柏・流山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
私たちのふるさと柏市には、各地域に伝わる「むかしばなし」が数多く存在し、当観光協会が確認しただけでも46にものぼります。このホームページでは、昭和60年に発行された「柏のむかしばなし」、昭和56年、平成元年に発行された「沼南風土記(1)(2)」、など様々な資料から34話をご紹介します。ぜひ皆さんも、市内各地域の「むかしばなし」の舞台を訪ねて、むかしの人たちの暮らしや文化に思いをはせてください。<br />28_とったり庄兵衛     藤心陣屋跡 <br />〒277-0034 千葉県柏市藤心288<br />藤心代官所と本多候。<br />土村領に「陣屋跡 藤心字大宮戸二百七十番二アリ。里人御代官跡又ハお役所跡と称ス。維新以前本多紀伊守ノ配下ニ属スル役所ノアリタル処ニシテ、明治二年其ノ建物ヲ取払ヘリ。(後略)」との記述があります。江戸時代の柏の地域には数十の村がありました。しかし、一括した一人の領主の支配地ではありません。<br />詳しくは柏市観光協会の「ふるさと柏のむかしばなし」をクリックしてご覧下さい。<br />https://kankou.kashiwa-cci.or.jp/folk-tale/

柏市の藤心・藤心陣屋跡・柏市のふるさとむかしばなし・第28話

22いいね!

2021/09/19 - 2021/09/19

536位(同エリア1238件中)

中国の風景

中国の風景さん

私たちのふるさと柏市には、各地域に伝わる「むかしばなし」が数多く存在し、当観光協会が確認しただけでも46にものぼります。このホームページでは、昭和60年に発行された「柏のむかしばなし」、昭和56年、平成元年に発行された「沼南風土記(1)(2)」、など様々な資料から34話をご紹介します。ぜひ皆さんも、市内各地域の「むかしばなし」の舞台を訪ねて、むかしの人たちの暮らしや文化に思いをはせてください。
28_とったり庄兵衛     藤心陣屋跡
〒277-0034 千葉県柏市藤心288
藤心代官所と本多候。
土村領に「陣屋跡 藤心字大宮戸二百七十番二アリ。里人御代官跡又ハお役所跡と称ス。維新以前本多紀伊守ノ配下ニ属スル役所ノアリタル処ニシテ、明治二年其ノ建物ヲ取払ヘリ。(後略)」との記述があります。江戸時代の柏の地域には数十の村がありました。しかし、一括した一人の領主の支配地ではありません。
詳しくは柏市観光協会の「ふるさと柏のむかしばなし」をクリックしてご覧下さい。
https://kankou.kashiwa-cci.or.jp/folk-tale/

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • ニッカ通りを南下、ニッカ工場前を過ぎ、藤心一丁目の信号を過ぎ、川を渡った所に八幡神社があり、裏手の畑の脇に石碑のみ。<br /><br />

    ニッカ通りを南下、ニッカ工場前を過ぎ、藤心一丁目の信号を過ぎ、川を渡った所に八幡神社があり、裏手の畑の脇に石碑のみ。

  • 八幡神社裏にある藤心代官所跡。石碑のみ。<br />藤心陣屋跡<br />陣屋跡は、北に開けた見通しの良い畑になっていて、その脇に近年建てられたらしい石碑と説明板が立てられています。

    八幡神社裏にある藤心代官所跡。石碑のみ。
    藤心陣屋跡
    陣屋跡は、北に開けた見通しの良い畑になっていて、その脇に近年建てられたらしい石碑と説明板が立てられています。

  • 藤心代官所と本多候。<br />土村領に「陣屋跡 藤心字大宮戸二百七十番二アリ。里人御代官跡又ハお役所跡と称ス。維新以前本多紀伊守ノ配下ニ属スル役所ノアリタル処ニシテ、明治二年其ノ建物ヲ取払ヘリ。(後略)」との記述があります。江戸時代の柏の地域には数十の村がありました。しかし、一括した一人の領主の支配地ではありません。

    藤心代官所と本多候。
    土村領に「陣屋跡 藤心字大宮戸二百七十番二アリ。里人御代官跡又ハお役所跡と称ス。維新以前本多紀伊守ノ配下ニ属スル役所ノアリタル処ニシテ、明治二年其ノ建物ヲ取払ヘリ。(後略)」との記述があります。江戸時代の柏の地域には数十の村がありました。しかし、一括した一人の領主の支配地ではありません。

  • 藤心陣屋表門<br />市内逆井の観音寺山門として移築されています。本堂へと続く境内の中程にあって保存状態も良さそうです。<br />

    藤心陣屋表門
    市内逆井の観音寺山門として移築されています。本堂へと続く境内の中程にあって保存状態も良さそうです。

  • 藤心陣屋中門<br />市内名戸ヶ谷の法林寺境内に移築され墓地へと続く脇門として現存しています。こちらには説明板が立てられていて、陣屋時代には苦抜門と呼ばれた中門だったそうです。<br />

    藤心陣屋中門
    市内名戸ヶ谷の法林寺境内に移築され墓地へと続く脇門として現存しています。こちらには説明板が立てられていて、陣屋時代には苦抜門と呼ばれた中門だったそうです。

  • この四脚門は、駿河の国田中藩五万石の下総受領地代官所の中門であった。藩主本多候は元和二年より下総相馬郡一万石(飛地)を相伝領有し、藤心の地に代官所を設置した。有力農民等を手代(能史)に任じ、村々の対応に当らせていた。代官所の裁可によって、此の門を通り抜けられたので、「苦抜きの門」と、呼ばれていたのである。<br />

    この四脚門は、駿河の国田中藩五万石の下総受領地代官所の中門であった。藩主本多候は元和二年より下総相馬郡一万石(飛地)を相伝領有し、藤心の地に代官所を設置した。有力農民等を手代(能史)に任じ、村々の対応に当らせていた。代官所の裁可によって、此の門を通り抜けられたので、「苦抜きの門」と、呼ばれていたのである。

  • 柏市文化財めぐり、船戸代官所とその周辺、<br />藤心には、本多氏が配置した代官所の跡が残っています。また、かつて柏市北部にあった田中村の村名は、本多氏が治めていた田中藩(駿河国)からとったものだといわれています。田中村にも代官所の跡が残っています。<br />

    柏市文化財めぐり、船戸代官所とその周辺、
    藤心には、本多氏が配置した代官所の跡が残っています。また、かつて柏市北部にあった田中村の村名は、本多氏が治めていた田中藩(駿河国)からとったものだといわれています。田中村にも代官所の跡が残っています。

  • 田中村の不動堂。<br />この不動堂の向側には、江戸時代に代官屋敷がありました。江戸時代市城には三十近い小村がありましたが、そのうち十四ヶ村が本多候の支配する村々で、船戸と藤心に代官所が置かれました。

    田中村の不動堂。
    この不動堂の向側には、江戸時代に代官屋敷がありました。江戸時代市城には三十近い小村がありましたが、そのうち十四ヶ村が本多候の支配する村々で、船戸と藤心に代官所が置かれました。

  • 船戸村の由緒、<br />船戸村は徳川幕府の開祖家康の時代に、本多正重が大阪の陣の手柄により、元和2年(1616)に下総と相馬の1万石を加増された時に始まります。その後、本多氏は上州沼田城の2万石の藩を経営し、享保6年(1722)駿河国の田中城へ4万石として転封されました。しかし、維新まで下総と相馬の1万石は、本多領として離れることがありませんでした。本多家が支配した下総領は、南部の藤心の御役所と、北部21ヶ村は、ここ船戸村御役所おかれ、治められておりました。この支配は、維新まで続き、葛飾県に上地されるときも、領民たちは、反対の嘆願をしたということでした。

    船戸村の由緒、
    船戸村は徳川幕府の開祖家康の時代に、本多正重が大阪の陣の手柄により、元和2年(1616)に下総と相馬の1万石を加増された時に始まります。その後、本多氏は上州沼田城の2万石の藩を経営し、享保6年(1722)駿河国の田中城へ4万石として転封されました。しかし、維新まで下総と相馬の1万石は、本多領として離れることがありませんでした。本多家が支配した下総領は、南部の藤心の御役所と、北部21ヶ村は、ここ船戸村御役所おかれ、治められておりました。この支配は、維新まで続き、葛飾県に上地されるときも、領民たちは、反対の嘆願をしたということでした。

22いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP