2021/06/10 - 2021/06/11
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ばねおさん
2016年10月に閉館して大がかりな修復工事が行われていたパリのミュゼ・カルナヴァルが、この6月(2021年)に4年半ぶりの再開となった。
ミュぜ・カルナヴァル Le musée Carnavalet は、カルナヴァル博物館ともカルナヴァル美術館とも訳されているが、Musée Histoire de PARIS Carnavalet ともなっているので、歴史博物館がふさわしいのかも知れない。
ただ、日本での美術館、博物館の分類ではちょとそぐわないので、ここではあえて現地のミュゼ・カルナヴァルとの呼び名を用いたい。
このパリ最古のミュゼは、もともとは16世紀の貴族の大邸宅で、1866年にパリ市に買い取られたあと、1880年に一般公開された。
収蔵品は約62万点で、ルーヴルの約48万点をかなり上回る数である。
その内、展示されているのは約3500点であるが、これだけでもかなりの見応えがある。
先史時代から現代に至るまでのパリを中心としたフランスの歴史を語る品々の中には、教科書などでお馴染みのものも多い。
聞き覚えのある「現物」を目のあたりにすると、これがそうかと頷くこともあれば、抱いていたイメージと違っていて意外な気持ちになったりもする。
もちろん初めて知る事柄や目にするものが圧倒的に多く、興味の赴くままに見ていくと時間がいくらあっても足りない。
今回は二日間にわたって見学したのだが、後になってあれはどうだっただろうかと気になることが次々と出てきた。いずれまた、足を運んで確かめようと考えている。
あらためて思うことだが、歴史を知ること学ぶことの重要性をこの国は痛いほど分かっていて、伝え続ける努力と工夫を惜しまない。
パリ市の他の文化施設と同じく、この歴史の宝庫を見学するのは無料であるのもありがたい。
鑑賞疲れの休憩のためのスペースや、庭園が開放されて飲食がとれるようにもなっているのもなかなか行き届いており、長く時間をかけただけのことはある。
旅行記にまとめ始めて、あまりにも内容が多すぎるので削除を繰り返す作業をしたのだが、それでもやはり分量があり、結局、ふたつに分けることにした。
これはいわば前編。
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ミュゼ・カルナヴァルを見学に訪れたのは、6月の第2週。
この頃は、カフェやレストランのテラス席が再開したものの、店内飲食はまだ解禁になっておらず、屋外ではマスクの着用義務が続いていた。
多くの店でテディベアが活躍を見せ、カフェの一人客にはテディがつきっきりでお相手をつとめるような「濃厚サービス」もみられた。 -
ミュぜ・カルナヴァルがあるのは、ヴォージュ広場にほど近いマレ地区のセヴィニィエ通り。
通りの名前は、1677-1696年の間ここで暮らしたセヴィニィエ侯爵夫人から来ている。 -
「書簡作家」として知られるセヴィニィエ侯爵夫人が暮らしていたのはルイ大王(Louis le Grand)あるいは太陽王(le Roi Soleil)とも称されるルイ14世が絶対王政を確立した時代。
前庭には常に太陽王が立ち、訪問者を迎えてくれる。
ちなみに「太陽王」の呼称の由来だが、偉大という意味を含んではいるが、大のバレー好きで、4歳で国王に即位した折には自らもアポロン「太陽神」に扮して舞台で踊ったことからと言われている。 -
ミュゼに入館してはじめに通るのが、街の看板展示室。
まだ建物に番号が振られていなかった時代、自分の店などの所在を分かりやすく示すために様々な意匠の看板類があって、なかなか面白い。 -
ひとつひとつを丹念に見ていくと、中には謎解きのようなものもあり、これだけで結構時間を費やしてしまいそうだ。
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このあと、どのように館内を巡るかは、各人の興味と関心次第だが、展示はおおよそ時代別に各階(地階~3階)、各部屋に分かれている。
順路が決められているわけではないので、行きつ戻りつを繰り返しての見学であったが、自分自身の頭の整理の必要もあって、以下、できるだけ年代順に並べてみた。 -
地下に展示されているのは、先史時代を中心とする考古学的遺物の数々。
とりわけ19世紀のオスマンのパリ大改造(1853~1870年頃)によって多量の出土品があり、それらの一部を見ることができる。 -
まずは、パリジャンあるいはパリジェンヌのご先祖様にご挨拶。
セーヌ川とマーヌ川の合流するあたりで定住を始めたのがパリジャンのはしりらしい。
下は、約7千年前のくり抜き舟。
一本のナラ材を石斧でくり抜いて作られている。 -
1~2世紀頃の鍛冶屋の石碑。
死者の記憶を残すために生前の職業を特徴づける形で表現している。
長い前掛け、鋏棒が鍛冶屋であったことのしるし。 -
パリといえば、第一に挙げなければならないのはこのお方。
聖ジュヌヴィエーヴ(St. Genevieve)
ジェヌヴィエーヴは西暦420年頃から500年頃の実在の女性で、東方からのフン族アッティラの侵略に対し、市民を励ましパリを守った。
さらに、その後に起きた奇跡をローマ法王庁が正式に認め、パリの守護聖人に祀られた。 -
右手にロウソクを、左手首にはカギを下げて、聖書を持っている聖ジュヌヴィエーヴ。
背景にあるのはパリ市庁舎 Hotel de ville
こちらは1620年頃に描かれた作品。
かって、ジュヌヴィエーヴを祀る聖堂であったパンテオンには、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの手による聖ジュヌヴィエーヴの生涯を描いた有名な連作がある。
パンテオンに隣接するサンテティエンヌ・デュ・モン教会(St.Etienne-du-Mont)には、大革命後に焼却処分されたものの一部だけ残されていたジュヌヴィエーヴの遺骨が納められている。
パンテオン、サンテティエンヌ・デュ・モン教会が建つ一帯は、聖ジュヌヴィエーヴの丘と呼ばれ、セーヌから見るとカルチェラタンの坂を上がった高台にある。 -
15世紀の彫像。「骨をかじる犬」
邸宅の入り口の階段の手すりに置かれたこの彫刻は、首輪に飼い主のイニシャルが刻まれ、主人を守るという意味が込められている。 -
16世紀の、「最後の晩餐」のレリーフ。
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人間の五感あるいは物欲、性欲、食欲などの基本的欲求を描いた
16世紀のフランドル派の一枚。
背景の風景はパリ。 -
1595年頃の作品
イタリアのメディチ家出身でアンリ2世の妻カトリーヌ・ド・メディシスの像。
夫の事故死のあと、30年にわたって実質フランスを統治した。
彼女の周りには、実に多くの劇的な事件が連続しているが、芸術の庇護者としての面もあり、建築にも力を注いで、チュイルリー宮殿等を造営した。 -
ブルボン朝を創始したアンリ4世(1553年ー1610年)の時代は
カトリックとプロテスタントの血みどろの抗争が繰り返された。
シテ島を示威行進するカトリックの僧侶たちの図 -
フランス歴代王の中で、今でも最もフランス人に人気の高いアンリ4世。
1610年5月14日に狂信的なプロテスタントに暗殺された。
1789年の大革命によって、王が埋葬されていたサン・ドニ大聖堂が荒らされ遺体から頭部が切断され行方不明となった。
その後に発見されたミイラ状の頭蓋骨が、2010年のDNA鑑定によてアンリ4世のものであると正式に認められた。
頭蓋骨には、暗殺される前の1594年に発生した暗殺未遂事件の傷痕も残っていたという。
聖ジュヌヴィエーヴの丘、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の横にはアンリ4世の名を冠したリセがある。かっての聖ジュヌヴィエーヴ修道院で、数多くの政治家、文化人を輩出した名門校として知られている。
今のマクロン大統領もここの出身である。 -
アンリ4世が暗殺された現場である、当時のフェロンヌリ通りの標識。
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アンリ4世によって作られたポン・ヌフの1588年頃の様子。
ポン・ヌフ(Pont Neuf)とは、新しい橋の意味であるが、今ではパリ最古の橋。
アンリ4世の死後、橋の中央に騎馬像が建てられるも、大革命により破壊された。
現在の像は王政復古の1818年にルイ18世によって再建されたもの。 -
ルイ14世の時代は、装飾芸術が大いに発達した。
1650年頃に建てられた、コルベール・ドゥ・ヴィラセル Colbert de Villacerf 侯爵邸の客間。ルイ14世の財務総監をつとめたコルベールとは、いとこにあたる人物。
1867年パリ市が買い取り、移設したもの。
ヴェルサイユ宮殿にも見られるように、この時代は過剰なまでに豪華絢爛さを競った傾向がある。
ほぼ完全な形で残されている木工パネルでできた室内装飾は、歴史的に貴重な一室と評価されている。 -
ロワイヤル広場(現ヴォージュ広場)に面してあったリヴィエール La Rivière邸の美しい天井画。
描かれているのは神話のひと幕
ジュピター、キューピッド、マーキュリーなどが登場している。
宮廷画家シャルル・ル・ブランCharles Le Brun (1619-1690)の手による1652から1656頃の作品。 -
4歳で即位したルイ14世の在位期間(1643-1715年)は73年間で、中世以降の国家元首で最長の記録を保持している。
〈フランスの王様人気ランキング〉というものがあるとすれば、一番がアンリ4世として、二番手はルイ14世に違いない。 -
17世紀には、現在のパリ13区は田園地帯の一角であった。
絵の手前には羊飼いが羊たちを連れて下方の川に向かっている様子が描かれている。
その向こうにある白い大きな建物は、ルイ14世が建てた天文台で、現在もこの位置にパリ天文台は在る。 -
同じ位置から見た、現在の風景
observatoire(天文台)の右手にはアンヴァリッドがある。
西欧の貴族、王侯には芸術の庇護者たらんとする気風が伝統的にあるが、ルイ14世も絶対王政を確立しつつ、学問芸術の発達に寄与したところは大きい。
それから300年以上経った現代。
文化国家と自任しながら国民のことは二の次となり、自己保身と権力だけが重要で、学術を軽んじる政治の国があるのだが、時は進んでも、必ずしも進歩しているわけではないということを教えてくれる。 -
かって、ヴァンドーム広場の中央にあって、大革命により破壊されたルイ14世の銅像の残存した左足部分。
バレー好きで自らも踊り、バレーシューズで固めた小さな足が高貴の証であるかのような考えを生み、タイツ姿と高いヒール靴で描かれた珍妙な絵がお馴染みだが、さすがに銅像ではタイツ姿とヒール靴は見られない(と思う)。 -
念のためミュゼ・カルナヴァルの像はこちら。
ー 失礼を承知で、おみ足を拝見。
踵がやや高いが、ハイヒールとは違うだろう。
この点は、やはりハイヒール専門家の意見を聞かないと分からない。 -
一方で、17世紀にはこのような面も見られる。
捨て子の救済事業に乗り出した、ヴァンサン氏とシスターたちの図
後に慈善事業の守護聖人とされたサン・ヴァンサン
教会の慈善事業というより、篤志家であったのだろう -
当時のおくるみなのだろうか
自分には、包帯でぐるぐる巻きにされて足元に転がされているようにしか見えないのだが... -
1765年にマチュラン・ロゼ Mathurin Roze de Chantoiseauによって考案された最初のレストランが誕生した。
もっともは初めは場所ではなく病人や病弱者のための薬膳料理の意味であったらしいが、これまでの外での食事の提供スタイルを画期的に変えて、今日のレストラン文化の始まりとなった。 -
1745年頃のサンミシェル街の邸宅の音楽室も兼ねていたサロン
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置かれているハープは王妃マリーアントワネットが製作を依頼し、スイス衛兵の責任者が預かり、その家族が長く保管していたもの
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こうした室内の天井から壁、床に至るまでを移設して再現するという手法は、ミュゼ・カルナヴァルが初めに手がけたものであるという。
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もちろん木工製品、調度類等々はすべて当時のもので、複製品ではない。
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彫刻家として成功したジル・デマルトー Gilles de Marteau (1722-1776) の依頼で1765から1770年にかけて制作された装飾壁画。
ペルトリー通りにあった家の居間を移設再現したもの。
作者は、ロココ美術を代表するフランソワ・ブーシェ Fracois Boucher(1703-1770) -
社会構造でみると、16~18世紀は、三つの身分に階級が分かれていたアンシャン・レジームの時代。
第一身分は僧侶、第二身分は貴族、そして第三身分は社会の大多数を占める平民。
第一身分と第二身分は、土地と富を独占しながら税を課されない特権階級で、まさにきわめつけの不平等社会。
深刻な財政危機に瀕したフランスは、1789年5月にルイ16世が三つの身分で構成する三部会を招集して税収の増加策を図ったが、決議方法をめぐって鋭く対立した。
富と土地所有を独占しながら免税特権にしがみつく第一、第二身分の特権階級と袂を分かち、第三身分だけが集結して国民議会を発足させた。
そして、1789年6月20日、憲法制定までは解散しないと宣言した有名な「テニスコート(屋内球戯場)の誓い」となった。
これに先立つ1月には、下級僧のシェイエス Emmanuel-Joseph Sieyèsが『第三身分とは何か』を著し、アンシャン・レジームを痛烈に批判し、第三身分の平民こそが国の主人公であると、まさに革命の口火を切っている。 -
1789年7月14日の民衆によるバスティーユ監獄の襲撃。
この日をもってフランス(大)革命の始まりとされ、フランスでは革命記念日あるいは建国記念日と位置づけている。
バスティーユ監獄には多数の武器弾薬が収蔵されており、これを奪い取ることで民衆の武装化は進んだ。 -
フランス革命の象徴的存在であるバスティーユ監獄は、襲撃後に取り壊され、建物の石材は他の建築物に用いられるなどしたが、当時、歴史的価値に気づいて部材を加工して記念品に仕立てたりする例もあった。
このバスティーユ監獄のミニュチュアは、取り壊された石材を用いていくつか作られたもので、そのひとつは、米合衆国ジョージ・ワシントンにも贈られたという。
展示品は今日残っている数少ないひとつ。 -
1789年8月、ラ・ファイエットの創案した人間と市民の権利の宣言、いわゆる「(フランス)人権宣言」が国民議会に採択された。
ラ・ファイエットはアメリカ独立戦争に参加、ワシントンを助け大いに活躍した。
人権宣言にはアメリカの独立宣言が色濃く反映している。
この宣言書を描いたのは、ル・バルビエ Jean-Jacques-François Le Barbier。
思えば、高校の世界史の授業でフランス革命を学んだのが、自分のフランスへの傾斜の出発点だった。 -
革命によって、特権階級であった教会の権威は否定され、通りの名前に付けられていた「聖」という文字は削られるなどした。
下の絵は略奪される教会を描いたもの。
いずれも1793年頃 -
マリーアントワネットが履いていた絹の靴。サイズは22.5cm。
民衆の蜂起によって、ヴェルサイユ宮殿にいたルイ16世の一家はパリのチュイルリー宮殿に移動させられたが、1791年6月、国外逃亡を企てて失敗しパリに連れ戻される。
1792年8月、民衆がチュイルリー宮殿を襲ってタンプル塔へ王一家を押し込める際に王妃の足からもぎとったのがこの靴。
靴の横にあるのは、ルイ16世が護衛兵に武装解除を命じた最後の勅令書。
傍らに置かれているのは、スイス護衛兵に武装解除を命じるルイ16世の命令書。 -
こうした歴史的資料が、さほど目立たぬ方法で展示されているので、あまりの何気なさにうっかり通り過ぎてしまいそうになる。
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タンプル塔のマリーアントワネットの部屋の調度類。
以前にロレーヌ地方を旅した際に、ナンシーで利用したホテルがマリーアントワネットがオーストリアから輿入れする際に泊まった宿泊先だった。ホテルには当時の身の回りの品々が展示されていたことを思い出す。 -
処刑が決まり、両手を後ろ手に縛られて断頭台へ引かれゆくマリーアントワネット。
外には押しかけた群衆の姿も見える。
写真がなかった時代のこうした描写は、全てがそのままその通りであったとは言い切れないが、後世の我々の想像力を大いに補ってくれる。 -
ルイ16世とマリーアントワネットの次男で、長男亡きあと王太子となったルイ・シャルル。
タンプル塔に幽閉された7歳の頃、革命政治の中央機関である国民公会の命令で描かれた肖像画。いかにも不安そうな面持ちである。
父親のルイ16世が処刑された後、名目上のフランス国王ルイ17世とみなされるが、やがて母親と引き離され独房に閉じ込められる。1795年、糞尿まみれの悲惨な状態で病死した。10歳であった。
遺体は解剖され、担当した医師が心臓をとりだしている。
その後、ルイ・シャルルは生きているという「王子と乞食」のようなすり替え説やら、我こそはルイ17世なりと名乗り出る者が続出し、宮廷に仕えた使用人たちが「本物に相違ない」と認めて大論議を巻き起こす人物まで登場した。
共にタンプル塔に幽閉されながら唯一生き残った姉のマリー・テレーズは、弟であると名乗る人物たちを誰一人として受け入れなかったが、認否は裁判に持ち込まれるなどして長い間続くことになった。
結局、ルイ・シャルルの死後200年以上も経った2000年になってから摘出された心臓のDNA鑑定が行われ、マリーアントワネットとの母子関係が認められることで真偽論争はようやく決着した。
凄惨な状況で亡くなったルイ・シャルルは、今、母親のマリーアントワネットの肖像画の横に飾られている。
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