2019/01/13 - 2019/01/29
7位(同エリア41件中)
さいたまさん
この旅行記のスケジュール
2019/01/13
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フィジーへの定期便の航空機を見て、フィジーの持つ重要性について理解する。
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日米両軍にとも、ポートモレスビーは、大きな戦略的価値が認められるため、全力を傾注したことを理解した。
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靖国神社に展示されていたゼロ戦の性能について、ガダルカナルの特性に応じて、再度確認した。
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ホラニア市街に向け、移動した。
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ソロモン諸島国会議事堂地域に赴き、日本大使館にも足を延ばした。
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この旅行記スケジュールを元に
ガダルカナルの激戦地を訪れ、大東亜戦争において英霊がご苦労された歴史を偲びました。
なぜ日本がガダルカナルに飛行場を建設したのか、なぜ米軍がガダルカナルに上陸し、激戦が始まったのか、勉強し直しています。
英霊の皆様方がご苦労された時期の政治体制も経済状況も、現在と当時のものとは、全く異なっているはずですが、地形や気象等は、あまり変わっていないと思われます。
特に、当時の厳しい地形条件は、現在の地形条件から推測が可能かと思われます。
そのため、現在の地形状況をしっかり確認してきました。
かなりのことが解ってきました。それらを基礎に、公刊戦史や各種の手記を読み込んで、散華された英霊のご労苦を偲んでおります。
撮影してきた写真や地図をもとに、公刊戦史や手記の文章を読むと、苦悩された部分の一端が浮かび上がってくる感じがします。
しかしながら、時間的な制約と移動手段の制約から、どうしても確認作業に空白部分が生じます。
今後の再確認の機会に期待しています。
今回廻った地域は、飛行場地域とアウステン山周辺が主となります。
多数の写真を撮影してきましたので、順次、紹介して参りたいと考えております。
写真は、ガダルカナル島の平和慰霊公苑に建てられている銅像です。
将来に向けて、前向きに進む力強さを感じます。反省することの多かった過去は、教訓として残し、明るい未来を信じ、努力を続けて参りたいと思っています。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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成田空港までの移動は、京成電鉄(北総鉄道北総線)を利用しました。
特急ですが、ロマンスカーではありません。
普通乗車券で乗れる特急です。北総鉄道北総線 乗り物
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成田空港の展望デッキからの成田空港の状況です。
成田闘争の影響もあるのでしょうか。
未だに工事が続いています。成田国際空港 空港
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成田空港のターミナルの売店です。
食事のため、パンを買いました。セブンイレブン (成田空港第2ターミナル店) スーパー・コンビニ・量販店
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ファミリーマートで、最後の買い物をしてから、カンタス航空機に搭乗するため、保安検査を受けます。
いよいよガダルカナル島への旅が始まります。ファミリーマート (空港第2ビル駅店) スーパー・コンビニ・量販店
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カンタス航空のラウンジは、利用できませんが、雰囲気は伝わってきます。
カンタス航空機の機内の座席です。
最初に乗り込みましたので、他の乗客は、まだ少ないようです。カンタスビジネスラウンジ 成田 空港ラウンジ
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成田からオーストラリアのブリスベーンに向かい、引き続き、ブリスベーンからソロモン諸島の首都ホラニア国際空港に向かいます。
ホラニア国際空港は、ガダルカナル島にあります。ブリスベン空港 (BNE) 空港
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ブリスベーン国際空港の売店です。
乗り継ぎの時間も気になり、何も買いませんが、見るだけは見ます。メリノ コレクション (ブリスベン空港店) 専門店
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離陸した後、機内から見えるブリスベーン空港です。
オーストラリア第3の都市です。
離発着する航空機も、多いですね。 -
しばらくすると、ガダルカナル島に到着しました。
緑の樹々が多いという第一印象です。ホニアラ国際空港 (HIR) 空港
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ホラニア国際空港の中の、国内線ターミナルです。
プロペラ機が駐機しています。 -
今回、ブリスベーンから乗って来たソロモン航空の飛行機です。
国際線の航空機は、ジェット機です。 -
フィージー島にも、定期便が運航されています。
写真は、フィジー航空の航空機です。
フィジー国際空港への定期便です。ナンディ国際空港 (NAN) 空港
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飛行場の西方向を見ている写真です。
飛行場から、ガダルカナルにおける激戦地の一つ、アウステン山が見えます。
ガダルカナルの飛行場を巡る激戦は、多くの犠牲者を発生させてしまいました。 -
飛行場のすぐ西側には、ルンガ川が流れています。
ルンガ川と飛行場の間に、小高い丘が見えています。
米国の海兵師団の防御施設が置かれていた場所です。 -
ホニアラ国際国際空港のターミナルです。
日本のODA予算で建設されました。
北側には、海岸があり、ルンガ岬があります。 -
ソロモン諸島に入国するために、入国審査を受けます。
ターミナルビルの到着ロビーに入ります。 -
ホニアラ国際空港との標示があります。
屋根は、ソロモン諸島の海の色を象徴する青い色で、塗装されています。 -
ホニアラ国際空港の北側には、出発ロビーとその玄関があります。
DEPARTUREとの標示があります。 -
ホニアラ国際空港の北側の様子です。
定期便の離発着の時間帯外なのでしょうか、人影は、あまりありません。 -
ホニアラ国際空港は、大東亜戦争当時、米軍がヘンダーソン基地として使用していました。
ガダルカナル島での戦闘は、飛行場の争奪をかけての激戦が繰り広げられました。
滑走路北側には、飛行機の残骸が残されています。 -
どのような経緯で、飛行機が残されているのでしょうか。
激戦の地であったガダルカナル島は、戦争の傷跡が多数残されています。
海岸には、撃沈された輸送船の残骸が、森林の中には牽引の装甲車の残骸が残っています。その他、小銃や機関銃等の朽ち果てた装備品等が処々に残されています
そのような島内の中で、今でも、多くの遺骨が帰国できる日を待ち望んでいることでしょう。 -
ガダルカナルの飛行場の南側にある血染めの丘です。
日米両軍の将兵が、この丘の争奪を巡り、激戦を続けました。
米軍は、この丘をBlooody Ridgeと呼んでいます。
慰霊祭等が挙行されているようです。ホニアラ国際空港 (HIR) 空港
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米軍は、ガダルカナルの飛行場を、ヘンダーソン飛行場と命名しました。
ヘンダーソン少佐は、海兵隊の飛行隊長でした。ミッドウェーの戦いの中で、壮烈な戦死を遂げたとのことです。
その記念碑が、ホニアラ飛行場のターミナルビルの入口に置かれています。 -
ホニアラ国際空港のターミナルビルは、日本のODA資金で建設されました。
ターミナルビルの北側の広場に、記念碑が置かれています。 -
記念碑には、日の丸とソロモン諸島の国旗が掲げられています。
記念碑の下側には、英文にて、碑文があり、設立の経緯等について記載されています。 -
ホニアラ飛行場の旧名称は、ヘンダーソン飛行場と呼ばれていたことやターミナルビルが、1997年に、日本の援助により建設されたこと等が記されています。
また2005年に、同じく日本の資金により保安設備が、設置されたことも記述されています。 -
空港から首都の市街地に向かいます。
ガダルカナルの警察署の建物です。
西の方向に進みます。 -
ホラニアの港湾に停泊しているソロモン諸島の哨戒艇です。
6つの主要島嶼と約1000にも及ぶ島々を、警備する哨戒艇です。
4~5隻の哨戒艇では、手が回らないのでしょう。 -
ガダルカナルの島内は、殆どが山岳地帯です。
山岳地帯は、緑の密林で覆われ、海岸部の近くには、丘陵地帯が広がっています。
日本軍は、米軍の圧倒的な航空火力と砲兵火力をはじめとする物的戦闘力を避けるため、密林を利用し、飛行場の背後の山岳地帯を迂回しました。 -
ガダルカナル島の海岸地区には、民家が建てられています。
殆どの家屋が、海岸沿いに建てられていて、山岳地帯には、家が少ないです。 -
ラバウルに根拠地を置いていた日本海軍は、米国と豪州の連絡線を遮断するため、FS作戦(フィージー、サモア)を計画しました。
FS作戦の実施のためには、航空機による上空の援護が必要です。
ガダルカナルに飛行場が必要とされた要因です。 -
フィリピンやグアムを失った米軍も、連合軍として、反攻の準備を進めていました。
バヌアツ諸島に、複数の飛行場や港湾施設を建設し、反撃の基地としての機能を整備していきました。 -
米軍が、日本海軍の根拠地ラバウルを奪取するためには、バヌアツ諸島から、航空機の援護のもとに、空母機動艦隊を進めることが必要です。
根拠地からラバウルへの中間点に、ガダルカナルがあります。
連合軍としては、戦闘機の航続距離の観点からガダルカナルの飛行場を手中に収めることが必要だったのです。
日本軍としては、ラバウル基地が、連合軍のニューギニアにおける根拠地ポートモレスビーからの戦闘機の攻撃範囲内に入っていたため、ポートモレスビからの航空脅威からラバウル基地を防護するためには、ポートモレスビー攻略が必要でした。
要するに、航空機の援護範囲の中の飛行場の確保の戦いでした。ポートモレスビー ジャクソン国際空港 (POM) 空港
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日本海軍の戦闘機「ゼロ戦」です。
靖国神社の遊就館内に展示されている機体です。
米国のF4F戦闘機の航続距離700kmに比し、ゼロ戦は、1000kmもあり、日本の有利な点でした。靖国神社遊就館 美術館・博物館
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日本海軍は、ガダルカナル島に飛行場を建設し、有利な状況を確保しようと計画し、建設を進めました。
米軍は、この飛行場を奪取するため、空母を含む機動艦隊を派遣し、1個海兵師団を、ガダルカナル島上陸のために、派遣しました。
これが、ガダルカナル島の飛行場を巡る激戦の始まりでした。 -
米軍により奪取された日本海軍の飛行場を奪回するため、日本陸軍は、旭川を母隊とする一木支隊を、ガダルカナル島のタイボ岬に、上陸させ、飛行場奪回に向かわせました。
飛行場は、既に、米国の手中にあり、一木支隊は、米軍の航空攻撃を避けるため、昼間は、密林の中に潜み、夜間のみ前進し、飛行場に接近しました。 -
ガダルカナルの海岸の密林内の様子です。
海岸の近くまで迫っている密林の中は、上空の航空機から見通すことはできません。
一木支隊の将兵は、昼間は、密林の中に潜み、夜間のみ行動することとし、飛行場に近づきました。 -
ガダルカナル島の飛行場の東側の様子です。
平坦な地域の中に、密林が広く発達しているのが解ります。
密林内は、上空から見えません。航空機により旋回し、一木支隊の行動は、把握できません。
当時の航空機は、夜間飛行ができませんでしたので、夜間は、部隊行動が可能になります。
しかし、未知の土地において、夜間に、地図も無く、密林の中を示された目標地点に前進することは、不可能です。現在位置も解らず、目標地点も見えないからです。
やむを得ず、前進方向が把握しやすい海岸沿いを前進したのです。 -
ガダルカナルの飛行場の東側を、飛行場を目指した一木支隊は、地図を保有していなかったため、海岸沿いに進みました。
夜間、密林内を進むと、方角が解らなくなり、迷ってしまいます。
海岸沿いに進むと、飛行場にたどり着けるためです。 -
ガダルカナルの飛行場の滑走路北側の小高い丘です。
米軍の第1海兵師団の中の第1海兵連隊が、地形を利用して、防御陣地を構築していました。
イル川を障害として利用するとともに、鉄条網等を設置し、併せて、集音マイクを付けて、日本軍の接近を探知していました。 -
写真の右上に、ガダルカナルのヘンダーソン飛行場が見えます。イル川の流れも見えます。
一木支隊は、海岸沿いに前進していて、イル川の線まで到着しましたが、米海兵連隊の準備していた火網の中で、圧倒的な兵力と濃密な火力により、大損害を受けました。
夜が明けると、米軍の戦車がイル川沿いに攻撃してきて、一木連隊長以下、殆どが全滅しました。 -
飛行場の西側にルンガ川という川が流れています。
写真の右側が東側で、写真の左側が西です。
飛行場は、写真の右後方に位置しています。 -
ホロニアの市街地に近い所に、マタニカウ川という川が流れています。
マタニカウ川の東側(写真の左側)は、サル高地という小高い丘があります。
日米の争奪戦が始まり、当初、日本軍が確保していましたが、米軍の砲兵と航空火力の援護のもと、米軍の手に堕ちました。
日本軍は、このマタニカウ川の流域から、逐次、米軍により、駆逐されていきました。 -
マタニカウ川の西側に、現在は、教会が建てられていますが、当時は、日本軍の監視哨があったそうです。
写真では、丘のように高くなっていて、頂上まで階段が続いています。
マタニカウ川が見えるため、監視哨に最適だったのでしょう。
西側に、堺台と呼ばれ陣地がありました。 -
堺台と呼ばれていた丘です。
当時は、歩兵16聯隊が確保していた陣地線です。
連隊長の堺大佐の名前から、堺台と呼ばれ、第1拠点から第3拠点まであり、陣地戦が続いていたようです。
現在は、ソロモン諸島の国会議事堂が置かれています。激戦の跡は、全く見られず、ガダルカナル島随一の商業地区になっています。
日本大使館が、写真の左側にあります。 -
マタニカウ川が見える丘に、日本の関係者により建立された平和慰霊公苑があります。
激戦地のギフ高地の北側にあたります。
幹線道路沿いに白色の案内標識が置かれています。
平和慰霊公苑は、案内標識の右側の側道を進むことになります。 -
平和慰霊公苑の入口の標識です。
ソロモン平和慰霊公苑と日本語で記載されています。
慰霊公苑は、小高い丘の上に置かれています。 -
ソロモン平和慰霊公苑に入ると、入口左手(南側)に、彫刻家の高橋英吉氏の製作による漁夫の像が、見えてきます。
漁夫の像の周囲の石囲いは、高橋英吉氏の出身地の石巻市の支援のもと、ソロモン諸島の石を集めて、造られているとのことです。 -
ガダルカナル島で亡くなった米・英・豪・ニュージーランド及び日本の英霊を慰霊するための銅像です。
遠く、将来を見つめ、英霊の安らかな眠りを祈っているような感じです。
訪れる人々に、平和と慰霊の気持ちを、訴えているようです。 -
慰霊の銅像の傍には、日本から持参したのでしょう、亡くなった人の供養のためのインドのことば「stupa(ストゥーパ)」の音を、漢字に当てはめたものです。が置かれています。
卒塔婆とは、インドのことば「stupa(ストゥーパ)」の音を、漢字に当てはめたものだそうです。 -
ソロモン慰霊公苑の中央にある慰霊碑です。
白色の垂直の柱が、天空に延びていて、将来の平和と発展を象徴しているようです。
ガダルカナル島の激戦地のほぼ中央に位置しています。
ガダルカナル島を訪れた方々は、この平和慰霊公苑にお参りするようです。
慰霊の気持ちが伝わるものと考えています。 -
ソロモン平和慰霊公苑の慰霊の碑文と献花台です。
線香の他に、日本酒やタバコが供えられます。
飢えに苦しんだことから、お米を供える人が多いようです。
まさに慰霊の気持ちが伝わることと思われます。 -
ホニアラ市街地の中心部に日本大使館の入っている建物があります。
4階建ての最上階に、日本大使館があります。
ソロモン諸島の国会議事堂の東側にあります。 -
在ソロモン日本大使館との標識です。
ホニアラの幹線道路であるメンダナ通りから1本南側に入った場所にありますので、静かな感じがします。
環境的に良い場所のようです。 -
写真の左側が、最後の最後まで、激戦を戦い抜いた歩兵第124聯隊の慰霊碑です。
右側には、米第1海兵師団の慰霊碑です。
ソロモン諸島国立博物館と中央警察の中間に位置しています。ソロモン諸島国立博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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歩兵第124聯隊の慰霊碑の北側に、日本軍の野戦重砲兵の装備していた96式の155mmの榴弾砲が置かれています。
長距離の射撃が可能ですので、米軍の飛行場の機能発揮を、妨害する目的で使用される予定でした。
しかし弾薬の補給が思うに任せられず、活躍に至りませんでした。
限定的に、海岸沿いの戦闘に参加しています。
険しい山岳地帯の中の密林に入り、迂回行動はできません。
榴弾砲は、重く、人力では運べないからです。 -
ガダルカナル島の激戦地ギフ高地の頂上付近の部落に、激戦の跡が偲ばれる遺留品が集められていました。
手榴弾や弾薬、飯盒、ベルト等が並べられてます。
まさに日米両軍の将兵が、身近に使用していたものが数多く、集められています。
喉が渇いた際、渇望していた水筒や、飢えに苦しんだ際の飯盒、病んだ際の救急品袋等、英霊がどんな気持ちで、傍に置いていたのか、気になるものばかりです。 -
日米両軍の将兵が被っていた鉄帽です。
鉄帽に空いた穴が、激しい弾雨の跡を物語っています。
悲しい思いになります。
棚の上の薬きょうや弾倉が、悲しさを倍加させています。
人間の命を考えますと、複雑な思いになります。
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