ、後ろ側の丸い部分は地球をイメージしている。

1994年に和歌山虎伏ライオンズクラブがチャーター・ナイト30周年記念事業として寄贈したもの。チャーター・ナイトとは新しいライオンズクラブの始まりを祝う式典のことなので、創設30周年記念ってことかな?

徳川吉宗は暴れん坊将軍で有名な徳川幕府8代将軍だが、紀州徳川家の出身。1684年に3代将軍家光の従弟の2代藩主徳川光貞の四男として和歌山に生まれる。幼名は源六、新之助で、5歳からは江戸の紀州藩邸で育つ。12歳で元服し松平頼久と名乗る。14歳の時、現在の福井県の一部の葛野藩の藩主となり、名前を松平頼方と改めるが、葛野藩ではなく和歌山城下に住んでいたと云われる。

1705年に父の跡を継いでいた3代目藩主の長兄の綱教(つなのり)、さらにその跡を継いだ4代目藩主の三兄頼職(よりもと)が相次いで病死し、22歳で紀州徳川家を相続し第5代藩主に就任し、徳川吉宗に名を改める。

紀州藩主となった後は、藩政改革に着手して藩財政の再建に手腕を発揮した他、風紀改革も行った。そして1716年、32歳の時に7代将軍家継が8歳で早世し、家康、秀忠の男系子孫が絶えたのを受け、第8代将軍に就任。以後、30年近く将軍職にあり、享保の改革を成し遂げ、徳川中興の祖と呼ばれる。1745年に将軍職を長男の家重に譲り隠居するが、1751年に再発性脳卒中で死去するまで大御所として実権を握り続けた。享年68歳(満66歳)。

吉宗像から三年坂通りを東に戻ると南側に和歌山県立近代美術館。1994年に開館した黒川紀章による意匠を凝らした大型施設。バブル期にたてられた予算で建設されたもので、分かるわ。同時期に竣工した南側に繋がる和歌山県立博物館と共に公共建築百選に選ばれている。

そのまま東に進むとちょうど不明門跡の向かいの小山に建つのが奥山稲荷社。紀州の藩祖となる頼宜卿が駿河国より国入りした際、和歌山城の守り神として勧請した。広く大衆の生命の根源である衣食住はもとより、家業繁栄の守り神として崇めている。稲蒼魂(うかのみたま)命、照川大明神、葛葉大明神、幾田大明神、吉田大明神の五柱が合わせ祀られている。

境内にある岡山の時鐘堂は江戸中期の1712年、徳川吉宗の5代藩主時代に設置された。2人の番人によって一刻毎につき鳴らされたが、それ以外にも火災・洪水・異国船の出没などの非常事態を伝える役目も持っていた。明治以降も1921年(大正10年)まで鐘はならされたいた。なお、ここ以外にも本町五丁目に1600年建造の時鐘屋敷もあったそうだが残っていない。

扉が閉まっているので見えないが、2階の大梁に吊り下げられている梵鐘は、1615年の大阪夏の陣で豊臣方が使用した青銅製の大砲を徳川方が捕獲し、紀州藩に保管していたものを吉宗の父、2代藩主光貞の命で粉河の鋳物師により改鋳したものと伝わる。

境内には他にも大龍王大神の石碑(下の写真1)、豊作大神の石碑や身代り地蔵尊(下の写真2)、さらに詳細は不明だが摂社・末社もあった。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6571289976274304&type=1&l=223fe1adec


岡公園に向かうが、続く

  • 写真1 奥山稲荷社 本殿と大龍王大神の石碑

    写真1 奥山稲荷社 本殿と大龍王大神の石碑

  • 写真2 奥山稲荷社 身代り地蔵尊

    写真2 奥山稲荷社 身代り地蔵尊

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