2021/03/04 - 2021/03/07
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kummingさん
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3日目は、この旅二つ目のミッション、法隆寺へ
前日の相次ぐ不祥事に呆れ果て?
いえ、疲労感隠せない老母を慮る優しさ(と、思いたい)
息子くんがレンタカーを手配してくれた♪
今時の人たちはナビあれば知らない土地もすいすい~
海外でもレンタカー旅、憧れです^ ^
ばぁばは乗って喋ってるだけで目的地とうちゃ~く♪
地図には奈良自転車道、なるものも見られ、チャリで♪
な~んて、昨日の今日とて、とても言い出せず、
めでたく旅の引導は彼彼女らに引継ぎ、完
法隆寺といえば聖徳太子
繰り返しになりますが、高校時代の日本史の先生がやたら高校生の妄想を掻き立てるのが上手い?面白い授業で、その恩師に勧められて読んだ「隠された十字架」梅原猛著
1972年出版で、世に出て2~3年で読んでたみたい。
学会やその道の業界では相当叩かれ、批判の嵐、異端視されたらしいです。
この度の奈良訪問のきっかけにも一役かっているのはもとより、4tr でも「隠された十字架」を巡る旅ブログや、mistral さんもその影響を受けられた?
45年の時を経て、もう一度手にしてみました。旅行から帰って2週間後、ブログ書く前に読まなきゃ良かった~まとめに四苦八苦(TT)
さすがに年の功?もあって、丸々鵜呑みにはでず、どっちかって~と、この前段階の「記紀不比等編纂説」の検証の方に興味がシフトしてしまい…。そもそも、「隠された十字架」は、梅原氏が日本書紀、古事記編纂に藤原氏の関与が大きい事を論証していく過程で、法隆寺の謎に突き当たって、派生的に書いた、みたいです。
本の抜粋だけで、最後まで、まとめられないまま、アップに踏み切りますm(_ _)m
私の立ち位置は、各論??? 総論 まあ、そういう見方も出来るかな?
↓きっかけを頂いたmistral さんのブログはこちら
https://4travel.jp/travelogue/11658504
- 同行者
- 家族旅行
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- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
今朝ももりもり
茶粥がクセに -
法隆寺 南大門
駐車場は無料(法隆寺手前の食堂兼お土産やさん)
係のおばちゃんがすごい勢いで誘導
一応、「駐車場付きのお店でお買い上げ、または飲食してね」、の但し書き付の、無料です -
飛鳥時代に仏教を中心とした国造りを進めた聖徳太子(厩戸皇子、574~622)
の1400回忌法要が、3日法隆寺で始まった。(2021年4月新聞報道より)
”常識の目でこの本を見たら、素晴らしき寺法隆寺と、素晴らしき人聖徳太子に対する冒瀆に見えるであろう。日本人が千何百年もの間、信じ続けてきた法隆寺像と聖徳太子像が完全に崩壊する“
↑冒頭、梅原氏が述べているように、(私もこの本読後なのでブログに影響あり)健全な常識と正しい良心をお持ちの方には、受け入れられない内容を含みますm(_ _)m
“この寺は実に注意深くつくられていて、あらゆるものが聖徳太子一族の鎮魂を志向している。こんな立派な寺が出来た以上、さすがの聖徳太子の怨霊も鎮まり、国家は安泰になるに違いない、と奈良政権は安心した。
藤原氏の実力者、不比等とそのパトロンたる元明天皇の相次ぐ死、に、残された人々は不吉なものを感じたが、聖徳太子鎮魂のせいか、仏は藤原氏に見方して、不比等の死後もその四人の息子たちはそれぞれ個性的な才能を発揮し、藤原氏は往時の繁栄を取り戻した。”
「隠された十字架」 -
このように、ひとけのない法隆寺は貴重な時間♪
法隆寺は飛鳥時代の607年、斑鳩の里に創建、聖徳太子が父用明天皇の
病気平癒を祈願して、推古天皇とともに薬師如来像を造立したのが起こりとされる。
金堂や五重塔の建立時期を巡っては明治以来論争が続いており、『日本書紀』(720年成立)に記された法隆寺炎上は誤りとする非再建説と、再建説が鋭く対立。
昭和14年に西院伽藍の東南隅の若草と呼ばれる地から、塔と金堂跡が発掘。
若草伽藍と名付けられたその遺構は、607年に創建された法隆寺にあたるとされ、再建説が通説になった。 -
聖徳太子という人がいかなる人間であったのか?
十七条の憲法をつくり、冠位十二階を制定。
「日出づる国の天子、書を日没するところの天子に致す…」で有名な、自主外交をされ、『三経義疏』をつくり、多くの寺を建てられた。
政治と学問の両面における天才であると共に、我が国仏教興隆の功績者である、偉大な方である。 -
中門
西院伽藍の正門
門の中心に柱が立つ(真ん中の空間がない)のは、滅多にない形。法隆寺の至る処に見られる偶然の原理?
通常の門は奇数で、真ん中がある。
門は人間が外→中に入るためのものではなく、仏様が内→外にお出ましになるためにある。
梅原猛氏によると、ここに納められているのは聖徳太子の霊であり、その霊が外に出ない様に、この様な門が作られた、という説。
“太子の霊はここに閉じ込められ、藤原一家は、持統天皇の子孫たちと共に安泰であった。
金堂と塔に太子一族を祀り、この二つの建物を回廊で囲め。
霊を外に出さない様に、門の真中に柱を建てよ。”
この説も、入口と出口とに分けただけなのでは?とか色々な反論がなされています。
梅原氏は、普通は門は奇数であり、この様な偶数の門、入口のない形式は中国のお墓的な処に見られるくらい稀有な例で、霊が外に出られない様に出口(入口)を塞いでいる、と。あらゆる処に偶数の原理が用いられている事が、怨霊を封じ込める為である、と結論付けています。
梅原猛著、記紀は藤原氏と時の政権によって、天武~持統系の皇位継承権の正統性と藤原氏の権力地盤固め、宗教改革のために編纂された、という仮説をもとに、その視点から読み解く法隆寺とは?誰によって、何故、何の為に、いつ作られたのか?という問いに綿密な証拠集め、検証でもって応えていくという、壮大な試みがなされています。
細かい検証の積み重ね、かなり繰り返しも多く、いきなり飛躍の結論?なところもあり、受け付けない方もあるかもしれない…。
真偽の程はともかく、読み物としては、面白い。
して、梅原氏の異端児的各論の現在での評価は?
40年の時を経て、発表当時歴史学者、国文学者、考古学者、民俗学者、など専門家たちから酷評され、支持したのは、私みたいなド、しろうとたちだけだったという、この異端の書の位置づけは変わったのでしょうか? -
中門左横の付近から入るのですが、先に回廊の外にある
西円堂へ向かい
その途中 -
-
土塀
-
西円堂
718年(養老二年) 橘三千代夫人の御願により行基建立(寺伝)、
鎌倉時代再建
橘三千代は藤原不比等の妻で、橘夫人念持仏はこの寺にあり、
東院伝法堂は橘夫人住宅が奉納された、という説が有力。他にも多くの品物が橘夫人から奉納されている。
「法隆寺資材帳」によると、
山背皇子殺害の張本人、巨勢徳太、殺害の共犯者孝徳帝による法隆寺への食封、不比等に続き、元明帝が死んだ後も、食封と多大な物品を下賜され、さらに、藤原四兄弟の死の後にも食封が下賜されている。
藤原氏及び藤原氏に縁故の深い権力者の死に際しての食封の下賜、
これらは残された藤原氏ゆかりの女性たちが太子の祟りを恐れたからではないか?
そして、藤原氏ゆかりの女性たちに多くの寄付を献じさせるほど太子の祟りを恐れたのはなぜか? -
-
薬師如来像 西円堂本尊
-
ここからの眺めも映えスポット、らしい
-
中門に連なる回廊に設けられた入り口から
西院中心伽藍へ向かいます -
五重塔
日本最古の五重塔
屋根が上層に行く程小さくなり、二等辺三角形になっているため、独特の安定感。
最下層の内陣には、釈迦の物語を表す塑像群が納められている。
釈迦の遺骨を納めるお墓の形。
平成13年に、金堂よりやや遅れて建立されたと考えられている五重塔の心柱が、594年の伐採である事が判明。
現存する金堂や五重塔はいつ建立されたのか、未だその結論は得られていない。 -
雲の形の肘木
雲の形をした屋根を支える部材
と
卍崩しの高欄
金堂にも見られる卍を崩した形に木材を組み合わせた高欄
下部に人字形の割束(わりづか)←写っていませんが… -
五重塔の初重には、東西南北の各面に合わせて約100体の塑像が祀られている。
(塑像を保護する金網と暗さで、中はほとんど見えません。)
釈迦の物語を表す塑像群は、東面から北面へと左回りに拝観すると
順番で一つの物語になっている
東面「維摩詰像土」
維摩と文殊菩薩の問答が主題
仏教について造詣の深い在家の信者維摩と、第一の知恵者と讃えられる釈迦の弟子菩薩形の文殊が、仏教について論争している
北面「涅槃像土」
涅槃に入る釈迦
今しも死のうとしている釈迦を、号泣する仏弟子たちや、人生無常の教えを悟ってなお深い悲しみの表情たたえる菩薩たちが取り囲み、ただ1人死にゆく釈迦のみが安らかな寝顔をしている
西面「分舎利仏土」
釈迦死後のもようと仏舎利を分かつ場面
南面「弥勒仏土」
須弥山を背景に弥勒が再生した時の姿
釈迦が入滅して56億7000万年後に、菩薩から如来となって出現する弥勒菩薩の浄土を表す
この劇的な場面構成と情景描写が見どころの塑壁について
梅原氏はこのような考察、推論を↓
“生~死~舎利供養~復活、ここでは生は死の淵をくぐって再生する。
あの維摩の如く英明な知をもった聖徳太子は、衆人悲嘆のうちに死に、その舎利が祀られ、寺が建てられる事によって、浄土に復活する。このドラマが、この四面の塑像の表す意味であり、この法隆寺が建てられた意味であろう。”
釈迦の物語=聖徳太子のあるべき姿、
かくあった姿、ではなく、法隆寺の建設者が望んでいる姿、
という梅原説
“聖徳太子よ、このようにあなたは素晴らしい人生を送り、丁寧に葬られ、浄土に再生したので、安らかに眠ってください。
聖徳太子一家の霊よ、この塔の中に心安らかにお鎮まりください“
という必死の願いが込められている。
「隠された十字架」より -
五重塔
塔本塑像 北面 涅槃像 -
むぎゅ~
最下層の屋根と裳階の間に置かれた邪鬼
かわゆさに思わず応援♪ -
よ~いしょ、っっと
-
むむう~
柱にも紋様が -
金堂
飛鳥様式を継承する最古の木造建築
仏像を祀るお堂
現在のような伽藍形式になったのは平安時代なってからで、
建立時、回廊に囲まれていたのは、金堂と五重塔だけだった。 -
とぐろってま~
屋根を支える支柱に上り龍
と
下り龍 -
上り龍
あと、見えますか?
上層隅出桁下雲肘木
金堂の上層部に使われていた雲肘木 -
こちら
下り龍 -
金堂
高欄には上部に卍崩し、下部に人字形の割束が見られる -
金堂内部
釈迦三尊像
釈迦如来 (口元には、これがアルカイックスマイル?)
脇に
阿弥陀如来 薬師如来 -
六角灯籠
-
大講堂
僧侶が仏道を学び法要を行う施設
僧侶たちが研鑽を積み、法要なども営まれるところ
薬師三尊像、四天王像安置
最初の建物は平安時代、925年焼失
当初は僧侶たちが食事をする食堂(じきどう)だったが、平安初期に仏壇が築かれ
講堂になったと考えられている。
もともと法隆寺にはそのような施設は必要なかったため(人間のための寺ではない故)後に食堂が改築された、との説もあり(「隠された十字架」より)
“金堂と塔には偉大なる聖徳太子一家の死霊がましましており、法隆寺の僧たちの仕事は、死霊が抜け出して生きている人間に悪さをしないように、死霊を慰め、見張る、牢番であった。
平安期に西院の地で儀式が大々的に行われるようになって初めて、ここに講堂が必要になった” -
大講堂内部
-
この瓦に名前など書いて、実際の修復時に使用される、とのお話。
娘が飛びつき、1000円で権利購入♪ -
しかも、記念写真撮影付き^ ^
後ろには五重の塔
ゆるふわ系男子
と
まっする系女子
あくまでも、わたくし個人的な印象ですが…。 -
記念に頂いたのが↓
-
十七条の憲法
その一、ニの写し
これは達筆なのか?
書、に疎いのでわかりません -
書き下し
平安時代にひらがなが出来る前は、漢文表記だったのね
して、読みも? -
どっこいしょ
がんばってま~ -
撮ろうとすると、どこからともなく現れる人
-
ので撮り直し
-
回廊
列をなす柱
胴張り(エンタシス)と呼ばれる、中央部分が膨らんだ柱が用いられている。
直径は、
一番太い中央部分的 約60cm
最上部に 約50cm
胴張り(エンタシス)は、古代ギリシア建築の影響が指摘されたが、現在は否定的な意見が多いとか -
-
-
いずれにせよ
美しい♪ -
-
大宝蔵院、百済観音堂
建物の
写真がありません(ーー;)
百済観音像、夢違観音像、玉虫厨子、橘夫人逗子など、国宝の仏像や工芸品を展示。
橘夫人は不比等の妻、光明子は橘夫人と不比等の娘で聖武天皇皇后まで上りつめ、もう一人の娘宮子(文武天皇夫人)はノイローゼになったとか。
藤原家の先祖代々の所業、悪行を知る光明子はその罪を償いたくて、聖武天皇と共に仏教に帰依し、仏教振興に身を捧げますが、それまで仏教は政治の手段だったのが、聖武天皇の時代に主客逆転、その結果として、道鏡のような僧侶に政治への介入を許す事に繋がります。
「隠された十字架」には、
ご本尊やここに収蔵されている諸仏像についての検証も、仏像の後背銘の文言や後背の取り付け方、に関する考証、などなど…。
が、とてつもなく、長く、細かく、列挙されています。 -
百済観音像 百済観音堂
左手に浄水の入った水瓶を持つ
水瓶は衆生の救済などを表し、慈悲深い観音の象徴にもなっている -
夢違観音像 大宝蔵殿
悪夢を善夢に転じる仏として信仰を集めたという
童子のような顔立ちは信仰心を童子の姿に託した表現 -
太子 二歳像
太子が二歳の時、東を向いて合掌され、その掌中から舎利が出てきたという話に因んだ像。
東大寺ミュージアムでも見ましたが、あちらはレプリカ?
それとも、宗教画と同様に、同じテーマの像がいくつも作られた? -
行信像 (薬師寺の東院堂本尊脇、四天王像の隣にも行信像ありました)
夢殿の造営は、738年律師になって以来、順調な出世を続けた行信一代の大事業であった。彼はそれにより、法隆寺ばかりか奈良六大寺全てを検校する権力を得た。
思いのままに当時の仏教会を動かしていたこの怪僧は「厭魅」の罪で失脚する。
(厭魅とは、人形を作って釘を打ち込む様な、呪詛、間違った習慣で、不正な事を行い、病気にさせたり、死なせたりする行為)
厭魅の対象、は百二十年前に死んだ聖徳太子。前代から何度も出現して、藤原政権を悩ませた太子の怨霊を厭魅の効力を駆使して閉じ込め、厭魅の呪力によって法隆寺の東院建設に成功し、大僧正の地位を手に入れた。 -
西院を出て
藤原氏がなぜここまで聖徳太子を聖人化し、畏れたのか?
ですが、
聖徳太子の息子、山背大兄皇子一家殺害した蘇我氏(蘇我氏の擁立する軽皇子、後の孝徳帝との後継者争い)を滅ぼした藤原鎌足は、敵の敵は敵、の論理で、聖徳太子の擁護者=仏教擁護派 という構図を狙ってます。(実は鎌足は山背大兄皇子殺害の黒幕、後の孝徳帝と近かった説あり、その黒い噂を消すという意味もあった)
人間、過去に後ろめたい事があると、身内に何か災厄が起きるたびに、その過去に犯した罪に怯えるもの。当時の人々は特に死後の霊、怨霊に祟られる、という恐れに支配されていたよう。
聖徳太子は蘇我家の精神的支柱でありそれは仏教であったので、その聖徳太子一家を滅ぼした蘇我氏は”悪“で、”悪“である蘇我氏を滅ぼした藤原氏は“善”であり、仏教擁護派である、と主張する必要があったわけです。
藤原氏は神道を中臣系に任せ(鎌足が藤原姓をたまわり、不比等が自分の子孫以外は藤原をつかわせず、中臣系と分けた)、神道に代わる(神社を否定せずに)統治手段としての仏教政策を進めました。
その為に鎌足はじめ藤原氏は仏教擁護派である正統性を確立する必要があった。 -
東院へ
”日本を支配したさまざまな氏族、蘇我氏、藤原氏、平氏、源氏、北条氏、足利氏、徳川氏など、そのうち平氏源氏の支配期間はわずか、比較的長い足利、徳川ですら、支配期間は三百年に満たない。
藤原氏は、鎌足以来、鎌倉幕府成立までの実権を握り、その間約五百年、それ以後も他氏の様に滅びたわけではなく、かつ、天皇を擁して純然たる力を持っていた。
明治維新に至るまで千二百年間、藤原氏は日本第一の、唯一の貴族であった。
その権力の基礎はほぼ鎌足、不比等の親子によってよほど巧みに作られた。
支配の跡を全く感じさせないような支配、それが最も巧みな支配の技術である。
我々が今日、この時代を知るためには残された二つの歴史書「古事記」と「日本書紀」によらざるをえない。“
この二つの書は従来、藤原氏と関係ないものと考えられてきたが、この二つの書が、藤原不比等の指導のもとに作られた、という大いなる仮説、
これが梅原猛氏の提示するもの。
“彼等はよほど巧みに権力の基礎を作ったわけであるが、従来、この様な権力の秘密について、ほとんど説明らしい説明はもちろん、それに対する疑問も起こされなかった。”
専門分野に細切れに分けるのではなく、分野横断的に、総合的評価を試みた点で、梅原氏の仮定、推論は見事ですが、随所に論理の飛躍、仮定に結び付けようとする強引さ、なども見られ、読み物としては面白いけど、専門知識がないシロウトには、整合性も真偽の程も判定できないかな~、という感じ -
一本の石畳の参道と築地(土塀)が
ぜいたくな空間
法隆寺と藤原氏の関係を探る資料として、梅原氏は「法隆寺資材帳」が最も重要だという。
寺社縁起は寺社が時の政権に対して自分の由緒などをアピールするために書かれたので、内容は相当盛っていたらしい。
反面、資材帳は財産目録的な記録なので、ほぼ実態に近いとか。
なので、史実の確認には資材帳の方が信頼できる、とか。 -
東大門
西院伽藍と東院伽藍の境界をくぐり
東院
四脚門へ
皇太夫人、宮子は文武帝との間に聖武天皇をもうけたが、生涯位は夫人のかままであったのが、父、不比等の政治力のおかげで皇太夫人となった(この時の悶着には、長屋王が関わっている)。
藤原四兄弟が成長し、新政権が誕生、長屋王が殺された後、年号を天平と改め、聖武天皇夫人、光明子を皇后という光栄ある地位につけた(皇后には従来、皇族出身者しかなれない)。
不比等の二人の娘は、一代を経て二回級地位が上がり、この特進の背後には長屋王をはじめ無辜の人間の血が数多流されていた。
皇太夫人宮子が、藤原政権獲得の過程を如何程に知っていたかは分からないが、聖武天皇を産んで以来ノイローゼになる。同じく幽憂に沈んでいた光明皇后は玄昉の慰めにより回復し、義母である宮子にこの精神及び肉体の名医玄昉を紹介したのか、宮子が玄昉によって幽憂の病を癒やされ、仏教に転向した。この宮子の仏教への転向は、藤原氏全体の転向を意味し、妻(光明子)と母(宮子)に続き、当然聖武天皇も仏教に溺れる事になる。
ここに、不比等が持っていた神道で国を造ろうとする理想も、政治の手段としてのみ仏教を認めようとする仏教に対する警戒心も、全て藤原氏自身によって捨てられ、不比等の子孫たちは仏教そのものの中に溺れていく。 -
法隆寺の夢殿建造は、行信の力による。
藤原四兄弟の死、玄昉の僧正就任、玄昉の宮子ノイローゼ治癒、の結果として、玄昉の引きによって行信は律師になり、大僧都にまで出世、玄昉と共に当時の仏教界を支配するようになる。
『法隆寺東院縁起』は、この東院が行信の願により建設されたと伝える。
行信は、このかつて聖徳太子が住んでいた宮殿の跡が、今荒れ果て野獣の住処になっているのを嘆いて、ここに東院建設の願をたてたという。 -
鐘楼
釣ってある鐘「梵鐘」は、中宮寺の鐘、と伝えられる天平時代のもの。古代の鐘楼は楼造であったが、このように下層に覆いをつける袴腰形式としては最古。
正倉院には、父不比等と母橘三千代の成仏の為に、日本はおろか中国、インドに伝わる全ての経典を写したい、という光明皇后の願文が残る。父不比等、母三千代の、父祖の犯した悪行が光明皇后の不安をかき立て、良心を刺す。自分たちは父祖の悪行ゆえに滅びゆく運命にあるのでは?
彼女にそう思わせる事は、仏教興隆の最もよい宣伝手段でもあった。
「先年の不幸(藤原四兄弟の疫病による死)は全て、聖徳太子の祟り。母三千代をはじめ藤原家の人々は法隆寺を作って手厚く太子を祀った。が、まだ太子の霊は慰められず、太子の怨みは尽きず、あの法隆寺を脱出して四兄弟を殺した。太子が生前住んでいた宮殿跡に太子を祀り、二度と怨霊が出られない完璧なお堂を作るべし」 -
夢殿
“行信は、光明皇后の援助のもとに夢殿建設を計画したのではないか?
東院、かつて聖徳太子が住んでいて、あの山背大兄皇子事件の時に火を放った斑鳩の宮が、焼け跡のまま放置されている。そこに供養の寺を建てる。”
”東院建設者の一人である光明皇后は、
母橘三千代による西院北西方にある八角円堂、聖徳太子の鎮魂じ力を尽くした亡母、三千代の意思を継承しようとしたのか?
父不比等の死後、元明、元正両帝は興福寺に北円堂を建てて不比等の霊を祀ったように、八角円堂は優れた人間の墓であった。
夢殿は聖徳太子の為、興福寺円堂は不比等の為、栄山寺八角堂は武智麻呂の為に造られた事から、円堂は故人の供養堂の意味をもっていたと思われる。“ -
屋根の頂の宝珠?それとも舎利瓶?
梅原説では
夢殿の屋根には舎利瓶があげられている、とされる
”八角円堂の中には八角の石壇があり、その上に八角の厨子があり、その中にあの有名な救世観音がおられる。(1200年間体いっぱいに白布が巻かれたままだった)
この基壇では冬など冷え冷えとして瞑想どころではなかったのでは?
日本人は死者の出現を恐れ、偉人の霊は死後出現する力を持っているので、大きな古墳を作り、大きな石棺に死体を埋め、永久に死者の霊魂が出ることを防いだと思われる。
夢殿の堂内の冷え冷えとする巨大な石壇は、巨大な石室や石棺の事を連想させる。“
まだ法隆寺再建説が決定的ではなかった当時、夢殿もまた、生前太子が住んでいた建物か、天平11年に建てられたのか定説はなかった。顕真の『聖徳太子伝私記』にも、太子在住建物説と、天平11年行信建設説をあげている。
『聖徳太子伝歴』には太子が夢殿に入って深い思索にふけられたという話もあり、夢殿という名は太子の瞑想を想起させやすい。 -
夢殿
救世観音像
樟材の一木造り、表面に金箔貼り
1200年もの間秘仏として、誰の目にも触れさせられないできたこの像が、フェノロサによって、その姿を世に現すまで、全身をぐるぐる白布で包まれ、幾重にも厨子の中にいれられ、開けば地震が起き夢殿は倒壊する、という戒めに護られた秘仏であった。
「決してこの像を見てはならぬ。この像を見れば忽ち天変地異が起こり、法隆寺という殿堂そのものが崩壊するであろう」
梅原説では↓
救世観音の釘は行信の犯罪では?
背面が空洞である事、後背が大きな釘によって頭に直接打ちつけられている、点をあげて、
こともあろうに、仏像の頭の真ん中に釘を打つという行為は呪詛の行為であり、殺意の表現である、と。 -
中宮寺
本堂はここではなくて、離れたところにあり、行ってみたのに、
新しいのでそれとは思わず(ーー;)
本堂の写真はmistral さんの旅行記でご覧いただけます♪ -
この横のお堂に拝謁しました
なんだかありがたい仏さまだとか? -
↑
というわけで
ただ今、我が県に貸し出し中~
ご本尊がいらっしゃらないので、入口で引き返す方々もおられた…
後日、九州国立博物館、開催最終日に行って参りました。 -
レンタカーで今夜のお宿へ
-
有名処
スタッフさんの数、対応ともに
さすがでございます♪ -
ツイン
2部屋に分かれて宿泊 -
長くなるので
ホテル編は別途♪ -
この後、ならまち散策に出かけます
なんだか、まとまりのない中途半端、知ったか?なブログになってしまいm(._.)m
ちぃっと、手に余る分野に深入りし過ぎて、この件をしばらく放置する事に(笑笑) -
シリーズ、まだ続きます、が
だらだら感、否めず!?
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この旅行記へのコメント (6)
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- しにあの旅人さん 2021/04/10 07:44:53
- 読みました!
- おはようございます。
すごい、正面突破だ。力作何度か読み直しました。
「隠された十字架」を読んだ若き日を思い出しました。本の内容も少しずつ。
中門の真ん中の柱、あった、そういう話。法隆寺は何回も行っているのに、その時は思い出しませんでした。そういえば、変な格好ですね。手前の南大門はちゃんと正面から入れるのに、中門はトウセンボ。
たしか向かって左の角から入って、右隅に出るのでしたよね。昔、お寺のスタッフしか入らないのなら、門なんか作らなければいいのに。扉をつけちゃうとか。どっちみち規格外なんだから、胸の高さくらいで横に棒をつけてもいい。
怨霊を閉じ込めるのがそんなに大事なら、なんでそうしなかったのかな。梅原さんはなんか書いていましたっけ。
意地悪く、もう一度追及してみませんか。
これ、kumming節でやったら面白いのに。
中門を外から見た写真はいっぱいありますが、中から見た写真、撮ってませんか。つまり出ようとして出られなかった怨霊の目線で見た中門。あったら、是非やってほしい。
仏像の頭に光背が釘付けされているとか、聖徳太子の肖像が異様に長い剣をつけているとか、どんどん思い出しました。
藤原一族の女たちの不安の話、完全に忘れていました。よくまとまっていてわかりやすかったです。これは梅原説説得力あると思います。
ただ、光明皇后ですが、いろいろ調べると、この方、怨霊にへこたれるようなヤワな人物ではなかったという印象です。
法隆寺は本当にこれでおしまいですか。残念。
次はかの有名なホテルですね。期待ワクワクです。たぶん一生縁がないので、これで行ったことにします。
- kummingさん からの返信 2021/04/10 15:02:02
- 正面突破?出来ていませんがm(_ _)m
- まず、読んで頂いた事に心から御礼申し上げます♪
mistral さんとしにあさん、大御所お二人に見てもらえただけで、この駄作も限りなくDに近いC-(Cマイナス)、ギリ単位取得した事にしましょう?!?
奈良に向かう時は、まだ再読していなかったので、中門を中から撮る、なんて考えもしませんでした。脇目もふらず回廊脇から中心部に向かったような?
当初は愛らしい邪鬼や柱に巻き付く蛇、の写真などをメインにおちゃらけブログ、の予定だったのが、閉館中の図書館にリクエストしていた本が手元に届いた処から、計画に齟齬が生じ(ーー;)
しにあさんの場合は
1 文献読み込み
2 構想、立案(切り口、ツッコミ処を定める)
3 現地調査(現地に赴き写真撮影、資料集め)
4 執筆、更に資料読み込み、編集(by妻さんの協力を得つつ)
5 推敲、編集
みたいな流れでしょうか?
今回の私は、まず、読み込み不足、しかも的を絞れず、どこから切り込んだのか分かりかねる、起承転結もない、もやもや感だけが残る仕上がりで、力不足、不本意ですが、このまま放置することに(笑)
いつも本を読みながら、面白いヶ所や気になる処に栞を挟むクセがあるのですが、「隠された…」にはなんと40数枚挟んでいました(o_o)
光明皇后の件もこれ以上知らず、やはりもっと調べるか、または梅原氏のような亜流?から入ったことの限界、というか、一般的に正史とされている文献も読まないと、深掘りは出来ないのかな、と思いました。
しにあさんにとってby妻さんという同胞がいらして、あれこれ相談したり、議論されして作り上げていらっしゃる、そこは大きいんだろうな~、と、一人で行き詰まってしまった私には羨ましい限りです♪
今後はやっぱり、軽佻浮薄おちゃらけキャラに戻ります^o^
アドバイスを含め、カキコ、ありがとうございました♪
- しにあの旅人さん からの返信 2021/04/10 18:50:31
- 負けるなkumming!
- 正面突破これからもよろしく。
大御所など大それた。私など、天井桟敷から「kumming屋!」と声をかけているだけ。声も届かない。舞台正面枡席、特等席では、皆さん、どこで掛け声をかけようかと待っているはず。なんか、パリオペラ座、相撲、歌舞伎座とごちゃ混ぜです。
むかーし、国立劇場で見た海老蔵の弁慶、花道付け根で見栄を切り、息を溜めて、これから六方。大向こう掛け声一発「待ってました!たっぷり!」
という感じで、かの有名ホテル、kumming節でお願いします。
- kummingさん からの返信 2021/04/10 21:00:06
- Re: 読みました!
- 激励、または喝?
ありがとうございます♪
しかし、なぜ毎度、私の心の内を見透かされるのでしょ?
永久凍土化か投稿か、迷ってた時といい、
しばらくお休みしよ~、と秘かに目論んでいた今日といい(-。-;
3泊4日を小分けして7個のブログにするのも、毎週投稿するのも、ちょっとしんどくなった、軟弱者でございますm(_ _)m
当面はしにあさんはじめ皆さまの読者に専念しよ~かな♪
-
- mistralさん 2021/04/09 08:58:26
- 隠された、、、真の意図は?
- kummingさん
おはようございます。
大作の旅行記、昨夜拝見。
かなり時間をかけられたことがわかりました!
金堂にトグロを巻く蛇たち、陰で支える邪鬼さん(正式には何と?)たちの豊かな表情、
建築部材に至る名称などなど、更に五重の塔内部の涅槃像、
一転しての(失礼!)細部に渡っての記述に、じっくりと、楽しく拝読しました。
深みにハマるとヤバそう、と思った私は、「隠された十字架」の記述は
こう書かれていましたよ、ぐらいでサラッと書いたつもりでしたが
kummingさんは一歩踏み込み、藤原氏が権力を握っていくまでの過程を
詳しく記述され、
そういう意味では梅原氏の意図とも一致しているのでは、と思いました。
百済観音が数百メートルにも及ぶ布でグルグル巻きにされて厨子に収められていた、
との記述には、何らかの意図のもとに?といまだに思っていますが。
kumming家のおのこは、チャリで法隆寺を目指そうとしたお母上の野望を慮り、
レンタカーを調達されたのですね。
次は奈良ホテル滞在の旅行記、
我が家では流石に子供たちまで連れて行ったことは未だにありません。
館内ツアーだけでも楽しいし、ディナー、朝食など、見どころ多い次回作となりますね。
楽しみにしてお待ちしますね。
mistral
- kummingさん からの返信 2021/04/09 19:49:44
- Re: 隠された、、、真の意図は?
- mistral さん、いつも優しいコメントありがとうございます♪
冗長なだけのまとまりのない代物になってますm(_ _)m
梅原氏の説、だけに限ってみると、なるほど~、と感心する自分がいる一方で、他の観点から見た説を知らないままでは、全面的に信じてしまえない自分がいます。
なので、この案件から離れて、書をすて外に出よ~^ ^ 時節柄新緑が美しい最近、思っています♪
私には手に負えないテーマでした。以後今までみたいな軽~いノリのブログに戻ります。
海外でも、奈良に限らず、国内でも、公共交通機関での移動はちょっと手間ひまかかりますね。レンタカー、楽ちんでサイコー♪
mistral さんはシチリアやスペインでもレンタカー、奈良では2人乗りの車や電動自転車をご利用でしたね。脚力に自信ない私には、身軽に動ける脚、重要です。
奈良ホテルは写真も余りなくて、またmistral さんのurl添付で助けて頂く予定です^ ^
次回はいつになるか??ですが、お寄りの際は、「見ました!」だけのカキコでも、よろしく~
読んで頂き、ほんとうに、感謝!でございます^o^
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