2021/02/07 - 2021/02/07
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あおしさん
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冬の雪化粧した富士山はとても美しい。
今回はJRのローカル電車に乗って富士山のふもとをまわってきました。
御殿場から沼津までは御殿場線、そのあと東海道線の普通電車で東海道の旧宿場町・原宿と戦国時代の最初のランナー・北条早雲の居城、興国寺跡に行きました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
スタートは小田急ロマンスカー「ふじさん」号から。
小田急線からJR御殿場線に乗り入れて御殿場駅まで行くロマンスカーです。
私鉄の特急がJRに乗り入れる珍しい特急です。小田急小田原線 乗り物
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もっとも、ロマンスかーの中では「ふじさん」は利用者は多くなく、しかもコロナ禍。
みごとにガラガラで、乗客は1両に数人程度。
このままだと廃止になってしまうかも。小田急ロマンスカー 乗り物
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それでも御殿場線に乗り入れて御殿場に近づくと壮大な富士山が見えてきます。
少ない乗客もカメラを持って車内を右往左往していました。
もちろん私も。JR御殿場線 乗り物
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終点であるJR御殿場駅に到着。
富士山の麓、富士山の登山口として発展した町です。
ホームからも富士山がきれいに見えます。御殿場駅 駅
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かつて御殿場線は明治22年(1889年)に東海道本線として開通しました。
「汽笛一声、新橋を~」の「鉄道唱歌」では15番として
ここぞ御殿場 夏ならば
われも登山をこころみん
高さは一万数千尺
十三州もただひと目
と歌われました。
明治天皇も、日清日露戦争の山縣有朋、大山巌、児玉源太郎、乃木希典といった将軍たち、そして日本軍の兵士たちも御殿場を通り、戦地へ向かったのです。
昭和時代に丹那トンネルの開通で東海道本線は熱海経由となり、御殿場線となりましたが、かつて東海道本線→御殿場線を走っていたSLが駅前に保存されています。ぽっぽ広場 名所・史跡
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御殿場から御殿場線の沼津行の普通電車に乗り換えます。
御殿場からは右手に雄大な富士山。
おそらく鉄道の車窓ではこのあたりが一番富士山が雄大に見えるところでしょう。
先人もさぞかしここから見た富士山に見入ったと思います。 -
御殿場駅から2駅目の富士岡駅で下車します。
駅舎の背後には富士山が見えます。富士岡駅 駅
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富士岡駅はかつてこのあたりの急こう配を一気にSLは登ることができないためスイッチバックの駅でした。
現在でも跡地が残っています。 -
ここはいま「富士見台」という展望場所として整備されています。
富士見台(富士岡駅高堤防) 名所・史跡
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ここから見る富士山も素晴らしい。
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富士岡駅からさらに御殿場線の普通電車で沼津方面へ。
今度は下土狩駅で下車します。
この駅も東海道本線が開通したとき明治22年開業の歴史のある駅です。
開業時は三島駅でした。
現在でも新幹線と東海道本線の三島駅までは歩いて20分ほどで行けます。下土狩駅 駅
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下土狩駅の裏手には鮎壺の滝があります。
住宅地の中にあるなかなか大きく、迫力のある滝です。
背景に富士山が見えるのも悪くありません。
ただ、マンションも見えるのは少し残念かな。鮎壺の滝 自然・景勝地
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下土狩駅から御殿場線で2駅で沼津駅へ、ここで東海道本線の乗り換えて、普通電車で2駅目。
原駅で下車します。
かつて東海道の宿場町だった原宿の最寄り駅。
駅舎も宿場町の最寄り駅らしく和風でした。 -
原駅から1キロ、歩いて15分ほど。
旧原宿に着きます。
都市化されている東海道の宿場町の中では、宿場町の面影が残っていました。 -
富士山を神とする浅間神社。
ちょうど旧原宿の中心部にあります。
かつては宿場町の氏神様だったことでしょう。 -
浅間神社前にある旧原宿の案内地図。
ちょうどここには問屋場があったようです。 -
ここには江戸時代の名僧で、臨済宗中興の祖とされる白隠禅師ゆかりの松蔭寺もあります。
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普通のお寺のようでもありましたが、墓所には白隠禅師の大きなお墓もありました。
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さて、旧原宿から北条早雲ゆかりの興国寺城へ向かいます。
歩いても2キロ、30分ほどで行けますが、ちょうど小さなバスが来たので乗車。
地元のコミュニテイバスです。 -
バスなら10分もしないうちに興国寺城跡の前へ。
興国寺城跡 名所・史跡
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かつて北条早雲は素浪人から知略を用いて伊豆、相模の戦国大名にのし上がったと言われていましたが、現在では足利幕府の役人だったことがわかっています。
姉が駿河の守護大名・今川義忠(桶狭間の戦いで織田信長に敗死したことで有名な今川義元の祖父)の妻となった縁で、北条早雲も駿河にきて、この一帯の領地を与えられました。
その際に居城としたのが興国寺城です。
早雲はここから、伊豆を征服、さらに相模の小田原の大森氏、源頼朝以来の名門・三浦氏を滅ぼして、伊豆、相模の戦国大名となりました。 -
当時の石垣が残っていました。
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興国寺城跡は観光地化するため整備が進んでいます。
来年の大河ドラマ「13人の合議制」との関係でしょうか。
大河の主役・鎌倉北条氏と北条早雲は無関係ではありますが。 -
本丸、二の丸跡は残っていました。
北条氏は早雲の息子氏綱を経て、孫の北条氏康のころには、上杉謙信、武田信玄、今川義元などと渡り合う大大名となりました。
北条氏康は戦国武将の中でも名将と評価されています。 -
深い濠も残されています。
氏康の子、北条氏政のときに、豊臣秀吉に攻められ、北条氏は滅亡しました。
興国寺城も秀吉方の軍勢の前に落城したようです。 -
歩いて10分ほどの大泉寺には阿野全成のお墓がありました。
阿野全成は源義朝の7男、源頼朝の弟です。
母は常盤御前で、9男だった源義経の同母兄になります(頼朝は異母兄)。
粛清された義経とは異なり、頼朝の信任厚く、頼朝の次男・源実朝の後見人になりました。妻も北条時政の娘、北条政子の妹でした。
しかし2代将軍・源頼家と源実朝を3代将軍にしようとする北条氏との対立の中で、おいである頼家に殺されました。
源頼朝を中心とする清和源氏は内紛が激しく、頼朝以外の男性は非業の死を迎えています。
全成とその際一緒に殺された息子の墓が寂しくたたずんでいました。 -
原から帰りは鈍行で東京へ。
JR東とJR東海で熱海を境に別会社になりましたが、沼津からは東京行きの普通電車が残っていました。JR東海道本線 乗り物
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