2019/08/09 - 2019/08/13
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Indianal Jobsさん
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2018年10月スタート 世界一周 ヨーロッパ編
ドブロブニクを後にして出かけたボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ
オリンピック開催もその後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争もしっかり記憶にある年代としてブカレスト同様に訪れてみたかった場所
そのサラエボの負の観光スポット トンネル博物館初め第一次世界大戦の発端となったラテン橋など初めとする旧市街地観光の様子まとめです
これまで短めの滞在だったのでサラエボでは4泊し、骨休み兼ねてゆったり過ごしました
スケジュール
8/09 ドブロブニク 13:00 → サラエボ 19:50
8/10 トンネル博物館見学 午後はゆっくり過ごす
8/11 サラエボ市内観光
8/12 コーヒーを楽しむ程度の町歩き(散髪)
8/13 移動日 ザグレブへ
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13:00 ドブロブニク発、利用バスはCentrotrans(たぶん…) サラエボまでは2人で370.6Kn(1人約3,050円) バスに預ける荷物は荷物代として1つにつき1ユーロ徴収されました
バスターミナルを出発して最初の100kmで3ヵ所のパスポートコントロールがあります 特に面倒な国境越えではないのですが3回ともなるとそれなりに時間がかりました長距離バスターミナル (ドブロブニク) バス系
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19:50 出発から7時間掛かりようやくサラエボのバスターミナルに到着 特に渋滞があったワケでもないのですが時間掛かり過ぎ
バスターミナルは新市街地エリアにあるので旧市街地に宿がある場合、歩くには少し距離があるのでトラムで移動 バスターミナルからトラム乗り場までは東へ少し歩きサラエボ鉄道駅から1番 もしくは南へ歩き大通りから2、3、5番トラムで移動
私たちは宿泊先までの約1.3kmテクテク歩いて移動しました -
サラエボでの宿は新市街エリア ショッピングモール店Sarajevo City Center近くのAirbnbに宿泊 ワンルームアパート丸貸物件で1泊4300円 料金は安いとは言えませんでしたが1泊、2泊での移動が多かったので骨休みも兼ねて4泊お世話になりました
広々としたスペースに滞在に必要な全てのモノが揃っていて利用したAirbnbの中でBest5に入る良物件でした -
キッチンは狭いものの冷蔵庫にはゲスト用のちょっとした食材まで用意されていました(パスタ・牛乳・卵・アイスクリームなど料金に含む)、バスルームの洗濯機(洗剤含む)も自由に使え何1つ不自由することなく過ごせました
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部屋は半地下で窓の外を楽しむ造りではありませんでしたが、サラエボですら暑い夏にちょうどいい温度と湿度を提供してくれ快適に寝ることができ、一日部屋に居ても快適に過ごせる物件でした
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この日の夕食はSarajevo City Centerモール内のMetropolisというレストランで食べ、写真の料理で21.5KM(約1,350円) ドブロブニクより物価が安くなりました
夕食後 モール内のスーパーで食材を購入し22時頃に戻りこの日はお終い -
8/10
翌日はサラエボの負の観光遺産のサラエボ・トンネル博物館へ
トンネル博物館は空港滑走路の南側に位置し市街地からは距離があり公共交通でアクセスする場合はトラムとバスを乗り継ぐ必要があります
中心部からアクセスする場合はトラムでIlidzaまで行きそこからバスに乗り換え、最寄バス停からは徒歩約800mとなります
中心部から行く場合は3番(または6番)のトラムを利用 -
トラムの料金は距離に関係なく1回1.8KM(約110円) 降車駅は終点駅のIlidzaとなります チケットは停車場近くのキヨスクか運転手から購入 チケットは乗車時に打刻機で打刻して有効チケットとなります
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バスターミナルはトラムの降り場と隣接しているので降たところがもうバス乗り場 迷うことはありません
トンネル博物館行きのバスは32番 -
バス代は1回1.6KM(約100円)でチケットは運転手から購入 乗車済みという証にチケットの端をちぎられます
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バス停近くの看板 バス停からは小さな小川を渡って住宅街の中の道を800mほど歩いて到着となります
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バス停近くには沢山のお墓 比較的新しい墓地なのでサラエボ包囲で犠牲になった人達のお墓と思われます
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激しい銃撃戦の跡が残された民家 紛争がなかればフツーの住宅地のフツーの家 それまで普通に生活していた場所がある日を境に銃弾が飛び交う戦場と化す 人間の排他的な考えが狂気となって膨れ上がってしまった爪痕が今なお残ります
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イチオシ
激しい銃撃戦の跡が残るトンネル博物館に到着
1992~1995年にかけて起こった内戦ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 その紛争中ボスニア人が住むサラエボ一帯をセルビア軍が包囲してしまった時(サラエボ包囲)に空港滑走路によって分断、孤立してしまった地区に食糧品などの物資を運ぶために住民達が自力で掘ったトンネルの一部を残し博物館として公開しています
トンネルは滑走路の北側から掘られたどり着いた先がこの家だったそうですサラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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見学料は1人10KM(約600円) クレジットカード・ユーロは使えないので現金を用意
営業時間:09:00~17:00 (冬季は09:00~16:00) -
博物館内の様子 そこまで立派な施設ではありませんが30年前に実際に使われたトンネルはもちろん当時の武器や道具、映像、写真資料が展示されリアルさが伝わります
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天井に吊るされた砲弾があるかと思えば床にも砲弾が埋まっていました サラエボを取り囲んだセルビア軍 豊かな兵力と山手という地理的優位からサラエボに対し容赦ない攻撃を加えました
サラエボ包囲の期間中(1992年4月5日~1996年2月29日)、1日平均329回の砲撃があり、最も多かった日の1993年7月22日は1日で35,000回以上の砲撃があったそうなので銃痕がない家の方が珍しいのかもしれません -
ボスニア軍が使用した武器 ユーゴスラビア人民軍によってもたせられたセルビア軍の強力で豊富な武器に比べボスニア側は旧式の僅かな武器で対抗 防弾チョッキは自作したモノもありました
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空港により寸断された補給ルートを確保するために人々の手によって彫られたトンネルへ トンネルは1993年の3月から4ヶ月で完成しその全長は800m!!
殆どが塞がれてしまい現在博物館で体験できるのは25mのみとなっています -
高さ約1.6m 空港滑走を横切る形で作られたトンエルにはレールが引かれ様々な用途のトロッコが往復しました
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僅か20mで出口の光が見えてしまう博物館のトンネルでしたが当時は1km近く進まないと陽の光が見えない状態 手掘りの小さなトンエル 紛争終結を迎えるまで大動脈として使用されたこのトンエルはどれだけの命を救ったのでしょう?
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館内には戦時中の様子を映したビデオや包囲された地域で活動する市民の姿を映した沢山の写真を見ることが出来ます
当時はオリンピックの選手村が砲弾だらけになっていたりサッカー場がお墓にされたりと断片的な映像記憶がありますが博物館に来てさらに昔の記憶が蘇りました -
トンネルを使って負傷者を移動する様子の展示 食糧や武器の確保、時には家畜もこのトンネルで移動したそうです
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実際の写真
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サラエボ包囲の様子を説明した図 白いエリアがボスニア勢力、それを取り囲む赤い部分がセルビア勢力 サラエボ国際空港は国連の管理下にあり守られていましたが空港滑走路によって隔てられた地域は完全に分断
いくら国連管理下にあるとはいえ、ひらけた空港の付近の活動はスナイパーの標的となってしまうため滑走路を横切る形でトンネルが作られました -
滑走路の下を通るトンネル位置を示したジオラマ 空港南に位置したブトミル地区はトンネルがなければ無縁孤立状態
包囲されていた当時は山手に陣取ったセルビア軍がスナイパーを配置し、見通せる位置に市民が出ただけで狙撃される状況でした -
トンネルの出入り口となったのはコラル一家の家 意図したわけでなく掘り進められた出口がたまたまこの家だったようです
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当初は個人での博物館でしたが改修され正式な博物館に 一家は引越し先を斡旋され息子さんは正式な館長として定職をゲットしたとの事でした 良かったね
博物館にはモーガン・フリーマンやジョン・トラボルタ等世界的有名人が訪れた写真も飾られていました -
敷地の一部にはセルビア軍が設置した地雷の展示もありました
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こちらはセルビアのZastava(ザスタバ)社のトラック あらゆる物資が減るサラエボでは貴重な戦力だったことでしょう
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紛争を伝えるジャーナリストの拠点として利用されていたホリデーインホテルの写真 当時建物半分は破壊され、電気も水もない状態でしたが外国人ジャーナリストを受け入れて営業 日本人ジャーナリストもここを利用し内戦の様子をレポートしました
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博物館前にもサラエボローズがありました サラエボローズは悲しい事件を忘れず後世に残すべく、また犠牲者の哀悼も含め着弾跡を赤い樹脂で埋めたものでサラエボ市内のあちこちで見ることができます
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帰りのトラムは年期の入ったトラムでした
サラエボの市電は定期運用されたトラムとしてはヨッローパ一番古い歴史を持ち、その運用は1885年からとなるそうです
サラエボ包囲で多くのトラムが破壊された後、復興を進める際に様々な国からトラムを譲り受けたことで国籍や年代の違う様々な車両が走るという結果になりました なので市内を走るトラムの姿もイロイロ、是非チェックしてみてください -
戻る途中バスターミナルに寄り、次の目的地へのチケットを購入しました
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次の目的地はクロアチアへ再入国 クロアチアの首都ザグレブとしました チケット二人で108KM(1人約3,300円) ※チケット代の他にターミナル利用料(or発券手数料?)のような料金が追徴されました
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イチオシ
サラエボと言えばラテン橋!! ということでサラエボ市内観光はここからスタート
第一次世界大戦の引き金になったと言われるサラエボ事件が起きた場所としてとても有名な場所
1941年6月28日 サラエボ視察中だったオーストリア皇太子夫婦が19歳のセルビア人により暗殺、暗殺から1ヶ月後の7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し第一次世界大戦が開戦 と歴史の教科書で学んだまさにその場所ラテン橋 建造物
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歴史的な橋だと思ってアチコチから橋の写真を撮ってみましたがオーストリア皇太子夫婦の乗った車列は橋は渡っておらず暗殺場所に近かっただけと知りました
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暗殺場所は橋のすぐ近く現サラエボ博物館前で皇太子夫妻は川に架かる橋は渡っていなーい 橋のすぐそばのサラエボ博物館には当時の資料を沢山展示
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バシュチャルシア広場 旧市街にある小さな広場で中央にセビリ(水飲み場)があります
バシュチャルシヤ 散歩・街歩き
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なんでもこのセビリの水を飲むと再びサラエボを訪れることができると言われているそうでしっかり飲んで来ました♪ フツーに飲めるいい水でした
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山に囲まれているせいか近くにも湧水がありました 欲張りなのでセビリの水同様こちらの水も飲んだのでサラエボにはまた来れるハズ
サラエボ包囲時は電気はおろか水道もストップしたので市内に住む住人はスナイパーから狙撃されるリスクがあっても井戸水や湧水を汲まなければなりませんでした -
見晴らしのよい場所を求めてバシュチャルシア広場の北東にあるYellow Bastion(黄色い要塞)という史跡へ 建設に使用された黄色い岩にちなんでの名前らしいです
この場所はかつての城壁都市ヴラトニックの入り口に造られた要塞跡で現在はカフェが営業中 写真の席はカフェの席なので注文しないと座れませんが敷地内は注文せずとも自由に立ち入ることができサラエボ市を一望することができます -
手前から旧市街地、その先に新市街地と続きます 西方向に開けていて夕映えスポットとして有名で日没時は人気のようです
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ミリャツカ川を望む 山に囲まれたサラエボ 山手エリアをセルビア軍が包囲してしまったのでサラエボは袋のネズミ状態 それも4年
国連軍がいなかったらどうなっていたのでしょう? -
麓に広がるお墓 多くの人が亡くなった為、公園やサッカー場が次々とお墓に変わりました オリンピックスタジアム周辺の空き地も墓標で埋め尽くされました
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イチオシ
墓地の真ん中にある一際立派なお墓は1990年にボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領となった アリヤ・イゼトベゴヴィッチのお墓
任期中のほとんどがサラエボ包囲下でボスニア人からはDedo(トルコ語で祖父)の愛称で親しまれた人物である一方、セルビア人からは戦争犯罪での訴追を求められました
2003年に亡くなった後、この場所に埋葬されましたが2006年に墓は何者かによって爆破、現在のお墓はトルコのイスタンブール市によって建てられたもの
人種・宗教・立場が変れば見方も評価も変わる 戦争は単純な善悪で計れないのか? -
周りのお墓はサラエボ包囲で命を落とした人たちのお墓 ボスニア人の多くがイスラム教
亡くなった年はみな1992年以降、そして生まれた年は同年代か少し先輩という年 -
麓に降りてきて 欧米人にやたらの評価の高いTeahouse Dzirlo 満席でした!! (なのでスルー)
名物店主(白髪の方)がもてなすGoogle評価 4.9 という人気店 宜しければ是非に♪ -
雰囲気のある路地裏
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再びバシュチャルシア広場 鳩メチャ多し…
このエリアはオスマン帝国時代から続く歴史ある地域で独特な雰囲気のあるエリア 郷土レストランやコーヒー店、銅細工屋が沢山あり旅行者が絶えない一番の観光スポットバシュチャルシヤ 散歩・街歩き
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ガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスク 1500年代に建てられたボスニア・ヘルツェゴビナ最大のオスマン建築様式のモスク 見学料は3KM ※観光客が入れる時間には制限があるので注意
ガジフースレフベイモスク 寺院・教会
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イチオシ
八角形の独特な東屋の水場が涼しげでgood 冬のオリンピック開催地なのでもう少し涼しいかと思いましたが案外暑くてビックリでした
写真には写っていませんが高さ47mのミナレットは遠めでないと上手くカメラに収まりません、、、 -
街の雰囲気が変って登場するイエスの聖心大聖堂 高さ43mの2つの尖塔を備えたネオゴシック様式の教会 1887年に建てられたのでオスマン帝国が衰退し、その後オーストリア=ハンガリー帝国統治が始まった頃となる
ガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスクから僅か300mでガラリと別世界となるギャップ萌えイエスの聖心大聖堂 寺院・教会
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市場 ネオルネッサンス様式で1894年に建てられたお洒落な外観の市場 この日は素通り…
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フェルハディア通り オーストリア=ハンガリー帝国時代の建物が並ぶツーリストで賑わう西側の目抜き通り
東のオスマン帝国時代のバシュチャルシアから西に進むにつれてサラエボは街が新しくなる 更に西へ進むとサラエボ・シティ・センターがあるミレニアム市街地へ続きますフェルハディヤ通り 散歩・街歩き
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サラエボ包囲時の銃弾痕がそのまま残るビル このような建物は珍しくなく気づけば街のアチコチにあったりします
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アリ・パシャ・モスク 小さいながらオスマン帝国時代の16世紀に建てられたモスク サラエボ包囲時に激しく損傷したらしいですが銃痕跡もなく綺麗なモスクでした
ここで一旦宿泊先に戻り夕方までひと休み -
19:30 夕刻と夕食に合わせトラムでバシュチャルシア広場へ 広場は昼にも増して沢山の人でいい感じです
バシュチャルシヤ 散歩・街歩き
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良さげなレストランが沢山あるエリアで夕食はNanina Kuhinjaという郷土料理店で
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何を注文すれば正解だったのか分かりませんがジャガイモと牛肉の煮込み鍋を注文 (値段は失念)
Googleレビュー高評価のお店だけあって選んで正解のお店 雰囲気も味も良かったデス -
イチオシ
トワイライトタイム♪ 空のグラデーションがメチャクチャ綺麗 オリンピック後の紛争イメージが強いサラエボでしたがこんな素敵な街だったとは 百聞は一見に如かずです
手前のモスクがガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスク、真ん中の奥のモスクがアリ・パシャ・モスクになります -
バシュチャルシア広場近くの銅細工店街はこの日が日曜日だった為か広場に沢山の観光客が居るにも関わらず戸閉でした
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イチオシ
エキゾチックな雰囲気の素敵なトルコランプはこの国は何処なの? と思ってしまいます
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歩いて帰るので暗くなる前にテクテクまた西へ 永遠の炎が灯される建物前広場では夏の野外コンサートが開かれるところでした
ステージの裏に永遠の炎が燃えているハズなのですが ステージが近すぎるせいかその炎は消されていました
永遠と謳っていながら消されるのね…永遠の炎 モニュメント・記念碑
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途中アイスクリームも食べならがら大通りを歩いて帰ります 日曜日のせいかホコ天で地元の人も夏の一夜を楽しんでいました
サラエボ包囲時は視界の開けた通りはスナイパーに狙撃されてしまうためこのような通りは絶対に歩けませんでした
あれから約30年 この先もずっとアイスクリームを食べならが歩くことができますように -
最終日はダラダラとした朝を過ごし、テキトーな時間にコーヒーと床屋を求め街へでかけました
写真は半地下Airbnbを外から撮影したもの 建物には沢山の銃弾跡 よく見れば窓の金網も何発か着弾 確実に部屋の中まで弾が入ったことが分かります 滞在先の部屋ですら紛争とは無縁ではなく、死が珍しくなかったことを改めて実感 -
ベリキ公園にあるサラエボ包囲で亡くなった子供達を追悼する記念碑 公園と言う場所がら多くの子供がこの近くで犠牲になりました
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ベリキ公園にあるサラエボ包囲で亡くなった子供達を追悼する記念碑 公園と言う場所がら多くの子供がこの近くで犠牲になりました
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記念碑の近くでは公園近くで亡くなった子供達375人分の名前が刻まれたオブジェ 生きていれば子供を持つ親になっていただろうに
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そして追撃砲弾跡にはサラエボローズ このサラエボローズは気づけば街の至る所にあります
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比較的新しいものもあれば風化してしまい今にも枯れそうな薔薇もありました
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風化させてはいけないのでしょうが時間と共に薄れてしまうのは事実
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永遠の炎 夜のコンサート会場はすっかり撤収されていて永遠の炎が何事もなかったように燃えていました
シラを切っているようでしたが消えていたのはしっかり目撃済み 政治家や大人はウソつき この世に永遠というものはありません永遠の炎 モニュメント・記念碑
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昨日素通りした市場を覗きます
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建物を抜けた先には生鮮市がありました やはり沢山の人が亡くなっているそうです
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建物を抜けた先には生鮮市がありました やはり沢山の人が亡くなっているそうです
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包囲時の食べものは生鮮品など手に入るハズもなく国連援助による缶詰や豆類といった穀物など 24時間買い物ができる日常しか知らない人にはいくら想像してしきれません
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人道に対する罪と虐殺に関する博物館 んー 負の観光遺産見学はとりあえずもういいかな?
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バシュチャルシア広場までテクテク このエリアは本当にザ・観光地 コーヒー屋さんも沢山あるので良さげなお店を探します
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イチオシ
選んだお店はSlatko Coseというお店 ボスニアコーヒー1杯2.5KM もちろん銅製のセットでのご提供♪
オスマン帝国の支配下にあったのでトルココーヒーと同じ、粉状のコーヒーを水から沸騰させて煮出して、粉が沈んだ上澄みを飲むというスタイル
作り方は別として濃さで言えばエクスプレッソに近く、苦みが強いコーヒー そのまま飲むとハードなので角砂糖を入れて好みの甘苦さ感を楽しみます もしくはコーヒーに角砂糖を漬けて角砂糖を食べる
馴染みのないコーヒーですが甘さと苦さのバランスが合えば心地よいハモニーだったりします(飲み慣れが必要になるのかな?)
まぁ 課題をクリアーしたのでOKです -
イチオシ
コーヒーを楽しんだ後は昨日お休みだった銅製品を扱うお土産通りへ お店がしっかり開いた通りはもはやヨーロッパじゃない!! ココどこよ?
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先ほど飲んだコーヒーセット類の他、職人さんによる様々な銅製品を扱うお店が軒を並べ、店内を覗くだけでも楽しい通りです
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イチオシ
この雰囲気で見るから素敵なので1セットだけ買っても日本では浮いてしまう お洒落にするなら全体的なコーディネイトが必要かと…
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灯りの灯っていないトルコランプも素敵でしたよ 本当にココどこよ?
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紛争時の建物もまだまだ残りますが紛争が終わってから建てれたビルがあるサラエボ・シティ・センター界隈
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サラエボ・シティ・センター 着工2008年、Openは2014年と紛争も知らなければ、銃弾跡もない建物 なのでこのエリアはミレニアム市街(勝手に命名) 滞在先から近く、スーパーもあったのでとてもお世話になりました
東洋と西洋が混じり合うサラエボは1つの街で異なる雰囲気が楽しめまる街でした -
8/13 06:30 サラエボバスターミナル発 出発が早朝だったので5:30に起きて6時前には滞在先を出発 夜行も考えましたがザグレブ以降が夜行続きとなる為日中移動をセンタク
利用バス会社はCentrotrans Eurolinesにて 料金は2人で108KM(1人約3,300円) 早朝にも関わらずカフェはしっかり営業、トイレは利用していないので有料かどうか不明ですが早い時間の利用でも特に問題なし
約420km離れたクロアチアの首都ザグレブへ移動します
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