2020/11/13 - 2020/11/14
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hidemi.yさん
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GOTOトラベルキャンペーンの最中、和歌山県北部の観光を思い立ち、一泊二日の日程で愛知県尾張南部からマイカーで出発しました。
旅行の初日は、平安時代初頭に弘法大師、つまり空海によって開かれた日本仏教の聖地といわれる「高野山」の各エリアを観光し、和歌山市内の西国第2番の札所である「紀三井寺」を参拝してその日は「和歌浦温泉萬波」に泊まりました。
翌日は宿近くの、そもそもはペリー黒船来航を機に元番所お台場跡に庭園が築かれた断崖絶壁の岬にある枯山水の庭園「番所庭園」を見学、続いて徳川家ゆかりの神社「紀州東照宮」を参拝し、「暴れん坊将軍」で有名な徳川吉宗が居城していた「和歌山城」を見学後、そして弘法大師が高野山開創に際して高野山参詣の表玄関として伽藍を建立し、高野山への宿所とした「九度山」へと車を進めました。
九度山では世界遺産の「慈尊院」や真田幸村の聖地を散策して帰路につきました。
まずは初日の観光の様子からお話しします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
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午前5時半、尾張西部の自宅をナビの推奨ルートを無視して名阪国道等を利用し、途中奈良県で通勤渋滞にはまりながらも、高野山入口の「大門」を通り過ぎた先の壇上伽藍中門正面の「金剛峯寺駐車場」に午前9時半頃に到着しました。
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まずは徒歩で1km程戻った先に建つ朱塗りの「大門」に向かいました。
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「大門」は、高野山の入口の一山の総門で17世紀初頭に再建された高さ約25mの国内最大級の木造二重門だそうです。
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散策してきた道を戻り、駐車場の真ん前にある高野山の総本堂の「金堂」が建つ壇上伽藍エリアへ。
ここは弘法大師が高野山で最初に開いた地で、奥の院と並ぶ聖域とされ、見どころが集中するエリアです。 -
これは伽藍の正門として建つ「中門」。18世紀半ばの大火で焼失し、金堂手前の一段低い所に礎石のみを残すだけでしたが、170年ぶりの昭和7年に再建されたそうです。
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中門をくぐり、その奥の高野山の総本堂の「金堂」へ。
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高野山の総本堂「金堂」は、弘法大師が建てたもので、薬師如来を本尊とし平安時代半ばから高野山の重要な役割を果たしてきたそうです。
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金堂内への入口。この先は写真撮影等禁止でした。
金堂見学後は、高野山に伝わる「両壇遶堂次第」に従い時計回りで巡ることとしました。 -
金堂の西側に建つ「六角経蔵」は、鳥羽法皇の皇后が法皇の菩提を弔う一切経を納めるために建立された経蔵だそうです。
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六角経蔵を一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得られるといわれており、信心深い家内が押し回しています。
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鐘楼と境内の様子です。
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弘法大師の伽藍建立計画案の「御図記」に基づき、弟子の真然大徳によって建立されたといわれる「西塔」です。
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次の建造物は、「御影堂」です。
弘法大師の持仏堂として建立されたが、後に「弘法大師御影像」を奉安したことで御影堂と名付けられたそうです。 -
御影堂の南側に立つ「三鈷の松」です。
そのいわれは、弘法大師が伽藍建立の地を示せと祈願して、唐の浜から投げた三鈷杵(密教におけるインド神話上の武器に例えて法具としたもの)が空中を飛行してこの木に掛かっているのを見つけ、この地こそ真言密教にふさわしい地として、この山を開くことを決意したとのこと。 -
続いては真言密教の教えを体現する象徴として建立された「根本大塔」。
極彩色の塔内には立体の曼荼羅世界が広がると共に四仏が祀られ、多宝塔としては日本最初であるとのこと。 -
ここも内部の写真撮影等は禁止で、言葉でしか表現できないのが残念です。
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大塔の鐘と根本大塔。
この鐘は、弘法大師の発願により弟子の真然大徳の代に鋳造した鐘で、その当時国内で4番目の大きだったとか。 -
根本大塔からの金堂とその奥の中門。
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壇上伽藍エリア最東部の建造物の「東塔」です。
これは11世紀の初め、白河院の御願によって創建されたそうです。 -
続いて「金剛峯寺エリア」に向かうにあたり、伽藍入口から続く「蛇腹路」と呼ばれる小道を散策。
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この路の言われは、高野山の風景を龍に喩えると腹にあたる場所であることで蛇腹と呼ばれているそうです。
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蛇腹路を抜けた先の高い石垣の上に建つ「六時の鐘」と呼ばれる鐘楼。
16世紀初頭、戦国武将、福島正則が父母の菩提を祈って建立したとのこと。
尚、六時の由縁ですが、この鐘は午前6時から午後10時までの偶数時のみ、高野山内に時を刻む鐘音を響かせていますが、午前6時から撞き始められるのが名の由来とのこと。 -
高野山全体を指す「金剛峯寺」は、弘法大師が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」というお経より名付けられたと伝えられているそうです。
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「正門」をくぐって境内に入ります。
この「正門」は、金剛峯寺の建物の中で一番古く、15世紀末に再建されて以来、今日まで建っているそうです。 -
門をくぐった右手に金剛峯寺の前身の青巌寺の「鐘楼」があります。
この鐘楼は、18世紀半ばに再建されたものと考えられるそうです。 -
門の先の「主殿」です。
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もとは豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔った「青巌寺」だった建物だそうで、屋根は檜皮葺になっていて、屋根の上に雨水を溜めておく桶が置かれ、火災発生時にこの桶の水をまいて屋根を湿らし、類焼から免れるためのもので、「天水桶」と呼ぶそうです。
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鐘楼の向かえに囲いがされた玄関口は、金剛峯寺の表玄関にあたる「大玄関」と呼ばれ、かつて天皇・皇族や高野山重職だけが出入りしたそうです。
また一般参詣入口となっている玄関は、「小玄関」と呼ばれ、高野山では位の高い方が使用された玄関とのこと。 -
ここは重要な儀式、法要が執り行われる「大広間」です。
襖には群鶴や松の絵が描かれ、狩野法眼元信の筆と伝えられているそうです。
正面奥は、「持仏間」と言われる仏間で、本尊は弘法大師を奉安し、両側には歴代天皇御尊儀の位牌や歴代座主の位牌が祀られているそうです。 -
写真撮影等禁止の襖に狩野探幽斎守信が筆者と言われる「梅月流水」が描かれている「梅の間」や山本探斉による柳鷺図が描かれている「柳の間」を見学して別殿に至ります。
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その通路脇の庭です。
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「別殿」の通路です。
別殿は、昭和9年の弘法大師御入定1100年・御遠忌大法会の際に建てられた桃山様式の建築物で、30年程前までは一般信徒の休憩所として使用されていたそうです。 -
建物は南北に長く西側は庭に面し、西・東両側に各四つの部屋が並び、西側には花の間の連続で四季の花鳥が描かれていました。
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ここは「新別殿」、今まで重々しく荘厳な空気が一気に掻き消されてしまいました。
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昭和59年に大勢の参詣者の接待所として新設され91畳と78畳の二間からなり、空海の肖像画や曼荼羅が掲げられ、僧侶の法話が聞けるコーナーが設けられていました。
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「新別殿」を抜けると再び「別殿」に至り、庭に面する西側の花の間の見学をしてきました。
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その庭は、「蟠龍庭」と呼ばれ、新別殿建造時に造園されたそうで、石庭としては国内で最大級を誇っているとのこと。
この石庭は、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されているそうです。その意味はよく分かりませんでした。
龍を表す石は、弘法大師誕生の地である四国の花崗岩、雲海を表す白川砂は京都のものが使われているとのこと。 -
蟠龍庭の一隅にある茶室は「真松庵」と呼ばれ、昭和40年にパナソニックの創設者、松下幸之助氏より寄贈され、前総理大臣佐藤栄作氏が名付けたとか。
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通路脇のお土産屋です。
先に見学した団体客が高野豆腐を買い占めたことで店員さんは品出しに大忙しでした。 -
ここは「奥書院」の通路です。
以前は皇族方の休憩所として使用され、現在は儀式に使用されているそうです。
この場所は、その手前の「上段の間」と共に昔は高野山最高の部屋だったそうです。 -
これは弘法大師の弟子、真然大徳の廟。
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東側の出入口の様子です。
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「浪切不動尊・南院」を見学に行く途中のお洒落な建物を発見。
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交番でした。
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浪切不動尊や「徳川家霊台」、「女人堂」に至る道路です。
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浪切不動尊・南院は、弘法大師自作の不動明王を祀ってあると共に、本堂拝殿の天井に迫力在ある鳴龍が描かれている宿坊の一つです。
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「浪切龍天井」と呼ばれる「鳴龍」。
お寺さんが説明するには鳴龍ではなく「白龍」とのことで、頭部の下で手を叩くと音が共鳴するとの説明を受けて実行。
手を叩いた後に、かすかに「ビィンー」と余韻が残りました。 -
境内の紅葉
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続いて「徳川家霊台」に向かいました。
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この霊台は、16世紀半ばに三代将軍家光が建立した家康と秀忠の霊台です。
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こちらは家康の霊屋、東照宮です。
細部に至るまで彫刻や装金具などの装飾が施され、目を見張るばかりの建築美を誇る、江戸時代の霊廟建築と説明されています。 -
その左側には秀忠の霊屋、御霊屋が建っています。
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徳川家霊台を後に、その奥の「女人堂」に向かう坂道です。
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明治時代の高野山の女人禁制が解かれるまで、女性のための参籠所として設けられたと言われる「女人堂」です。
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通過してきた石門には高野山と刻され、この先からが女人禁制?
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登ってきた坂道を下り、高野山信仰の中心の奥之院エリアに向かいました。
観光客は皆無です。 -
その途中、苅萱道心と石道丸の会話が悲話として広く知られている「苅萱堂」を見学しました。
私は知らなかったその悲話について、調べた内容を紹介しますと、昔々、筑前博多の領主は、正妻と側室と共に優雅な生活を送っていたそうです。
しかしながら正妻と側室は折り合いが悪く、正妻が側室を殺害しようと画策していることを家来が知り、身ごもる側室を逃がした。
後にその事実を知って後悔した領主は、出家して高野山の安養寺円慶の弟子となって円空と名乗り、側室は播磨国の寺に身を寄せて男児を出産し石童丸と名付けた。
石童丸が大人になった頃、噂で聞いた高野山の苅萱道心が旦那様に間違いないと確信して石童丸を連れて高野山へ向かったものの、女人禁制のため自身は断念して麓で暮らし、石童丸に父の特徴を教えて向かわせた。
しかしなかなか会えず、奥之院の御廟橋で出遭った僧侶に尋ねたところ、その僧侶が苅萱道心だったものの、道心は父と名乗ることができず、適当な墓を父の墓と教えた。
父の死を知った石童丸は、母の元に戻ったが、母は疲労が原因で既に亡くなっていた。
行く当てのない石童丸は、再び高野山に戻って苅萱道心を訪ねて弟子となったが、道心は生涯親子であることを伝えることなく30年以上、師弟として刈萱堂で修行をしたとのこと。 -
本堂の様子です。
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「奥の院」は、高野山の信仰の中心聖地です。
エリア内へは「一の橋」の手前で一礼をして渡橋。 -
奥の院へは、木立に包まれた参道を歩きます。
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参道にずらっと墓石や供養塔が並びます。
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厳かで神秘的な雰囲気が漂う諸大名墓石群を抜けます。
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戦国武将武田信玄の墓所
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現在放映されている大河ドラマのヒーロー、明智光秀の墓所
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伊達政宗の墓所
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中の橋と、人々の苦しみの身代わりになっていると言われている「汗かき地蔵」のお堂です。
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平坦だった参道が、やや勾配となります。
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弘法大師の御廟のある霊域に至る手前の「御廟橋」前の御供養所です。
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ここで御朱印を頂きます。
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その並びの厄除大師のお堂です。
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これは「御廟橋」。
この奥は、弘法大師の御廟がある霊域です。 -
一礼して渡橋。
渡橋後は、私語を慎み、写真撮影は禁止となっています。 -
橋の手前に置かれた看板
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中の橋の先に見えるお堂は、弘法大師の弟子真然大徳によって建立された「燈籠堂」です。
堂内には消えずの火として
祈親上人が献じた祈親燈
白河上皇が献じた白河燈
祈親上人の勧めで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈
昭和の時代に宮様と首相の手によって献じられた昭和燈
が燃え続け、その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が奉納されています。 -
午後3時過ぎに高野山の参拝を終え、和歌山市内に向けて1時間半ほど車を走らせ次に向かったのは、西国第2番の札所である「紀三井寺」を拝観。
この寺は、7世紀後半、唐の上人によって開かれ、和歌山城、別名「虎伏竹垣城」から近くにあり、紀州徳川家の繁栄を祈願した寺とのことです。
名前の由来は、境内の三つの井戸「吉祥水」「楊柳水」「清浄水」から来ているそうです。
拝観時間受付最終時刻の午後4時半少し前に入場できました。 -
楼門をくぐると231段の石段が待ちかまえています。
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階段を上り詰め、振り返ると和歌浦湾が一望です。
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本堂です。
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境内の多宝塔です。
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鐘楼と仏殿の様子。
仏殿には、大きな大千手十一面観世音菩薩像があるのですが、拝観は午後4時半で終了。
せめて最終入場の30分後位に拝観終了として欲しいものです。 -
この日は、和歌山市内の和歌の浦温泉 「萬波」で宿泊しました。
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翌朝の写真ですが、客室はオーシャンビューだそうでロケーションは抜群です。
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早朝の和歌浦湾の眺望
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ホテルの海岸側には遊歩道が設けられています。
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