三原旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間開通は、<br /> 尾道-三原Ⅰ(現 糸崎)間  明治25年(1892年) 7月20日<br /> 三原Ⅰ(現 糸崎)-三原Ⅱ間 明治27年(1894年) 6月10日<br />である。<br />尾道-三原Ⅰ(現 糸崎)間建設工事着工は、明治24年(1891年)11月20日附で開始されたが、該区間内に大規模橋梁、及び、隧道設置工事こそ発生しなかったが、但し、平地は糸崎神社裏手付近以外殆ど存在せず、大部分は製塩田海岸擁壁構築に依り路盤を設置し、古濱-新濱-正徳濱付近は海中築堤を必要とした。<br /><br /><br />該地域は江戸期に於いて尾道湊こそ存在したが、当時の尾道水道は狭隘水路で浅水深の為に、千石船は大潮でも無い限り出入港困難な状態であり、各方面から代替湊設置要望がされていた。<br /><br />備後三原浅野家では儒学者 宇都宮瀧山(うつのみや りゅうざん)(享和3年(1803年)3月12日~明治29年(1886年)8月11日)の献策に依り糸崎地区開発に着眼し、元治元年(1864年)に糸崎湊開設が決定され該工事は翌慶應元年(1865年)7月に竣工し松濱湊と称されたが、明治期以降は浚渫整備された事で大型船舶入港も可能となり三原Ⅰ(現 糸崎)-廣島間鐵道建設資材上陸地として利用された。<br /><br /><br />濱吉(はまよし)は該線福山、尾道、三原、及び、新尾道各駅に於いて弁当販売を展開する三原市糸崎に本社所在の駅構内弁当製造販売会社である。<br />該社は、明治初期に当時の尾道湊に於いて濱吉櫻として創業し、舟子衆相手の商売を行っていたが、明治23年(1890年)5月に現在地に事務所を移転し、山陽鐵道幹部技師に対し鐵道建設時に宿泊食事斡旋を行った功から構内営業許可を得て、該線三原Ⅰ(現 糸崎)驛構内に於いて雑貨、及び、弁当販売を開始した。<br />戦後に至るまで、当時の糸崎駅は機関車交換の為に特別急行列車、普通急行列車を含め全列車停車駅であり、最低6分以上の停車時間が存在した事から弁当が飛ぶように売れた時代であり、該駅構内には立食うどん3店も存在し繁盛した。<br />三原駅弁当販売開始は大東亜戦争後たる昭和26年(1951年)駅本屋改築時である。<br />然し、電化延伸で機関車交換が不要となり、更に、山陽新幹線は三原に停車した事から、相対的に糸崎駅立場は逆転釣瓶落的低下来たし、以前は普通急行列車すら通過した三原駅地位が向上した。<br />現在では本社所在地至近駅たる糸崎駅に於ける弁当販売は廃止され、立食うどん店も閉鎖されたが、尾道、及び、福山駅弁当販売会社が次々と経営破綻した事で、該社が個々参入し、更に、広島空港内に於いて弁当販売を開始するに至った。<br /><br /><br />明治27年(1894年)6月10日附で糸崎-廣島間開通と同時に三原Ⅰ驛は糸崎驛に驛名改称された。<br /><br /><br />明治28年(1895年)7月25日1時25分頃、尾道-糸崎間に於いて重大事故が発生した。<br />日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)開戦の為に帝國陸軍に依り召集され、現地に於ける戦病傷将兵 計358名は中国大陸戦場より我が国国内病院施設への後方護送の為に運転された 巴号軍用列車23両編成が、該区間走行中、前日来の暴風雨波浪原因に依り築堤約30mが崩壊流失状態地進入の為に、該列車牽引蒸気機関車は脱線転覆、緩急車1両、客車5両が脱線転覆し満潮時海中に転落、客車6両脱線転覆大破し、将兵8名、赤十字職員2名、職員1名即死、兵士97名、職員2名が重軽傷を負ったが殆どの死亡原因が溺死でだった。<br />現場は瀬戸内海に築堤設置箇所だったが、現在は海面埋立が進行し海面転覆事故は発生しない。<br /><br /><br />明治45年(1912年)3月20日22時54分頃、三原Ⅱ驛構内に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、下り貨物第385列車は該驛到着後、該列車機関手は該列車機関車を点検中、上り旅客第42列車が進入し第385列車と正面衝突した。<br />該事故に依り、第42列車機関車は脱線転覆、2軸荷物郵便合造緩急車ハユニ 3等客車ホハは脱線転覆大破。<br />旅客計43名重軽傷。<br />事故原因は、該驛上り場内信号機が停止現示にも拘らず、第42列車機関手が停止現示を無視し進入した為と判明。<br /><br /><br />尾道-糸崎間は9.1Kmを有し、列車交換施設増設の為に大正5年(1916年)7月1日附で 木原(きはら)信号所が開設された。<br /><br /><br />該線神戸-下関Ⅰ間は全線、神戸に本拠を有した西部鐵道管理局管轄だったが、大正8年(1919年)5月1日附官制改正に拠り、糸崎-下関Ⅰ間は門司鐵道管理局管轄に変更された。<br />此の為に、糸崎驛は神戸、門司中継地として多数の現業機関が設置され、糸崎町自体が鐵道の街として発展を遂げる事となった。<br /><br /><br />大正10年(1921年)3月10日23時15分頃、木原-糸崎間神戸起点228Km840m地点に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、下り貨物第405列車32両編成が該地点通過時に、6~32両目貨車が脱線転覆、内9両は隣接海中墜落した。<br />事故原因は、該地点に於いて軌条交換作業中、内3本軌条が規定外取付を行った事から浮上状態化した為と断定。<br />復旧日時不明。<br /><br /><br />該区間複線化は、<br />   尾道-木原間        大正12年(1923年) 4月11日<br />    木原-糸崎間                大正11年(1922年)12月15日<br />   糸崎-三原Ⅱ間       大正15年(1926年) 1月26日<br />である。<br />尾道-糸崎間は複線化時に連続急曲線緩和工事を同時施工した。<br /><br /><br />三原Ⅱ驛は、昭和5年(1930年)3月19日附で三呉(さんご)線(現 呉線)三原Ⅱ-須波間開通に依り乗換驛となる。<br /><br /><br />尾道-糸崎間は、昭和8年(1933年)8月1日附で自動閉塞式導入に依り木原信号所は不要施設となり翌2日附で廃止された。<br /><br /><br />現在、糸崎駅横に存在する三菱重工業三原製作所は蒸気機関車製造を目的として昭和19年(1944年)5月に開設されたものである。<br />開設当初はC57型旅客用蒸気機関車やD51型貨物用蒸気機関車等々を製造し、大東亜戦争後は、C62型大型旅客用蒸気機関車やEF15型 EF58型直流1500V電気機関車等々が製造された。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は記録上存在しない。<br /><br /><br />該区間内に於けるRTO設置駅は、<br /> 尾道駅  <br />  昭和20年(1945年)11月 3日~昭和23年(1948年) 6月 4日<br />該区間内に於けるRTO設置駅は、<br /> 糸崎駅   <br />  昭和22年(1947年) 7月22日~昭和27年(1952年) 3月31日<br />である。<br /><br /><br />該区間は、昭和36年(1961年)9月6日附で直流1500V電化されたが、但し、客車列車、貨物列車共に機関車交換は従来通り糸崎に於いて実施された。<br />然し、翌昭和37年(1962年)6月10日附で三原Ⅱ-広島間直流1500V電化完成に依り、糸崎駅に於いて未電化の呉線経由列車を除き必ずしも機関車交換を必要としなくなった事から、該駅開業以来、初めて該駅機関車牽引通過列車が出現した。<br />特に、山陽新幹線岡山-博多間開通に依り、昼間優等列車は殆ど全滅に瀕した事で、糸崎駅地位は鶴瓶落的に低下した。<br />現在の糸崎駅状況は嘗ての状態を知る者にとって、愕然とさせられるものである。<br /><br /><br />三原駅を中心とした区間は踏切閉止に依る交通渋滞を緩和を目的として、平成元年(1989年)9月28日附で上り線、平成2年(1990年)6月26日附で下り線、及び、平成3年(1991年97月29日附で呉線が高架化され、同時に三原Ⅱ-本郷間10.1Kmは隧道新設に依る別線短路化の為に0.6Km短縮され該区間は9.5Kmとなる。<br /><br /><br />平成30年(2018年)7月豪雨は、近畿西部地区、及び、中国四国地方に甚大被害を与えた。<br />即ち、6月28日から連日降雨は7月6日になり記録的集中豪雨状態となり、当該各地に於いて観測史上最大規模の雨量を記録した。<br />此の為に、当該記録的豪雨被害の為に該区間各地に於いて土砂崩壊、築堤崩壊、河川氾濫等々被害が続出し、山陽本線は7月6日より相生-下関Ⅱ間が不通になった。<br />復旧は、<br /> 福山-三原Ⅱ間 7月18日<br />である。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />昭和10年(1935年)建立、遭難軍人之碑。<br /><br /><br /><br /><br /><br />山陽本線歴史的痕跡探訪記<br />~神戸-須磨間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11342842<br />~神戸兵庫臨港線編~<br /><br />~須磨-西明石編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11347902<br />~西明石-加古川間編 明治頌歌~<br /><br />~加古川-姫路間編 明治頌歌~<br /><br />~姫路-網干間編 明治頌歌~<br /><br />~網干-相生間編 明治頌歌~<br /><br />~相生-上郡間編 明治頌歌~<br /><br />~上郡-三石間編 明治頌歌~<br /><br />~三石-和気間編 明治頌歌~<br /><br />~和気-瀬戸間編 明治頌歌~<br /><br />~瀬戸-東岡山間編 明治頌歌~<br /><br />~東岡山-岡山間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11565121<br />~岡山-倉敷間編 明治頌歌~<br /><br />~倉敷-新倉敷間編 明治頌歌~<br /><br />~新倉敷-笠岡間編 明治頌歌~<br /><br />~笠岡-福山間編 明治頌歌~<br /><br />~福山-尾道間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11717471<br />~尾道-三原Ⅱ間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11693199<br />~三原Ⅱ-河内間編 明治頌歌~<br /><br />~河内-西條間編 明治頌歌~<br /><br />~西條-瀬野間編 明治頌歌~<br /><br />~瀬野-海田市間編 明治頌歌~<br /><br />~海田市-廣島間編 明治頌歌~<br /><br />~廣島-宮島口間編 明治頌歌~<br /><br />~宮島口-岩國間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11694390<br />~岩國-由宇間編 明治頌歌~<br /><br />~由宇-柳井間編 明治頌歌~<br /><br />~柳井-光間編 明治頌歌~<br /><br />~光-徳山間編 明治頌歌~<br /><br />~徳山-三田尻(現 防府)間編 明治頌歌~<br /><br />~三田尻(現 防府)-小郡(現 新山口)間編 明治頌歌~<br /><br />~新山口-宇部間編 明治頌歌~<br /><br />~宇部-厚狭間編 明治頌歌~<br /><br />~厚狭-長府間編 明治頌歌~<br /><br />~長府-下関Ⅱ間編 明治頌歌<br /><br />~下関Ⅱ-門司Ⅱ間編 明治頌歌~<br />

山陽本線歴史的痕跡探訪記 ~尾道-三原Ⅱ間編 明治頌歌~

281いいね!

2022/04/03 - 2022/04/04

3位(同エリア307件中)

横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間開通は、
 尾道-三原Ⅰ(現 糸崎)間  明治25年(1892年) 7月20日
 三原Ⅰ(現 糸崎)-三原Ⅱ間 明治27年(1894年) 6月10日
である。
尾道-三原Ⅰ(現 糸崎)間建設工事着工は、明治24年(1891年)11月20日附で開始されたが、該区間内に大規模橋梁、及び、隧道設置工事こそ発生しなかったが、但し、平地は糸崎神社裏手付近以外殆ど存在せず、大部分は製塩田海岸擁壁構築に依り路盤を設置し、古濱-新濱-正徳濱付近は海中築堤を必要とした。


該地域は江戸期に於いて尾道湊こそ存在したが、当時の尾道水道は狭隘水路で浅水深の為に、千石船は大潮でも無い限り出入港困難な状態であり、各方面から代替湊設置要望がされていた。

備後三原浅野家では儒学者 宇都宮瀧山(うつのみや りゅうざん)(享和3年(1803年)3月12日~明治29年(1886年)8月11日)の献策に依り糸崎地区開発に着眼し、元治元年(1864年)に糸崎湊開設が決定され該工事は翌慶應元年(1865年)7月に竣工し松濱湊と称されたが、明治期以降は浚渫整備された事で大型船舶入港も可能となり三原Ⅰ(現 糸崎)-廣島間鐵道建設資材上陸地として利用された。


濱吉(はまよし)は該線福山、尾道、三原、及び、新尾道各駅に於いて弁当販売を展開する三原市糸崎に本社所在の駅構内弁当製造販売会社である。
該社は、明治初期に当時の尾道湊に於いて濱吉櫻として創業し、舟子衆相手の商売を行っていたが、明治23年(1890年)5月に現在地に事務所を移転し、山陽鐵道幹部技師に対し鐵道建設時に宿泊食事斡旋を行った功から構内営業許可を得て、該線三原Ⅰ(現 糸崎)驛構内に於いて雑貨、及び、弁当販売を開始した。
戦後に至るまで、当時の糸崎駅は機関車交換の為に特別急行列車、普通急行列車を含め全列車停車駅であり、最低6分以上の停車時間が存在した事から弁当が飛ぶように売れた時代であり、該駅構内には立食うどん3店も存在し繁盛した。
三原駅弁当販売開始は大東亜戦争後たる昭和26年(1951年)駅本屋改築時である。
然し、電化延伸で機関車交換が不要となり、更に、山陽新幹線は三原に停車した事から、相対的に糸崎駅立場は逆転釣瓶落的低下来たし、以前は普通急行列車すら通過した三原駅地位が向上した。
現在では本社所在地至近駅たる糸崎駅に於ける弁当販売は廃止され、立食うどん店も閉鎖されたが、尾道、及び、福山駅弁当販売会社が次々と経営破綻した事で、該社が個々参入し、更に、広島空港内に於いて弁当販売を開始するに至った。


明治27年(1894年)6月10日附で糸崎-廣島間開通と同時に三原Ⅰ驛は糸崎驛に驛名改称された。


明治28年(1895年)7月25日1時25分頃、尾道-糸崎間に於いて重大事故が発生した。
日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)開戦の為に帝國陸軍に依り召集され、現地に於ける戦病傷将兵 計358名は中国大陸戦場より我が国国内病院施設への後方護送の為に運転された 巴号軍用列車23両編成が、該区間走行中、前日来の暴風雨波浪原因に依り築堤約30mが崩壊流失状態地進入の為に、該列車牽引蒸気機関車は脱線転覆、緩急車1両、客車5両が脱線転覆し満潮時海中に転落、客車6両脱線転覆大破し、将兵8名、赤十字職員2名、職員1名即死、兵士97名、職員2名が重軽傷を負ったが殆どの死亡原因が溺死でだった。
現場は瀬戸内海に築堤設置箇所だったが、現在は海面埋立が進行し海面転覆事故は発生しない。


明治45年(1912年)3月20日22時54分頃、三原Ⅱ驛構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、下り貨物第385列車は該驛到着後、該列車機関手は該列車機関車を点検中、上り旅客第42列車が進入し第385列車と正面衝突した。
該事故に依り、第42列車機関車は脱線転覆、2軸荷物郵便合造緩急車ハユニ 3等客車ホハは脱線転覆大破。
旅客計43名重軽傷。
事故原因は、該驛上り場内信号機が停止現示にも拘らず、第42列車機関手が停止現示を無視し進入した為と判明。


尾道-糸崎間は9.1Kmを有し、列車交換施設増設の為に大正5年(1916年)7月1日附で 木原(きはら)信号所が開設された。


該線神戸-下関Ⅰ間は全線、神戸に本拠を有した西部鐵道管理局管轄だったが、大正8年(1919年)5月1日附官制改正に拠り、糸崎-下関Ⅰ間は門司鐵道管理局管轄に変更された。
此の為に、糸崎驛は神戸、門司中継地として多数の現業機関が設置され、糸崎町自体が鐵道の街として発展を遂げる事となった。


大正10年(1921年)3月10日23時15分頃、木原-糸崎間神戸起点228Km840m地点に於いて重大事故が発生した。
即ち、下り貨物第405列車32両編成が該地点通過時に、6~32両目貨車が脱線転覆、内9両は隣接海中墜落した。
事故原因は、該地点に於いて軌条交換作業中、内3本軌条が規定外取付を行った事から浮上状態化した為と断定。
復旧日時不明。


該区間複線化は、
  尾道-木原間        大正12年(1923年) 4月11日
  木原-糸崎間         大正11年(1922年)12月15日
  糸崎-三原Ⅱ間       大正15年(1926年) 1月26日
である。
尾道-糸崎間は複線化時に連続急曲線緩和工事を同時施工した。


三原Ⅱ驛は、昭和5年(1930年)3月19日附で三呉(さんご)線(現 呉線)三原Ⅱ-須波間開通に依り乗換驛となる。


尾道-糸崎間は、昭和8年(1933年)8月1日附で自動閉塞式導入に依り木原信号所は不要施設となり翌2日附で廃止された。


現在、糸崎駅横に存在する三菱重工業三原製作所は蒸気機関車製造を目的として昭和19年(1944年)5月に開設されたものである。
開設当初はC57型旅客用蒸気機関車やD51型貨物用蒸気機関車等々を製造し、大東亜戦争後は、C62型大型旅客用蒸気機関車やEF15型 EF58型直流1500V電気機関車等々が製造された。


大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は記録上存在しない。


該区間内に於けるRTO設置駅は、
 尾道駅 
  昭和20年(1945年)11月 3日~昭和23年(1948年) 6月 4日
該区間内に於けるRTO設置駅は、
 糸崎駅 
  昭和22年(1947年) 7月22日~昭和27年(1952年) 3月31日
である。


該区間は、昭和36年(1961年)9月6日附で直流1500V電化されたが、但し、客車列車、貨物列車共に機関車交換は従来通り糸崎に於いて実施された。
然し、翌昭和37年(1962年)6月10日附で三原Ⅱ-広島間直流1500V電化完成に依り、糸崎駅に於いて未電化の呉線経由列車を除き必ずしも機関車交換を必要としなくなった事から、該駅開業以来、初めて該駅機関車牽引通過列車が出現した。
特に、山陽新幹線岡山-博多間開通に依り、昼間優等列車は殆ど全滅に瀕した事で、糸崎駅地位は鶴瓶落的に低下した。
現在の糸崎駅状況は嘗ての状態を知る者にとって、愕然とさせられるものである。


三原駅を中心とした区間は踏切閉止に依る交通渋滞を緩和を目的として、平成元年(1989年)9月28日附で上り線、平成2年(1990年)6月26日附で下り線、及び、平成3年(1991年97月29日附で呉線が高架化され、同時に三原Ⅱ-本郷間10.1Kmは隧道新設に依る別線短路化の為に0.6Km短縮され該区間は9.5Kmとなる。


平成30年(2018年)7月豪雨は、近畿西部地区、及び、中国四国地方に甚大被害を与えた。
即ち、6月28日から連日降雨は7月6日になり記録的集中豪雨状態となり、当該各地に於いて観測史上最大規模の雨量を記録した。
此の為に、当該記録的豪雨被害の為に該区間各地に於いて土砂崩壊、築堤崩壊、河川氾濫等々被害が続出し、山陽本線は7月6日より相生-下関Ⅱ間が不通になった。
復旧は、
 福山-三原Ⅱ間 7月18日
である。




表紙写真は、
昭和10年(1935年)建立、遭難軍人之碑。





山陽本線歴史的痕跡探訪記
~神戸-須磨間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11342842
~神戸兵庫臨港線編~

~須磨-西明石編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11347902
~西明石-加古川間編 明治頌歌~

~加古川-姫路間編 明治頌歌~

~姫路-網干間編 明治頌歌~

~網干-相生間編 明治頌歌~

~相生-上郡間編 明治頌歌~

~上郡-三石間編 明治頌歌~

~三石-和気間編 明治頌歌~

~和気-瀬戸間編 明治頌歌~

~瀬戸-東岡山間編 明治頌歌~

~東岡山-岡山間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11565121
~岡山-倉敷間編 明治頌歌~

~倉敷-新倉敷間編 明治頌歌~

~新倉敷-笠岡間編 明治頌歌~

~笠岡-福山間編 明治頌歌~

~福山-尾道間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11717471
~尾道-三原Ⅱ間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11693199
~三原Ⅱ-河内間編 明治頌歌~

~河内-西條間編 明治頌歌~

~西條-瀬野間編 明治頌歌~

~瀬野-海田市間編 明治頌歌~

~海田市-廣島間編 明治頌歌~

~廣島-宮島口間編 明治頌歌~

~宮島口-岩國間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11694390
~岩國-由宇間編 明治頌歌~

~由宇-柳井間編 明治頌歌~

~柳井-光間編 明治頌歌~

~光-徳山間編 明治頌歌~

~徳山-三田尻(現 防府)間編 明治頌歌~

~三田尻(現 防府)-小郡(現 新山口)間編 明治頌歌~

~新山口-宇部間編 明治頌歌~

~宇部-厚狭間編 明治頌歌~

~厚狭-長府間編 明治頌歌~

~長府-下関Ⅱ間編 明治頌歌

~下関Ⅱ-門司Ⅱ間編 明治頌歌~

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 尾道(おのみち)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治24年(1891年)11月3日開業である。<br />該駅開設に鑑み、本来ならば当時の該町中心地は現在の天寧寺付近だったが、停車場設置有効収用可能地は皆無に均しく、該社は已む無く町外れの御所村海浜を大々的埋立施工に依り初めて設置可能とした。<br />尾道驛初代驛本屋は山陽鐵道時代に建設された為に、老朽化と狭隘さが災いしていた事から建替が決定し、昭和3年(1928年)9月に第2代驛本屋に改築された。<br />その後、昭和17年(1942年)2月、更に、昭和44年(1969年)4月に増築が実施された。<br />広島県、及び、尾道市が共同で該駅土堂地域周辺再開発を決定した事から、駅改築が決定され、平成31年(2019年)3月10日附で、現3代目駅本屋が竣工した。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650623

    尾道(おのみち)駅



    駅本屋
    該駅は、明治24年(1891年)11月3日開業である。
    該駅開設に鑑み、本来ならば当時の該町中心地は現在の天寧寺付近だったが、停車場設置有効収用可能地は皆無に均しく、該社は已む無く町外れの御所村海浜を大々的埋立施工に依り初めて設置可能とした。
    尾道驛初代驛本屋は山陽鐵道時代に建設された為に、老朽化と狭隘さが災いしていた事から建替が決定し、昭和3年(1928年)9月に第2代驛本屋に改築された。
    その後、昭和17年(1942年)2月、更に、昭和44年(1969年)4月に増築が実施された。
    広島県、及び、尾道市が共同で該駅土堂地域周辺再開発を決定した事から、駅改築が決定され、平成31年(2019年)3月10日附で、現3代目駅本屋が竣工した。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650623

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />北口駅舎<br />該口開設は昭和22年(1947年)7月15日。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650623

    尾道駅



    北口駅舎
    該口開設は昭和22年(1947年)7月15日。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650623

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム

    尾道駅



    旅客第1番ホーム

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム

    尾道駅



    旅客第1番ホーム

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム

    尾道駅



    旅客第1番ホーム

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />古軌条支柱

    尾道駅



    旅客第1番ホーム
    古軌条支柱

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />古軌条支柱

    尾道駅



    旅客第1番ホーム
    古軌条支柱

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />古軌条支柱群

    尾道駅



    旅客第1番ホーム
    古軌条支柱群

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム

    尾道駅



    旅客第1番ホーム

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />115系電車

    尾道駅



    旅客第2番ホーム
    115系電車

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム

    尾道駅



    旅客第2番ホーム

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客連絡地下通路<br />昭和3年(1928年)7月竣工。

    尾道駅



    旅客連絡地下通路
    昭和3年(1928年)7月竣工。

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />古軌条支柱群

    尾道駅



    旅客第2番ホーム
    古軌条支柱群

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />古軌条支柱

    尾道駅



    旅客第2番ホーム
    古軌条支柱

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />古軌条支柱

    尾道駅



    旅客第2番ホーム
    古軌条支柱

    尾道駅

  • 尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />北口<br />連絡階段<br />尾道鐵道乗入の為に設置、昭和8年(1933年)3月23日附竣工。

    尾道駅



    北口
    連絡階段
    尾道鐵道乗入の為に設置、昭和8年(1933年)3月23日附竣工。

    尾道駅

  • 尾道駅<br /><br /><br /><br />北口旅客通路<br />昭和8年(1933年)3月28日開業の尾道鐵道尾道驛ホーム跡

    尾道駅



    北口旅客通路
    昭和8年(1933年)3月28日開業の尾道鐵道尾道驛ホーム跡

    尾道駅

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />尾道駅構内<br />門司方より神戸方<br />俯瞰

    尾道-糸崎間



    尾道駅構内
    門司方より神戸方
    俯瞰

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />栗原川(くりはらがわ)橋梁

    尾道-糸崎間



    栗原川(くりはらがわ)橋梁

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />中新開2(なか しんかい に)踏切<br />該区間開通当時、該踏切奥は大規模製塩田だった。<br />その後、埋立が進行し踏切設置時に該名命名。

    尾道-糸崎間



    中新開2(なか しんかい に)踏切
    該区間開通当時、該踏切奥は大規模製塩田だった。
    その後、埋立が進行し踏切設置時に該名命名。

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />中新開2踏切付近<br />該区間開通時左手は全部塩田だった。<br />大正初期頃から干拓埋立が進行し、現在では工場小ビル群立状態。

    尾道-糸崎間



    中新開2踏切付近
    該区間開通時左手は全部塩田だった。
    大正初期頃から干拓埋立が進行し、現在では工場小ビル群立状態。

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />古濱川(こはまがわ)橋梁<br />煉瓦積橋台

    尾道-糸崎間



    古濱川(こはまがわ)橋梁
    煉瓦積橋台

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />正徳踏切付近<br />該区間開通当時、線路右手は塩田だった。

    尾道-糸崎間



    正徳踏切付近
    該区間開通当時、線路右手は塩田だった。

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />遭難軍人之碑<br />明治28年(1895年)7月25日1時25分頃、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)開戦の為に帝國陸軍に依り召集され、現地に於いて戦病傷将兵 計358名は中国大陸戦場より我が国国内病院施設への後方護送の為に運転された 巴号軍用列車23両編成が、該区間走行中、前日来の暴風雨の為に波浪原因に依り築堤約30mが崩壊流失状態地進入の為に、該列車牽引蒸気機関車は脱線転覆、緩急車1両、客車5両は脱線転覆し満潮時の塩田に転落、客車6両脱線転覆大破し、将兵11名、赤十字職員2名、職員1名即死(水死)、兵士97名、職員2名が重軽傷を負った。<br />事故発生当時、事故現場は瀬戸内海に築堤設置した所だったが、現在は海面埋立が進行し海面転覆事故は発生しない。

    尾道-糸崎間



    遭難軍人之碑
    明治28年(1895年)7月25日1時25分頃、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)開戦の為に帝國陸軍に依り召集され、現地に於いて戦病傷将兵 計358名は中国大陸戦場より我が国国内病院施設への後方護送の為に運転された 巴号軍用列車23両編成が、該区間走行中、前日来の暴風雨の為に波浪原因に依り築堤約30mが崩壊流失状態地進入の為に、該列車牽引蒸気機関車は脱線転覆、緩急車1両、客車5両は脱線転覆し満潮時の塩田に転落、客車6両脱線転覆大破し、将兵11名、赤十字職員2名、職員1名即死(水死)、兵士97名、職員2名が重軽傷を負った。
    事故発生当時、事故現場は瀬戸内海に築堤設置した所だったが、現在は海面埋立が進行し海面転覆事故は発生しない。

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />遭難軍人之碑<br />該碑は該事故40年祀執行時に建立。<br />撰文は 第18代第5師團長 陸軍中将 林 桂(はやし かつら)(明治13年(1880年)11月15日~昭和36年(1961年)3月11日)(昭和10年(1935年)12月2日~昭和12年(1937年)3月1日在任)。

    尾道-糸崎間



    遭難軍人之碑
    該碑は該事故40年祀執行時に建立。
    撰文は 第18代第5師團長 陸軍中将 林 桂(はやし かつら)(明治13年(1880年)11月15日~昭和36年(1961年)3月11日)(昭和10年(1935年)12月2日~昭和12年(1937年)3月1日在任)。

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />遭難軍人之碑

    尾道-糸崎間



    遭難軍人之碑

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />遭難軍人之碑

    尾道-糸崎間



    遭難軍人之碑

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />遭難軍人之碑<br />裏面

    尾道-糸崎間



    遭難軍人之碑
    裏面

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />西の谷1(にしのたに いち)踏切<br />該踏切付近は開設単線時代、S字状連続急曲線だったが、複線化施工と同時に直線化された。

    尾道-糸崎間



    西の谷1(にしのたに いち)踏切
    該踏切付近は開設単線時代、S字状連続急曲線だったが、複線化施工と同時に直線化された。

  • 尾道-糸崎間<br /><br /><br /><br />糸崎神社裏手付近<br />該地開設当時は該区間唯一平面存在地。

    尾道-糸崎間



    糸崎神社裏手付近
    該地開設当時は該区間唯一平面存在地。

  • 糸崎(いとさき)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治25年(1892年)7月20日開業である。<br />但し、該駅開業当時は 三原Ⅰ(みはらⅠ)駅と称した。<br />該駅周辺は停車場設置用地が皆無に均しく、該社は已む無く海岸擁壁構築に依り駅設置を可能にした。<br />大正8年(1919年)5月1日附官制改正に拠り、該線全線が西部鐵道管理局Ⅱ管轄だったものが、該駅以西は門司鐵道管理局管轄に変更された為に、該駅に当時の特別急行列車と雖も例外では無く全列車停車し機関車交換を要した為に、該駅周辺は鐵道の街として急速に形成発展する。<br />国有鉄道時代は、関西と中国の接点として機関車交換の為に全列車が停車していた。<br />特に、山陽新幹線岡山-博多開通前に於ける該線優等列車には現在の三原Ⅱ駅通過列車すら当然とされた時代だった。<br />現在では優等旅客列車全滅に依り、旅客列車全停車。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650624

    糸崎(いとさき)駅



    該駅は、明治25年(1892年)7月20日開業である。
    但し、該駅開業当時は 三原Ⅰ(みはらⅠ)駅と称した。
    該駅周辺は停車場設置用地が皆無に均しく、該社は已む無く海岸擁壁構築に依り駅設置を可能にした。
    大正8年(1919年)5月1日附官制改正に拠り、該線全線が西部鐵道管理局Ⅱ管轄だったものが、該駅以西は門司鐵道管理局管轄に変更された為に、該駅に当時の特別急行列車と雖も例外では無く全列車停車し機関車交換を要した為に、該駅周辺は鐵道の街として急速に形成発展する。
    国有鉄道時代は、関西と中国の接点として機関車交換の為に全列車が停車していた。
    特に、山陽新幹線岡山-博多開通前に於ける該線優等列車には現在の三原Ⅱ駅通過列車すら当然とされた時代だった。
    現在では優等旅客列車全滅に依り、旅客列車全停車。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650624

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br />  <br /><br />駅本屋<br />現駅本屋は、昭和20年(1945年)1月竣工の第2代駅本屋である。<br />簡略横行の大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)末期竣工に、当時としては緻密な構造様式を採用。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650624

    糸崎駅

      

    駅本屋
    現駅本屋は、昭和20年(1945年)1月竣工の第2代駅本屋である。
    簡略横行の大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)末期竣工に、当時としては緻密な構造様式を採用。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650624

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /> <br /><br />駅本屋<br />屋内<br />出改札口<br />嘗て該駅全盛期時代は左手に売店や立食うどん店もあり、木製ベンチには列車を待つ多数の乗客の姿があったとは思えない現在の凋落光景。<br />乗降客激減に依り、みどりの窓口廃止のみならずMV端末機設置も見送られた。<br />駅構内は国鉄時代に時間が止まった状態。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650624

    糸崎駅

     

    駅本屋
    屋内
    出改札口
    嘗て該駅全盛期時代は左手に売店や立食うどん店もあり、木製ベンチには列車を待つ多数の乗客の姿があったとは思えない現在の凋落光景。
    乗降客激減に依り、みどりの窓口廃止のみならずMV端末機設置も見送られた。
    駅構内は国鉄時代に時間が止まった状態。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650624

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋連絡通路

    糸崎駅



    旅客跨線橋連絡通路

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋連絡通路

    糸崎駅



    旅客跨線橋連絡通路

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋連絡通路<br />木製支柱

    糸崎駅



    旅客跨線橋連絡通路
    木製支柱

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />第2番旅客ホーム<br />現在でも広島方面行列車大半の始発駅である。

    糸崎駅



    第2番旅客ホーム
    現在でも広島方面行列車大半の始発駅である。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />古軌条支柱<br />頭部溶接形態から大東亜戦争後設置。

    糸崎駅



    ホーム上屋
    古軌条支柱
    頭部溶接形態から大東亜戦争後設置。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />古軌条支柱<br />頭部溶接形態から大東亜戦争後設置。

    糸崎駅



    ホーム上屋
    古軌条支柱
    頭部溶接形態から大東亜戦争後設置。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />神戸方末端部は打上されず低床状態。

    糸崎駅



    旅客第2番ホーム
    神戸方末端部は打上されず低床状態。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム

    糸崎駅



    旅客第2番ホーム

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />特別急行列車も停車した為にホーム有効長が長い。

    糸崎駅



    旅客第2番ホーム
    特別急行列車も停車した為にホーム有効長が長い。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱施設跡

    糸崎駅



    旧貨物取扱施設跡

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋<br />老朽化の為に現跨線橋に取替。

    糸崎駅



    旅客跨線橋
    老朽化の為に現跨線橋に取替。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />旧糸崎機関区跡<br />該駅は、旧関西支社・旧中国支社境界点だった事から蒸気機関車交換地で、昭和38年(1963年)4月1日附で蒸気機関車計28両が配置されていた。<br />C62型C622大型旅客用蒸気機関車も、隣接する三菱重工業三原製作所で新製直後に糸崎機関区に配置され、短期間試行終了後、名古屋、梅小路、宮原、広島第2、及び、下関機関区に配置転換された。<br />該機関区廃止後、機関庫、機関車転車台は撤去。<br />該機関区廃止後、現在は電車留置線。

    糸崎駅



    旧糸崎機関区跡
    該駅は、旧関西支社・旧中国支社境界点だった事から蒸気機関車交換地で、昭和38年(1963年)4月1日附で蒸気機関車計28両が配置されていた。
    C62型C622大型旅客用蒸気機関車も、隣接する三菱重工業三原製作所で新製直後に糸崎機関区に配置され、短期間試行終了後、名古屋、梅小路、宮原、広島第2、及び、下関機関区に配置転換された。
    該機関区廃止後、機関庫、機関車転車台は撤去。
    該機関区廃止後、現在は電車留置線。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />三菱重工業三原製作所連絡線跡<br />写真右手道路が嘗ての連絡線路跡。

    糸崎駅



    三菱重工業三原製作所連絡線跡
    写真右手道路が嘗ての連絡線路跡。

    糸崎駅

  • 糸崎駅<br /><br /><br /><br />三菱重工業三原製作所本所<br />該工場に於ける、蒸気機関車・電気機関車・ディーゼル機関車製造企業だった。

    糸崎駅



    三菱重工業三原製作所本所
    該工場に於ける、蒸気機関車・電気機関車・ディーゼル機関車製造企業だった。

  • 糸崎-三原間<br /><br /><br /><br />場内信号機<br />嘗ての糸崎駅繁栄時代と比較し信号機数が激減状態。

    糸崎-三原間



    場内信号機
    嘗ての糸崎駅繁栄時代と比較し信号機数が激減状態。

  • 糸崎-三原Ⅱ間<br /><br /><br /><br />東町(ひがしまち)踏切<br />西日本旅客鉄道岡山支社最西部<br />踏切警報器遮断器が岡山支社様式。<br />広島支社採用様式とは異なる。

    糸崎-三原Ⅱ間



    東町(ひがしまち)踏切
    西日本旅客鉄道岡山支社最西部
    踏切警報器遮断器が岡山支社様式。
    広島支社採用様式とは異なる。

  • 糸崎-三原Ⅱ間<br /><br /><br /><br />東町踏切<br />リゾート用気動車

    糸崎-三原Ⅱ間



    東町踏切
    リゾート用気動車

  • 糸崎-三原Ⅱ間<br /><br /><br /><br />支社境界点標<br />右 岡山支社<br />左 広島支社

    糸崎-三原Ⅱ間



    支社境界点標
    右 岡山支社
    左 広島支社

  • 糸崎-三原Ⅱ間<br /><br /><br /><br />三原駅高架橋<br />神戸方起点<br />三原駅付近は平成2年(1990年)6月26日附で高架化された。

    糸崎-三原Ⅱ間



    三原駅高架橋
    神戸方起点
    三原駅付近は平成2年(1990年)6月26日附で高架化された。

  • 三原Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治27年(1894年)6月10日開業である。<br />該駅は、三原Ⅰ(現 糸崎)-廣島間開通に伴い開業した。<br />該駅開設の為に旧三原城内堀跡を埋立活用したが、三原Ⅰ(現 糸崎)-三原Ⅱ間は旧城下町住宅密集地だった事から、土地収用には少なからず難儀が生じた。<br />昭和5年(1930年)3月19日附で三呉(現 呉)線三原Ⅱ-須波間開通と共に該駅は分岐駅となり、更に、昭和11年(1936年)11月15日附で三原市が成立し該駅は該市中心駅となるが、格式上では糸崎駅が上位たる時代が継続した。<br />初代駅本屋は老朽化が著しい事から改築が決定し、昭和26年(1951年)に第2代駅本屋に改築された。<br />然し、昭和40年代半ばまで、糸崎駅停車、三原Ⅱ駅通過列車が多数存在し、東京(呉線経由)広島間運転の寝台急行列車 安芸 号などは典型的存在だった。<br />然るに、三原Ⅱ-広島間直流1500V電化以降、糸崎駅通過列車が発生し、更に、昭和50年(1975年)3月10日附で山陽新幹線岡山-博多間延長と同時に該駅が新幹線停車駅になるに及び、該駅地位上位化した。<br />該駅は三原市中心部高架化に依り、<br />上り線 平成元年(1989年)9月28日<br />下り線 平成2年(1990年)6月26日<br />呉線  平成3年(1991年)7月29日<br />に高架線に切替えられ、最終切替と同時に駅本屋も改築され第3代駅本屋が成立した。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0800601

    三原Ⅱ駅



    該駅は、明治27年(1894年)6月10日開業である。
    該駅は、三原Ⅰ(現 糸崎)-廣島間開通に伴い開業した。
    該駅開設の為に旧三原城内堀跡を埋立活用したが、三原Ⅰ(現 糸崎)-三原Ⅱ間は旧城下町住宅密集地だった事から、土地収用には少なからず難儀が生じた。
    昭和5年(1930年)3月19日附で三呉(現 呉)線三原Ⅱ-須波間開通と共に該駅は分岐駅となり、更に、昭和11年(1936年)11月15日附で三原市が成立し該駅は該市中心駅となるが、格式上では糸崎駅が上位たる時代が継続した。
    初代駅本屋は老朽化が著しい事から改築が決定し、昭和26年(1951年)に第2代駅本屋に改築された。
    然し、昭和40年代半ばまで、糸崎駅停車、三原Ⅱ駅通過列車が多数存在し、東京(呉線経由)広島間運転の寝台急行列車 安芸 号などは典型的存在だった。
    然るに、三原Ⅱ-広島間直流1500V電化以降、糸崎駅通過列車が発生し、更に、昭和50年(1975年)3月10日附で山陽新幹線岡山-博多間延長と同時に該駅が新幹線停車駅になるに及び、該駅地位上位化した。
    該駅は三原市中心部高架化に依り、
    上り線 平成元年(1989年)9月28日
    下り線 平成2年(1990年)6月26日
    呉線  平成3年(1991年)7月29日
    に高架線に切替えられ、最終切替と同時に駅本屋も改築され第3代駅本屋が成立した。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0800601

    三原駅

  • 三原Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />旧駅旅客ホーム跡<br />現在は浮城広場。

    三原Ⅱ駅



    旧駅旅客ホーム跡
    現在は浮城広場。

    三原駅

  • 三原(みはら)Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />駅前噴水<br />旧地上時代該駅本屋跡地。

    三原(みはら)Ⅱ駅



    駅前噴水
    旧地上時代該駅本屋跡地。

    三原駅

  • 三原Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />寝台列車等々長大編成列車消滅に依り該ホーム両端側は使用停止。

    三原Ⅱ駅



    旅客第1番ホーム
    寝台列車等々長大編成列車消滅に依り該ホーム両端側は使用停止。

    三原駅

  • 三原Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム

    三原Ⅱ駅



    旅客第2番ホーム

    三原駅

  • 三原Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />西口<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0800601

    三原Ⅱ駅



    西口
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0800601

    三原駅

  • 三原Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0800601

    三原Ⅱ駅



    出改札口
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0800601

    三原駅

この旅行記のタグ

関連タグ

281いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (4)

開く

閉じる

  • yuriさん 2023/03/19 11:05:24
    前日記のコメントを拝見して。
    横浜臨海公園さん

    こんにちは。

    なるほど、自転車で回られているのですね。
    自転車で40kmですか~!横浜臨海公園さんは、本当にタフですね。

    それプラス、写真撮影の時間。
    私も旅先で写真を撮るのですが、結構時間取りますよね。
    一回の時間は短くても、回数が多いとそれなりにといいますか。
    でも、楽しいと時間はあっという間に過ぎますよね(^^)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2023/03/19 11:52:58
    拝復
    yuriさま、こんにちは。


    掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    但し、自転車で廻れるのは晴天時に限りまして、曇天雨天では現地を訪れているにも拘らず撮影中止の涙を何度体験させられているやら!!





    横浜臨海公園
  • 万歩計さん 2022/05/20 23:24:13
    先日乗ってきました
     横浜臨海公園さん 、こんばんわ。

     何時もご弊トラベルページにご訪問いただき、いいね!をありがとうございます。

     私は先日竹原から三原経由で倉敷まで呉線と山陽本線を乗り継いで、竹原、鞆の浦、倉敷と3つの重伝建を見てきました。黄色い電車は115系というのですね。色は異なりますが45年前の学生時代に、鹿児島本線でこの型の電車が走っていたような記憶があります。

     横浜臨海公園さんの旅行記を拝見していつも思うのですが、駅間で途中下車しては歩いて写真を撮るのですか。いいタイミングで撮ろうとしたら結構時間がかかるのでしょうね。

      万歩計

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/05/21 08:20:27
    拝復
    万歩計さま、おはようございます。

    拙稿にお立寄りと投票、そして掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    115系電車は国鉄時代に製作された車輛で、JR東日本やJR東海でも使用されておりましたが、現在ではJR西日本だけが使用しております。
    万歩計さまは、鹿児島本線で利用された由。それならば交直流型415系電車だったと思います。

    小生、旅行記作成では全部自転車と徒歩で廻っておりまして、1日で余り廻り過ぎると内容が雑になりかねないので、電動自転車で計40キロ、ママチャリで計15キロに限定しており、地方を廻る時は嫌な虫や蛇が出没する所が多い為に、晩秋から初春に限定され、然も天気が晴れていないとダメなので、今回は笠岡-福山間、岩国-由宇間は雨天だった事から、現地探索を断念せざるを得ませんでした。

    なかなか進まないのが難点です。

    此れからも宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園

横浜臨海公園さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP