岡山市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、明治24年(1891年)3月18日開業である。<br />該区間は概ね平坦区間で路線敷設工事も順調だったが、長岡(現 東岡山-百間川右岸間は全部沼地で、地固の為に多量の土砂を必要とし、百間川橋梁、及び、朝日川橋梁両架橋施工は難工事だった。<br />当時の我が国の長橋梁架橋技術は揺籃期であり、橋梁架橋に対し川身と直角度で施工が望ましいとされ、地図上で見ても両河川共に該原則に従い直角度で架橋されている。<br /><br />因みに、山陽鐵道岡山驛設置に対し、地元岡山全体が敷設に反対した為に、当時の岡山市郊外地たる現位置に落着いたとの記述文献を散見するが、該社線は岡山が終点では無く馬関(現 下関)に至る長大路線であり膨大な建設費が予定されていた事から、市街土地密集地に対する高額買収費用を捻出する余裕は困難で、態々岡山市中心地を通過する必要性も無く、故に、該論は土地伝説に過ぎずと云うのが妥当と解される。<br /><br /><br />内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)は、現在の岡山市東区西大寺出身の作家で、且つ、作家 夏目漱石(なつめ そうせき)(慶應3年(1867年)2月9日~大正5年(1916年)12月19日)門下の筆頭高弟子として知られた人物である。<br />百間の実家は地元 西大寺地域に於ける有数の資産家であり、幼少の頃は何不自由無き生活を送っていたが、百間が旧制縣立岡山第1中學校(現 岡山県立朝日高校)在学中に実家が破産し、それ以降、百間は生涯借金と切っても切れない生活を送った。<br />百間は幼少期より乗り物好きで、特に鐵道好きとして知られ 阿房列車 として発表された作品も多いが、数篇に、百間川、朝日川橋梁列車通過時の描写が、そこはかとなく描かれている。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第10番<br />播磨すぐれば焼物の<br />(はりま すぐれば やきものの)<br />名に聞く備前岡山の<br />(なにきく びぜん おかやまの)<br />これも名物吉備團子<br />(これも めいぶつ きびだんご)<br />津山に行くは乗りかへよ♪<br />(つやまに いくは のりかへよ)<br />歌詞内容から、明治31年(1898年)12月21日に中國鐵道岡山口(現 岡山)-津山(現 津山口)開通後の作詞である。<br /><br />第11番<br />水戸と金澤岡山と<br />(みとと かなざわ おかやまと)<br />天下に三つの公園地<br />(てんかに みっつの こうえんち)<br />後楽園も見てゆかん<br />(こうらくえんも みてゆかん)<br />國の話のみやげには♪<br />(くにの はなしの みやげには)<br />時間に追われ現地調査を略した為か、歌詞自体が各種文献引用に依る付焼刃感が否めない。<br /><br /><br />文部省は、明治33年(1900年)3月30日附で高等教育養成機関として岡山市に第6高等學校が創設され、初代校長として文部省官僚の 酒井佐保(さかい すけやす)(文久元年(1861年)11月23日~大正7年(1918年)12月28日)(明治33年(1900年)4月13日~明治43年(1910年)11月26日在任)が着任し、全国各地より帝國大學進学を目指す秀才が集結した。<br />現在の国立岡山大学である。<br /><br /><br />現在、岡山駅構内に於いて弁当販売を展開する三好野(みよしの)は、明治23年(1890年)3月19日附で創業した 三好野割烹料理旅館 が嚆矢である。<br />その後、山陽鐵道岡山延長建設工事時の貢献に依り、明治24年(1891年)4月25日附で該驛構内販売権を取得した。<br />明治34年(1901年)11月1日には該驛構内料理店が開業した。<br /><br /><br />陸軍省は日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)終結後に於ける次期軍備拡張計画の一環として師団増設を策定し、対象候補地を検討した結果、明治40年(1907年)に岡山市に第17師団設置を決定した。<br />岡山縣は陸軍省に依る新設師団設置対象候補地選定を知り、陸軍省に対し岡山市への師団設置確定時は必要地無償提供を上申していた事から、岡山驛裏、即ち、現在の 北区いずみ町、及び、津島地区に計275539、6㎡の土地を用意し、同年8月に土地造成を開始し造成用土砂類は京山付近から採取したが、該工事期間が極めて短期間設定だった事から突貫工事化し、途中、現場土砂崩壊の為に該工事人夫計17名圧死事故も発生した。<br />該師団は同年11月17日附で開設され、初代師団長に 陸軍中将 一戸兵衛(いちのへ ひょうえ)(安政2年(1855年)8月2日~昭和6年(1931年)9月2日)(明治40年(1907年)11月13日~明治44年(1911年)9月6日在任)、初代参謀長に 陸軍歩兵大佐 浄法寺五郎(じょうほうじ ごろう)(慶應元年(1865年)4月28日~昭和13年(1938年)1月20日)(明治40年(1907年)11月13日~明治43年(1910年)7月4日在任)が任命着任した。<br />因みに、岡山縣が新師団誘致に要した不動産関係費用は、土地購入費計2592233円、造営物建築費計330168円と算定された。<br />該師団開設に鑑み、該師団専用貨物取扱施設として現在の北区国体町、及び、南方5丁目付近に軍用貨物取扱側線が大量に敷設された。<br /><br /><br />明治43年(1910年)11月帝國陸軍秋季特別大演習は岡山縣下に於いて実施の為に、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、帝國陸軍大演習大元帥統裁の為に御召列車が運転された。<br />御召列車の編成は、<br />ホロハニ5556 + ホロ5555 + ホイロ5350 + 御料車6号 + ホイロ5351 + ホイ5300 + ホロハニ5995<br />だった。<br />それ迄の御召列車では供奉車専用車輌が無く、適当に営業用車輌を充当していた為に、編成美も統一感も皆無で、編成美はおろか見た目も凸凹ガタガタであり、御料車6号新造と同時に供奉専用車輌も初めて新製され該運転が初運転だった。<br />因みに、御料車6号とは現在愛知県明治村で保存一般公開されている車輌である。<br /><br />東軍 陸軍大将 西 寛二郎(にし かんじろう)(弘化3年(1846年)4月5日~明治45年(1912年)2月28日)<br />第10師団 野戦重砲兵第1大隊 後備混成第9旅団<br />西軍 陸軍大将 伏見宮貞愛(ふしみのみや さだなる)親王(安政5年(1858年)6月9日~大正12年(1923年)2月4日)<br />第5師団 第17師団<br /><br />10日<br />新橋Ⅰ(10時30分)→静岡(16時00分)静岡御用邸<br />途中 國府津 山北 沼津 停車<br />11日<br />静岡 ( 9時25分)→名古屋(14時40分)名古屋離宮<br />途中 濱松 豊橋 停車<br />12日<br />名古屋( 7時20分)→岡山(16時55分)岡山後楽園延養亭<br />途中 大垣 米原 馬場(現 膳所) 京都 須磨 姫路 停車<br />大駅たる、大阪、及び、神戸を通過したのは、当時阪神地域に於いて真性コレラが蔓延猖獗を極め、皇室への感染防止を理由に該処置が執られた。<br />13日<br />岡山 ( 9時20分) →倉敷<br />倉敷             →岡山<br />都窪郡菅生村西岡(現 倉敷市菅生町)<br />14日<br />岡山 ( 8時55分) →中國鐵道吉備津<br />中國鐵道吉備津   →岡山<br />都窪郡加茂村西村(現 岡山市北区加茂町)<br />15日<br />岡山 ( 7時30分) →西大寺Ⅰ(現 東岡山)<br />西大寺Ⅰ(現 東岡山) →岡山<br />上道郡古都村宍甘(現 岡山市東区宍甘(しじかい))<br />16日<br />岡山 ( 7時25分)→中國鐵道吉備津<br />中國鐵道吉備津   →岡山<br />都窪郡加茂村西村(現 岡山市北区加茂町)<br />17日<br />第17師団練兵場 練兵式<br />因みに、該観兵式閲兵中に北から強風が吹き荒れ、明治天皇の軍帽が吹き飛ばされるハプニングが発生した。<br />岡山市下石井 専売局岡山製造所建設予定地 賜餞場<br />招待者計2746名<br />該地は、専売局移転後、地元カバヤ製菓に払下げられ本社工場となり、該社撤退後はイオンモール岡山が設置された。<br />18日<br />岡山 ( 7時30分)→名古屋(17時25分)名古屋離宮<br />途中 姫路 須磨 京都 馬場(現 膳所)米原 大垣 停車<br />神戸、及び、大阪通過理由は往路に同じ。<br />19日<br />名古屋( 8時50分)→静岡(14時24分)静岡御用邸<br />途中 豊橋 濱松 停車<br />20日<br />静岡 ( 8時40分)→新橋Ⅰ(14時30分)<br />途中 沼津 山北 國府津 停車<br /><br /><br />岡山驛 対 岡山市中心地間移動は、該驛開業以来、長らく人力車、若しくは、乗合馬車利用が一般的だったが、明治45年(1912年)5月5日附で岡山電気軌道に依り岡山停車場前-城下-後楽園前間に路面電車が開通した。<br /><br /><br />該区間複線化は、<br /> 西大寺(現 東岡山)-中井間 大正10年(1921年) 3月25日<br /> 中井  -  岡山間       大正11年(1922年)10月28日<br />である。<br />中井-岡山間複線化に1年以上要したのは、百問川、及び、朝日川橋梁で新橋梁竣工後、一時的に新橋梁切替を実施し、既成橋梁錬鐡鈑桁を鋼鐡鈑桁に交換し、更に、橋脚強化工事施工に時間を要した為である。<br /><br /><br />西大寺Ⅰ(現 東岡山)-岡山間は7.3km在り、双信式閉塞式が使用されていたが、該区間を2分割させる事で列車増発可能とする為に、大正12年(1923年)7月1日附で中井(なかい)信号所が設置された。<br /><br /><br />第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、何かと岡山とは関係深き帝だった。<br /><br />昭和5年(1930年)11月、帝國陸軍秋季特別大演習統裁は岡山広島両縣実施で帝國陸軍大元帥統裁の為に御召列車が運転された。<br />御召列車編成は原則的に、<br />230 + 120 + 御料車12号 + 121 + 131<br />が使用されたが、16日に限り明治43年(1910年)10月製造の 御料車6号 が使用された。<br />此れは、私鉄たる中國鐵道線内の線路規格が脆弱な上に建築限界支障の為に、大型木造御料車12号は入線不可能で、御料車12号と比較し車幅が約150mm細い中型木造御料車6号を使用せざるを得なかった為である。<br /><br />東軍 陸軍大将 井上幾太郎(いのうえ いくたろう)(明治5年(1872年)2月18日~昭和40年(1965年)5月7日)<br />第5師団 歩兵第101旅団<br />西軍 陸軍大将 本庄 繁(ほんじょう しげる)(明治9年(1876年)5月10日~昭和20年(1945年)11月20日)<br />第10師団<br /><br />12日<br />東京( 9時15分) →名古屋(16時05分)名古屋偕行社行在所<br />途中 國府津 山北 沼津 静岡 濱松 豊橋 停車<br />従来であれば名古屋に於ける宿泊は名古屋離宮を利用する処、当該離宮は同年12月11日附で廃止され宮内省より名古屋市下賜が決定し建物築庭修復工事中だった事から、敢えて陸軍将校倶楽部たる偕行社が利用された。<br />13日<br />名古屋( 9時05分)→岡山(16時05分) 岡山偕楽園鶴鳴館大本営兼食堂 延養亭行在所<br />途中 大垣 米原 大津 京都 大阪 神戸 姫路 停車<br />14日<br />岡山( 8時50分) →福山( 9時55分)<br />福山(14時55分) →岡山(15時52分)<br />深安郡上岩成村(現 福山市上岩成町)<br />昭和天皇は10時30分頃に正戸山野外統監部本部に到着され、帝國陸軍大元帥として両軍大演習を統裁中、10時40分頃に第27代内閣総理大臣 濱口雄幸(はまぐち おさち)(明治3年(1870年)5月1日~昭和6年(1931年)8月26日)内閣(昭和4年(1929年)7月2日~昭和6年(1931年)4月14日組閣)第47代内務大臣  安達謙蔵(あだち けんぞう)(元治元年(1864年)11月22日~昭和23年(1948年)8月2日)(昭和4年(1929年)7月2日~昭和6年(1931年)4月14日在任)より昭和天皇に対し緊急内奏があり、当日9時58分頃、濱口総理が当該大演習陪観の為に特別急行 燕 号 に乗車すべく東京驛旅客ホーム最後尾1等展望車付近歩行中、暴漢に拳銃で狙撃され負傷の旨を奏上した。<br />昭和天皇は10時50分より、退役陸軍歩兵中尉 坂本龍作に依る 備後歴史ノ一部ニ就テ なる講演を拝聴。<br />該講演終了後、引続き大演習統裁を継続された。<br />15日<br />岡山( 9時40分) →金光(10時15分)<br />金光(11時25分) →岡山(11時56分)<br />浅口郡金光町八重野総監部<br />16日<br />岡山( 6時50分) →中國鐵道高松稲荷( 7時13分)<br />中國鐡道高松稲荷(15時40分) →岡山(16時05分)<br />吉備郡服部村長良野外統監部(現 倉敷市服部町)<br />17日<br />練兵場に於いて将兵行進閲兵 騎兵第21聯隊練兵場跡地に於いて関係者に対し賜餞場饗応<br />18日<br />当該大演習終了に依り、0時を以って大本営は行在所となる。<br />19日<br />岡山(15時30分) →宇野(16時20分)御召艦 巡洋戦艦 霧島 艦内<br />宇野到着後、鐵道省宇高連絡船桟橋より艦載艇で外荒島沖3浬仮泊 御召艦 巡洋戦艦 霧島 艦内に入御。<br />該艦内に於いて、<br />第14代海軍大臣 海軍大将 安保清種(あぼ きよかず)(明治3年(1870年)11月8日~昭和23年(1948年)6月8日)(昭和5年(1930年)10月3日~昭和6年(1931年)4月24日在任)、第21代呉鎮守府司令長官 海軍大将 野村吉三郎(のむら きちさぶろう)(明治10年(1877年)12月16日~昭和39年(1964年)5月8日)(昭和5年(1930年)6月11日~昭和6年(1931年)12月1日在任)海軍親補職士官を単独謁見。<br />第30駆逐隊司令 海軍大佐 高橋忠治(たかはし ちゅうじ)(明治18年(1885年)10月10日~昭和39年(1964年)1月24日)、海軍大臣先任秘書官 海軍中佐 高木惣吉(たかき そうきち)(明治26年(1896年)11月10日~昭和54年(1979年)7月27日)(昭和4年(1929年)7月5日~昭和6年(1931年)6月27日在任)海軍勅任官士官を列立謁見。<br />20日<br />宇野沖 8時30分出航<br />21日<br />帝國海軍横須賀軍港沖13時30分入港<br />御召鑑 霧島 艦載艇に移乗され 逸見(へみ)海軍桟橋接岸上陸<br />横須賀(14時40分)→東京(15時45分)<br /><br /><br />瀬戸-岡山間は、昭和8年(1933年)5月25日附で自動閉塞式導入に依り中井信号所は不要施設となり翌26日附で廃止された。<br /><br /><br />昭和9年(1934年)9月21日早朝、大阪府、京都府、滋賀縣に甚大被害を齎した 室戸(むろと)台風は、岡山縣下に於いても亦例外的では無く重大被害を発生させた。<br />当時、岡山測候所に於いて、気圧972.9hPa、風速16.7m、最大雨量66.8mmを観測し、岡山県内に於いて死者行方不明者計151名、全壊家屋計3865戸、浸水家屋約計60000戸の被害が発生し、最大風速こそ月並だったが、相当雨量の関係で県内各地、旭川上中流域に於いて集中豪雨状態から各地で土砂崩壊が発生した為に大量の樹木群が該河川に流れ込み、川流れが高速化した事で流木群が下流域で破壊材化して堤防を破壊決壊させ、決壊箇所より次々と浸入した木材群が建築物を破壊させた。<br />他方、該線朝日川橋梁に押寄せた流木群は、洗掘状態となった該橋梁橋脚を次々と直撃し、此の為に、該橋梁上り線用橋脚第4~6号、及び、該橋梁下り線用橋脚第9号が破壊され鈑桁落下被害が発生した。<br />該台風通過後、鐵道省、大阪鐵道局、岡山運転保線事務所に依る応急復旧工事として木組橋桁支保工事が施工されたが、橋脚再構築恒久工事を要する事から、10月2日附で神戸起点140.0Km地点に百間川仮信号所を設置し百間川-岡山間を単線運転に依る運転確保に依り復旧工事を急ぎ、該工事が完成した昭和10年(1935年)1月31日より複線運転が可能になった事から、該仮信号場は不要施設となり翌2月1日附で廃止された。<br /><br /><br />昭和10年(1935年)8月1日附官制改正に拠り、門司鐡道局内より廣島鐵道局が分離独立した事を受け、明石(操)-糸崎間は従来の大阪鐵道局管轄から廣島鐵道局管轄に変更された。<br />但し、内務陸海軍行政側から見れば牽強付会の感が強く、管轄変更直後から鐵道省に対し再考を求められる状態だった。<br /><br /><br />昭和12年(1937年)7月29日2時34分頃、岡山驛構内に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、東京発下関行特別急行第1列車 富士号 C53型蒸気機関車C5362(梅小路機関區所属)牽引客車11両編成は、該驛旅客第1番ホーム1番線到着3分30秒遅延、該驛出発4分00秒遅延し出発起動直後、後続、臨時軍用第1101列車 C51型蒸気機関車C5177(広島機関區所属)牽引客車8両編成に追突された。<br />該驛付近は昭和8年(1933年)5月25日附で自動閉塞式が導入されていたが、事故当日は該驛構内信号工事の為に手動式切替が実施され、担当東部信号取扱所信号掛は出勤時点呼に於いて当務驛長より通達を受けていたにも拘らず、第1列車到着直後に暑気意識朦朧が原因で居眠状態となり、本来、信号標示を進行から停止にすべき処、失念し復位させなかった事から、第1101列車機関士は当該遠方信号機、及び、場内信号機進行現示を確認し、該驛停車は通過に変更されたものと解し減速せず時速約62kmで該驛1番線に進入中、該驛構内に於いて第1101列車機関助士が前方に第1列車尾燈を発見し機関士に通報、該機関士は直ちに非常制動を動作させたが間合わず追突事故に至ったものである。<br />該追突事故に依り、第1列車最後部11号車1等展望車 スイテ37010 は展望室部分3.8m部分に食込大破、10号車1等寝台車 マイネ37130 は台枠小損、他1~9号車客車連結器に損傷被害が発生した。<br />第1101列車牽引C5177蒸気機関車前部中破、1号車 ナハフ24333 は該列車牽引蒸気機関車炭水車に約7.4m食込大破、2号車スハ、3号車オハニ中破、4~8号車客車小損被害が発生した。<br />該事故に依り、旅客3名即死 重傷9名(内3名後死亡) 軽傷50名。<br />職員6名、食堂車従業員2名軽傷。<br />因みに、旅客死亡者重傷者は全員木造車輌 ナハフ24333 乗客である。<br />復旧 1番線11時55分、2番線10時40分<br />鐵道省は該事故に鑑み、死亡旅客に対し慰謝金2800~6500円、負傷旅客に対し見舞金20~550円を支払った。<br />当該信号掛は逮捕起訴され、一審は禁固7箇月、二審は控訴棄却、上告審は上訴棄却の判決が下った。<br />大破した1等展望車 スイテ37010 は事故廃車処置が執行されても不自然では無い大破壊状態だったが、鐵道省は該車輌復旧を決定し、岡山から東京大井工場に回送し修理復旧された。<br /><br /><br />昭和17年(1942年)9月11日附官制改正に拠り、従来の運転保線事務所を統合させ管理部制が成立し 岡山管理部は姫路-糸崎間管轄となる。<br />更に、昭和19年(1944年)10月17日附官制改正に拠り、大阪鐵道局内に姫路管理部が設置され、西明石-上郡間は該管理部管轄に変更された。<br /><br /><br />中國鐵道岡山-津山間、及び、岡山-西総社(現 総社)間は、昭和19年(1944年)第84回帝國議会公債発行法案可決で2月15日附法律第85号公布施行に拠り、陽陰連絡たるを理由に6月1日附で政府買収され、国有化後は各々、津山線、吉備線と命名されたが、津山線法界院駅周辺に陸軍施設が展開していた事も買収理由と成り得た。<br />因みに、該社買収時に、該社不動産部門、及び、自動車線部門は非買収対象となり、現在、中鉄バスとして岡山市周辺を展開するバス会社として存続するが、若し、買収時点で自動車線部門も買収されていれば、岡山市内を つばめ のマークを着け、岡山市内自動車線運行はJR西日本系列自動車線で独占状態となったものと思われる。<br /><br /><br />岡山驛貨物取扱業務は、一般貨物業務取扱に加え軍用貨物業務取扱が在り、更に、四国発着貨車仕分業務も存在した事から、該驛構内施設が甚だ不足気味だったが、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る平時体制から戦時体制移行に依る軍用貨物取扱業務が激増し、特に伯備線沿線で産出される石灰石輸送は戦争遂行上に於いて不可欠な物資であり、更に大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発以降は貨車仕分自体が困難化し滞留貨車が続出する事態となった。<br />鐵道省は、岡山-庭瀬間に貨車専用仕分操車場設置を決定し、該操車場は昭和20年(1945年)5月1日附で竣工した。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、<br />昭和20年(1945年)<br /> 6月29日 第20航空軍 第58航空隊 B29戦略爆撃機計138機 岡山大空襲<br /> 警戒警報発令 23時45分<br /> 空襲警報発令 23時55分<br /> 空襲開始    2時43分<br /> 空襲警報解除  4時07分<br /> 警戒警報解除  4時15分<br />岡山驛<br />    西口驛舎、上下旅客ホーム上屋、東西信号取扱所 全焼<br /> 工事部用品庫、検車區、職員官舎28戸 全焼<br /> 岡山機関區 半焼<br />    岡山管理部庁舎 全焼 <br />       死者 旅客5名 職員5名 重傷者旅客14名以上 職員重軽傷者数不明。<br />    開通 30日 下り線6時55分 上り線9時00分<br />岡山驛構内被災車両<br />  オロ     30    22(廣ヲカ)<br />  オロ     40    20(廣ヒロ)<br />  オハフ30 121(大ヒメ)<br />  オハ 31 389(廣ヲカ)<br />  オハ 31 408(廣ヲカ)<br />  オハ 31 423(廣セキ)<br />  オハ 31 436(廣ヲカ)<br />  オハ 31 437(廣ヲカ)<br />  スハ 32 625(廣ヲカ)<br />  スハ 32 648(廣ヲカ)<br />  オハフ33 122(廣ヲカ)<br />  オハフ33 195(名カキ)<br />  スハフ35  48(廣ヲカ)<br /> 以上、昭和20年(1945年)7月修復。<br />  スロ 34   3(廣ヒロ)B<br />  スロハ34  21(門ハキ)D<br />  オハ 31 336(大ヒメ)D<br />  オハ 31 350(大フチ)D<br />  オハ 31 371(大ヒメ)D<br />  スハフ32  15(東シナ)A<br />  スハフ32 102(大ミハソ)C<br />  スハフ32 229(廣ヒロ)C<br />  スハフ32 298(廣ヒロ)A<br />  スハフ32 302(廣イト)B<br />  スハフ32 639(廣ヲカ)D<br />  スハ 32 223(大ヒメ)D<br />  スハ 32 409(名ハツ)A<br />  スハ 32 611(廣ヲカ)D<br />  オハ 34  30(大ミハソ)B<br />  オハフ33  40(東シナ)A<br />  オハフ33 117(廣ヒロ)B<br />  オハフ33 315(廣ヒロ)A<br />  スハフ35  42(廣ヲカ)D<br />  オハ 35   5(大ミハソ)D<br />  オハ 35  91(東シナ)D<br />  オハ 35 379(大カメ)A<br />  オハ 40  51(廣ヒロ)A<br />  マハ 47 106(廣ヒロ)D<br />  マニ 31  55(東シナ)D<br />  マニ 32  22(大キト)D<br /> A 昭和21年(1946年)1月19日附 戦災廃車<br /> B 昭和21年(1946年)3月31日附 戦災廃車<br /> C 昭和21年(1946年)4月17日附 戦災廃車<br /> D 昭和22年(1947年)1月14日附 戦災廃車<br />    他、形式番号不明木造客車計4両被災全焼。<br />廣島鐵道局岡山管理部は、該空襲被災者に対し7月3日まで被災者無料乗車票交付、4日以降は疎開者と決定をした事から、被災者側から見れば疎開者扱となれば運賃半額本人負担となる為に、該公示を知った被災者が岡山驛に殺到した。<br />岡山驛被災者乗車票交付枚数は、<br /> 6月29日 3513枚<br />   30日 4000枚<br /> 7月 1日 2747枚<br />    2日 2100枚<br />    3日 2991枚<br /> 総計   15351枚<br />だった。<br /> <br /> 7月24日 第20航空軍 第73航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃計250機<br /> 警戒警報発令 23時00分<br /> 空襲警報発令 23時32分<br /> 空襲開始    0時25分<br /> 空襲警報解除  1時36分<br /> 警戒警報解除  2時01分<br />西大寺Ⅰ(現 東岡山)驛<br />      驛本屋機銃掃射銃撃小損<br />   岡山機関區<br />  職員更衣室、講習室 全焼<br /> 線路破壊計5箇所計70m 枕木破壊計35本<br /> 開通 上り線19時45分 下り線25日9時00分<br />西大寺Ⅰ(現 東岡山)驛構内被災車両<br />  オロ 40 201(広ヒロ)小損<br />  オハ       35 544(大ミハソ)小損<br /> 以上、昭和20年(1945年)8月修復。<br /><br />因みに、該線に於いて戦災被害を原因とする不通時間は計31回678時間で、他線と比較し長時間不通理由として、昭和20年(1945年)8月6日に廣島市に投下された原子爆弾被害に依り、廣島驛構内壊滅、横川驛全滅、及び、廣島-横川間猿候川橋梁上に於ける下り第377貨物列車貨車脱線転覆復旧に時間を要した結果である。<br /><br /><br />該区間内に於けるRTO設置駅は、<br /> 岡山駅<br />   昭和20年(1945年)10月22日~昭和27年(1952年) 3月31日<br />である。<br /><br /><br />昭和天皇第4女 厚子(あつこ)内親王(昭和6年(1931年)3月17日~    )は、昭和27年(1952年)10月10日附で旧岡山藩主末裔たる池田隆政(いけだ たかまさ)(大正15年(1926年)10月21日~平成21年(2012年)7月21日)侯に降嫁され婚姻後は岡山市内に在住された事から、昭和天皇香淳皇后両陛下の岡山御立寄機会が増える。<br />昭和28年(1953年)10月 第8回国民体育大会は四国で開催された為に、当該御召列車が運転された。<br />19日<br />東京( 9時10分)→京都(16時15分)京都大宮御所<br />途中 沼津 静岡 浜松 名古屋 大垣 米原 停車<br />20日<br />京都( 9時05分)→岡山(12時25分)後楽園鶴鳴館<br />21日<br />岡山→宇野間自動車移動 日本国有鉄道宇高連絡船 紫雲丸乗船<br />高松桟橋→松山              久松邸迎賓館<br /> (中略)<br />26日<br />高松桟橋→宇野 日本国有鉄道宇高連絡船 紫雲丸乗船 後楽園鶴鳴館<br />27日<br />岡山(13時30分)→京都(17時00分) 京都大宮御所<br />途中 姫路 神戸 大阪 停車<br />28日<br />京都( 9時00分)→東京(16時40分)<br />途中 米原 岐阜 名古屋 浜松 静岡 沼津 停車<br /><br />昭和31年(1956年)4月 第7回国土緑化大会は山口県開催時に、当該御召列車が運転された。<br />(前略)<br /> 9日<br />光(13時45分) →岡山(17時50分)後楽園鶴鳴館<br />途中 岩国 広島 糸崎 停車<br /><br /><br />該区間は、昭和35年(1960年)10月1日附で直流1500V電化された。<br /><br /><br />岡山市中心部は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)6月29日の空襲に依り壊滅的被害が発生した。<br />戦争終結後、該市に於いて戦災都市復興計画が浮上時に駅前通整備計画が策定されたが、道路拡張整備予定地に戦前建築の戦災焼損復旧鉄骨鉄筋コンクリート建築物が複数存在し、駅前のメインストリートながら道路幅は狭隘で屈曲が存在する等々、支障物が多数残置し手付かず状態だった。<br />他方、昭和37年(1962年)第17回秋季国民体育大会は岡山県開催に決定した事から、該開催決定を受け昭和33年(1958年)6月に岡山県主導に依る岡山駅前再開発計画が決定し、当該支障建築物撤去と県道42号線、県道27号線として道路整備が進行し、昭和37年(1962年)9月に竣工した。<br /><br /><br />昭和37年(1962年)10月 第17回国民体育大会は岡山県で開催された為に、当該御召列車が運転された。<br />19日<br />原宿( 9時00分)→京都(16時00分)京都大宮御所<br />途中 沼津 静岡 浜松 名古屋 米原 停車<br />20日<br />京都(12時20分)→岡山(15時25分)延養亭<br />途中 大阪 神戸 姫路 停車<br />21日<br />岡山市内自動車移動<br />22日<br />法界院→津山<br />岡山県酪農試験場、津山市営グランド サッカー会場<br />津山→岡山<br />23日<br />岡山→宇野                 下電ホテル<br />児島市営競技場 クレー射撃<br />24日<br />倉敷→鴨方<br />中国電力水島火力発電所、東京大学東京天文台岡山物理研究所<br />鴨方→岡山                 延養亭<br />25日<br />岡山(10時30分)→名古屋(15時30分)名古屋観光ホテル<br />途中 姫路 神戸 大阪 京都 岐阜 停車<br />26日<br />名古屋(11時30分)→原宿(16時30分)<br />途中 浜松 静岡 沼津 停車<br /><br /><br />昭和香淳両陛下は、池田厚子さま御見舞の為に、昭和38年(1963年)9月に岡山を訪れたが、該訪問時に両陛下は初めて一般車輌に御乗車になられた。<br />16日<br />東京羽田-大阪伊丹間 日本航空特別機<br />大阪(13時40分)→岡山(15時54分)特別急行 みどり 号 1等車<br />基本編成門司方に キハ82+キロ80+キロ80 3両を増結し計9両編成で運転。<br />17日<br />岡山(13時16分)→大阪(14時25分)特別急行 第2富士号 1等特別室<br />大阪伊丹-東京羽田間 日本航空特別機<br /><br /><br />昭和38年(1963年)10月 第18回国民体育大会は山口県で開催された為に、当該御召列車が運転された。<br />24日<br />原宿( 9時40分)→神戸(17時10分)神戸オリエンタルホテル<br />途中 静岡 浜松 名古屋 京都 大阪 停車<br />25日<br />神戸( 9時45分)→岡山(11時55分)延養亭<br />途中 姫路 停車<br />26日<br />岡山(10時20分)→小郡(現 新山口)(17時25分)<br />以下略<br /><br /><br />昭和40年(1965年)5月 第16回国土緑化大会は鳥取県開催時に、当該御召列車が運転された。<br /> 7日<br />東京   →     新大阪<br />新大阪  →     岡山 延養亭<br />岡山(12時30分)→米子(16時00分)<br />以下略<br /><br /><br />昭和46年(1971年)4月 第22回国土緑化大会は島根県開催時に、当該御召列車が運転された。<br />略<br />21日<br />松江        →岡山 延養亭<br />途中 米子 生山 新見 停車<br />22日<br />岡山→新大阪→東京<br /><br /><br />岡山市東部地域では東岡山-岡山間7.3Kmに途中駅が存在せず、高島地区、及び、藤原地区に住宅団地が形成された事で、岡山市に対し地元住民から新駅設置に関する要望が出された事から、該市は日本国有鉄道岡山鉄道管理局に対し新駅設置請願を行った処、該新駅設置費用全額地元負担を条件に新駅設置が認められ、昭和60年(1985年)3月14日附で高島駅が開業した。<br /><br /><br />該駅開業に鑑み、地元 就実大学は岡山市中区に所在するが、岡山市中心街に至近地でありながら、交通不便な地であり、該校職員学生生徒の遅刻者問題は該大学にとって長年に亘る懸案事項だった。<br />然るに、該駅開業を直前に、該大学 対 西日本旅客鉄道 間に深刻な対立を生じる事態へと発展した。<br />即ち、該大学は土地提供、及び、駅本屋施設全体に対し全額寄贈した事から新駅名に該大学名が盛込まれるものと信じていたにも拘らず、該社側は所在地名たる西川原を主張し双方が対立する事となった。<br />同じ旅客鉄道でも、九州旅客鉄道は駅名に大学名活用例は多いが、西日本旅客鉄道管内に於いて、大学名が駅名に盛込例は山陰本線鳥取大学前、及び、片町線同志社大前が存在し、且つ、該大学側が該駅を前例に命名理由と成り得るとした処、該社側説明に依れば、該大学名は有名大学たるも貴大学は地方私立大学故に利益行為に該当と無神経な回答した為に、該大学側は態度を硬化させた。<br />結局、該駅正式登録名称は西川原とし、地元駅案内等々では、西川原・就実駅とす事で妥協が成立し平成20年(2008年)3月15日開業した。<br /><br /><br />平成30年(2018年)7月豪雨は、近畿西部地区、及び、中国四国地方に甚大被害を与えた。<br />即ち、6月28日から連日降雨は7月6日になり記録的集中豪雨状態となり、当該各地に於いて観測史上最大規模の雨量を記録した。<br />此の為に、当該記録的豪雨被害の為に該区間各地に於いて土砂崩壊、築堤崩壊、河川氾濫等々被害が続出し、山陽本線は7月6日より相生-下関Ⅱ間が不通になった。<br />復旧は、<br /> 瀬戸-岡山間 7月 9日<br />である。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />朝日川下り線橋梁上の115系普通電車<br /><br /><br /><br /><br /><br />山陽本線歴史的痕跡探訪記<br />~神戸-須磨間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11342842<br />~神戸兵庫臨港線編~<br /><br />~須磨-西明石編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11347902<br />~西明石-加古川間編 明治頌歌~<br /><br />~加古川-姫路間編 明治頌歌~<br /><br />~姫路-網干間編 明治頌歌~<br /><br />~網干-相生間編 明治頌歌~<br /><br />~相生-上郡間編 明治頌歌~<br /><br />~上郡-三石間編 明治頌歌~<br /><br />~三石-和気間編 明治頌歌~<br /><br />~和気-瀬戸間編 明治頌歌~<br /><br />~瀬戸-東岡山間編 明治頌歌~<br /><br />~東岡山-岡山間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11565121<br />~岡山-倉敷間編 明治頌歌~<br /><br />~倉敷-新倉敷間編 明治頌歌~<br /><br />~新倉敷-笠岡間編 明治頌歌~<br /><br />~笠岡-福山間編 明治頌歌~<br /><br />~福山-尾道間編 明治頌歌~<br /><br />~尾道-三原Ⅱ間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11717471<br />~三原Ⅱ-河内間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11693199<br />~河内-西條間編 明治頌歌~<br /><br />~西條-瀬野間編 明治頌歌~<br /><br />~瀬野-海田市間編 明治頌歌~<br /><br />~海田市-廣島間編 明治頌歌~<br /><br />~廣島-宮島口間編 明治頌歌~<br /><br />~宮島口-岩國間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11694390<br />~岩國-由宇間編 明治頌歌~<br /><br />~由宇-柳井間編 明治頌歌~<br /><br />~柳井-光間編 明治頌歌~<br /><br />~光-徳山間編 明治頌歌~<br /><br />~徳山-防府間編 明治頌歌~<br /><br />~防府-新山口間編 明治頌歌~<br /><br />~新山口-宇部間編 明治頌歌~<br /><br />~宇部-厚狭間編 明治頌歌~<br /><br />~厚狭-長府間編 明治頌歌~<br /><br />~長府-下関Ⅱ間編 明治頌歌<br /><br />~下関Ⅱ-門司Ⅱ間編 明治頌歌~<br />

山陽本線歴史的痕跡探訪記 ~東岡山-岡山間編 明治頌歌~

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2022/04/08 - 2022/04/08

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治24年(1891年)3月18日開業である。
該区間は概ね平坦区間で路線敷設工事も順調だったが、長岡(現 東岡山-百間川右岸間は全部沼地で、地固の為に多量の土砂を必要とし、百間川橋梁、及び、朝日川橋梁両架橋施工は難工事だった。
当時の我が国の長橋梁架橋技術は揺籃期であり、橋梁架橋に対し川身と直角度で施工が望ましいとされ、地図上で見ても両河川共に該原則に従い直角度で架橋されている。

因みに、山陽鐵道岡山驛設置に対し、地元岡山全体が敷設に反対した為に、当時の岡山市郊外地たる現位置に落着いたとの記述文献を散見するが、該社線は岡山が終点では無く馬関(現 下関)に至る長大路線であり膨大な建設費が予定されていた事から、市街土地密集地に対する高額買収費用を捻出する余裕は困難で、態々岡山市中心地を通過する必要性も無く、故に、該論は土地伝説に過ぎずと云うのが妥当と解される。


内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)は、現在の岡山市東区西大寺出身の作家で、且つ、作家 夏目漱石(なつめ そうせき)(慶應3年(1867年)2月9日~大正5年(1916年)12月19日)門下の筆頭高弟子として知られた人物である。
百間の実家は地元 西大寺地域に於ける有数の資産家であり、幼少の頃は何不自由無き生活を送っていたが、百間が旧制縣立岡山第1中學校(現 岡山県立朝日高校)在学中に実家が破産し、それ以降、百間は生涯借金と切っても切れない生活を送った。
百間は幼少期より乗り物好きで、特に鐵道好きとして知られ 阿房列車 として発表された作品も多いが、数篇に、百間川、朝日川橋梁列車通過時の描写が、そこはかとなく描かれている。


鐵道唱歌
第10番
播磨すぐれば焼物の
(はりま すぐれば やきものの)
名に聞く備前岡山の
(なにきく びぜん おかやまの)
これも名物吉備團子
(これも めいぶつ きびだんご)
津山に行くは乗りかへよ♪
(つやまに いくは のりかへよ)
歌詞内容から、明治31年(1898年)12月21日に中國鐵道岡山口(現 岡山)-津山(現 津山口)開通後の作詞である。

第11番
水戸と金澤岡山と
(みとと かなざわ おかやまと)
天下に三つの公園地
(てんかに みっつの こうえんち)
後楽園も見てゆかん
(こうらくえんも みてゆかん)
國の話のみやげには♪
(くにの はなしの みやげには)
時間に追われ現地調査を略した為か、歌詞自体が各種文献引用に依る付焼刃感が否めない。


文部省は、明治33年(1900年)3月30日附で高等教育養成機関として岡山市に第6高等學校が創設され、初代校長として文部省官僚の 酒井佐保(さかい すけやす)(文久元年(1861年)11月23日~大正7年(1918年)12月28日)(明治33年(1900年)4月13日~明治43年(1910年)11月26日在任)が着任し、全国各地より帝國大學進学を目指す秀才が集結した。
現在の国立岡山大学である。


現在、岡山駅構内に於いて弁当販売を展開する三好野(みよしの)は、明治23年(1890年)3月19日附で創業した 三好野割烹料理旅館 が嚆矢である。
その後、山陽鐵道岡山延長建設工事時の貢献に依り、明治24年(1891年)4月25日附で該驛構内販売権を取得した。
明治34年(1901年)11月1日には該驛構内料理店が開業した。


陸軍省は日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)終結後に於ける次期軍備拡張計画の一環として師団増設を策定し、対象候補地を検討した結果、明治40年(1907年)に岡山市に第17師団設置を決定した。
岡山縣は陸軍省に依る新設師団設置対象候補地選定を知り、陸軍省に対し岡山市への師団設置確定時は必要地無償提供を上申していた事から、岡山驛裏、即ち、現在の 北区いずみ町、及び、津島地区に計275539、6㎡の土地を用意し、同年8月に土地造成を開始し造成用土砂類は京山付近から採取したが、該工事期間が極めて短期間設定だった事から突貫工事化し、途中、現場土砂崩壊の為に該工事人夫計17名圧死事故も発生した。
該師団は同年11月17日附で開設され、初代師団長に 陸軍中将 一戸兵衛(いちのへ ひょうえ)(安政2年(1855年)8月2日~昭和6年(1931年)9月2日)(明治40年(1907年)11月13日~明治44年(1911年)9月6日在任)、初代参謀長に 陸軍歩兵大佐 浄法寺五郎(じょうほうじ ごろう)(慶應元年(1865年)4月28日~昭和13年(1938年)1月20日)(明治40年(1907年)11月13日~明治43年(1910年)7月4日在任)が任命着任した。
因みに、岡山縣が新師団誘致に要した不動産関係費用は、土地購入費計2592233円、造営物建築費計330168円と算定された。
該師団開設に鑑み、該師団専用貨物取扱施設として現在の北区国体町、及び、南方5丁目付近に軍用貨物取扱側線が大量に敷設された。


明治43年(1910年)11月帝國陸軍秋季特別大演習は岡山縣下に於いて実施の為に、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月13日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、帝國陸軍大演習大元帥統裁の為に御召列車が運転された。
御召列車の編成は、
ホロハニ5556 + ホロ5555 + ホイロ5350 + 御料車6号 + ホイロ5351 + ホイ5300 + ホロハニ5995
だった。
それ迄の御召列車では供奉車専用車輌が無く、適当に営業用車輌を充当していた為に、編成美も統一感も皆無で、編成美はおろか見た目も凸凹ガタガタであり、御料車6号新造と同時に供奉専用車輌も初めて新製され該運転が初運転だった。
因みに、御料車6号とは現在愛知県明治村で保存一般公開されている車輌である。

東軍 陸軍大将 西 寛二郎(にし かんじろう)(弘化3年(1846年)4月5日~明治45年(1912年)2月28日)
第10師団 野戦重砲兵第1大隊 後備混成第9旅団
西軍 陸軍大将 伏見宮貞愛(ふしみのみや さだなる)親王(安政5年(1858年)6月9日~大正12年(1923年)2月4日)
第5師団 第17師団

10日
新橋Ⅰ(10時30分)→静岡(16時00分)静岡御用邸
途中 國府津 山北 沼津 停車
11日
静岡 ( 9時25分)→名古屋(14時40分)名古屋離宮
途中 濱松 豊橋 停車
12日
名古屋( 7時20分)→岡山(16時55分)岡山後楽園延養亭
途中 大垣 米原 馬場(現 膳所) 京都 須磨 姫路 停車
大駅たる、大阪、及び、神戸を通過したのは、当時阪神地域に於いて真性コレラが蔓延猖獗を極め、皇室への感染防止を理由に該処置が執られた。
13日
岡山 ( 9時20分) →倉敷
倉敷           →岡山
都窪郡菅生村西岡(現 倉敷市菅生町)
14日
岡山 ( 8時55分) →中國鐵道吉備津
中國鐵道吉備津   →岡山
都窪郡加茂村西村(現 岡山市北区加茂町)
15日
岡山 ( 7時30分) →西大寺Ⅰ(現 東岡山)
西大寺Ⅰ(現 東岡山) →岡山
上道郡古都村宍甘(現 岡山市東区宍甘(しじかい))
16日
岡山 ( 7時25分)→中國鐵道吉備津
中國鐵道吉備津   →岡山
都窪郡加茂村西村(現 岡山市北区加茂町)
17日
第17師団練兵場 練兵式
因みに、該観兵式閲兵中に北から強風が吹き荒れ、明治天皇の軍帽が吹き飛ばされるハプニングが発生した。
岡山市下石井 専売局岡山製造所建設予定地 賜餞場
招待者計2746名
該地は、専売局移転後、地元カバヤ製菓に払下げられ本社工場となり、該社撤退後はイオンモール岡山が設置された。
18日
岡山 ( 7時30分)→名古屋(17時25分)名古屋離宮
途中 姫路 須磨 京都 馬場(現 膳所)米原 大垣 停車
神戸、及び、大阪通過理由は往路に同じ。
19日
名古屋( 8時50分)→静岡(14時24分)静岡御用邸
途中 豊橋 濱松 停車
20日
静岡 ( 8時40分)→新橋Ⅰ(14時30分)
途中 沼津 山北 國府津 停車


岡山驛 対 岡山市中心地間移動は、該驛開業以来、長らく人力車、若しくは、乗合馬車利用が一般的だったが、明治45年(1912年)5月5日附で岡山電気軌道に依り岡山停車場前-城下-後楽園前間に路面電車が開通した。


該区間複線化は、
西大寺(現 東岡山)-中井間 大正10年(1921年) 3月25日
中井 - 岡山間       大正11年(1922年)10月28日
である。
中井-岡山間複線化に1年以上要したのは、百問川、及び、朝日川橋梁で新橋梁竣工後、一時的に新橋梁切替を実施し、既成橋梁錬鐡鈑桁を鋼鐡鈑桁に交換し、更に、橋脚強化工事施工に時間を要した為である。


西大寺Ⅰ(現 東岡山)-岡山間は7.3km在り、双信式閉塞式が使用されていたが、該区間を2分割させる事で列車増発可能とする為に、大正12年(1923年)7月1日附で中井(なかい)信号所が設置された。


第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、何かと岡山とは関係深き帝だった。

昭和5年(1930年)11月、帝國陸軍秋季特別大演習統裁は岡山広島両縣実施で帝國陸軍大元帥統裁の為に御召列車が運転された。
御召列車編成は原則的に、
230 + 120 + 御料車12号 + 121 + 131
が使用されたが、16日に限り明治43年(1910年)10月製造の 御料車6号 が使用された。
此れは、私鉄たる中國鐵道線内の線路規格が脆弱な上に建築限界支障の為に、大型木造御料車12号は入線不可能で、御料車12号と比較し車幅が約150mm細い中型木造御料車6号を使用せざるを得なかった為である。

東軍 陸軍大将 井上幾太郎(いのうえ いくたろう)(明治5年(1872年)2月18日~昭和40年(1965年)5月7日)
第5師団 歩兵第101旅団
西軍 陸軍大将 本庄 繁(ほんじょう しげる)(明治9年(1876年)5月10日~昭和20年(1945年)11月20日)
第10師団

12日
東京( 9時15分) →名古屋(16時05分)名古屋偕行社行在所
途中 國府津 山北 沼津 静岡 濱松 豊橋 停車
従来であれば名古屋に於ける宿泊は名古屋離宮を利用する処、当該離宮は同年12月11日附で廃止され宮内省より名古屋市下賜が決定し建物築庭修復工事中だった事から、敢えて陸軍将校倶楽部たる偕行社が利用された。
13日
名古屋( 9時05分)→岡山(16時05分) 岡山偕楽園鶴鳴館大本営兼食堂 延養亭行在所
途中 大垣 米原 大津 京都 大阪 神戸 姫路 停車
14日
岡山( 8時50分) →福山( 9時55分)
福山(14時55分) →岡山(15時52分)
深安郡上岩成村(現 福山市上岩成町)
昭和天皇は10時30分頃に正戸山野外統監部本部に到着され、帝國陸軍大元帥として両軍大演習を統裁中、10時40分頃に第27代内閣総理大臣 濱口雄幸(はまぐち おさち)(明治3年(1870年)5月1日~昭和6年(1931年)8月26日)内閣(昭和4年(1929年)7月2日~昭和6年(1931年)4月14日組閣)第47代内務大臣 安達謙蔵(あだち けんぞう)(元治元年(1864年)11月22日~昭和23年(1948年)8月2日)(昭和4年(1929年)7月2日~昭和6年(1931年)4月14日在任)より昭和天皇に対し緊急内奏があり、当日9時58分頃、濱口総理が当該大演習陪観の為に特別急行 燕 号 に乗車すべく東京驛旅客ホーム最後尾1等展望車付近歩行中、暴漢に拳銃で狙撃され負傷の旨を奏上した。
昭和天皇は10時50分より、退役陸軍歩兵中尉 坂本龍作に依る 備後歴史ノ一部ニ就テ なる講演を拝聴。
該講演終了後、引続き大演習統裁を継続された。
15日
岡山( 9時40分) →金光(10時15分)
金光(11時25分) →岡山(11時56分)
浅口郡金光町八重野総監部
16日
岡山( 6時50分) →中國鐵道高松稲荷( 7時13分)
中國鐡道高松稲荷(15時40分) →岡山(16時05分)
吉備郡服部村長良野外統監部(現 倉敷市服部町)
17日
練兵場に於いて将兵行進閲兵 騎兵第21聯隊練兵場跡地に於いて関係者に対し賜餞場饗応
18日
当該大演習終了に依り、0時を以って大本営は行在所となる。
19日
岡山(15時30分) →宇野(16時20分)御召艦 巡洋戦艦 霧島 艦内
宇野到着後、鐵道省宇高連絡船桟橋より艦載艇で外荒島沖3浬仮泊 御召艦 巡洋戦艦 霧島 艦内に入御。
該艦内に於いて、
第14代海軍大臣 海軍大将 安保清種(あぼ きよかず)(明治3年(1870年)11月8日~昭和23年(1948年)6月8日)(昭和5年(1930年)10月3日~昭和6年(1931年)4月24日在任)、第21代呉鎮守府司令長官 海軍大将 野村吉三郎(のむら きちさぶろう)(明治10年(1877年)12月16日~昭和39年(1964年)5月8日)(昭和5年(1930年)6月11日~昭和6年(1931年)12月1日在任)海軍親補職士官を単独謁見。
第30駆逐隊司令 海軍大佐 高橋忠治(たかはし ちゅうじ)(明治18年(1885年)10月10日~昭和39年(1964年)1月24日)、海軍大臣先任秘書官 海軍中佐 高木惣吉(たかき そうきち)(明治26年(1896年)11月10日~昭和54年(1979年)7月27日)(昭和4年(1929年)7月5日~昭和6年(1931年)6月27日在任)海軍勅任官士官を列立謁見。
20日
宇野沖 8時30分出航
21日
帝國海軍横須賀軍港沖13時30分入港
御召鑑 霧島 艦載艇に移乗され 逸見(へみ)海軍桟橋接岸上陸
横須賀(14時40分)→東京(15時45分)


瀬戸-岡山間は、昭和8年(1933年)5月25日附で自動閉塞式導入に依り中井信号所は不要施設となり翌26日附で廃止された。


昭和9年(1934年)9月21日早朝、大阪府、京都府、滋賀縣に甚大被害を齎した 室戸(むろと)台風は、岡山縣下に於いても亦例外的では無く重大被害を発生させた。
当時、岡山測候所に於いて、気圧972.9hPa、風速16.7m、最大雨量66.8mmを観測し、岡山県内に於いて死者行方不明者計151名、全壊家屋計3865戸、浸水家屋約計60000戸の被害が発生し、最大風速こそ月並だったが、相当雨量の関係で県内各地、旭川上中流域に於いて集中豪雨状態から各地で土砂崩壊が発生した為に大量の樹木群が該河川に流れ込み、川流れが高速化した事で流木群が下流域で破壊材化して堤防を破壊決壊させ、決壊箇所より次々と浸入した木材群が建築物を破壊させた。
他方、該線朝日川橋梁に押寄せた流木群は、洗掘状態となった該橋梁橋脚を次々と直撃し、此の為に、該橋梁上り線用橋脚第4~6号、及び、該橋梁下り線用橋脚第9号が破壊され鈑桁落下被害が発生した。
該台風通過後、鐵道省、大阪鐵道局、岡山運転保線事務所に依る応急復旧工事として木組橋桁支保工事が施工されたが、橋脚再構築恒久工事を要する事から、10月2日附で神戸起点140.0Km地点に百間川仮信号所を設置し百間川-岡山間を単線運転に依る運転確保に依り復旧工事を急ぎ、該工事が完成した昭和10年(1935年)1月31日より複線運転が可能になった事から、該仮信号場は不要施設となり翌2月1日附で廃止された。


昭和10年(1935年)8月1日附官制改正に拠り、門司鐡道局内より廣島鐵道局が分離独立した事を受け、明石(操)-糸崎間は従来の大阪鐵道局管轄から廣島鐵道局管轄に変更された。
但し、内務陸海軍行政側から見れば牽強付会の感が強く、管轄変更直後から鐵道省に対し再考を求められる状態だった。


昭和12年(1937年)7月29日2時34分頃、岡山驛構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、東京発下関行特別急行第1列車 富士号 C53型蒸気機関車C5362(梅小路機関區所属)牽引客車11両編成は、該驛旅客第1番ホーム1番線到着3分30秒遅延、該驛出発4分00秒遅延し出発起動直後、後続、臨時軍用第1101列車 C51型蒸気機関車C5177(広島機関區所属)牽引客車8両編成に追突された。
該驛付近は昭和8年(1933年)5月25日附で自動閉塞式が導入されていたが、事故当日は該驛構内信号工事の為に手動式切替が実施され、担当東部信号取扱所信号掛は出勤時点呼に於いて当務驛長より通達を受けていたにも拘らず、第1列車到着直後に暑気意識朦朧が原因で居眠状態となり、本来、信号標示を進行から停止にすべき処、失念し復位させなかった事から、第1101列車機関士は当該遠方信号機、及び、場内信号機進行現示を確認し、該驛停車は通過に変更されたものと解し減速せず時速約62kmで該驛1番線に進入中、該驛構内に於いて第1101列車機関助士が前方に第1列車尾燈を発見し機関士に通報、該機関士は直ちに非常制動を動作させたが間合わず追突事故に至ったものである。
該追突事故に依り、第1列車最後部11号車1等展望車 スイテ37010 は展望室部分3.8m部分に食込大破、10号車1等寝台車 マイネ37130 は台枠小損、他1~9号車客車連結器に損傷被害が発生した。
第1101列車牽引C5177蒸気機関車前部中破、1号車 ナハフ24333 は該列車牽引蒸気機関車炭水車に約7.4m食込大破、2号車スハ、3号車オハニ中破、4~8号車客車小損被害が発生した。
該事故に依り、旅客3名即死 重傷9名(内3名後死亡) 軽傷50名。
職員6名、食堂車従業員2名軽傷。
因みに、旅客死亡者重傷者は全員木造車輌 ナハフ24333 乗客である。
復旧 1番線11時55分、2番線10時40分
鐵道省は該事故に鑑み、死亡旅客に対し慰謝金2800~6500円、負傷旅客に対し見舞金20~550円を支払った。
当該信号掛は逮捕起訴され、一審は禁固7箇月、二審は控訴棄却、上告審は上訴棄却の判決が下った。
大破した1等展望車 スイテ37010 は事故廃車処置が執行されても不自然では無い大破壊状態だったが、鐵道省は該車輌復旧を決定し、岡山から東京大井工場に回送し修理復旧された。


昭和17年(1942年)9月11日附官制改正に拠り、従来の運転保線事務所を統合させ管理部制が成立し 岡山管理部は姫路-糸崎間管轄となる。
更に、昭和19年(1944年)10月17日附官制改正に拠り、大阪鐵道局内に姫路管理部が設置され、西明石-上郡間は該管理部管轄に変更された。


中國鐵道岡山-津山間、及び、岡山-西総社(現 総社)間は、昭和19年(1944年)第84回帝國議会公債発行法案可決で2月15日附法律第85号公布施行に拠り、陽陰連絡たるを理由に6月1日附で政府買収され、国有化後は各々、津山線、吉備線と命名されたが、津山線法界院駅周辺に陸軍施設が展開していた事も買収理由と成り得た。
因みに、該社買収時に、該社不動産部門、及び、自動車線部門は非買収対象となり、現在、中鉄バスとして岡山市周辺を展開するバス会社として存続するが、若し、買収時点で自動車線部門も買収されていれば、岡山市内を つばめ のマークを着け、岡山市内自動車線運行はJR西日本系列自動車線で独占状態となったものと思われる。


岡山驛貨物取扱業務は、一般貨物業務取扱に加え軍用貨物業務取扱が在り、更に、四国発着貨車仕分業務も存在した事から、該驛構内施設が甚だ不足気味だったが、日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発に依る平時体制から戦時体制移行に依る軍用貨物取扱業務が激増し、特に伯備線沿線で産出される石灰石輸送は戦争遂行上に於いて不可欠な物資であり、更に大東亜(だいとうあ)戦争(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)勃発以降は貨車仕分自体が困難化し滞留貨車が続出する事態となった。
鐵道省は、岡山-庭瀬間に貨車専用仕分操車場設置を決定し、該操車場は昭和20年(1945年)5月1日附で竣工した。


大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、
昭和20年(1945年)
6月29日 第20航空軍 第58航空隊 B29戦略爆撃機計138機 岡山大空襲
 警戒警報発令 23時45分
 空襲警報発令 23時55分
 空襲開始    2時43分
 空襲警報解除  4時07分
 警戒警報解除  4時15分
岡山驛
 西口驛舎、上下旅客ホーム上屋、東西信号取扱所 全焼
 工事部用品庫、検車區、職員官舎28戸 全焼
 岡山機関區 半焼
  岡山管理部庁舎 全焼
死者 旅客5名 職員5名 重傷者旅客14名以上 職員重軽傷者数不明。
開通 30日 下り線6時55分 上り線9時00分
岡山驛構内被災車両
  オロ  30  22(廣ヲカ)
  オロ   40  20(廣ヒロ)
  オハフ30 121(大ヒメ)
  オハ 31 389(廣ヲカ)
  オハ 31 408(廣ヲカ)
  オハ 31 423(廣セキ)
  オハ 31 436(廣ヲカ)
  オハ 31 437(廣ヲカ)
  スハ 32 625(廣ヲカ)
  スハ 32 648(廣ヲカ)
  オハフ33 122(廣ヲカ)
  オハフ33 195(名カキ)
  スハフ35  48(廣ヲカ)
 以上、昭和20年(1945年)7月修復。
  スロ 34   3(廣ヒロ)B
  スロハ34  21(門ハキ)D
  オハ 31 336(大ヒメ)D
  オハ 31 350(大フチ)D
  オハ 31 371(大ヒメ)D
  スハフ32  15(東シナ)A
  スハフ32 102(大ミハソ)C
  スハフ32 229(廣ヒロ)C
  スハフ32 298(廣ヒロ)A
  スハフ32 302(廣イト)B
  スハフ32 639(廣ヲカ)D
  スハ 32 223(大ヒメ)D
  スハ 32 409(名ハツ)A
  スハ 32 611(廣ヲカ)D
  オハ 34  30(大ミハソ)B
  オハフ33  40(東シナ)A
  オハフ33 117(廣ヒロ)B
  オハフ33 315(廣ヒロ)A
  スハフ35  42(廣ヲカ)D
  オハ 35   5(大ミハソ)D
  オハ 35  91(東シナ)D
  オハ 35 379(大カメ)A
  オハ 40  51(廣ヒロ)A
  マハ 47 106(廣ヒロ)D
  マニ 31  55(東シナ)D
  マニ 32  22(大キト)D
 A 昭和21年(1946年)1月19日附 戦災廃車
 B 昭和21年(1946年)3月31日附 戦災廃車
 C 昭和21年(1946年)4月17日附 戦災廃車
 D 昭和22年(1947年)1月14日附 戦災廃車
    他、形式番号不明木造客車計4両被災全焼。
廣島鐵道局岡山管理部は、該空襲被災者に対し7月3日まで被災者無料乗車票交付、4日以降は疎開者と決定をした事から、被災者側から見れば疎開者扱となれば運賃半額本人負担となる為に、該公示を知った被災者が岡山驛に殺到した。
岡山驛被災者乗車票交付枚数は、
 6月29日 3513枚
   30日 4000枚
 7月 1日 2747枚
    2日 2100枚
    3日 2991枚
 総計   15351枚
だった。
 
7月24日 第20航空軍 第73航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃計250機
 警戒警報発令 23時00分
 空襲警報発令 23時32分
 空襲開始    0時25分
 空襲警報解除  1時36分
 警戒警報解除  2時01分
西大寺Ⅰ(現 東岡山)驛
 驛本屋機銃掃射銃撃小損
岡山機関區
 職員更衣室、講習室 全焼
線路破壊計5箇所計70m 枕木破壊計35本
 開通 上り線19時45分 下り線25日9時00分
西大寺Ⅰ(現 東岡山)驛構内被災車両
  オロ 40 201(広ヒロ)小損
  オハ  35 544(大ミハソ)小損
 以上、昭和20年(1945年)8月修復。

因みに、該線に於いて戦災被害を原因とする不通時間は計31回678時間で、他線と比較し長時間不通理由として、昭和20年(1945年)8月6日に廣島市に投下された原子爆弾被害に依り、廣島驛構内壊滅、横川驛全滅、及び、廣島-横川間猿候川橋梁上に於ける下り第377貨物列車貨車脱線転覆復旧に時間を要した結果である。


該区間内に於けるRTO設置駅は、
 岡山駅
   昭和20年(1945年)10月22日~昭和27年(1952年) 3月31日
である。


昭和天皇第4女 厚子(あつこ)内親王(昭和6年(1931年)3月17日~    )は、昭和27年(1952年)10月10日附で旧岡山藩主末裔たる池田隆政(いけだ たかまさ)(大正15年(1926年)10月21日~平成21年(2012年)7月21日)侯に降嫁され婚姻後は岡山市内に在住された事から、昭和天皇香淳皇后両陛下の岡山御立寄機会が増える。
昭和28年(1953年)10月 第8回国民体育大会は四国で開催された為に、当該御召列車が運転された。
19日
東京( 9時10分)→京都(16時15分)京都大宮御所
途中 沼津 静岡 浜松 名古屋 大垣 米原 停車
20日
京都( 9時05分)→岡山(12時25分)後楽園鶴鳴館
21日
岡山→宇野間自動車移動 日本国有鉄道宇高連絡船 紫雲丸乗船
高松桟橋→松山              久松邸迎賓館
 (中略)
26日
高松桟橋→宇野 日本国有鉄道宇高連絡船 紫雲丸乗船 後楽園鶴鳴館
27日
岡山(13時30分)→京都(17時00分) 京都大宮御所
途中 姫路 神戸 大阪 停車
28日
京都( 9時00分)→東京(16時40分)
途中 米原 岐阜 名古屋 浜松 静岡 沼津 停車

昭和31年(1956年)4月 第7回国土緑化大会は山口県開催時に、当該御召列車が運転された。
(前略)
 9日
光(13時45分) →岡山(17時50分)後楽園鶴鳴館
途中 岩国 広島 糸崎 停車


該区間は、昭和35年(1960年)10月1日附で直流1500V電化された。


岡山市中心部は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)6月29日の空襲に依り壊滅的被害が発生した。
戦争終結後、該市に於いて戦災都市復興計画が浮上時に駅前通整備計画が策定されたが、道路拡張整備予定地に戦前建築の戦災焼損復旧鉄骨鉄筋コンクリート建築物が複数存在し、駅前のメインストリートながら道路幅は狭隘で屈曲が存在する等々、支障物が多数残置し手付かず状態だった。
他方、昭和37年(1962年)第17回秋季国民体育大会は岡山県開催に決定した事から、該開催決定を受け昭和33年(1958年)6月に岡山県主導に依る岡山駅前再開発計画が決定し、当該支障建築物撤去と県道42号線、県道27号線として道路整備が進行し、昭和37年(1962年)9月に竣工した。


昭和37年(1962年)10月 第17回国民体育大会は岡山県で開催された為に、当該御召列車が運転された。
19日
原宿( 9時00分)→京都(16時00分)京都大宮御所
途中 沼津 静岡 浜松 名古屋 米原 停車
20日
京都(12時20分)→岡山(15時25分)延養亭
途中 大阪 神戸 姫路 停車
21日
岡山市内自動車移動
22日
法界院→津山
岡山県酪農試験場、津山市営グランド サッカー会場
津山→岡山
23日
岡山→宇野                 下電ホテル
児島市営競技場 クレー射撃
24日
倉敷→鴨方
中国電力水島火力発電所、東京大学東京天文台岡山物理研究所
鴨方→岡山                 延養亭
25日
岡山(10時30分)→名古屋(15時30分)名古屋観光ホテル
途中 姫路 神戸 大阪 京都 岐阜 停車
26日
名古屋(11時30分)→原宿(16時30分)
途中 浜松 静岡 沼津 停車


昭和香淳両陛下は、池田厚子さま御見舞の為に、昭和38年(1963年)9月に岡山を訪れたが、該訪問時に両陛下は初めて一般車輌に御乗車になられた。
16日
東京羽田-大阪伊丹間 日本航空特別機
大阪(13時40分)→岡山(15時54分)特別急行 みどり 号 1等車
基本編成門司方に キハ82+キロ80+キロ80 3両を増結し計9両編成で運転。
17日
岡山(13時16分)→大阪(14時25分)特別急行 第2富士号 1等特別室
大阪伊丹-東京羽田間 日本航空特別機


昭和38年(1963年)10月 第18回国民体育大会は山口県で開催された為に、当該御召列車が運転された。
24日
原宿( 9時40分)→神戸(17時10分)神戸オリエンタルホテル
途中 静岡 浜松 名古屋 京都 大阪 停車
25日
神戸( 9時45分)→岡山(11時55分)延養亭
途中 姫路 停車
26日
岡山(10時20分)→小郡(現 新山口)(17時25分)
以下略


昭和40年(1965年)5月 第16回国土緑化大会は鳥取県開催時に、当該御召列車が運転された。
 7日
東京   →     新大阪
新大阪  →     岡山 延養亭
岡山(12時30分)→米子(16時00分)
以下略


昭和46年(1971年)4月 第22回国土緑化大会は島根県開催時に、当該御召列車が運転された。

21日
松江        →岡山 延養亭
途中 米子 生山 新見 停車
22日
岡山→新大阪→東京


岡山市東部地域では東岡山-岡山間7.3Kmに途中駅が存在せず、高島地区、及び、藤原地区に住宅団地が形成された事で、岡山市に対し地元住民から新駅設置に関する要望が出された事から、該市は日本国有鉄道岡山鉄道管理局に対し新駅設置請願を行った処、該新駅設置費用全額地元負担を条件に新駅設置が認められ、昭和60年(1985年)3月14日附で高島駅が開業した。


該駅開業に鑑み、地元 就実大学は岡山市中区に所在するが、岡山市中心街に至近地でありながら、交通不便な地であり、該校職員学生生徒の遅刻者問題は該大学にとって長年に亘る懸案事項だった。
然るに、該駅開業を直前に、該大学 対 西日本旅客鉄道 間に深刻な対立を生じる事態へと発展した。
即ち、該大学は土地提供、及び、駅本屋施設全体に対し全額寄贈した事から新駅名に該大学名が盛込まれるものと信じていたにも拘らず、該社側は所在地名たる西川原を主張し双方が対立する事となった。
同じ旅客鉄道でも、九州旅客鉄道は駅名に大学名活用例は多いが、西日本旅客鉄道管内に於いて、大学名が駅名に盛込例は山陰本線鳥取大学前、及び、片町線同志社大前が存在し、且つ、該大学側が該駅を前例に命名理由と成り得るとした処、該社側説明に依れば、該大学名は有名大学たるも貴大学は地方私立大学故に利益行為に該当と無神経な回答した為に、該大学側は態度を硬化させた。
結局、該駅正式登録名称は西川原とし、地元駅案内等々では、西川原・就実駅とす事で妥協が成立し平成20年(2008年)3月15日開業した。


平成30年(2018年)7月豪雨は、近畿西部地区、及び、中国四国地方に甚大被害を与えた。
即ち、6月28日から連日降雨は7月6日になり記録的集中豪雨状態となり、当該各地に於いて観測史上最大規模の雨量を記録した。
此の為に、当該記録的豪雨被害の為に該区間各地に於いて土砂崩壊、築堤崩壊、河川氾濫等々被害が続出し、山陽本線は7月6日より相生-下関Ⅱ間が不通になった。
復旧は、
 瀬戸-岡山間 7月 9日
である。




表紙写真は、
朝日川下り線橋梁上の115系普通電車





山陽本線歴史的痕跡探訪記
~神戸-須磨間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11342842
~神戸兵庫臨港線編~

~須磨-西明石編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11347902
~西明石-加古川間編 明治頌歌~

~加古川-姫路間編 明治頌歌~

~姫路-網干間編 明治頌歌~

~網干-相生間編 明治頌歌~

~相生-上郡間編 明治頌歌~

~上郡-三石間編 明治頌歌~

~三石-和気間編 明治頌歌~

~和気-瀬戸間編 明治頌歌~

~瀬戸-東岡山間編 明治頌歌~

~東岡山-岡山間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11565121
~岡山-倉敷間編 明治頌歌~

~倉敷-新倉敷間編 明治頌歌~

~新倉敷-笠岡間編 明治頌歌~

~笠岡-福山間編 明治頌歌~

~福山-尾道間編 明治頌歌~

~尾道-三原Ⅱ間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11717471
~三原Ⅱ-河内間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11693199
~河内-西條間編 明治頌歌~

~西條-瀬野間編 明治頌歌~

~瀬野-海田市間編 明治頌歌~

~海田市-廣島間編 明治頌歌~

~廣島-宮島口間編 明治頌歌~

~宮島口-岩國間編 明治頌歌~
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~岩國-由宇間編 明治頌歌~

~由宇-柳井間編 明治頌歌~

~柳井-光間編 明治頌歌~

~光-徳山間編 明治頌歌~

~徳山-防府間編 明治頌歌~

~防府-新山口間編 明治頌歌~

~新山口-宇部間編 明治頌歌~

~宇部-厚狭間編 明治頌歌~

~厚狭-長府間編 明治頌歌~

~長府-下関Ⅱ間編 明治頌歌

~下関Ⅱ-門司Ⅱ間編 明治頌歌~

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
5.0
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 東岡山(ひがしおかやま)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治24年(1891年)3月18日開業である。<br />但し、該駅開業当時は 長岡(ながおか)と称したが、既に、明治22年(1889年)7月1日附で東海道線に同名驛が開業し、更に、明治31年(1898年)6月16日に北越鐵道長岡驛開業に依り、貨物小荷物類誤発着が大量発生し、且つ、後発ながら新潟縣所在長岡は該縣最大の城下町だった事から、該驛は先発たる存在ながら、明治39年(1906年)1月1日附を以って西大寺(さいだいじ)に駅名改称された。現驛本屋は、昭和9年(1934年)9月に改築された木造建築の第2代目で、竣工直前に室戸台風に見舞われ屋根が吹飛ばされる等々の被害が発生し修復の為に竣工が遅延したが翌昭和10年(1935年)3月に完成した。<br />該駅は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)7月24日に停車中列車共々、連合国軍艦載機に依る機銃掃射を受け、停車中列車客車2両に窓硝子破損、及び、車体貫通孔発生被害が発生したが、該戦争末期故に人的被害は不詳である。<br />然るに、赤穂線開通を前に当時の西大寺市至近に駅設置が決定していた事から、該線に駅名を譲渡し昭和36年(1961年)3月20日附で現駅名に再改称された。<br />更に、同年、該駅構内は赤穂線全線開通を想定し構内配線変更が実施され同時に、第3番旅客ホームが新設された。<br />昭和37年(1962年)9月1日には、赤穂線相生-播州赤穂-東岡山駅間が全通し該駅は乗換駅となる。<br />平成9年(1992年)11月2日夜、該駅本屋正面に飲酒運転の乗用車が突込み、該駅本屋に半壊被害が発生し経年建築物故に解体か修復かで意見が分かれたが、結局修復と決定し解体は免れた。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650607

    東岡山(ひがしおかやま)駅



    該駅は、明治24年(1891年)3月18日開業である。
    但し、該駅開業当時は 長岡(ながおか)と称したが、既に、明治22年(1889年)7月1日附で東海道線に同名驛が開業し、更に、明治31年(1898年)6月16日に北越鐵道長岡驛開業に依り、貨物小荷物類誤発着が大量発生し、且つ、後発ながら新潟縣所在長岡は該縣最大の城下町だった事から、該驛は先発たる存在ながら、明治39年(1906年)1月1日附を以って西大寺(さいだいじ)に駅名改称された。現驛本屋は、昭和9年(1934年)9月に改築された木造建築の第2代目で、竣工直前に室戸台風に見舞われ屋根が吹飛ばされる等々の被害が発生し修復の為に竣工が遅延したが翌昭和10年(1935年)3月に完成した。
    該駅は、大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)7月24日に停車中列車共々、連合国軍艦載機に依る機銃掃射を受け、停車中列車客車2両に窓硝子破損、及び、車体貫通孔発生被害が発生したが、該戦争末期故に人的被害は不詳である。
    然るに、赤穂線開通を前に当時の西大寺市至近に駅設置が決定していた事から、該線に駅名を譲渡し昭和36年(1961年)3月20日附で現駅名に再改称された。
    更に、同年、該駅構内は赤穂線全線開通を想定し構内配線変更が実施され同時に、第3番旅客ホームが新設された。
    昭和37年(1962年)9月1日には、赤穂線相生-播州赤穂-東岡山駅間が全通し該駅は乗換駅となる。
    平成9年(1992年)11月2日夜、該駅本屋正面に飲酒運転の乗用車が突込み、該駅本屋に半壊被害が発生し経年建築物故に解体か修復かで意見が分かれたが、結局修復と決定し解体は免れた。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650607

    東岡山駅

  • 東岡山駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />軒装飾

    東岡山駅



    駅本屋
    軒装飾

    東岡山駅

  • 東岡山駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />軒装飾

    東岡山駅



    駅本屋
    軒装飾

    東岡山駅

  • 東岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム

    東岡山駅



    旅客第2番ホーム

    東岡山駅

  • 東岡山駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />昭和10年(1935年)3月竣工。

    東岡山駅



    跨線橋
    昭和10年(1935年)3月竣工。

    東岡山駅

  • 東岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />明治24年(1891年)3月18日竣工。

    東岡山駅



    旅客第2番ホーム
    明治24年(1891年)3月18日竣工。

    東岡山駅

  • 東岡山-高島間<br /><br /><br /><br />東岡山駅構内<br />門司方より神戸方<br />俯瞰

    東岡山-高島間



    東岡山駅構内
    門司方より神戸方
    俯瞰

  • 東岡山-高島間<br /><br /><br /><br />円蔵寺水路と213系電車

    東岡山-高島間



    円蔵寺水路と213系電車

  • 東岡山-高島間<br /><br /><br /><br />円蔵寺(えんぞうじ)開渠<br />3.50m<br />開渠(かいきょ)とは地上部に人工的に造設された給水、若しくは、排水を目的とする水路で明渠とも称する。<br />で、蓋などで覆われていない状態のものを指す 明渠(めいきょ)とも称する。 <br />因みに地中埋設された水路は 暗渠(あんきょ)と称し、開渠と暗渠の総称は 管渠(かんきょ)と称する。

    東岡山-高島間



    円蔵寺(えんぞうじ)開渠
    3.50m
    開渠(かいきょ)とは地上部に人工的に造設された給水、若しくは、排水を目的とする水路で明渠とも称する。
    で、蓋などで覆われていない状態のものを指す 明渠(めいきょ)とも称する。
    因みに地中埋設された水路は 暗渠(あんきょ)と称し、開渠と暗渠の総称は 管渠(かんきょ)と称する。

  • 高島(たかしま)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和60年(1985年)3月14日開業である。<br />岡山市東部地域では東岡山-岡山間7.3Kmに途中駅が存在せず、高島地区、及び、藤原地区に住宅団地が形成された事で、岡山市に対し地元住民から新駅設置に関する要望が出された事から、該市は日本国有鉄道岡山鉄道管理局に対し新駅設置請願を行った処、該新駅設置費用全額地元負担を条件に新駅設置が認められ開業に至ったものである。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650627

    高島(たかしま)駅



    該駅は、昭和60年(1985年)3月14日開業である。
    岡山市東部地域では東岡山-岡山間7.3Kmに途中駅が存在せず、高島地区、及び、藤原地区に住宅団地が形成された事で、岡山市に対し地元住民から新駅設置に関する要望が出された事から、該市は日本国有鉄道岡山鉄道管理局に対し新駅設置請願を行った処、該新駅設置費用全額地元負担を条件に新駅設置が認められ開業に至ったものである。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650627

    高島駅

  • 高島駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />旅客ホーム

    高島駅



    駅構内
    旅客ホーム

    高島駅

  • 高島-西川原間<br /><br /><br /><br />祇園(ぎおん)開渠<br />5.12m

    高島-西川原間



    祇園(ぎおん)開渠
    5.12m

  • 高島-西川原間<br /><br /><br /><br />八幡原(やはたはら)暗渠<br />暗渠(あんきょ)とは地上部に人工的に造設され蓋覆された給水、若しくは、排水を目的とする水路である。

    高島-西川原間



    八幡原(やはたはら)暗渠
    暗渠(あんきょ)とは地上部に人工的に造設され蓋覆された給水、若しくは、排水を目的とする水路である。

  • 高島-西川原間<br /><br /><br /><br />百間川(ひゃっけんがわ)橋梁<br />該橋梁は、岡山市中区さい地区から朝日川橋梁右岸部まで高架化と同時に架替実施。

    高島-西川原間



    百間川(ひゃっけんがわ)橋梁
    該橋梁は、岡山市中区さい地区から朝日川橋梁右岸部まで高架化と同時に架替実施。

  • 西川原(にしがわら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、平成20年(2008年)3月15日開業である。<br />該駅開業に鑑み、地元 就実大学に依る全額寄付金に依り設置された。<br />該駅は、岡山市中区に所在するが、岡山市中心街に至近地でありながら、交通不便な地であり、該大学通学生遅刻者問題は該大学にとって長年に亘る懸案事項だった。<br />然るに、該駅開業を直前に、該大学 対 西日本旅客鉄道 間に深刻な対立を生じる事態へと発展した。<br />即ち、該大学は土地提供、及び、駅本屋施設全体に対し全額寄贈した事から新駅名に該大学名が盛込まれるものと信じていたにも拘らず、該社側は所在地名たる西川原を主張し双方が対立する事となった。<br />同じ旅客鉄道でも、九州旅客鉄道は駅名に大学名活用例は多いが、西日本旅客鉄道管内に於いて、大学名が駅名に盛込例は山陰本線鳥取大学前、及び、片町線同志社大前が存在し、且つ、該大学側が該駅を前例に命名理由と成り得るとした処、該社側説明に依れば、該大学名は有名大学たるも貴大学は地方私立大学故に利益行為に該当と回答した為に、該大学側は態度を硬化させるに至った。<br />結局、該駅正式登録名称は西川原とし、地元駅案内等々では、西川原・就実駅とす事で妥協が成立した。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650631

    西川原(にしがわら)駅



    該駅は、平成20年(2008年)3月15日開業である。
    該駅開業に鑑み、地元 就実大学に依る全額寄付金に依り設置された。
    該駅は、岡山市中区に所在するが、岡山市中心街に至近地でありながら、交通不便な地であり、該大学通学生遅刻者問題は該大学にとって長年に亘る懸案事項だった。
    然るに、該駅開業を直前に、該大学 対 西日本旅客鉄道 間に深刻な対立を生じる事態へと発展した。
    即ち、該大学は土地提供、及び、駅本屋施設全体に対し全額寄贈した事から新駅名に該大学名が盛込まれるものと信じていたにも拘らず、該社側は所在地名たる西川原を主張し双方が対立する事となった。
    同じ旅客鉄道でも、九州旅客鉄道は駅名に大学名活用例は多いが、西日本旅客鉄道管内に於いて、大学名が駅名に盛込例は山陰本線鳥取大学前、及び、片町線同志社大前が存在し、且つ、該大学側が該駅を前例に命名理由と成り得るとした処、該社側説明に依れば、該大学名は有名大学たるも貴大学は地方私立大学故に利益行為に該当と回答した為に、該大学側は態度を硬化させるに至った。
    結局、該駅正式登録名称は西川原とし、地元駅案内等々では、西川原・就実駅とす事で妥協が成立した。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650631

    西川原駅

  • 西川原駅<br /><br /><br /><br />高架下<br />吹抜構造。

    西川原駅



    高架下
    吹抜構造。

    西川原駅

  • 西川原駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    西川原駅



    旅客ホーム

    西川原駅

  • 西川原駅<br /><br /><br /><br />駅名表<br />記載駅名は正式名称では無い。

    西川原駅



    駅名表
    記載駅名は正式名称では無い。

    西川原駅

  • 西川原駅<br /><br /><br /><br />駅名表と就実大学

    西川原駅



    駅名表と就実大学

    西川原駅

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川(あさひがわ)橋梁<br />該橋は、明治24年(1891年)3月18日開通の橋梁である。<br />全長274.6m(901ft)<br />上路プレート・ガーダー桁<br />21.3m(70ft)×12連 <br />が架橋された。<br />該橋梁本体は錬鐡製鋲締構造で、橋台は煉瓦積、橋脚は基礎部分が煉瓦積 脚部が花崗岩煉瓦積混合構造、煉瓦は全部英國積構造。<br />明治23年(1890年)5月15日着工、同年10月竣工。<br />本来であれば、該橋梁の如き大河川への架橋は、トラス構桁使用が理想的架橋構造なるも、該橋架橋当時の山陽鐵道は、資金使用節約を是とし、此の為に、加古川、市川、吉井川、等々大河川橋梁ですら、全部プレート・ガーダー桁架橋で対処した。<br />その後、該区間複線化時に、該橋梁下流側に新橋梁架橋が決定し、<br />上路プレート・ガーダー桁21.3m(70ft)×12連<br />が架橋された。<br />該新橋梁は鋼鐡製鋲締構造で、橋台はコンクリート製、橋脚は基礎部分が煉瓦積、橋脚部が鉄筋コンクリート製である。<br />該橋梁は、大正11年(1922年)10月28日附で複線化され、該日より、新橋梁は下り線専用、既成橋梁は上り線専用となった。<br />昭和9年(1934年)9月21日に襲来した室戸(むろと)台風に依り、該河川上中流域に於いて発生した土砂崩壊時に流出した大量の流木群が破壊材化し、該上り線橋梁第4~6号橋脚、及び、下り線橋梁第9号橋脚を破壊させ当該橋梁橋桁が落下被害が発生した。<br />取敢えず損傷橋脚部は木造木組応急復旧を経て、当該損壊橋梁は鉄筋コンクリートで再構築された。

    西川原-岡山間



    朝日川(あさひがわ)橋梁
    該橋は、明治24年(1891年)3月18日開通の橋梁である。
    全長274.6m(901ft)
    上路プレート・ガーダー桁
    21.3m(70ft)×12連 
    が架橋された。
    該橋梁本体は錬鐡製鋲締構造で、橋台は煉瓦積、橋脚は基礎部分が煉瓦積 脚部が花崗岩煉瓦積混合構造、煉瓦は全部英國積構造。
    明治23年(1890年)5月15日着工、同年10月竣工。
    本来であれば、該橋梁の如き大河川への架橋は、トラス構桁使用が理想的架橋構造なるも、該橋架橋当時の山陽鐵道は、資金使用節約を是とし、此の為に、加古川、市川、吉井川、等々大河川橋梁ですら、全部プレート・ガーダー桁架橋で対処した。
    その後、該区間複線化時に、該橋梁下流側に新橋梁架橋が決定し、
    上路プレート・ガーダー桁21.3m(70ft)×12連
    が架橋された。
    該新橋梁は鋼鐡製鋲締構造で、橋台はコンクリート製、橋脚は基礎部分が煉瓦積、橋脚部が鉄筋コンクリート製である。
    該橋梁は、大正11年(1922年)10月28日附で複線化され、該日より、新橋梁は下り線専用、既成橋梁は上り線専用となった。
    昭和9年(1934年)9月21日に襲来した室戸(むろと)台風に依り、該河川上中流域に於いて発生した土砂崩壊時に流出した大量の流木群が破壊材化し、該上り線橋梁第4~6号橋脚、及び、下り線橋梁第9号橋脚を破壊させ当該橋梁橋桁が落下被害が発生した。
    取敢えず損傷橋脚部は木造木組応急復旧を経て、当該損壊橋梁は鉄筋コンクリートで再構築された。

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />神戸方から門司方<br />俯瞰

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁
    神戸方から門司方
    俯瞰

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />上り線橋梁<br />明治24年(1891年)3月18日開通時の橋梁。

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁
    上り線橋梁
    明治24年(1891年)3月18日開通時の橋梁。

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />上り線<br />煉瓦積橋脚群

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁
    上り線
    煉瓦積橋脚群

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />上り線橋梁<br /> 1~ 3号橋脚 原型<br /> 4   号橋脚 基礎コンクリート更改<br /> 5~ 6号橋脚  完全コンクリート更改<br /> 7~11号橋脚  原型<br />昭和9年(1934年)9月21日襲来の室戸台風に依る該橋梁損壊部分はコンクリート造で復旧。

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁
    上り線橋梁
     1~ 3号橋脚 原型
     4   号橋脚 基礎コンクリート更改
     5~ 6号橋脚 完全コンクリート更改
     7~11号橋脚 原型
    昭和9年(1934年)9月21日襲来の室戸台風に依る該橋梁損壊部分はコンクリート造で復旧。

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />下り線橋梁

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁
    下り線橋梁

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />下り線側<br />煉瓦基礎部分は、該橋梁架橋当時設置。

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁
    下り線側
    煉瓦基礎部分は、該橋梁架橋当時設置。

  • 東岡山-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />下り線橋梁<br />該橋梁に押寄せた流木群は、洗掘状態となった該橋梁橋脚を次々と直撃し、此の為に、該橋梁上り線用橋脚第4~6号、及び、該橋梁下り線用橋脚第9号が破壊され鈑桁落下被害が発生した。

    東岡山-岡山間



    朝日川橋梁
    下り線橋梁
    該橋梁に押寄せた流木群は、洗掘状態となった該橋梁橋脚を次々と直撃し、此の為に、該橋梁上り線用橋脚第4~6号、及び、該橋梁下り線用橋脚第9号が破壊され鈑桁落下被害が発生した。

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />朝日川橋梁<br />下り線橋梁

    西川原-岡山間



    朝日川橋梁
    下り線橋梁

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />南方(みなみがた)架道橋<br />該橋梁は、明治24年(1891年)3月18日開通である。

    西川原-岡山間



    南方(みなみがた)架道橋
    該橋梁は、明治24年(1891年)3月18日開通である。

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />南方架道橋<br />神戸方<br />煉瓦積橋台<br />英國積

    西川原-岡山間



    南方架道橋
    神戸方
    煉瓦積橋台
    英國積

  • 西川原-岡山間<br /><br /><br /><br />南方架道橋<br />門司方<br />煉瓦積み橋台<br />英國積

    西川原-岡山間



    南方架道橋
    門司方
    煉瓦積み橋台
    英國積

  • 岡山(おかやま)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治24年(1891年)3月18日開業である。<br />該駅設置に関し、地元岡山に於いて停車場設置反対運動が展開されたかの如き文献を散見するが、態々旧城下町たる住宅密集地に高額資金を投入し土地収用をかけて停車場設置の必然性は無く、故に該根拠は低く事実無根と云うべきである。<br />明治31年(1898年)12月21日に、中國鐵道岡山口-津山(現 津山口)間開通を皮切りに宇野線等々が開通し、該駅は支線乗換駅として繁盛した。<br />初代駅本屋は狭隘で老朽化が進行した事から、大正15年(1926年)に鉄骨鉄筋コンクリート剛建築第2代駅本屋に改築された。<br />西口への連絡口設置要望が強かった事から、昭和14年(1939年)に設置され、本口より大迂回が解消された。<br />山陽新幹線岡山延伸を受け、昭和47年(1972年)3月15日附で第3代駅本屋が改築されたが、該駅構内が手狭になった事から構内大改良が決定し平成18年(2006年)10月15日附で竣工した。<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650608

    岡山(おかやま)駅



    該駅は、明治24年(1891年)3月18日開業である。
    該駅設置に関し、地元岡山に於いて停車場設置反対運動が展開されたかの如き文献を散見するが、態々旧城下町たる住宅密集地に高額資金を投入し土地収用をかけて停車場設置の必然性は無く、故に該根拠は低く事実無根と云うべきである。
    明治31年(1898年)12月21日に、中國鐵道岡山口-津山(現 津山口)間開通を皮切りに宇野線等々が開通し、該駅は支線乗換駅として繁盛した。
    初代駅本屋は狭隘で老朽化が進行した事から、大正15年(1926年)に鉄骨鉄筋コンクリート剛建築第2代駅本屋に改築された。
    西口への連絡口設置要望が強かった事から、昭和14年(1939年)に設置され、本口より大迂回が解消された。
    山陽新幹線岡山延伸を受け、昭和47年(1972年)3月15日附で第3代駅本屋が改築されたが、該駅構内が手狭になった事から構内大改良が決定し平成18年(2006年)10月15日附で竣工した。
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650608

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />中央改札口<br />https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650608

    岡山駅



    中央改札口
    https://www.jr-odekake.net/eki/top?id=0650608

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客地下連絡通路<br />大正15年(1926年)構築<br />側壁は改装されているが、竣工当時のほぼ原形を残す。

    岡山駅



    旅客地下連絡通路
    大正15年(1926年)構築
    側壁は改装されているが、竣工当時のほぼ原形を残す。

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />現2番線(旧1番線)

    岡山駅



    旅客第1番ホーム
    現2番線(旧1番線)

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />現2番線(旧1番線)<br />古軌条上屋支柱。

    岡山駅



    旅客第1番ホーム
    現2番線(旧1番線)
    古軌条上屋支柱。

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />現2番線(旧1番線)<br />古軌条上屋支柱。

    岡山駅



    旅客第1番ホーム
    現2番線(旧1番線)
    古軌条上屋支柱。

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム

    岡山駅



    旅客第2番ホーム

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋

    岡山駅



    旅客跨線橋

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋<br />内部

    岡山駅



    旅客跨線橋
    内部

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホームと旅客跨線橋

    岡山駅



    旅客第1番ホームと旅客跨線橋

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第3番ホーム

    岡山駅



    旅客第3番ホーム

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第3番ホーム<br />主に四国連絡特急列車発着用。

    岡山駅



    旅客第3番ホーム
    主に四国連絡特急列車発着用。

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第3番ホーム<br />主に四国連絡特急列車発着用。

    岡山駅



    旅客第3番ホーム
    主に四国連絡特急列車発着用。

    岡山駅

  • 岡山駅<br /><br /><br /><br />旅客第3番ホーム<br />手前、津山吉備線用旅客第4番ホーム線路上の架線撤去済。

    岡山駅



    旅客第3番ホーム
    手前、津山吉備線用旅客第4番ホーム線路上の架線撤去済。

    岡山駅

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この旅行記へのコメント (3)

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  • 吉備津彦さん 2022/05/01 14:43:53
    私の生まれ育った岡山へようこそ
    私は西川原駅近くで育ちました。当時は西川原駅も高島駅もありませんでした。旭川橋梁の写真を楽しく拝見いたしました。あさひ川の正確な漢字表記は旭川です。

    世の中は知らぬばかりがおもしろい。 良い旅を

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/05/02 10:11:14
    拝復
    吉備津彦さま、こんにちは。

    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    山陽本線編で初の岡山県内の投稿を行わせて頂きました。
    実は、朝日川が旭川たる事は小生も承知の上でしたが、国立公文書館山陽鐵道保存文書、及び、鉄道省文書には朝日川と明記されており、JR西日本に確認した処、公文書では朝日川が正当だとの回答を得た為に朝日川とさせて頂きました。
    何卒、御了解の程をお願い申します。



    横浜臨海公園

    吉備津彦

    吉備津彦さん からの返信 2022/05/02 20:13:27
    RE: 拝復
    > 吉備津彦さま、こんにちは。
    >
    > 拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    > 山陽本線編で初の岡山県内の投稿を行わせて頂きました。
    > 実は、朝日川が旭川たる事は小生も承知の上でしたが、国立公文書館山陽鐵道保存文書、及び、鉄道省文書には朝日川と明記されており、JR西日本に確認した処、公文書では朝日川が正当だとの回答を得た為に朝日川とさせて頂きました。
    > 何卒、御了解の程をお願い申します。
    >
    >
    >
    > 横浜臨海公園さん

    なるほど、勉強になりました。

    ありがとうございます。

    世の中は知らぬばかりがおもしろい。 良い旅を。

横浜臨海公園さんのトラベラーページ

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