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12月29日は朝から雨だった。<br />ホテルで朝ごはんを済ませた。<br />(怠け者の私たちは、早起きして美味しい朝食を食べに出かける、ということが出来ない。いつかは朝ごはんを外で!)<br /><br />ホテルの部屋は狭くて、お隣のビルが近くまで迫っていて景観は全く良くないけど、立地は抜群だった。<br /><br />歩いてもすぐの距離にありそうな二二八和平公園の中にある台湾国立博物館に行ってみることにした。<br />博物館は、日本統治時代に残された建築物らしい。<br /><br /><付け焼刃の知識ではありますが台湾の歴史をメモしておきます。><br />・漢民族が移住する以前の台湾は、東南アジア方面から渡来して住み着いた原住民が暮らしており、いくつかの部族に分かれていた。<br />・1624年、オランダが台湾南部に上陸。一方イスパニアは北部に上陸するが、オランダが優勢となった。<br />・17世紀初頭、中国大陸南部から漢民族の移住が開始された。福建省、広東省の出身者がほとんだだった。<br />・1644年、清朝が中国を支配。<br />・1683年、清朝は、台湾が敵対する勢力の根拠地とならないよう、文官を派遣して統治を開始した。同時に大陸から台湾への渡航を厳しく制限したため、台湾に渡っていた漢民族の多くが、台湾原住民の女性と結婚していった。<br />・19世紀末、日清戦争が勃発。1895年日本は清国から下関条約により台湾を割譲された。<br /><br />その後、1945年8月15日の日本の敗戦によって中国に返還されるまでの約50年が日本統治時代と言われている。

台湾の日本統治時代って? そしてその後の時代を経て今。 2. 台北

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2019/12/28 - 2020/01/02

2195位(同エリア28093件中)

旅行記グループ 2019 暮れからの台湾

4

60

mistral

mistralさん

12月29日は朝から雨だった。
ホテルで朝ごはんを済ませた。
(怠け者の私たちは、早起きして美味しい朝食を食べに出かける、ということが出来ない。いつかは朝ごはんを外で!)

ホテルの部屋は狭くて、お隣のビルが近くまで迫っていて景観は全く良くないけど、立地は抜群だった。

歩いてもすぐの距離にありそうな二二八和平公園の中にある台湾国立博物館に行ってみることにした。
博物館は、日本統治時代に残された建築物らしい。

<付け焼刃の知識ではありますが台湾の歴史をメモしておきます。>
・漢民族が移住する以前の台湾は、東南アジア方面から渡来して住み着いた原住民が暮らしており、いくつかの部族に分かれていた。
・1624年、オランダが台湾南部に上陸。一方イスパニアは北部に上陸するが、オランダが優勢となった。
・17世紀初頭、中国大陸南部から漢民族の移住が開始された。福建省、広東省の出身者がほとんだだった。
・1644年、清朝が中国を支配。
・1683年、清朝は、台湾が敵対する勢力の根拠地とならないよう、文官を派遣して統治を開始した。同時に大陸から台湾への渡航を厳しく制限したため、台湾に渡っていた漢民族の多くが、台湾原住民の女性と結婚していった。
・19世紀末、日清戦争が勃発。1895年日本は清国から下関条約により台湾を割譲された。

その後、1945年8月15日の日本の敗戦によって中国に返還されるまでの約50年が日本統治時代と言われている。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
カップル・夫婦
交通手段
鉄道 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 博物館に向かって歩いていると<br />最初に蒸気機関車が展示されているのが目についた。<br /><br />解説を読むと<br />1871年、英国の Avonside 社製の蒸気機関車は<br />1872年から1895年まで東京・横浜間で運行された<br />日本の国鉄でも最も古い10台のうちの1台であり<br />かつては天皇のお召列車としても活躍していたもの。<br /><br />その後台湾に運ばれてきて、<br />他の8台の蒸気機関車と共に、No.9として活躍し<br />30年間働いたのちに1925年引退した。

    博物館に向かって歩いていると
    最初に蒸気機関車が展示されているのが目についた。

    解説を読むと
    1871年、英国の Avonside 社製の蒸気機関車は
    1872年から1895年まで東京・横浜間で運行された
    日本の国鉄でも最も古い10台のうちの1台であり
    かつては天皇のお召列車としても活躍していたもの。

    その後台湾に運ばれてきて、
    他の8台の蒸気機関車と共に、No.9として活躍し
    30年間働いたのちに1925年引退した。

  • 台湾国立博物館の堂々とした建物を正面から。<br /><br />1908年、第4代台湾総督 児玉源太郎と民政長官 後藤新平<br />を記念する為「児玉総督後藤民政長官記念館」として現在地に<br />建築されたもの。<br />当時の総督府には記念館建設の為の財政の余裕はなく、費用は<br />一人一円の寄付金によって賄われたとのこと。<br /><br />後、「台湾総督府民政部殖産局付属博物館」から<br />1909年、台湾総督府博物館に改称。

    台湾国立博物館の堂々とした建物を正面から。

    1908年、第4代台湾総督 児玉源太郎と民政長官 後藤新平
    を記念する為「児玉総督後藤民政長官記念館」として現在地に
    建築されたもの。
    当時の総督府には記念館建設の為の財政の余裕はなく、費用は
    一人一円の寄付金によって賄われたとのこと。

    後、「台湾総督府民政部殖産局付属博物館」から
    1909年、台湾総督府博物館に改称。

  • 現在の建物の完成は1915年。<br />設計は野村一郎氏、荒木栄一氏で(当時の総督府、営繕課技師)<br />他に野村氏は台湾総督官邸、朝鮮総督府庁舎(すでに取り壊されている)<br />の設計に携わっている。<br /><br />正面はギリシア神殿を思わせる太い柱と、ペディメントには植物の<br />彫刻が施されている。<br />すべての大理石はイタリアから取り寄せたもの。<br />当時の日本の威信をかけた建築物だったことが伺える。<br />

    現在の建物の完成は1915年。
    設計は野村一郎氏、荒木栄一氏で(当時の総督府、営繕課技師)
    他に野村氏は台湾総督官邸、朝鮮総督府庁舎(すでに取り壊されている)
    の設計に携わっている。

    正面はギリシア神殿を思わせる太い柱と、ペディメントには植物の
    彫刻が施されている。
    すべての大理石はイタリアから取り寄せたもの。
    当時の日本の威信をかけた建築物だったことが伺える。

  • 入口ホールの天井のステンドグラス。<br /><br />児玉家の家紋の「軍配団扇」と後藤家の家紋の「藤」を組み合わせて<br />いる。(写真ではわかりにくいですが)<br /><br />戦前、ロビーの両側には、左側に児玉総督、右側に後藤民政長官<br />の立像が置かれていたとのこと。<br />戦後、国民党がこの博物館も接収し、2体の銅像も撤去するように<br />との指示があったが、博物館員によって銅像は密かに地下倉庫に<br />保管され、50年間のあいだ隠し続けられたそうです。<br />(現在では、2008年、博物館設立100周年記念として隠されていた<br />2体の銅像は3階の陳列室に置かれているとのことだったが、<br />見学しそびれてしまった。)

    入口ホールの天井のステンドグラス。

    児玉家の家紋の「軍配団扇」と後藤家の家紋の「藤」を組み合わせて
    いる。(写真ではわかりにくいですが)

    戦前、ロビーの両側には、左側に児玉総督、右側に後藤民政長官
    の立像が置かれていたとのこと。
    戦後、国民党がこの博物館も接収し、2体の銅像も撤去するように
    との指示があったが、博物館員によって銅像は密かに地下倉庫に
    保管され、50年間のあいだ隠し続けられたそうです。
    (現在では、2008年、博物館設立100周年記念として隠されていた
    2体の銅像は3階の陳列室に置かれているとのことだったが、
    見学しそびれてしまった。)

  • 当日見学しそこなった<br />児玉源太郎、4代台湾総督(1989年2月~1906年4月)銅像の写真<br /><br />ネットから見つけたもの。<br />

    当日見学しそこなった
    児玉源太郎、4代台湾総督(1989年2月~1906年4月)銅像の写真

    ネットから見つけたもの。

  • 同様に 後藤新平 民生長官 銅像<br /><br />台湾統治開始から第3代総督の時代(樺山資紀、桂太郎、乃木希典)<br />までは支配的な統治がされていたようだが<br />第4代の児玉総統は、後藤民政官と共に土地改革、衛生環境改善、<br />アヘン根絶、学校教育、産業育成などの台湾の発展の為の礎を築いた<br />そうです。<br /><br />(この日本統治時代になされた事業については、次に訪れた<br />「台北二二八紀念館」でお会いしたボランティアガイドさんから詳しい<br />お話を伺うこととなりました。)

    同様に 後藤新平 民生長官 銅像

    台湾統治開始から第3代総督の時代(樺山資紀、桂太郎、乃木希典)
    までは支配的な統治がされていたようだが
    第4代の児玉総統は、後藤民政官と共に土地改革、衛生環境改善、
    アヘン根絶、学校教育、産業育成などの台湾の発展の為の礎を築いた
    そうです。

    (この日本統治時代になされた事業については、次に訪れた
    「台北二二八紀念館」でお会いしたボランティアガイドさんから詳しい
    お話を伺うこととなりました。)

  • ロビーの周囲を取り囲む太い列柱

    ロビーの周囲を取り囲む太い列柱

  • ロビー右側にティケット売り場がある。<br />(NT$30、 1 ニュー台湾ドル=3.67円)<br />音声ガイドは日本語にも対応していてパスポートを預けて借りてみた。

    ロビー右側にティケット売り場がある。
    (NT$30、 1 ニュー台湾ドル=3.67円)
    音声ガイドは日本語にも対応していてパスポートを預けて借りてみた。

  • 一階展示室は特設展の会場となっていた。<br /><br />その折りはオーストラリアのアボリジニの方々による作品が<br />展示されていた。

    一階展示室は特設展の会場となっていた。

    その折りはオーストラリアのアボリジニの方々による作品が
    展示されていた。

  • ユーカリの樹皮の内側に様々な<br />図柄が描かれている。

    ユーカリの樹皮の内側に様々な
    図柄が描かれている。

  • 大きな樹皮一杯に<br />描かれたワニ?の大胆なデザイン。

    大きな樹皮一杯に
    描かれたワニ?の大胆なデザイン。

  • 廊下にはアボリジニの画家の方々の<br />写真パネルと説明があった。

    廊下にはアボリジニの画家の方々の
    写真パネルと説明があった。

  • 岩絵を描く方。

    岩絵を描く方。

  • 30年ほど前?にアボリジニの方々の本を読んだ。<br /><br />日々の暮らしは天?から与えられた物のみで賄う。<br />余分なものは手にされない、、、<br /><br />そんな方々との接点は今までなかったように記憶しているのに<br />台北の地で、思いがけない出会いがあった。

    30年ほど前?にアボリジニの方々の本を読んだ。

    日々の暮らしは天?から与えられた物のみで賄う。
    余分なものは手にされない、、、

    そんな方々との接点は今までなかったように記憶しているのに
    台北の地で、思いがけない出会いがあった。

  • 建具も廊下もピカピカに<br />磨きあげられている。

    建具も廊下もピカピカに
    磨きあげられている。

  • 古い歪んで見える型板ガラスと、<br />破損してしまったものは、新しいガラスに入れ替え<br />られている。<br />手ふきゆえのメラメラ感が大好き。<br />

    古い歪んで見える型板ガラスと、
    破損してしまったものは、新しいガラスに入れ替え
    られている。
    手ふきゆえのメラメラ感が大好き。

  • 当日の展示は<br />1階と3階のみ。<br />

    当日の展示は
    1階と3階のみ。

  • ホールの周囲を取り囲むように<br />太い柱が林立している壮観な眺め。

    ホールの周囲を取り囲むように
    太い柱が林立している壮観な眺め。

  • 丸と四角のそれぞれの列柱の上部にも<br />アーカンサスや、美しい模様が施されている。

    丸と四角のそれぞれの列柱の上部にも
    アーカンサスや、美しい模様が施されている。

  • 「發現台灣」<br />21世紀になってから初めて設置された常設の展示コーナーだそうです。<br /><br />「台湾総督府博物館」が創立された20世紀初頭に遡り、台湾の博物学の<br />歴史を「発見の道」「台湾新象」「過去的未来」に分けて紹介されている<br />が,その展示をみていくと、台湾の博物学の研究の基礎を築いていったのは<br />多くの日本人の研究者によるものであり、その業績がこうして展示されて<br />いるのを見て驚いた。<br /><br />

    「發現台灣」
    21世紀になってから初めて設置された常設の展示コーナーだそうです。

    「台湾総督府博物館」が創立された20世紀初頭に遡り、台湾の博物学の
    歴史を「発見の道」「台湾新象」「過去的未来」に分けて紹介されている
    が,その展示をみていくと、台湾の博物学の研究の基礎を築いていったのは
    多くの日本人の研究者によるものであり、その業績がこうして展示されて
    いるのを見て驚いた。

  • このパネルでは伊能嘉矩、粟野伝之丞らが<br />台湾全土にわたって人類学調査を行ったことが書かれている。<br />研究の成果は、「台湾蕃人事情」として台湾総督府民政部文書課より<br />刊行されている。(他にも著書あり。)<br />当初、人類学において第一人者と言われていたのはこの伊能だった。<br /><br />伊能は帰国後は故郷の遠野市にて郷土史の研究を行い<br />柳田国男や佐々木喜善などの民族学者と交流、「遠野物語」の成立にも<br />大きな貢献をしているそうです。<br />台湾滞在中に感染したマラリアを再発して59歳で死亡。<br />

    このパネルでは伊能嘉矩、粟野伝之丞らが
    台湾全土にわたって人類学調査を行ったことが書かれている。
    研究の成果は、「台湾蕃人事情」として台湾総督府民政部文書課より
    刊行されている。(他にも著書あり。)
    当初、人類学において第一人者と言われていたのはこの伊能だった。

    伊能は帰国後は故郷の遠野市にて郷土史の研究を行い
    柳田国男や佐々木喜善などの民族学者と交流、「遠野物語」の成立にも
    大きな貢献をしているそうです。
    台湾滞在中に感染したマラリアを再発して59歳で死亡。

  • 「台湾蕃人事情」は1900年(明治33年)に、伊能、粟野の共著として<br />刊行された書物だが<br />漢族の台湾移住が始まった17世紀前からこの島に住み着いていたマレー系<br />の先住民、台湾原住民について、初めて全体像を著した書物といえるそうだ。<br /><br />日清戦争後の1895年に設置された台湾総督府では、統治の開始直後に、<br />軍事、行政、資源開発、住民掌握などを目的として、漢族系住民、<br />平地や険しい山岳地帯の原住民を対象に調査を実施しているそうだが、<br />当時、山地、東部平地の原住民に関するもの、としてはこの書物ほど体系<br />的にまとめられているものは他にないらしい。

    「台湾蕃人事情」は1900年(明治33年)に、伊能、粟野の共著として
    刊行された書物だが
    漢族の台湾移住が始まった17世紀前からこの島に住み着いていたマレー系
    の先住民、台湾原住民について、初めて全体像を著した書物といえるそうだ。

    日清戦争後の1895年に設置された台湾総督府では、統治の開始直後に、
    軍事、行政、資源開発、住民掌握などを目的として、漢族系住民、
    平地や険しい山岳地帯の原住民を対象に調査を実施しているそうだが、
    当時、山地、東部平地の原住民に関するもの、としてはこの書物ほど体系
    的にまとめられているものは他にないらしい。

  • 原住民の当時の写真<br /><br />イアホンガイドでも説明を聞いていたけれど詳細は忘れてしまった<br />ので、調べてみました。<br />森丑之助という日本人の方のことです。<br /><br />「100年前の台湾で、首狩りが盛んに行われていた山岳地方は、総面積<br />の65%を占めていた。そんな地に日本人の青年が単身で乗り込み、<br />明治後期から大正にかけて地理学上の空白地帯の「蕃地」に入り込み、<br />30年もの歳月を人類学と植物学の調査研究に捧げたという人物。

    原住民の当時の写真

    イアホンガイドでも説明を聞いていたけれど詳細は忘れてしまった
    ので、調べてみました。
    森丑之助という日本人の方のことです。

    「100年前の台湾で、首狩りが盛んに行われていた山岳地方は、総面積
    の65%を占めていた。そんな地に日本人の青年が単身で乗り込み、
    明治後期から大正にかけて地理学上の空白地帯の「蕃地」に入り込み、
    30年もの歳月を人類学と植物学の調査研究に捧げたという人物。

  • 太平洋の岸辺でアミの古い伝統的な舟祭りをすべて記録し、台湾<br />で初めての民族誌を発表。<br />ある時には2000メートルの山中で、27名からなるブヌンの首狩り<br />隊に命を狙われ、5昼夜追跡され命拾いをしたという経験もあった。<br />台湾原住民の人類学の研究に多大な貢献をした。<br />植物の採集では、20余の台湾高山植物固有種を採集、それらの学名<br />には「森氏」と冠されている。」<br />

    太平洋の岸辺でアミの古い伝統的な舟祭りをすべて記録し、台湾
    で初めての民族誌を発表。
    ある時には2000メートルの山中で、27名からなるブヌンの首狩り
    隊に命を狙われ、5昼夜追跡され命拾いをしたという経験もあった。
    台湾原住民の人類学の研究に多大な貢献をした。
    植物の採集では、20余の台湾高山植物固有種を採集、それらの学名
    には「森氏」と冠されている。」

  • 1923年、関東大震災で収集した膨大な調査資料を失い、<br />1926年日本に帰国する際の、船上からの投身自殺説さえ囁か<br />れるほどに不可解な最期を遂げた為<br />森丑之助という名は、わずかに台湾植物学界、人類学界、山岳界で知ら<br />れるだけだったが、最近になって彼の探検記録が出版されるようになり<br />評価されつつある。<br />

    1923年、関東大震災で収集した膨大な調査資料を失い、
    1926年日本に帰国する際の、船上からの投身自殺説さえ囁か
    れるほどに不可解な最期を遂げた為
    森丑之助という名は、わずかに台湾植物学界、人類学界、山岳界で知ら
    れるだけだったが、最近になって彼の探検記録が出版されるようになり
    評価されつつある。

  • 当時は8民族に分類した(とガイドでは聞いた?)が<br />現在は政府認定で16民族で、総計549000人おられるようだ。<br /><br />今でこそ民族ごとに分類がされ、それぞれの風習や特徴まで<br />知られているが、当時の研究者達がどれ程の苦労をしつつ<br />資料として残していったか、計り知れないほどの努力だったこと<br />だと思われる。<br />

    当時は8民族に分類した(とガイドでは聞いた?)が
    現在は政府認定で16民族で、総計549000人おられるようだ。

    今でこそ民族ごとに分類がされ、それぞれの風習や特徴まで
    知られているが、当時の研究者達がどれ程の苦労をしつつ
    資料として残していったか、計り知れないほどの努力だったこと
    だと思われる。

  • 今回、台湾に行ってみたいと思ったのは<br />だいぶ前に、ツアーで台湾を北から南に巡った折り南部近くまで来た時、<br />小さなお土産屋さんでルカイ族という少数民族の方が作ったという<br />トンボ玉のネックレスを購入したことがきっかけだった。<br />こんなきれいなトンボ玉をつくる人々が住むところってどんなところか?<br />と興味を抱き、いつか訪れたいと思っていた。<br />今回、高雄から山中へバスで分け入っていくには<br />大晦日、お正月と日程的には難しそうだったのであきらめてしまっていた。<br /><br />展示されていた少数民族の特徴を示すお人形は<br />博多人形を製作する人形師の方によるものらしい。<br />

    今回、台湾に行ってみたいと思ったのは
    だいぶ前に、ツアーで台湾を北から南に巡った折り南部近くまで来た時、
    小さなお土産屋さんでルカイ族という少数民族の方が作ったという
    トンボ玉のネックレスを購入したことがきっかけだった。
    こんなきれいなトンボ玉をつくる人々が住むところってどんなところか?
    と興味を抱き、いつか訪れたいと思っていた。
    今回、高雄から山中へバスで分け入っていくには
    大晦日、お正月と日程的には難しそうだったのであきらめてしまっていた。

    展示されていた少数民族の特徴を示すお人形は
    博多人形を製作する人形師の方によるものらしい。

  • サイシャット族:竹東の山地に住み、文化的にはタイヤル族に<br />近いとされる。竹細工の技術に優れている。物事を首狩りの<br />結果で判断するという習慣があった。 <br /><br />ブヌン族:中央山脈中央部に住む。住居を移動する習慣があった。<br />日本の統治に最後まで抵抗し、最後まで首狩りの風習を続けた。<br /><br />アタヤル族:中央山脈に住み、かつては部族間で首狩りを行って<br />いた。毎年5月に豊年祭りが行われている。

    サイシャット族:竹東の山地に住み、文化的にはタイヤル族に
    近いとされる。竹細工の技術に優れている。物事を首狩りの
    結果で判断するという習慣があった。 

    ブヌン族:中央山脈中央部に住む。住居を移動する習慣があった。
    日本の統治に最後まで抵抗し、最後まで首狩りの風習を続けた。

    アタヤル族:中央山脈に住み、かつては部族間で首狩りを行って
    いた。毎年5月に豊年祭りが行われている。

  • アミ族:<br />原住民族中最大の民族。<br />花蓮から台東の東海岸一帯と海岸山脈の両側に<br />暮らす。母系社会。<br />豊年祭は一番重要な祭り。

    アミ族:
    原住民族中最大の民族。
    花蓮から台東の東海岸一帯と海岸山脈の両側に
    暮らす。母系社会。
    豊年祭は一番重要な祭り。

  • タオ(ヤミ)族:<br />欄嶼島(ランショ島)だけに生活している。<br />独特の竪穴式住居に住み、つい最近まで男性は<br />ふんどし姿だった。

    タオ(ヤミ)族:
    欄嶼島(ランショ島)だけに生活している。
    独特の竪穴式住居に住み、つい最近まで男性は
    ふんどし姿だった。

  • ルカイ族:<br />中央山脈南部の霧台、高雄近くの茂林郷に住む民族。<br />貴族と平民の階級があり、首長は世襲制。<br />層状にはがれる鉄平石を使った石造竪穴式住居。<br />かつては床の下に石棺があって、家族の亡骸が入れられて<br />いた。

    ルカイ族:
    中央山脈南部の霧台、高雄近くの茂林郷に住む民族。
    貴族と平民の階級があり、首長は世襲制。
    層状にはがれる鉄平石を使った石造竪穴式住居。
    かつては床の下に石棺があって、家族の亡骸が入れられて
    いた。

  • ツォウ族:中部山岳地帯西部や日月潭、阿里山付近に住む。<br />好戦的な狩猟民族だったが、後に農耕や漁を営むようになった。<br />かつては言葉の通じない人間に出会ったら、それは獲物と<br />同じで敵とみなし、弓で射止めていた。<br /><br />博物館見学の折には見落としてしまったのかもしれないが<br />森に影響を与えた、彼より7歳年長だった「鳥居龍蔵」のことも<br />恐らく書かれていたのではないかと思う。<br />当初は原住民の調査にあたって、森は鳥居の通訳や助手の役割を<br />引き受けていたそうだ。

    ツォウ族:中部山岳地帯西部や日月潭、阿里山付近に住む。
    好戦的な狩猟民族だったが、後に農耕や漁を営むようになった。
    かつては言葉の通じない人間に出会ったら、それは獲物と
    同じで敵とみなし、弓で射止めていた。

    博物館見学の折には見落としてしまったのかもしれないが
    森に影響を与えた、彼より7歳年長だった「鳥居龍蔵」のことも
    恐らく書かれていたのではないかと思う。
    当初は原住民の調査にあたって、森は鳥居の通訳や助手の役割を
    引き受けていたそうだ。

  • 少数民族の分布マップ

    少数民族の分布マップ

  • こちら側は<br />生物の標本のあるコーナー。

    こちら側は
    生物の標本のあるコーナー。

  • 天井をふと見上げると<br />大きな鳥(剥製)が羽ばたいている。

    天井をふと見上げると
    大きな鳥(剥製)が羽ばたいている。

  • 実地調査の結果<br />採取された標本などの展示

    実地調査の結果
    採取された標本などの展示

  • 当時は生息していたという<br />ウンピョウ (別名タカサゴヒョウ)<br />ネコ族とヒョウ族の中間と考えられている。<br />毛皮や牙目的、漢方薬用、ペット用など乱獲によって<br />2013年、台湾では絶滅したと考えられている。<br />(最近、台東県の集落で目撃情報が寄せられているそうだ。)

    当時は生息していたという
    ウンピョウ (別名タカサゴヒョウ)
    ネコ族とヒョウ族の中間と考えられている。
    毛皮や牙目的、漢方薬用、ペット用など乱獲によって
    2013年、台湾では絶滅したと考えられている。
    (最近、台東県の集落で目撃情報が寄せられているそうだ。)

  • 「The Past is the Future」と題されたパネル<br />Museums not only lead us into the past; and by taking us into the <br />past、they also allow us to reflect on the present and gaze into <br />the future. People think of museum collections as the frozen<br />evidence of history; actually, the physical appearance of museum <br />objects may remain unchanging, yet how people regard those<br />objects change constantly. Thus, the significance of museum <br />collections will continue to evolve over time, acquiring new <br />meanings and values. In museums, the past is the future-that <br />is the secret of their timeless appeal.<br /><br />ミュージアムについて書かれたパネルに、なる程と思わされたので<br />書きました。<br />正確な意図を訳すことは難しそうなので、最後の部分のみ。<br /><br />ミュージアムでの展示品が何故そこで展示されているのか<br />考えてみると、<br />展示されていることによって<br />時を超えて新たな意味や価値を獲得しながら、進化し続けていく<br />ことがあると思われる。そこには時代を超越して訴えかけて<br />くるものがあるようだ。<br /><br /> 

    「The Past is the Future」と題されたパネル
    Museums not only lead us into the past; and by taking us into the
    past、they also allow us to reflect on the present and gaze into
    the future. People think of museum collections as the frozen
    evidence of history; actually, the physical appearance of museum
    objects may remain unchanging, yet how people regard those
    objects change constantly. Thus, the significance of museum
    collections will continue to evolve over time, acquiring new
    meanings and values. In museums, the past is the future-that
    is the secret of their timeless appeal.

    ミュージアムについて書かれたパネルに、なる程と思わされたので
    書きました。
    正確な意図を訳すことは難しそうなので、最後の部分のみ。

    ミュージアムでの展示品が何故そこで展示されているのか
    考えてみると、
    展示されていることによって
    時を超えて新たな意味や価値を獲得しながら、進化し続けていく
    ことがあると思われる。そこには時代を超越して訴えかけて
    くるものがあるようだ。

     

  • 市松模様が斜めに配置されると<br />急にモダンな感覚になる。

    市松模様が斜めに配置されると
    急にモダンな感覚になる。

  • 日本以外の地域で<br />日本人の業績をまとめ上げて展示している博物館の存在を<br />知って、ちょっと感激して外にでた。 

    日本以外の地域で
    日本人の業績をまとめ上げて展示している博物館の存在を
    知って、ちょっと感激して外にでた。 

  • 国立博物館から外に出たら、まだ雨が降り続いていた。

    国立博物館から外に出たら、まだ雨が降り続いていた。

  • 二二八和平公園内をブラブラと。<br />左手、丸いドームが見えているが、後にしてきた<br />博物館のもの。<br />

    二二八和平公園内をブラブラと。
    左手、丸いドームが見えているが、後にしてきた
    博物館のもの。

  • 公園内にある東屋でしばらく休憩。<br />次の作戦(大した策ではないけれど)をねった。

    公園内にある東屋でしばらく休憩。
    次の作戦(大した策ではないけれど)をねった。

  • すぐ近くにある台北二二八紀念館へ行ってみようという<br />安直な結論のもとに行ってみた。<br />その時まで、二二八事件という名前も知らなかった。<br /><br />建物は日本統治時代の1930年に建築されたという<br />「台北放送局」で、当時日本と台湾本島のラジオ番組を<br />放送していたそうだ。<br />日本政府から華南地方や南洋に向けての放送も、ここから<br />送っていたそうだ。<br />1947年、二二八事件が起こると、事件に抗議する人々によって<br />ここから台湾全土にむけて事件の発生を伝える放送がされた。<br /><br />中に入ったところ、一人の女性が近づいてきた。<br />日本語によるボランティアガイドをされているとの事だった。<br />二二八事件についての説明をして下さるという。<br />

    すぐ近くにある台北二二八紀念館へ行ってみようという
    安直な結論のもとに行ってみた。
    その時まで、二二八事件という名前も知らなかった。

    建物は日本統治時代の1930年に建築されたという
    「台北放送局」で、当時日本と台湾本島のラジオ番組を
    放送していたそうだ。
    日本政府から華南地方や南洋に向けての放送も、ここから
    送っていたそうだ。
    1947年、二二八事件が起こると、事件に抗議する人々によって
    ここから台湾全土にむけて事件の発生を伝える放送がされた。

    中に入ったところ、一人の女性が近づいてきた。
    日本語によるボランティアガイドをされているとの事だった。
    二二八事件についての説明をして下さるという。

  • 入口ホールにあるベンチに腰掛けて、1時間ぐらい?お話を<br />伺うことができた。<br /><br />日本統治に至るまでの台湾のたどった道に始まり、日本統治時代<br />どんなだったか?伺った。<br />その50年間の間に、明治、大正、昭和と3人の天皇が代られていったそうだ。<br />最初は、台湾総督府によって、徹底した「アメとムチ」で台湾の日本化を<br />推し進めていったが、その後は児玉総督に代わる頃から方針が変わっていった。<br />日本統治時代になされた事業として<br /><br />・教育:100校以上の小学校を作り、今でも使用されている学校がある。<br />義務教育制度は日本本土より進んでいたそうだ。<br />台北帝国大学を創立したが、日本人の為の大学であったため、台湾人は<br />日本へ留学。20万人と言われる留学生のうち、5万人は修士、博士課程<br />を履修。<br />・建築:西洋式建築物の建造がすすめられた。台北放送局、総統府、<br />台大医学院旧館、台北賓館などなど<br />・衛生面:チフス、マラリア、ペストが絶滅した。<br />衛生事業に従事し、上下水道を整備、後発電、灌漑事業の部門に移った<br />八田与一氏の功績が大きい。彼によって烏山頭ダムが完成。<br />

    入口ホールにあるベンチに腰掛けて、1時間ぐらい?お話を
    伺うことができた。

    日本統治に至るまでの台湾のたどった道に始まり、日本統治時代
    どんなだったか?伺った。
    その50年間の間に、明治、大正、昭和と3人の天皇が代られていったそうだ。
    最初は、台湾総督府によって、徹底した「アメとムチ」で台湾の日本化を
    推し進めていったが、その後は児玉総督に代わる頃から方針が変わっていった。
    日本統治時代になされた事業として

    ・教育:100校以上の小学校を作り、今でも使用されている学校がある。
    義務教育制度は日本本土より進んでいたそうだ。
    台北帝国大学を創立したが、日本人の為の大学であったため、台湾人は
    日本へ留学。20万人と言われる留学生のうち、5万人は修士、博士課程
    を履修。
    ・建築:西洋式建築物の建造がすすめられた。台北放送局、総統府、
    台大医学院旧館、台北賓館などなど
    ・衛生面:チフス、マラリア、ペストが絶滅した。
    衛生事業に従事し、上下水道を整備、後発電、灌漑事業の部門に移った
    八田与一氏の功績が大きい。彼によって烏山頭ダムが完成。

  • ・清時代の台湾にはなかった近代化の推進:洋服、ハイヒール、自由恋愛<br />などの文化の導入、エレベーターの備わったデパートなどの建設など<br /><br />当時の台湾では、同化政策は厳しいものだったが、官僚たちによる<br />不正は少なく<br />経済は日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった。<br /><br />1945年、日本の敗戦により、連合国軍の委託を受けて、中国大陸から<br />蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人が進駐するようになった。<br /><br />当初は祖国復帰を喜んだ台湾の人たちも、大陸からやってきた国民党<br />政府の官僚達の汚職、強姦、強盗など、質の悪い振る舞いに失望し<br />不満は高まっていった。

    ・清時代の台湾にはなかった近代化の推進:洋服、ハイヒール、自由恋愛
    などの文化の導入、エレベーターの備わったデパートなどの建設など

    当時の台湾では、同化政策は厳しいものだったが、官僚たちによる
    不正は少なく
    経済は日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった。

    1945年、日本の敗戦により、連合国軍の委託を受けて、中国大陸から
    蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人が進駐するようになった。

    当初は祖国復帰を喜んだ台湾の人たちも、大陸からやってきた国民党
    政府の官僚達の汚職、強姦、強盗など、質の悪い振る舞いに失望し
    不満は高まっていった。

  • 1947年2月27日、二二八事件のきっかけとなる事件が起こった。<br />台北市で闇タバコを販売していた女性を、中華民国の官憲が摘発し<br />殴打した上、商品と所持金を没収した。<br />その女性に同情した民衆が集まった所に、取調官が発砲し、無関係<br />だった台湾人が死亡してしまった。<br /><br />この事件がきっかけとなり、民衆の怒りが爆発。28日には抗議のデモ<br />隊が市庁舎へ押し寄せた。中華民国の憲兵隊は市庁舎の屋上から<br />機関銃でデモ隊に対して一斉掃射を行った。台北以外の地でも国府軍<br />による無差別の発砲は行われていった。<br /><br />台湾人達はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で、「台湾人<br />よ立ち上がれ」と呼びかけた。<br /><br />在台湾行政長官 陳儀 は大陸の国民党政府に援軍を要請。蒋介石は<br />大陸から援軍を派遣し、日本統治時代に高等教育を受けたエリート層<br />の多くが逮捕され殺害された。

    1947年2月27日、二二八事件のきっかけとなる事件が起こった。
    台北市で闇タバコを販売していた女性を、中華民国の官憲が摘発し
    殴打した上、商品と所持金を没収した。
    その女性に同情した民衆が集まった所に、取調官が発砲し、無関係
    だった台湾人が死亡してしまった。

    この事件がきっかけとなり、民衆の怒りが爆発。28日には抗議のデモ
    隊が市庁舎へ押し寄せた。中華民国の憲兵隊は市庁舎の屋上から
    機関銃でデモ隊に対して一斉掃射を行った。台北以外の地でも国府軍
    による無差別の発砲は行われていった。

    台湾人達はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で、「台湾人
    よ立ち上がれ」と呼びかけた。

    在台湾行政長官 陳儀 は大陸の国民党政府に援軍を要請。蒋介石は
    大陸から援軍を派遣し、日本統治時代に高等教育を受けたエリート層
    の多くが逮捕され殺害された。

  • この事件による犠牲者の数は1万8千から2万8千人とされ、<br />彼らの財産や研究成果が接収されたと言わている。<br />地区ごとに発令されていた戒厳令は、一旦は解除されたが<br />1945年5月19日に改めて発令され38年間継続された。<br />白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、この間多くの台湾人が<br />投獄され処刑されていった。<br />1992年、李登輝総統が刑法を改正し、言論の自由が認められ<br />てから、今日の台湾に近い形での民主化が実現した。<br />

    この事件による犠牲者の数は1万8千から2万8千人とされ、
    彼らの財産や研究成果が接収されたと言わている。
    地区ごとに発令されていた戒厳令は、一旦は解除されたが
    1945年5月19日に改めて発令され38年間継続された。
    白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、この間多くの台湾人が
    投獄され処刑されていった。
    1992年、李登輝総統が刑法を改正し、言論の自由が認められ
    てから、今日の台湾に近い形での民主化が実現した。

  • 「こんな長い間、戒厳令が敷かれていたんですよ。」<br />と話されたボランティアの女性の言葉が耳にまだ残っている。<br /><br />充分にお話を伺い<br />当日予定にしていたお昼をとりに向かったのは<br />MRT「東門」駅からもすぐの「永康牛肉麺」というお店。<br />1963年創業、最初は屋台だったそうだが、<br />40年前から味はかわってないそうだ。

    「こんな長い間、戒厳令が敷かれていたんですよ。」
    と話されたボランティアの女性の言葉が耳にまだ残っている。

    充分にお話を伺い
    当日予定にしていたお昼をとりに向かったのは
    MRT「東門」駅からもすぐの「永康牛肉麺」というお店。
    1963年創業、最初は屋台だったそうだが、
    40年前から味はかわってないそうだ。

  • 台北の牛肉麺の代表店とされるこのお店。<br />検索すると必ず一位に名前が挙がっているので、一度は行こう<br />と思っていたが、お昼をかなり過ぎていたにもかかわらず<br />かなりの行列だった。<br /><br />席につき注文。<br />私たちは情報サイトで検索して決めておいた写真を指して注文。<br />最初に運ばれてきたのは<br />「粉蒸拝骨」(なんて読むんでしょう?)<br />もち米と骨付豚肉の蒸し物だが、底の方にはさつま芋が入って<br />いて、不思議にその甘さがマッチしている。<br />周囲を見回すと、どのテーブルでも注文しているようだ。<br />(130NTドル)<br /><br /><br />

    台北の牛肉麺の代表店とされるこのお店。
    検索すると必ず一位に名前が挙がっているので、一度は行こう
    と思っていたが、お昼をかなり過ぎていたにもかかわらず
    かなりの行列だった。

    席につき注文。
    私たちは情報サイトで検索して決めておいた写真を指して注文。
    最初に運ばれてきたのは
    「粉蒸拝骨」(なんて読むんでしょう?)
    もち米と骨付豚肉の蒸し物だが、底の方にはさつま芋が入って
    いて、不思議にその甘さがマッチしている。
    周囲を見回すと、どのテーブルでも注文しているようだ。
    (130NTドル)


  • 右側が牛肉麺。<br />あまり辛いと食べられないと思い「清燉牛肉麺」を注文。<br />(240NTドル)<br />大きな牛肉がどさどさと入っていてびっくりする。<br />牛肉の柔らかさにも驚かされる。<br />麺はやわらかくてちょっと残念。<br /><br />左はジャージャー麺。(130NTドル)<br />

    右側が牛肉麺。
    あまり辛いと食べられないと思い「清燉牛肉麺」を注文。
    (240NTドル)
    大きな牛肉がどさどさと入っていてびっくりする。
    牛肉の柔らかさにも驚かされる。
    麺はやわらかくてちょっと残念。

    左はジャージャー麺。(130NTドル)

  • 壁に貼られていたメニュー。

    壁に貼られていたメニュー。

  • 道路に面した窓際で<br />「粉蒸拝骨」がどんどん蒸しあがっていく<br />様子が良く見えている。

    道路に面した窓際で
    「粉蒸拝骨」がどんどん蒸しあがっていく
    様子が良く見えている。

  • 帰るころには行列は更に長くなっていた。<br /><br />とにかく並ぶより他ない、、、と<br />どんどん行列は長くなっていくようだ。<br />それでも2階席もあり、全部で120席あるせいか、<br />予想よりはどんどん前進していった。

    帰るころには行列は更に長くなっていた。

    とにかく並ぶより他ない、、、と
    どんどん行列は長くなっていくようだ。
    それでも2階席もあり、全部で120席あるせいか、
    予想よりはどんどん前進していった。

  • 夜は迷っていたけど、近場で。<br />大飯店のレストランで食事。<br />安定したおいしさだった。

    夜は迷っていたけど、近場で。
    大飯店のレストランで食事。
    安定したおいしさだった。

  • まだ、台北初日で<br />夜市に行って食事するまでの<br />勇気も?パワーもなかった。

    まだ、台北初日で
    夜市に行って食事するまでの
    勇気も?パワーもなかった。

  • 2泊したホテル。<br />ホテルリラックスⅢという名前。<br />そばにはⅡもあって朝食はそちらで。

    2泊したホテル。
    ホテルリラックスⅢという名前。
    そばにはⅡもあって朝食はそちらで。

  • ホテルの外観。<br />少し歩くと三越、<br />反対方向に歩けば二二八和平公園という立地。<br />アクセスの良さから選択した。

    ホテルの外観。
    少し歩くと三越、
    反対方向に歩けば二二八和平公園という立地。
    アクセスの良さから選択した。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • milkさん 2020/02/27 00:27:44
    勉強になりました!
    mistralさん、こんばんは☆
    先日はお会いできて嬉しかったです(^o^)
    今後ともよろしくお願い致します。

    遅ればせながら台湾の旅行記を拝見させて頂きました。
    台湾国立博物館は建物が素敵で、いつも外観を眺めているだけでしたが、こんな内容の展示だったのですね。
    お話しされていた原住民の展示もありましたね。
    首狩りやら狩猟民族やら、血の気の多い方々のようで...。
    そんな中に飛び込んで研究されていた森丑之助さんは素晴らしい研究者ですね。

    二二八事件も「たくさんの人が殺された」くらいしか認識がなかったので、とても勉強になりました。
    日本も絡んでいることですから、もっと勉強が必要だなと思いました。

    私がいつも一緒に行く友達はどちらかというと食べること優先で、こういった博物館や歴史には興味がないようなのでいつもスルー。
    台湾国立博物館は内部のコリント式列柱も素晴らしいようなので、いつか入ってみようと思います。

    リラックスホテルは私も泊まりました!
    お部屋は小さいですが綺麗で立地も良く、何より安くてよいホテルですよね。

    milk

    mistral

    mistralさん からの返信 2020/02/27 09:29:51
    Re: 勉強になりました!
    milkさん

    おはようございます。
    メッセージ、フォローまで頂きありがとうございます。
    先日は突然食事会へ参加させていただき
    旅行記の作者のご本人方にもお会いできて楽しいひと時でした。

    台湾の旅の前にmilkさんの旅行記は駆け足で見せていただき
    ましたが、その折には何も残さずにごめんなさい。
    お会いした後で改めて旅行記を拝見しましたら、
    きっと違った見え方がしてくるかもしれませんね。

    ニニ八事件のこと、更に台湾というお国の事など大して
    知らないまま旅立ちましたが
    ボランティアのガイドさんに出会い、これまでの歴史を伺い
    ついつい書き残してしまいました。
    私の旅行記は自分自身の備忘録も兼ねていますので
    くどいところなど多くて、どうぞ読み飛ばしてくださいね。

    取り急ぎましてお礼のメッセージです。
    後ほどもう一度ゆっくりと訪問させていただきます。
    以前はヨーロッパに良く行っておられたとのこと。
    そちらの旅行記も楽しみです。
    私の方こそ今後ともどうぞ宜しくお願いします。

    mistral
  • 川岸 町子さん 2020/01/29 23:50:59
    統治
    mistralさん、おばんでした☆

    ふふふ、mistralさん、可愛らしいですね(*^-^*)
    早起きして朝ごはんを食べに行こうとなさらないのですね。
    もし私がご一緒させて頂けるなら、たたき起こして連れ出しちゃいます(笑)

    私は若い頃、旅の途中に列車内でドイツ人男性に会いました。
    その方の奥様が台湾人で、「日本に統治されていたため、日本語を話すんだよ。」と聞きました。
    恥ずかしながら、日本と台湾の関係の歴史の知識もなく、せっかくの話をスルーしてしまったことを思い出しました。
    沢山の学校を作り、教育が広まっていったことさえ、知りませんでした。
    近くに国を知らないと、何かの時に失敗しますね(>_<)

    今東京メトロの中で、台湾のローカルな列車に乗り、ことりっぷ的な女子旅をイメージする「ちょっとしたお出掛け」が映像で流れています。
    見るたびに「あぁ~、行ってみたいな」と思います。

    今回の博物館の列柱や、市松模様の床、そして一番気になったのが階段です。磨き込まれたような手すりや、床は少しギシギシするのかな?などと思いながら拝見しました。
    懐かしさを感じる建築が多そうですね。
                        町子

    mistral

    mistralさん からの返信 2020/01/30 13:27:40
    Re: 統治
    こんにちは。
    いつもコメントを有難うございます。
    そうなんです!
    早起きが苦手な事で、今までも貴重な朝のマジックアワーを見損なったり、
    台湾では美味しい朝粥まで食べ損なってしまいました。
    たたき起こして下さる町子さんがご一緒だったら、きっと美味しい
    朝ごはんにありつけそう!

    若い頃、私も20代の頃、フラフラと旅をしましたが、前後の脈絡は
    ボンヤリしているけど、その折に交わした会話や出会った人の様子など
    何故か鮮明に覚えている事があります。

    当時は、それともつい最近までかしら?
    出会いの一つ一つに意味があるなんて考えてもいませんでしたが
    年取ってからの出会いは、以前よりこころに響くようになりました。

    今回の旅で、ボランティアの女性からお話しを伺わなかったら
    次回からの台湾の旅はまた変わったものになった事と想いました。
    少しでも台湾の辿ってきた道を知る事が出来て良かったです。
    親日派の多い国、という私の中の概念が覆された、というよりは
    もっと近くの国のことを知らなくてはいけない、と想いました。

    博物館の床に関しては、いまだにどっしりと堅固な様子でした。
    当時の建築技術の推を集めて造られたものと想像しますが、
    でも純和風の家屋も多く残っているようですが、そういった家は
    きっとギシギシと軋むように思います。

    古き日本の姿があちこちで辿れるお国です。

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