2019/10/23 - 2020/10/23
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gianiさん
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中世のノルマンディ公国首都を回ります。
公営のミュージアムは、すべて無料です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のは,駅を降りることから始まります。
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駅近のスポットから。
ジャンヌダルクが裁判を受けるために監禁された場所。
いきなりヘビーです。ジャンヌ ダルクの塔 建造物
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壮麗な噴水
Fontaine reservoir Sainte Marie 建造物
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考古学博物館へ。まずはお勉強コーナー。
オート・ノルマンディにおける修道院分布(6~15世紀)
凡例 小豆色(15個):ノルマンディ公国以前に設立。白(23個):ノルマンディ公国時代に設立。2色(7個):中世後半に設立。
ルブランの怪盗ルパンシリーズの「カリオストロ伯爵夫人」の中で、北斗七星の形になる7つの修道院をピックアップしていましたね。考古学博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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ノルマンディ公国
911年、ロロがルーアンとバスセーヌ地方の支配権をフランス王から獲得した。
924年にはペイドージュとベッサン、933年にはコタンタンやアヴランサンにまで拡大した。
大きな特徴の一つは、フランク人とスカンジナビア人が迅速に融和したことである。
そして、カロリング王朝の統治形態を踏襲し、歴代の統治者は教会を保護した。荒廃した修道院を再建、新しい修道院も建設していった。
11~12世紀の人口増加は、とても重要だった。特に1066年のイングランド征服によって経済・文化圏が拡大し、ルーアンをヨーロッパ北西部最大の都市へと押し上げた。12世紀末には、フランス二大都市の一つにまで成長した。
ノルマンディ公国はフランス王にとっても魅力的な土地で、ルイ7世やフィリップ・オーギュストの攻撃を受けたが、ついに1204年に征服された。 -
ノルマンディにおけるロマネスク
それは(公)国の芸術で、政教間の緊密な関係により生まれた。
領土全体に広まった。それには1020年に編入されたシチリア領、とりわけ1066年に編入されたイングランド・アイルランドも含まれる。
偉大な都市事業が行われた。例えば、ルーアンのロベック川とフェカンのブート川の流路を迂回させ、ルーアンには橋が架けられた。
宮殿や城が、公や男爵たちによって建設された。一例として石造りの城には、木製の外壁や堀地形を利用した要害や監獄が伴った。
大修道院に付属する大司教区の図書館は高名で、とりわけ写本工房は多忙だった。僅かな芸術作品が、教会や裁判所に今も遺されてる(バイユーのタペストリーやヴァラッスの十字架など)。 -
教会は、装飾を相応しくないものと厳しく制限したので、ほとんど見られない。彫刻には幾何学模様が使われた。植物柄は、パルメット(小さなヤシ)のように簡略化されたり、厳格で装飾性を排した「葉」などに様式化されていった。
こうした抽象化の精神は、初めてのものだった。
こうした新しい息吹は、1150年代以降にはイルドフランス地域にまでもたらされ、ボッシュビルの柱頭など、ゴシック彫刻の伏線となった。 -
フランス統治下のノルマンディ
1204年、ノルマンディはフランス王フィリップ・オーギュストによって征服され、再びフランス王国の領土となった。
平和がもたらされ、新たな繁栄を謳歌した。農村の経済は開花し、都市は海上交易と衣料産業で発展した。
しかし1337年に、イングランド王エドワード3世は、フランスにおける自身の王位継承権を主張した。これが百年戦争の契機となった。
イングランドとイルドフランスの中間に位置するノルマンディは両者に翻弄され、戦闘と疫病と飢餓によって荒廃し、暴動を引き起こした。
当初フランス側は、敗北に次ぐ敗北だった(クルシー、ポワティエの戦い)。
その後シャルル5世およびデュグルクスランによるセーヌ低地地方のレコンキスタが行われ、1364年にコシュレルの戦いでも勝利した。
しかし平和は続かず、再び荒廃した。今度はヘンリー5世がフランスへの王位継承権を主張し、1419年にノルマンディを占領したのだ。
一時的な紛争はあったものの、概してイングランド統治下のノルマンディは繁栄した。しかし、ジャンヌダルク軍による初期の勝利は、暴動を扇動した。
しかし1430年に捕虜となり、翌1431年にはルーアンでイングランド側によって火炙りの刑に処された。それでもフランス側は、領土回復への戦いをやめなかった。1449年にはルーアンを取り戻し、1450年にフォルミニーの戦いに勝利することにより、ノルマンディは再びフランス領となった。
ノルマンディは、甚大な被害を被った。自治権を1469年に喪失し、ノルマンディ公国はフランス王国に吸収され、永遠に消滅したのだ。
しかし川と海のおかげで商業は再び繁栄した。15世紀の最終四半世紀には、ルーアン、ディエップ、フェカン、オンフルール、シェルブールといった都市が勢いを取り戻した。 -
ノルマンディにおけるゴシック
ゴシック芸術は、12世紀の半ば頃にイルドフランスのカプタンで出現し、ロマネスクの美学を終わらせた。
都市文明が反映され、急速に広まり、13世紀にはヨーロッパのほぼ全土にまで及び、それは16世紀まで席巻した。
初期は建築に反映された。13世紀は「カテドラル」の世紀だった。
(注:本来カテドラルとは、司教座のある教会(司教様の常駐する教会)を指すが、外観をイメージできるように大聖堂と訳すことが多い。) -
ステンドグラスがはめ込まれた窓のおかげで、(内部の)壁面は明るく照らされるようになった。カテドラルは、巨大なガラスの家でもあった。
差し込む光と荘厳なデザインは、神の創造物に見られる摂理を感じさせた。
(※写真は、金細工人の手によるステンドグラス) -
彫刻の重要性は徐々に増し、表玄関、ファザード、内部を装飾した。
聖書の歴史をも題材とし、「図解版の聖書」でもあった。 -
柱頭に彫られた、創世記(聖書巻頭の書)のワンシーン
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楽士と踊り手
生き生きとしていますね。 -
彫像は、それ自体が目立つ存在で、葬儀にまつわるものなど祈る姿の彫像は、ますます一般的になっていった。
シンプルで、非常に人間味にあふれるスタイルである。
ゴシック芸術は、荘厳さを添えて神による創造物を高めている。金細工や銀細工が発展し、象牙細工も増えた。 -
諸聖人と聖人崇拝
宗教の影響力の強かった中世においてでさえ、社会の進化と歩調を合わせて、宗教的表現にも新しい様式を組み込んでいった。
14世紀半ばから、人々は恐ろしい疫病の犠牲となった。新たな疫病は、戦いを一層凄惨なものとした。飢餓とペストは、都市も農村も荒廃させた。したがって、宗教的表現は変化していった。
死と追悼は、宗教儀式の核となった。特に聖遺物への崇拝が盛んになった。そのため、より多くの(聖遺物を詣でる)巡礼が行われるようになり、巡礼者を描いた作品もより多くなった。祈りは、直接聖人や殉教者へ向けられるようになった。
(注:聖書によると、祈りは、神に向かって捧げられるべきもの。)
聖ロクスや聖セバスチャンが、ペストに対する守護聖人として崇められた。
12世紀には、諸聖人と処女マリアは、ゴシック図像の対象として、中心的地位を確保していた。しかし、中世の終わりの時点では、死と苦痛と悲痛に大きな重点が置かれた。聖人たちは、人間により近い存在として映った。テーマは、キリストの死(受難・十字架への磔etc.)と泣き悲しむマリアへと発展していった。キリストは、より人間くさく、より苦しんでいる姿に見えた。処女マリアは、今や嗚咽する母親として描かれた。
芸術は、さらなる表現力を強調した。 -
イングランドにおける雪花石膏のレリーフ(中世末)
15~16世紀にかけて、雪花石膏に施した浮彫(レリーフ)は、雪花石膏の採石場が多く存在するミッドランド地方のノッティンガム周辺で、大量に制作された。
これらのレリーフは、イングランドでもヨーロッパ大陸でも、非常にポピュラーだった。その多くが大陸の西海岸(とりわけノルマンディ)へと輸出された。とりわけヘンリー8世による改革の時に増加した。それまでは宗教的な形象を禁止されていた。
(注:それまでは偶像崇拝に抵触するとみなされ、禁止されていた。)
レリーフには、処女マリア・キリスト・使徒・諸聖人の生涯が描かれた。
同じモチーフを繰り返し用いているにもかかわらず、工房ごとの違いが表現されている。作品の色使いは多彩である。 -
カラフルな色使いですね。
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お約束のエジプト展示も。
第三共和政時代に、パリでは展示しきれない膨大なコレクションを、地方に分配しました。
ちなみにルーブル美術館は、展示スペースを繰り返し拡張しても、いまだにコレクションの十分の一しか展示できていないそうです。 -
木棺の周囲には、棺に納められた遺体(ミイラ)や、埋葬時の副葬品が陳列されています。
右下には死者の書が。黄泉の国への行くための片道切符の役割を果たしました。 -
続いては、メソポタミア。
旧約聖書では、アブラハムの記述に該当する部分です。 -
楔形文字。
表意文字のエジプトとは、全然違いますね。
商取引や、それに付随する法律に関するものが多いですね。
祈祷書等が多いエジプトとは対照的に、実務的な内容が多いです。 -
どことなくユーモラスで、
東洋的なものを感じます。 -
日本の展示も
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その先は、自然史博物館。
写真は、ナマケモノ。自然史博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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コアラだっています。
剥製の宝庫です。
ホルマリン漬けも多いです。 -
ちょっとした動物園です。
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博物館の裏側には、噴水が。
Fontaine reservoir Sainte Marie 建造物
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市庁舎横には教会が。
大聖堂並みに大きかったです。サン トゥアン教会 寺院・教会
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とにかく大きいです。
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聖堂の横には、素敵な庭園が。
ルーアンらしく、ジャンヌダルク庭園と書かれていました。 -
サン・アマン広場には、モネの像が。
Place Saint Amand 広場・公園
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古民家を利用した博物館。
国立教育博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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第一共和政および第一帝政の図解。
分かりやすいです。 -
一番面白かったのが、17世紀の寺子屋の風景。
学級崩壊とは違う意味で、カオスです。 -
建物の裏には、美しい通りが。
川の流路を変えた名残です。オー ド ロベック通り 散歩・街歩き
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小ぶりですが、ゴシック様式と繊細さが併存する
魅力的ファザードでした。サン マクルー教会 寺院・教会
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至る所に木組みの古民家が。
すべて現役。陥没具合が、味を出しています。
後編へ続く↓
https://4travel.jp/travelogue/11670870
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