2000/02/01 - 2000/02/06
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まさとし/国連加盟国全て訪問済さん
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この地域は日本人にとってなじみが薄く未だにこれといった日本語のガイドブックは発行されていない。頼れるのは英語版の「ロンリープラネット」だけだ。しかしこのロンリープラネットも長い間改訂版が出版されず、古い本が洋書屋に並び、最新の情報を手に入れる事は難しい状態だった。そんな中1999年になってロンリープラネットが「WEST AFRICA」の改訂版が出版された。それによって僕は妙にこの地域を意識するようになった。そして行きたくなった。そんな中旅行人のガイドブック「アフリカ」も出版されると言うことを知りいてもたってもいられなくなってきた。
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ガーナ側の国境の町はアフラオ。国境は人でごった返していた。到着するなりアクラへの客引きがまとわりついてきた。しかし彼らはただの案内人で、あとあと金を要求してくるただの物乞いだ。人は多いが外国人は別の場所で手続きができたので比較的スムーズだった。ワイロ要求もなくガーナ側の街アフラオへ抜けることができた。
アフラオからアクラ行きのバスに乗り込んだ。西アフリカで初めてのバスによる移動だ。しかし安いから文句は言えないが快適とはほど遠い。ガーナの道はベナンやトーゴより狭くガタガタだ。途中検問が2カ所、外人の僕はそのままバスに乗っていられたが地元民は全員バスから降ろされ、かなり時間がかかった。国境を出たのは15時半。しかしもう日が暮れてきた。まだアクラは遠いようだ。Temaという街をすぎたあたりからいきなりハイウェイが現れ、スピードをあげ走り出した。中央分離帯を挟んで2車線、そして道路を照らす街路灯。あまりの近代的な風景に自分の目を疑った。本当にここは西アフリカのガーナなのだろうか。完全に目が覚めてしまった。
そのままアクラ市内へと道路は続いていた。整備された道、立体交差の橋を通り過ぎ、建設中の高層ビルと街路樹が続く道路をひた走り、終点のトゥドゥ・マーケットに到着した。ここからホテルまで歩くことにした。ガーナと日本との関係は深いようで、僕に対して「JAPANESE」という人が増え「CHINA」と声がかかることが少なくなった。南米旅行中、ブラジルに入ったときの感覚と同じだ。 -
アクラではホテルカリフォルニアに泊まることにした。1泊500円弱。周辺は平屋の建物が目立ちニカラグアのマナグアを思い出させる。アクラは今までの首都(コトヌーやロメ)と違い大半の家がちゃんとしていて、バラックで出来た家はあまり目立たない。(コトヌーやロメは大半がバラックだった気がする)ガーナは比較的豊かな国のようだ。とりあえず夕食は中華レストラン。この町にはスーパーマーケットなどもあり、不自由のなさそうだ。中華で焼きそばを食べ約300円。量が多く二人で行くべきだ所だった。
シャワーを浴びようと思ったら水が出ない。やられた。まさかこんな所でも断水に遭遇してしまうとは。でもそういうときのためにこの宿ではタンクがあり、バケツに水を汲み体を洗うことは出来た。西アフリカでは今後もちゃんと水が出るのか、ちゃんと電気はつくのか、こんな事ばかり悩みそうだ。 -
ベナン、トーゴではバイク中心で車の数は少なかったが、ここは完全な車社会でバイクタクシーも存在しないような気がすす。
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ロータリーを猛スピードで車が通過する。
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インディペンデンス広場。
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アクラの新市街は建築ラッシュだ。ガーナは西アフリカでもっとも発展しつつある国だと感じる。
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中心部にはビルがそびえる。
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利用しなかったが、ガーナは比較的鉄道網が充実している。アクラ駅にて。
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アクラ発祥の地である港町ジェームスタウンに向かった。そこは野口英世も最初に上陸した場所で今では、砦や灯台などが観光用に残っている。しかし今ではコロニアル調の家々もほとんどなく、スラム街になっていた。しかし海を臨む絶壁にへばりつくスラムはなかなか見応えがある。
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ガーナ人は写真を嫌がらないし、警官まで写真を撮ってくれと言うくらいだ。実にピースフルな国だ。しかしこういうときに限ってフィルムの予備がない。言語が違うだけでなぜこんなに人が違うのだろうか。
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西アフリカの中でもガーナの人々がとりわけ親日的なのは、野口英世のおかげなのではと勝手に僕は思っている。その野口英世が黄熱病の研究をしていた場所が今、ガーナ大学医学部付属病院の敷地内にあり、今でも細菌の研究が行われている。その一角には「野口メモリアルガーデン」があり、日本庭園には銅像も建っている。
タクシーでその病院へ向かった。20分ぐらいしてガーナ大学病院に到着した。かなり大規模な病院だ。この国で死にそうになっても少し安心だ。西アフリカではかなりまともな方だろう。その一角に日本庭園(あまりたいしたことない)があり、ドクター野口の銅像が建っていた。 -
その横に臨床医療技師学校の実験室があり、その一角に部屋があり、たいして広くないが、野口英世が実際に使っていた顕微鏡、そして写真や新聞などが展示されていた。驚いたのは母であるシカが英世に一度だけ宛てた直筆の手紙が展示されていた事だった。僕は生家のある福島かロックフェラー大学にあるものだと思っていたが、まさかこんな所に置いてあるとは。
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ケープコーストに向かうことにした。ガーナ最大の見所であるのは当然として西アフリカでも有数の観光スポットになっている場所だ。
ケープコーストまでの所要時間は3時間だ。
途中、道はいいが(交通量が多いため)空気が悪く、頭が痛くなってきた。やがてケープコーストの街に入った。ずいぶん坂の多い街だ。地方都市の割にずいぶんにぎやかだ。 -
西アフリカ屈指の観光スポットなのにずいぶんのんびりした漁村だ。観光客はあまりいないみたいだ。とりあえずケープコースト博物館に行ってみることにした。
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博物館になっているケープコースト城塞は各地から集められてきた奴隷が出港まで閉じこめられていた場所で、今はどのように新大陸まで運ばれたのかなど生々しい資料が展示されている。出港まで奴隷が閉じこめられていた地下壕は圧迫感がある。
それにしてもこの砦、改築を重ねているらしく、新しすぎて歴史が感じられない。とはいえ悲惨な歴史を軽視することはできない。 -
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砦の下の浜辺では漁が活気を帯びている。
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街を歩きながらウィリアムフォートという砦に登ってみた。そこからは街が一望できた。砦の上は子供に占拠されていた。頂上に登るには子供に案内してもらわなければならない。でも金は要求されなかったので実に教育の行き届いた国だと感心した。砦を降りることにした。ボスらしい子供がお金じゃなくて何か物が欲しいと言ってきた。仕方ないので持っていた武富士のポケットティッシュをあげることにした。
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ケープコーストの市場からエルミナへの乗り合いタクシーに乗り込んだ。20分後ビーチリゾートらしいエリアを通過し、漁村の一角にエルミナの要塞があった。
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ここも小さい博物館になっている。要塞を臨む丘の上にも要塞があり、登ってみることにした。
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要塞と海岸をつなぐ回廊。
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要塞からはエルミナの街を眺めることができた。コロニアル調の建築様式が美しい。
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漁村に入ってしまった。浜の中に人垣が出来ていた。何だろうと思い近づいてみるとウミガメが浜に打ち上げられていた。可哀想に完全に子供たちのおもちゃにされていた。
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木の枝をムチがわりにして女の子がピシピシやっている
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亀はまだ元気があるようで手足をバタつかせている。ウミガメは貴重な生き物だ。岸に戻ってこれるのは何百匹に1匹。でも僕に「海に帰せ」と言う権利はない。この亀をどうするのか近くにいたおやじに聞くと。「We will eat」。
コートジボアールに移動することにした。朝6時には出発の準備を整え、乗り合いタクシーでケープコーストのマーケットへ向かった。そしてタコラディー行きのトロトロ(乗り合いタクシー)を探した。すでに人は何人か乗っていたが、しばらく出発しそうな気配はない。僕より早くからいた女の人が早く出発してくれと怒りだしたところを見ると6時ぐらいから待っているみたいだ。早く宿を出なくて良かった。結局1時間ぐらい待ち出発したのは7時半を過ぎてからだった。タコラディーには9時に到着。着いた場所からコートジボアール国境のエルボ行きが頻繁に出ていた。アビジャンへダイレクトで行くワゴンもあったが人の集まりがいまいちだ。それに国境越えは一人の方が気楽だ。とにかく待つのも待たせるのもいやだからだ。とりあえず目指すのは国境だ。
9時30分にタコラディーを出発したあと、道がだんだん悪くなってきた。トーゴからガーナに入ったときもそうだったが、ガーナは国境の道路整備に力を入れてないようだ。140キロ先のエルボに着くまで2時間以上かかった。もう正午だ。
エルボからコートジボアール国境まで歩かなくてはならない。ガーナの出国はスムーズだった。入国審査官に「次はいつガーナに来るんだ」と質問され「分からない」と言うと「何だガーナは嫌いなのか?」とほのぼのとした雰囲気の中、気分良く通過。そして約500メートル歩いた。
そしていよいよコートジボアール入国だと思いながら入国審査官にパスポートを差し出した。するといきなり役人が「5000F(1000円)出せ」とワイロを要求してきた。相手は「とにかく出せ」とほとんど脅しに近い状態だった。とりあえず冷静に対応するしかない。「それは何に使われるのか?ビザ取得時にも同じぐらいの額を支払ったのにどういうことか説明してくれ。レシートは出せるのか?」相手はとにかく出せとまだ言っているが、事務所の奥に入っていった。でもパスポートにスタンプを押してくれている。そして手続きをはじめた。あきらめたのだろうか。パスポート返却時さらにもめると思ったが、すんなりパスポートを返してくれそれ以上言い寄ってこなかった。まったくスタンプを押される前のワイロ要求ほど心臓に悪いものはない。コートジボアール旅行、先が思いやられる。
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