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2021年3月26日(金)11時10分過ぎ、JR和歌山駅から和歌山城に向かって歩きだす。和歌山城は和歌山駅の約2㎞西にあり、その間をけやき大通りが結んでいる(下の写真1)。<br /><br />けやき大通りは正式には和歌山県道17号和歌山停車場線で、JR和歌山駅の中央口前から和歌山城と市役所の間を通って国道24/26号線に達している和歌山市の中心的な通り。古くは1923年(大正12年)に県道和歌山東和歌山停車場線として認定されたものの一部で、1954年に県道17号となる。1930年(昭和5年)から1971年までは南海和歌山軌道線(和歌山電気軌道)が走っていた。<br /><br />戦後の復興事業で50m道路に拡幅され、1991年から94年に掛けて整備されて側道が廃止され、歩道が拡幅されて現在の形になった。駅に近いところは商業施設が多いが、徐々に業務施設や駐車場が増加する。駅側はベンチなども置かれ、市民の憩いの場となっている。また、城側にはけやき並木が続く景観のいい道路になっている。<br /><br />20分ほど歩くと左前方、和歌山中央郵便局の先に和歌山城の堀が見えて来る(表紙の写真)。和歌山城は徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城だった城で、城跡は国の史跡に指定されている。標高48.9mの虎伏山(岡山)山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀としている。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された梯郭式平山城(パンフレットは下の写真2&amp;3)。<br /><br />この城の始まりは安土桃山時代。豊臣秀吉の弟・秀長が1585年の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。その後、当時は若山と書かれていたこの地に秀吉が築城を命じ1年で完成させ、名を和歌山と改めた。完成後、秀長は奈良の郡山城に移ったため、家臣の桑山重晴が城代となり、本丸を中心に手直しを行った。<br /><br />関ヶ原の戦いで桑山重晴の孫で跡を継いでいた桑山一晴は東軍に付き、本領安堵され2万石で城代を務めていたが、1601年に大和新庄藩に同石で初代藩主となり、代わりに浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となった。幸長によって1605年頃、下見板張りの天守が建てられ、現在の本丸、二の丸、西の丸に屋敷が造営された。また、城の正面である大手門を岡口門から一之橋の門に変え、城下町を整備した。その後、幸長の跡を継いだ弟の2代目藩主長晟(ながあきら)が土塁から石垣に改修した。<br /><br />1619年、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となり、代わって徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が55万5千石で入城し、南海の鎮(しずめ)となる御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年より城を改修しほぼ現在の和歌山城の姿とし、さらに城下町を拡張したが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどだった。<br /><br />1655年に西の丸・二の丸が焼け、1813年には西の丸を全焼したが、その約30年後の1846年には落雷で御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼し、1850年に大小天守等が再建された。その後も数度の火災に遭い、現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積。<br /><br />明治に入り、1871年(明治4年)に廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。二の丸御殿は、1885年に大坂城へ移築された(その後第2次大戦で焼失)。1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放。第2次大戦までは本丸の天守、櫓群は遺っていたが1945年の和歌山大空襲で天守などの指定建造物11棟すべてを焼失。<br /><br />1958年、鉄筋コンクリートの天守が復元。1983年に1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元。2006年に二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が竣工。現在は遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存している。中でも岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は和歌山県指定天然記念物。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されている。<br /><br />様々な石垣の積み方が共存しているのはこの城の特徴の一つ。豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石。<br /><br />現在は、本丸と二の丸が市立和歌山城公園となっており、本丸南西部の砂の丸南部には和歌山縣護国神社があり、南の丸には和歌山城公園動物園がある。三の丸にはかつては紀州藩の重臣である水野家や安藤家、三浦家などの上流藩士の邸宅が建ち並んでいたが、現在は、県庁舎、市役所(下の写真4、1976年竣工)や消防局、地方裁判所、家庭裁判所、地方検察庁などの公的機関や学校、商業施設、オフィス街、中央郵便局(下の写真5)、県立近代美術館、県立博物館などになっている。<br /><br /><br />西の丸跡から和歌山城址に入るが、続く

和歌山 和歌山城(Wakayama Castle, Wakayama, Japan)

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2021/03/26 - 2021/03/26

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旅行記グループ 和歌山城

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年3月26日(金)11時10分過ぎ、JR和歌山駅から和歌山城に向かって歩きだす。和歌山城は和歌山駅の約2㎞西にあり、その間をけやき大通りが結んでいる(下の写真1)。

けやき大通りは正式には和歌山県道17号和歌山停車場線で、JR和歌山駅の中央口前から和歌山城と市役所の間を通って国道24/26号線に達している和歌山市の中心的な通り。古くは1923年(大正12年)に県道和歌山東和歌山停車場線として認定されたものの一部で、1954年に県道17号となる。1930年(昭和5年)から1971年までは南海和歌山軌道線(和歌山電気軌道)が走っていた。

戦後の復興事業で50m道路に拡幅され、1991年から94年に掛けて整備されて側道が廃止され、歩道が拡幅されて現在の形になった。駅に近いところは商業施設が多いが、徐々に業務施設や駐車場が増加する。駅側はベンチなども置かれ、市民の憩いの場となっている。また、城側にはけやき並木が続く景観のいい道路になっている。

20分ほど歩くと左前方、和歌山中央郵便局の先に和歌山城の堀が見えて来る(表紙の写真)。和歌山城は徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城だった城で、城跡は国の史跡に指定されている。標高48.9mの虎伏山(岡山)山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀としている。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された梯郭式平山城(パンフレットは下の写真2&3)。

この城の始まりは安土桃山時代。豊臣秀吉の弟・秀長が1585年の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。その後、当時は若山と書かれていたこの地に秀吉が築城を命じ1年で完成させ、名を和歌山と改めた。完成後、秀長は奈良の郡山城に移ったため、家臣の桑山重晴が城代となり、本丸を中心に手直しを行った。

関ヶ原の戦いで桑山重晴の孫で跡を継いでいた桑山一晴は東軍に付き、本領安堵され2万石で城代を務めていたが、1601年に大和新庄藩に同石で初代藩主となり、代わりに浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となった。幸長によって1605年頃、下見板張りの天守が建てられ、現在の本丸、二の丸、西の丸に屋敷が造営された。また、城の正面である大手門を岡口門から一之橋の門に変え、城下町を整備した。その後、幸長の跡を継いだ弟の2代目藩主長晟(ながあきら)が土塁から石垣に改修した。

1619年、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となり、代わって徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が55万5千石で入城し、南海の鎮(しずめ)となる御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年より城を改修しほぼ現在の和歌山城の姿とし、さらに城下町を拡張したが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどだった。

1655年に西の丸・二の丸が焼け、1813年には西の丸を全焼したが、その約30年後の1846年には落雷で御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼し、1850年に大小天守等が再建された。その後も数度の火災に遭い、現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積。

明治に入り、1871年(明治4年)に廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。二の丸御殿は、1885年に大坂城へ移築された(その後第2次大戦で焼失)。1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放。第2次大戦までは本丸の天守、櫓群は遺っていたが1945年の和歌山大空襲で天守などの指定建造物11棟すべてを焼失。

1958年、鉄筋コンクリートの天守が復元。1983年に1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元。2006年に二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が竣工。現在は遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存している。中でも岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は和歌山県指定天然記念物。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されている。

様々な石垣の積み方が共存しているのはこの城の特徴の一つ。豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石。

現在は、本丸と二の丸が市立和歌山城公園となっており、本丸南西部の砂の丸南部には和歌山縣護国神社があり、南の丸には和歌山城公園動物園がある。三の丸にはかつては紀州藩の重臣である水野家や安藤家、三浦家などの上流藩士の邸宅が建ち並んでいたが、現在は、県庁舎、市役所(下の写真4、1976年竣工)や消防局、地方裁判所、家庭裁判所、地方検察庁などの公的機関や学校、商業施設、オフィス街、中央郵便局(下の写真5)、県立近代美術館、県立博物館などになっている。


西の丸跡から和歌山城址に入るが、続く

  • 写真1 けやき大通り

    写真1 けやき大通り

  • 写真2 和歌山城パンフレット

    写真2 和歌山城パンフレット

  • 写真3 和歌山城パンフレット裏

    写真3 和歌山城パンフレット裏

  • 写真4 市役所

    写真4 市役所

  • 写真5 中央郵便局

    写真5 中央郵便局

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