2019/09/27 - 2019/09/28
2位(同エリア157件中)
夏子の探検さん
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- 旅行記705冊
- クチコミ709件
- Q&A回答50件
- 1,680,361アクセス
- フォロワー463人
これにて、ドイツ内は最後の街の記録です。
ライン河畔の都市ケルンから西へ約40km。鉄道を使えば1時間もかからずに行ける、ドイツで最も西にある町アーヘンです。
人口は約24万人。紀元前3世紀にはローマ人が住み着き、さらに800年にはフランク王国のカール大帝が都を置いたことでも知られています。
この先、ベルギーのブリュッセルに入ります。
「今回の予定」
9月19日 名古屋セントリア発7時55分 ANA(NH086)9時5分 羽田着
羽田発11時15分 ANA(NH223) 16時25分 フランクフルト(1Aファーストお初経験☆)
旅行記 https://4travel.jp/travelogue/11544310
1泊目 9月19日 ホテル ミネルヴァ(フランクフルト)
2泊目・9月20日 フランクフルト サボイホテル
フランクフルト観光
旅行記https://4travel.jp/travelogue/11544838
3泊 ・ 21日~2泊 ホリデイイン ニュルンベルグホテル
21日 日帰りでミュンヘン・オクトーバーフエスト参加
旅行記https://4travel.jp/travelogue/11546133
4泊 ・ 22日 ホテル同上~ニュルンベルグ徒歩観光
旅行記https://4travel.jp/travelogue/11545612
5泊目・ 23日 シュルスホテルシュタインブルグ ヴェルツブルグ (一応古城ホテル)ホテルライフを過ごす
旅行記https://4travel.jp/travelogue/11546237
ホテルで出会った女子2人組に誘って頂き、駅までタクシーシエアしてご一緒に街訪問~すてきな街でした☆
旅行記https://4travel.jp/travelogue/11546667
フランクフルトまでご一緒して、彼女達はフランクフルト泊で私は乗り換えてカッセルまで・・・(実はここアクシデントあり)参りました・・・フランクフルト乗り換え時に、ICE遅延で、一人で待ちましたが、同じホームに来た別方向行き電車に乗り間違え、途中で教えて頂き、散々に成りながらカッセルに到着(夜10時過ぎ)
6泊目・ 24日 TRYPバイウインダムカッセルシティーセンター カッセル泊
午後からカッセルシティー1人でお散歩
7泊目・ 25日~2泊 ホテルパシフィック ハンブルグ泊
体調風邪で芳しくなく、昼過ぎまで寝てて、まずはスマホを開通裂させなくては・・とスマホショップを探す・・・
3件目で凄く親切なショップスタッフの努力で、他のメーカーなのに困ってる私を2時間もかけて、相手のエージェントとドイツ語で交渉して下さり、見事開通・・・ありがとう~~♪写真添付します。
夕方から、やっと動くグーぐるマップを頼りに、街に繰り出す・・・ハンブルグ観光
8泊 ・ 26日 同上泊 ここから、また移動です。
9泊目・ 27日 ベストプライスホテル アーヘン泊
★ここの記録です。
10泊目・ 28日~2泊 ブリュッセル
11泊目・ 29日 同上
9月30日 ブリュッセル空港21時10分発(NH232)ANA
10月1日 15時40分 成田空港着
17時05分 成田発ANA (NH493) 18時15分名古屋セントレア着(まさかのスーツケース壊れ発生・・・)でも動くので、リムジンバスで、四日市帰宅
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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ホテルから大聖堂を目指して歩き出します。
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旧市街は駅前から始まらず・・・こんな石の門をくぐって行きます。
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アーヘンという地名、実はフランク族がここに住み始めたとき、アーハ(Ahha)という名前を付けたのが語源とのこと。
アーハというのは「水」という意味ですが、その言葉の通りアーヘンの町は、ローマ人が入植する以前から温泉を中心とする集落として開けていましたし、現在でもバーデン=バーデンなどと並ぶ温泉保養地として有名らしいです。 -
アーヘンの街は中央にぎゅ~~っと旧市街がまとまり、その外側に現在の街と駅が有るのです。
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温泉が無料で飲めると言うエリーゼ宮から旧市街入ります。
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何処で飲めるの?聞きましたが解らなかった。
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昔に有った建物を復元したらしい。
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その先には、大きな公園に成ってます。
この先、色々教えて下さった( jijidaruma さまの旅行記はhttps://4travel.jp/traveler/jijidaruma です) -
町並み
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寒いのですが、公園の花と大聖堂の屋根
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今回の第一目的~ドイツ世界遺産第1号の大聖堂です。
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手前に噴水
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ここの説明を探しましたが、無いので・・・でもこんな風景が・・・
としたら、ご説明頂きました♪
( jijidaruma さまご解説)
「Der Kreislauf des Geldesお金のサイクル(Circle of Money)」はハルトマンシュトラーセ(通り)/ウルスライナーシュトラーセ(通り)の角に位置し、Bildhauer彫刻家Karl-Henning Seemannカール・ヘニング・ゼーマン教授によって1977年に作成されました。
噴水の端にある6つの青銅の像は、お金のUmgang回転を示し、水のKreiselbewegung円運動はお金の一定の流れを表しています。
例えば、二番目の写真にある3人組の銅像は見事に太った女性から、男が右手で何か(この場合は金)を受け取り、後ろにいる男に左手で渡しており、お金の中継でしょう。
(御指摘のお婆さんは水に入ってコインを拾っているのも、多分、貧者のお婆さんは身を以ってこの事を実証しているように思えますね) -
え~!この寒い日に、おばあさん何してるの?と思って見ていたら、なんと池に入れられたコインを拾っていました・・・
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アーヘン大聖堂はこの先で大聖堂の屋根が見えました。
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有名なパンやさんノービスは通り道に~
併設のノビスカフェは1858年創業の老舗洋菓子店 -
お客さんも多く、多くの甘いお菓子が~
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日本の○○ドーナツなような物も・・・此処では見なかったアーヘナープリンテンは香辛料入りのレープクーヘンですが・・・
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外ではカフェも
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近所のお花屋さんも・・・
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大聖堂が見える道では・・・
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私が本来ドイツに来たかった目的だった、エリカの花
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まだ感謝祭(ハロウィン)では無いけど、いろんなカボチャ達
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はい、ここが大聖堂です。
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その周りは街角のカフェ~寒くても、外でお茶する人も居ます。
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旧市街の建物はドイツ風
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どこかの国の、3兄弟みたいな建物
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街のあちこちにモニュメント
Spatzenbrunnen雀の泉はアーヘン出身の彫刻家Bonifatius Stirnbergボニファティウス・シュティルンベルクが1978年に造形したもの。Muensterplatzaruミュンスター広場にある。
尚、アーヘン駅前にあるPferdegruppe馬の群れ(5頭)も同じ(1975年)。
( jijidaruma さまご解説) -
大聖堂の模型
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上から見るとこんな大聖堂の様子
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大聖堂の模型
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そう・・・なぜか開かないのよね・・・午前中は・・・
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見上げると青空
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露天の八百屋さんにもお客さんが~
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大聖堂・・・まだ開かない・・・
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聖ロリアン教会?大聖堂の別名???
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壁にはドラゴン?
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この大聖堂はユネスコの世界遺産登録の第1号として12箇所登録されたうちの1つということもあり、歴史的な建物としてヨーロッパの中でも由緒正しきスポットです。
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アーヘン市庁舎~物凄く大きく立派です。
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市庁舎の脇のアーチのところをくぐると、マルクト広場です。
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近づいて見ると・・・
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市庁舎の建物~はカール大帝の城だったそうです。
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青空に映える市庁舎
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館内には~なぜにナポレオン???カール1世ではないよね?
( jijidaruma さまご解説)
市庁舎の二つの絵は皇帝ナポレオンとジョゼフィーヌ皇后で、それについては、少しエピソードがあるようで、(未確認)資料によると、1804年5月28日、ナポレオンは帝政の開始を宣言。12月2日に戴冠式を行い、フランス皇帝ナポレオン1世となった。その年は多忙のはずながら、1804年8月にアーヘン来訪があったらしい。この二つの絵がアーヘンに贈呈された後、フランス軍が攻め込んできたため、絵が壊れないように一度ベルリンに移され、その後、ヴェルヘルム4世がアーヘンに戻したと云う。
その後も世界大戦などがあったため、アーヘン市庁舎に飾られたのは50年位前だと云われているそうだ。
因みに皇帝ナポレオンは1769年8月15日、コルシカ島で生まれました。そして今年2019年はナポレオン生誕250周年となります。
それで絵が復活したのかもしれません。 -
この城の主?市庁舎入り口に左右に掲げられた上記とこの婦人絵
( jijidaruma さまご解説)
ナポレオン一世の愛妃ジョセフィーヌが初めて目にしたのは1804年8月、それは夫ナポレオンが人民投票で皇帝となって僅か3ヶ月後の事でした。
アーヘンの都ではカール大帝が宮廷礼拝堂を建設して1000年の祝賀ムードに包まれていました。
そんな時ジョセフィーヌが大聖堂にやってきました。歴史的な聖遺物が多く特に<カール大帝の守護石>とされていたサファイアは「持つ者を必ず皇帝にする」という秘宝でした。
その秘宝のサファイアを特別にジョセフィーヌに見せることになりました。そのサファイアを見るなり何を勘違いしたのかジョセフィーヌは「これで結構よ!」といいます。ナポレオンがドイツを征服した際、寺院側はナポレオンに聖遺物の中から何かを謙譲する約束になっていました。しかしまさかジョセフィーヌが見せるだけのつもりだった秘宝のサファイアを所望するとは思っても見なかったのです。結局ナポレオンの命令に従ってジョセフィーヌの望むものを与えねばならずサファイアは彼女の手に渡りました。そのサファイアはカール大帝の護符だけでなく聖遺物の中でも飛びぬけて特別なものでした。カール大帝の父・ピピンがイタリア半島をローマ教皇領として法王に謙譲した時法王からお礼にもらったという歴史的にも超一級の由緒あるものでした。その意味をジョセフィーヌは知らず単純に宝石好きの夫がさぞ喜ぶだろうと考えてサファイアを申し出ただけでした。
(中略)
ナポレオンは世界を征服する石をいとも簡単にジョセフィーヌへ譲ります。
人々はナポレオンが不幸になったのはあの「皇帝の石」を手放したからだと言いました。一方ジョセフィーヌは・・政府と連合軍から丁重に扱われマルメゾンはロシア皇帝までも訪れる華やかなサロンとして人気を集め、何不自由なく51歳で静かに息を引き取りました。
その後そのサファイアはジョセフィーヌの娘でナポレオン弟の后になったオルタンス姫からその子のナポレオン三世に渡りました。彼が第二帝政を立て専制政治を行いました。やがてウージュニーの手によってフランス東北部・ランスの大聖堂におさめられ教会の重要な宝物となりました。 -
意味不明の中~人だかりが・・・
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結婚式でした。海外の結婚式は、この姿で市庁舎に戸籍を出しに行く
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幸せに成ってね♪
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市庁舎の中は、こういう事で見れず・・・
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この広間の天井だけでも、なんか凄い!フレスコ画が天井に・・・
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すっとこれが続くのかしら?
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もっと見たかったなぁ~
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市役所のパンフレット
( jijidaruma さまご解説)
Der Zahn der Zeit nagt an unserem Rathaus!時の浸食が市庁舎を苦しめる!
(市庁舎が古びた事を訴えている)と書かれているそうです。 -
市庁舎前のマルクト広場
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やはり噴水が中央に
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マルクト広場中央の像
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広場中央のモニュメントの噴水
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こっちにも噴水
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アップに
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大聖堂脇には商店街
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旧市街の商店街
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有名店では無かったようで・・・でも!
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この街で一番有名なアーヘナーブリンテン~店内で試食しましたが、甘過ぎて・・・
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お味はシナモンクッキーの、もっと甘い感じのクッキーでした。
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商店街
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パン屋さん
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チョコレートも~甘い物大好きな街なんですね!
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これは・・・?
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全部計り売り可能そうで・・・ピンクとか赤とか?ドレッシングかな?
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こっちはハチミツ
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大聖堂ラベルのシャンパンも売ってます。
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表紙にも成っていますが、全てオリーブオイルとビネガーです。計り売りなのですね。
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店内
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小便小僧の?漁師版?が有った場所に・・・
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こっちは宝物館
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博物館
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有名なカ-ル大帝の金の胸像
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各種の宝石入りの十字架~豪華ですね!
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観音開きの絵画
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観音開きの金の聖人たちの像が並ぶ
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教会の祭壇で使われる聖物~全部金だぁ~!
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こっちも金
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金の輪を飾る聖母子
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この博物館、金だらけ!!
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観音開きイエスの絵画
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この時代、全部BOOK型・・・なんで?
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王様の王冠
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あちこち金だらけ~
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そこを出ると、此処にも変わった噴水
( jijidaruma さまご解説)
Puppenbrunnenプッペンブルネン(人形の泉):
1977年にドイツ・アーヘン出身の彫刻家Bonifatius Stirnbergボニファティウス・シュティルンベルクが造形したという「レムゴーの伝説:ビール酒税の導入とビール樽の紛争が生んだ宰相の泉」を2019年の初秋の旅番外編で掲載しましたが、アーヘンでも同じような(人形の泉)を見ることになりました。
今回、お写真で見て似ていると思い、番外編を見ると同じ彫刻家でした。
こちらはアーヘンのKraemerstrasseクレーマーシュトラーセ(通り)、丁度、大聖堂と市庁舎の間のつながる通りにあり、アーヘン銀行から寄贈され、1975年にアーヘンの彫刻家ボニファティウス・シュティルンベルクにより作られた。こちらが先に出来たようです。「宰相の泉」と同様に、噴水の人形は手足などが可動式です。
尚、同じ作者が作った銅像と泉(1981年作)を2019年の初秋の旅でOsnabrueckオスナブリュックの聖ヨハン教会前で出会いました(こちらは番外編に纏めていません)。
シュティルンベルクの作品はアーヘン出身の彫刻家ということもあるのだろう、アーヘン市内に彫刻、記念碑(作品リストから)など10作品もある。 -
面白い仮面みたいな吊り物が
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意味解んないけど、なんだか可愛い
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街角の建物
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どこも雰囲気が良いですね。
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エリカが咲き誇ってます。
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街角
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やっと大聖堂が開きました!
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大聖堂の入り口の彫刻
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すんごい天井
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うわ~~~☆
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この天井
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大聖堂は入ってみないと、こんな天井は見れないよね
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天国の様子かな?
中心に高さ32mの八角形のドームが造られています。中世のキリスト教では、「八」は復活を意味し、神聖で象徴的な数字でした。 -
アーヘン大聖堂の中心は宮殿教会で、当時はアルプス以北で最大のドーム建築でした。古典主義やビザンティン様式、ドイツ-ロマネスク様式など様々な建築様式が融合して造られています。
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これが有名な25mの高さのステンドグラス
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見上げると25m
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他の場所の天井も可愛い!
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実際に見るとすんごいですよ~
天井の高さは約31m、直径は14mらしい。 -
祭壇
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の周りが、ステンドグラスいっぱい!
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巡礼者が多かったため増築の必要もあり、また、カール大帝即位600年を記念して、「ガラスの家」と呼ばれる礼拝堂が設けられました。非常に面積が広いガラス部分には、25mのステンドグラスがはめこまれています。また、装飾や天井画も荘厳で見事です。
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戴冠式のステンドグラス
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大聖堂内ステンドグラス
手本になったのはフランスはパリ、シテ島にあるサント・シャペル礼拝堂です(盛期ゴシック様式の極致) -
アーヘン大聖堂は北部ヨーロッパで最古の聖堂で、「皇帝の大聖堂」とも呼ばれています。これは、カロリング朝フランク王カール大帝が埋葬されているためです。
786年、カール大帝は大聖堂の前身となる宮殿教会の建設を始めました。814年に皇帝が死去すると、その遺体は大聖堂に埋葬されました。現在でもその遺骨は残されています。
936年から1531年までは、玉座が設置された場所で30人の神聖ローマ帝国の皇帝の戴冠式が行われました。
また、11世紀にカール大帝の霊安室を開けてみたところ、大帝の遺体はローブをまとって玉座に座り、戴冠し、福音書を膝に乗せた状態で、きわめて良好な保存状態だったそうです。 -
教会内の金の聖堂
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それぞれの模様のステンドグラス
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床にはカール大帝のお墓かな?~ガイコツが奇抜
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突然男性聖歌隊の練習が始まる
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夕暮れ
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大聖堂の裏側
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さて帰り道
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旧市街には花も~
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街中スーパー
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踊りまわる市民?
( jijidaruma さまご解説)
1970年に彫刻家Hubert Loenekeフーベルト・レーネケによって作成されたKlenkes-Denkmalクレンケス記念碑はアーヘン市のホルツグラーベン(Holzgraben木の堀)にある。
Klenkesクレンケスとは上げられた小指の事だそうだ。クレンケスはアーヘン市民の目印、識別、特徴であり、彼らの間で交わす挨拶である。
右手の小指を上げることで、その意を表現するのだと云う。その像はよく見ると、確かに小指をあげている。 -
みんな表情が有るんだな~
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市内
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新市街
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駅方面には、近代的なデパートも
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旧市街から少し離れると~
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此処は駅前なんだけど・・・
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ここの教会の名前
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入りたいんだけど、閉まってました・・・
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帰りにアーヘン駅構内でカリブレストを食べました~なぜか写真なし
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アーヘンの次はICEでブリュッセルです。
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走行中の駅名~ブリュッセルまでも近いです。
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こっちはパリから?TGVでしょうか?
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これがドイツ鉄道の色です。
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シングル席も~これで最後のドイツ鉄道~
次はブリュッセルが書けると良いなぁと思います。
~~ごらん頂き、ありがとうございます~~
( jijidaruma さまご解説)も追加しました。教えてくださり、ありがとうございました☆
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この旅行記へのコメント (3)
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- jijidarumaさん 2020/01/21 19:47:23
- アーヘンの旅行記のいくつかの疑問に対する回答
- 夏子の探検さん、
今晩は。
アーヘンのWikiを読んでみると、アーヘンの旅行記のいくつかの疑問に
答えられそうです。以下をご参考にして下さい。
尚、ご多用でしょうから、ご返事は不要です。
1)貴写真のコメント:手前に噴水、ここの説明を探しましたが、無いので・・・でもこんな風景が・・・え~!この寒い日に、おばあさん何してるの?と思って見ていたら、なんと池に入れられたコインを拾っていました・・・
「Der Kreislauf des Geldesお金のサイクル(Circle of Money)」はハルトマンシュトラーセ(通り)/ウルスライナーシュトラーセ(通り)の角に位置し、Bildhauer彫刻家Karl-Henning Seemannカール・ヘニング・ゼーマン教授によって1977年に作成されました。
噴水の端にある6つの青銅の像は、お金のUmgang回転を示し、水のKreiselbewegung円運動はお金の一定の流れを表しています。
例えば、二番目の写真にある3人組の銅像は見事に太った女性から、男が右手で何か(この場合は金)を受け取り、後ろにいる男に左手で渡しており、お金の中継でしょう。
(御指摘のお婆さんは水に入ってコインを拾っているのも、多分、貧者のお婆さんは身を以ってこの事を実証しているように思えますね)
*Karl-Henning Seemannカール・ヘニング・ゼーマン教授は1972年、アーヘン応用科学大学の教授に任命される。彼は1934年Wismar生まれ、公共スペースの彫刻や噴水で最もよく知られています。
尚、多くの像が各地に建てられていて、「Auseinandersetzung対立」という名前が付く銅像2体(1975-76年)がデュッセルドルフの旧市街にあります。
2)貴写真のコメント:街のあちこちにモニュメント
Spatzenbrunnen雀の泉はアーヘン出身の彫刻家Bonifatius Stirnbergボニファティウス・シュティルンベルクが1978年に造形したもの。Muensterplatzaruミュンスター広場にある。
尚、アーヘン駅前にあるPferdegruppe馬の群れ(5頭)も同じ(1975年)。
3)貴写真のコメント:市庁舎館内には~なぜにナポレオン???カール1世ではないよね?この城の主?市庁舎入り口に左右に掲げられた上記とこの婦人絵・・・
市庁舎の二つの絵は皇帝ナポレオンとジョゼフィーヌ皇后で、それについては、少しエピソードがあるようで、(未確認)資料によると、1804年5月28日、ナポレオンは帝政の開始を宣言。12月2日に戴冠式を行い、フランス皇帝ナポレオン1世となった。その年は多忙のはずながら、1804年8月にアーヘン来訪があったらしい。この二つの絵がアーヘンに贈呈された後、フランス軍が攻め込んできたため、絵が壊れないように一度ベルリンに移され、その後、ヴェルヘルム4世がアーヘンに戻したと云う。
その後も世界大戦などがあったため、アーヘン市庁舎に飾られたのは50年位前だと云われているそうだ。
因みに皇帝ナポレオンは1769年8月15日、コルシカ島で生まれました。そして今年2019年はナポレオン生誕250周年となります。
それで絵が復活したのかもしれません。
【参考:ナポレオンのサファイア 世界宝石物語(プログ)】
皇帝の石。出世したい人必見! ~ナポレオンのブルーサファイア~
ナポレオン一世の愛妃ジョセフィーヌが初めて目にしたのは1804年8月、それは夫ナポレオンが人民投票で皇帝となって僅か3ヶ月後の事でした。
アーヘンの都ではカール大帝が宮廷礼拝堂を建設して1000年の祝賀ムードに包まれていました。
そんな時ジョセフィーヌが大聖堂にやってきました。歴史的な聖遺物が多く特に<カール大帝の守護石>とされていたサファイアは「持つ者を必ず皇帝にする」という秘宝でした。
その秘宝のサファイアを特別にジョセフィーヌに見せることになりました。そのサファイアを見るなり何を勘違いしたのかジョセフィーヌは「これで結構よ!」といいます。ナポレオンがドイツを征服した際、寺院側はナポレオンに聖遺物の中から何かを謙譲する約束になっていました。しかしまさかジョセフィーヌが見せるだけのつもりだった秘宝のサファイアを所望するとは思っても見なかったのです。結局ナポレオンの命令に従ってジョセフィーヌの望むものを与えねばならずサファイアは彼女の手に渡りました。そのサファイアはカール大帝の護符だけでなく聖遺物の中でも飛びぬけて特別なものでした。カール大帝の父・ピピンがイタリア半島をローマ教皇領として法王に謙譲した時法王からお礼にもらったという歴史的にも超一級の由緒あるものでした。その意味をジョセフィーヌは知らず単純に宝石好きの夫がさぞ喜ぶだろうと考えてサファイアを申し出ただけでした。
(中略)
ナポレオンは世界を征服する石をいとも簡単にジョセフィーヌへ譲ります。
人々はナポレオンが不幸になったのはあの「皇帝の石」を手放したからだと言いました。一方ジョセフィーヌは・・政府と連合軍から丁重に扱われマルメゾンはロシア皇帝までも訪れる華やかなサロンとして人気を集め、何不自由なく51歳で静かに息を引き取りました。
その後そのサファイアはジョセフィーヌの娘でナポレオン弟の后になったオルタンス姫からその子のナポレオン三世に渡りました。彼が第二帝政を立て専制政治を行いました。やがてウージュニーの手によってフランス東北部・ランスの大聖堂におさめられ教会の重要な宝物となりました。
・・・・・
4)貴写真のコメント:市役所のパンフレット:
Der Zahn der Zeit nagt an unserem Rathaus!時の浸食が市庁舎を苦しめる!
(市庁舎が古びた事を訴えている)
5)貴写真のコメント:踊りまわる市民?
1970年に彫刻家Hubert Loenekeフーベルト・レーネケによって作成されたKlenkes-Denkmalクレンケス記念碑はアーヘン市のホルツグラーベン(Holzgraben木の堀)にある。
Klenkesクレンケスとは上げられた小指の事だそうだ。クレンケスはアーヘン市民の目印、識別、特徴であり、彼らの間で交わす挨拶である。
右手の小指を上げることで、その意を表現するのだと云う。その像はよく見ると、確かに小指をあげている。
6)貴写真のコメント:そこを出ると、此処にも変わった噴水
Puppenbrunnenプッペンブルネン(人形の泉):
1977年にドイツ・アーヘン出身の彫刻家Bonifatius Stirnbergボニファティウス・シュティルンベルクが造形したという「レムゴーの伝説:ビール酒税の導入とビール樽の紛争が生んだ宰相の泉」を2019年の初秋の旅番外編で掲載しましたが、アーヘンでも同じような(人形の泉)を見ることになりました。
今回、お写真で見て似ていると思い、番外編を見ると同じ彫刻家でした。
こちらはアーヘンのKraemerstrasseクレーマーシュトラーセ(通り)、丁度、大聖堂と市庁舎の間のつながる通りにあり、アーヘン銀行から寄贈され、1975年にアーヘンの彫刻家ボニファティウス・シュティルンベルクにより作られた。こちらが先に出来たようです。「宰相の泉」と同様に、噴水の人形は手足などが可動式です。
尚、同じ作者が作った銅像と泉(1981年作)を2019年の初秋の旅でOsnabrueckオスナブリュックの聖ヨハン教会前で出会いました(こちらは番外編に纏めていません)。
シュティルンベルクの作品はアーヘン出身の彫刻家ということもあるのだろう、アーヘン市内に彫刻、記念碑(作品リストから)など10作品もある。
(2020年1月21日Wikiなど訳・編集加筆)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 夏子の探検さん からの返信 2020/01/21 22:41:08
- RE: アーヘンの旅行記のいくつかの疑問に対する回答
- jijidarumaさま こんばんわ☆
素晴らしい説明を、本当にありがとうございます。
流石です!!感激致しました♪
私も、もっとまじめに調べれば(一応は調べたのですが、観光案内には、ここまで載っておらず)本当に素晴らしい納得のいくご説明、感銘致しました!
ありがとうございます♪
もし、ご迷惑でなければ、教えて下さったご説明を、旅行記に( jijidaruma さまご解説)として載せても、宜しいでしょうか?
いえ、お調べ頂いただけでも、ありがたいし、私もそんな事実の元に、こんな具合なんだ!とか、ナポレオンが、どうして市庁舎にあるのか?に関しては、へ〜〜〜合点合点だ!
と、ジョセフィーヌに関しても、調べたのですが、なんでここにナポレオン夫婦?の絵画???と・・・
そんな逸話が有ったのですね。
きっとこの街の人々なら、なんとなく知って居たかもですが、そこまで聞いてもと思い・・・
なんとエリーゼ宮でも、隣の案内所で聞いたのに、飲める温泉水?と逆に聞かれて、私の英語説明が下手だったので、解らないのか?とか、それ以上つっこむ事も出来ず、別にいいや。と案内所を(混んでいたので)出てしまったから・・・
いやいや、本当に、教えて頂き、ありがとうございます!!
今日は暖かい(風は冷たかったですが)日差しに、和んだ1日でしたが、時に寒い日もまだ有ると思うので、jijidaruma さまも、お身体にお気をつけて、お過ごし下さい。
とても参考に成ったので、宜しければ、旅行記に掲載させて下さい(あくまで、jijidaruma さま記と書きます)
では〜〜〜ありがとうございました♪
夏子
- jijidarumaさん からの返信 2020/01/22 00:03:53
- RE: RE: アーヘンの旅行記のいくつかの疑問に対する回答
- 夏子の探検さん、
ご多用の所、ご返信恐縮です。
喜んでいただきありがとうございました。
私は?が気になる性格で、自分でも知りたくなるのですよ。
特に6)Puppenbrunnenプッペンブルネン(人形の泉)のことは
私の番外編にも絡む話が出てきて、大喜びで調べてみました。
オスナブリュック、レムゴーもこれからの旅行記に出る話なので、
話に膨らみが出るから、夏子さん【お蔭さま】でしたと言えるのです(笑)。
どうぞ、私の名前は不要ですから、旅行記の文章に適宜ご利用ください。
皆さんも参考にされるはずですから、それで良いのではないでしょうか。
(私自身もWikiやプログなどを参考にしたわけですからね)
アーヘンは赴任の年の1974年秋口に、初めてデュッセルドルフを離れて
家族で小旅行に行きました。
(その後は2回ぐらい行ったはずですが、もう記憶も飛んでいます)
それもドイツの運転免許を取得する前でしたから、電車で行ったのです。
あの頃からすると、街もきれいで、銅像も大変多くなり、貴女の旅行記を
拝見すると驚いてしまいました。それではまた。
この返信はご不要ですよ!!
jijidaruma
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