2021/06/10 - 2021/06/11
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ばねおさん
2016年に閉館して大がかりな修復工事が行われていたパリのミュぜ・カルナヴァル ( Le musée Carnavalet ) が4年半ぶりに再開となり、再開後間もない6月に2日間にわたって見学をしてきた。
16世紀の貴族の大邸宅であったこのパリ最古のミュゼの収蔵品は62万点ということで、数の上ではルーヴルの48万点を上回っている。
その内、展示されているのは約3500点、先史時代から現代に至るまでのパリを中心としたフランスの歴史を語る品々には、教科書などでお馴染みのものも多い。
見学者のための休憩のスペースや、庭園が開放されていて飲食がとれるようにもなっているなどなかなか行き届いており、再開まで長く時間をかけただけのことはある。
旅行記にまとめ始めたところ、あまりにも内容が多すぎるので削除を繰り返したのだが、それでもやはり分量があり、自分の編集能力を超えてしまったため、便宜上ふたつに分けることにした。
これは勝手解説の後編。
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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誰もが知っているナポレオン・ボナパルト。
革命期に武勲を立て、1799年11月のクーデターにより新しい政府の実権を握り、
1802年、共和制ローマを真似て自らを終身統領(執政)とした。
新しい国の指導者としての姿を国民に知らしめるべく、この石膏の彫像は作られた。
大理石で作製するときの原型見本として使用されたもの。 -
1804年12月2日、ついに皇帝としてナポレオン一世となる。
ナポレオンの皇位戴冠式のため、ポン・ヌフを渡り、ノートルダム大聖堂へと向かう壮麗な行列の様子。 -
拡大してみると、馬車の中にナポレオンとジョゼフィーヌが描きこまれているのが分かる。
載冠式にはローマ教皇も招かれていたのだが、教皇から王冠を戴くというこれまでの伝統を破り、ナポレオンは自ら帝冠をかぶり、皇妃となったジョゼフィーヌには自分がかぶせるという劇的な行動をとった。
ルーヴルにはこの場面を描いたダヴィッドの有名な絵がある。 -
当時の街の二つの看板
(上)ナポレオンの勇姿を描いたタバコ屋の看板
(下)1805年12月2日のアウステルリッツ会戦前夜を描いたワイン屋の看板
アウステルリッツの会戦は、優勢な兵力のロシア・オーストリア連合軍をナポレオンが破った歴史的な戦いで、奇しくもナポレオンの即位一周年に当たる日になった。
この戦勝を受けて凱旋門の建築が命じられたが、実際に完成したのはナポレオン没後となった。 -
ロベール・ルフェーブル(Robert Jacques François Faust Lefèvre)による
1809年作の肖像画。
ナポレオンは元々は砲兵将校であったが、ここに描かれているのは、見栄えの良い近衛将校服姿。やはりプロパガンダにはカッコいいほうがいいよね。
でも、この絵を見て少し違和感があるのは、体躯と顔のバランス。
ナポレオンはじっとポーズをとるようなことはしなかったとも言われているので、首から下は誰かさん、顔は本人、ということも考えられる。 -
レカミエ夫人 Madame Récamier(1777-1849年)の肖像。
サロンを主催し、多くの政治家や文化人たちを集めた当代の人気ヒロイン。
サロンに出入りしていた人物の中には、のちにナポレオンの命でスウエーデンに赴き、スウエーデンの国王になったベルナドット将軍もいた。
軍司令官になったナポレオンは、彼女と出会い、もう夢中!!
ナポレオンの弟も夢中だったとか。
やがて皇帝となったナポレオンの度重なる求愛を断固拒絶し、その結果、パリを追放された。
革命の恐怖政治、共和制、帝政、そして王政復古の時代を生き抜き、第2共和制時代に亡くなった信念の女性。
ダヴィッドの弟子、ジェラールの描いた1802-1805年頃の作品。
ところで、服装だが、これは当時の流行のギリシャ風の装いで下着姿ではない。一応、念のため。
ちなみにナポレオンが差し向けたダビッドの肖像画は、本人の気に入らなかったとのこと。
よほどナポレオンが嫌いだったんだね。 -
7月革命の図。
1830年7月27日から29日にかけて起きた市民革命で、「栄光の3日間」と呼ばれている。
ナポレオン没落後、1815年にルイ16世の弟であるルイ18世が即位してブルボン朝が復活したのだが、この7月革命で再び倒された。 -
7月革命のあとにラファイエットらの自由主義者やブルジョワジーの支持を受けて登場したのがルイ・フィリップ。オルレアン公。
ルイ・フィリップは、「フランスの王」ではなく、「フランス人の王」であると称したが、国民の圧倒的多数を占める労働者階級は依然として無権利状態が続いていた。
シャルル・フィリポンの編集する風刺週刊誌「カリカチュール La Caricature 」の人気風刺画家ドーミエ Honoré Victorin Daumier(1808-1879)は、ルイ・フィリップを揶揄する作品をいくつも発表し、投獄されている。
この作品は、国王ルイ・フィリップの顔を洋梨に見立てている、洋梨シリーズのひとつ。
洋梨は「間抜け」の意を含んでいるという。
洋梨さんごめんなさい。
ドーミエは彫刻、版画の分野でも数多くの作品を残しており、その一部がルーヴル、オルセー等に収蔵されている。
ロートレックなど後の画家にも少なからぬ影響を与えた存在。 -
1848年、民衆が蜂起した2月革命でチュイルリー宮殿が襲撃され、結局、ルイ・フィリップも倒され、彼がフランス最後の王ということになった。
チュイルリーにあったルイ・フィリップの机。
襲撃時の傷痕がいくつも残っている。 -
ルイ・フィリプの王政が倒れたあと、再び共和制(第二共和制)が始まった。
1848年、共和国を表徴する作品のコンクールがあり、多数の芸術家が応募したのだが審査員全員一致の作品がなかったという。
これは、ジャネ・ランジェ Janet Lange(1815-1872)の作品「共和国」
これなどは、いいと思うのだが -
1853年のパリ市の市章。
デザインは、
城壁の冠
青地に金色のユリの文様
赤地に帆船、マストは3本
白いリボンに書かれている文字は <Fluctuat Nec Mergitur>
ラテン語で、「揺蕩えども沈まず」
つまり、パリを船に喩えて、揺れはするけど沈まないよ、ということ。 -
市章のデザインは、時代による変遷があるが、赤地に帆船と青地にユリは共通しているようだ。
冠の有無、帆船の支柱の数、帆布の枚数などは微妙に異なっている。 -
時代の違いだけでなく組み合わせも色々で、恐らく、こうした研究をしている方もいるのだろうが、自分にはそれぞれの違いが意味するところまでは分からない。
レジオンドヌール勲章が下がっているのは、勲章を創設したナポレオン以降だと分かるのがせいぜいである。
市章は学校や公共施設、橋や駅舎、街路灯など実に多くの場所にあるので、街を歩いて注意しているといくつも目に飛び込んでくる。写真に残しておくと面白いかもしれない。 -
1860年中央市場のパビリオンにあった市章のメダリオン。
< Fluctuat Nec Mergitur >のリボンとレジオン・ドヌール勲章がオーク (永続) と月桂樹 (勝利) のクロスする小枝に懸けられている。
帆船の帆は2枚。冠は城壁 -
1871年5月24日のパリコミューンの焼き打ちで焼け残ったパリ市庁舎の扉
1652年の王政への貴族の反乱時にパリ市庁舎の扉は一度破壊されている。
その後、オーク材で新調された扉はメドゥーサのメダリオンを中央に置いた意匠となった。 -
焼け残った扉のメダリオン。
見たものを動かなくさせる、あるいは石に変えるという力を持つギリシャ神話のメドゥーサ。頭髪に絡んでいるのは毒蛇であるそうな。 -
オスマンのパリ大改造前の19世紀にシテ島の街並みをそのまま精密に作った模型。
島の南東にはノートルダム大聖堂。 -
西側にはシテ宮殿、時計台、サントシャペルそしてコンシェルジェがある。
周囲の景観は変わったが、主な建物は変わらずに今日に続いている。 -
19世紀絵画の展示光景。
作品も圧巻だが、もったいないような陳列だと思ってしまう。 -
モーリス・デロンドレ Maurice Delondres の作品「乗合馬車」1885年頃
隣の女性を見る男の視線が実にいやらしく描かれていることに感心。 -
女学校のデッサン授業を描いた マリー・アンドリアン ラヴィエイユ Marie-Adrien Lavielle (1852-1911) の1885年の作品。
教師の指導姿、生徒たちの取り組み姿勢、教室に置かれた備品など、当時の学校教育の一端がうかがえる。 -
ジャン・ベロー Jean Béraud (1849-1935) の作品「La patisserie Gloppe 1889年」
La patisserie Gloppeは、ベルエポックの時代にシャンゼリゼ通り6番地にあった有名な菓子店。
エクレアを食べている飼い主を見上げている犬が、今にもよだれを垂らしそう -
同じく、ジャン・ベロー の「オ ペラ座の舞台裏」1889年
この舞台裏という言葉には、いくつかの意味が込められているように思える。
ジャン・ベローという人は、若きプルーストがムードンの森で決闘した時の介添え人をつとめた。 -
「1896年のクリシー広場」
エドモンド・グランジャン Edmond Grandjean (1844-1908) の作品。
画面左手に書き込まれているのは、1814年3月30日の対仏連合軍と戦ったモンセー元帥のクリシーでの戦い の記念碑。
この戦いでフランス軍は敗れ、連合軍のパリ入城となった。これによってナポレオンは退位した。 -
1889年、フランス革命100周年を記念してのパリ万国博覧会の夜会の様子。
エッフェル塔の向こうに見えるのはアンヴァリッド
この博覧会では、日本画の久保田べいせんの作品が金賞を得ている。 -
サラ・ベルナール Sarah Bernhardt(1844-1923)
ベルエポックの時代(19世紀末から1914年頃)、一世を風靡した大女優。
ヴィクトル・ユゴー、ジャン・コクトー、オスカーワイルドの作品を演じ、彼らから称賛される演技を示し、美術においては、ロートレック、クリムトの創作を触発し、ミュシャやラリックを世に送り出した。
自ら彫刻も手がけ、その作品はオルセー美術館等にも展示されている。 -
左はミュシャの有名な「椿姫」のポスター(1896年)
ミュシャやラリックによって、サラ・ベルナールをモチーフにした数多くの作品が生まれたが、彼女によって、ミュシャやラリックは世に出たといったほうが正しいだろう。 -
1901年に開店した宝飾店FOUQUETの外観。
ミュシャが天井から床に至るまですべてをデザインしたことで知られている。 -
この博物館で最も人気のある展示の一つであるという。
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アール・ヌーヴォー満載の店内
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モンパルナスから94番のバスに乗ると7区あたりで Mucha Café という店の前を通る。
ミュシャのファンを当て込んでか、店名にミュシャの名前を冠し、メニューから内装までミュシャ風で構成されているようだ。 -
20世紀西欧文学の代表格のひとり、マルセル・プルースト(1871-1922年)の部屋と調度類。彼の東洋趣味を語る品々が散逸を免れてここにある。
喘息がひどくなり、外出も思うままにできなくなって、『失われし時を求めて』は、このベッドの上で大半が書かれたという。 -
若いころモンソー公園を逍遥して、創作の原資を培っていたプルーストだが、音に鋭敏になり、遮音のために部屋の壁にはコルク板を張っていたという。
再現した部屋には、その一部が貼られている。 -
スジー・ソリダー Suzy Solidor (1900-1983)の肖像画も一枚あった。
ピエール・シシェル Pierre Sichel の1935年頃の作品。
スジー・ソリダーは、世界で最も描かれた女性と言われ、その作品数は226点にのぼる。
1930年代の「狂乱の時代」を代表するひとりでありながら、人びとの記憶からは忘れ去られようとしているところ、絵があればこそその名が生き残る。
晩年を過ごした南仏のカーニュにあるグリマルディイ城の中に、彼女が描かれた画を集めた専用室があって2012年に見学したことがある。
そこには54点が展示され、作者はラウル・デュフィ、ピカソ、ジョルジュ・ブラック、マリー・ローランサン、ジャン・コクトー、キスリング、ヴァン・ドンゲン、藤田嗣治等々錚々たる顔ぶれである。 -
2020年9月23日に亡くなったジュリエット・グレコ。
幾度となく来日し、日本のシャンソンブームを起こした。
1956年3月に発表された、ロバート・ハンブロット Robert Humblot の描いた作品
簡素だが生涯を一筆書きしたようなグレコの文章が絵の横に添えられていた。
要約すると次の通り。
ー ナチスドイツの占領中、母親は抵抗運動(レジスタンス)に加わりゲシュタポに逮捕され、姉とともにドイツの強制収容所に送られた。
グレコも収監されたが、若年だったため収容所送りを免れ、早くに釈放された。
一人ぽっちになったグレコは、サンジェルマンデプレにいる母の友人で女優のHélène Ducを頼り、共に暮らし始めた。
やがてサンジェルマンデプレのカフェで、知的で芸術的な人々 ー実存主義者の哲学者サルトルや知識人たちと知り合い、マイルス・デビスと恋愛関係になった。
そして歌い始め, 2015-2016年のお別れツアーまで、ずっと歌い続けた ー -
フジタの作品も一点展示されていた、
「カフェの中」1958年
フジタについては別の旅行記で触れてみたい。 -
ミュゼ・カルナヴァルは16世紀に建てられた館なので、それ自体がいろいろ見どころがあるに違いないが、建築の知識に乏しい自分には専門的なところは分からない。
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建物内を歩いていると展示品以外にも、魅力的な場に出会うことがある。
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人気のない室内に、硝子を通して差し込む陽光にも何となく歴史の重みがあるような...
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6月の庭園には日除けのパラソルが広がっていた。
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建物をつなぐ通路。
ここは庭園の出入り口にもなっている。 -
天気が良ければ、気持ちのよい庭園で一休みするのも悪くない。
グループで来館していた学生たちは、持参した弁当を広げていた。 -
本格的なものは期待できないが、有料の飲食物もとれるようになっている。
たしか提供品はすべてBIOであると聞いている。 -
庭園カフェの店名は、「OLYMPS」。
飲食物の受付カウンターがあって、そこで注文し、会計を済ませると、着席した席に届けてくれる仕組みだ。
受付横には、メニューが大きく掲示されているので、ここで選べばよいのだが、もし即決しかねたら、とりあえずスマホで撮って、席で考えればよい。 -
2日間かけての見学で、少しは自分なりに歴史の復習をした気持ちになったのだが、後になってから確認し忘れていた事柄がまだまだあることに気がついた。
いずれまた訪れて、不足の穴埋めをしたいと思うのだが、歴史の物語は果てなく続くようで終わりというものがない。
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