2020/06/02 - 2020/06/02
3位(同エリア20件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記219冊
- クチコミ225件
- Q&A回答18件
- 237,263アクセス
- フォロワー73人
旅行日は最近のある日です。理由はあとで。
1974年春、フランス東部のブザンソンという町で、フランス語の勉強をはじめました。46年前のフランスの田舎町での学生生活と、そこから行ったアヴィニョン旅行のお話です。
写真は前回同様46年前現像のネガをCDに焼いたものです。ネガによってずいぶん映像の褪色が違います。褪色のひどい写真は、ネガを確認しましたが、こんなもので、決してCDに焼いた写真屋さんのせいではありません。
コロナ騒ぎの影響で、過去の旅のブログが多くなっております。楽しい、面白い旅行ばかりです。ところが、4トラのシステムだと、昔の旅行をそのまま旅行日にすると、ブログの先頭に出てきません。ブログの数が多いと、自分でもどこにあるか分からなくなるとおっしゃっていたトラベラーもいました。かと言って更新日順に並べると、今度は単純な誤字訂正でも先頭になります。投稿日順にブログを表示できないのです。よって今回は表題に年を明記し、旅行日は最近のある日です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 ヒッチハイク
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ブザンソン、Besanconとつづりますが、conの「c」にセディーユ、しっぽがつきます。フランス語独特のアルファベットで、パソコンによっては文字化けすることもありますから、セディーユはつけません。
パリから車で430キロ、5時間くらいです。列車だと現代ではTGVで2時間35分となっております。でも私の時はTGVが開通しておりません。普通の列車で4時間くらいかかったと覚えています。
TGVがまだ走っていない!今年還暦を迎える方が中学生だったころです。古い時代のことなのです。46年というと、江戸時代、徳川将軍が4代替わることもありました。 -
ネクタイのようなドゥー川(Doubs)に囲まれ、その胸元にLa Citadel(ラ・シタデル)と呼ばれる要塞がある古い町です。
-
ラ・シタデルの塔から見た城内とブザンソンの町。
この町に、Centre de linguistique appliquee(quee語尾から2番目のeにアクセント記号が付きますが、文字化けするので省略)実用語学センターとでも訳すべきフランス語の学校があり、CLA、セラーと呼ばれていました。場所は変わりましたが、今もあります。
フランス語をマスターするには3条件が必要と言われていました。
パリは日本人が多くて日本語で生活できるからダメ。オーディオ・ヴィジュアル以外の方法は効果なし。友人をつくるべし。3番目は当たり前。1番目と2番目の条件にあうこの町のCLAにやってきたのです。 -
これは町の中央公園です。公園の左にCLAがありました。写真のとおりののどかな町でした。写真の手前右にクレディ・リヨーネという銀行の支店がありました。CLAに近いので、私も含め、学生の多くはここに口座もっておりました。
ある日お金を下ろしていたら、入学したばかりの日本人女性がやってきました。銀行の職員は、彼女の名前を確認すると、
「ちょっと、まって」と言って、奥に引っ込みました。持ってきたのは、ゴム長。
彼女の母親が銀行宛に長靴を送ってきたのです。着いたばかりでホテル住まい、下宿が決まる前の唯一確かな住所は銀行でした。雨が多い町と聞く、娘は長靴が必要だろう、ありがたい親心です。
長靴を受け取った銀行は驚いたでしょうが、調べたらちゃんと彼女宛にお金はついている。いずれお金を下ろしに来るであろうと、銀行は待っていました。
そのくらいのどかな町でした。 -
町の紹介をしたいのですが、写真がありません。1年後合流したBy妻の写真を使います。
ミコの公園です。町を取り巻いているドゥー川。右がBy妻、左は香港人のクラスメイト。
この人はベティちゃん。高校卒業して来たそうですが、おぼこくて、中学生みたいでした。一度御飯によんだら、、テーブルぐちゃぐちゃにして食べたので、お行儀の悪い子だと思ったら、中国ではこうするのがおいしい!ということなんですって!フランスの文化だけではなく、他国の様々な文化風習に出会ったブザンソンでした。
そうそう、フランスではビデというものが普通に浴室にありました。シャワー、バスタブ、ビデ。ボーヴァワールの「第二の性」にもちょっと出てきますが、日本人にはなじみのないものです。
要するに全身を洗わなくても、体の一番汚れる部分を洗うためのものです。お湯を溜めてまたがって洗うのですが、そういう習慣のないアメリカ人の友人は、これで皿を洗っていたそうです。また違う友人は雑巾を洗っていたそう。
文化風俗の違いは結構恐ろしいものがあります。
By妻 -
まちの東にボールギャールの丘というのがありまして、ごらんの登山電車で昇ります。ほんの数分です。今あるかどうか、わかりません。
-
CLAからバスで30分くらいの所に学生寮がありました。CLAはブザンソン大学の一部となっているので、学生はここに住むことができました。ただし遠いので、人気はありません。
-
学生寮はG群とF群がありました。本来G群は、Garcon(cはセディーユつき、ギャルソン・男子寮)F群は、Fille(フィーユ・女子寮)でしたが、私がいたころはごちゃ混ぜになっていました。分けると男子が女子寮の壁に穴を開けてでも侵入してくるので、直すのが手間だからやめた、と言われておりました。真偽のほどは、さあ、どうでしょう。あり得なくもない。
-
CLAの1クラスは多くても10人くらい。これはBy妻のクラスです。遠足でした。背景は南から見たブザンソンのラ・シタデルのようです。岩山の上の城壁です。
国籍はシリア、ドイツ、パレスティナ、レバノン、カナダ、イラク、イラン、その他いっぱい。右端の乳母車をもっている男性はだれでしょう、覚えていないそうです。勤務の前の語学研修で、家族を連れて来ていた人もいました。 -
2クラス合同だそうです。
日本人がいないクラスでした。この時期ブザンソンにいた日本人は20人くらい。ほぼ全員CLAでした。半分以上は、企業派遣の語学研修生。パリでの本格勤務の前に、ここでフランス語を学ぶのです。残りは私のような私費留学生です。CLAに私費で来ていたのは、私の知る限り、極東からは日本人以外香港人1人、マカオ2人。韓国人留学生もいましたが、国費。中国からは私費国費ゼロ。
日本人は、このころ、フランスでは孤独というか、孤高でありました。
授業は完全な直接教授法。教師はド初級クラスからフランス語以外使いません。しかもほぼ普通のスピードです。最初はほとんど分かりません。でも不思議なもので、そのうちなんとなく分かってきます。
教材はスライドを使いました。当時、まだビデオなどという機械はありません。教材のストーリーは、現実に即したものでした。
最近は違うようですが、私たちの中学1年では、「I am a boy」とか「This is a pen」とかいうのがでてきました。アホか、見れば分かるわ、と思います。
そういう意味のない話ではなくて、アラブの学生がパリに来て、住まいを探そうとしたら、人種差別にあって苦労する、というような現実にありそうなストーリーです。それが短く簡単な文章でつくられていました。
興味のない話題でおしえても進歩しない、と教師が言っていました。
一番密度の濃いコースで、1日60分5時間、週5日だったと思います。これに加えて、語学ラボは使い放題でした。自分のやりたい教材のオープンリールテープを自分で持ってきて、自分のペースで練習します。
1室30ブースくらいありました。正面にラボ専門の教師が常にいます。60才くらいの女性でした。名前を覚えていません。仮にマダム・デュブワとしましょう。
聞き取れなくて、脂汗を流しながら繰り返し練習していると、突然機械が止まり、マダム・デュブワがイヤホンから、あなたはこことここを間違えている、というような助言をしてくれます。
私はフランスに着いたとき、一応日常会話は何とかなるレベルでした。その後1ヵ月パリにいたので、CLAでは初級を飛ばして中級からはじめました。
4月からの3ヵ月で、ほぼフランス語は分かるようになりました。これは私が優秀なのではなく、システムが優れているからです。3ヵ月あればドシロウトが日常生活に困らなくなります。中級レベルは間違いなく上級に到達します。
秋からは上級をやる予定でしたが、これは大学のような講義中心の、一種の教養講座みたいなものでした。それにお値段が高い。
私は語学ラボで、ほぼ1日中、テープを聴いていました。マダム・デュブワが個人教授みたいでした。9月からCLAの学生ではないので、本当はラボを使えないのです。でも誰も何も言わず。マダム・デュブワはずっと面倒見てくれました。
私以外にも同じような連中が何人かいました。空いているんだからいいんじゃない、フランス的合理主義というか、貧乏学生に優しかった!ありがとうございました。 -
フランス人の友達はいっぱいできました。
これはそのうちの1人の車です。シトロエン2CV、ドゥ ・シュヴォと書くのがまあ原音に近い。1948年発売開始の前輪駆動です。1990年まで作っていたので、この頃は立派な現役でした。ドイツのカブトムシはアウトバーンを走るため、2CVは畑の畦道で落輪してもすぐ引き出せるように造った、そうです。
なんともユニークな車で、エンジンフードあけるとなにやら用途不明のチューブがあちこちにあります。グランドピアノが積める唯一の乗用車です。天井は布張りで、これをあけるとグランドピアノが縦に入るそうです。積めるけれどその後ピアノがどうなるかは知らない。
私の友人はそのとき20才でしたが、この車は自分より年上だと言っておりました。足もとの床に穴があいていて、流れ去っていく道路が見えました。水溜まりはどうなるのか、雨の日は乗っていないので知りません。
フランスには、日本のような車検がありません。数年ごとに検査はありますが、エンジン、ブレーキ、操縦系統など、車の安全に関する検査だけで、それ以外は関係ありません。
穴などあいていても、
「Et, alors?」それがどうした?でおしまい。
彼は将来自動車のデザイナーになりたい。非常にかっこいい車のデッサンを見せてくれましたが、なにかおかしい。
「おい、この車、どこから乗るんだ?」
「それはまだ考えていない」 -
夏休み。
7月、ヒッチハイクでアヴィニヨンに行ってきました。お目当てはアヴィニヨン演劇祭です。
アヴィニヨンの写真は、このように不思議な色に変色しています。ネガそのものがおかしくなっている。写真は普通セピア色に褪色することになっていますが、どうもそれは紙焼きの場合らしい。ネガだと緑になるようです。
写真は有名なアヴィニヨンの橋。 -
ブザンソン-アヴィニヨンは、現在のグーグルさんでは、454キロ、高速で4時間44分となっています。46年前も時間はともかく、距離は同じはず。
アメリカ人の友人にこの道のベテランがいて、何時ごろにブザンソン郊外のどこだかまで行って、行き先を書いた紙をもって、大型トラックを狙え。どこだかは車が高速に乗る道筋でした。長距離大型トラックは、眠気防止のために積極的にヒッチハイカーを拾ってくれる。停まってくれる時間帯がありました、忘れましたが。
「AVIGNON」と書いた紙をもって30分ほど、大型トラックが目の前に止まりました。ヒッチハイク幸先良く成功。
ドイツ人が運転する車でした。2人組でしたが、1人は運転席後ろのベッドで寝ているので、運転中は1人です。昼夜停まらず走ります。
「会社から、ヒッチハイカーは乗せてやれと言われている」と言っていました。アメリカ人の言うとおりでした。そのかわり、こっちもなるべくしゃべって、彼の眠気覚ましに努めます。何をしゃべったか覚えていませんが、とにかくしゃべった。英語とフランス語まぜこぜ。
運転席に冷蔵庫があって、中からビールを出して「飲め」
ありがたくいただきましたが、なんと運転中の彼も飲むのです。
日本は酔っ払い運転に厳しかった。運転中に飲むというのは、考えられませんでした。彼はお相撲さんのような巨漢でしたから、ビールの小瓶など酒のうちに入らないのでしょう。ヨーロッパ、特にフランスは酒気帯び運転の基準が少し甘いとは聞いておりました。
アヴィニョンは高速7号の近くですが、このトラックはアヴィニョンの手前約33キロ、オランジュで高速9号に分岐します。スペインまで行くそうです。
オランジュのちょっと手前、今思うに多分ピオラン(Piolenc)だと思いますが、そこで降ろしてもらいました。高速7号のすぐ近くに一般国道7号線が平行しているのです。ここで別の車をつかまえろ、ということです。最初がうまくいったので、次も楽勝と、るんるん気分でした。国道7号はアヴィニョンに直接入ります。
路肩で降りたのですが、高速を跨ぐ陸橋の近くだったと思います。そうでないと、下りの高速2車線を横切り、中央分離帯を越え、登りの2車線を横切ることになります。7月初め、バカンス真っ最中です。車は最低130キロでビュンビュン走っていたでしょう、とても高速を歩いて横切れるはずがありません。
7号の道端に立っていました。
ところが、ここから苦難の始まり。だれも停まってくれないのです。頼みの長距離トラックはすべて隣の高速を走ります。そもそも車が少ない。南仏ではヒッチハイクは厳しいよと言われていました。本当。
陽が落ちました。夏ですから、真っ暗になるのは10時頃でしょうが、薄暗くなったらヒッチはできません。道端に立っているのは危険だし、運転手からヒッチハイカーが見えなくなります。
とりあえず町まで歩きました。
警察署があったので、玄関で一休み。灯りは消えていました。ところが、疲れていたのでしょう、寝てしまいました。
目が覚めたのは、目の前の強烈な灯り。至近距離でお巡りさんが私の顔に懐中電灯を当てていたのです。
「なにをしている」
「いや、その、ヒッチハイク失敗して・・・」
「どこから来た」
「ブザンソン」
「違う、国籍だ」
「日本人」
「お前の国では、警察署の前で寝ていいということになっているのか」
「安全だと思って・・・」
こんな会話をした記憶があります。
お巡りさんは老若2人組でした。私を詰問したのは若い方。年上は笑っていました。その年上、
「どこへ行くのだ?」
「アヴィニョン、フェスティバルを見たいので」
「オランジュまで送ってやる。まだ汽車がある。金は持っているか」
「それは、大丈夫」
というわけで、オランジュの駅までパトカーで送ってもらいました。
オランジュの駅から列車に乗り、アヴィニョンに着いたときはもう真っ暗でした。でも中央駅を出ると、灯りが煌々とつき、人がゾロゾロ歩いています。駅から城壁はすぐですが、城壁の中に入ったらますます人混みは増える。なにやらドンドコ太鼓の音もする。
演劇フェスティバル真っ最中でありました。
とりあえず寝ぐらを探さねば。
前もって若者向けの宿舎というのを調べてあったので、そっちに向かいます。途中、若い女性と一緒になりました。アメリカ人だそうです。フランス語うまい。目的地は同じ。
「ふざけているわよ、この町のホテル」
なにやらお冠です。
「安い風呂付き部屋があったのよ。いいぞっと思ったらね、風呂場にベッドがおいてあった!」
安宿の共同浴場にまでベッドを持ち込んだってことですかね。
「他の部屋の連中は風呂どうすんだろう?」
「I don't know!」ここだけ英語でした。言い方によっては「んなこと、知るか!」という強い否定だそうですが。まさにそれ。
おん出てきたそうです。
若者向けの宿舎というのは、市内の高等学校でした。フェスティバルの間だけ、ホテルに早変わりします。宿泊客と同年代の若者が運営していました。
チェックイン、というか、登録を済ませて、ベッドの番号をもらいました。正確なお値段は覚えていませんが、1泊朝食付何フラン、数百円、無料みたいなものでした。
ベッドは簡易ベッド。教室の机イスをうしろに積み上げて、空いたところにならべてありました。男女別室などという手間のかかることはしません。
疲れ切っているので、そんなことを気にする余裕なし。与えられたベッドにそのまま潜り込んで、おやすみ。シャワーはあったようですが、2泊して入った記憶なし。汚い話です。臭かったでしょうが、全員そういう状態でしたから、気になりませんでした。
翌朝、テーブルと椅子が置いてある校庭の野外食堂で、完璧なコンチネンタル・ブレックファーストをいただきました。
バゲットとバター、ジャム、コーヒー、紅茶、牛乳とオレンジジュースはあったかな。だけ。ただし食べ放題。
連泊などというしゃれたことはできません。出かけるときは荷物を持って出る。その夜の予約はできました。「戻ってくるよ」と言うだけですが。 -
川はローヌ川。その向こうはローヌ川の川中島で、島の向こうにさらにローヌ川。丘の上のお城のようなものはサンタンドレ要塞。
教皇庁からの景色です。
対岸はオートキャンプ場です。3週間のフェスティバルには、十万人以上の観光客が訪れます。この町のホテルにはそんなキャパはないので、こうしたキャンプ場が必要なのです。この季節、雨はほとんど降りません。
ちょっと左に振ると、有名なアヴィニョンの橋、サン・ヴェネゼ橋です。 -
アヴィニョン教皇庁(法王庁)です。ものの見事に褪色しております。海の中のような、一種神秘的な色になっております。時間という自然のなせる技です。
-
同じく教皇庁。右下の広場は、フェスティバルの路上パーフォーマンスのメッカです。教皇庁の前がメッカと書いたのは、まずいですかね。
-
教皇庁中庭が劇場になっておりました。フェスティバルのメインイベントの会場です。
-
Place de l’Horloge(時計塔広場)教皇庁の近く、南北約130m、東西30mくらいの広場です。カフェでみなさんくつろいでいます。木陰でだれているのは、お金のない若いビンボー組。私もその1人。
フェスティバルの間、ここでOFFまたはOFF OFFの連中が客寄せに練り歩きます。
私は後年、3回アヴィニョンフェスティバルに行っているので、以下はごちゃ混ぜになります。
フェスティバルのメイン出し物は、ロイヤル・シェークスピア劇団など、世界的に有名な劇団です。これらをINとよびます。フェスティバルの事務局が正式に招待した劇団です。教皇庁の中庭や、時計塔広場に面するアヴィニョン歌劇場など、ちゃんとした劇場で公演します。日本からは確か能が呼ばれたことがあります。
でもこのフェスティバルでおもしろいのは、OFFという自主公演の劇団。市内、市外の小さな劇場で公演します。会場は劇場ではなく、倉庫だったりすることもあります。OFFの公演は場所時間が公式プログラムに載っています。
日本からは80年代以降、劇団黒テント、劇団AN、アクア・ガラなどが参加しました。毎年もっといっぱい参加していましたが、もう覚えていません。
私が大好きなのは、OFFでもない、OFF OFFというグループ。会場はカフェだったり、路上だったり。本人達もいつどこでやるか分かっていないので、当然プログラムには載っていません。バッジのようなものをつけていました。事務局の許可は得ていたのだと思います。
これ以外に、バッジもなにもなし、そこら辺を歩いているヤツがいきなりパーフォーマンスを始めることもありました。なんというのですかね、OFF OFF OFF?ハーモニカをプーっと吹いて手を出す太え奴もいる。地面にチョークで輪を描き始めるので何かと思ったら、その中でパントマイムを始める。これが面白かったりする。玉石混交です。アヴィニョンの凄いところです。
ずっと後年ですが、大道芸の雪竹太郎が参加しています。これはOFFかOFF OFFか、わかりません。いつも教皇庁広場の奥、決まった場所でしたから、路上とは言えOFFだと思います。人気ありましたよ。
一日に、昼頃から真夜中まで、推定100を越える公演が同時に行われます。客寄せ競争は熾烈で、各劇団は空いた時間に市内を歩いて、宣伝にこれ勤めます。
彼らが必ずやってくるのが、この時計塔広場です。この広場にいると、目の前をいろんなグループが練り歩きます。太鼓、ギター、うるさくないなら楽器を使ってもよかったみたい。気に入ったグループがいたら、ビラをもらって、これからの観劇予定を立てるのです。
路上パーフォーマーでは、1公演ごとに帽子が回ってくるので後払いの木戸銭を払います。1フラン、2フランコインでも相当な金額になります。当時はまだユーロではありません。これを見るのが目的の観光客ですから、みなさん気前よく払っていました。アヴィニョンで年間収入の大半を稼ぐ大道芸人もいるということでした。
OFFの劇団はヨーロッパ中から集まってきます。彼らにとって、アヴィニョンは稼ぎどきでした。公演収入は競争が激しいのでたいしたことはなくても、ここでその後の公演契約がまとまることがあります。劇団の見本市です。興行側は、1日5公演、3日もいれば目星をつけていた劇団の公演を15も見物できるわけで、コスパ最高です。しかも観客の反応を直接見られます。
アヴィニョンに着いた翌日、私は午後から真夜中まで何かを観ていたはずですが、まるっきり覚えていません。ベッド付の風呂をおん出てきたアメリカ人や、簡易宿泊所で知り合った連中と、所々ですれ違います。おもしろげなモノはないかと情報交換をした記憶はあります。
3日目、もう懲りたので、おとなしく列車でブザンソンに帰りました。根性なしのヒッチハイカーでした。
長距離トラックのヒッチハイク、駅まで送ってくれたパトカー、ただ同然の簡易宿泊所、みんな親切で、おおらかでした。
その後、あいつぐテロや、リーマンショック後の不景気、全ヨーロッパを巻き込んだ移民による社会不安、そしてコロナ騒ぎ、こうしたのんびりした時代は過ぎ去りました。そして、もう戻ってこないでしょう。 -
秋、ブザンソンのお祭です。
パレードの先頭はクラシックカーに乗った市長、じゃないかな?
私はここで、日本から来たジャーナリストということになってしまいました。 -
ことの発端は、会場の一隅でやっていた日本の武術の実演。合気道と書いてあります。
この写真を撮っていたら、お祭りの会場整理(だと思う)のおじさんが、やたらに親切。 -
パレードの正面に出てもいいそうです。これはさっきの合気道のグループです。
先頭の女性、浴衣じゃないかな。着物のつもりです。「おかしい」などと言ってはいけません。46年前のことです。インターネットはありません。しかも首都から430キロも離れた田舎なのです。自分たちだけで、乏しい資料を探して、自分たちが尊敬する武術の発祥の国の文化をなんとか再現しようとしたのです。 -
パレード真っ正面。
-
バトンガールズが出てきました。
先頭のお嬢さん、完全に私と目が合っている。私はカメラを持って観客の列からでていますから、目立ちます。 -
至近距離で被写体が通り過ぎます。
-
私は列の中に入っちゃってます。
-
邪魔ですよね。
-
こういうのとか、
-
こういうのも撮り放題。
もっとドンドン撮れといわれましたが、フィルム代がもったいないので、そうもいかない。 -
これはなんだか分からない。
ここまで親切にしてくれた理由が分かりました。案内のおじさんが、地元紙の記者と話していたのを盗み聞きしたら、「彼は日本のジャーナリストだ」
ジャーナリストが、ハーフサイズの安バカチョンカメラで撮影するはずはないと思うんだけどなあ。ペン記者が、記事のメモ代わりにバカチョンを使うかもしれない。いや、やっぱりちゃんとした、当時でも十ん万円はするだろう高級カメラですよね。
沿道のお客さんにカメラを構えている人はいませんでした。この時代、カメラはフランスではマニアの持つものでした。だからプロと思われたのかな。
でも向こうが勝手にそう思ったのだからしかたがない。
日本の新聞に、自分たちの祭の記事が出るに違いない、と案内のおじさんは思ったでしょうね。いまさら否定するわけにはいかず、そのままにしておいて、おじさんが周囲にいなくなった時に、ちょろっと祭の人混みから抜けました。
まことに申し訳なく思います。
でもそれから46年後、こうして4トラベルに写真入りのブログを書いているので、勘弁して下さい。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
むか~しムカシ、青春があったとさ
-
前の旅行記
むかーしムカシ、青春があったとさ-1 1974年シベリア横断パリ行き
2020/06/01~
シベリア
-
次の旅行記
むかーしムカシ、青春があったとさ-3 1975年若さと馬鹿さのモロッコ旅
2020/06/03~
マラケシュ
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-1 1974年シベリア横断パリ行き
2020/06/01~
シベリア
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-2 1974年フランスおおらかな日々
2020/06/02~
ブザンソン
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-3 1975年若さと馬鹿さのモロッコ旅
2020/06/03~
マラケシュ
-
むか-しムカシ、青春があったとさ-4 1975年スイスイミフの旅
2020/06/04~
その他の都市
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-5 1984年イベリア半島一周幕営旅行・上
2020/06/05~
アルガルヴェ地方
-
むか-しムカシ、青春があったとさ-6 1984年イベリア半島一周幕営旅行・下
2020/06/06~
トレド
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (6)
-
- ばねおさん 2021/02/28 20:38:56
- 素晴らしき青春の日々
- しにあの旅人さん こんにちは
私が1960年代の後半から70年代の前半にかけて抱いていた計画は、シベリア鉄道を経由して渡欧し、フランスで学ぶことでした。
結局、計画は実現せず夢となりましたが、夢はいつまでも消えることなく残り、ようやく2018年からフランスでの生活を始めることができました。
周回遅れの人生という言葉を耳にしたことがありますが、2,3周ならともかく、私の場合は半世紀近くも経ってのことですので、制限時間があるとすればとっくに棄権扱いですね。
あるいは渡仏して何十年も滞在し、そろそろ日本に帰ろうかという年代のひとたちとは反対向きにやってきたのですからオマエは人生を逆走しているとでも言われかねません。
それでも、何でも見てやろう精神だけは経年劣化することなく持ち続けてきましたので、さあこれからだという時にあいにくのコロナです。
すっかり足踏み状態になってしまいました。
しにあの旅人さんの若き日の渡仏。1974年でしたか
その時代、若くして行けて本当に良かったですね。
フランスに着くまでの旅程、ブザンソンを起点にしてのさまざまな体験、どれも二度と得ることのできない貴重な日々。
若さゆえにできたこともあるでしょうが、勉学ぶりはお見事です。
まだ旅行記をすべて拝見させていただいていませんが、by妻さんも含めその後の顛末もお聞かせいただけるものと大いに期待しております。
ばねお
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/01 16:07:11
- Re: 素晴らしき青春の日々
- コメント拝読しました。
コロナ騒ぎでイタリア旅行を中止し、外国行けない病の治療で始めた旅行記ですが、皆さんに読んでもらっております。
なんであんな無茶したんだろうと、今は思います。今だったら絶対に出かけない旅ですし、若い人から同じことをしたいと相談されたら、「やめなさい」と言います。
周回遅れなどというものはありません。経験を積んだ後なら、それなりに面白い旅ができると思います。コロナ騒ぎは必ず終わります。それに備えて、今は気力体力、何より金力を蓄える好機であると、前向きに考えております。
青春シリーズは好評で、つまらん古代モノはやめてこれに集中しろというご意見もあります。当時はブログなど夢にも思わなかったので、写真がありません。この後の3本でおしまいですが、若気と馬鹿気の青春ドラマ、面白がって頂ければ幸いです。
-
- 前日光さん 2020/10/06 23:58:49
- シュトルム・ウント・ドラング ブザンソン
- こんばんは、しにあの旅人さん!
70年代の青春に「疾風怒濤」というサブタイトルをつけてみました(^_^)v
それにしても、若いときにこんなに豊潤な時間を過ごせたことが羨ましいです。
たぶんこの頃に思い切って海外に飛び出すという気概があったかどうかが、その後の人生を左右したのだろうなと。
その頃私は大学4年ぐらいだったかも。
将来の選択肢の中に海外というものはなく、日本の中で世間の荒波を如何にくぐり抜けていくかということに腐心しておりました。
結局教職という道に落ち着き、なんとなく職責を全うして(ただしきっちり定年で退職しましたよ!)今日に至っております。
現在、時々随筆なんていうものを書いています。
大きな声では言えませんが、今の生活の方が性に合っているなぁと秘かに思っています。
大好きな古代のことを考える時間は充分にあるし、思い立てば奈良にも島根にも行けるし(今はコロナのヤツに阻まれていますがねぇ)
しにあの旅人さんも、400キロ以上をヒッチハイクしちゃうとか、警察署の玄関で寝てしまうとか。。。
若い頃でなかったら、絶対にできないムチャをしていますねぇ。
パレードの真ん中に入って写真撮影?
日本のジャーナリストだと思われたとか。。。
この頃の体験談をまとめたら、ユーモラスな青春小説になるのでは?
by妻さんとのなれそめが、たいそう気になります。
次回ですか?( ・∀・)
楽しみにしています!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/07 07:10:53
- Re: シュトルム・ウント・ドラング ブザンソン
- おはようございます。
若いということは、それだけでとんでもないことだと、今になって思います。その時は、普通に息をするのと同じでした。気概とか、そういう気負いはあまりなし。ただ、ここでやっておかないと、後で後悔するなとは思いました。
で、出ちゃった。帰ってきたのは10年前ですから、36年間の長い青春の旅でした。人生の半分が旅、20歳を過ぎてからは、まだ旅の方が長い。
By妻は高校1年の同級生です。16歳からの友達。トモダチ婚というやつです。当時女の適齢期はギリギリ25歳と言われておりました。売れ残ったら貰ってやるとは言ってました。そしたら「売れ残りました。私もフランスに行きます」と言ってきたので、そのまま結婚。あまりロマンチックではありません。
9日からの飛鳥奈良たびは中止しました。台風が場合によっては地元直撃の感じです。肝心の飛鳥も12日までは大雨。どうしょうもないです。三重県の斎王宮博物館で10日の飛鳥時代の斎王宮跡発掘講演会に申し込んであったのですが、行けません。他は再度旅行すればいいだけですが、この講演会はこの日だけ。飛鳥時代の斎王宮といったら、大来皇女そのものです。残念無念。11月21日に発掘現場公開というのがあるのですが、なんとかならないか、策謀中です。
-
- pedaruさん 2020/10/05 06:45:59
- 華麗なる青春
- しにあの旅人さん おはようございます。
単身フランス語留学でしたか?それも本格的な語学を学ぶために。
昔、フランシーヌの場合は・・・という歌がありましたが、そのなかで、流ちょうなフランス語を喋る部分があり、憧れたものです。
なんと優雅な青春だったでしょう、しかも同じ留学生のなかの美人の女性をゲットして
意気揚々と帰国でしたね。
それに引き換え私の青春は・・・・足尾銅山の坑道を重いトロッコを押しながら、今晩の飯だけを楽しみに、親方の鞭の痛みに耐えながら暮らしていたのとはおおちがいです。・・・・虚言ですが( ^ω^)・・・
面白くて時のたつのを忘れるとはこのことでしょうか?しかも書いたのは著名作家ではない、フォローしているトラベラー、しにあの旅人さんがこんなに偉い方だとはおもいませんでした。こんな方とメールを交わせるなんて夢のようです。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/05 07:04:20
- Re: 華麗なる青春
- おはようございます。
全く「こんなに偉い方」ではありません。思い出をそのまま書いているだけで、面白いとしたら、この頃やったことが面白いだけです。素材のうまみ。でもどなたでも、青春時代は面白いほど馬鹿げているのではないですか。今やれと言われたら、絶対にNOですが。
「青春時代は後からしみじみ思うもの」という歌の文句があります。本人にはしみじみでも、ハタから見ると爆笑というケースは多々あります。本人も「しみじみ」ではないな。「バカちゃう?」という感じ。
私のブログではBy妻は私より人気がありまして、ご要望にお応えして次回モロッコより登場です。
pedaruさんの足尾銅山もどきの青春時代もブログになりませんか、期待しちゃう。コロナ引きこもりの有効利用を図りましょう
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ブザンソン(フランス) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ むか~しムカシ、青春があったとさ
6
29